ぎりぎりの女たち

小説家 真野朋子のブログです。 主に映画、音楽、舞台鑑賞や本の感想、著作について、日々の生活の中で関心を持ったことなどを書いていきます。趣味性の強い内容ですが、中身は堅苦しくないので、少しの間お付き合いください。

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「ゲット・アウト」

これはまた人種差別スリラーとも呼ぶべきか、一風変わった視点で描かれる心理サスペンス。
こういう切り口があったか、と思わず感心してしまった。
主人公の黒人青年クリスは、ローズという白人のガールフレンドを持つカメラマン。交際は順調で4ケ月目には彼女の実家に招待されて行く。
ローズの両親はクリスをまったく偏見なく歓迎してくれるが、なぜか使用人は黒人ばかりでその上何となく態度がおかしい。
クリスは最初からどこかしっくりこない、漠然とした違和感を抱いている。その勘は当たり次々に不可解な出来事が…
とにかくのっけから伏線だらけなので、注意して観てほしい。
クリスの幼い頃のトラウマや、セラピストの母親、不可思議な態度の黒人たちが、カギを握っている。とてもよく練られた脚本で、一度観ただけでは伏線が回収しきれない。
かといってアート志向のような解りにくさはなく、エンターテイメントとして十分楽しめる作品だ。
「何かがおかしい」という違和感は、人間の本能として案外信用できるものなのだ、とこの映画は教えてくれる。


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「IT/イット "それ "が見えたら終わり。」

これからは赤い風船を見ただけで、ぞくぞくっとくるかもしれない
ピエロ恐怖症、というのがある通り、欧米でもピエロが苦手な人はいるようだ。子どものバースデーパーティーなどに呼ばれて、皆を笑わせる人気者のピエロ…こんなにも気味悪くに感じたのは初めてだ。
特にあの、最初の犠牲者が初めてペニー・ワイズに出くわすシーンの不気味さといったら。思い出すだけでゾーッとする。だいたい、あんな所にピエロがいるはずがないのだから。
「イット」は原作は50年代の話のようだが、映画は80年代になっている。近過去という設定がいい。現代の感覚に近いけど、まだパソコンもスマホもない時代。でも、いじめも児童虐待もすでにはびこっている。
恐怖映画としての怖さはさほど目新しくはないが、スタンド・バイ・ミー的な思春期ものの要素もあって、並のホラー映画と一線を画していた。少年たちだけでなく、女の子もひとり加わっていることがミソ。それぞれのキャラクター設定もよく、ひとりひとりが問題を抱えているところも現代に通じる。
インターネットのない時代、町の黒歴史を調べた子のアナログなやり方が懐かしかった。
この映画は第1章だが第2章の製作も決まっているそうだ。だれが大人の役を演じるのだろうか。ちょっと吃音のおとなしいビルは作家になっているのか。それとももしやあの詩を書いた子が作家に? などと想像してみるのも楽しい。


愛を綴る女
「愛を綴る女」

フランス映画というのは時として、到底感情移入できないようなややこしくて理解不能なヒロインが登場することがあるが、本作はまさにそれ。
マリオン・コティアール演じるヒロイン、ガブリエルは冒頭から自分勝手な恋を暴走させる。ヤバい、イッちゃってる人か、と思わせる言動が繰り返される。
フランスの田舎で、両親は彼女を持て余し適当な男と結婚させ何とか落ち着かせようとする。
決してあなたを愛さないから、という条件付きで親が決めた相手の妻になる。不幸の始まりか、というとそれがそうでもない。冷静に見れば、さほど悪い結婚ではないのだ。
しばらくして彼女は病気の転地療養のため、数週間家を離れることに。すると療養先でまたまた恋に落ちる。もう彼しか目に入らない、彼こそが運命の人だ!と。
けれども彼は病状が悪化して転院することになり、ガブリエルは回復して退院する日がやってくる。
離れていても決して彼のことは忘れない! 彼女は家に戻ってもひたすら手紙を綴る。何通も何通も…
ラストはいろいろ想像してみたのとは、少し違っていた。そうきたか、と。
あまりにご都合主義と思う人もいるだろうし、とにかくヒロインに共感できず、好き嫌いは分かれるかもしれない。
私は嫌いではなかった。マリオン・コティアールに救われた感じだ。



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「僕のワンダフル・ライフ」

映画的には猫に押されっぱなしの感がある犬だが、世の中に犬好きは多い。私は生まれてから高校生ぐらいまでずっと犬を飼っている暮らしを送ったせいか、どちらかといえば犬派だ。
そんな犬派の人にぜひ観てもらいたい映画が、これ (犬好きでなくても楽しめるけど)
ゴールデンレトリバーのベイリーは子犬の時、イーサンという少年に命を救ってもらい、彼の家で育つことに。いっしょに遊び、いっしょに寝て、喜びも悲しみも共にしてきた。
当然犬の方が寿命が短いので、イーサンが大人になり彼女もできた頃にベイリーは旅立ってしまう。まことにいい人生、ではない犬生だったと振り返りながら。
だがベイリーは生まれ変わる、別な犬として。犬の輪廻転生なんて、すごい思いつきだ。
ある時は警察犬として活躍したり、ある時はぐうたらな犬になったりと、転生を繰り返すうちに、ベイリーは最初の主人であるイーサンにめぐり会うことができるか…
犬を擬人化した話はたくさんあったが、これは一味ちがう。犬は人間の良きパートナーであるが、犬にとっても飼い主は大切な存在なのだと気づかされた。
もう犬好きにはたまらない映画だろう。昔飼っていた何匹かの犬を思い出して、ナミダが出そうになってしまった。



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「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」

岩波ホールでの上映はとっくに終わってしまい、先日ようやく観ることができた。
19世紀アメリカの詩人、エミリ・ディキンスンの半生を描いた映画。
主演は「セックス・アンド・ザ・シティ」のミランダ役で知られたシンシア・ニクソン。彼女はたまに他のテレビ・ドラマでもゲスト出演しているのを見かけるが、長いこと SATCを見続けてきた私としては、性をエンジョイするクールな弁護士ミランダのイメージがどうにも抜けきれない。
生涯独身で男性との交際経験もなく、詩作に人生を捧げた女性を、彼女が演じることに多少の違和感 (個人的なもの)があった。
だが映画を観た後の印象は、なかなかのハマリ役で好演していたと思う。特に白い服を着始めた中年以降が熱演だった。
エミリ・ディキンスンは一生のほとんどをマサチューセッツ州のアマーストという小さな町の中で過ごした人だ。良家の出ではあるが、閉ざされた狭い世界で自分の魂と正直に向き合い、表現していくのは困難も多かっただろう。
まさに静かなる情熱を、限りなく内に秘めた作家だ。生前に発表した詩はたった10篇、死後1800篇もの作品が見つかった。
無名のまま生涯を終えた彼女だが、せめてあと100年後に生まれていたら、と考えてしまう。何しろ物を書くのに父親の許可をもらうような時代だ。
人生後半はほとんど屋敷から出ることもなく、孤独な生活を送ったエミリ・ディキンスン。研ぎすまされた感性の持ち主というだけでなく、強さと激しさも内包した人だったと、映画は教えてくれた。
若い時代を演じた女優がなかなかよかったので、 (50歳が20代を演じる不自然さを避けるためにも )シンシア・ニクソンの登場はもう少し後からでもよかったのでは、と感じたのだが。


hedwig
ヘドウィグTシャツ
ジョン・キャメロン・ミッチェルがヘドウィグを演じる舞台が日本で観られるとは思っていなかったので、一報を聞いた時は単純にうれしかった。
スペシャル・ショーと銘打ったこの舞台がどんなものになるのか…私は最初、ブロードウェイと同じ舞台がやってくると思ってしまった。
しかし告知をよく見ると、イツァークは中村 中だし、バンドメンバーも、演出もみな日本人だ。でも字幕ありと書かれているし…
私は2014年にブロードウェイのベラスコ・シアターでヘドウィグの舞台を観た。
映画版と違って舞台はとてもシンプルだった。ほとんどがヘドウィグの語りと歌で進行する。イツァークはただひとりの共演者で、あとはバンドのメンバーが舞台に上がっているだけ。休憩なしの1時間40分、機関銃のようなヘドウィグの独白と歌で突っ走る感じだった。
来日公演は字幕付きだからジョークももっと笑えるかしら…などと思っていた。
けれども初日の公演を観た人の感想が耳に入ってきて、驚いた。何と台詞は日本語で、イツァークが進行役。時にヘドウィグになったりトミーになったり何役もこなすという。 JCMはほとんど歌部分のみ、のようだ。
それを聞いてかなり落胆した私だったが…いや、実際にその舞台を観て「これはこれでアリだしいいんじゃないか」と思った。スペシャル・ショーとして十分成立しているし、悪くない。
とにかく中村 中が大活躍なのだ。前回の日本版ヘドウィグの時もイツァークを演じたようだが、今回の方がずっと役割は大きい。ヘドウィグ4に対してイツァーク6、といった割合なのだから。
本来ヘドウィグが独白する部分をイツァークが代わりに語る。映像なども交えながらしゃべりまくる。歌唱部分で登場するヘドウィグとも時に絡んで、同時通訳的な役割も果たす。大忙しだ。
にもかかわらず出過ぎた印象がない。というのはそれほど JCMの演じるヘドウィグの存在感が圧倒的だからだろう。
登場と同時に観客が総立ちになった。カーテンコールでもないのに、のっけから立つなんてあまり見たことのない光景だ。
しかし中村の「話しが長くなるから座ってー!」の一言でおとなしく席に着く観客。いかにも日本的だ。
この作品はやっぱり曲がいいんだな、とつくづく感じた。ハードなナンバーからキャッチーな曲、しみじみ聴かせるバラードまで、バランスよく散りばめられている。
芝居も音楽もよかったけれど、ひとつ難点を言えばこういった演目にはハコがデカすぎたということ。
諸事情で決まったのだろうけど、あんな広い空間でエロいジョークを聞くと、何か本当に恥かしくなってしまう。その点、ブロードウェイのベラスコ・シアターは最高だった。ああ、渋谷のパルコ・劇場もよかったな。好きだった。今はもうないけれど…

