ぎりぎりの女たち

小説家 真野朋子のブログです。 主に映画、音楽、舞台鑑賞や本の感想、著作について、日々の生活の中で関心を持ったことなどを書いていきます。趣味性の強い内容ですが、中身は堅苦しくないので、少しの間お付き合いください。

しあわせな人生の選択
「しあわせな人生の選択」

こういった佳作がなかなか注目されないのはとても残念だ。
だれにでも降りかかる問題…身内や大切な人の死を経験したことがあるなら、他人事とは思えないテーマだ。とても考えさせられることの多い作品だった。
長年の友人から、余命いくばくもない日々を思い残すことなく過ごすために、力を貸してほしいと頼まれたら。だれが断ることなどできるだろう。
たとえ突飛な思いつきでも何とか叶えてあげたいし、付き合ってあげようという気になる。
しかしこの映画はそんな重いテーマを深刻になりすぎず、時にユーモアを交えながら進めていく。
舞台俳優を生業としているフリアンは末期ガンで、すでに治療はやめて死に向かう最後の日々を送っている。長年の友人トマスはカナダ在住だがフリアンのためスペインにやってくる。
たった4日間の滞在、格別にドラマチックな出来事はないが小さなエピソードが丁寧に語られ、フリアンの「思い残し」「やり残し」を最小限にするためトマスは力を貸す。
離婚してひとり暮らしのフリアンは、愛犬の行き先を気にかけている。なかなか引き取り手が見つからず苦労していて、トマスも里親探しに付き合うことに。映画の原題トルーマンはこの犬の名前だ。
フリアンはとても高潔な人物とは言えず、失敗も多く問題だらけの男だが、それでもひとりで人生の最期を迎えようとしている。唯一の「相棒」の行く末に心を砕いているのも無理はない。
離れて暮している大学生の息子に会うシーンがよかった。親子なのにあまり交流がないので、何を話していいかわからずお互いぎくしゃくしがちな微妙な関係…だが心の深いところで絆を感じているのだ。
決してお涙頂戴にならず、感動の押しつけもないこの作品の語り口にとても好感を持った。スペイン映画の隠れた名作。


甘き人生
「甘き人生」

イタリアの巨匠マルコ・ベロッキオの最新作。ベストセラー小説の映画化だそうだ。
ほとんどすべての男性が何らかの形でマザコンだと思っているが、イタリアやスペインなどラテン系は特にその度合いが強いのかもしれない。
この映画のテーマはまさしく「母の喪失」にある。
経験した人ならだれでも思いあたるだろうが、母親を亡くすというのは何歳になっても深い喪失感を味わうものだ。母との関係にもよるが、何年も立ち直れないことは珍しくない。
主人公マッシモは大好きな母を幼い時に亡くし、以来心を閉ざし決して甘くはない苦い人生を歩むことに。
子どもの頃はどうしても母の死を受け入れられず、父親や神父がどんなに説明したり解き明かしてくれても救いにはならなかった。
幼少期の母との楽しい思い出、葛藤し続けた少年時代、ジャーナリストとして活躍する現在が交錯しながら物語は進んでいく。
母の死の真相は、予告篇で見てうっすら予想していた展開と大きく異ならなかった。が、真相の究明がこの作品のテーマではない。ジャーナリストの彼なら、調べようと思えばできたはずなのに彼はあえてしなかった。母の死自体を封印してしまったのだ。
だがベレニス・ベジョ扮する医師と出会ったことで、マッシモは少しずつ心を開き、過去のトラウマと向き合うようになっていく。
映画の原題は「よい夢を」。母が寝る前に言ってくれた、そして最後の言葉だ。同時にそれは、イタリアの古きよき時代への郷愁、の意味合いも含んでいる。個人の物語ではあるが、時代性や文化的な背景までもが描きこまれた佳作。



ボンジュール・アン
「ボンジュール・アン」

映画プロデューサーの夫は仕事人間で、カンヌでのヴァカンスも途中で切り上げ仕事に戻る始末。ひとり残されたアンは、たまたま夫の知人ジャックに車でパリまで送ってもらうことに。
さっさとパリに戻りたいアンの気持ちとは裏腹に、フランス人のジャックはあちこちに寄り道しようとする。絶景ポイントで降りたり、おすすめのレストランに寄ったり、史跡を見学したり。とにかくアンにフランスの魅力を伝えたくて仕方ないのだ。その上、下心も見え見え。アンはもちろん気づいているが、やんわりと交わしていく。
最初はしぶしぶ付き合っていたアンだが、次第にこの珍道中が楽しくなってくる。久々に女を取り戻した気分にも浸り、まんざらでもない気持ちになってきた。
人生は最短距離で前へ進むばかりでなく、こうした寄り道もいいものだ、と気づいたのだ。夫とは今のところこういう無駄はできないし…
だが、夫のロレックスの時計のくだり…ジャックの暴露話でアンは打ち解けていた気持ちがちょっと引くいてしまう。あのタイミングであの話をされたら、私なら完全に醒めてしまうな。というか旅はお終いだ。妻というのはデリケートな生き物だしプライドも高いのだ、とジャックに教えてあげたくなった。
これといって大きな展開は起きないが、アンにとっては実りの多い2日間だっただろう。
何かを始めるのにもまだ遅くない年齢だ。
微妙な気持ちの揺れや心の襞を、ダイアン・レインが軽やかに演じた。御年80歳にして初の長編映画監督デビューしたコッポラ夫人のこなれた演出もいい。
ダイアン・レインの旅ファッションの着こなしがとても素敵だ。いかにも素材よさげな無地のベージュや白のパンツとトップスに、最小限のアクセサリー。自信がなければできないコーディネートだ。


