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前話で、和美の「先生から学びたい」発言をドラマのキーワードと仮定するなら、教師が「人間的に正しいか・正しくないか」ではなく、子供の側が「この人(教師)から学びたい」と思うかが、ドラマの着地点になるのではないかと書きました。そうなれば、真矢の発言・行為における納得の行かない部分・整合性の取れない問題についても、一応はクリアされ、一方で、教育委員会の視点からは「そこが問題なのだ」と、担任から外すの流れも違和感を感じません。
 
学校という“システム”においては、教育を受ける側(ここでは子供たち)が教師を認めるかどうかが、よい教師の尺度であるという話にしたら、いささか乱暴ではあるものの、ドラマとしての辻褄は合うように思うと書きました。ドラマとしての決着のさせ方は、概ね予想通りになったように思います。
 
ドラマのテーマと役者陣の演技に大きな感動、感銘を受けましたが、最後まで、そして見終えた今でも、引っ掛かりを解消することはできませんでした。それは、制作側のある種のあざとさと、「最後まで見てから」という制作手法に対して、必然性が感じられなかったからです。「テレビドラマ」におけるひとつの「作品」としては僕も絶賛派ですが、「テレビドラマ」がもつ「商品」としての側面から見ると、課題も残したと思います。
 
過労で倒れた真矢。並木は、真矢の部屋を見て、すべてを知る。自らが壁となって子供たちに立ちはだかり、それを乗り越えさせることで打たれ強い(挫折にめげない)子供たちを育てる。そんな自分の厳しいやり方に対する副作用もきちんと自覚しており、子供たちをフォローするがための教育学・心理学から医学に至るまでの履修、子供たちひとりひとりの子細な“観察日誌”。子供たちの教育のために全身全霊を傾けていたことに気づいた並木は、真矢のフォローに動くが、時はすでに遅く……。
 
並木を語り部にしての、いきなりの「タネ明かし」ともいえるオープニング。これはもう、これまでドラマ内では沈黙を守ってきた制作サイドが、あらかじめ「真矢=善」を定義したうえでの最終回展開を宣言しているに等しい見せ方に映ります。
 
ある意味、制作サイドからの逆襲です。これまで波紋を呼んだ数々の描写は、「これを言いたかった」「これを見せたかった」がためでしたと。僕には、そんなエクスキューズに見えました。なぜなら、この最終回には、ドラマ内に真矢を批判する人がひとりも存在していなかったからです。
 
上っ面に流されて「排除すべし!」とする教師たちはいましたが、裏側まで知ったうえで、それでも真矢のやり方や考え方、周囲とのコミュニケーションの拒絶ぶりなど異を唱える立場から、つまり、目指すところは同じでも、そのアプローチが真矢とは逆の立場から「教師とは?」「教育とは?」に対する議論を行なう(視聴者に提示する)登場人物は、残念ながらいませんでした。その役割を担うのが、天童先生のお父さんだったと思っていたのですが(あるいは、並木先生も)。
 
天童・父は、あれだけの登場で終わらせるのはもったいなかった。視聴者の視線を大いに引きつけたわけですし。何より、真矢に対する救いの神(真矢をフォローする立場)にも、真矢を蹴散らす最終兵器(真矢を辞めさせようとする立場)にもなりえる、絶好のポジションに位置する役柄だったのに。最終回に向けてドラマの展開を切り開くキーマンのひとりとして、必ずや関わってくると期待していたのですが。
 
しっかり生きるということは、「目を開いて見つめ、耳を澄まして聞き、全身できちんと感じ取ること」。好奇心をもって世の中のことを知り、自らの頭で考え、判断する。「今しかできないことをきちんとやる」「具体的な目標がなければ、勉強をしっかりやっておく」。真矢の信念はしっかり描かれたものの、感情は描かれずに終わりました。
 
「自分が素晴らしい教師とは思わないし、どんな教師が素晴らしいのかさえ、わからない」。ドラマの核となる部分を補強するはずの、真矢の信念が、どのように育まれたのかも(そして、真矢の行く末も)、最後まで描かれませんでした。なので、自ら決めたルールと異なる結果を適用したことでの「いじめ」同然の対応や、拒むことができたはずだ言いながらも、友だちへの裏切りやスパイ活動を強要するようなやり方などについては、手放しで同意することは、やはりできません。
 
ドラマ内での真矢のポジションを、「生徒の個を認めない独裁教師」から「社会の現実を見極めたうえで、ひとりで生きて行ける力をつけさせる素晴らしい教師」へと転換させましたが、それまでに問題となった矛盾、真矢の振る舞いと、その振る舞いの根底にある真矢の心の動きについては、「それは真矢自身がそう考えているから」と言わんばかりに、あいまいにされたままに終わりました。物語全体の構築とシナリオの構成の詰め不足の感が否めません。スポンサーの件が影響していたのか?(制作サイドの確信性を感じますが、視聴者のアプローチがスポンサーに向かったのは、想定外だったと思いますので)
 