ドリーム
「ドリーム」

主役は黒人女性3人。彼女たちは NASAの研究所に勤務している。まだコンピュータのない時代に、有色人種の女性ばかりの計算チームがあったとは (実話)、まったく知らなかった。それだけでも興味深い。
舞台は1961年のアメリカだから、彼女たちが日常生活でどれほどの差別を受けていたかは、想像に難くない。しかし苦労話や差別 &偏見と闘うことがこの作品のテーマではない。
意地悪な女上司や、偏見で凝り固まった同僚の白人男性たちの態度も酷い。
何より気の毒なのは、 (有色人種用)トイレのために徒歩10分の場所までいちいち移動しなければならないこと。どんなに有能でも生理現象にはかなわない。人権無視も甚しいのだが、映画はそんなエピソードさえコミカルに描いている。
彼女たちはどんな時も愚痴を言わず常にポジティブ、明るく前向きなのがいい。それがすがすがしい共感と感動を呼んでいる。大げさにならず、さらりと難問を解いてしまうようなカッコ良さがある。
そして、仕事に邁進するだけでなく、夫や子どもとの家庭生活を充実させたり、再婚相手までゲットするという余裕ぶりがすごい。この時代にこんな理解のある伴侶を得た彼女たちは、単に運がいいというよりそれも人徳なのだろう。
実在した3人の女性と、その背後にも多くの黒人女性たちが歴史を変えていったのだと、この映画は教
えてくれる。


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「ボブという名の猫 幸せのハイタッチ」

これは猫好きなら必見の映画だろう。元ヤク中のホームレスの若者が、一匹の猫と出会うことで再生していく物語だ。
実話で原作本もある。そして映画化…と、ここまでならさほど驚かないのだが、注目はボブ役に本物が出演しているところ。ノラだったとは思えないルックスのいい茶トラだ。
ずいぶんと人なつこくて利口な猫だ。主演俳優との息もぴったりで、いつもリードに繋がれ肩の上に乗っている。実際の撮影現場では、ボブの代役は数匹いたようだが…
映画の中身は猫とのほのぼのシーンばかりではない。ドラッグを断ち切るための壮絶な経験や、ホームレスの自立や複雑な親子関係やら、シビアの現実が次々に映し出される。
けれども傍らにはいつも猫がいる。猫は何でも知っている、というわけだ。そんな時は猫も神妙な顔になる。ガールフレンドとの関係が、妙にあっさりしているのもすがすがしい。
舞台はロンドンなのだが、これがアメリカならまた少し違った手触りの映画になっただろう。
しかし、猫好きはおばあさんが多い、というのは同じかも。犬、および犬好きには少し手厳しい面もあったが、ユーモアと捉えてほしい。
原作者本人もカメオ出演しているのだが、わかったかな?


「ジュリーと恋と口工場」

仏映画でミュージカル、というので予想していたのは「タイピスト!」のキュートさと、「シェルブールの雨傘」みたいな小粋さ。歌も踊りもアメリカ産のミュージカルみたいにクールでキレキレじゃないけど、ゆるさにも味がある…といったような。
でも少し違った。いや、途中まではよかったんだけどね。
若いヒロインは仕事をクビになってから必死で就活している。そのあたりは応援したくなってしまう。で、ようやく見つけた職が靴工場の倉庫係。でもすぐにその会社も工場閉鎖の危機に直面するのだが、女性従業員たちは声をあげ抵抗する…と。ミュージカルに社会的なテーマを盛り込むのは大変けっこう。でもテーマ的に中途半端ですっきりしなかった。
ヒロインのヘタウマな歌はまあ、いいとしても、どうにも共感しにくい キャラなのだ。ラストも微妙すぎて素直に喜べない。女性の観客からは厳しい意見が出そうだ。



elle
「 ELLE エル」

この俗っぽさ、けっこう好きだー。もしもイザベル・ユペール以外の人 が、ヒロインを演じていたらかなり違った印象になっただろう。というか、そういうのなら観たくない。俗なだけの映画になってしまいそうだから。
かなり特殊な生い立ちを経験してきたヒロイン。人の恨みもかっている。そんな彼女がレイプ被害に遭ってしまうのだが、警察には頼らず (警察がアテにならないことを経験上知っている)自力で犯人をつきとめようとする。
だがこの映画は犯人捜しのサスペンス映画とは少し違う。もちろんそういった要素もあるが、誰が犯人かというよりその関係性に意味があるのだ。ネタバレになるのであまり詳しくは語れないが。
男の妄想映画だ、と言って不快に感じた女性もいるようだが、私はエンタメ映画としてはいいんじゃないかと思った。ヒロインがかなり歪んだ人物なので、好き嫌いはあるだろうが (彼女がゲーム会社の社長という設定は最後までしっくりこなかった) でもさすがの演技力で説得力はあった。
ポール・ヴァーホーベンとのタッグはうまくいったのではないだろうか。
あまり年のことは言いたくないが、実年齢64歳にしてレイプ被害者を無理なく演じることができる女優というのも、そう多くはないかもしれない。



パターソン
「パターソン」

いかにもジャームッシュらしい、というか「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のニュージャージー版のような映画。パターソンという地方都市に住む同じ名字の男。詩をたしなむバスの運転士、という設定がいい。ルーティンな行動でほぼ1日が埋めつくされた、彼の日常を淡々と描く。
これといった大きなドラマはない。しかし決まりきった1日の中にも、ほんの少しの変化は否応なしにやってくる。不可抗力とか巻き込まれ、などなど。
行きつけのバーで、女にふられた男が発砲騒ぎを起こしたり、客を乗せたバスが故障して動かなくなったり…そんなことは日常の中ではかなりドラマチックな出来事だろう。が、あえてフラットに淡々と描いていてしかもちょっと笑える。
小さなノートに詩を綴る10歳ぐらいの女の子とほんの束の間おしゃべりしたり、妻が考案したチーズと芽キャベツ入りのパイを食する時と同じように、パターソンはどんな時も変わらず穏やかな態度だ。それは愛犬が大事なノートをボロボロにしてしまった時も同じ。
毎日が忙しくてめまぐるしい日々を送っている人は、何が何でも観る必要はないだろう。が、実はそんな人こそ、観てほしい映画なのだと思った。こんな生き方だってあるんだよ、と。


幼な子われらに生まれpg
「幼な子われらに生まれ」

主人公が口にした「つぎはぎだらけの家族」とはよく言ったものだ。それが悪いわけではないが、ややこしいことだけは確か。
男女2人の連れ子のいる女性と再婚する。自分にもいっしょに暮らしていない娘がいて、離婚後も時々会っている。血の繋がらない思春期の娘はとても反抗的で、彼の頭を悩ませている。
彼は仕事でも「出向」という名の実質は降格させられて行き詰まりを感じている。
そんな家族に新たな子どもが生まれる、というわけだ。反抗的な娘はますますアウェイ感を抱いて頑なになっていく。
想像しただけでも、ああ、疲れる。大変そうだ…
浅野忠信は、ある意味「淵に立つ」以上に好演していたかもしれない。普通の人の、特別でも何でもない息苦しさや苦悩を、普通に演じるのは意外にむずかしい。
ラストで赤ん坊が生まれて、何となく「収まった」感じはあるが、この先のことを想像すると彼の人生は決して平坦なばかりではないだろう。
反抗的な娘が小6という設定のようだが、とてもそうは見えない。芝居がうまいせいもあるだろうがどう見ても中3ぐらい。そういったリアリティ、もう少し大事にした方がいいと思うのだが。


8月も相変わらずミニシアター系を中心に観ました。大作やファミリー向け娯楽作品の影で、ひっそりと秀作が公開されています。
自分の好みの映画を見つけ出すのは大変だけど、それがまた楽しみでもあります。


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「ベイビー・ドライバー」

何とも爽快、スピード感がたまらない映画だ。めちゃくちゃつかみがいいし。
強盗団の逃走用車輌のドライバーをしている通称ベイビー。彼は子ども時代のストレスが原因で常に耳鳴りがしている。それを打ち消すために iPod は手放せず四六時中音楽を聴いている。
強盗を乗せ、警察から逃げるための運転中もしかり。しかも自作のプレイリストへのこだわりがハンパじゃない。
カーチェイスと音楽の一体化がすごい。ここでは単なるBGMではすまないのだ。何か自分も主人公と同じで、イヤホンで聴いている気分になってくる。
主役のアンセル・エルゴートは、サングラスにイヤホンのクールな野郎に見えて、「きっと星のせいじゃない。」の時と同じ、本当は優しくて繊細な男子、という役どころによくハマッていた。
強盗団から足抜けするため、惚れたウエイトレスとの逃避行を考えるものの、そううまくはいかない…
悪の元締めにケヴィン・スペイシー。いかにもなキャラだが相変わらず痺れる悪党ぶりだ。他の脇役たちも贅沢なキャスティングで、濃い。パンの端っこまでピーナッツクリームを塗ってほしいおじいちゃんもいい味出していた。
クィーンの「ブライトン・ロック」がベイビー自身のテーマソングなのだが、疾走感あふれる画面にぴったり、おまけに懐かしかった。
そう、クィーンは「オペラ座の夜」以前の1〜3枚目まではけっこうハードだった、と思い出した。ティラノザウルス・レックス「デボラ」も、何十年ぶりかで耳にした。サントラが楽しそう。クラシック・ロックばかりではないけどね。