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「ハクソー・リッジ」

「良心的兵役拒否者」という言葉をこの映画で初めて知った。太平洋戦争末期の実話だそうだ。
銃は手にしない、人は殺さない、それでも従軍するというのは、信仰のためとはいえ少々身勝手に見えてしまうが(日本であれば非国民扱いだろう)、その彼が衛生兵として前線で大活躍するのだ。
戦場の舞台は沖縄。沖縄戦の悲惨さは話には聞いていたが、ここまでリアルに再現されると胸が苦しくなってくる。まさに地獄絵だ。
しかし映画は戦争のむごたらしさを描くことがメインテーマではない。戦地にあっても銃を取らずわずかな医療品を抱え、「もう一人、あともう一人助けられる」と地獄のような戦場を走り回る主人公デズモンドのゆるぎない信念を描き出す。
冒頭の1時間、彼の生い立ちや家族関係、恋人との出会いから入隊までじっくりと丁寧に語られる。そのことでデズモンドの人となりが浮きぼりになり、彼の信念や戦地での行動を理解する助けになる。
感動作を正攻法で描いたメル・ギブソン監督の手腕はなかなかのものだ。日本軍や日本兵の描写は物足りなさも感じるが、あれが限界なのだろう…



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「残像」

ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の遺作。「灰とダイヤモンド」の頃からテーマは一貫していてぶれることはない。徹底したレジスタンスの姿勢だ。
第二次世界大戦末期に迫害を受けた、画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの生涯を映し出す。
前衛的な作風の彼は、スターリン崇拝の全体主義に抵抗したことから、大学では教授職を追われ、美術館からは作品が撤去されてしまう。それどころかあらゆる権利を剥奪され、絵具や配給の食料さえ買えなくなってしまう。
最初は密かに支援していた学生たちも、彼と関わっていることがばれると罰せられ、次第に離れていく。
妻とは別れ、思春期の娘はいるものの微妙な距離感だ。
とても高潔とはいえない彼の人格だが、芸術への思いと不屈の精神は生涯変わることがなかった。
行き倒れ同然の末路はかなり悲惨ではあるが、ワイダ監督は乾いたタッチで淡々と必要最小限に描いていく。監督の遺作にふさわしい題材だったと思う。



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「ハロルドとリリアン ハリウッド・ラブストーリー」

ハロルドは絵コンテ作家、リリアンは映画製作のための情報を収集するリサーチャーだ。60年代から映画界に貢献してきたこの夫婦のドキュメンタリー映画。
ハリウッド映画というのは、彼らのような名も無き裏方スタッフのおかげで成り立っているのだなぁ、とつくづく感じた。こうした人々の熱意やこだわりなくして名画は生まれない。
「鳥」や「卒業」といった名作の有名なあのカットは、ハロルドの絵コンテから生まれたのか…と驚きをもって見た。またリリアンは、映画の時代考証などに欠かせない資料をライブラリー化し、それを守り続けた。
業界内では知らない人はいないというぐらいの有名人なのに、クレジットにも載らない時期があったそうだ。
映画は、引退して悠々自適の生活を送るリリアンの語りで進められる。ハロルド亡き後、ハリウッドの映画人たちが暮らすホームで余生を楽しんでいる。二人の仕事についてはもちろんだが、夫婦の物語について語る時のリリアンはとてもチャーミングだ。
自閉症の子を育てながら、自らの仕事も全うした人生は素晴らしい。

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「セールスマン」
イランの映画。アスガー・ファルハディ監督の作品は「別離」「ある過去の行方」とも、このブログで取り上げた質の高い作品だ。
テヘランに住む夫婦は地元の小さな劇団に所属し「セールスマンの死」を上演していた。
妻はある日、夫の不在中に侵入者によって性的被害を受ける。夫は警察に通報しようとするが、妻は表沙汰にしたくない。すると夫は自分で犯人探しを始めることに。だが意見の食い違いから夫婦の間には次第に距離ができていく…
不幸な出来事をきっかけに夫婦間に溝ができる…という状況はどこの文化圏でもあり得る話だが、この映画の場合はイランに於ける(というかイスラム圏での)女性の社会的立場の厳しさがよく伝わった。
表沙汰にしたくないのは、恥ずかしいというよりもむしろ、裁きの場でも決して女性有利には運ばないことを知っているからだろう。抑圧の中で生きる辛い立場が哀しい。
けれども夫は、妻が侮辱を受けたことに対して怒りが治まらないのだ。「目には目を」という、実にイスラムっぽいメンタリティーで仕返しをしようとする。
途中の展開がやや作りすぎの感もあるが、とにかく目が離せずスリリングだ。が、この作品の主旨はミステリーな部分ではない。ペルシャ語で演じられるアーサー・ミラーというのも新鮮だが、舞台のシーンが繰り返し挿入され暗喩として用いられている。


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「20センチュリー・ウーマン」

79年のカリフォルニアが舞台の青春映画。自由な考え方を持つシングルマザーに育てられている、15歳の少年ジェイミーのひと夏の成長物語。
彼を取り巻く周囲の人物たちがこれまたユニーク。こんな環境で育ったら嫌でも大人びる、というか耳年増になるに違いない。
男の子には「生き方の見本になるような大人の男が必要」とよく言われるが、ジェイミーにはそれがいない。しかし別にいなくてもいいんじゃないか、とこの映画は感じさせてくれる。周りが少し変わった女性ばかりでも、愛があればそれでいいかも。
この時代ならではのリベラルな女性たち。ジェイミーは何かと反発したくなるだろうが、20年ぐらい経った時、貴重な経験だったと感じるはず。
女友達役のエル・ファニングがみずみずしい魅力を振りまいている。若いって、いいな。
いい味出してるアネット・ベニングは実年齢と近い役なのに、ルックス的にジェイミーのおばあちゃんに見えてしまって少し残念。
個人的には、「母親」というのはもっと普通の人の方がいろいろ楽だと思うが、こればかりは自分では選べないからしょうがない。
当時のパンクやニューウェーブなど音楽も懐かしかった。


