2011年08月01日 18:45 [Edit]

情報の質に関するただ一つの原則

内田樹発言の劣化がさらに進んでいるのは、個人的印象ばかりとは言い切れない。

ネット上の発言の劣化について (内田樹の研究室)
個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。

以下の通り本人も認めているから、というのは冗句であるが…

「オレはこう思う。」とか「オレはこれを知っている。」といったタイプの情報は、そのコンテンツの正否にかかわらず「質の悪い情報」である。

スルーしようとも思ったのだが、そうし難い質(「しつ」より「たち」)の悪さがこの発言にはあるので、1 entryを割く事にする。


何が質が悪いかというと、「情報の質」というのは誰が決めるかを、180度勘違いしていること。

発信者、ではない。

受信者、なのである。

もし発信者に情報の質を決められるのだとしたら、Van Goghも自傷のあげく自殺するはめにもならなかっただろう。彼の絵に今何百億円もの「価格」がついているのを知ったら、彼はどんな感想をいだいたのだろうか。

おそらく今日もネットでは中韓に対する罵詈雑言が飛び交い、その数倍の日本に対する罵詈雑言が中韓では飛び交っているのだろう、しかしそのほとんどは、お互いスルーされる。そこに罵詈雑言をぶつけている人のほとんどは、お互いの言葉すら知らないから。そもそも互いに受信能力がないのである。

大事なことなので繰り返す。

情報の質は、発信者が生み出すのではない。

受信者が--勝手に--見い出すのである。

昔も、今も、これからも。

そのことを我々もある程度はわかっているから、受信者がどのように受け取るかをある程度見越して発言する。しかしそれを繰り返して行くうちに、発信者は受信者のことをわかって当然という思い込みも積もって行く。これはもしかすると、表現という行為に関する最も典型的な老化現象かもしれない。

その頃の日本人は子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、「だいたい同じような情報」を共有することができた。

その「だいたい同じような情報」を誰が流していたかを考慮すれば、なおのこと。

「情報の質は、発信者が決める」と発信者が思い込むのも無理はない。

しかしそれは「楽しい」誤解、すなわち「娯解」でしかない。

不特定多数に向け情報を発信してきた人々は、彼らに対する「呪い」を通してそのことを知っているはずである。知って知らないふりをしている人の方が昔も今も多いが。しかし仮にも言論の自由を標榜するからには、このたった一つしかない原則を知らないふりをしてはならないはずである。

言論の自由には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思う。

あえて相手にその自由を認めるものだけが、自らも自由に言論を行使する資格を有するはずだ。もっと平たい言葉で言えば、「言いたい事を言わせる者だけが、言いたい事を言えるのだ」ということ。

そもそも「言論の自由の場」なるものに人格がない以上、踏みにじられるべき尊厳もないというのが私の見方だ。尊厳を有するのはあくまで発信者であり受信者。そして人格がないという点においては匿名者も同じ。自ら人格を放棄している以上彼らに尊厳はないし、尊厳なきものに傷つけられるべき尊厳を私は持たない。

どうせ悪口を言うんだったら、私としては匿名で言ってもらいたいものだ。それならニュートリノとおなじで、いくら被曝したところで影響はないのだし。

Dan the Free Expressionist


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情報の質に関するただ一つの原則これは、小飼のほうが正しい。内田のブログを読んでみ...
小飼弾が、内田樹にかみついた。【東京下流人日記】at 2011年08月12日 16:09
最近Twitterで軽率な発言をする人達が増えている(なぜか大学生がよく炎上)という指摘がよくされるわけですが、ざっと並べるだけでもこんなにありました。■東大、Twitterへの安易な ...
Twitterがバカ発見器というのは半分正解半分間違い【うぉっちング!!!】at 2011年08月04日 12:13
内田樹を批判する小飼弾を批判する
内田樹を批判する小飼弾を批判する【はひろがゆく】at 2011年08月03日 02:08
何が質が悪いかというと、「情報の質」というのは誰が決めるかを、180度勘違いしていること。発信者、ではない。受信者、なのである。笑止千万、クソワロタwww 流石わ我らが弾公害、’あるふぁ風呂があ’の称号に相応しい妄言だwww ブックバカーに代表される’そおーしゃる
消毒ノススメw【消毒しましょ!】at 2011年08月03日 00:09
 ネットにおける言論の在り方が話題となっている。 内田樹の研究室 - ネット上の発言の劣化についてhttp://blog.tatsuru.com/2011/08/01_1108.php404 Blog Not Found - 情報の質に関するただ一つの原則http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51712812.html  双方のブ
[所感]両極端な「言論の自由」について【HeDis】at 2011年08月02日 12:59
韓流ブームと宮崎あおいの夫の怒り
韓流ブームと宮崎あおいの夫の怒り【ニッポンのともしび】at 2011年08月01日 22:23
この記事へのコメント
内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2011/09/16_1350.php
情報リテラシーについて

