2006年12月01日

オーディオコメンタリーラジオのおしらせ

 『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』DVD発売記念特別企画
 Night of ribbon 〜命知らずの精鋭たちによるオーディオコメンタリーラジオ
 番組ガイド


 [番組内容]
 DJとリスナーが同時に『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』DVDを観ながら、勝手にお気楽なオーディオコメンタリーをつけつつ皆で楽しくワイワイ観ようという実験的ネットラジオです。

 [日時]
 本日・12月2日(土)22:00放送開始。
 (1幕ディスク開始22:30ごろ、2幕ディスク開始24時15分ごろ。ともに予定)

 [しゃべる人]
 uni助 (リボンラボンバ + DATE la MAY)/ 言い出しっぺ担当
 黒鱒師 (なっち派宣言) / 合いの手&カレー担当
 追加メンバー決定。リボン深読み部メンバーのあの人です。
 
 [場所]
 Livedoorねとらじを使用します。
 チャット・フォームメールは「なっち派宣言のラジオ」を間借りします。
 チャットはこちら
 メールフォームはこちら
 番組への感想やツッコミ、普通のお便りなどいろいろお待ちしております。

 [DVDの同期について]
 「オーディオコメンタリーラジオ」という形態のため、DJ側とリスナー側のDVDをなるべく同期させる必要があります。そのために以下の諸事項をふまえてお聴きください。

 ・22時放送開始、22時30分ごろコメンタリー開始です。DVDの同期はスタートが大事なので、なるべく22時30分までに繋いでおくと安心です。

 ・1幕・2幕ともにオリジナルキャスト版を使用します。

 ・『リボンの騎士 ザ・ミュージカルDVD』DISC 1(第1幕ディスク)をセットし、メニュー画面に表示された「オリジナルキャスト版」の「ALLPLAY」ボタンにカーソルを合わせておいてください。DVDをセットしてオートで表示されるメニューではデフォルトでカーソルが合います。

 ・DVDプレイヤーのスクリーンセイバー機能をオンにしている場合は、何も操作しないまま一定時間放置しておくとスクリーンセイバーが作動して、再生のタイミングが遅れてしまうことがあるのでご注意ください。

 ・22時30分ごろ、『10秒前〜5・4・3・2・1・スタート!』という1秒刻みのカウントダウンを行いますので、『スタート』の合図と同時に「決定」ボタンを押してください。

 以上でほぼズレることなくDVDの同期を取れます。24時すぎに予定しているDISC 2(第2幕ディスク)開始の際も、同様の手順でスタートのタイミングを合わせてください。


datelamay at 00:19|Permalinkclip!その他 

2006年11月27日

永遠の一日前

最後のエントリから随分と時間が経ってしまいました。

このブログを辞めたり停止したつもりはなかったし、『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』をめぐる世界で書きたいこともまだまだあるのだけれど、いざキーボードを前にすると自分の思いを文字という道具で出来る限り精密に具体化させる作業に真正面から取り掛かれずにいたまま。

それがどうやら『あの世界にどうせ潜るなら、その深い海の底にいったい何が眠っているのかを探し当てなければいけない』という過ぎた力みから来る鈍りだと分かるまでに、随分と時間がかかってしまいました。そもそも「リボン深読み部」という遊びから始まったこのブログに、いつからそんな身の丈以上の力みが加わったのかは、今もってよく分からないけれど。

気がつけば明日28日は『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』DVDの店頭入荷日。あの奇跡のような真夏の1ヵ月の、最後の1日を切り取った記録が世に出る日。

連日うだるように暑かった8月からやがて3ヵ月が経ち、季節は晩秋から初冬へと差しかかろうとしているけれど、自分の心持ちは幾度目かの観劇を明日に控え、薄紅色をしたコマ劇場のチケットを眺めていた夏の日々と、とてもよく似ている。どんな筋書きなのか、どこに誰の見せ場があるのか、どこで笑えてどこで泣けるのか、舞台で起きることはほとんど全部知っている。全部知っているのだけれど、一刻も早く観たい。こんな種類の期待感は、それこそ今年の8月以来だ。


至極当たり前のことだけれど、生の舞台を観劇するということは、文字通り一期一会だ。同じキャストで同じ脚本の芝居を2回演じても、まったく同じ舞台になることは有り得ない。それに加えて観客は舞台のどこを観ようと自由だ。ひとつ例を挙げるなら、たとえばクライマックスの『葬送』。絶命したサファイア、我が子の亡骸を抱く王妃、寄り添うことしか出来ないフランツ、「愛する愛」を歌い上げるヘケート、自らの愛が間違いだったと気付く大臣、魂の復活を願う人々…観客の数だけ独自の視点があり、視点の数だけそれぞれの物語が生まれる。そして、それぞれの物語の数だけ、作品は重厚さを増していく。1回の公演の1シーンだけでこれだけ多くの物語が紡がれるのだから、全40公演でいったいどれくらいの数の『リボンの騎士』が生まれていったのか。その広がりにただ圧倒される。それだけの広がりを生み出していると感じたからこそ、この作品は多くのファンの心を掴んだのだと思う。