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「ザ・ダンサー」

ベル・エポックの伝説的女性ダンサー、ロイ・フラーの伝記映画。フランス映画でダンスものといえば、すぐにクラシック・バレエを連想するが、ロイ・フラーはフリー・ダンスの祖だ。自身で振り付けるだけでなく、衣装、舞台構成、照明のアイデアまで出した人。
彼女が考案したまるで装置のような衣装を使用した踊り…たっぷりなシルクの薄衣に棒を通して両腕を振り回す、サーペンタイン・ダンスで一躍有名になった。照明の効果と相まって幻想的な空間を作り出していた。
映画はロイ・フラーが踊りを始める以前から、時代の寵児となる人生の前半を描いている。歌手出身のソイが大熱演している。
確かに彼女のダンスは当時としては大変画期的だったと思うが、今見るとややワンパターンだ。後半に登場する(ロイ・フラーが支援していた)イサドラ・ダンカンのモダンダンスの方がもっと見たいかも、と正直思ってしまう。16歳のリリー=ローズ・デップが小悪魔的で美しく、鮮烈なダンスシーンを見せてくれた。
またロイ・フラーのパトロン役の伯爵、ギャスパー・ウリエルもこの時代らしい退廃的な魅力を醸し出している。せっかくの題材なのだから、全体にドラマ性がもう少し欲しかったと思う。

ボウイ アーカイヴ本
今から遡ること27年前。1990年5月15日、16日にデヴィッド・ボウイが東京ドームで来日公演を行った。この「サウンド&ヴィジョンツアー」は、ボウイが過去の曲はすべて封印するので、ヒット曲が聴ける最後のチャンス!というふれこみだった。
私は70年代からのボウイ・ファンで、彼の心変わりには幾度となく付き合わされてきた。だからその発言もハナから信じていなかった。
きっとまた数年したら何事もなかったように過去のナンバーを歌うにちがいない、と確信があった(事実その通りになった)
当時の私は、ジュニア小説やら恋愛エッセイや雑誌の原稿など、とにかく依頼があったものはすべて引き受けていた。年に何冊かは本を出版し、かなり多忙だったが実入りもよかった。世の中はバブルで浮かれていた。私も存分に独身を謳歌して、実にいい時代だった。
その頃のデヴッド・ボウイは、レッツ・ダンス当時ほどではなかったが、日本での人気は高かった方だろう。何しろ東京ドーム2公演が実現したのだから。
私は普段、来日アーティストの通訳をしている友人に頼んでチケットを取ってもらっていた。だがその時は運悪く友人が海外出張中だったので頼めず、自分でぴあに電話をかけた。が、ぜんぜん繋がらなくて4時間近くかかった。おかげで友達と遊びに行く約束をすっぽかしてしまうことになり、本当にひどいことをしてしまった。ほかでもないボウイのためだから勘弁して、と友達には平謝りした。
自力で取ったチケットなので2公演とも1階のスタンド席だった。スクリーンの映像を駆使した、シンプルだがセンスのよいステージ構成だった。ボウイを見るにはあまりにも広い空間だったけれど。それでもヒット曲のオンパレードに酔った。
初日と2日目、連日公演だが私は2回とも行った。初日だけしか行かなかった人にはかなり評判が悪かった。何しろボウイは初日にアンコールをやらず、絶対に歌うと言っていた「ロックンロール・スイサイド」もやらずにステージを降りてしまったのだ。トラブルにこそならなかったが、かなりのブーイングだった。いっしょに行った友人は帰り道ずっと文句を言っていた。
明日はきっとやるから、と私は確信があった。ボウイとはそういう人なのだ。体調不良だとか機材の不備だとか、理由はいろいろ憶測されたが何が本当の原因だったのかはわからないしどうでもいい。
けれども多くのマスコミが集まる初日にアンコールなしだったのだ。
私の思った通り2日目はアンコールを5曲、前日より30分近くも長いステージを見せてくれた。もちろん「ロックンロール・スイサイド」も。感無量だった…
数日後、友人を通じて「ミュージック・ライフ」に公演のレヴューを書かないか、という依頼が舞い込んだ。私が中、高校時代に愛読していた雑誌なので即OKした。
外部ライターは山ほどいるはずだし、ボウイの記事なら喜んで引き受ける人は多いだろうに、なぜ私に?
理由のひとつは、2日間の正確なセットリストがわかる人、というのが条件だったから。今とは違ってインターネットのない時代だ。スマホでささっと調べるというわけにはいかないのだ。
小難しいことやマニアックなことは書かなくていい、だからといってボウイべったりではなく客観性もある記事で、と編集者に言われた。
1990年当時の「ミュージック・ライフ」は、私が購読していた70年代の頃とはだいぶ内容が変わっていた。下の写真の通り、何だかヘヴィメタルの雑誌みたいだし、表紙にボウイの名前はないし本文での扱いもかなり小さかった。あまり重要視していないのでライター選びも適当だったのかもしれない。
原稿はわりとさらさらっと書いて渡した記憶がある(今読み返すとかなり赤面ものだが)。自分がかつて愛読していた雑誌に大好きなボウイのことが書けて素直にうれしかった。ただひとつ、編集者が私の名前を誤植してしまったことを除いては…