小飼氏は、この内田先生の記事になぜ批判をしないのか、若しくはもし自分が百八十度全く勘違いしたデマゴギーを広めたとしたら、読者に、謝罪しろとは言わない、そのようなことができるほど、度量が広い器の大きい人間だとは世間も期待していない、しかし、一言弁明すべきではないか、と思う。

それをするもしないも小飼氏の勝手だが、そういう人間としての道を知らない人間に対して、私は当然に低い評価を下さざるをえない。それは私の勝手である。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年09月20日 03:12
また、こういう記事もあります。
ネット漬け生活で脳が「ポップコーン化」 専門家が警鐘
http://www.cnn.co.jp/tech/30003173.html

いずれにせよ、twitterだとかmixiだとかFacebook(でもFacebookは基本実名であり、実名であるからこそ社会的ニーズがあるものだが)だとか、iPhoneだとかスマートフォンだとかiPadだとか言っても、実際の人間の「知性」がダメだと、ネットも機能しないですよね。百害あって一利なしですね。

インターネットでブログなりtwitterなりで、アウトプットする人間に、いかなるインプットがされているのか、またいかにオーガナイズされているのかについて、当該人物に自己認識を欠けており、自己抑制の機能が劣化ていると、ただただ、サルの自慰行為のように、延々とドーパミンの刺激を得るためだけに、馬鹿なつぶやきが垂れ流されてしまい(日本人の9割のツイッターはそうじゃないですか)、人間社会が劣化するというのは自然な推論だと思います。

いい加減ネット礼賛論自体を見直すべき時期ではないでしょうか。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月04日 21:49
以上

まず、この内田先生の記事を理解しましょう。これは簡単ですね?難しくないですね?

その次に、内田先生のこのブログ記事を読んでください。

ネット上の発言の劣化について
http://blog.tatsuru.com/2011/08/01_1108.php


上記の内田先生の200年11月23日の記事を読んだあとであれば、内田先生の意図していることは、決して「個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。」を単に悪いことだと言いたい訳ではない事が分かりますね。(ま、結局最終的には悪いのですが)。

その次に、小飼氏のこのブログ記事を読んでください。

少なくとも全く噛み合っていないことだけは分かりますね。

ま、これだけでも多くの人には難しいのでしょうから、まずこのハードルをクリアしましょう。

そうすれば、誰がどういう理由で批判されるべきか、自ずと明らかでしょう。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月04日 19:41
なぜなら、そこで何かのデータを得ようとするものは、なによりもまず「自分はどのようなデータを欠いているのか」「自分はそのデータに到達するためのどのようなスキルを欠いているのか」をできるかぎり分かりやすい言葉で交信の相手に伝える必要があるからだ。

自分の「欠如」や「不能」を適切に言語化する能力を人間関係に翻訳すると、それは「ディセンシー」と呼ばれる。

求めているデータを待つときの忍耐と沈黙は「レスペクト」と呼ばれる。

インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある。

それが学校教育において習得すべきもののすべてである。

その原点に立ち戻るならば、私たちのまえにはまだ無数の可能性が開かれているように私には思われる。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月04日 19:33
自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学び知ること、それが学校教育で私たちが学ぶことのすべてである。

それさえ提供できれば、すべての場所は「学校」である。

それは制度である必要も、空間的現実である必要もない。

たとえば、サイバースペースはもはや十分に学校として機能している。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月04日 19:23
というのは、「マッピング」というのは、「自分がいる場所」、つまり「空間において自分が占めている場所」つまり、「他の誰によっても代替不可能な場所」を特定することであるからだ。