この点、DVD(映像作品)はメディアの性格上、舞台を観る視点はひとつに固定される。つまり観客(=視聴者)は全員が同じシーンで同じ演者を同じ角度から観ることになる。これは舞台で感じた「視点の数だけの物語の広がり」からは確かに反しているし、それは「迫力不足」という単語に置き換わって、舞台をDVD化した作品にほぼ必ずついて回る問題でもある。また、いつでも好きなときに繰り返して観られるDVDの映像は、生で観劇した「自分だけの物語」の記憶をいとも簡単に塗り変えてしまうとも言われる。

でも、自分はこれらのことをまったく気にしていない。気にしていないというか、いろいろなデメリットを差し引いてみても、やはり楽しみの方がはるかに勝っている。それも5回コールド勝ちくらいの大差で。DVDになっても『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』の魅力は損なわれないと思っていたし、先日ハロー!プロジェクト公式サイトにアップされた30秒間のDVDプロモーション動画を観てそれは確信に変わった。

視点の固定は、言葉を返してちょっと美化すれば「一期一会の限定的永遠化」に違いない。そもそもは演じるそばから消えていく性質の「演劇」を、視点を限定することと引き換えに「記録」する。記録された一期一会の芝居は半永久的に残っていく。そして観劇した人、観劇出来なかった人、このミュージカルの存在を後追いで知った人、これからハロー!プロジェクトを好きになる未来のファン…これからは様々な人がこの「永遠化された一期一会」を通して『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』に触れていく。理論的には世の中にDVDディスクとDVDプレイヤーが存在する限り、半永久的に。言わば公演期間中に感じた「観客の視点の数だけ生まれた物語」は横の広がり、DVDの「限定的に永遠化された一期一会」は縦への広がりと言えないだろうか。

自分はこのDVDを何度も観るだろう。生で観劇する機会は7回あったけれど、時間の経過と共に詳細な記憶が薄れていくシーンもある。そういう場面からきっと真っ先に生観劇の記憶からDVDに収録された映像に上書きされていき、何十年か後には記憶の中の『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』の光景はすべてDVDの映像にすっかり置き変わってしまっているかもしれない。でも、それでもいいと思う。2006年8月、黒く塗られた外壁にピンクのリボンをかけたあの劇場で起きたことには変わりない。自分がそこでもらったものはなくならない。

だからこそ今夜は、観劇前夜によく似た高揚感を感じる。あの真夏の1ヵ月の最後の1日を切り取って永遠化する一日前。明日観ることになる『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』DVDの映像は、限りなく永遠に近い1公演だということ。


たしか、暑い日だった。


---------------------------------------------------------

告知です。

12月2日(土)深夜に『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』DVDオーディオコメンタリーラジオを企画しています。DJ、リスナー同時にDVDを観ながら、勝手にお気楽なオーディオコメンタリーをつけてしまおうという実験的ネットラジオ。放送開始時間などの詳細は追ってご紹介させていただきます。

詳しくはこちら



datelamay at 23:59|Permalinkclip!その他 

2006年09月17日

青と赤 《サファイア》

 いかにも雅やかな王族の暮らしを象徴するような3拍子のリズムで統一されている宮殿の奥庭のシーン。今しがた摘んできたばかりの花にまつわる花言葉を問われたサファイアは、青い花には『哀しみ、それとも絶望』、赤い花には『情熱』と答える。単語の持つ意味の強さに反して、サファイアの口調は無邪気で軽やかで、やはり現実感が薄い。生まれながらにして高貴な身分にある少女の、知識はあってもいまだ体験したことのない強烈な感情に対する、無垢で純粋な憧れがそこに現れていると言ったほうが近いだろうか。そして彼女はやがて、自ら口にした「青と赤の花言葉」を、その身をもって知ることになる。

 もちろんここでいう「青(い花)」と「赤(い花)」は、直接的に男と女を象徴している。サファイア王子の白い衣装には青の差し色、亜麻色の髪の乙女が身にまとうのは真っ赤なドレス。天上界で短髪の天使(三好)が青いリボンを、長髪の天使(岡田)が赤いリボンを持っていることも、それぞれの色が男女の象徴であると言えるだろう。