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「夜明けの祈り」

1945年のポーランド。ロシア兵たちの「蛮行」により妊娠させられた修道女たち。
医療関係者にさえ体を見せようとしない彼女たちを救おうと、危険を承知でひとり奮闘する若い女医の物語だ。
実話がベースになっている物語というから、痛ましすぎて言葉もない。
神に仕える身であるにもかかわらず陵辱され、正気でいられないほどショックを受けているはずなのに、だれも恨まず憎まず、自分を責めひたすら祈りを捧げるシスターたちに信仰の底力を感じた。
女医は無神論者だが、傷ついたシスターたちをこれ以上命の危険にさらしたくないと、密かに出産を手伝う。生まれた赤ん坊をどうするか、秘密裏に養子に出すのかそれとも…と、問題は山積みだ。
さまざまな試練の中、修道女たちもまた自分の生き方を考え直すきっかけにもなり、いつしか女医とシスターたちの間で友情のようなものが芽生えていく。そしてそれが希望に繋がっていくのだった。
冷たく張りつめた空気の中、凛と佇む修道女の姿が内容の重苦しさを超えて、心洗われるような端正な絵として美しい。
こんな酷い出来事があったんだ…という驚き以上に、人間ドラマとして深く胸を打つものがあった。



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「ヒトラーへの285枚の葉書」
ベルリンの片隅でつつましく暮らしていた初老の夫婦。息子が戦死したことがきっかけで、夫は反ナチ運動を始めるようになる。表向きの生活はまったく変わらないが、密かに政権を批判する内容の葉書をしたためたのだ。
街のあらゆる場所にそっと葉書を置いて、静かに立ち去る。ただそれだけ。
筆跡を変え、置いてくる場所も一定にはしなかったが、すぐに警察に知れることになる。拾った人は即座に警察に届けるのだが、それでも人の目に触れるし、たとえ1枚でも他に回してくれる人がいたなら…と彼は行動をやめない。最初は反対していた妻もいつの間にか荷担するようになる。
そんなちっぽけなこと、危険を犯してまでする価値があるの?と人は感じるかもしれない。
だが夫妻は、最愛の息子を失ってもう怖いものはなくなったのだ。何も変わらないかもしれないが、巨大な権力に1本の針ほどの力で抵抗を見せる。針だって285本集めればそこそこの力だ。小市民の勇気に胸が締めつけられる。
犯人を突き止める捜査官も、それなりの苦悩があってそこにもまたドラマが。
監督は俳優のヴァンサン・ペレーズだが、エマ・トンプソンら役者の真摯な演技が光る佳作だ。


他に観た映画

「フェリシーと夢のトゥシューズ」

アニメはめったに見ない私だが、バレエものということで。19世紀末のフランスが舞台、孤児院育ちのフェリシーがあこがれていたパリ・オペラ座で踊る夢を叶えるお話。
アニメなのにバレエの動きがとてもなめらかで自然。おとぎ話なので、「こんなことあり得ない」なんて目くじらたてるのは野暮というもの。
オリジナル版の上映館が極端に少なくて残念。声の出演がエル・ファニングとデイン・デハーンだったようだ。しかし吹き替え版も教師役に熊川哲也氏を起用など工夫はある。


バレエ・ドキュメンタリー2本

「ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣」
「パリ・オペラ座 夢を継ぐ者たち」



しあわせな人生の選択
「しあわせな人生の選択」

こういった佳作がなかなか注目されないのはとても残念だ。
だれにでも降りかかる問題…身内や大切な人の死を経験したことがあるなら、他人事とは思えないテーマだ。とても考えさせられることの多い作品だった。
長年の友人から、余命いくばくもない日々を思い残すことなく過ごすために、力を貸してほしいと頼まれたら。だれが断ることなどできるだろう。
たとえ突飛な思いつきでも何とか叶えてあげたいし、付き合ってあげようという気になる。
しかしこの映画はそんな重いテーマを深刻になりすぎず、時にユーモアを交えながら進めていく。
舞台俳優を生業としているフリアンは末期ガンで、すでに治療はやめて死に向かう最後の日々を送っている。長年の友人トマスはカナダ在住だがフリアンのためスペインにやってくる。
たった4日間の滞在、格別にドラマチックな出来事はないが小さなエピソードが丁寧に語られ、フリアンの「思い残し」「やり残し」を最小限にするためトマスは力を貸す。
離婚してひとり暮らしのフリアンは、愛犬の行き先を気にかけている。なかなか引き取り手が見つからず苦労していて、トマスも里親探しに付き合うことに。映画の原題トルーマンはこの犬の名前だ。
フリアンはとても高潔な人物とは言えず、失敗も多く問題だらけの男だが、それでもひとりで人生の最期を迎えようとしている。唯一の「相棒」の行く末に心を砕いているのも無理はない。
離れて暮している大学生の息子に会うシーンがよかった。親子なのにあまり交流がないので、何を話していいかわからずお互いぎくしゃくしがちな微妙な関係…だが心の深いところで絆を感じているのだ。
決してお涙頂戴にならず、感動の押しつけもないこの作品の語り口にとても好感を持った。スペイン映画の隠れた名作。


甘き人生
「甘き人生」

イタリアの巨匠マルコ・ベロッキオの最新作。ベストセラー小説の映画化だそうだ。
ほとんどすべての男性が何らかの形でマザコンだと思っているが、イタリアやスペインなどラテン系は特にその度合いが強いのかもしれない。
この映画のテーマはまさしく「母の喪失」にある。
経験した人ならだれでも思いあたるだろうが、母親を亡くすというのは何歳になっても深い喪失感を味わうものだ。母との関係にもよるが、何年も立ち直れないことは珍しくない。
主人公マッシモは大好きな母を幼い時に亡くし、以来心を閉ざし決して甘くはない苦い人生を歩むことに。
子どもの頃はどうしても母の死を受け入れられず、父親や神父がどんなに説明したり解き明かしてくれても救いにはならなかった。
幼少期の母との楽しい思い出、葛藤し続けた少年時代、ジャーナリストとして活躍する現在が交錯しながら物語は進んでいく。
母の死の真相は、予告篇で見てうっすら予想していた展開と大きく異ならなかった。が、真相の究明がこの作品のテーマではない。ジャーナリストの彼なら、調べようと思えばできたはずなのに彼はあえてしなかった。母の死自体を封印してしまったのだ。
だがベレニス・ベジョ扮する医師と出会ったことで、マッシモは少しずつ心を開き、過去のトラウマと向き合うようになっていく。
映画の原題は「よい夢を」。母が寝る前に言ってくれた、そして最後の言葉だ。同時にそれは、イタリアの古きよき時代への郷愁、の意味合いも含んでいる。個人の物語ではあるが、時代性や文化的な背景までもが描きこまれた佳作。



ボンジュール・アン
「ボンジュール・アン」

映画プロデューサーの夫は仕事人間で、カンヌでのヴァカンスも途中で切り上げ仕事に戻る始末。ひとり残されたアンは、たまたま夫の知人ジャックに車でパリまで送ってもらうことに。
さっさとパリに戻りたいアンの気持ちとは裏腹に、フランス人のジャックはあちこちに寄り道しようとする。絶景ポイントで降りたり、おすすめのレストランに寄ったり、史跡を見学したり。とにかくアンにフランスの魅力を伝えたくて仕方ないのだ。その上、下心も見え見え。アンはもちろん気づいているが、やんわりと交わしていく。
最初はしぶしぶ付き合っていたアンだが、次第にこの珍道中が楽しくなってくる。久々に女を取り戻した気分にも浸り、まんざらでもない気持ちになってきた。
人生は最短距離で前へ進むばかりでなく、こうした寄り道もいいものだ、と気づいたのだ。夫とは今のところこういう無駄はできないし…
だが、夫のロレックスの時計のくだり…ジャックの暴露話でアンは打ち解けていた気持ちがちょっと引くいてしまう。あのタイミングであの話をされたら、私なら完全に醒めてしまうな。というか旅はお終いだ。妻というのはデリケートな生き物だしプライドも高いのだ、とジャックに教えてあげたくなった。
これといって大きな展開は起きないが、アンにとっては実りの多い2日間だっただろう。
何かを始めるのにもまだ遅くない年齢だ。
微妙な気持ちの揺れや心の襞を、ダイアン・レインが軽やかに演じた。御年80歳にして初の長編映画監督デビューしたコッポラ夫人のこなれた演出もいい。
ダイアン・レインの旅ファッションの着こなしがとても素敵だ。いかにも素材よさげな無地のベージュや白のパンツとトップスに、最小限のアクセサリー。自信がなければできないコーディネートだ。


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「ハクソー・リッジ」

「良心的兵役拒否者」という言葉をこの映画で初めて知った。太平洋戦争末期の実話だそうだ。
銃は手にしない、人は殺さない、それでも従軍するというのは、信仰のためとはいえ少々身勝手に見えてしまうが(日本であれば非国民扱いだろう)、その彼が衛生兵として前線で大活躍するのだ。
戦場の舞台は沖縄。沖縄戦の悲惨さは話には聞いていたが、ここまでリアルに再現されると胸が苦しくなってくる。まさに地獄絵だ。
しかし映画は戦争のむごたらしさを描くことがメインテーマではない。戦地にあっても銃を取らずわずかな医療品を抱え、「もう一人、あともう一人助けられる」と地獄のような戦場を走り回る主人公デズモンドのゆるぎない信念を描き出す。
冒頭の1時間、彼の生い立ちや家族関係、恋人との出会いから入隊までじっくりと丁寧に語られる。そのことでデズモンドの人となりが浮きぼりになり、彼の信念や戦地での行動を理解する助けになる。
感動作を正攻法で描いたメル・ギブソン監督の手腕はなかなかのものだ。日本軍や日本兵の描写は物足りなさも感じるが、あれが限界なのだろう…