学術研究論文がまず先行研究批判からはじまるのは、「自分の位置を知る」ことが、おのれの「オリジナリティ」「唯一性」を知るためのたった一つの方法だからである。

主体性とは「他の誰によっても代替されえないような存在で自分は在る」という覚知とともにしか成り立たない。

そのためには「マッピング」が不可欠である。

そして、「マッピング」のための問いとは実定的な問い「私はどこにいるのか?」「私はなにものであるのか?」「私は何ができるのか?」ではなく、「私はどこにいないのか?」「私はなにものでないのか?」「私はなにができないのか?」という一連の否定的な問いなのである。

学校教育とはほんらい、このような否定的な問いを発する訓練のための場である。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月04日 19:20
(中略)
「知識」についていえば、私が持論としているように、そんなものはいくらためこんでも何のたしにもならない。

必要なのは「知識」ではなく「知性」である。

「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。

「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手にはいるか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。

学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。

古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。

自分が何を知らず、何ができないのかを言うためには、自分自身を含むシステムの全体についての概括的な「見取り図」を持っていることが必要である。

自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこへ向かっており、その先にはどのような分岐点があり、それぞれの分岐はどこにつながっているのか。それが分からないものにマッピングはできない。

マッピングが出来ないということは、主体性がもてないということである。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月04日 19:19
11月23日

ひさしぶりの休日だし、洗濯日和だし、しあわせな気分で、ごろごろする。

新聞のTV欄を見ると村上龍がNHKで教育問題の生放送デスマッチをやっている。さっそく食後のコーヒーなどをいただきつつ見る。

なかなか面白い。

学校教育について「だめだ」「崩壊している」という事実認知を何百回繰り返しても、その先には進めない。

いまのが学校教育が根本的な改革を必要としていることは誰にでも分かっている。

問題は、では教育制度をどう変えるかということと、「変える」ための意志決定プロセスをどのようなしかたで立ち上げるか、二つの水準にかかわってくる。

これはどちらもたいへん大事な問題である。

「どう変えるのか?」という問題と、「誰が、どういう仕方で、それを決定するのか?」という問題は複雑にからまりあっている。

総理大臣の諮問機関のようなところが教育の未来について設計図を描いているかぎり、日本の教育に未来はない。それはたしかである。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月04日 19:17
この一連のやり取りについて、訳が分からないという方にお教えしましょう。結局日本のためになるのだから。

まず、世の中に内田樹先生という方がいらっしゃってブログを書いているのですが、そのブログ記事が非常に多くの人に感銘を与えているということを知ってください。

その内田樹先生のブログ記事に出版社が目をつけて、その記事を紙に写したものが本になっているだけなのに、それが驚異的な売上を上げているということを知ってください。それがまず第一です。

そして、その中にこういう本があります。
「おじさん的思考」内田樹著、晶文社
http://www.tatsuru.com/diary/tohoho/th0011.html
そのP170に「学校で学ぶべきただ一つのこと」というものがあります。

http://www.tatsuru.com/diary/tohoho/th0011.html
このURLをURL欄に入れてクリックすれば、本を買わなくても読めます。
11月23日のブログ記事がまず第一論点です。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月04日 19:15
×舵のきり直しをするときや船体を沈めるとき

○舵のきり直しをしたいときや船体を沈めたいとき
でした
Posted by enzan_ex at 2011年08月03日 22:49
情報の質は受信者が決める

舵のきり直しをするときや船体を沈めるとき
適当な理由をでっち上げる
その材料として役に立つのが情報や批判
Posted by enzan_ex at 2011年08月03日 22:34
難しくてわからない。
批判コメントもわかりにくい。
だれかわかりやすく説明してください
Posted by amanokatan0405 at 2011年08月03日 11:03
>bobbob1978
小飼さんは新書を一ページ1秒位?で読めるのに、自分のブログへのコメントを読む時間はない、と。
今回のコメなら10秒もかからないであろう量ですが。
変な理屈おっしゃいますね。
Posted by lisyu at 2011年08月02日 22:06
ちょっと言葉が足りませんでした。
無数にある匿名の批判の中から返答に値する批判を探す作業に割く時間がそもそもないんですよ。
匿名の書き込みや批判の中にも妥当な批判が当然あるとは思いますが、ではどうやってそれを見つけるのか?
まず「誰が言ったか?」というフィルターを通してからでないと、数が多過ぎて内容を吟味することも出来ません。
Posted by bobbob1978 at 2011年08月02日 21:23
>「匿名だから知らん」というより、匿名なんか相手にしている暇はないのでは?