 サファイアは復活祭で出会ったフランツに対し、女として運命的な「情熱」を知る。囚われの身の彼を脱出させるため、亜麻色の髪の乙女に扮してカンテラの灯りだけを頼りに牢獄へ降りていく姿、突然の投げキスを受け戸惑うさま、そして西の門から去っていくフランツを見送りながら、思いを抱きしめるように歌う『あなたに会いたい』。真紅のドレス姿もあいまって、まさにサファイアが自らの身中に燃える情熱を知り初めた瞬間のように見える。そして、それをぐっと心のうちに収めるように、カンテラを吹き消す仕草のいじらしさ。

 物語後半、母の命と引き換えにして女の魂をヘケートに差し出し、男になってしまったとき。もう決してフランツと結ばれることはなくなったと悟ったとき、サファイアの「情熱」は砕けて「絶望」へと変わる。狂ったような高笑い、『男と女にたいして違いはない。どちらも死ぬときは死ぬのだ!』との叫び。母に別れを告げ、父の仇を討つためにいまや大臣派で固められているであろう城へ短剣ひとつで乗り込む。コメディリリーフのリューとリジィエが場の空気を和らげているけれど、男となったサファイアは自己破壊的な衝動に支配されている。燃え上がった情熱のぶんだけ、絶望の淵は暗く深い。


 首尾よく城へと潜り込んだサファイアはみたびフランツと会い、どちらかが息絶えるまでの決闘の末に自らフランツの剣に飛び込み絶命する。ここから先は勝手な推測だけれど、サファイアの死は肉体の死というより魂の死ではなかっただろうか。

 サファイアとフランツが剣を交えているあいだ、傍らではヘケートが憧れ続けてきた『愛される愛』を美しく歌う。受け身の愛を美しく。この決闘はサファイアとフランツの戦いでもあり、同時にサファイアとヘケートの戦いでもある。まっすぐに攻撃を繰り出すフランツとそれを受け止めるサファイア。女の魂を手に入れた愛されたいヘケートと、男の魂しか残されていなくとも愛したいサファイア。ミュージカルナンバー『魔女の呟き』最後の一節は、ヘケートとサファイアふたりがユニゾンで歌う。まるでふたりの願いが、真正面からぶつかりあうように。

 『私の願いは叶えられる!』

 ヘケートの願いとはもちろん、人間になり愛されることだ。そしてサファイアの願いとは、フランツへの愛を全うすることに違いない。しかしサファイアはもう、女としてフランツと結ばれることはない。ならば残された道は「フランツの剣に飛び込み死ぬこと」ただひとつだ。かつて街の広場で正体を強く訊ねたり、剣の試合で真剣に戦おうとしないサファイアを批難したように、フランツは不器用なほどまっすぐな人間だ。彼が「どちらかが息絶えるまで」と言い出せば、きっとそれが実現しない限り決闘は終わらない。言い換えれば、サファイアが命を投げ出せば、フランツは助かる。そしてサファイアも己の「実に馬鹿げた人生」にピリオドが打てる。『…では、そのように!』と叫び剣を構える凛々しさがそのすべてを現しているように見える。

 誤解を恐れずに言えば、サファイアの男の魂はずっと「死にたがって」いたのだ。『男になった姿を、母上には見せたくない』、『母上、お元気で』。今生の別れの言葉に他ならない。サファイアは男になった瞬間からずっと、情熱が砕けた絶望ゆえに自らの存在を消したがっていた。命を捨てるにふさわしい場所として大臣と刺し違えることを望んでシルバーランド城へ舞い戻り、そこで自分にとって最もふさわしい死に場所…フランツのために命を投げ出すことを見つけた。男の魂はそこで燃え尽きることを強く望んだ。サファイアは瀕死の状態で自らが亜麻色の髪の乙女だと告げる。死を目の前にしたからこそ、フランツに自らの正体を明かせたのだ。

 いまわの際でサファイアは振り絞るように歌う。『私はしあわせ…』。フランツを救うことで愛を全うし(=情熱、赤い花、女)、自ら切っ先に飛び込み命を投げ出す(=絶望、青い花、男)。それはかつてサファイアが王宮の奥庭で口にした花言葉そのものだ。この物語は魂の物語であると同時に、何も知らない少女だったサファイアが情熱と絶望を知り、最後にはふたつを融合させた『愛する愛』を得て、大人となる物語でもあるのだろう。

datelamay at 23:19|Permalinkclip!サファイア 

2006年09月14日

ご紹介と謝辞

 サイドバーのプロフィール欄にも書いてありますが、リボンラボンバはもともと「リボン深読み部」という仲間内の密やかな遊びから始まっています。そしてこのほど、深読み部メンバーの『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』テキストがアップされましたので、ここで改めてご紹介させていただきます。

