2015年02月26日

『あるところに、ぶなしめじくん』ビーネ!

下関に来て二週間が過ぎた。
広い街ではないので、中心部はぐるっと一周したと言っていいと思う。
せっかくなので、夜毎おいしいものを探して、いくらか誰かと一緒に来たいなと思えるお店も見つけた。
すでに愛着が湧いたこの地で、久しぶりに演劇を見た。

岡山でも広島でも演劇は見ていないと思うので、大阪に住んでいた頃以来の観劇だった。
学生時代ぶりに、と思うのだけど、確かだろうか。
忘れているだけなら本当に申し訳ない。
そもそも、最後に見たのって、ヨーロッパ企画の「火星の倉庫」あたりではないか。
もしくは、K.K.P.の「TRIUMPH」なのかもしれない。
どちらも前の前の彼女と見たんだと思う。

前の前の彼女ね、とぼくは回想する。


さて、下関でこのたび見たのは
『あるところに、ぶなしめじくん』という作品。




タイトルは少しすべってはいまいか。
しかし、そこはまったく問題ではない。

ビーネ!という団体の立ち上げ公演、と言っても、所属している役者はいないようなので、NODAMAPとか本谷有希子的なものなのかなと思ったりしたが、
どうやら北九州の飛ぶ劇場という劇団から派生した別ユニットのようなものらしい。

作・演出のなかがわゆかりさんの処女作。

タイトルだけでは想像が難しいかもしれないが、ぶなしめじくんを中心とした思春期の中学生と短期契約の若い先生の交流の物語だ。

先生といっても、授業をするわけではない。
ラーニングルームという自習室みたいな教室の監視員的な業務のようだ。
ぶなしめじくんもそうだが登校するものの教室へは行けない生徒のためのスペースなんだと思われる。
ぼくには馴染まないが、今はこのような教室があって当然の時代なのだろうか。

そして、フライヤーに書かれた内容から推測するに、
なかがわさんはこの先生と同じような仕事をされたのではないかと思う。
半年ほど中学生と関わる仕事をしたとしか書かれていないけど、おそらくは。
このときの体験をもとに、作品をつくりたいと思ったというようなことが書かれていた。

会場は、体育館のようなつくりで、舞台はない。幕もない。袖もない。
客席も箱馬(というのか)で段差をつけて誂えたものだった。
舞台美術も、教卓として使われている演台とイス5脚のみ。
両脇に4脚ずつ舞台袖の役割を果たすイスが並んでいる。
あとは、ステージの範囲をわかりやすくするための意味があるのか、変形の白いシートが床に敷かれているだけだった。
シンプルなスタイルは準備に時間もお金もかからないのでとてもいい。
あと、世界の移動も制約がない。
今回の場合、夢の世界と行き来する場面が何度かあったが、それがしっかりした教室のセットがあると制限されてしまうので、役者の表現力は問われるが、ラーメンズスタイルはとても理想的だ。

ストーリーについてももう書いていいだろう。
ぶなしめじくんはある時を境に学校に来られなくなってしまった。
小学生の頃、大人びた態度で担任の先生をいじってクラスの人気者になったぶなしめじくんだったが、
担任の先生が変わって相手にされなくなると、クラス内でも浮いた存在となってしまう。
先生が言ったことは、
そんな大人びた態度とっても君はつまらない、子どもは子どもらしくしなさいということ。
子どもらしさという個人の主観的な基準を押しつけるというパワハラだったことは間違いない。
たまたま風邪で学校を休んで以来、学校に行けなくなる。
あとは、出席日数の関係で保健室登校するぶなしめじくんとその周囲の人物、短期的な臨時採用の先生の交流を描いたのだった。ときどきファンタジーもまざっていたが。

伝えたい事があるとなかがわゆかりさんは言った。

ぶなしめじくんは、大人びた態度で、まわりの学生たちをガキだ子どもだと罵る。
ただ、その態度がすごく子どもじみている、と大人は感じてしまう。
あいつら中二病だから、イタいから。おれはガキじゃないからそんなことしないし。
というイタさ。激痛だ。

これはぼくにも覚えがある。
今でもそういうところがあるのは問題だが、逆を好むところがあることは間違いない。
やけにクールぶっているところがあるし、流れに乗ることをよしとしない。
そうやってまわりの人たちを傷つけてきたりもしたんだと思う。