匿名の人をいちいち相手にしなくてもいいと思うけど、匿名だから批判内容まで相手にしない、っておかしいと思うw
批判を受けたらその内容を吟味する、正しければ受け入れを考える、という余裕は大切でしょう。
自分の言うことは絶対正しい、匿名な人が自分をまともに批判できるわけないぞ、みたいのは中学生みたいです。
匿名の書き込みを下に見て自分の見解を正当化したくなる気持ちも少しわかりますが、かなりみっともない。
変わらずに成長できる人はいません。
まずは変わる余裕を持った方がいいのでは
Posted by lisyu at 2011年08月02日 18:26
「匿名だから知らん」というより、匿名なんか相手にしている暇はないのでは?
優秀な人間は畜群の囀りなんて相手にしている時間はないのですよ。
Posted by bobbob1978 at 2011年08月02日 15:30
「匿名だから知らん」というより、匿名なんか相手にしている暇はないのでは?
優秀な人間は畜群の囀りなんて相手にしている時間はないのですよ。
Posted by bobbob1978 at 2011年08月02日 15:30
「匿名者に人格がない、だから匿名者に否定されても私の尊厳は傷つかない」という認識にびっくりしました。
長く続けてる匿名のTwitterで持論をツイートしたら匿名の人たちから集中砲火を浴びたとする。
きっと傷つくでしょうね。
これはそこに自分の尊厳が宿っているということです。
正しいと思ったことをブログに書いたら、その浅はかさを匿名の人たちにボロボロに批判されたとする。
相手が匿名とはいえ、その内容が正しければ私は傷つきますよ。
でも小飼さんは傷つかないw
それは批判をコンテンツではなく「匿名か否か」で考えるからみたいですね。
批判はコンテンツで考えましょうよ。
匿名性にこだわってコンテンツを無視するのは幼稚な逃避にしか見えません。

小飼さんの「言いたい事を言わせる者だけが、言いたい事を言えるのだ」という見解それ自体には一応同意です。
ただ内田さんのスタンスは、「言論の自由といえども俺は礼儀を重視する。自分は無礼な言葉、呪いの言葉を口にしないし相手にもしない。言いたいなら勝手に言ってろ、俺は言わん」であり、「言いたいことを言いたい」という小飼さんが当然の前提にする価値観とは違う信念に生きている。
あえて自分を律して生きてる人に向かって、人間は本来もっと自由だから自由に生きろ自由を認めろ、と批判するのはまさに大人と中学生ですね。

情報の質を決めるのは受信者だと書かれていますが、内田さんも同じ考えだとしか読めません。
それを当然の前提として書かれた内田さんのブログでしょうに。
送信者が決めると内田は考えている、という所を飛び越えずに説明すべきでしたね(できないと思いますが)。


匿名者だからこんな批判は知らん、という逃げは卒業し、どうかコンテンツで考えてみて下さい。
Posted by lisyu at 2011年08月02日 14:30
小飼氏のエントリーの文章にある

『「オレはこう思う。」とか「オレはこれを知っている。」といったタイプの情報は、そのコンテンツの正否にかかわらず「質の悪い情報」である。

スルーしようとも思ったのだが、そうし難い質(「しつ」より「たち」)の悪さがこの発言にはあるので、1 entryを割く事にする。

何が質が悪いかというと、「情報の質」というのは誰が決めるかを、180度勘違いしていること。

発信者、ではない。

受信者、なのである。』

なるほど、これはこれでひとつの意見であり、内田先生の文脈から離れれば、その文脈を独自に展開することに成功するのであれば、決して責められるものではない。

しかし、小飼氏は、そういうことをしていない。しているのは、言葉のはしはしの気に入らない箇所をあげつらっているだけである。

小飼氏へ注意したい。

『自分の主張に含まれている「思い込み」「事実誤認」「推論の間違い」などについて、価値中立的な視点から精査する自己点検システムを含まないステートメントは、そのコンテンツの正否にかかわらず「質の悪い情報」に分類される。』
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月02日 04:00
要するに、こうである。