それから時を経て14年後の2004年。リアリティ・ツアーの来日(結果的にこれが最後の来日になった)を前に、再びデヴィッド・ボウイが注目を集め人気も再加熱していた。
シンコー・ミュージックは過去の雑誌記事や写真を集めたムック「アーカイヴシリーズ」を出版していたが、ボウイ版も出たので私はすぐに購入した。
「ミュージック・ライフ」は98年に休刊したが、かつて目にしたのことあるグラビアや記事が満載で、ひたすら懐かしかった。細かく念の入った構成にも感心した。
だがページをめくるうちに仰天した。何と、私が書いたレヴュー記事がそのまま再録されているではないか。ぜんぜん知らなかった。こういうのって、ライターには知らせずに載せるものなのか?もしも事前の問い合わせがあったなら、名前の誤植だけは絶対に直してもらいたかった。
何だかふっきれなくて、もやもやした気持ちを抱いていた。あちこちで不満を漏らしていた記憶がある。そんな話がどこから伝わったのか、ムックを編集したプロダクションの人から連絡があった。
再録にあたってはライター全員の了承を得たのだが、ひとりだけどうしても探せない人がいた、と。それが私だったのだ。もし名前が間違っていなければ、検索して簡単に調べがついただろう。拙著を出版している会社を通して連絡できたはずだ。何とも運が悪い。
プロダクションの人から、さらっとしたお詫びのメールが届いた。それでお終い。
もちろんこちらもそれ以上どうしてほしい、というわけでもない。が、こういったムックの場合、重版することは考えにくいので、名前の誤植は正されないままだ。
それから13年も経過し、すでに世の中の市場からは消えてしまったムック。
今でもボウイファンの本棚の奥の方にひっそり眠っているかもしれない…

ML1990年7月

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「マンチェスター・バイ・ザ・シー」

好みはあるだろうが、いい映画だった。こういうのを観ると苦しくなるからイヤという人もいるかもしれないが、それなりの着地点は用意されいるし救いもある。
ケイシー・アフレック演じる主人公のリーは、一体何がそんなにつらいんだろうというほど孤独に満ちているし、幸せになることを拒否しているようだ。一見静かな男に見えるが、ちょっとしたことですぐ腹をたてるし、人に絡むし、相当なストレスを抱えていることは明らかだ。
兄が病死したことで葬儀のため故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰るが、兄の遺言により16歳になる彼の息子の親権者になってしまう。
しかしリーにはどうしても故郷に帰りたくない理由があった…
映画は現在進行形の物語の中に、リーが別人のように屈託なく愛のある生活を送っていた数年前の姿を挟みこみながら、ゆっくりと進んでいく。
徐々に彼の秘密が解き明かされていくのだが、謎解きではないしそれ自体が問題なわけでもない。
一言で表せば、どん底にまで落ちた男の再生の物語、ではあるがそれだけではない。
リーを取り巻く様々な人物…兄や甥っ子、元妻や親族ばかりでなく、周辺の人々に至るまで描写が実に丁寧で細やかだ。
主演のケイシー・アフレックは、難しい役どころを見事に演じきったと思う。ちょっとした役にもいい俳優を起用しているので、物語に厚みが出ていた。


arrival
「メッセージ」


ただのSF映画ではないだろうと思ってはいたものの、ここまで哲学的&思考的な内容とは恐れ入った。
異星人との「ファースト・コンタクトもの」は数あれど、このパターンはあまりないだろう。
世界各地に突如として現れた宇宙船。特に好戦的でも友好的でもないが、その目的は何なのか。
中にいる生命体とコミュニケーションをとるため、交渉役に抜擢されたのが言語学者の女性ルイーズ。
彼女は様々な手段を駆使し、粘り強く異星人と意思疎通をはかろうとする。とても理性的だ。待ちきれず戦闘状態になろうとする軍とは対照的。
異星人との物語が進行する中、ルイーズと幼い娘との幸せな生活が幾度となくフラッシュバックとして登場する。
これは一体何を意味しているのか…。「運命」や「時間」といった観念的なテーマが観客にも突きつけられる。深い洞察を求められる作品だ。SF映画という枠にはまったく収まりきれない。逆にいわゆるサイエンス・フィクションが好きな人には、七面倒くさいと感じるかもしれないが。
人は、あらかじめ未来がわかっていてもやはり同じ選択をしてしまう…という究極のジレンマ。だからこそ人間なのだ。


light between oceans
「光をくれた人」

子どもを亡くしたばかりの夫婦の元へ、偶然小舟で流れ着いた赤ん坊。これは天からの授かり物か?
2人は黙って自分たちの子として育ててしまう。しかし後に、赤ん坊には実の母親が生きていたことが判明する。
夫は罪の意識に耐えられなかった。妻は犯してしまった罪はなかったことにして、ただひたすら子ども溺愛し、事実を告白しようとする夫を非難する。
今の時代から考えると妻の言動は愚かなように感じるが、当時の女性の立場や流産を繰り返していることを考慮すればわからなくもない。孤島の灯台守という特殊な環境も影響しているだろう。
四季の移ろいや厳しい自然に夫婦の心情が映し出される。
罪に苦しむ主人公の苦悩を、マイケル・ファスベンダーが抑制のきいた演技で好演していた。
実の母親の心の広さがとても印象的だった。罪を赦すということは、結局は自分自身も救われることなのだということを教えてくれる。


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「スプリット」

ジェームス・マカヴォイが23もの人格を持つ男性に扮し、女子高生3人を拉致監禁するというスリラー映画。しかもあのシャマラン監督作品だ。
映画の中で登場するキャラクターは6人ぐらいだが、しゃべりながらいつの間に他の人格に入れ替わってしまったり、かなりの難役だったのでないだろうか。
でも彼ならもうちょっと使い分けがうまくできたようにも感じたが…
多重人格者であることはかなり早くわかってしまうので、もう何でもアリの展開になっている。
理性的な人格の時に精神科医のカウンセリングを受けたり、監禁され恐怖の最中にいる女子高生のひとり、ケイシーの幼少期の出来事を挟みこんだりしながら物語は進んでいく。
被害者も加害者も、幼い頃に虐待を受けた経験があるという点がいかにも現代的だ。
ケイシーを演じたアニャ・テイラー・ジョイは、将来性を感じさせる存在だった。これから頭角を現していくことだろう。
今回は「なーんだ」のラストにはならなかったが、最後の最後おまけのようなオチで思わず笑ってしまった。いや、あれは監督の悪ノリではなくマジだったのか…