 武闘 / リボンの騎士 ザ・ミュージカル
 なっち派宣言 / リボンの騎士深読み部活動報告

 リボンラボンバで書くテキストの中には、彼らの解釈に大きく影響を受けたもの、またお互いの意見交換から形成された考えをふまえた上で展開を進めていくものもあります。そもそも僕の単なる思い付きのひと言に彼らが賛同してくれなければ、リボンラボンバを始めることもなかったかも知れません。この機会にぜひご一読いただければと思います。


 また、リボンラボンバを取り上げてくださった皆様。

 十時課
 身すぎ世すぎ。
 「と」にも書くにモ。
 狛江のつんつるてん
 cakeの日記
 (敬称略)

 どうもありがとうございました。
 まだ書きたいことは残っていますので、これからもゆっくりじっくりやっていこうと思っています。

datelamay at 22:49|Permalinkclip!その他 

2006年09月10日

憎しみには、許しを 《サファイア》

 サファイアが唯一王女の姿で登場する、宮殿の奥庭。そこで流れる曲と歌はほぼすべて3拍子で統一されている(*1)。一緒にブーケを作る母娘の幸福そうな会話はもとより、王妃の『いつの日か気が狂い本当のことを叫んでしまいそう』との嘆き、王の『大臣が権力を握れば必ず国は乱れる』という苦悩まで。メヌエットやワルツに代表されるその優雅なリズムは王宮に暮らす者たちの雅やかな雰囲気を表現すると同時に、どこか雲の上を歩いているような現実感の希薄さを思わせる。『強さの中に優しさをこめるのです』『そうすればどんなときにも耐えていけるでしょう』という母の教えもまたしかり。結局サファイアはリボンの騎士に扮したときも、戴冠して王になったときも、強さ(力)だけが先行して優しさを見せることはなかった。そして、ヘケートに女の魂を渡して男となった哀しみの深さに耐えられず、生きていくことに絶望した。

 いっぽう、同じように母が娘を諭す場面でも、サファイアが王位を剥奪され、投獄されたシーンのミュージカルナンバー『許しあい助けあい』は4拍子で歌われる。それはこの母娘が王族という「雲の上の人」から、地に足をつけて生きる「ただの人間」になったことを表現しているように思う。ピエールの言うように、理想ばかり並べていても生き残れない厳しい現実の中を行くひとりの人間に。父の死を乗り越え、これから先はひたすら強く生きていかねばならないという決意が滲んでいるようにも感じられるシーンだ。

 ただ、ここで感動的に歌われる『憎しみを忘れ許しを与えてこそ』『誰かを憎いと思ったらその憎しみを忘れなさい』『どんなに苦しくても どんなに悲しくても 許しあい助けあい生きていく』という4拍子での母の教えと娘の返事もまた、実はサファイアの心には本当の意味で届いていない。サファイアは最後までずっと、心のどこかで大臣を憎み続けている。母の優しさと牢番たちの正しさに触れていっときは心深くに抑えこむものの、ヘケートに女の魂を奪われ男になったことへの絶望でふたたび湧き上がった憎しみは爆発し、サファイアは無謀にも短剣ひとつで城へ舞い戻る。「父の仇」の名分のもとに大臣を殺し、自らの中にある憎しみの炎を…そしておそらくは自分の存在をも消すために。

 母がピエールに語った『自分のために人の命を奪わない』という信条を破ることが『生きる資格を失う』(=死ぬ)ことに直結するのは、サファイアもよく知っているはずだ。つまり父の仇を討つ(=大臣を殺す)ことは『憎しみには許しを』という母の教えに背くだけではなく、『どんなに苦しくても生きていく』という母への誓いさえも破ってしまうことになる。それでも、絶望に総身を支配されたサファイアは行く。

 ラストシーンでサファイアは父の仇・大臣に許しを与え、その命を救うのだけれど、それは自身が語ったように『私もまた失った命を返してもらった』からであって、自発的に母の教えに従ったためではない。結局サファイアは自らが死の暗闇に落ちヘケートに魂を返してもらうまで、命の大切さを知り、人を許す強さと優しさを持つことができなかった。そう、文字通り「死ななければ」分からなかったのだ。そこに脚本・演出を務めた木村信司氏の諦念めいたメッセージのようなものが見え隠れする気がするのだけれど、それは穿ちすぎというものだろうか。

 しかしもちろん、最終的には「憎しみには許しを」の心を得て、実践することができたサファイアは強いし、また幸福であることに変わりはない。『命尽きる日まで、わたしは女です』という言葉はまた、『命尽きるまで「憎しみには許しを」の心は捨てない』という決意でもあるはずだから。


