2009年09月07日 05:30 [Edit]
「天才」の使い方
おごちゃんが十八番を出したので、便乗しておくか。
おごちゃんの雑文 ? Blog Archive ? 「天才エンジニア」でIT業界は変わらないだから、いいか、技術者およびその卵達。お前のその技術で世の中を変えたかったら、自分で経営者になるか、いい経営者を連れて来い。漫然と「天才エンジニア」とかおだてられて体良く奴隷にされても、世の中なんて変わらないってことは覚えておけ。まぁ「世の中を変える」ことばかりがエンジニアの本懐じゃないけどね。天才高校生はIT業界を変えられるか? - 記者の眼:selfup
日本の選手団が帰国した直後の8月17日。国際情報オリンピックの記者向け報告会が開かれた(写真)。質疑応答になると,ある記者が選手たちに「日本のIT業界は弱い。ぜひ,君たちのような天才に,業界を変えてほしい」と熱く語りかけたが,当の選手たちは「IT業界」と言われても,全くピンと来ていないようだった。
そりゃピンと来ないよ。
だって、天才じゃないじゃん。
まだ、ね。
「天才」ほどFalse Positive も False Negative も多い用語もないけれども、日本における誤用で一番ひどいのは、人があつらえた問題を解いた人にこの言葉を使ってしまうこと。
そう。彼らはまだ、人が作った問題を、作った人が採点できる程度に解いただけなのだ。
彼らが天才でないというつもりはない。実際彼らが天才である公算は小さくない。
404 Blog Not Found:「コピーの天才」が天才になれない理由私は、実は天才というのは意外に多い確率で存在するのではないかという感を年々強くしている。かつては「100万人に一人」だとか「1億人に一人」だとかと思っていたが、実は100人に1人ぐらいの高確率で存在するのではないかと感じるようになってきた。blogを読み書きするようになってから、その思いはますます強くなっている。
「天才」を人ではなく、天賦の才を指す言葉だとすると、人にとっての天才とは、恒星にとっての惑星のようなものかも知れない。以前は惑星を持つ星系はそれほどたくさんないと思われていたけど、観測手段が発達したおかげでごろごろ見つかるようになった。
だからこそ、すでに解答がある問題に正しい答えを「出し直した」者を「天才」よばわりしている「古き良き」言説を見るとげんなりする。そちらに注目している間に、本物の天才をぼろぼろ見落としてはいないか?池沼扱いしてはいないか?KYよばわりしているのは確実だよね。
こんな風に。
On Off and Beyond: 他人の夢を否定する人まず切り出したのがご本人で「社会貢献だ」
で、次の男性君「社会貢献です」
次の男性「社会貢献です」
次の男性「社会貢献です」
私「自由になることです」
そうしたら、アントレプレナー氏は「それは間違っている」
「社会貢献」というのは、「正しい答え」だ。だから天才でなくてもできるし、天才でなくてもやるべきことだ。これに対して、「自由になること」という問題には正しい答えはない。
「天才」という言葉は、そういう問題に取り組んだ人のためにとっておくべきなのではないか。
勘違いしないで欲しい。私は「社会貢献」欲旺盛な、既に解答のある答えに向かってまっすぐ進む人たちの価値も多いに認めている。「天才」を乱発する人たちより、ずっと。
なんでそう言い切れるかって?
「ホリエモン×ひろゆき 語りつくした本音の12時間」によれば、私は天才らしいので:-)。この場を借りて献本御礼。
【対談】『ホリエモン×ひろゆき 語りつくした本音の12時間 「なんかヘンだよね・・・」』:マインドマップ的読書感想文■二人、dankogaiを語る西村 僕が天才だと思う人の1人に、堀江さんもご存知のプログラマーの小飼弾さんがいるんですよ。対談で一度会ったきりなんですけど、6時間もの間、小飼さんがしゃべり続けて、そのテープ起こしと原稿を書いたライターさんは10円ハゲができちゃって。
堀江 よく弾さんと話せるね。俺は絶対無理だわ(笑)。
6時間話してないし、その他にも誇大広告はあるけれども「だいたいあってる」。重要なのは、私が「6時間」(実際は19:00-24:00ぐらい)も話せたのはきちんと聞いてくれる人がいて、髪を犠牲にしてでも(笑)それを原稿にしてくれる人がいるということ。そういう人々がいるからこそ、私の天才は天災とならずにすんだのだ。
だからこそ、正しい答えに向かってまっすぐ進む人には、彼らに相応しい称号が欲しい。
「超凡」は、どうか。
これは日本を代表する超凡である岩瀬大輔と伊藤真が、共著のタイトルに選んだ言葉でもある。彼らの素晴らしいのは、正しい答えに向かって自らまっすぐ進むだけではなく、天才を理解し、敬意を払っていることにある。そんな彼らが自らを指す言葉として選んだのだから、これにふさわしい言葉はないのではないか。
一つ確かなことがある。
才ある人を「天才」としか呼べないボキャ貧に、誰が天才なのかわかるはずがない。
Dan the Gifted -- Whatever Gift it May Be
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自分も「自由になると」答えるね。
なぜ相手は「間違っている」と一方的に決め付けるのか理解できないね。
世の中一方的に決め付ける人間が多くてダメだね。
天災とはおこがましい。人災でしょ。
あれは極論すれば、定義というよりも、どこぞの学者の解釈でしょう。
さもなければ、同カテゴリの辞書は、ただの1冊で済むはず。
個人的な「天才」の解釈は、
広義には、「脳の回転数の大きい人」
狭義には、「自分のやってることを説明できない人」。
頭の中の抽象度の違い?かな?