カフェ・ソサエティ
「カフェ・ソサエティ」

ウディ・アレンの新作には正直あまり期待しなくなってしまった。それでも毎年のように新作を作り続けるパワーに感心する。
しかし今回はなかなかよかった。ストレートな恋愛映画、しかも舞台はニューヨークではなくハリウッドだ。何という変化! とまず驚いてしまった(でも結局は、NYがいちばんという話だった)
1930年代、古き良き時代のハリウッド、まだ夢の工場だった頃だ。恋する気持ちは時代が変わっても同じ。不倫で悩むのも、2人の男の間で揺れ動く気持ちも。
昔からウディ・アレンの作品には、別れた元恋人同士が何年か経って再会し、思い出話をしながら楽しく過ごす…といったようなシーンがよく出てきた。
そんなこと本当にあり得るだろうか、と私はいつも納得できずに見ていたのだが。
やはりそういう2人は会うべきじゃないのだ、会うことに何の意味もない、と今回の映画が語ってくれた。
ラストは例のミュージカル映画に似ている、との意見もあるが、恋愛映画としては本作の方が何段も上に感じた。



「マイ・ビューティフル・ガーデン」

「アメリ」あたりが好きな女性にはとてもハマる作品ではないだろうか。キュートな映画。
ヒロインの不幸な生い立ちや普通と違った気質など、あまり憂うことなく自然に受け止めている。
こじんまりした家のインテリアも、決して高くはなさそうな服も可愛い。大嫌いな庭仕事をするための服装までお洒落なのだから。
肝心のガーデニングやら植物の話がもっと出てくるのかと期待していたのだが…
でもまあ、いい人ばかり出てくるし癒される話だった。

LION-1
「Lion/ライオン 25年目のただいま」

まず、これが実話であるということに驚かされた。しかし同時に、事実にもまさるほどのこの映画の物語性に思わず唸ってしまった。
インドの貧しい村で育った5歳のサルーは、迷子になって1000キロも離れた遠い場所まで来てしまう。自宅の正確な住所はわからず、親の名さえはっきり言えない。
新聞に迷子情報として何度か掲載されるがだれも名乗りでない。
サルーは孤児院に入れられた後、オーストラリアの夫婦(養母役のニコール・キッドマンがいい!)のもとへ養子となって渡り、そこで暮らすことに。
不自由もなく養父母から愛されて成長するのだが、ある時グーグルアースで自分の故郷を探すことを思いつく。
広いインド国内、幼い時のわずかな記憶を頼りに実家を探し出すのは至難の業だ。
でも自分を探しているかもしれない母親やきょうだいがいると思うと、元気で暮らしていることだけでも知らせたいと思ってやまない。
毎日毎日何時間もグーグルを見続け、2年かけてようやくそれらしき場所に辿り着いた。
これは何十年も前の話ではなく割と最近のこと。もしサルーがSNSを使って情報を拡散していたら、もっと早くわかったかもしれないのに。
だが彼は養父母への遠慮から、故郷探しはひとりで黙々と行っていたのだ。
映画は子ども時代にかなり時間を使っていて、デヴ・パテルは後半になってやっと登場する。
無人の列車に乗って知らない場所に行く不安、迷子でひとり街をさまよう心細さに、見ている方も胸がつまる。スラム育ちゆえに、たった5歳でも路上で生きる術を知っているし、自分にとって危険な大人を見抜く知恵もある。それがかえって悲しい。
タイトルのライオンの意味は、最後の最後でようやくわかる仕掛け。モデルになった実際の人物の写真などとともに、エンドタイトルまで楽しめる。



午後8時の訪問者
「午後8時の訪問者」
ベルギーの監督の作品。舞台もベルギーの街だ。
若い女医のナタリーは仕事熱心で有能だ。ある日、診療時間をだいぶ過ぎた後にベルを鳴らしてきた人を無視し、応答せずに帰宅してしまった。
だが診療所にやってきたその黒人少女が、身元不明の遺体となって近くで見つかったことがわかり、ナタリーは激しく後悔する。
あの時、ドアを開けてやっていれば少女は死ななかったかもしれないのに。
ナタリーは、少女がどこのだれなのか、何があって命を落とすことになったのか、解明するために動き出す。あまり積極的に動こうとしない警察とは別にひとりで調べ始めるのだが、同時にそれは危険な世界へ足を踏み入れることだった。
十分にスリリングでサスペンスフルな内容なのだが、実に淡々とした静かな映画。とても地味だ。
もしもハリウッド映画で同じ題材を撮っていたら…こうはいかなかったにちがいない。
しかしこれは謎解きが主題のサスペンス映画ではない。演出がクールな分、心理描写が突出していた。一見落ち着いているように見えるナタリーの心の中は千々に乱れ、後悔や責任感や自己嫌悪やらでいっぱいなのだ。
音が極端に少なく、音楽がまったくといっていいほど使われていなかったのも特長的だ。背景でかすかに聞こえてくるのは高速道路を走る車の音。無機質さが際立っていた。