いささかセリフ過多でしたが、最終回にふさわしい、真矢語録の数々でした。「教育は奇跡を生む」。これは、形は違いますが、「ドラゴン桜」の桜木も、北野武監督のお母さんも言っていました。生まれながらの貧富差や社会的な階層を超えることを可能にするのは、教育しかないと。「いい教師かどうかは、10年後か20年後に子供たちが決める」という落とし所のひとつは、前回を見て感じましたが、このラインをしったり軸として据えて構成すれば、妙な振れにもならなかったように思います。
 
「学力や貧富差などのさまざまな事情ゆえに困難な環境にある公立教育の場ほど、教師としてやりがいのある場はない」との真矢の言葉は、教師が「聖職者」であった頃の信念のようです(あるいは、無医村で治療を続ける医師のようでもあります)。真矢の内面が描かれずに終わったため、これも、メッセージとしての崇高さにとどまっています。私立偏重とも取れる発言の真意も不明です。事情が許せば、私立のほうが教育環境として優れているというメッセージなのでしょうか?
 
そんななかで、真矢が目覚めさせたのは、子供たちだけではなかったのは、ドラマとしての大きな収穫でした。並木先生曰く、真矢のようには出来ない(能力がない)自分たちの世代は、やる気と理想のある人たちがやりやすいように、防波堤となるべきではないかと(テレビドラマ版「踊る大捜査線」での上と現場の議論のようです。上は、現場がやりやすいようにするのが使命であると)。最後はあの教頭も、真矢の理解者になりました。ある意味、真矢にとっても救いとなる決着です。
 
卒業式に由介のおじいちゃん(おばあちゃん)が来なかったのは、母親が来ることを聞かされていたからなのでしょうね。着任し、由介の家庭環境を知って以来、ずっと探していたようですが、母親に対しても“真矢流”を徹したようです。その由介の母親ですが、見た目には母親というよりも、少し歳の開いた姉のようです。高校卒業してすぐに子供を産んで、育児を父親に押しつけて家出したような背景の設定なら、なるほどですが。
 
パソコン内の子供たちひとりひとりのデータを消去していくくだりは、卒業式に出席できない真矢の、自分のもとを巣立っていく子供たちへの卒業証書授与に見えました。ここで、真矢の頬を涙が流れるのを期待した視聴者も少なくなかったと思いますが、制作サイドは、そうはしませんでした。これは、うまい見せ方ですね。
 
自分たちの感謝の気持ちを、卒業制作の横に真矢を入れることで表現した子供たちのアイデアは、素晴らしいですね。映像としても効果的です。ただ、これこそが、真矢が言う、今しかできないことをしっかりやったことの、ひとつの成果だと思うのですが。それをあからさまに否定してきた真矢の描かれ方には、やはり筋が通りませんし、真矢のポリシーに則るなら、形骸化した学校行事としてのありように、それこそ“壁”となって立ちふさがるべきですが、それは、このドラマで描かれたアプローチとは異なるはずです。
 
「仰げば尊し」のくだりも、うまい見せ方ですね。子供たちが真矢に「仰げば尊し」を贈り、教室を出ようとした真矢の足が止まり、真矢の横顔のアップ。ボードの緑を背景にしたシンプルな美しい構図。視聴者に対して、一筋の涙が頬を伝わることを期待させながら、普段通りの真矢に戻って教室を出る。廊下を歩く足どり。そのシルエッは、心のなかでは子供たちの成長に対して涙している真矢とも、感情の乱れのない“サイボーグ教師”のような真矢とも、どちらとも取れる絵づくりです。
 
和美に自分の思いを伝えるシーンでの由介は、「電車男」の山田のような“キョドった”落ち着きのなさ。まずは型から? 天童先生の真矢もどきのルックスは、笑えますね。
 
ラストシーンでの、中学生になった和美の「アロハ」に応えるかのような、初めて見せる微笑み。その意味は、視聴者ひとりひとりの解釈を委ねて物語は閉じられました。物語の世界観を象徴するキャッチコピーのような「目覚めなさい」「イメージできる?」などのセリフとともに、永く視聴者の心に残るシーンになるでしょう。
 
マンガ「ドラゴン桜」が阿部寛の存在なしにはあそこまでのドラマ化はできなかったように、「女王の教室」も天海祐希の存在なしには成り立たなかったと思います(和美役の志田未来も同様。彼女は、学校ドラマでいえば、最初の「金八」での杉田かおるの存在感のようです)。
 
 
>> 連続ドラマ、夏クールを振り返って思うこと