2007年01月04日

ネットが世論形成の場所の中心になっていると考えるならば、マスコミや政治の言葉の送り先は新聞を読んでいるあるいはテレビを見ているあるいはどこかの国や政治に関心のある人というわけではない。むしろ国内のネットの言説にむかってマスコミや政治は言葉をなげかけてコミュニケーションを形成している。民主主義では、と断る必要はないけれどネットの意見や動きが重大な関心事のひとつになるのは当たり前のことではある。ネットの意見が国民の意見を代表するというわけではないけれどその一部を構成してはいる。そしてこのネットの動きに対して政治やマスコミが応答することはおそらく避けられないのだろう。無視してしまえば国民の一部ではあるが意見を無視することに等しいからだ。政治、マスコミはあらゆる意見を尊重し言説を構成する機能を役割を担っている。この政治やマスコミの言説構成機能のまえでネットのあの、ある意見に批判的な意見が集中するという現象、「まつり」現象はどのようなものとして現れているのかは想像できるかもしれない。「祭り」現象をどう政治やマスコミの言説のなかに折り込んでいくのか、どのような現象としてそしてぼくたちの常識の地図の中のどこに位置するのか。

2chのような祭り現象はナショナリズム的なメッセージを構成しているらしい。安部晋三の「排他的なナショナリズム」というこの言葉は中国や北朝鮮だけではなくおそらく日本のネットにも向けられた言葉であるようだが、良識的な態度ではある。が、安部晋三や小泉純一郎的な「愛国心」によって祭りを統治することができるかはわからない。匿名での書き込みは誰かの心を傷つけるあるいは明確な違法性をもっていることもあるそれは統治すべきものとしてあらわれている。きっこの日記には祭りについての一つのモデルが提案されている。大ざっぱにいうと現代社会の細分化した不安な小さな集団たちや個人たちは無意識にひそむ人の動物的な習性によって祭りを現象させるのだ。ワールドカップもワールドシリーズもオリンピックもにわかファンたちが本能を発揮する場所となっているらしい。それが悪いこととは一概には言えないにしてもネット上で起きる限度を超えた祭りは非難されるものとしてある。祭りは不安というちいさな共感を核にして現象しているのかもしれないとは考えられることではある。ネット上の言説に対する強迫的なバランス感覚。その反応の素早さ。その一方でまた別の平衡感覚を欠く。松本サリン事件のマスコミの件と同じようなという意味でマスコミと相似したしかしマスコミよりも間違いやすいという現象は問題提起という機能を、問題だと指摘されたものがほんとうに問題であるあるいは間違っているといえるのかはべつにして、果しているのかもしれない。が、別の仕方が模索されてもいいように思える。これは今後の火急的な課題ではあるだろう。しかし無意識の不安に支配された感覚は自らを正義だといいはるに違いない。いやどんな正義もおそらくは。祭りによって無意識の不安を解消するという現象は不安の緩和か除去あるいは祭りに替わる対象がないかぎりつづくのかもしれない。祭りに替わる対象。それは不安にもとづく共感を呼ばなくてはならないとしたら不気味なあらたな祭りであるほかない。そのいっぽうで不安の除去は可能なことのように思える。もし不安のもとでこのような文化が出現したというのならばいつからなのか、という問うことができるならば明確な日付をもって答えることが可能かもしれない。日本でのネットの普及はバブル崩壊後に本格的に始まったといっていい。おそらくこの不況の社会不安の中広まったネットは祭りを現象させる素地を懐胎していた。そう考えるならば国民やマスコミがこの不安を共有していても不思議ではない。もしかしたらマスコミと祭りは相似するというよりもコピーか双子といえるのかもしれない。このような他者に対する配慮を欠く、たいてい祭りは他者に対する配慮がないことを問題視しているようではあるのだが、現象のまえで「愛国心」、「愛だろ、愛」とはいってみたくなる気持ちはわからないでもない。だが強い社会不安のなかで強い個人、強い人間であるということが誰にでも可能であるとは誰もいいきれない。そしておそらくこの不安は小泉純一郎の政策によって、それは格差とよばれるものだが、一部生産されたものではあるのだ。建築強度偽装にしてもあるいはライブドアの事件にしてもあるいはタウンミーティング、談合にしても高校の未履修問題にしてもそしていじめにしても、おそらくはこれは社会政策の結果であり倫理の問題ではないとはいえるかもしれないが、もし倫理の問題だとするならばそれは教育によって解決されるべき問題となっていくのだろうか。不安の解消を教育によって、というのははたして正しいのかということを置いておくとしても、格差を教育によって塾の禁止という方法によって解消しようとは思いもしない。都市と地方の教育格差は経済格差でもあるそれをおそらく都市という場所の経済的優位が教育的優位になる塾という場所を、格差を解消するという理由である意味で競争の平等を実現するために禁止するということなのだろう。と同時に公教育の再生とはつまり未履修とかがないということなのか。地方と都市の教育環境の格差が無くなればたしかに競争の平等は実現できるのかもしれない。一方で不安を解消するためかどうかは知らないが安部晋三は経済成長を実現しながら財政再建をするわけだ。ホワイトカラーエグゼプションとは経済成長のための政策のようではあるが残業によって家計なり消費なりを計画している人たちの倫理を問うという面と残業時間の減少によって家族再生を期待した政策でもあるのかもしれない。これは雇用者の運用次第ではひどい政策になる可能性があるのだが、規制なりあるいは労使の雇用慣行の思いかけない変換をたとえば年俸制への移行というのも視野にいれているのかもしれない。美しい国を目指す安倍晋三の政策がこのような問題にはたして良い結果をもたらすのかどうかはだれもしらない。

追記1月7日
ホワイトカラーエグゼプションはいまのところ企業側のメリットしか明確にはわかりません。というよりもウィキペディアをみると労働者にはデメリットのほうが大きいといえます。いまのところ説明責任がたしかに果たされていません。国民の議論を待っているのかもしれません。説明なしに議論するのは難しいかもしれません。日本経済連の提言をみてみると規制緩和はホワイトカラー、労働監督者という限られた人たちには必要な面があるようですが、ほかのブログにあるように年収でそれを規制緩和対象を決めるのは変ではあります。今日のきっこのブログをみてみると家族再生とかはぼくの誤解のようです。安部さんは従業員は早く帰れるとかいってるけどこれもおそらくぼくと同じ誤解をしているのだろうと思います。そしてブログをとおして意見交換したりして自分の考えがかわっていくのは楽しいことのようです。


(22:46)

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1. ホワイトカラーエグゼンプションに学ぶ  [ 内職求人情報〜アフィリエイトを活用する方法〜 ]   2007年01月06日 12:36
 ホワイトカラーエグゼンプションはご存知でしょうか。  労働時間の上限をなくし、残業代をなくす制度です。  現在のところ対象は年収400万円以上の方といわれていますが、  最初は1000万円の予定だったことからまだまだ下がるかもしれません。

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