ウィーナーの「サイバネティックス」を面白いと思う人なら、グランスドルフとプリゴジンの「構造・安定性・ゆらぎ」も読んで欲しいけれど、この本はすごく難解です。非平衡熱力学の数学的説明や、散逸構造論の正確な理解は、熱力学や統計力学の専門家でもない限り、完全に習得できなくてもよいのだろうと思います。
この水準がクリアできれば、本当の学問の面白さが理解できているといえるところなのだろうと思います。
生物物理学の石坂昭三先生が、講義のときに教えてくださったのだけれど、非平衡熱力学の理論的研究というのは、テオフィル・ド・ドンデ教授がすでにほとんど完成させてしまっていたのだそうです。では、弟子のノーベル化学賞を1977年に単独受賞したかの有名なイリヤ・プリゴジン博士は、何をしたのかというと、典型的な非平衡熱力学的な開いた系とは、生物である、ということに気がつき、生物の研究を多角的に(細胞、個体、生態系、小進化、大進化の各レベルで)研究したのだそうです。それで、師匠のド・ドンデ教授は早く生まれすぎ、弟子のプリゴジン博士は、アインシュタイン、ハイゼンベルク級の物理学の大英雄になったということだそうです。これが、ド・ドンデの天才と、プリゴジンの天才の違い。
ノーバート・ウィーナーの「サイバネティックス」を読んだら、面白いことが書いてありました。ルベーグは、自分の三角形の研究が、現実の自然現象において対応する系があるかどうか全く知らなかったそうです。ギブズは、自分の物理化学の熱力学や電気化学の研究において、なぜ自分の研究成果が純数学的に無矛盾に成立できるのか全く検証能力を持たなかったそうです。ウィーナーは、ルベーグの研究が数学的本質論で、ギブズの研究が物理学的な現象論で、両者は表裏一体であることにすぐに気がついたそうです。これが、ルベーグの天才と、ギブズの天才と、ウィーナーの天才の違い。
このブログの読者なら、たぶん、こういう話題が好きな人は多いと思います。
「天才」について世界的に有名な研究をしたほとんどの学者は(発達)心理学専攻であり、彼らはもともと「知能」にまつわる研究に血道をあげていたわけです。熱くディスカッションしていたわけですね。
それから、「故古今亭志ん朝師匠」と敬称をつけないといけませんね。志ん朝師匠も真の天才。たしか、志ん朝師匠はドイツ語に堪能だったはず。和訳文だけでなく、ドイツ語の原文も朗読していただきたかったですね。今となってはかなわぬ話となりましたが。
「おお、ツァラトゥストラよ」と、それを聞いて生き物たちは言った。「われわれのように考えるものたちから見れば、一切の物事はそのものが踊っているのだ。それらは来、手を取り合い、笑い、逃げる。逃げてはまた帰ってくる。一切は行き、一切は帰る。存在の車輪は永遠に回っている。一切は死んでいく、一切は再び花咲く。存在の年は永遠にめぐっている。一切は壊れ、一切は新たにつなぎ合わされる。存在という同一の家は永遠に再建される。一切は別れあい、一切は再び会う。存在の円環は、永遠に忠実に己のあり方を守っている。一瞬一瞬に存在は始まる。それぞれのここを中心にしてかなたの球はまわっている。中心はいたるところにある。永遠の歩む道は曲線である。」
近代の文学者でこんな詩文を創作できるのはたぶんニーチェだけ。故古今亭志ん朝にでも朗読していただきたかった文章です。ハイネとニーチェはゲーテとヘッセの架け橋。どの時代の天才も、天才は前の時代の天才に学び、天才は次の時代の天才を用意する。きっと、そういう天才が比類なき真の天才。
知能について研究すること=天才について熱く語ること、ではないですよね。「熱く語る」ってのがどういうことか、弾さんの書評?を読みながら、少し頭を整理された方がいいかも。
おごちゃんやオケゲムさんの消息がわかって嬉しかった。
さすがに小飼弾ブログ。
天才のところには天才が集まって来るのか。
外人はそうは考えていないみたい。知能テストを最初に作ったのがアルフレッド・ビネーだけど、「ビネーだけが天才だった」みたいな言い方をする学者も複数いるし。
