2012年02月27日 02:00 [Edit]

文脈論、または文法におけるその欠如、または"I love you"を日本語に訳せない理由

英語に関する本を書くことになった。

どんな本かは出てからのお楽しみだが、本を書くということはそれ以上に本を読むことだということは本を書いたことのある人であればご存知かと思う。本を書いたことがない人でも先の文をs/本/文/gとしていただければ納得してくださるはずだ。

そんなわけで中学の教科書からESL(English as a second language)に関する論文までさまざまな文を読むうちに、特に文法のことが気になってさらにいろいろ読みはじめたら、あることに気が付いた。

英語日本語に関わらず、文法に関する本や記事に、文脈というものが、ほとんど登場しないのである。


文脈というものがいかに文法において軽視。いや無視されているかは、Wikipediaをざっと眺めるだけでも感じ取れる。「文脈」を日本語版Wikipediaで引くと、「コンテクスト」に転送される。こんな重要な言葉が「英語のまま」だなんて。その転送先のページは、iPad一画面に余裕で収まる量。それでは元の英語であればさぞ詳しく解説してあるのだろうと[他の言語]の[English]をクリックして見ても、日本語版とほとんど変わらない。

文法、あるいはGrammarに比べて、なんとそっけないことだろう。あたかも「文脈は文法ではスルーする」ということが、言語学者たちにとって世界共通の文脈であるかのように。

「文法はあくまで文を構築するための法則なのだから、文になっていないものまで扱いようがないではないか」という反論は言語学者ならぬ私にも思いつくが、しかし私は「それではまるで、ダークマターやダークエナジー抜きで宇宙論を語るようなものではないか」と光速で反駁してしまう。

文意(message) = 文脈(context) + 文章(text)

この程度は本によっては解説しているし、解説がなくとも「文にするまでもない」共通理解だとは思う。

私が知りたいのは、その少し先。

文脈に対する話者の態度が、文法にどう反映されるのか、ということだ。

「文法とは無関係」という答えをも含めて、この問いはもしかしてあまりなされてなかったのではないか?

この問いを発したとき、文法に関する実に多くの疑問点が解消したのだ。少なくとも私には解消したように感じられた。

私の答えは、それは大いに関係するというものだ。どころかこれこそ宇宙論におけるダーク(マター|エナジー)ではないかと手応えを得た。

文脈と文章の間には、言語を問わず以下の関係が成立している。

  1. 受け手と送り手の間の文脈共通度が大きくなるほど、文章は短くてよい
  2. ほとんどの文において、文章が文意に占める割合を文脈の方がはるかに上回る

このことは「ふつうの言葉」で「言うまでもな」く、数学者の言葉なら「自明」だと思われるが、一例だけ示そう。

世界一短い手紙」というものがある。

Q:
?
A:
!

文だけ見れば「ハァ?」であるが、「質問者と回答者が誰か」という文脈を与えられるだけで、我々も「ハッ!」と理解できる。そしてその文脈が変われば文意が全く変わってしまうことも。これがヴィクトル・ユーゴと編集者ではなく、産院から出て来た彼女に対する彼のmailとその彼女からの返信だとしたら解釈はどうなるか?

文脈というのはこれほどまでに文章を縮める力があり、そしてそのことは古今東西共通だというところまではここまでこの文章を読んでいただいた方とここまで文章を書いた私の間に成立した共通文脈ということで話を進める。

私の問いは、「文脈に対する話者の態度が、文法にどう反映されるのか」だった。なぜ「話者の態度」なのか?どこまでの文脈が送り手と受け手の間で成立しているか、100%完全にわからないからだ。100%完全にわかっていたら、この質問は成立しない。電脳言語の場合が、これに近い。例えばsayというのはperlにおける成文であり、それが何をするかは文脈によって決まるが、それがsay $_;と100%同じことをすること、あるいは{ local $\ = "\n"; print {select()} $_; }と100%同じことをすることに曖昧さは全くない。

しかし、「愛してる」は違う。"I love you."とはまるで違う。「わたしは」と「あなたを」が省略されているとは限らない。「私はperlを愛している」でも成立しうるし、それどころか文脈によっては愛しているのが私でなくったて成立する。「主語」は「省略されている」のではなく、「文脈に見いだす」のだ。

しかし、その肝心の文脈が、人と人と会話ではどこまで共有されているかは曖昧だ。このことは言語を問わない。だからこそ「態度」(attitude)が問題になる。曖昧な部分を、どうするか?

見てのとおり、英語の文法はそこを曖昧にしにくい。"love."一語は文とは見なされない。しかし英語といえども、主語や目的語を文脈に持たせることは実はできるしそれを我々は毎日のように目にしている。たとえばFacebookのLike!(いいね!)ボタン。主語はボタンを押す"I"以外ありえないし、目的語はそのボタンがある"this page"以外にありえない。だから「英語では主語は省略できない」というのは、英文法にとって本質的でも、英語そのものにとって実は本質的ではないのではないか?