残像pg
「残像」

ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の遺作。「灰とダイヤモンド」の頃からテーマは一貫していてぶれることはない。徹底したレジスタンスの姿勢だ。
第二次世界大戦末期に迫害を受けた、画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの生涯を映し出す。
前衛的な作風の彼は、スターリン崇拝の全体主義に抵抗したことから、大学では教授職を追われ、美術館からは作品が撤去されてしまう。それどころかあらゆる権利を剥奪され、絵具や配給の食料さえ買えなくなってしまう。
最初は密かに支援していた学生たちも、彼と関わっていることがばれると罰せられ、次第に離れていく。
妻とは別れ、思春期の娘はいるものの微妙な距離感だ。
とても高潔とはいえない彼の人格だが、芸術への思いと不屈の精神は生涯変わることがなかった。
行き倒れ同然の末路はかなり悲惨ではあるが、ワイダ監督は乾いたタッチで淡々と必要最小限に描いていく。監督の遺作にふさわしい題材だったと思う。



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「ハロルドとリリアン ハリウッド・ラブストーリー」

ハロルドは絵コンテ作家、リリアンは映画製作のための情報を収集するリサーチャーだ。60年代から映画界に貢献してきたこの夫婦のドキュメンタリー映画。
ハリウッド映画というのは、彼らのような名も無き裏方スタッフのおかげで成り立っているのだなぁ、とつくづく感じた。こうした人々の熱意やこだわりなくして名画は生まれない。
「鳥」や「卒業」といった名作の有名なあのカットは、ハロルドの絵コンテから生まれたのか…と驚きをもって見た。またリリアンは、映画の時代考証などに欠かせない資料をライブラリー化し、それを守り続けた。
業界内では知らない人はいないというぐらいの有名人なのに、クレジットにも載らない時期があったそうだ。
映画は、引退して悠々自適の生活を送るリリアンの語りで進められる。ハロルド亡き後、ハリウッドの映画人たちが暮らすホームで余生を楽しんでいる。二人の仕事についてはもちろんだが、夫婦の物語について語る時のリリアンはとてもチャーミングだ。
自閉症の子を育てながら、自らの仕事も全うした人生は素晴らしい。

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「セールスマン」
イランの映画。アスガー・ファルハディ監督の作品は「別離」「ある過去の行方」とも、このブログで取り上げた質の高い作品だ。
テヘランに住む夫婦は地元の小さな劇団に所属し「セールスマンの死」を上演していた。
妻はある日、夫の不在中に侵入者によって性的被害を受ける。夫は警察に通報しようとするが、妻は表沙汰にしたくない。すると夫は自分で犯人探しを始めることに。だが意見の食い違いから夫婦の間には次第に距離ができていく…
不幸な出来事をきっかけに夫婦間に溝ができる…という状況はどこの文化圏でもあり得る話だが、この映画の場合はイランに於ける(というかイスラム圏での)女性の社会的立場の厳しさがよく伝わった。
表沙汰にしたくないのは、恥ずかしいというよりもむしろ、裁きの場でも決して女性有利には運ばないことを知っているからだろう。抑圧の中で生きる辛い立場が哀しい。
けれども夫は、妻が侮辱を受けたことに対して怒りが治まらないのだ。「目には目を」という、実にイスラムっぽいメンタリティーで仕返しをしようとする。
途中の展開がやや作りすぎの感もあるが、とにかく目が離せずスリリングだ。が、この作品の主旨はミステリーな部分ではない。ペルシャ語で演じられるアーサー・ミラーというのも新鮮だが、舞台のシーンが繰り返し挿入され暗喩として用いられている。


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「20センチュリー・ウーマン」

79年のカリフォルニアが舞台の青春映画。自由な考え方を持つシングルマザーに育てられている、15歳の少年ジェイミーのひと夏の成長物語。
彼を取り巻く周囲の人物たちがこれまたユニーク。こんな環境で育ったら嫌でも大人びる、というか耳年増になるに違いない。
男の子には「生き方の見本になるような大人の男が必要」とよく言われるが、ジェイミーにはそれがいない。しかし別にいなくてもいいんじゃないか、とこの映画は感じさせてくれる。周りが少し変わった女性ばかりでも、愛があればそれでいいかも。
この時代ならではのリベラルな女性たち。ジェイミーは何かと反発したくなるだろうが、20年ぐらい経った時、貴重な経験だったと感じるはず。
女友達役のエル・ファニングがみずみずしい魅力を振りまいている。若いって、いいな。
いい味出してるアネット・ベニングは実年齢と近い役なのに、ルックス的にジェイミーのおばあちゃんに見えてしまって少し残念。
個人的には、「母親」というのはもっと普通の人の方がいろいろ楽だと思うが、こればかりは自分では選べないからしょうがない。
当時のパンクやニューウェーブなど音楽も懐かしかった。


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「ザ・ダンサー」

ベル・エポックの伝説的女性ダンサー、ロイ・フラーの伝記映画。フランス映画でダンスものといえば、すぐにクラシック・バレエを連想するが、ロイ・フラーはフリー・ダンスの祖だ。自身で振り付けるだけでなく、衣装、舞台構成、照明のアイデアまで出した人。
彼女が考案したまるで装置のような衣装を使用した踊り…たっぷりなシルクの薄衣に棒を通して両腕を振り回す、サーペンタイン・ダンスで一躍有名になった。照明の効果と相まって幻想的な空間を作り出していた。
映画はロイ・フラーが踊りを始める以前から、時代の寵児となる人生の前半を描いている。歌手出身のソイが大熱演している。
確かに彼女のダンスは当時としては大変画期的だったと思うが、今見るとややワンパターンだ。後半に登場する(ロイ・フラーが支援していた)イサドラ・ダンカンのモダンダンスの方がもっと見たいかも、と正直思ってしまう。16歳のリリー=ローズ・デップが小悪魔的で美しく、鮮烈なダンスシーンを見せてくれた。
またロイ・フラーのパトロン役の伯爵、ギャスパー・ウリエルもこの時代らしい退廃的な魅力を醸し出している。せっかくの題材なのだから、全体にドラマ性がもう少し欲しかったと思う。

ボウイ アーカイヴ本
今から遡ること27年前。1990年5月15日、16日にデヴィッド・ボウイが東京ドームで来日公演を行った。この「サウンド&ヴィジョンツアー」は、ボウイが過去の曲はすべて封印するので、ヒット曲が聴ける最後のチャンス!というふれこみだった。
私は70年代からのボウイ・ファンで、彼の心変わりには幾度となく付き合わされてきた。だからその発言もハナから信じていなかった。
きっとまた数年したら何事もなかったように過去のナンバーを歌うにちがいない、と確信があった(事実その通りになった)
当時の私は、ジュニア小説やら恋愛エッセイや雑誌の原稿など、とにかく依頼があったものはすべて引き受けていた。年に何冊かは本を出版し、かなり多忙だったが実入りもよかった。世の中はバブルで浮かれていた。私も存分に独身を謳歌して、実にいい時代だった。
その頃のデヴッド・ボウイは、レッツ・ダンス当時ほどではなかったが、日本での人気は高かった方だろう。何しろ東京ドーム2公演が実現したのだから。
私は普段、来日アーティストの通訳をしている友人に頼んでチケットを取ってもらっていた。だがその時は運悪く友人が海外出張中だったので頼めず、自分でぴあに電話をかけた。が、ぜんぜん繋がらなくて4時間近くかかった。おかげで友達と遊びに行く約束をすっぽかしてしまうことになり、本当にひどいことをしてしまった。ほかでもないボウイのためだから勘弁して、と友達には平謝りした。
自力で取ったチケットなので2公演とも1階のスタンド席だった。スクリーンの映像を駆使した、シンプルだがセンスのよいステージ構成だった。ボウイを見るにはあまりにも広い空間だったけれど。それでもヒット曲のオンパレードに酔った。
初日と2日目、連日公演だが私は2回とも行った。初日だけしか行かなかった人にはかなり評判が悪かった。何しろボウイは初日にアンコールをやらず、絶対に歌うと言っていた「ロックンロール・スイサイド」もやらずにステージを降りてしまったのだ。トラブルにこそならなかったが、かなりのブーイングだった。いっしょに行った友人は帰り道ずっと文句を言っていた。
明日はきっとやるから、と私は確信があった。ボウイとはそういう人なのだ。体調不良だとか機材の不備だとか、理由はいろいろ憶測されたが何が本当の原因だったのかはわからないしどうでもいい。
けれども多くのマスコミが集まる初日にアンコールなしだったのだ。
私の思った通り2日目はアンコールを5曲、前日より30分近くも長いステージを見せてくれた。もちろん「ロックンロール・スイサイド」も。感無量だった…
数日後、友人を通じて「ミュージック・ライフ」に公演のレヴューを書かないか、という依頼が舞い込んだ。私が中、高校時代に愛読していた雑誌なので即OKした。
外部ライターは山ほどいるはずだし、ボウイの記事なら喜んで引き受ける人は多いだろうに、なぜ私に?
理由のひとつは、2日間の正確なセットリストがわかる人、というのが条件だったから。今とは違ってインターネットのない時代だ。スマホでささっと調べるというわけにはいかないのだ。
小難しいことやマニアックなことは書かなくていい、だからといってボウイべったりではなく客観性もある記事で、と編集者に言われた。
1990年当時の「ミュージック・ライフ」は、私が購読していた70年代の頃とはだいぶ内容が変わっていた。下の写真の通り、何だかヘヴィメタルの雑誌みたいだし、表紙にボウイの名前はないし本文での扱いもかなり小さかった。あまり重要視していないのでライター選びも適当だったのかもしれない。
原稿はわりとさらさらっと書いて渡した記憶がある(今読み返すとかなり赤面ものだが)。自分がかつて愛読していた雑誌に大好きなボウイのことが書けて素直にうれしかった。ただひとつ、編集者が私の名前を誤植してしまったことを除いては…

