2009年11月02日 13:00 [Edit]
ビジネスが終わり、エコノミーが始まる - #書評_ - ネットビジネスの終わり
著者より献本御礼
新書でハードカバーというありえないパッケージではあるが、本書に限って言えばこれはかえってよかったのかも知れない。
本書は、Economy 1.0 の墓碑銘なのだから。
本書「ネットビジネスの終わり」は、切込隊長こと山本一郎による「ウェブ終末論」。
目次- まえがき―低成長時代の産業社会とは
- 第1章 「ものづくり信仰」から「売るためのシステムづくり」へ
- 第2章 瀕死のメディア産業
- 第3章 アニメ、ゲームが成長産業になれない理由
- 第4章 情報革命ブームの終焉
- あとがき―不確定な世界を生きるために
改めて、バブル産業を総括する必要があるかな、と。
- 通信事業におけるベンダーファイナンスが枯れてきて大変だなという話。もうモノ作りという単語で産業政策を語るべきではないよ。
- 出版社と新聞社は、ネットが興る前から細ってたけどもうお金も集まらなくなったという話。
- アニメとゲームなどポップカルチャーに期待を抱きすぎて過剰投資が起きてネットと関係なく勝手に潰れてる話。
勘違いしないで欲しい。著者は「ウェブが終わった」とは言っていない。むしろその逆、コンテンツ産業が「ウェブで終わった」と指摘した上でこう述べる。
P. 104いま、我が国の情報産業に対して必要とされるのは適正な利益率であり、対価をきちんと支払って情報を得るという本来の情報の消費活動に立ち返るための処方箋に他ならない。
「適正な利益率」。これが本書のキーワードだ。それがないからこそ「ネットビジネスの終わり」が来るのだ、と。それがいやなら「本来の情報の消費活動」に立ち返るための「処方箋」を用意ししやがれゴラァ!というわけである。
悪いね、とうちゃん。そんなものはありません。
それが、先ほど翻訳が出た "Free" の帰結だ。ゼロ円のものには、どんな利益率を設定しても得られるのはゼロ円であり、にも関わる回ってしまう世の中はありうるし、現にそうなりつつあるし、なぜそうなるのか、そこでどうやっていけばいいのかが書いてあるのが同書だ。
私の結論も、そちらになる。
なぜなら、情報は消費できないからだ。
消費が成立するためには、読んで時のごとくそれを使ったらそれは消えなければならないが、情報はいくら使っても消えない。消費できるのはモノだけであり、ヒトゴトは消費できない。このことは拙著「弾言」でも指摘したし、本blogでもさんざんそう主張している。
「対価をきちんと支払って情報を得る」というのは、情報本来の姿ではないのだ。
むしろ今までは、情報という「消費不能な事」を、仕方なく「コンテナ」という「消費可能な物」に押し込んだ上で消費させていたと見るべきなのだ。
弾言しよう。
ビジネスは、終わる。少なくとも「消費不能な事」を「消費可能な物」にしていたことによって成り立っていたビジネスは。
しかし、それは経済の終わりではない。
Business = 忙事は終わっても、Economy = 生活は終わらないのだ。
世界は Fortune 500 と 500 million = 5億人のどうしても消費せざるをえないものを作り維持する Businesspersons と、そして 5+ billion = 残り全ての "Busilesspersons" で成り立つようになる。
著者もそこまではわかっている。
往生際が悪いのは、「だから日本はどうやって残り5億の中に残るのかを国をあげて考えよ」と言っていることだ。いいではないか。日本なんぞ終わっても。
日本人さえ、終わらなければ。
著者は自らを保守と主張している。日本を保守しようとすれば、著者の主張は正しい。しかし私が保守したいのは日本人 = 日本の文化を生きている人々であり、彼らが保守されるのであれば日本というコンテナは正直どうでもいい。
あとがき将来のことなど誰にも分からないのだから、世界から尊敬され一目を置かれる国として引き続き日本が立っていられるよう、意志を持って行動するしかない。
一目置かれるべきなのは、人であって国ではない。むしろ日本人であるだけで一目置かれるということが、ネトウヨたちの根拠なき自信に油を注いでいることを鑑みれば、日本という国の評価はもっと「額面通り」になった方が、「不確定性を制御し一定の成功率を確保して、集団を少なくとも維持し願わく繁栄たらしめる」(P.188)ためには好都合ではないか。
ところで、ビジネスは終わるべきである。
本来のエコノミーを、はじめるために。
Dan the Ex-Businessmen
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言葉の表現は違うけど、ダンコーガイと考え方がかなり似ているような
人の意見を気にしない気質とかも、特にw
消えないかもしれませんが、価値は減ります。
情報は独占している人が自分の行動にだけ有利に反映させられる時と、発信により対価を得られる時にはじめて価値を発揮するものかと思います。
後者の場合は使って流通量が多くなれば当然価値は相対的に減りますし、その情報をベースとした、より意味のある情報が出るせいで価値が下がることもあるかと思います。
このブログだけでは十分に意図が読み取れないので、機会があれば紹介されている本を読んでみます。
ここがミソ かな?