「T2 トレインスポッティング」

やたら汚くて乱暴で、でも音楽はすごくいい! と思った前作。それから20年。同じ監督&キャストでの同窓会映画。今回もやはり似たような感想だった…。
若者がおじさんになっても、人は基本的にはさほど変わらないものだ。だからこそ同窓会は懐かしくていい。
正直、前作はすっかり忘れてしまっていたのだが、時折スチール写真のように登場する若き日の彼らを見て記憶を辿っていた。
きっと彼らと同世代のイギリス人が観たら、ツボにくる箇所がたくさんあるんだろうな…などと考えてしまった。
今回も「ラスト・フォー・ライフ」が最高だった。


moonlight
「ムーンライト」

映画の中で「月の光に照らされると黒人の少年も青く見える…」という台詞が出てきたので、何と詩的な表現なのだろうと感心していたら…原作となった戯曲の中の台詞だそうだ。
一見、主人公の生活環境とは無縁のような豊かな詩情が、この作品の中には着実に流れていて救われる思いがする。
主人公のシャロンはおとなしくて内向的な性格。その上黒人、貧困、いじめ、ヤク中の母親、LGBTといったかなり生きにくい環境下にある。これじゃグレるのも当然、とだれもが感じるだろう。
しかし映画はシャロンの不幸や悲劇をことさらに強調しない。どこまでも淡々と、だが繊細に描いているのだ。監督の感性が光る静かな力作だ。
物語はシャロンの子ども時代、思春期、成人してからの三期に分かれて、それぞれ別の俳優が演じている。3人とも強さと哀しみを深くたたえた目をしていて、ぜんぜん似ていないのに同じ人のように感じてしまった。
そしてまた愛の物語でもある。見た目も立場もこんなに変貌したのに、彼への想いだけはあの時と少しも変わらない…はかなく切なく哀しい、愛の受難の物語だ。
オスカー作品賞発表の折、「ラ・ラ・ランド」ではなく正しくは「ムーンライト」が受賞だと告げられて、子役の俳優がその場で飛び上がって喜んだのが印象的だった。



はじまりへの旅
「はじまりへの旅」


とにもかくにも子は親を選べない…どんなに非常識で風変わりな親だとしても、一人前になるまではその親の庇護の下で育つのだ。
現代の消費社会に背を向け左翼的イデオロギーのもと、文明から隔絶された山奥で自給自足の生活を送る厳格な父親と6人の子どもたち。
サバイバル術のみならず高い教養と知識を身につけ、同時に体も鍛えぬく、という崇高な理念で子どもたちを育てる父親…ヴィゴ・モーテンセンが強烈なキャラクターを無理なく演じている。
だが入院中だった子どもたちの母親が亡くなりその葬儀に出席するため、一家は北部の山奥からニューメキシコまで長い道のりをキャンピングカーで旅することになる。
学校にも通わず文明社会を知らない子どもたちと変わり者の父親は、行く先々で騒動を起こしてしまう。
やがて子らの中で、父親の理念の矛盾点に気づき始めたり、自分の人生を生きたいと望むようになると、ちょっとした軋轢と悲劇が起きる。どんなに厳格な親でも子どもを抑えきれなくなるし、すべて思い通りにはならない。それが子の成長というものだから。
親もまた子によって育てられ成長していくものだということを、この映画は教えてくれる。
音楽もよかった。



未来よこんにちは
「未来よこんにちは」

フランス映画にはよくある「この俳優のために作られた作品」という感じ。まさにイザベル・ユペールのための映画だ。御年64歳の彼女の魅力を余すところなく見せている。
この年齢の女優で、監督がオマージュを捧げるため作品1本を撮ってしまう、という存在が今の日本の映画界にはいるのだろうか…と考えてしまった。
無理に若作りしている感じがまったくしないし、人工的なアンチエイジングを施しているようにも見えず、仕草から表情、普段着の着こなしまで成熟した魅力に満ちている。この軽やかさはハリウッド女優にもあまりいないタイプだ。
高校の哲学教師のナタリーは、ある日突然夫から愛人がいることを告白され離婚を求められる。夫とは同志と思って生きてきたのに、予想もしていなかった不貞行為に深く傷ついてしまう。
おまけに母親が認知症になり、ようやく施設に入れたかと思うと間もなく亡くなり、長年付き合いのあった出版社からは契約を打ち切られたりと悪いことは度重なる。気がつけば「おひとり様」になってしまったナタリーだが、淡々とひたすら前を向いて生きる様にみじめさはない。
とはいえ悪いことばかりではなく、教え子のひとり(若いイケメン)が慕ってくれたり、孫が誕生したりと彼女の周囲にも少しずつ変化が起きる。
これといったドラマチックな展開はないが、それだけにイザベル・ユペールの存在感が光る。
緑にあふれる公園のような屋外で哲学の授業を行うシーンがあったが、そんな環境で勉強できるフランスの高校生を少しうらやましく感じてしまった。