それから時を経て14年後の2004年。リアリティ・ツアーの来日(結果的にこれが最後の来日になった)を前に、再びデヴィッド・ボウイが注目を集め人気も再加熱していた。
シンコー・ミュージックは過去の雑誌記事や写真を集めたムック「アーカイヴシリーズ」を出版していたが、ボウイ版も出たので私はすぐに購入した。
「ミュージック・ライフ」は98年に休刊したが、かつて目にしたのことあるグラビアや記事が満載で、ひたすら懐かしかった。細かく念の入った構成にも感心した。
だがページをめくるうちに仰天した。何と、私が書いたレヴュー記事がそのまま再録されているではないか。ぜんぜん知らなかった。こういうのって、ライターには知らせずに載せるものなのか?もしも事前の問い合わせがあったなら、名前の誤植だけは絶対に直してもらいたかった。
何だかふっきれなくて、もやもやした気持ちを抱いていた。あちこちで不満を漏らしていた記憶がある。そんな話がどこから伝わったのか、ムックを編集したプロダクションの人から連絡があった。
再録にあたってはライター全員の了承を得たのだが、ひとりだけどうしても探せない人がいた、と。それが私だったのだ。もし名前が間違っていなければ、検索して簡単に調べがついただろう。拙著を出版している会社を通して連絡できたはずだ。何とも運が悪い。
プロダクションの人から、さらっとしたお詫びのメールが届いた。それでお終い。
もちろんこちらもそれ以上どうしてほしい、というわけでもない。が、こういったムックの場合、重版することは考えにくいので、名前の誤植は正されないままだ。
それから13年も経過し、すでに世の中の市場からは消えてしまったムック。
今でもボウイファンの本棚の奥の方にひっそり眠っているかもしれない…

ML1990年7月

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「マンチェスター・バイ・ザ・シー」

好みはあるだろうが、いい映画だった。こういうのを観ると苦しくなるからイヤという人もいるかもしれないが、それなりの着地点は用意されいるし救いもある。
ケイシー・アフレック演じる主人公のリーは、一体何がそんなにつらいんだろうというほど孤独に満ちているし、幸せになることを拒否しているようだ。一見静かな男に見えるが、ちょっとしたことですぐ腹をたてるし、人に絡むし、相当なストレスを抱えていることは明らかだ。
兄が病死したことで葬儀のため故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰るが、兄の遺言により16歳になる彼の息子の親権者になってしまう。
しかしリーにはどうしても故郷に帰りたくない理由があった…
映画は現在進行形の物語の中に、リーが別人のように屈託なく愛のある生活を送っていた数年前の姿を挟みこみながら、ゆっくりと進んでいく。
徐々に彼の秘密が解き明かされていくのだが、謎解きではないしそれ自体が問題なわけでもない。
一言で表せば、どん底にまで落ちた男の再生の物語、ではあるがそれだけではない。
リーを取り巻く様々な人物…兄や甥っ子、元妻や親族ばかりでなく、周辺の人々に至るまで描写が実に丁寧で細やかだ。
主演のケイシー・アフレックは、難しい役どころを見事に演じきったと思う。ちょっとした役にもいい俳優を起用しているので、物語に厚みが出ていた。


arrival
「メッセージ」


ただのSF映画ではないだろうと思ってはいたものの、ここまで哲学的&思考的な内容とは恐れ入った。
異星人との「ファースト・コンタクトもの」は数あれど、このパターンはあまりないだろう。
世界各地に突如として現れた宇宙船。特に好戦的でも友好的でもないが、その目的は何なのか。
中にいる生命体とコミュニケーションをとるため、交渉役に抜擢されたのが言語学者の女性ルイーズ。
彼女は様々な手段を駆使し、粘り強く異星人と意思疎通をはかろうとする。とても理性的だ。待ちきれず戦闘状態になろうとする軍とは対照的。
異星人との物語が進行する中、ルイーズと幼い娘との幸せな生活が幾度となくフラッシュバックとして登場する。
これは一体何を意味しているのか…。「運命」や「時間」といった観念的なテーマが観客にも突きつけられる。深い洞察を求められる作品だ。SF映画という枠にはまったく収まりきれない。逆にいわゆるサイエンス・フィクションが好きな人には、七面倒くさいと感じるかもしれないが。
人は、あらかじめ未来がわかっていてもやはり同じ選択をしてしまう…という究極のジレンマ。だからこそ人間なのだ。


light between oceans
「光をくれた人」

子どもを亡くしたばかりの夫婦の元へ、偶然小舟で流れ着いた赤ん坊。これは天からの授かり物か?
2人は黙って自分たちの子として育ててしまう。しかし後に、赤ん坊には実の母親が生きていたことが判明する。
夫は罪の意識に耐えられなかった。妻は犯してしまった罪はなかったことにして、ただひたすら子ども溺愛し、事実を告白しようとする夫を非難する。
今の時代から考えると妻の言動は愚かなように感じるが、当時の女性の立場や流産を繰り返していることを考慮すればわからなくもない。孤島の灯台守という特殊な環境も影響しているだろう。
四季の移ろいや厳しい自然に夫婦の心情が映し出される。
罪に苦しむ主人公の苦悩を、マイケル・ファスベンダーが抑制のきいた演技で好演していた。
実の母親の心の広さがとても印象的だった。罪を赦すということは、結局は自分自身も救われることなのだということを教えてくれる。


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「スプリット」

ジェームス・マカヴォイが23もの人格を持つ男性に扮し、女子高生3人を拉致監禁するというスリラー映画。しかもあのシャマラン監督作品だ。
映画の中で登場するキャラクターは6人ぐらいだが、しゃべりながらいつの間に他の人格に入れ替わってしまったり、かなりの難役だったのでないだろうか。
でも彼ならもうちょっと使い分けがうまくできたようにも感じたが…
多重人格者であることはかなり早くわかってしまうので、もう何でもアリの展開になっている。
理性的な人格の時に精神科医のカウンセリングを受けたり、監禁され恐怖の最中にいる女子高生のひとり、ケイシーの幼少期の出来事を挟みこんだりしながら物語は進んでいく。
被害者も加害者も、幼い頃に虐待を受けた経験があるという点がいかにも現代的だ。
ケイシーを演じたアニャ・テイラー・ジョイは、将来性を感じさせる存在だった。これから頭角を現していくことだろう。
今回は「なーんだ」のラストにはならなかったが、最後の最後おまけのようなオチで思わず笑ってしまった。いや、あれは監督の悪ノリではなくマジだったのか…



カフェ・ソサエティ
「カフェ・ソサエティ」

ウディ・アレンの新作には正直あまり期待しなくなってしまった。それでも毎年のように新作を作り続けるパワーに感心する。
しかし今回はなかなかよかった。ストレートな恋愛映画、しかも舞台はニューヨークではなくハリウッドだ。何という変化! とまず驚いてしまった(でも結局は、NYがいちばんという話だった)
1930年代、古き良き時代のハリウッド、まだ夢の工場だった頃だ。恋する気持ちは時代が変わっても同じ。不倫で悩むのも、2人の男の間で揺れ動く気持ちも。
昔からウディ・アレンの作品には、別れた元恋人同士が何年か経って再会し、思い出話をしながら楽しく過ごす…といったようなシーンがよく出てきた。
そんなこと本当にあり得るだろうか、と私はいつも納得できずに見ていたのだが。
やはりそういう2人は会うべきじゃないのだ、会うことに何の意味もない、と今回の映画が語ってくれた。
ラストは例のミュージカル映画に似ている、との意見もあるが、恋愛映画としては本作の方が何段も上に感じた。



「マイ・ビューティフル・ガーデン」

「アメリ」あたりが好きな女性にはとてもハマる作品ではないだろうか。キュートな映画。
ヒロインの不幸な生い立ちや普通と違った気質など、あまり憂うことなく自然に受け止めている。
こじんまりした家のインテリアも、決して高くはなさそうな服も可愛い。大嫌いな庭仕事をするための服装までお洒落なのだから。
肝心のガーデニングやら植物の話がもっと出てくるのかと期待していたのだが…
でもまあ、いい人ばかり出てくるし癒される話だった。