そして、この反省している姿を見て「らしくない」とか思われてしまうんではないかとびくびくしてしまう。
結局、人の目を気にしすぎているんだろう。
気にしてないように飄々と生きている風を装って、我が道を行く自分を演じているのだ。
きっと僕のことをちっとも見てもいない誰かにも。

ぶなしめじくんがどうにかなるのかわからないが、きっとどうにかなったんだと思う。
最後にはすこしばかり友人もできた。ハッピーエンドよりのヒューマンドラマだったんだろう。
なんか踏み出すことへの抵抗とかみたいなもの、変わるということへの恐れってあるけど、
その先にあるものが大切だし、何もなくたって踏み出したこと自体が得られたものだったりするんだよね。今になって思うと。という物語だったにちがいない。
そして、これはおれの物語だ。
という、結局また自意識過剰な物言いでひさしぶりのブログの幕を閉じますね。

どうもお久しぶりです。
(大半は、観劇後すぐに書いたのだけど、それからもう一週間が経ち、下関に来て3週間となってしまいました。)

2014年09月14日

『すべてがちょっとずつ優しい世界 』西島大介

いきなりだけど、
西島大介さんご本人とお話しする機会があったので、本当の思いを伝えた。
「二度と読みたくないと思いました」
それでも西島さんは、
でも読んでくれたんですね
とか、
(台詞で)厳しいこと言ってますもんね
と優しい反応だった。

そして、同じ世界感でかかれた作品集にサインをいただいた。




それ以降、とても大好きな漫画家であり、音楽家だ。
何より、チョッくん(渋谷直角)と声が似ている時点で、とても親近感が湧いた。

最近はふとしたとき、手にとって読みかえしている。
物語の中に救いを探している。
こう書くと、自分にとっての救いを求めているようにもとれるが
この漫画に対してはそうではなく、登場人物にとっての救いである。

ぼくはやるせない話がとても苦手だ。
救われない話がきらいだ。
「リリィ・シュシュのすべて」という映画を見たことがあるだろうか。
とてもやるせない話なのだ。
とにかくやるせないことしか憶えていないのだけど、二度と見たくないと思って、実際に見ていない。

「すべてがちょっとずつ優しい世界」も初めて読んだとき、
優しくてかわいい絵柄だから、タイトルが優しい世界だから、油断していたこともあったのかもしれないが、
後半に痛烈な批評性を詰め込んだ作品になっていて、苦しくなった。

実際に西島さんと話をしてみて、
この作品が生まれたのは、当然のことであるなと今は感じている。

西島さんは、現在、広島在住です。
(広島にいらっしゃることを誇らしく思っています。)
拡大家族三世帯で広島の街に暮らしています。
もともとは東京(吉祥寺)で暮らしていたそうですが、
東日本大震災を機に広島に活動の場を移したのだそうです。
なんとなくいやだなぁと思いながら、東京で活動することが違うと思ったというようなことをおっしゃっていました。

このエピソードを紹介したことからもわかるように、
すべてがちょっとずつ…は原発事故についての寓話で、
そのことはこの話を読んだ誰もが読みとれると思います。

嫌いな台詞としてぼくは「あんたが間違ったんだ」という博士の村長へ向けた言葉をあげました。
書くだけで悲しい気持ちになります。

その後、
この本を読んだことがある方と話をする機会があったので、同じように率直に、二度と読みたくないという話をしたら、驚いていた。
救いはあるという風に思っていたそうだ。

確かに、この話、終わり方は少し回復の兆しのようなものを感じさせる。

西島さんもDJまほうつかいとして出演したNow and hereというイベントで、広島のバンドのら犬がビューティフルという歌を歌った。
その途中で、広島の復興の象徴として、キョウチクトウという花が咲いたというエピソードが紹介された。
何十年も草木が生えないと言われていたその地に美しい花が咲いた。

くらやみ村ではひかりの木を植えて以来オーロラがなくなってしまっていた。
住人が次々といなくなってしまった村で、年に一度の祭りをささやかに開催しようとしたその日にオーロラが再び空に輝くのだからこれは救いなのかもしれない。
いや、たしかに救いだろう。
いま、まだ、ぼくには救いが足りていないように感じている。
だから、繰り返し読んで、救いを見つけたいと思う。

