2010年04月20日 19:30 [Edit]
We are what we remember - and forget - 書評 - ほら、あの「アレ」は…なんだったっけ?
出版社より献本御礼。
タイトル、秀逸すぎ!原著の"Where Did I Leave My Glasses?"よりさらにイイ!
あと、設問と回答が「ゆるい」のもいい。この手の本をもしプロのサイエンスライターが書いたらもっと「かっちり」した本になったはずであるが、そういう「かっちり」さは「アレをアレする」のに役立たないことはなはだしい。
一読を、というより本棚においておくことをむしろ一押ししたい本。極論してしまえば積読だって構わない。もっとも本書をどこに置いたかまで忘れてしまってはさすがに困るのであるが。というわけでやはり本棚に戻すのは一読してから。本書はまさにそういうケースに困った著者が、著者自身を含めてそんな人々のために書いた本なのだから。
本書「ほら、あの「アレ」は…なんだったっけ?」は、心理学者でも脳科学者でもない「ふつう」の還暦をすぎた「おばちゃん」である著者が、専門家たちに「病気でない物忘れ」について、なぜ、いつ、どのようにして起こるのかを尋ねていく一冊。
目次- こんにちは、どなたでしたっけ?―あれ、名前が出てこない!
- マルチタスクですって?―注意力がこぼれおちる…
- 悪いことばかりじゃない?― 忘却のありがたさ
- 彼が覚えていること、彼女が忘れないこと―男と女のちがい
- これでもがんばってるの!―身体をきたえて記憶力を保つ?
- 象の瞑想―ぜったい忘れられないこと
- ぜんぶで五七種類?―記憶の種類は多種多様
- 映画の世界はウソだらけ―記憶喪失という病
- なかったことにしちゃう?―記憶だってウソをつく
- いたっ!―身体の痛みは記憶できるか
- 医学生症候群と決めつけアルツハイマー
- 正常と異常の境目―「私のめがねを隠したの、誰?」
- 特効薬、それとも気休め?―記憶力を高める薬と食べ物
- 脳はコンピュータ―記憶はメモリで取り出せる
- フラッシュバルブ記憶―あのときどこにいましたか?
- 進化と、もの忘れ―ダーウィン先生、どうしてこうなったの?
- ボトックス世代を超えて―記憶と未来
要約するにはあまりに「ゆるい」し、ありのままの方が「おもしろい」ので、本書の内容について書くのは極力控えることにする。何かを思い出せずに困った記憶がある人であれば、絶対に「いたたのしめる」はずであることは請け負う。さほど「思い出せずに困った経験」がない私でさえこれほど楽しめたのだから。
以前私はこう書いた。
「記憶とは何か」ということに関して、本書も同entryと同じ立場に取っている。特にパリンプセプトの比喩は本書にも14章に登場する。そして記憶というのが傷であるがゆえに、思い出すという行為が痛みを伴うものであり、よって忘却という現象が「悪しき」ものであるよりも「良き」ものであるという立場も。
忘却といえば、この曲を思い出さずにいられない。著者が知っていたら大絶賛しただろう。
傾斜 - 中島みゆき歳をとるのはすてきなことです そうじゃないですか
忘れっぽいのはすてきなことです そうじゃないですか
悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるより他ないじゃありませんか
それは著者ももちろん承知している。それでも「すてきなことです」と開き直り切れないのは、やはりもの忘れは困るからだ。
P. 315ああ、けれども、せめて、これだけは言わなくてすむようにならないかしら。
私のめがねはどこ?
著者のタマシイのサケビであるが、一つ本書が突き詰めていない点は、「記憶せずに済ませる」ということかも知れない。私がなぜ「さほど「思い出せずに困った経験」がない」のかといえば、記憶力がいいからでは決してあない。「忘れてはいけない」ものを思い出さずに済むようにしているだけなのだ。
たとえば私は鞄を一種類しか持っていない。その一種類しかない鞄はいつも同じところに置いてある。そこに何を入れるかも決まっている。だから私はその鞄に何が入っているかを通常思い出す事はない。「そこに入っている」ことを知っていれば充分だからだ。
ごくたまに「あれどこ」状態に陥る時は、ほぼ例外無くこの原則が崩れているときだ。いつもメガネを置く場所にたまたま本がおいてあったのでその隣にメガネを置くだけで「私のめがねはどこ?」状態になる。
記憶が得意なのではない。記憶が不得意なことにより自覚的だけなのだ。
だから、本書で最も首をかしげるのは、「私のめがねはどこ?」問題に対する回答が書いていなかった事かも知れない。英語だとたった二文字で済んでしまう。
Get LASIK.
めがねの置き忘れを防ぐ究極の回答は、すでにこのように存在しているのである。
しかし著者は本当にめがねを置き忘れたように「私のめがねはどこ?」問題に対する回答を書き忘れたのか?「ボトックス世代」という言葉を使う著者が、「外科的に記憶問題を解決する」ことを思いつかないわけがないというのが私の読みだ。著者はあえて「究極の回答」を無視したのだ。
なぜか。
それが、本entryの表題である。"We are what we remember - and forget."。何を覚え、何を忘れるかが人だということである。実は私の結論もこれである。人格、ではない。人が普通に複数人格を持ち得るどころか、複数人格はすこぶる役に立つというのは「英会話ヒトリゴト学習法」も指摘するところだが、それでは複数人格を持つ我々のほとんどが多重人格者にならないかといえば、それらの人格が共通の記憶を持つからである。人格が複数あるのが多重人格なのではない。記憶が分断されてしまうのが多重人格なのだ。
そう考えを進めて行けば、「思い出す必要がなくなる」ことへの恐れも生じはしないだろうか。おそらく著者にとってめがねを不要にするのは、ボトックスで顔のしわをなくすよりも「恐れ多い」ことなのだ。
そしてその恐れは誰の中にも多分ある。もしかして私が未だにメガネを愛用している理由もそれかもしれない。私自身は「メガネどこ?」を著者ほどはやらないけれど、それでもメガネを「見失う」体験はゼロじゃない。メガネを探すために別のメガネを取り出したことも何度かある。そしてメガネそのものを不要にする術というのがすでに確立されていることも知っている。にもかかわらずそれを受けていないというのは、「ときにメガネをなくす私」というものを私が私の一部として受けて入れているということなのだろう。
忘れっぽいのはすてき、なのではなく、
「忘れっぽい」ことを覚えていることが、すてきなのだ。
Dan the Forgetful Man
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と思ったら
「お客様は、2010/4/24にこの商品を注文しました」だって。