 (*1) 王子の姿になったサファイアの登場テーマのみ4拍子。

datelamay at 01:20|Permalinkclip!サファイア 

2006年09月02日

黒衣の花嫁 《魔女ヘケート》

 国によって違いはあるらしいけれど、一般に結婚指輪は左手薬指に嵌めることが多い。その理由は、古代ギリシャで左手薬指が直接心臓に繋がっていると考えられていたからだという。また俗に「運命の人」は、生まれたときからお互いの左手小指どうしが赤い糸で結ばれているともいわれる。

 第2幕第4場『嵐』でようやく「ふたつの魂を持つ者」サファイアと対峙した「魂を持たざる者」ヘケートは、嫉妬心を剥き出しにしながらサファイアの左手に執着する。

 『ともに生きて ともに滅びる』と歌うシーン、ヘケートはサファイアの左手をかたく握り締めながら、まともに動けない彼女を強引に引きずって歩んでいく。あれこそヘケートがこれまで経験してきた「ともに生きる」愛の形だろう。人間が結婚式で誓う「ともに歩む」形とは程遠く、桁外れに永い魔女の生命の歩みに人間の身体は到底耐えられない。引きずられるようについていくのが精一杯で、やがて早すぎる寿命が訪れヘケートを残して息絶えてしまう。

 そして彼女の独白を締めくくる『人間の人生が欲しい!』。ヘケートはサファイアの左手を両方の手のひらでしっかりと愛しそうに握り締めて、美しく歌い上げる。これまで歩んできた道を振り返る彼女がいま包み込んでいる左手はもはやサファイアのものではなく、自分の前を駆け足で通り過ぎていった男たちのものだ。遠目からの観劇だったのと黒いグローブのせいで手元がよく見えなかったのだけれど、指と指をしっかり絡めてさえいたかもしれない。心臓へと直結している、結婚指輪を嵌めるべき左手薬指を。運命の赤い糸が結わかれた左手の小指を。


 情報番組『2時ピタッ!』の特集で藤本美貴本人が冗談めかして語っていたけれど、ヘケートの衣装はまさに「黒いウェディングドレス」だ。襟元まで肌を覆いながら上品に肩を出した上半身、ロンググローブに透き通るようなヴェールとティアラ。そのすべてが黒というただ一点を除けば、一般的な魔女の服よりも花嫁衣裳というほうがしっくり来る。永遠の命を持ったばかりに愛した男を失い続けたヘケートにこれ以上ふさわしい装いはない。

 ヘケートの左胸には鮮やかな赤い紐があしらわれている。ちょうど心臓の上あたりから出たそれは彼女の胸で幾度か交差しあうも、その端はついにひとつに結ばれることなく、別々に離れてだらりと垂れ下がっている。あれはやはりヘケート自身の「運命の赤い糸」なのだろう。これまで決して結ばれることのなかった運命の赤い糸。ヘケートが魂を求めて歩み歌い、赤い糸の先が所在無さげに揺れるたび、はかない愛に憧れ続けた彼女のこれまでの生き様が垣間見える。

 自分が観劇したなかで一度だけ、こんなことがあった。ミュージカルナンバー『葬送』。ヘケートがサファイアに女の魂を返すクライマックスで、魂の光球を高く掲げた細い腕に一本、赤い紐が引っ掛かっていた。それはまるで、かつてヘケートが愛した者たちの意思の発現のようにも見える、素敵な偶然の演出だった。永遠の孤独の果てで「愛されるより、愛する愛。それが愛」と悟った黒衣の花嫁に、運命の赤い糸がはじめて絡みついた。そう思うと涙が出そうにもなる。


 やがて照明が落ち、舞台には神が現れる。その前に一瞬、点いたままの大階段の灯りを背に受けて全員の影が浮かぶ。魂を差し出したヘケートのシルエットは、まさに花嫁そのものだった。彼女を包む表層、純白か闇黒かは些細な違いでしかないのかもしれない。ヘケートのかたち、その本質はきっとずっと変わらない。だからこそヘケートという存在に強く惹きつけられる。

datelamay at 12:50|Permalinkclip!魔女ヘケート 

2006年08月31日

リボン打ち上げラジオ

告知です。

来る土曜日、ネットラジオ『なっち派宣言のラジオ@リボンの騎士語っちゃおうよSP』を行います。『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』の打ち上げを勝手にやりつつ、ミュージカルの思い出をあれこれお気軽に語る予定です。お時間があればぜひ。

