2010年03月29日 10:00 [Edit]
適所あっての適材 - 書評 - 強い者は生き残れない
Amazonより入手。
やっと腑に落ちた。
なぜ生き物が競争以上に協調を尊ぶのか。
著者の環境変動説は、木村資生の中立進化説に匹敵する進化論の補強となるだろう。
と同時に、改めて確認した。
経済学というのは生物学の一部門なのだ、と。
本書「強い者は生き残れない--環境から考える新しい進化論」は、進化において今まで最も不可解だった協調という行為が、まさに進化論的であることを一般に説いた一冊であると同時に、人類もまたその一部であることを再確認した一冊。
目次 - 吉村仁『強い者は生き残れない―環境から考える新しい進化論―』|新潮社を要約- まえがき
- 第一部 従来の進化理論
- 第一章 ダーウィンの自然選択理論
- 第二章 利他行動とゲーム理論
- 第三章 血縁選択と包括適応度
- 第四章 履歴効果
- 第五章 遺伝子の進化と表現型の進化
- 第二部 環境は変動し続ける
- 第六章 予測と対応
- 第七章 リスクに対する戦略
- 第八章 「出会い」の保障
- 第九章 「強い者」は生き残れない
- 第三部 新しい進化理論――環境変動説
- 第十章 環境からいかに独立するか
- 第十一章 環境改変
- 第十二章 共生の進化史
- 第十三章 協力の進化
- 第十四章 「共生する者」が進化する
- あとがき
- 参考文献
生物は競争する。が、協調もする。そしてよく見ると、協調を学んだ生物ほどよく生き残る。寄生はいつの魔に共生になり、病原体は弱毒化する。一見するとこれはずいぶんと不思議なことだ。生物というのは個の生存を最優先するのではなかったのか。
この不思議な現象を説明するのにこれまでさまざまな仮説が登場してきた。「生物にとって大事なのは個体の生存ではなく遺伝子の生存」とする Richard Dawkins の「利己的な遺伝子」しかり John Maynard Smith の ESSしかり。それぞれ大いに説得力があったのだけど、しかし説得しきれない感じがどうしても払拭できなかった。著者の環境変動説は、現時点で「これだ!」に最も近い。それは利己的遺伝子説の時の「まさか」より、「やはり」に近いものであった。
この説の素晴らしいのは、利己的な要素が個であっても遺伝子であっても成り立つことにある。少なくともその要素が「種」などという抽象概念でないことは確かだ。著者もこう指摘する。
P. 32そもそも人間以外の生物が「種」や「グループ」などという抽象的な概念を持っていると仮定するのもおかしいといえばおかしい。
この点においては遺伝子というのも同じだろう。そんなものがあるとは人間ですら前世紀まで知らなかったのだから。著者は「誰のために生きる」、すなわち「利己単位」を個としている。
それでも、利他行動というのはきちんと発生するのである。
なぜそうなるかは、ぜひ本書で確認していただきたい。私と同じく利己的なあなたも、私と同じく「まさか」ではなく「やはり」という感慨を抱かれるのではないか。
しかし懸命な読者は、本書を読まずとも「環境変動説」という言葉だけでピンとくるのではないか。
「適者は環境が決める」。ここまではコンセンサスと言い切っていいだろう。自分が「強い」のか「弱い」のかは、自分では決められないのだ。それでは環境って一体なんなのか。それこそが、今までの進化論研究で--全くないどころか重要性は理解されていたにも関わらず、それでも--足りなかった視点ではなかったのか。
著者は素数ゼミの秘密を解き明かした人として知られている。この業績に関してはすでに「素数ゼミの謎 」や「素数ゼミの秘密に迫る! 」という形で一般書でも読めるのでこれらも是非読んでいただきたい。著者は決してどこぞの(元?)数学者の「品格」だとか、霊長類学者の「他人を許せないサル」のように思いつきで環境変動説を唱えているのではない。本書の「やはり」感は、著者の説があくまで進化論の延長上にあることの傍証であろう。
著者の説のもう一つの利点は、それを人類社会にそっくりそのまま当てはめてもなりたつことにある。Geneに対するMemeを持ち出さずとも(あるいは持ち出しても)社会と個人のありようをそのまま説明できるのである。たとえば、なぜ「カジノ資本主義」が冷戦中には登場しなかったのかが、これですっきりと説明できる。
協調というのは、環境が「敵対的」(hostile)であればあるほど価値がある。逆に言えば、環境が「友好的」(friendly)であれば、個は利己的にふるまえるのである。著者はそれをこう表現している。
P. 210民主主義も新しい協力体制もそれが長期的に安定していくと、再び個人の利益を追求する権力者が必ずといっていいほど現われる。個人の利益を追求しても集団の存続が脅かされないならば、この「いたちごっこ」は避けがたい現象なのだろう。
一致団結して危機を克服しては仲間割れをするのが人間のありかた(human nature)というわけで、これまだ「腑に落ちる」ことではあるが、本当にそのまま個人と社会の関係はそれを未来永劫繰り返して行くだけなのか。ここからは本書から離れて私の持論を述べる。
私は、このまま行けば、「人類」という新しい「メタ生物」が誕生し、「人間」はその「一細胞」となる形で決着がつく--ついてしまうのではないか--と思って、いや危惧している。なにしろ、すでに先例があるのだ。
それが、他ならぬ人体。私が「私」という「個」を夢想しているこの体も、実は組織であり社会である。そしてこの60兆個の細胞からなる社会のありようは、60億「個」のヒトからなる社会とはずいぶんと様相が異なる。人体の細胞は社会の「細胞」よりはるかに利他的なのである。その利他的な様は、ハチやシロアリといった社会的昆虫を上回る。我々の意識は「今日何個の細胞が死んだか」を意識することすら出来ない。「意識しない」ではなく「できない」のである。
その細胞もまた、かつては複数の生物から成っていたというのが現在の生物学の定説だ。しかしミトコンドリアが「敵」から「味方」を経て「一部」になったというのと同じぐらい説得力のある説は、今のところ細胞の多細胞化にはなかったように思う。著者の説はここでも威力を発揮する。今や「組織」の一部に過ぎない個々の細胞たちも、かつてはお互いに「単なる協力者」に違いなかったのだから。
人類はこの先滅亡まで集合と離散を繰り返すのか、それとも「人類」という超生物となるかは私にはわからない。とりあえず私の生きている間には前者で間に合うだろう。しかしいずれの場合も、人類もまた環境の一部であることには変わりはない。本書があろうがなかろうが、適所あっての適材というのは変わらない。しかしそれを知っているのと知らないのとでは、何かが決定的に違うだろう。その「何か」を言語化するだけの力は今の私にはないのだけど。ぜひ一読、そして一考を。
Dan the Cellular Organism
この記事へのトラックバックURL
人類というメタ生物が誕生するよりも、人類が、「超人」と「人間未満」の進化種と退化種に分裂してしまう可能性のほうが高いのでは?実際、2人の人間の違いが、動物と植物の違いより大きい事態が出現してもおかしくないほど、人間の個体差は大きくなっていると思われます。