くらやみ村のあるべき姿について、
広島の(戦後の)復興、そして、福島の復興について、
いろいろ知らなければ、何もできないということだと思う。




そのキッカケを与えてくれた西島さんが広島にいるということは、大変ありがたいことで、
最近は運よくいい出会いがある。
もっと勉強しなくてはいけない。



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2014年08月30日

愛と誠3@味園ユニバース

8月23日日曜日
とんでもないイベントに参加した。
正直なところ、そこいらで乱発されている”夏フェス”よりお祭り感の高いメンツで、
これをことばにすればあれだ、多幸感。
このイベントに行かせてくれた、そして生んでくれた親に感謝。

つい、親への感謝を口にしてしまった。
それほどまでに溢れる多幸感でした。

さて、写真で振り返りましょう。





私はこの大阪遠征をするにあたって、イベントだけのためにするのはもったいないので、カレーの旅にすることにした。

松屋町の方にニドミというカレー屋を目指して本町から歩いたら開いてなかった。
定休日というやつだ。

仕方なく、第二候補の谷口カレーを目指して谷町筋を南におりていった。
住所的にはあっているんだけど、そこには谷口カレーではなく、ピンポン食堂があった。

その独特な雰囲気に飲まれて、私はその店に入った。
どうやら谷口カレーは、このピンポン食堂の定休日に間借りする形でオープンするお店らしい。
私は、そこでビール小瓶と定食おかずのみをたのんだ。
生春巻きと付け合せのジャガイモとかのワンプレートだった。
付け合せのジャガイモがとても美味しかった。
お店のお姉さんと少し話をした。
途中、移転はしているがもうすぐ始めて10年らしい。
見た目が若いので、そんなにやっていることに驚いたら、20歳から始めて10年だった。

偶然にも、りかちゃんという東京のイラストレーターの作品展示中で、なんというか、チャーミングなイラストでたのしい気持ちになる作品だった。

ところで、カレー屋さんのチョイスについては、ただ有名なカレー屋さんを選んでいるわけではない。
MAS.というところとコラボして店限定色のカレーライスキャップを販売しているところから選んだ。
難波までの距離と配色、距離の段階で中津のSOMAは断念。



定休日だったニドミ、ピンポン食堂谷口カレー(キャップは買った)とまわり、ボタに辿りついて、カレーにありつけたわけです。
ボタはお知らせはしているけど、まだ入荷前なんですと、キャップ買えないところだったんですが、広島から来たんです、、と店長がかぶっているサンプルをミニカレー分の値引きで譲り受けたのだった。(あつかましいな、、)





定食をおかずのみ、カレーをミニで抑えた私は、もう一つのテーマ「じねん」へ足を進めた。
サンマと名物化しているうなぎバター、その他もろもろを食べた。
寿司を食べるというのはかなり無条件で人を幸せにさせるものだなと思う。
寿司食いたい。





そして、難波の街へ。
ビックカメラのところの信号久しぶりに渡った。
ミナミで遊んでなかったわけじゃないけど、こんなディープな世界がすぐそばにあったなんて知らなかった。
いちいちある流木はなんだろう。

そして、DJのかける曲がいちいちよくて踊りつかれてしまうんじゃないかと思いながら、
ステージ左側でまった。

セッティングされている楽器からして、ユアソンなんだな、と思っていたので、
ダータカ、シライシ側に陣取った。

太鼓とかあるし、ブガルー超特急やると思っていたが、やらなかった。
ユアソンが第3期とか、第4期とかそのあたりに突入したという噂は聞いていたが、
最新アルバムOUTをしっかり聞けてないことに後悔した。
それでも、楽しく踊っていられた。
「知らない曲でもテキトーに踊っといたらええから」
という精神は超大事なのだ。

そしてエビスビーツ。
般若心経ラップが聞いてみたいただそれだけでアミダのアナログ盤とiTunesで買ったゆれるくらいしか聞いていない。
あと、YouTubeでいい時間は聞きまくっているくらいだ。
とおもったら、全部やってくれた。
ほんとのところ、ゆれるは田我流のほうがすきだ。

三番手、トーフビーツ。
ceroを見にきたのだけど、実は一番盛り上がったんじゃなかろうか。
というのも、ceroは新曲中心のセットでかっこいいとは打ちひしがれつつも、乗りきれない心情があった。
それ以外に、知らない曲に対するフォローがあったし、前で本人が一番踊ってるし、パラパラやってるし、真似したくなるよね。という感じ。
現時点のアンセムを押さえつつ、メジャーでのデビューアルバム「ファーストアルバム」の紹介も忘れない。
ユアソンで言った「知らない曲でもテキトーに踊っといたらええから」
は実はこのときのトーフビーツのセリフである。
発売日は10月6日だっけ?