また、番組中では『リボンの騎士 de ラブメイト』と題して、ミュージカル中に見つけた「自分だけの恋INGな部分」をそれぞれ披露し自慢しあうコーナーを行います。そこで、皆様の『リボンの騎士・de・ラブメイト』も募集します。「これは自分だけしか見つけていないだろう」という細かすぎる一瞬の動きから、「あー、分かる分かる」とみんなと共有できるシーンまで、どんなものでも結構です。皆様がミュージカルで見つけた恋INGな部分をどしどし教えてください。

『なっち派宣言のラジオ@リボンの騎士語っちゃおうよSP』

日時:9月2日(土)23時ごろ開始
場所:livedoor ネットラジオ / ねとらじ
DJ:黒鱒師 (なっち派宣言
   uni助 (リボンラボンバ
   コイツ (Paradox Diary


詳細や「ラブメイト」投稿先などはこちらのラジオ告知ページへどうぞ。


※「勝手に打ち上げ」というテイのため、番組冒頭に乾杯を行う予定ですので、それぞれ飲み物を用意してお聴きください。

datelamay at 23:15|Permalinkclip!その他 

2006年08月28日

The show must go on 《大臣》

 『いや。芝居こそ現実なのだ。』

 『ハムレット』を手本にしたサファイア暗殺計画を携えて、大臣はナイロンに語る。彼が描く芝居は、サファイアが剣の試合で死に、晴れて息子が王になるまでの物語。現実の人間たちを役者に、剣の試合を舞台に見立て、小道具の毒を用意した大臣は、その芝居の脚本・演出家。一度幕が上がってしまえば、自分の書いた筋書き通り芝居が進むのを、舞台の外で見守る存在。

 しかし彼の物語は、予期せぬ方向へと進んでいく。サファイアを剣の試合に引っ張り出すことには成功したものの、毒で死んだのはサファイアではなく王。それはつまり王位継承順位第1位のサファイアが即位し、同時に息子が王になる可能性が無くなることを意味する。息子を王にするための計画が一転、予期すらしなかった最悪のシナリオへと流れていく。

 王が絶命する瞬間、場の中でもっとも動揺しているのは誰あろう大臣だ。目をこれ以上ないほど大きく見開き、玉座から崩れ落ちる後姿をまさに驚愕といった表情で見つめ、次に玉座に刺さった剣を凝視する。現実を受け入れられないと言ったように。「ひとみ」という実名どおりの、緊迫感ある吉澤の目の演技。次の瞬間、意を決したように、玉座の毒剣を引き抜いてフランツを指す。『この剣の先を見ろ…毒が塗ってあったのだ』

 The show must go on. 一度幕の上がった芝居は、何があっても最後まで演じきらねばならない。大臣の仕組んだ芝居もまた、毒で人殺しが遂行された。死んだ人間が筋書きとは違うが、物語は動き出した。幕が上がったら、もう後戻りは出来ない。この芝居を最後まで続けなければならない。大臣はフランツに叫ぶ。『あなたは王子を殺し、国を乱してシルバーランドに攻め込もうとしたのだ!』

 この言葉はとても興味深い。今この場で重要なことは「国王が絶命したこと」であって、「王子を殺そうとしたこと」ではない。国王の死は王子の暗殺を上回る混乱を生み出す。暗殺者(フランツ)の予定していたより大きな被害が出たのだ。政治の中枢に近い大臣ならなおさら、暗殺者に国王殺しの罪を問い詰めるのが当然なのに、口にするのは殺人未遂のことばかりだ。この場の大臣は王の死をひと言も触れようとしない。

 王が死んでからフランツを牢獄に送るまでの大臣の言葉はすべて、脚本・演出家である彼が事前に用意していた「王子を殺された大臣の台詞」をそのまま口にしただけなのだろう。舞台で事前に用意されていた台詞を言うのは俳優のやることだ。つまり王が死んだ瞬間に、大臣は舞台の外から芝居を見守る演出・脚本家から、舞台の中心…演じる側へと引きずり出された。それも「自らの書いた筋書きが変わってしまい、結末に苦悩する脚本家」の役どころを演じる主演俳優だ。暗転直前、スポットライトに浮かぶ大臣の意を決した表情といったら。吉澤の名演技のひとつだ。

 こうして舞台の中心に主役として立つことになった大臣はひとり苦悩する。息子ではなくサファイアが即位する最悪の結末をどうすれば書き直せるか、脚本家として煩悶する。彼の胸には王を殺したという罪の意識はまるで無い。それもそのはず、彼の物語において国王は大した存在ではないから。端役の生き死にを多くの脚本家は頓着しない。かつてナイロンに『芝居こそ現実』と語った彼の現実は、今や完全に芝居へと変わっている。赤い照明に照らされ『悪魔に魂を打っても悔いはない!』と叫ぶ彼の足元に長く伸びた影は、まさに悪魔そのものの形をしている。そんな彼の前に現れたデウス・エクス・マキナ(*1)こそが魔女ヘケート。取り返しのつかないほどに絡み合った筋立てを一気に解決し、息子を王位に即けるまさに超自然的存在。ご丁寧にも舞台上方に機械じかけで現れる。第一幕のエンディングこそが、大臣の描いていた物語のラストシーン。唯一違うのは、玉座に魔女が寄り添っていることだけ。それも大臣にとって大した問題ではない。

