2011年09月03日 07:30 [Edit]

師は詐欺師の師

ふむ。

学ぶ力 (内田樹の研究室)
 第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。

ハァ?

 第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
 第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
 この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」

あきれた。師は師でも詐欺師というやつだろ、これは。

具体例を挙げて説明しよう。

あなたは、誰に教わって自転車に乗れるようになりましたか?

あなたは、誰かに自転車の乗り方を教えたことがありますか?

そうだとして、彼/女が自転車に乗れるようになったのはあなたのおかげですか?

私は年齢が一桁の頃の記憶はまるでなくて(いや、あるのかも知れないけど思い出し方を知らない。思い出し方を教えていただかなくても結構)、記憶にある自分はすでに自転車に乗れるようになっていたのだけど、私の娘達が誰に教わったかなら知っている。

誰にも、教わっていない。

私は人より少しばかり多く本を読むが、それを読了したら確実に自転車に乗れるようなるという本には出会ったことがないし、その人に教わったら確実に自転車に乗れるようになるという人もまた知らない。

私が知っている限り、我々は自転車の乗り方の教え方を知らない。いや、すでにムラタセイサク君がいるのだから、ロボットにどうやって自転車に乗ればいいかを教えることは出来ることは知っているけれども、我が娘達も私もそうやって自転車に乗れるようになったのではないのは確かだ。

自分で、自分を教えたのである。

学びの根本は、そこにある、過去も現在も未来も。

人から学べることは確かにある。自分だけで考えていては一生分からないことが、一言交わすだけでわかってしまうこともある。誰からも何も学ばなかった人などこの世に存在しないだろう。

しかし、人からしか学ばなかった人などいないというのも、また事実である。

それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も書いてないところに、白い紙に黒々と墨のあとを残すように、どんなこともどんどん吸収するような、学ぶ側の「無垢さ」、師の教えることはなんでも吸収しますという「開放性」、それが「師をその気にさせる」ための力であり、弟子の構えです。

無垢さというのは、ありていに言えば師の色に染まりやすいということではないのか?

開放性というのは、「師の教えることは」なんて条件抜きの「なんでも吸収します」なのではないか?

「師から学ぼう」というスローガンは、文明人の最悪の生活習慣病ではないのか?教師に囲まれて育てば、何かを学ぶというのは誰かを通してというのが不自然に感じなくなってしまう。だから、目の前にありのままの答えがあるのに、「答えはどこ?」と人に尋ねて回るような滑稽な光景が後をたたなくなる。そして本当の答えではなく、答えもどきを詐欺師から高額で購入する羽目になる。師が実は詐欺師であったことを学ぶのはまだいい方で、一生「師」からもらった答えもどきを開運の壷のように後生大事に抱える人々がこうも多いのを目にしては、馬鹿にはいくらでも冷酷になる私でさえ、(今となっては一円半にすぎない)"two cents"、つまり本entryを起こす程度の義憤は湧く。

生来あなたは、「誰からでも」どころか「何からでも」学ぶことが出来る力を持っているのである。

誰にも教わらなくとも、誰も教え方を知らなくても、自転車に乗れるようになるように。

というわけで最後に一言おせっかい。

「師」を見たら詐欺師と思え。

何かの間違いでこの私が「師」に見えてるあなた、もちろん私もその詐欺師候補だということをお忘れなく。

Dan the Self-Taught


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この記事へのコメント
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 批判という行為は相手の主張を理解出来ないとそもそも不可能であるという極めてアタリマエのことが、43歳のアルファブロガーと祀りたてられている小飼弾にして出来ないのが、ネット言論の崩壊を示している、ということだ。況んやそこらへんのTwitterだのブログだの、話にならない。