そして、おれのトリceroへ
あれ、高城くん、なんかいつもと違う。。というのが感想。
新曲をヒップホップっぽいと評価している人がいたが、それとも少し違うような気がする。
とにかく物語の好きなバンドなんだなと思った。
演劇チックなバンドだなぁ、と改めて感じた。
でも、おれ、昔の優しそうな高城くんがすき。
とかいいつつ、もっと長いことceroを見たい。
もっと大河ドラマばりに長い、ワンマンのceroを見たい。


















そして本当のトリ、neco眠るの写真がないのは、最終新幹線の関係で、その場を立ち去らねばならなかったからなのです。
もし、全部見れたら、なにかをさとって輪廻から解脱できていたかもしれません。
まぁいいんですけど。

インスタグラムに行けば、載ってけいない写真、動画ありますので、
当日の興奮をもう少し思い出したり、少し追体験できたりすると思います。

取り急ぎ、以上です。


2014年08月10日

『徘徊タクシー』 坂口恭平

徘徊タクシーを探しにいっても見つからないという人が続出しているが、私は難なく買えた。
買いにいったとき、前日在庫7冊が見つからず、もしやと思ったが、もう一度検索してわざわざレシートを打ち出して、しっかり探したら、見逃していただけで、在庫7冊ともあった。
もっとがんばろう広島。




買ってはいたが寝かしていた徘徊タクシーを2時間程度でさくさくと読みすすめた。
さくさくというのは、実は少し苦手なところもあって、入り込めなかったというのも理由の一つ。
突然始まる妄想シーンが、坂口恭平のお家芸なんだろうとは思うんだけど、そこがいかんせん受け入れられず、現実と夢の線をひきたがる脳が働いてしまって冷静になるというか、覚めてしまうというか。

話としてはハリウッド的などんでん返しがあるわけではないけど、少しドラマチックなショートストーリーという感じだった。

ぼくは、認知症の人物に生で触れた事がないわけではないんだけど、それは家族ではなかったので、真剣に相手をしていなかったから少し感じ方が違うのかもしれない。

最も深く関わった人は今は施設に入ってるんではないかと思う。
民生委員の方に協力いただいたり、市のケースワーカーという方や、後見人の弁護士などともやりとりしながら、なんとかその方がうまく生きていけるように導いたつもりです。
完全に仕事をはみ出していましたが。

その人は東大出身の名門の家の出だと言っていました。
お金はある。2000万入っている。けど、通帳がない、印鑑がない、
あいつが、あの女がとったんや、鉄板焼き屋の女。
その鉄板焼き屋に民生委員が訪ねると、ツケがあったようでした。
お金が入ると懐中電灯を買います。家の電気が止められているからです。
説明して一緒に電気代を払いにいきました。
ビデオテープを渡され、暗号云々という話をされた事もあります。

認知症にもいろいろな症状があるんだと思います。

私が出会った認知症、もしくはそれとおぼしき人は少ないですが、ひとりは先ほどの男性で過去の実積を誇示してくること、被害妄想的になることが症状だったように思います。これまでできていた事が急にできなくなったりもしたんだと思います。
他の人は、激情型というかときどき、近隣の方に怒鳴り散らしたりしていました。服を着替えなくなって、服の表裏、靴の左右を履違えたまま徘徊していました。
よく高島屋に花を買いにいき、その帰り、頻繁に家の鍵をなくしていました。正確にはなくしたと思い込んでいるだけでしたが。
歩きながら排泄物を垂れ流していました。
ときどき私に化粧はちゃんとできているか尋ねました。
彼女は鼻水をたらしていましたが、きちんとできていますよと答えました。
ヘビースモーカーで、近づくと排泄とタバコと体臭とがまざった異臭がしました。
火事がこわかったのでたばこは家ではなく指定の場所で吸うように言いましたが、おそらく家の中でもたばこは吸い続けていたものと思います。
この方についても民生委員とやりとりしながら対応しました。
ほかにも閉じこもってしまって連絡が着かない方もいました。
その方もやはり電気代が払えず、その度一緒に払いに行きました。
引き落としになっているけど、指定口座にお金が入っていないのです。
閉じこもる方が一番不安でした。生存の確認ができないので。
近所のコンビニに最近買い物に来たかと民生委員と一緒に聞き取りに行ったりもしました。