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「Lion/ライオン 25年目のただいま」

まず、これが実話であるということに驚かされた。しかし同時に、事実にもまさるほどのこの映画の物語性に思わず唸ってしまった。
インドの貧しい村で育った5歳のサルーは、迷子になって1000キロも離れた遠い場所まで来てしまう。自宅の正確な住所はわからず、親の名さえはっきり言えない。
新聞に迷子情報として何度か掲載されるがだれも名乗りでない。
サルーは孤児院に入れられた後、オーストラリアの夫婦(養母役のニコール・キッドマンがいい!)のもとへ養子となって渡り、そこで暮らすことに。
不自由もなく養父母から愛されて成長するのだが、ある時グーグルアースで自分の故郷を探すことを思いつく。
広いインド国内、幼い時のわずかな記憶を頼りに実家を探し出すのは至難の業だ。
でも自分を探しているかもしれない母親やきょうだいがいると思うと、元気で暮らしていることだけでも知らせたいと思ってやまない。
毎日毎日何時間もグーグルを見続け、2年かけてようやくそれらしき場所に辿り着いた。
これは何十年も前の話ではなく割と最近のこと。もしサルーがSNSを使って情報を拡散していたら、もっと早くわかったかもしれないのに。
だが彼は養父母への遠慮から、故郷探しはひとりで黙々と行っていたのだ。
映画は子ども時代にかなり時間を使っていて、デヴ・パテルは後半になってやっと登場する。
無人の列車に乗って知らない場所に行く不安、迷子でひとり街をさまよう心細さに、見ている方も胸がつまる。スラム育ちゆえに、たった5歳でも路上で生きる術を知っているし、自分にとって危険な大人を見抜く知恵もある。それがかえって悲しい。
タイトルのライオンの意味は、最後の最後でようやくわかる仕掛け。モデルになった実際の人物の写真などとともに、エンドタイトルまで楽しめる。



午後8時の訪問者
「午後8時の訪問者」
ベルギーの監督の作品。舞台もベルギーの街だ。
若い女医のナタリーは仕事熱心で有能だ。ある日、診療時間をだいぶ過ぎた後にベルを鳴らしてきた人を無視し、応答せずに帰宅してしまった。
だが診療所にやってきたその黒人少女が、身元不明の遺体となって近くで見つかったことがわかり、ナタリーは激しく後悔する。
あの時、ドアを開けてやっていれば少女は死ななかったかもしれないのに。
ナタリーは、少女がどこのだれなのか、何があって命を落とすことになったのか、解明するために動き出す。あまり積極的に動こうとしない警察とは別にひとりで調べ始めるのだが、同時にそれは危険な世界へ足を踏み入れることだった。
十分にスリリングでサスペンスフルな内容なのだが、実に淡々とした静かな映画。とても地味だ。
もしもハリウッド映画で同じ題材を撮っていたら…こうはいかなかったにちがいない。
しかしこれは謎解きが主題のサスペンス映画ではない。演出がクールな分、心理描写が突出していた。一見落ち着いているように見えるナタリーの心の中は千々に乱れ、後悔や責任感や自己嫌悪やらでいっぱいなのだ。
音が極端に少なく、音楽がまったくといっていいほど使われていなかったのも特長的だ。背景でかすかに聞こえてくるのは高速道路を走る車の音。無機質さが際立っていた。



「T2 トレインスポッティング」

やたら汚くて乱暴で、でも音楽はすごくいい! と思った前作。それから20年。同じ監督&キャストでの同窓会映画。今回もやはり似たような感想だった…。
若者がおじさんになっても、人は基本的にはさほど変わらないものだ。だからこそ同窓会は懐かしくていい。
正直、前作はすっかり忘れてしまっていたのだが、時折スチール写真のように登場する若き日の彼らを見て記憶を辿っていた。
きっと彼らと同世代のイギリス人が観たら、ツボにくる箇所がたくさんあるんだろうな…などと考えてしまった。
今回も「ラスト・フォー・ライフ」が最高だった。


moonlight
「ムーンライト」

映画の中で「月の光に照らされると黒人の少年も青く見える…」という台詞が出てきたので、何と詩的な表現なのだろうと感心していたら…原作となった戯曲の中の台詞だそうだ。
一見、主人公の生活環境とは無縁のような豊かな詩情が、この作品の中には着実に流れていて救われる思いがする。
主人公のシャロンはおとなしくて内向的な性格。その上黒人、貧困、いじめ、ヤク中の母親、LGBTといったかなり生きにくい環境下にある。これじゃグレるのも当然、とだれもが感じるだろう。
しかし映画はシャロンの不幸や悲劇をことさらに強調しない。どこまでも淡々と、だが繊細に描いているのだ。監督の感性が光る静かな力作だ。
物語はシャロンの子ども時代、思春期、成人してからの三期に分かれて、それぞれ別の俳優が演じている。3人とも強さと哀しみを深くたたえた目をしていて、ぜんぜん似ていないのに同じ人のように感じてしまった。
そしてまた愛の物語でもある。見た目も立場もこんなに変貌したのに、彼への想いだけはあの時と少しも変わらない…はかなく切なく哀しい、愛の受難の物語だ。
オスカー作品賞発表の折、「ラ・ラ・ランド」ではなく正しくは「ムーンライト」が受賞だと告げられて、子役の俳優がその場で飛び上がって喜んだのが印象的だった。



はじまりへの旅
「はじまりへの旅」


とにもかくにも子は親を選べない…どんなに非常識で風変わりな親だとしても、一人前になるまではその親の庇護の下で育つのだ。
現代の消費社会に背を向け左翼的イデオロギーのもと、文明から隔絶された山奥で自給自足の生活を送る厳格な父親と6人の子どもたち。
サバイバル術のみならず高い教養と知識を身につけ、同時に体も鍛えぬく、という崇高な理念で子どもたちを育てる父親…ヴィゴ・モーテンセンが強烈なキャラクターを無理なく演じている。
だが入院中だった子どもたちの母親が亡くなりその葬儀に出席するため、一家は北部の山奥からニューメキシコまで長い道のりをキャンピングカーで旅することになる。
学校にも通わず文明社会を知らない子どもたちと変わり者の父親は、行く先々で騒動を起こしてしまう。
やがて子らの中で、父親の理念の矛盾点に気づき始めたり、自分の人生を生きたいと望むようになると、ちょっとした軋轢と悲劇が起きる。どんなに厳格な親でも子どもを抑えきれなくなるし、すべて思い通りにはならない。それが子の成長というものだから。
親もまた子によって育てられ成長していくものだということを、この映画は教えてくれる。
音楽もよかった。



未来よこんにちは
「未来よこんにちは」

フランス映画にはよくある「この俳優のために作られた作品」という感じ。まさにイザベル・ユペールのための映画だ。御年64歳の彼女の魅力を余すところなく見せている。
この年齢の女優で、監督がオマージュを捧げるため作品1本を撮ってしまう、という存在が今の日本の映画界にはいるのだろうか…と考えてしまった。
無理に若作りしている感じがまったくしないし、人工的なアンチエイジングを施しているようにも見えず、仕草から表情、普段着の着こなしまで成熟した魅力に満ちている。この軽やかさはハリウッド女優にもあまりいないタイプだ。
高校の哲学教師のナタリーは、ある日突然夫から愛人がいることを告白され離婚を求められる。夫とは同志と思って生きてきたのに、予想もしていなかった不貞行為に深く傷ついてしまう。
おまけに母親が認知症になり、ようやく施設に入れたかと思うと間もなく亡くなり、長年付き合いのあった出版社からは契約を打ち切られたりと悪いことは度重なる。気がつけば「おひとり様」になってしまったナタリーだが、淡々とひたすら前を向いて生きる様にみじめさはない。
とはいえ悪いことばかりではなく、教え子のひとり(若いイケメン)が慕ってくれたり、孫が誕生したりと彼女の周囲にも少しずつ変化が起きる。
これといったドラマチックな展開はないが、それだけにイザベル・ユペールの存在感が光る。
緑にあふれる公園のような屋外で哲学の授業を行うシーンがあったが、そんな環境で勉強できるフランスの高校生を少しうらやましく感じてしまった。

db is hereやっとこの回顧展について何か書こうという気になった。すでに映画で3回、天王洲で4回観たのだが。
初めて会場へ足を踏み入れた時は…鳥肌がたつようなボウイだらけの空間に畏れをなしたというか、たじろいでしまった。観るというより眺めるだけで精一杯。音楽さえただ頭上をかすめていくのだった。この感覚は、ボウイのライブに行った時、いつも最初の数曲は呆然としていたことを思い出した。
さすがに回を重ねるごとに冷静になってきた。すべての展示物とその詳細な解説を読むことができたし、映像も全部見た。トニー・ヴィスコンティがこの展示会のためにマッシュ・アップしたBGMに耳を傾ける余裕もでてきた。
まさに、毛穴の中までボウイを感じることができる素晴らしい空間だ。
DAVID BOWIE is というネーミングも絶妙だが、「ism」というis に続くフレーズも、何気にボウイの様々な側面を表していて興味深い。短くウィットに富んだフレーズがそこかしこに散りばめられている。
通常こういった個人の回顧展の場合、時系列で誕生から年代順に展示されることが多いだろう、それが個人の歴史を知るにはわかりやすい方法ではある。
だがヴィクトリア・アンド・アルバート博物館監修のこの回顧展はまったく違う見せ方をした。
会場内はいくつかのセクションに分かれていて、各パートにはテーマのようなものがあるのだがそれも明確ではない。でも切り口が独特で斬新だ。
入口でひとりひとりに渡されるヘッドホンにしても、単なる音声ガイドではなく工夫がなされている。
途中、「順路はどうなっているの?」と戸惑っている人たちを見かけたが、順番など気にせず好きなところから好きなように見ていけばいい。もともとひとつに定義づけるのは不可能な人なのだし。
もしDAVID BOWIE is が、単にキャリアをなぞるだけの展示だったなら、こんなに何度も足を運ばなかったかもしれない。同じものを何度も見ているはずなのに、毎回新しい発見があるのだからすごい。ボウイ・アーカイブ数万点の中から厳選しただけのことはある。
本当に、よくぞこんな物まで残しておいたと驚くような品々ばかり。思い出深い衣装の数々は保存状態も抜群。たくさんの歌詞やメモ類、スケッチやデッサン。果ては70年代にポケットにしのばせて持ち歩いていたコカイン・スプーンから、ベルリンのアパートの鍵まで。一見あまり意味がないようなモノでも、それらはまるで将来展示されることを予期していたかのようだ。
非常に強い自己愛を感じた。アーティストというものは皆そうなのかもしれないが。

「デヴィッド・ボウイって、70年代で死んでたら確実に伝説になったよね」…生前、こんなことを言う人がよくいたものだった。
結局ボウイは2016年まで生きて、亡くなった途端に伝説どころか「偉人」になってしまった。
死に際までもが実に天晴れな自己演出で、こんなことができるアーティストはそうはいない。
死後1年以上経過しても、まだまだ偉業をたたえる動きは止まらない。
ボウイ自身が今どこか遠くの場所から、自分にまつわる地球上のこの騒ぎを見てどう感じるているのかな、とふと想像してしまった。
予想通りと思っているのか、それとも多少は驚いているか。いずれにせよ、きっと笑って見ているにちがいない。天王洲の会場の最後、ヘッドホンを返却した後のおまけのコーナーのラストで、モニターの中のボウイが私たちに語りかけていたのと同じ茶目っ気のある表情で…(あれは日本独自の映像だそうだ、ありがとう!)