 実社会で立場の異なる人とのコミュニケーションを脂汗流しながら努力している社会人であれば当然の常識を、ネット住民は知らないことが問題だということを銘記すべきと考える。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年09月06日 20:54
 "反対理由"をちゃんと見つける努力をしないワン君たちが増えたことにも、いろんな"理由"があると思われるが、人の「心の中」を本当のところどうなっているのか分からない。そこで私なりに適当に想像してみるに、.泪襯ス主義のいんちき弁証法の悪影響が残っているせいで、取り敢えず"反対意見"を言いさえすれば何とかなる、とぼやーっと思い込んでいる、◆崋分の"本音"を素直に口に出すのがいい」という聴いたような台詞を極めて安易に理解しているせいで、よく考える前に("本音"を言っているつもりで)拒絶の叫び声を上げてしまう、人の話を聴いているとだんだん自信がなくなって反論しにくくなりそうなので、そうなる前に反応してしまう(だったら黙っとけ!)、(学校教育の悪しき結果として)単純に集中力がないので、人の言うことを注意して聴くこと自体が辛くなっている----と言った要因が複合的に作用しているのではないかと思われる。,筬△"議論"というものの本質に関する誤解に起因するので、まだ矯正が可能であるが、やい禄慣的に身に付いてしまった体質なので、そう簡単には治らない。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年09月06日 20:49
 誰かに「反論」したり、「批判」したりするつもりであれば、その相手の言うことをよく聴いて、矛盾や曖昧な点を捜し出さねばならない、と私なら思うのだが、何故か聴いてちゃんと理解する"前"に、我慢できないで、ちょっと聴いただけで「ワン、ワン」吠え出してしまうのが多い。ちょっと聴いただけなら、そもそも賛成か反対か基本態度さえ決められないはずなのだが、私が本書でこれまで例として取り上げてきたような人たちは一言二言見たり読んだりしただけで、あるいは、単純に話している態度とか声、あるいは外見"だけ"で、"反対"することに決めているようである。(中略)どんなに理性的に見える人間も、自分の価値観に関わるような一番肝心なことになると、直観的に態度を決めている(中略)ものなので、根拠なしにあらかじめ「賛否が決まってしまう」のはある意味で仕方が無いことだと思う。しかし、相手に対してはっきり分かる形で、"反対の意"を表明する時には、後から取ってつけたものでもいいから、それらしい"反対理由"を見つけてきて、合理的に論証しようと努力してみるべきだろう。そういう努力を通して、"批判"している相手に対して最低限の敬意を示すことで、コミュニケーションにおける「人間らしさ」を何とか保つことができるのである。(中略)そうした"批判"のための努力を省いたまま、いきなり「ワシは気に入らん」と叫び始められたら、その相手の方はバカだと思って完全に無視してしまうか、"論争"ではない"単なる喧嘩"に応じるしかない。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年09月06日 20:45
これに指摘されている事象と同じことが起きている。
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コメント欄にも、仲正昌樹教授が指摘した事象が起きていますね。内田先生の書いた文章の百ぽ手前の国語力の話をしているのだ。小飼弾氏の主張がいいとか悪いとかは、関心事の外である。
そもそも人の話を聴けない人の自己主張に何か意味があるのか疑問だがそこはスルーしよう。

再度引用(仲正教授怒らないでください)
なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論 [単行本] http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794966709

P226
なぜ話を聴けないのか?
 ここまでつらつらと述べてきたことを「ちゃんと読んでくれた読者」には、もう十分分かっていると思うが、現在様々の場面で"知的な議論"が噛み合わなくなり、いろんな「物語」が-----相互に共存するのではなく-----無秩序に乱立する様相を呈している"原因"は、比較的単純なところにある、と私は思っている。それは、人の話をよく聴いたり読んだりしないまま、適当に分かったつもりになって、特定のキーワードにだけパブロフの犬のように反応するお子様な人たちが増えているという身も蓋もない現実である。無論、「人の話を聴けなくなったのは何故か?」というところまで本気で掘り下げて考えて言えば、(中略)背景抜きに単純化して言えば、ともかく「人の話を聴かない」ということに集約されると思う。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年09月06日 20:43
ん?これ、大学教育の話に限定するものではないですね。
失礼しました。
でも、どの段階(年齢)でも、"教えて君"を作るようなことは、
言わないで欲しいと思うのです。
そんな教えて君姿勢を植え付けてしまうから、大学教育が崩壊
してしまうんだと私は思います。
Posted by shigerutyan at 2011年09月06日 16:53
>「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」
という媚びるような態度を強要するような態度はどうかと。

そんなことを教え子に要求するような人は、詐欺師なんじゃないの?
って小飼さんは言われているのでは?