弾さんがいうところの「本来のエコノミー」の
それは元日本人が書いたアメリカ文学であり、中国文学であり、ロシア文学ではないのか?
国はコンテナではなく、それ自体が免疫構造を備えた情報生命であるような認識が自分にはあるのだが
異邦人を自認する子飼弾氏にとっては国はコンテナに過ぎないのだろうか?
日本人全員が異邦人を自認した瞬間に日本人は絶滅するような気もするが
国という入れ物がなくなったとき、日本人をまとめるものはなに?
日本語?
ユダヤ人と同列に考える方が粗雑では?
国が??
出た! お得意の必殺技!w
でもユダヤ人は死に物狂いで自分たちの国=イスラエルを守ろうとしてるわけですよね?イスラエルなくなってもいいや、ってユダヤ人は思ってないでしょ?
やっぱり物理的な意味での「国」は必要だと思います。
ただ、現行の制度を維持しなくてもいいとは思う。世界が一つの国になって、その下にアメリカ州、ドイツ州、日本州というくくりになったとしても、それはそれでいいかな。アイデンティティは保てそうです。
国という言葉は文化とか民族性とかも含み得る言葉だから、そういう意味合いで言うと国がなくなれば文化なんかも傷つくだろうけど、行政サービスを提供している主体としての「国」なら確かにそんなに大変なことではないような気がす。
詐欺である。
これも、なくなるのかな?
知識や情報が廉価になれば、知識や情報の入手のために、あるいは発信のために使用していたコストが小さくなるわけだから、その分のお金をもっと生産的な活動に向けられるわけで、いままで、コスト的に不可能だった産業も高付加価値産業として浮上できるわけで、既存ビジネスの人々の既得権益は減るけれど、エコノミー全体はパイが大きくなって、きっと、よい結果が出ると思います。ただし、果実を得られるのは、これから生まれてくる子供たちだろうと思いますけれど。
少数の移民が海外で日本人として活躍すればいい、ということ?
それって、大半の日本人は「終わってる」のではないのだろうか。
もしくは他の解釈なのだろうか?
国なき民というと先ずユダヤ人が例として取り上げられる場合が多いけれど、
実はもっとゆるやかな形もいろいろあるということにも目を向けて欲しい。
スコットランド人、ウェールズ人、カタロニア人、などもそう。
少しさかのぼれば、ウクライナ人、エストニア人。
もっと前なら、ポーランド人、オランダ人、フィンランド人、ギリシャ人、etc.
また、今の世界を見ると、英語圏の人たちは既に国というくくりが
かなり弱くなってきていて、「英語圏」の中の各地方というような雰囲気が強いと思う。
彼らは世界中の英語圏を国内旅行のような感覚で旅行し、引っ越し、転職する。
さらに言うと、現在の状況で国家のプレゼンスが下がるということは、
一方では都市のプレゼンスが重要になってくるということであり、
(たとえば東京対シンガポール対ニューヨーク対ロンドン対パリとか)
もう一方では《帝国》に飲まれてゆくということかと。(EUとかCommon Wealthとか)
いずれの場合もユダヤ人のように国なき流浪の民というのとはかなり違うと思う。
今や在外邦人が百万人を越える時代。
ニューヨークだけで5万人とか言ってたっけな。
つまり、「生活を維持する最低限の活動と、引き継ぐ価値のある洗練された趣味=文化、の2つがあれば人は生きていける。それ以上のものを求めようとするから本来の価値以上もの、砂上の楼閣を作ることになってしまう。」ということなのだと思います。
>いいではないか。日本なんぞ終わっても。
文化は、発信側と受信側に、ある程度の共通価値があるから持続するものかと思います。いきなり日本という境界線が消えて、共通価値が失われた場合に持続するかどうかは疑問です。境界が緩やかに消えて共通価値が広がるのであれば、多くの人にとってその方が望ましいかもしれません。
ただ、この記述からは「日本人はまだ終わっていない」という認識のようですが、日本人を定義する文化が何であるのかを明確にし、どれほどの人がそれを持っているのかを調査しなければそれは言えないかと思います。
>彼らが保守されるのであれば日本というコンテナは正直どうでもいい。
賛成です。