ネットに書き込む自分自身の意見が、社会全体にコンセンサスが得られている文脈(内田先生の言う「情報環境全域」)の中の、どの位置にあるのかを書き手自身が認識できず、自己点検することが不可能なステートメントであり、かつ第三者からも、同じように「構造的に認識できないような言明=2ちゃんねる言論」が増加すると、原理的に当該情報の精査という作業を行うことが出来ないため、

『質のよい情報」を取り込む装置を持っている人のところには「質の良い情報」が累積し、「質の悪い情報」をスクリーニングできない人のところには「質の悪い情報」だけしか集まらない。』という情報の格差が、いわゆる知性の高い人と低い人との間に生じてしまうことになって、社会全体にとって不都合であると、内田先生はその複数の論理からなる文章で主張しているのである。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月02日 03:58
『「情報」はその自体的な正否によってではなく、「それが誤っている蓋然性」についての適正な評価を伴う場合だけに意味がある。
そのことを「知っている人間」と「知らない人間」の間に、急速に、不可逆的なしかたで、情報の階層差がいま進行している。
情報化社会においては、その差は権力・財貨・文化資本のすべての配分に直接反映することになる。

誤解して欲しくないが、私は情報の階層化には反対である。
ネット上に「呪詛」を書き込んでいる諸君は、それによって他ならぬ自分自身を情報化社会の最下層に釘付けにしていることに気づいて欲しいと思って、この文章を私は書いている。』
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月02日 03:54
内田先生は、このように「質の良い情報」と「質の悪い情報」を定義している。定義自体は、その筆者の論理を明確にするために、世間一般とは異なる使われ方をする際に、わざわざ当該言葉の意味をこの文章においてはこのように使うという宣言(=定義)を、書き手が読者に知らせる機能を持つ。それ自体良いも悪いもない。そこで行われる定義は数学の論証における定義と価値的な意味では同じなのであって、その箇所自体を批判することには意味が無い。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月02日 03:53
内田先生は、このように「質の良い情報」と「質の悪い情報」を定義している。定義自体は、その筆者の論理を明確にするために、世間一般とは異なる使われ方をする際に、わざわざ当該言葉の意味をこの文章においてはこのように使うという宣言(=定義)を、書き手が読者に知らせる機能を持つ。それ自体良いも悪いもない。そこで行われる定義は数学の論証における定義と十勝的な意味では同じなのであって、その箇所自体を批判することには意味が無い。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月02日 03:51
内田先生は、「個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。」ということそれ自体の良し悪しを言いたいのではない。

内田先生の文章を極端に短く要約すると、『現代は情報の階層化というフェーズに位置づけられる』、と言いたいのである。情報の階層化とは、要するに、私の言葉で言えば、「情報の格差」のことである。

『「質の良い情報」というのは物性のことではない。
そうではなくて、自分の発信する情報が「情報環境全域」の中でどこに位置づけられ、どう機能しているかを「マッピング」できるということである。
「私はこのことを言うことによって『何を言いたいのか』」を言える情報は良質な情報である。
「質の悪い情報」はその逆のもののことである。
それが送受信される文脈、その歴史的機能などについて自省する機制を含まない情報は「質の悪い情報」である。
「オレはこう思う。」とか「オレはこれを知っている。」といったタイプの情報は、そのコンテンツの正否にかかわらず「質の悪い情報」である。』
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月02日 03:45
いつもながら、小飼弾氏は、内田先生の論理を曲解している。この論理力の低さでは、決してロールズの「正義論」をも理解はしていないのであろう。

小飼氏は、もっと言えば、そもそも一般に、文章を読解するということの意義を理解していない。

文章は書き手の論によって構成される。気に入らなかろうが気に入ろうが、その文章には論理が内在している。小飼氏は、内田先生の文章の論理を構造的に把握するという高級な知性を駆使しているのではなく、内田先生の文章の言葉のはしはしの気に入らない点を、ただあげつらっているだけの2ちゃんねる言論に陥っている。

それでは内田先生を批判したことにはならない。当該文章の論理構造を理解せず、当該文章の個々の論理の組み合わせから導きだされる推論、帰結という理解せずして、当該文章を批判したことにはならない。小飼氏はせっかくの優秀な知性を、ネットを批判する奴は許せないという感情の翻弄を抑えることに失敗している。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年08月02日 03:40