私は教育者の末席を汚している者ですが、学生には、私を打ち負かすぐらいの勢いで来る、挑戦者を求む!と講義の最初で言ってます。
もちろん、それ以外の普通の質問もどんどん来て下さいとも言いますが。
私は、学生時代、普通に大学の教員に議論をふっかけていましたので、それが普通だと思っています。大半が負けて帰って来るのですが、極希に勝つことがあり、大体その先生とは仲良くなります。
それが大学教育の本質だと私は思っています。
Posted by shigerutyan at 2011年09月06日 16:45
弾さんは日本語の「学ぶ」という語の意味を知らないようですね。

たとえば「アインシュタインが相対性理論を学んだ」「ニュートンがニュートン力学を学んだ」「お釈迦様が仏教を学んだ」と言えるでしょうか。絶対に言えないですよね。「アインシュタインがここで相対性理論を学びました」と言ったら、「誰から」と必ず突込みが入ります。なぜでしょう。自分が作り出したものには師となる人がいないので、学ぶことができないのです。

「学ぶ」の語源は「まねぶ」「まねる」ですから、お手本を見て、師のやり方を見て、同じことをできるようになるのが「学ぶ」です。自転車を一人で乗れるようになったと言いますが、それは誰かが乗っているのを見て「まねた」のではないですか。ならば、その手本とした人が師になります。