※追記

結局、この回顧展には7回足を運んだ。天王洲の会場がうちから近かったこともあったが、最後の方は何だか憑かれたように通ってしまった。妙に中毒性があるというか。
朝一番に会場に入り、すべての展示をとばして最後のショーモーメントのコーナーに足を踏み入れ、まだだれもいないその場所で三方向をボウイに囲まれて過ごした時間が忘れられない…
東京での会期は終わり、次はバルセロナだそうだが早くも懐かしくなってしまった。
アーカイブにはあるけれど展示されなかった品々は、まだ数多く存在するのだろう。今回間に合わなかった「★」やラザルスにまつわる物も。
ボウイ亡き後の回顧展という意味で、数年後にまた改めて見てみたいと思った。

lalalandpg
「ラ・ラ・ランド」

往年のミュージカルへのオマージュで彩られた…といっても昔の映画なんてよくわからないし、という向きもいるだろう。元ネタなど知らなくても楽しめる映画だから安心していい。もちろん知っていれば面白いは増すのだが。
お話はいたって古典的。いつか自分の店を持ちたい売れないジャズ・ピアニストのセブと、女優で成功することを夢みてオーディションを受け続けるミア。この2人が出会って恋におちる。
冒頭のシーン…高速道路での渋滞にしびれを切らせた人々が車から降りて踊り出す…もうそれだけでわくわくしてくる。
途中少し単調な部分もあるが、ラスト15分がいい。ありきたりなハッピー・エンディングではなく、ほろ苦い。
2人はそれぞれの夢を現実のものにするが、夢はいくつも叶えるというわけにはいかない。
叶わなかった想いが胸にこみあげ、諦めたもうひとつの人生を思い描く…甘く切なく走馬燈のように流れていく。ここが泣かせるのだ。
自分にも思い当たる節があるという人は、もうぐっときたにちがいない。
人生において「もしもあの時こうしていたら…」という「もしも」はないのだ、残念なことに。
ミュージカルとは絵空事ではなく心の真実だ、と言った人がいたがなるほどその通りだと感じた。



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「マリアンヌ」


原題はAllied 共謀者という意味。原作があるようだ。
スパイもの、というよりは正統派メロドラマという印象だった。いい意味で。
ブラピもマリオン・コティアールもクラシックな雰囲気がよく似合う。悲恋ものにふさわしいキャスティングだ。モロッコから始まるせいか、「カサブランカ」を彷彿とさせる。
ブラピは「白い帽子の女」といい、女性をたてる恋愛ものでいい味を出している気がする。マリオン・コティアールは、生き生きとして40年代ファッションも素敵に着こなしとても美しかった。
スパイものだから当然サスペンスな展開もあって目が離せなくなる。が、特に意外性もなく予想とあまり違わない展開、そして結末だった。
愛に生きてしまった女スパイの悲しい運命を、コティヤールが見事に演じ、丁寧な演出と相俟って涙を誘う。


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「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

長くて覚えにくく、おセンチな響きの邦題だが、映画を観た後では印象が変わるはず。原題は「解体」の意。そちらは内容そのものズバリ。
突然の事故で妻を亡くした主人公(ジェイク・ギレンホール)は、悲しみやショックを受け止めることも、感じることさえできず、ひたすら奇行に走る。
そして自分は本当に妻を愛していたのか、彼女のことをどれほど知っていたのかと何度も自問する。
心も車と同じで一度分解し、ばらばらにして再度組み立てることをしないと「再生」できない、と義父に言われた主人公はさっそく行動に移す。本当に「ぶっ壊す」ことを始めたのだ。手近なモノだけでなく自宅まで破壊し始めるのだが、果たしてその先に見えてきたものはあったのだろうか…
ナオミ・ワッツ演じるシングルマザーとその息子がうまく絡んできて、お互いの再生に力を貸すことに。息子役の子役がいい。きっと今後ブレイクするだろう。
非常によく練られ、作りこまれた脚本なので「出来すぎた話」といった印象にはならなかった。なかなかの秀作だと思った。
伏線が多く説明的な部分が少ないので、多少わかりにくさもあったが。
妻を亡くした男の再生物語という点では「永い言い訳」に似ているが、設定が同じなだけでテイストはまったく異なる。比較はあまり意味がないと思った。
話に集中しすぎてしまったが、本作は音楽のセンスもとてもよかった。新しめの曲も古い曲も…



suffragette
「未来を花束にして」


原題の suffragette サフラジェットは、女性参政権論を唱える人…まさにそのままの映画。
今、当然のようにある権利も、名もない人たちの努力と運動の歴史によって獲得したものなのだなぁと、改めて感じた。
100年前のイギリス…労働者階級の女性たちは差別と貧困の中、何の希望もない生活を強いられていた。
キャリー・マリガン演じるヒロインは7歳から洗濯工場のパートで働き、12歳からフルタイムの従業員、20歳でリーダー、24歳の今は一児の母となって働き続ける。同じ労働でも男性より賃金は3割安い。
職場でのセクハラ、パワハラは日常茶飯事。でもどこにも訴えられず耐えるしかない。
もしかしたら別の生き方があったのではないか、と感じ始めてから彼女変わる。
運動に身を投じれば失うものも大きい。幼い息子と別れる時、母の名前を忘れないように言ってきかせる姿が悲しい。
女性参政権の獲得…イギリスは1918年、日本1945年だ。

たかが世界の終わり
「たかが世界の終わり」

グザヴィエ・ドラン監督の新作は家族の物語だ。劇作家として成功したルイは、自らの死が近いことを知らせるため12年ぶりに帰省することにした。
息子との久々の再会にはしゃぐ母、幼い頃に別れたきりでほとんど兄の記憶がない妹、初対面の兄嫁、そしてルイとは正反対の兄。
ぎこちない対面、中身のない会話や思い出話で取り繕うものの、無遠慮な兄の言動で次第に不穏な空気が流れ始める。そしてついに修羅場を迎えることに。
家族とはまことにやっかいなもの。だれにとってもホーム・スイート・ホームとはいかないのだ。
突然怒り始める兄の態度にだれしも不快感を抱くだろうが、よく考えてみれば主人公もけっこう身勝手なのだ。12年も家に寄りつかなかったのに、久々の帰省は楽しい土産話どころか…
原作は舞台劇だそうだ。登場人物はほぼ4人のみで、わずか半日の出来事が会話中心に進んでいく。人物のクローズアップが非常に多く、細かい表情の変化やひりひりするような空気感が否応なしに伝わってくる。
ギャスパー・ウリエルは好演していたと思うが、個人的にはこの役はグザヴィエ自身に演じてもらいたかった…


homme less
「ホームレス ニューヨークと寝た男」

写真の男性をだれがホームレスと思うだろうか。ジョージ・クルーニーばりのお洒落なナイスミドル。ブランドもののスーツをばりっと着こなし、マンハッタンを颯爽と歩く。彼はマーク・レイ52歳、元モデルで現在はフォトグラファー、時々俳優業もこなす。
華やかなファッション業界、モデルの女の子たち、パーティーにクラブ…きらきらしたものに囲まれて生きている彼に、「家」はない。ねぐらは友達が住んでいるアパートの屋上。立派に不法侵入なので友達にも内緒、見つかって通報されたら逮捕だ。だから毎日ひやひやしながら寝袋に入って眠りにつく。
冬はマイナス10度、夏は40度近くにもなるあの街で、もう6年も屋外で暮しているタフネスに驚く。
会員になっているスポーツクラブでシャワーを浴び、そこのロッカー4つ分が彼のクローゼットだ。究極の断捨離。夜はぎりぎりまでカフェで粘ってパソコン仕事。屋上は寝るだけだ。早朝に目覚めると公園のトイレで洗面&身繕い。
そんなスリルに満ちた刺激的な生活をカメラは追う。大変に興味深い暮らしぶりだが、やはりもう少し彼の内面にも踏み込んでほしかった。彼は見栄っ張りだしみすぼらしくはないが、それでも痛々しさは滲み出ている。若者ならまだしも50歳過ぎてこの暮らしは辛かろう。
あまり貯金しそうもない人に見えるが、この映画に出演して有名になり、だれかタダで部屋を貸してくれる人が現れただろうか。
明日は我が身、と感じたニューヨーカーも少なくないはず。







silence-沈黙
「沈黙 サイレンス」

スコセッシ監督作品という立派な看板がなくても、ミニシアターでひっそり公開されたとしても、たぶん観に行ったと思う作品。17世紀の日本、キリシタン弾圧をポルトガル人司祭の目を通して描いた歴史ドラマだ。
学生時代に篠田正浩監督の「沈黙」も観たが、とても暗くて重い映画という以外ほとんど記憶にないのだが。
映画を見終わってすぐに遠藤周作の原作を読んでみたが(やはり素晴らしい小説!)、非常に忠実に映画化されていた。異なる箇所は僅かしかないというぐらいの完全映画化だ。
信仰を持って生きること、「沼地」としての日本文化論や、「究極のジレンマ」、転向など深く考えさせられる素材が多かった。
いくら原作に忠実といっても、それらの要素をうまく散りばめ、165分まったく飽きることなくかつ丁寧にまとめあげたスコセッシの手腕に感嘆する。
ハリウッド映画にありがちな奇妙な日本描写や、日本人を他のアジア人が演じるという不自然さもなく安心して見ていられる(ロケ地が日本でないことはすぐ気づいてしまったが…)
「戦メリ」以来のハイレベルな和洋混合、とだれかが書いていたが、ある意味当たっているかもしれない。
日本人キャストの中では塚本晋也と窪塚洋介の演技が出色と感じた。