その程度の経験しかありません。
認知症についていろいろな人がいるのだろうと思うけど、徘徊タクシーがやろうとしている事がうまくいくかについては否定的になってしまいます。
見ず知らずの人の車であることは少し避けたい事のように思います。家族が同乗するなら別ですが。

物語には認知症の方が二人出てきます。
曾祖母のトキヲさんと偶然が縁となり結びついた京子さん。
トキヲさんの徘徊につきあったことで、主人公の恭平は徘徊タクシーという事業を思いつきます。
認知症の老人はわれわれが見ている現実とは異なる、記憶の中にある別の現実を求めてさまよっているのではないか。
トキヲさんが目的地について、ヤマグチと言った事がきっかけです。山口県には以前住んでいたことがあるということが、後に判明してこの着想に至ります。

そもそも、確認しないといけないのはわれわれって誰なんだというところです。

人間は焦点が合っているところしか見えていない、そしてそれ以外の見えている部分は何かといえば、記憶なんだということがストーリーの割と早い段階で主人公によって述べられます。
松明で洞窟の壁画を見ているようなものというような表現があったと思いますが、言い得て妙であり、
暗闇の壁一面に描かれた絵をスポットライトで照らしていき、例え一通りすべての面に光が当たったとしてもその場にいる人全員が同じ絵を描けるとは思えません。
世界はそのように曖昧に構成されているということだと思います。

ぼくの大学時代の授業か、または当時の彼女の授業のプリントを見てぼんやり憶えていることかそれを勝手に解釈したものだと思うんだけど、コミュニケーションをとるとき、AがBに「△」ということ伝えるとき、100%伝えることは不可能で、さらに言えば、例え同じものをみていてもそれが同じ認識ではないというようなことを習ったんじゃないかなと思います。
簡単に言えば僕にとっての青は僕にとっての青だし、あなたにとっての青はあなたにとっての青だ。
僕とあなたの見える世界がネガポジ逆転している世界だとしても、黒と白の知覚が名付けられる段階で逆転していれば、実際に見えている世界が逆転していたとしても会話は成立する。
だから一生その感覚の差に気付く事はできないし、埋められない。そもそも差が存在するのかも誰もわからない。

「ロンバケ」が僕の普段感じていた思いを脚本にしてくれたことがあって、自分だけではなかったんだと安心した事がありました。
「足って、人差し指を触ってるのに、中指触ってる感覚がある」というたわいもない、どうでもいい会話なのだけど、この感覚みんなわかるだろうか。
中指触ってる感覚といっているけど、人差し指なんだから、それを人差し指触っている感覚と知覚するように記憶すればいいのだけど、何度試しても、人差し指なのに中指って感じするんだよね。
これは、言葉になるまで何となく思っていたことだけど、ドラマで初めてその差が埋まった気がした。
キムタクと山口智子とオレの感覚が。

そんな、中指か人差し指かという次元ではないかもしれないけど、ほとんどの世界が記憶をもとに構成されているなら、それは個人レベルで確実に世界はバラバラだということ。
だからこそ、認知症の老人に限った話ではなく、それぞれの人物にそれぞれの現実が存在する。
健常者だと思っているわれわれは、ある種、固定されたレイヤーで、模範的な基準に即して考えているが、そのたがが外されてしまえば違う次元の現実を簡単に口にできるようになる。

そういう事なんだろうと思う。

京子さんとM31だか32だかの目的地に辿り着く話にはそれほどしっくり来ていないし、予定調和的なストーリーで面白みを感じなかったんだけど、
この現実の認識とその個人差(健常者は同一と考えられているが)についての提案は非常に興味深く、徘徊タクシーというのはその回答の一つだ。
しかもかなり突飛な、実現しにくい回答だ。
ただし、事業ではなく、家族が、坂口恭平がトキヲさんにやったように、この話をヒントにできればと思う。
そして小説の上でもこの事業は認可されなかったが、何らかのべつの回答に辿り着けるといいなと思っている。

ゆくゆくは家族もボケるかもしれない。
そのときまでに、なにかいいアイデアがあるといいし、実際に何らかの事業となっていればいい。

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2014年06月29日

『ディスコミュニケーション』植芝理一

キルラキルの二部エンディングテーマである「新世界交響曲」(さよポニ)の前奏がとても好きでPVを時々見ていて、そのとき検索でたまたまひっかかった「恋のオーケストラ」がいい曲だったのでその曲を主題歌としている「謎の彼女X」を動画サイトで一気にみたりした。