db is hereやっとこの回顧展について何か書こうという気になった。すでに映画で3回、天王洲で4回観たのだが。
初めて会場へ足を踏み入れた時は…鳥肌がたつようなボウイだらけの空間に畏れをなしたというか、たじろいでしまった。観るというより眺めるだけで精一杯。音楽さえただ頭上をかすめていくのだった。この感覚は、ボウイのライブに行った時、いつも最初の数曲は呆然としていたことを思い出した。
さすがに回を重ねるごとに冷静になってきた。すべての展示物とその詳細な解説を読むことができたし、映像も全部見た。トニー・ヴィスコンティがこの展示会のためにマッシュ・アップしたBGMに耳を傾ける余裕もでてきた。
まさに、毛穴の中までボウイを感じることができる素晴らしい空間だ。
DAVID BOWIE is というネーミングも絶妙だが、「ism」というis に続くフレーズも、何気にボウイの様々な側面を表していて興味深い。短くウィットに富んだフレーズがそこかしこに散りばめられている。
通常こういった個人の回顧展の場合、時系列で誕生から年代順に展示されることが多いだろう、それが個人の歴史を知るにはわかりやすい方法ではある。
だがヴィクトリア・アンド・アルバート博物館監修のこの回顧展はまったく違う見せ方をした。
会場内はいくつかのセクションに分かれていて、各パートにはテーマのようなものがあるのだがそれも明確ではない。でも切り口が独特で斬新だ。
入口でひとりひとりに渡されるヘッドホンにしても、単なる音声ガイドではなく工夫がなされている。
途中、「順路はどうなっているの?」と戸惑っている人たちを見かけたが、順番など気にせず好きなところから好きなように見ていけばいい。もともとひとつに定義づけるのは不可能な人なのだし。
もしDAVID BOWIE is が、単にキャリアをなぞるだけの展示だったなら、こんなに何度も足を運ばなかったかもしれない。同じものを何度も見ているはずなのに、毎回新しい発見があるのだからすごい。ボウイ・アーカイブ数万点の中から厳選しただけのことはある。
本当に、よくぞこんな物まで残しておいたと驚くような品々ばかり。思い出深い衣装の数々は保存状態も抜群。たくさんの歌詞やメモ類、スケッチやデッサン。果ては70年代にポケットにしのばせて持ち歩いていたコカイン・スプーンから、ベルリンのアパートの鍵まで。一見あまり意味がないようなモノでも、それらはまるで将来展示されることを予期していたかのようだ。
非常に強い自己愛を感じた。アーティストというものは皆そうなのかもしれないが。

「デヴィッド・ボウイって、70年代で死んでたら確実に伝説になったよね」…生前、こんなことを言う人がよくいたものだった。
結局ボウイは2016年まで生きて、亡くなった途端に伝説どころか「偉人」になってしまった。
死に際までもが実に天晴れな自己演出で、こんなことができるアーティストはそうはいない。
死後1年以上経過しても、まだまだ偉業をたたえる動きは止まらない。
ボウイ自身が今どこか遠くの場所から、自分にまつわる地球上のこの騒ぎを見てどう感じるているのかな、とふと想像してしまった。
予想通りと思っているのか、それとも多少は驚いているか。いずれにせよ、きっと笑って見ているにちがいない。天王洲の会場の最後、ヘッドホンを返却した後のおまけのコーナーのラストで、モニターの中のボウイが私たちに語りかけていたのと同じ茶目っ気のある表情で…(あれは日本独自の映像だそうだ、ありがとう!)


※追記

結局、この回顧展には7回足を運んだ。天王洲の会場がうちから近かったこともあったが、最後の方は何だか憑かれたように通ってしまった。妙に中毒性があるというか。
朝一番に会場に入り、すべての展示をとばして最後のショーモーメントのコーナーに足を踏み入れ、まだだれもいないその場所で三方向をボウイに囲まれて過ごした時間が忘れられない…
東京での会期は終わり、次はバルセロナだそうだが早くも懐かしくなってしまった。
アーカイブにはあるけれど展示されなかった品々は、まだ数多く存在するのだろう。今回間に合わなかった「★」やラザルスにまつわる物も。
ボウイ亡き後の回顧展という意味で、数年後にまた改めて見てみたいと思った。

lalalandpg
「ラ・ラ・ランド」

往年のミュージカルへのオマージュで彩られた…といっても昔の映画なんてよくわからないし、という向きもいるだろう。元ネタなど知らなくても楽しめる映画だから安心していい。もちろん知っていれば面白いは増すのだが。
お話はいたって古典的。いつか自分の店を持ちたい売れないジャズ・ピアニストのセブと、女優で成功することを夢みてオーディションを受け続けるミア。この2人が出会って恋におちる。
冒頭のシーン…高速道路での渋滞にしびれを切らせた人々が車から降りて踊り出す…もうそれだけでわくわくしてくる。
途中少し単調な部分もあるが、ラスト15分がいい。ありきたりなハッピー・エンディングではなく、ほろ苦い。
2人はそれぞれの夢を現実のものにするが、夢はいくつも叶えるというわけにはいかない。
叶わなかった想いが胸にこみあげ、諦めたもうひとつの人生を思い描く…甘く切なく走馬燈のように流れていく。ここが泣かせるのだ。
自分にも思い当たる節があるという人は、もうぐっときたにちがいない。
人生において「もしもあの時こうしていたら…」という「もしも」はないのだ、残念なことに。
ミュージカルとは絵空事ではなく心の真実だ、と言った人がいたがなるほどその通りだと感じた。



allied_ver2
「マリアンヌ」


原題はAllied 共謀者という意味。原作があるようだ。
スパイもの、というよりは正統派メロドラマという印象だった。いい意味で。
ブラピもマリオン・コティアールもクラシックな雰囲気がよく似合う。悲恋ものにふさわしいキャスティングだ。モロッコから始まるせいか、「カサブランカ」を彷彿とさせる。
ブラピは「白い帽子の女」といい、女性をたてる恋愛ものでいい味を出している気がする。マリオン・コティアールは、生き生きとして40年代ファッションも素敵に着こなしとても美しかった。
スパイものだから当然サスペンスな展開もあって目が離せなくなる。が、特に意外性もなく予想とあまり違わない展開、そして結末だった。
愛に生きてしまった女スパイの悲しい運命を、コティヤールが見事に演じ、丁寧な演出と相俟って涙を誘う。