 息子が魔女に魅入られた王座に就き、彼の物語に一応の幕が降りたあとも、大臣は芝居と同義の現実を夢見ごこちで生き続ける。ゴールドランドが侵攻してきても息子の結婚を優先させてしまうのはまさにその証拠。彼の見ている「現実」は彼が描いた「芝居」の他にはない。もっとも結婚とは世継ぎの誕生も直接的に意味するわけで、彼の血とともに権力が永遠に続いていくという新たな物語を書き始めているのかもしれない。国がなくなれば王位もなにもないのだが、おそらく彼の物語にはシルバーランドの滅亡という設定は存在しない(ナイロンが絶望したのはこの「自分の書いた物語を生きる大臣」なのだろう。だから大臣が正気に戻ったのちはどこまでも付き従う)。

 そんな彼の「芝居」は突然の幕切れを迎える。サファイアが命を落としたそのとき、息子の肩を抱こうとした彼の腕は強く拒絶される。全員がサファイアの復活を願い、ヘケートが愛の意味を悟るそのときに、大臣はひとり訳が分からないといったふうに首を振る。彼の書いた芝居は最後の最後で「主演俳優」に拒否されたのだ。そこで大臣は自分の愛と物語が間違っていたことに気付く。「芝居の中の現実」を生きてきた彼が現実に帰ってきた瞬間。そして何も知らないのに自分をかばって命を投げ出そうとした幼い息子、サファイア暗殺計画に引き込んでしまったのに、まだ付き従ってくれるナイロン。ふたつの確かな愛を感じ、大臣は王妃に深く頭を垂れる。ヘケートは愛を知らない人だったけれど、大臣は愛を間違えた人だった。そんな人々にもすべて赦しと愛が与えられる、それがこの物語の魅力でもあると思う。最後に神が壮大に歌う『寂しくて悲しくて誰も信じられない人に「一人じゃない、仲間がいるんだ。さあ涙を拭いて一緒に歩こう」と励まし続けた人』の歌詞が響く。強く重く、しっかりと。


(*1) deus ex machina
1.(ギリシャ劇で)劇の入り組んだ物語を超自然的介入で解決する神。機械仕掛けで舞台上方に現れる。
2.筋書き上の困難を解決するための不自然で無理な結末。

datelamay at 01:27|Permalinkclip!大臣 

2006年08月27日

夏の終わり

 本日27日をもって『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』は終演。
 初日の公演を観た後、仲間と「この夏はすごいものになる」と語り合ったことが現実となって、この1ヵ月は本当にあっという間に過ぎ去った。これだけ去り行くのが惜しい夏も久しぶりだ。

 今日をもって、モーニング娘。と美勇伝はそれぞれの活動へと戻っていく。でも、この夏にコマ劇場で起きた1ヵ月間は、いつまで経っても色褪せないものとして残るだろう。まさに「すごいものが動いている、すごい時間の真っ只中」にあった「すごい夏」なのだから。

 一度観ただけでその本気度は伝わってきた。演じる側の準備や気合いはもちろんのこと、演出・脚本の木村信司氏を始めとする制作陣のこの舞台にかける情熱や熱量といったものをたっぷりと感じさせられた。

 モーニング娘。と美勇伝、客演の安倍・松浦・辻。彼女らは今できる最大のことをしてくれた。そしておそらく公演期間中で「今できる最大値」は跳ね上がったはずだ。観劇を重ねるたびに、舞台上の彼女たちは目に見えて進化(そして深化)していた。役に独自の色をつけ、確実に自分の物にしていった。初日とは比べ物にならない声量を手に入れたメンバーもいた。この人たちは本当に底が知れない。

 高橋愛。主役にして難役を見事に演じ切った。王宮の美姫から女装した男まで、まさに迫真の演技力。激情とやさしさの両極端を持つサファイア、彼女の演技と歌で何度泣かされたか知れない。高橋の声にはきっとそういう力がある。ふたつの魂を入れられ地上に送られるときの、不安に包まれた表情が印象的だった。