論語でも「学びて思わざれば即ち罔し、思いて学ばざれば即ち殆し」と、師から学ぶ「学ぶ」と、一人で考える「思う」を対比しています。

「独学」という言葉がありますが、これも「一人で本を読んで学ぶ」という意味ですから、本あるいは本の著者が師ということになります。

「学ぶ」とは知識や技術の継承であり、必ず先人が存在します。もし、自分が新しいことを始めたのなら、それはすでに「学ぶ」の領域からはみ出しているのです。
Posted by hiro_753 at 2011年09月06日 00:09
 "反対理由"をちゃんと見つける努力をしないワン君たちが増えたことにも、いろんな"理由"があると思われるが、
人の「心の中」を本当のところどうなっているのか分からない。そこで私なりに適当に想像してみるに、.泪襯ス
主義のいんちき弁証法の悪影響が残っているせいで、取り敢えず"反対意見"を言いさえすれば何とかなる、とぼやーっと
思い込んでいる、◆崋分の"本音"を素直に口に出すのがいい」という聴いたような台詞を極めて安易に理解している
せいで、よく考える前に("本音"を言っているつもりで)拒絶の叫び声を上げてしまう、人の話を聴いているとだんだん
自信がなくなって反論しにくくなりそうなので、そうなる前に反応してしまう(だったら黙っとけ!)、(学校教育の悪しき
結果として)単純に集中力がないので、人の言うことを注意して聴くこと自体が辛くなっている----と言った要因が複合的
に作用しているのではないかと思われる。,筬△"議論"というものの本質に関する誤解に起因するので、まだ矯正が
可能であるが、やい禄慣的に身に付いてしまった体質なので、そう簡単には治らない。
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 思えば、ホリエもんにもこういうところが多々あった。どこかで聴いたことのある細切れの経済の知識を仕入れこんで、議論にならずに相手に吠えまくるワン君に成り下がってしまっていた。最近の朝まで生テレビ!等といった議論するテレビ番組も、大体このような無様な様を呈している。
 やはりネットは人の知性を劣化させることに繋がっているのではないかという深刻な問題が現代人の課題ではないか、と小飼弾氏のブログ記事を読んで、憂いてしまう。その他、香山リカ女史の「なぜ日本人は劣化したか」 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061498894 も、非常に示唆に富む本だ。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年09月04日 19:41
 しかし、相手に対してはっきり分かる形で、"反対の意"を表明する時には、後から取ってつけたものでもいいから、
それらしい"反対理由"を見つけてきて、合理的に論証しようと努力してみるべきだろう。そういう努力を通して、"批判"している相手に対して最低限の敬意を示すことで、コミュニケーションにおける「人間らしさ」を何とか保つことができるのである。(中略)そうした"批判"のための努力を省いたまま、いきなり「ワシは気に入らん」と叫び始められたら、その相手の方はバカだと思って完全に無視してしまうか、"論争"ではない"単なる喧嘩"に応じるしかない。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年09月04日 19:15
『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794966709
P226
なぜ話を聴けないのか?
 ここまでつらつらと述べてきたことを「ちゃんと読んでくれた読者」には、もう十分分かっていると思うが、
現在様々の場面で"知的な議論"が噛み合わなくなり、いろんな「物語」が-----相互に共存するのではなく-----
無秩序に乱立する様相を呈している"原因"は、比較的単純なところにある、と私は思っている。それは、人の
話をよく聴いたり読んだりしないまま、適当に分かったつもりになって、特定のキーワードにだけパブロフの犬のように反応するお子様な人たちが増えているという身も蓋もない現実である。無論、「人の話を聴けなくなったのは何故か?」というところまで本気で掘り下げて考えて言えば、(中略)背景抜きに単純化して言えば、ともかく「人の話を聴かない」ということに集約されると思う。
 誰かに「反論」したり、「批判」したりするつもりであれば、その相手の言うことをよく聴いて、矛盾や曖昧な点を捜し出さねばならない、と私なら思うのだが、何故か聴いてちゃんと理解する"前"に、我慢できないで、ちょっと聴いただけで「ワン、ワン」吠え出してしまうのが多い。ちょっと聴いただけなら、そもそも賛成か反対か基本態度さえ決められないはずなのだが、私が本書でこれまで例として取り上げてきたような人たちは一言二言見たり読んだりしただけで、あるいは、単純に話している態度とか声、あるいは外見"だけ"で、"反対"することに決めているようである。(中略)どんなに理性的に見える人間も、自分の価値観に関わるような一番肝心なことになると、直観的に態度を決めている(中略)ものなので、根拠なしにあらかじめ「賛否が決まってしまう」のはある意味で仕方が無いことだと思う。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年09月04日 19:14
ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって、「師」にしていいのです)。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでももちろん構いません。生きて暮らしていれば、至る所に師あり、ということになります。ただし、そのためには日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です。
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内田先生にとっての先生とは遠いフランスにいたレヴィナスであれ、合気道の多田先生という方であれ、またその時々傾倒している直作物の著作者である、というのは、とりあえず内田先生の本をフォローしている人は知っているはずです。
であれば、小飼氏の師はスティーブ・ジョブズであれ、Googleの創業者(名前忘れた)であれ、その他、小飼氏が気に入って取り上げる著作物の著者ではないのか。
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小飼氏は話を噛みあわせる努力をしていない。こういうものを議論とは言わない。
今あちこちのネット上ではこの「本人は反論しているつもりで実は反論になっていないバカの集まり」になっていると仲正昌樹氏なら言うだろう。
『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794966709
これに指摘されている事象と同じことが起きている。
Posted by http://blog.livedoor.jp/hahirogayuku-website/ at 2011年09月04日 18:28
詐欺師とは極端ですね。
リンク先では自分で考え学び取ることは大前提なのでは? 自己学習はするなといった記述は見あたらないのだけど。

都市部しか知らないけど自転車は保護者が教えてますよ。轢かれてから学習しても遅いでしょう。
自動車の場合でも教本か教本を書いた人が師でしょう。シートベルトを締めなくても、制限速度は守らなくても運転できるじゃないか、といった思想を独学で持って運転して欲しくないですね。
盗るな殺すなといった道徳観についても親や教師が教え込んだものでしかありませんよ。

