2011年07月20日 13:15 [Edit]
ほんと馬鹿 - 書評 - 科学的とはどういう意味か
編集部より献本御礼。
ここ数年、いや今世紀に入ってから、これほど「そうだそのとおり」とうなづきながら読み進んだ一冊は他にない。
なのに、どうして?いや、だからこそ!
そんな馬鹿な。
語源通りの意味で。
本書「科学的とはどういう意味か」は、以下の主張を新書一冊分かけて展開したもの。
P. 186科学は発展しすぎた、科学が環境を破壊し、人間は本当の幸せを見失っているという指摘はよく聞かれるところである。しかし、この場合の「科学」とは、そのまま「社会」や「経済」と言い換えてもほぼ同じ意味であり、単に風刺的姿勢で、警告を発している気になっているだけの物言いである。言葉は何とでもいえる。しかし、言葉では何一つ解決しない。
よくぞ言ってくださった。
しかし、以下に続く馬鹿は、そこまで積み重ねて来た主張をすべてぶちこわしにして余りある。
科学の存在理由。科学の目標とは、人間の幸せである。
あまりにぶちこわしっぷりに、科学者が観測機器の誤作動を疑うが如く、私は自分の目を疑った。しかしその後がこう続く以上、それは錯覚ではありえない。
したがって、もし人間を不幸にするものがあれば、それは間違った科学、つまり非科学に他ならない。
スルーしておくべきだったか?しかしこう書かれてはそれもまた難しい。
そして、そうした間違いを防ぐのもまた、正しい科学以外ないのである。
よろしい。不詳私がその間違いを防ぐお手伝いをさせていただこう。
そのためには、まず「科学とは何か」というところから話をはじめる必要がある。それだけで一冊書けそうな話題でもあるが、しかし定義であれば以下の一文で必要十分であるはずである。
科学とは、知をもって信をおきかえること
そう。本当に、これだけ。
一例をしめそう。
ウンコ味のカレーと、カレー味のウンコがあるとする。
前者をウンコ、後者をカレーとするのが信仰。
前者をカレー、後者をウンコとするのが科学。
私が本書の結語を「語源どおりの馬鹿」と呼んだ理由がそこにある。
いや、これは十分科学的ではない、「語源だと広く信じられている定説どおりの馬鹿」と言い換えるべきだろう。史記にも出てくるとされるエピソードだ。横山光輝の漫画にも出てくる。
馬鹿 - Wikipedia秦の2代皇帝・胡亥の時代に権力をふるった宦官・趙高が、あるとき皇帝に「これは馬でございます」と言って鹿を献じた。皇帝は驚いて「これは鹿ではないか?」と尋ねたが、群臣たちは趙高の権勢を恐れてみな皇帝に鹿を指して馬だと言った、という『史記』にある故事からくるとする説。
「科学は人類の幸福のためにある」ほど、科学を馬鹿にした主張はありえないのではないか。
我々は、幸せになりたいから知りたいのだろうか?
「知恵の実を食べて楽園から追放された者の末裔」として、それはありえないだろう。
むしろ知るを重ねれば重ねるほど、それがどれほど痛いことかというのを我々は学んで行く。知ってしまったら「もう何も怖くない」なんてもう言えない。配偶者の浮気から癌の告知まで、真実は不快と不幸に満ちている。「だれでも1日200回はウソをつく!」のも無理はない。アインシュタインでさえ、一般相対論の最重要の帰結、「宇宙はじっとしてられない」に耐えかねて宇宙項を付け加え、後にそれを「最大の過ち」として撤回した。その宇宙項がダークエネルギーとして復活し、しかしやはりこの宇宙はアインシュタインの望んだ宇宙とはさらに違うことを知ったら、彼はなんと言うのだろう。
どんな事実にでも耐えられるのだとしたら、それはもはや人ではなくてインキュベーターかなにかだろう。
それでも、「信じたい」より「知りたい」を優先するのが、科学だ。
これが痛くなくてなんだろう?
しかし、もし痛みがなかったらどうなるか?
痛みを避けることも、出来なくなってしまう。
それゆえ、痛みとは最も重要な感覚なのだ。
科学は、人類の痛点を増やす。
自然と、痛みを避けるのも上手になる。
もし科学が人間を幸せにするのだとしたら、それが理由なのである。"Si vis pacem, para bellum." -- 平和が欲しければ戦争に備えよ、というわけである。座右の銘のたぐいを持たない主義の私の数少ない例外がこれである。
だから、幸福というのはあくまで科学の副作用の、そのまた副作用となのであって、それは目的でもなんでもない。いや、だからこそ「目的」よりも強い「宿命」なのかもしれない。
痛いと予感してもなお、知ろうとせずにはいられないのが、我々なのだから。
その痛みを嘘で癒そうとするのもまた我々なのであるけれど。
それでも、「知りたい」は「信じたい」よりも強いというのが、私の知っている我々の姿だ。
科学に存在理由は不要だ。
人類にとって、その方が自然なのだから。
存在理由なるものを求めることこそ、不自然であり偽なのであり、ゆえに非科学的態度なのだから。
Dan the Part-Time Scientist
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みたいな
確かに昔の方がインテリの権力は強かったと
『科学哲学の冒険』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140910224/
でも一般人にとっては「人類のため」です。
科学者の知的好奇心は人類のための手段でしかない。
つまり「科学者を中心に考えるか、一般人を中心に考えるか」という点における見解の相違であり、それを飛ばしていきなり著者の見解は間違いだとするのはナイーブだなと感じます。
一般人向けの本なのですし、一般人を中心とした見方になるのは当然。
否定するなら「科学者中心で考えると」という条件を明示しないと。
また、「それでも、「知りたい」は「信じたい」よりも強いというのが、私の知っている我々の姿だ。」というのはどうですかね。
科学者は知りたいからこそ信じない。
一般人は信じたいからこそ知りたい。
小飼さんの見解は一面的にすぎます。
科学と言っても、宇宙の起源や系外惑星の研究など知ることが
即社会に役立つ訳でないものもありますし、疫学調査のような
社会に還元する事を想定した研究もありますよね。
後者は「科学の目標とは、人間の幸せである。 」としても
違和感がありませんが、前者にもこのような考えを取るのは
違和感があります。