OVAの番外編に収録されていた夏祭りのストーリー中に登場した狐のお面の二人、松笛くんと戸川のやりとりが異常に印象的だった。

「ねえ戸川の涙ってどんな味がするのかな、涙飲ませてくんない。」
「、、、(涙がこぼれる)あ、ほら、いいよ、松笛くん。」

この完成された二人のキャラクターをたった一話分の脇役とするにはもったいないし、戸川の声が林原めぐみだし、何か別の深い背景の元ネタがあるキャラクターではないかと推測されたので「松笛 戸川」で検索すると作者のデビュー作「ディスコミュニケーション」の登場人物であることがわかった。しかも2012年から2013年にかけて新装版が発売されているという。
なんとなく名作の予感がした。

このような紆余曲折を経て辿り着いた「ディスコミュニケーション」を丸善で一日一冊買って帰った。
新装版はとても分厚く、単行本3冊分くらいあって、一冊千円する。
読むのも一苦労だ。




「謎の彼女X」はほんとうに好きな人の唾液をなめれば、相手の感情や怪我や体温、心拍など身体状況までも伝わるというテーマで描かれた漫画(アニメしか見たことはないが)で、唾液がコミュニケーションのツールになっている。

ディスコミュニケーションは、コミュニケーションをdisという接頭語で打ち消している言葉なので、コミュニケーション不全とか、コミュニケーションも訳せば相互不理解とかになる。

ディスコミュニケーションという漫画は、謎の彼女Xにも登場したやりとりで幕を開ける。

涙の味を知りたいから飲ませてほしい。
と、彼氏は彼女にお願いし、彼女は変なお願いだと思いながら彼のために涙を流す。
変わりものの彼氏とその全てを受け入れる彼女。
彼女のルックスは学級委員長風のメガネの女の子だから尚更おかしい。
涙を飲みたいだけではなく、色々なお願いが松笛くんからされる。
戸川いわく、でもエッチなお願いはされない。
ぼくからすれば、涙を飲みたいなんてすごくエッチだし、襟足を剃りたいとか、心臓の音を聞きたいとかもやらしいと思うんだけど。

戸川は、ある日突然松笛くんのことが好きになった。
あまり学校にも来ない、風変わりな物言いの松笛くんを苦手と言っていたにもかかわらず、教室に忘れ物を取りにいったときに窓の外を眺めていた松笛くんを見て突然に恋に落ちた。

「どうして私は松笛くんを好きになったんだろう」

この謎を解きたいというのが戸川が松笛くんのお願いに付き合う理由だ。

戸川はなぜ松笛くんを好きになったのか、自分でもわからない。
ただ好きという事実だけはわかる。

松笛くんはどうだろうか。
飄々とした態度からは気持ちが読み取れないから不安になる。

なぜ、このひとを好きになったのか、ということを十分に説明できるほど、感情を整理できないし、ましてや相手に伝えることなどできやしない。
できるほど明確な理由があるならば、それは打算的な好意なのではないかと疑ってしまう。
なぜこのひとは自分を好きになったのか、ということもおんなじだ。

誰かを好きということはその事実以外は互いに理解出来ないし、伝えようがない。
つまりディスコミュニケーションなのだ。

ぼくはそのディスコミュニケーションを埋める必要はないと思うし、
ぼんやりとした、けれど確実な気持ちであればそれだけでよいと考えるひとである。

ストーリーは四章からなり、プロローグからバトルものにいたる冥界編、ギャグ要素強めの学園編、最もディスコミらしい内宇宙編、夢使いへと繋がる精霊編と分かれている。

キャラクターは薄いのだけど、猥雑で情報過多な背景が遊びがあって、何度読んでも発見があって楽しめるタイプのマンガで、すこし松本大洋のマンガを、たぶん青い春とかピンポンを彷彿とさせる。
好きなマンガは何か、と聞かれてすぐに浮かぶマンガはないが、
好きになりたいマンガであるし、どうして好きかというのはよくわからない。
だから、何度も読みたい、手元に残しておきたいマンガだ。
少し好きなマンガについて考えてみたいし、好きということについてかんがえてみたい。



 あのね、松笛くん
 私は松笛くんの謎を解くまでずーっと松笛くんの注文を受けていくからね
 どういうわけか私は松笛くんが好きになっちゃったんだからさ
 松笛くんの謎を解くことは私自身の謎を解くことでもあるの
 私はね、そう思うのよ


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