何か別のことを言いたいがために無理な理屈を作り上げていませんか?
教育や学習と言うことに対して、何らかのコンプレックスをお持ちではないですか?
存在しない前提を勝手に創造して藁人形に剣を突き刺す大道芸をしてしまっていませんか?
独学でそれに気づくことができなければ、専門の師に依頼することもまた1つの方法です。
Posted by cc22c2c at 2011年09月04日 06:48
>誰にも教わらなくとも、誰も教え方を知らなくても、自転車に乗れるようになるように。

自転車に乗れるようになるためには、

・自転車を、「またがってペダルを足でこぐと速く走れる道具」だと理解していることが必要。

・そして、「楽しそう!私も乗れるようになりたい!!」と強く思うことが必要。

・さらに、「うーん、うまくいかない!どうやったら乗れるんだろう??」と、すでに乗っている人に聞いたり良く観察して乗り方を自分なりに理解することが必要。

ということは、先に自転車に乗れている人が身近にいなければ、最初の発明者以外は自転車には乗れないし、乗ろうともしない。

これが「師」なんではなかろうか。教わったり、教えたりする場面がなかったとしても。
Posted by cubeit at 2011年09月03日 17:59
前代未聞の事態に対し、師というべき師のいなかった孔子は、出発点を用意する以上のことはできなかった。その成果が「論語」。

すでに孔子の努力のおかげで学派が成立していて、孔子の出発点を頼りに思索をさらに遠くまで進めるのに成功したのが、孟子であり、荀子であり、韓非であり、荘周。

師を選ぶことも主体性を発揮することもどちらも大切。等しくとはいわないけれど。

特許だって、新発明のほとんどは、従来技術の部分的改良による漸進的進歩。

かくも優れた先人に学ぶことは重要。
Posted by h7bb6xg3 at 2011年09月03日 16:47
>>自分で、 自分を教 えたので ある。
学びの根 本は、そ こにある 、過去 も現在も
未来も。

自転車の例で何故そこまで学ぶ力について否定するのか理解に苦しむのですが…
貴方が言うようにもし、「自分で自分を教えた」のなら、教わった自分と教えた自分が存在するということですよね、つまり自分という師から自分は学びました、ということですね。あれ!師は存在していますね!
ところで私は、学びを経て出来るようになることの中には、具体的な師を必要として学べることと、具体的な師は必要とせず経験則的に学べることとがあると考えます。後者の場合でも具体的な師の存在は無くとも、経験と経験則を得るときに師は存在しています。だからどちらの場合にも師は存在しています。
以上が私の考えです。
是非ブログのほうでお返事をお待ちしてます。
Posted by kazuto23 at 2011年09月03日 11:32
僕は、人から教わったことを素直に聞けないところがあるので、このエントリーはすごく励みになった。
そんな自分はずっと学ぶこともできないし、成長することも無理なのかと思ったけれど、そんなことはないと思えるようになった。

完璧な師なんているはずがないし、師の言っていることの中にも、正しいこともあれば、間違っていることもある。それを見分けることが学びなんだと思う。
自分の言動には責任を持たなければならないし、自分の言動によって世の中の反応を見て、それでそれが正しければ、自分が学んだことを実感し、成長を感じる。最終的にはそうやって自分自身で歩いていかなければならない。

師というのは、自分自身の成長のためにいかに上手に利用するか、という存在なのだと思う。
Posted by shin1830 at 2011年09月03日 08:56
以前、西部邁が「最高の勉強方法は“独学”」と言っていた。教えてもらうというのは結局は「師の劣化コピー」を作るに過ぎない。禅の修行はお題はあるが解放はない。「百尺の竿頭一歩を進むれば十方殺土に禅心を現ず」などと言われどうだ!と言われてひたすら考える。
考えた答えが正しいかどうかも示されない。悟りだって自身の判断だ。達磨も一度もあったことのない仏陀の境地を考え抜いただけだ。答えに責任を持てるのは答えを出した本人だけ、ということを考えれば当然かもしれない。
Posted by 古川 賢太郎 at 2011年09月03日 08:13