 石川梨華。真っ直ぐな王子フランツを真っ直ぐに演じた。彼女の成長曲線にはいつも驚かされる。フットサルでも舞台でも、急激なカーブを描いて彼女は成長していく。初日は苦労していた『戦いのとき』を完全にモノにした姿は、ただただ格好よかった。やはりこの舞台のフランツは彼女だと思う。

 藤本美貴。圧倒的なその存在感。場を制圧する歌声。ひたすらに愛を欲しがる魔女を、その語られないバックボーンを含めて表現しきった。普段はあまり感情を見せることのない魔女が、サファイアと対峙したときに唯一見せる剥き出しの激しい嫉妬心と言ったら。僕は今や完全に彼女を心を奪われた。

 そして、本公演を最後にモーニング娘。を離れる小川麻琴。彼女のナイロンは実に素晴らしかった。善と悪、少年と大人、コメディとシリアス、いろんなものの中間に立って走り回っていた。それはまさにこの5年間、彼女がモーニング娘。の中で担ってきた役割そのもののようだった。モーニング娘。は通常通りの活動に戻るが、マコトだけはしばらくナイロンのままでイメージが残るかもしれない。それもいいと思う。

 ここでは語り尽くせないほど、それぞれのメンバーに対して思いがある。それだけの素晴らしい舞台だったと言うこと。すごい夏だったということ。「ぜひ再演を!」との声もあるけれど、千秋楽の今日はひとまず、「すごいものを、本当にどうもありがとう」。モーニング娘。に、美勇伝に、安倍なつみに、松浦亜弥に、辻希美に、箙かおるさんに、マルシアさんに、木村信司氏をはじめとするスタッフの皆様に。

 僕はこの作品をずっと愛し続けていくと思います。
 だから舞台が終わっても「リボンラボンバ」は続けますよ。

datelamay at 23:58|Permalinkclip!その他 

2006年08月26日

偶然か必然か 《魔女ヘケート》

 『リボンの騎士』劇中、大臣がナイロンに語る『ハムレット』。シェイクスピアの四大悲劇に数えられるこの作品中で、暗殺に用いる毒の殺傷能力を増すために「魔女ヘカテーの呪い」なるものが加えられる。ヘカテー(Hecate)、英語読みすればヘケート。

 大臣がサファイア暗殺計画の下敷きにするクライマックスの「剣の試合に見せかけ人殺しが仕組まれる」シーンでも、その切っ先に塗られた毒にはおそらく魔女ヘカテーの呪いがかかっている(そのように読める言い回しがある)。では、『ハムレット』を引用する『リボンの騎士』では?

 先日のテキスト『問いかけと返事』で僕はこんな文を書いた。

 彼(シルバーランド国王)は滅多に実現しない王子どうしの剣の試合で、陰謀の毒が塗られた剣がアクシデントで弾け飛び、その切っ先が偶然に頬を掠めたことで毒に犯され、死に至った。幾重にも偶然が重なった悲劇的末路はまさに「生きる資格がなくなった」者にふさわしい最期であるようにも見て取れる。

 『ハムレット』における魔女ヘカテーは毒と死の魔女。もし、『リボンの騎士』の魔女ヘケートもそうだとしたら? 事実、彼女は大臣に「自白の毒」とも言える小瓶を渡した。それを口にした王妃は狂乱のうちにサファイアの秘密を告白した。ヘケートに何らかの毒(薬)の力があるのは疑いない。強い毒が塗られた剣がフランツの手元から弾かれ、王の頬をかすめその命を奪う…信じられないような偶然が重なった一連の不運がすべて、意図されたものだとしたら? 本当に人殺しを仕組んだのは「剣に毒を塗った人間」ではなく、「毒を司る者」だとしたら?

 これまでの永い生命の中で、ヘケートは誰一人として殺していないと自分は考えている。その理由はのちのち書くけれど、ひとつ挙げれば天上界であれだけ優しかった“藤本”が、魔女になったとは言え人を殺すはずはないと思うから。しかし、『ハムレット』を下敷きにした陰謀の毒剣の試合、同じ“Hecate”を名前に持つ魔女、数多くの偶然が重なったシルバーランド国王の死。偶然がいくつ重なれば必然と呼ぶかはそれぞれの価値観だけれど、もしかして…という疑念が頭を掠めても不思議ではない。フランツの手から弾かれた毒剣が王めがけて一直線に飛んだのは、偶然か必然か。

 第2幕第4場『嵐』のシーン、初めてサファイアの眼前に姿を現したヘケートのひと言が、やけに空恐ろしく響く。

 『ようやくここまで来たのね。』

 どこから始まっての『ようやく』なのだろう。

 思い違いならいいけれど。


 (参考)『ハムレット』(野島秀勝 訳・岩波文庫) 

datelamay at 00:44|Permalinkclip!魔女ヘケート