>天賦の才能がある人が天才です。その才能を限定する必要がありますか。
あります。米国ではIQ130以上であると考えられる女子高校生のかなりの割合が高校中退に追い込まれているという研究者のデータもあります。
ギフティッドの特殊支援教育の必要性については本を探して読んでみてください。
ボキャ貧といわれても、それが今の日本語での天才の定義ですから。
辞書を確認ください。
もう一つ。
天賦の才能がある人が天才です。
その才能を限定する必要がありますか。
自分で問題を作る才能、それをとく才能。
早く走れる才能、あるスポーツ得意な才能。
努力できる才能、空気を読む才能。
とくに秀でていれば天才と呼んでいいでしょう。
当たり前だとおもうけどなぁ
オケゲムは最近では本名(徳丸浩)で活動しておりますので、徳丸浩で検索していただきますと、何か出てくると思います。
関係ない話題で申し訳あまりません>みなさま
いい人材を惹きつけるのも、弾氏の才ですね。
結局、真の天才というのは、コドモには不可能で、自律する大人だけがなれる可能性を持っている特権的存在なのだろうな。
そんなふうに思います。
しかしそういう「天才」の全員が理系とは限りません。同じような数学センスやら能力の傾向を持っているとは限りません。美術や文学のIQは測定できないです。
なぜか日本人は「天才」=「知能の高い人」=「数学ができる人」という等式で結んでしまっていて、数学が出来ない人=知能が低い人だと思っている人が世間に多いと思うのですが、よく考えれば才能とは数学的センスだけではないです。
「動態視力」とか「反射神経」の生まれつきの良しあしもIQ(脳の機能)です。ビル・クリントンですが、ごく幼少からgiftedの特殊支援教育を受けて育ったと聞いているので、やはりIQ130以上であることを、小学生時代に周囲は把握していたのでしょう。
まぁ100人に一人天才がいるのなら、可能性はざらにあるわけです。それにそういう人は自分がそうであることを人生のいずれかの段階で知ることになるだろうと思うし(自分の脳が周囲と「生物学的に違っている」ことに気がつくときがくると思う)
ただ、鬼才とか奇才はあるよね。たいてい消えてなくなる。なくなるのは、独立しきっていたりするから。岡本太郎は奇才だと思う。燃え尽きるように生きたあたりはそうだね。
ちなみに、日本のブログラマーで、ビルゲイツとかジョブスが注目していたり、欲しがったりする人がいるなら、その人は天才プログラマーだと思う。ただ、国際的に見ると、プログラマーに天才を求める傾向はないね。どちらかというと、スーパービジネスマンがプログラマーに求められているんだね。日本の業界として、無口な頑固職人タイプのプログラマーが欲しいのだろうね。たぶん、現状の現場は、ミスが多すぎるのだろうね。ネットなんか見ている暇があったら、自分が書いたコードをよく見ろってことだろうな。
それと、天才の人生とは刹那じゃないよ。
一番わかりやすく言えば、天才とは、ニーチェだよ。ニーチェと並べないなら天才じゃないよ。ただの、あれだよ。あれね。
でも、セザンヌが何で天才なのかをわかっていてセザンヌの作品を鑑賞している人なんて、美術館に来る人たちの1パーセントもいないだろうし、ガスケの「セザンヌ」を読んだって、ガスケの真意を理解できる人なんて、きっとあまりいないと思います。天才の扱いなんて、真の天才についてだってこんなもの。
私は正直に白状します。私はなぜセザンヌが天才なのか、理解できません。でも、吉田秀和の「セザンヌ物語」は手に入れました。いずれ、ゆっくり読みたいと思っています。
まさにその通り。
その昔、日経MIXで活躍してた、あの「おごちゃん」ですか?
ああ、なつかしい。
今でもネットで活躍してるんですね。
オケゲムさん達はどうしてるかな。
ということでしょうか?
天才とは、単なる才能かと思っていました!