対して日本語は、そこを曖昧にしやすいといえばしやすい。しかし曖昧にしないではっきりと「私はあなたを愛している」ということも少なくとも現代日本語では可能だ。

しかしなぜ英語では主語を「がんばって」省略せず、日本語では「がんばって」指定しないのか?

いや、なぜ英語では主語を省略するのが「無茶」で、日本語では主語を指定するのが「無茶」なのか?

答えは、「誰と話す機会が多いか」ということにあるのではなかろうか。もう少し具体的には、「赤の他人と話す機会がどれほどあるか」ということだ。英語に限らず lingua franca というのは、そうでない言葉よりも赤の他人と話す機会が多くなる。お互いに共有している文脈が少ないということだ。その場合、文脈になるべく依存しない文章の方が意が通じやすいし、そういう文例がたまって行けば、それが文法化するよう進化するのも自然のなりゆきだと言える。

これに対し、日本語というのは「身内」の間で使う機会が多い言葉だ。せっかく使える文脈があるのにそれを使わないのは言葉の無駄遣いだし、それどころか文脈に頼らないということは相手に頼らない、つまり相手を信じていないというメッセージさえ暗示しうる。「言うまでもない」ことを「言うこと」そのものが信頼を損ねる行為なのだ。

そう考えを推し進めると、役所の窓口一つとってもものの見え方が違ってくる。日本語では「次の方どうぞ」というところを、英語では"next!"の一言である。丁寧にはほとどおいが、失礼にもあたらない。しかし日本語でここを「次!」に省略することはおよそ不可能だろう。がんばっても「次の方」ぐらいで「次の人」でももう失礼の閾値を超えてしまいそうだ。

愛を信じ、言葉を疑う人々が話すのが日本語で、愛を疑い、言葉を信ずる人々が話すのが英語というのは言い過ぎだろうか?

日本語は愛を語るのに不向きな言語という意見が後を立たないが、それはむしろ日本人がいかに愛を信じているかの証ではないか。なにせ「それをいっちゃあおしめえ」なのだ。松任谷由実も歌っているではないか。「口に出してはだめよ」、と。

とはいえ学者がそれではやはり困る(特に私が:-)。もう少し文脈を考慮した文法論というのはないのだろうか。というわけで緩募する次第。

Dan the Nullingual


この記事へのトラックバックURL

この記事へのトラックバック
中学2年生の息子に「もう風呂入ったか?(早よ入れ)」と云うのを、最近英語への関心が強くなっている彼に合わせて "Have you taken a bath yet ?" と訊いたところ、 "I don't speak English very well." と返事が、、、 この文脈(context)の場合、本当は英語が理解できている
I don't speak English very well.? I can't speak English very well.?【物語り研究所「夢前案内人」】at 2012年03月29日 07:07
中学2年生の息子に「もう風呂入ったか?(早よ入れ)」と云うのを、最近英語への関心が強くなっている彼に合わせて "Have you taken a bath yet ?" と訊いたところ、 "I don't speak English very well." と返事が、、、 この文脈(context)の場合、本当は英語が理解できている
I don't speak English very well.? I can't speak English very well.?【物語り研究所「夢前案内人」】at 2012年03月29日 07:07
2月はリア充月間だったので久しぶりに更新。 仕事中に行き着いたblogにて、面白いエントリを読んだのでメモメモ 文脈論、または文法におけるその欠如、または"I love you"を日本語に訳せない理由 コン...
文脈とコンテキストの狭間の光学迷彩の壁【快適納戸生活】at 2012年03月21日 00:37
Dan Kogai(小飼 弾)氏の 文脈論、または文法におけるその欠如、または”I love you”を日本語に訳せない理由という記事に反論を。 文脈というものがいかに文法において軽視。いや無視されているかは、Wikipediaをざっと眺めるだけでも感じ取れる。 (中略) 文法、あるいはG
物理学者は摩擦をスルーすることが文脈か?【ばらこの日記】at 2012年02月28日 23:41
この記事へのコメント
たぶん勘違いされていると思います。

基本的に、
文脈(context)から影響を受けるのは意味(semantics)であって、
文法(syntax) はそれとは直接関係ないでしょう。
→ Perlでいえば scalar コンテキストでも配列コンテキストでも文法は変化しない。
syntaxのsemantics からの独立性は情報科学を勉強した方ならご存知のはず。

文脈と文法はどう相互作用する?という話を振っておきながら、
エントリのほとんどは意味に関する話になっていて、意味不明に
思われます。
Posted by collect10 at 2012年02月29日 12:01
「日本語というのは「身内」の間で使う機会が多い言葉だ。」

オトマトペの多様さも身内の言葉ならではでしょうね。
オトマトペは文化を共有するものだからこそ通じる言葉の最たるものでしょう。
ツルツルとスベスベの質感の違いを他言語の話者に説明するのは相当困難だと思われます。
Posted by bobbob1978 at 2012年02月27日 15:23
それレトリックって言いませんかね。
Posted by kosh_ian at 2012年02月27日 06:10