映画はもちろん見ごたえある作品に仕上がっているが、原作の方がより内面に踏み込んだ描写が多く、重厚で深く心を揺さぶられる。映画を鑑賞してさらに作品の理解を深めたい人にはぜひ原作小説をお勧めしたい。



僕と世界の方程式
「僕と世界の方程式」

自閉症スペクトラムの少年が、その才能を生かして数学オリンピックに挑戦する青春ストーリー。
「小さな恋のメロディ」っぽい展開が、何とも可愛いらしくてイイ話。
とはいえ彼の母親の気持ちになると、ハンカチ用意しないではいられない。だれよりも愛しているのに、夫を失ってひとりでがんばっているのに…なかなか息子と気持ちが通じ合えないとは、何とつらいことだろう。
空気読めない超個性的な少年なのに、両手に花的な事態になってしまうのも、演じているのがエイサ・バターフィールドなら許せるか。しかし天才少年も恋すると、数学的思考回路に支障をきたすとは人間的でいいね。
数学天才少年の集団の中で、主人公以上に浮きまくっている少年が哀しかった。そして周囲の大人たちのことも丁寧に描いていて好感が持てた。
英国ケンブリッジと台湾の台北というふたつの場所の対比も効果的に使われていたと思う。



cineplex
「ザ・コンサルタント」

これはまた実に爽快でスカッとする映画だった。面白すぎて2時間8分があっという間。
ベン・アフレック演じるこの映画の主人公も自閉症だ。数字にめっぽう強いが、強いのは頭脳だけではない、というのがミソ。
そう、彼は最強の会計士(原題のaccountant )なのだ。表の顔と裏の顔を持った主人公というのは山ほどあるが、その二面性が非常に説得力がある。彼の複雑なバックグラウンドもよく考えられている。
自閉症の人の「強いこだわり」はしばしばドラマになるが、ここでは強すぎるアンチヒーローへのユーモアとも受け取れる。
だれかが「伏線の回収の仕方が絶妙」と書いていたがまったくその通り。ジグソーパズルの最後の一コマがぴたっとハマるみたいなスッキリ感があって気分がいい。
J・Kシモンズら脇役の使い方が物足りなく感じるぐらい主人公のキャラが立っている。
インドネシアの格闘技シラットがこんなところに登場するとは。ムエタイじゃダメなのだw
続編ができそうな気がする…



マギーズプラン
「マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ」


何やら「アニー・ホール」の現代版のような、ウディ・アレンぽい匂いのする映画だな、と最初感じた。
おしゃれでオフビートな感覚の恋愛映画はけっこう私好みなのだ。
ヒロインのグレタ・ガーウィグの魅力のためか、男女関係でジタバタしても何かすっきりしているし憎めないキャラ…と思いきや、よくよく考えると彼女ってものすごく自分勝手、ヤな女じゃない? と見終わってしばらくしてふと感じた。おまけにその自覚がないのだから、よけいに始末が悪い。
イーサン・ホークとジュリアン・ムーアの中年夫婦は振り回されていい迷惑。もちろん彼らだって欠点だらけだけど。大人の都合で巻き込まれる子どもたちが気の毒だ。
何か決定的に結婚に向かないのだけど、常に男が途切れない彼女みたいな女性ってたまにいるよね、と思ったりした。
こういう映画に共感する女性、けっこう多いのだろうか。共感はいいけどあんまり憧れないでほしい、なんて考えた。



「ネオン・デーモン」

私がトシなのかもしれないけど、この映画の良さがわからなかった。確かに映像は刺激的で新鮮に感じなくはなかったけど…
エル・ファニング主演、ファッション業界の内幕ものというから期待していたし、途中までは熱心に見入ったのだが。最後の方でスプラッターみたいになった時にはひたすら気色悪くて。
あれじゃエル・ファニングは、ただの思慮の浅いアホ娘ではないか。ヒロインのバック・グラウンドは語られることなく物語性も乏しい。まあ、そういったものを期待する方が間違っているのかも…



幸せなひとりぼっち
「幸せなひとりぼっち」

スウェーデン発の人間ドラマ。最愛の妻に先立たれたオーヴェは、異常なまでに偏屈な頑固おやじだ。
周囲の人々と折り合おうとはせず、協調性はゼロ。毎日文句ばかり人々に言ってまわっている。だが近所に引っ越してきた一家は、オーヴェに頼みごとをしたり世話を焼いたり、何かにつけて関わりを持とうとしている。
生きる気力をなくしている彼は亡き妻の元へ行こうと自殺を試みる。が、いろいろな人や事やネコにまで邪魔されてままならない。
死のうとするたびに彼は人生を振り返る。回想シーンを織り交ぜながら、オーヴェがなぜそういう人間になったかを語っている。彼は愛を知らない孤独な頑固おやじではなかったのだ。
運の悪いことは多かったが、愛にあふれた人生だったことは確かだ。彼の生きてきた道は悲喜こもごもだったが決して悪くはない。
お節介だが心やさしく逞しい隣人一家との関わりの中で、オーヴェの固く閉ざされた心が少しずつほぐれていく。やはり人間、ひとりでは生きられないのだ。
ただの「いいお話」では収まらない少しビターな人生讃歌。ラストも、これでいいのだ、と納得できる締め方だった。
アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。この賞は当ブログで推している作品がノミネートor受賞することが多い気がする…



アイヒマンを追え
「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」

数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ったナチス戦犯アイヒマンを、1960年に潜伏先で拘束するまでの極秘作戦の裏側を描いた実録サスペンス。
以前当ブログでも取り上げた「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」の前日譚、とも言える内容の映画だ。できればこちらを先に見たかった。
ドイツ人検事長のバウアーは、ナチスによる戦争犯罪の告発に奔走していたが、捜査は難航していた。アイヒマンの潜伏場所の情報を得て、身柄拘束に踏み切ろうとする。
計画は極秘のうちに進められるが、さまざまな困難が立ちはだかる。頼りになる部下もひとりだけという状況だ。スリリングな展開に最後まで飽きることがなかった。
そして、同性愛がまだ「重罪」だった時代の哀しいサイドストーリーも物語に色を添えていた。



knight-of-cups
「聖杯たちの騎士」

なにしろあの「ツリー・オブ・ライフ」のテレンス・マリック監督作品なのだから一応、覚悟はして出かけた。試写でなく自腹で観ているのだから、途中で席を立つこともあり得るかも、と。
さすがに途中退席はしなかったものの、ああ、やはり…私にはダメだった。どうにも苦手なのだ。
めくるめく映像美、は文句なく認める。しかしその壮大な映像に身を委ねてみても、クリスチャン・ベイル演じる主人公の心情は迫ってこない。
虚飾に満ちた生活にむなしさを感じて何やらもがいているようだが、偉大な自然の中で彼の内面はいかにも貧相に感じてしまう。大物俳優を贅沢に配置したものの、あまり効果的とは思えなかったし。
物語性が稀薄なことが問題なのではなく、どうにも大仰すぎてついて行けない。
章ごとに出てくるタロットカードの札の意味も、いまひとつピンとこなかったのだが。
タイトル通り小アルカナの「カップの騎士」が主人公なのか。それなら繊細で感情豊かなナイトは、まだ当分の間は彷徨い続けるのだろう。
苦手とは言ったが、何の作風もない凡百な映画より遙かに価値があるとは思っている。



メルー
「メルー」

ヒマラヤ山脈のメルー峰にある岩壁シャークスフィンに挑んだクライマーたちのドキュメンタリー映画。別に撮影隊がいるわけではなく、彼ら自身がカメラを回しているのでリアルなことこの上ない。
なぜわざわざこんな難しいルートを命がけで登りたいのか。私のちっぽけな想像力では到底理解できない…けれども、一見何の得にもならないことに夢中になり、取り憑かれている人たちを見るのは好きだ。
一日数メートルしか進めない日があったり、気温マイナス30度とか、宙づりのテントの中で3日間かんづめとか、あり得ないことだらけ。
でもきっと体験した人でなければ絶対にわからないような醍醐味を、彼らは存分に知っているのだろう。
手が届きそうなほど近くに見える天然のプラネタリウムとか、映像で見る百倍ぐらい素晴らしいにちがいない。人生観も変わるだろう。






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