Demolition-jpg
「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

長くて覚えにくく、おセンチな響きの邦題だが、映画を観た後では印象が変わるはず。原題は「解体」の意。そちらは内容そのものズバリ。
突然の事故で妻を亡くした主人公(ジェイク・ギレンホール)は、悲しみやショックを受け止めることも、感じることさえできず、ひたすら奇行に走る。
そして自分は本当に妻を愛していたのか、彼女のことをどれほど知っていたのかと何度も自問する。
心も車と同じで一度分解し、ばらばらにして再度組み立てることをしないと「再生」できない、と義父に言われた主人公はさっそく行動に移す。本当に「ぶっ壊す」ことを始めたのだ。手近なモノだけでなく自宅まで破壊し始めるのだが、果たしてその先に見えてきたものはあったのだろうか…
ナオミ・ワッツ演じるシングルマザーとその息子がうまく絡んできて、お互いの再生に力を貸すことに。息子役の子役がいい。きっと今後ブレイクするだろう。
非常によく練られ、作りこまれた脚本なので「出来すぎた話」といった印象にはならなかった。なかなかの秀作だと思った。
伏線が多く説明的な部分が少ないので、多少わかりにくさもあったが。
妻を亡くした男の再生物語という点では「永い言い訳」に似ているが、設定が同じなだけでテイストはまったく異なる。比較はあまり意味がないと思った。
話に集中しすぎてしまったが、本作は音楽のセンスもとてもよかった。新しめの曲も古い曲も…



suffragette
「未来を花束にして」


原題の suffragette サフラジェットは、女性参政権論を唱える人…まさにそのままの映画。
今、当然のようにある権利も、名もない人たちの努力と運動の歴史によって獲得したものなのだなぁと、改めて感じた。
100年前のイギリス…労働者階級の女性たちは差別と貧困の中、何の希望もない生活を強いられていた。
キャリー・マリガン演じるヒロインは7歳から洗濯工場のパートで働き、12歳からフルタイムの従業員、20歳でリーダー、24歳の今は一児の母となって働き続ける。同じ労働でも男性より賃金は3割安い。
職場でのセクハラ、パワハラは日常茶飯事。でもどこにも訴えられず耐えるしかない。
もしかしたら別の生き方があったのではないか、と感じ始めてから彼女変わる。
運動に身を投じれば失うものも大きい。幼い息子と別れる時、母の名前を忘れないように言ってきかせる姿が悲しい。
女性参政権の獲得…イギリスは1918年、日本1945年だ。

たかが世界の終わり
「たかが世界の終わり」

グザヴィエ・ドラン監督の新作は家族の物語だ。劇作家として成功したルイは、自らの死が近いことを知らせるため12年ぶりに帰省することにした。
息子との久々の再会にはしゃぐ母、幼い頃に別れたきりでほとんど兄の記憶がない妹、初対面の兄嫁、そしてルイとは正反対の兄。
ぎこちない対面、中身のない会話や思い出話で取り繕うものの、無遠慮な兄の言動で次第に不穏な空気が流れ始める。そしてついに修羅場を迎えることに。
家族とはまことにやっかいなもの。だれにとってもホーム・スイート・ホームとはいかないのだ。
突然怒り始める兄の態度にだれしも不快感を抱くだろうが、よく考えてみれば主人公もけっこう身勝手なのだ。12年も家に寄りつかなかったのに、久々の帰省は楽しい土産話どころか…
原作は舞台劇だそうだ。登場人物はほぼ4人のみで、わずか半日の出来事が会話中心に進んでいく。人物のクローズアップが非常に多く、細かい表情の変化やひりひりするような空気感が否応なしに伝わってくる。
ギャスパー・ウリエルは好演していたと思うが、個人的にはこの役はグザヴィエ自身に演じてもらいたかった…


homme less
「ホームレス ニューヨークと寝た男」

写真の男性をだれがホームレスと思うだろうか。ジョージ・クルーニーばりのお洒落なナイスミドル。ブランドもののスーツをばりっと着こなし、マンハッタンを颯爽と歩く。彼はマーク・レイ52歳、元モデルで現在はフォトグラファー、時々俳優業もこなす。
華やかなファッション業界、モデルの女の子たち、パーティーにクラブ…きらきらしたものに囲まれて生きている彼に、「家」はない。ねぐらは友達が住んでいるアパートの屋上。立派に不法侵入なので友達にも内緒、見つかって通報されたら逮捕だ。だから毎日ひやひやしながら寝袋に入って眠りにつく。
冬はマイナス10度、夏は40度近くにもなるあの街で、もう6年も屋外で暮しているタフネスに驚く。
会員になっているスポーツクラブでシャワーを浴び、そこのロッカー4つ分が彼のクローゼットだ。究極の断捨離。夜はぎりぎりまでカフェで粘ってパソコン仕事。屋上は寝るだけだ。早朝に目覚めると公園のトイレで洗面&身繕い。
そんなスリルに満ちた刺激的な生活をカメラは追う。大変に興味深い暮らしぶりだが、やはりもう少し彼の内面にも踏み込んでほしかった。彼は見栄っ張りだしみすぼらしくはないが、それでも痛々しさは滲み出ている。若者ならまだしも50歳過ぎてこの暮らしは辛かろう。
あまり貯金しそうもない人に見えるが、この映画に出演して有名になり、だれかタダで部屋を貸してくれる人が現れただろうか。
明日は我が身、と感じたニューヨーカーも少なくないはず。







silence-沈黙
「沈黙 サイレンス」

スコセッシ監督作品という立派な看板がなくても、ミニシアターでひっそり公開されたとしても、たぶん観に行ったと思う作品。17世紀の日本、キリシタン弾圧をポルトガル人司祭の目を通して描いた歴史ドラマだ。
学生時代に篠田正浩監督の「沈黙」も観たが、とても暗くて重い映画という以外ほとんど記憶にないのだが。
映画を見終わってすぐに遠藤周作の原作を読んでみたが(やはり素晴らしい小説!)、非常に忠実に映画化されていた。異なる箇所は僅かしかないというぐらいの完全映画化だ。
信仰を持って生きること、「沼地」としての日本文化論や、「究極のジレンマ」、転向など深く考えさせられる素材が多かった。
いくら原作に忠実といっても、それらの要素をうまく散りばめ、165分まったく飽きることなくかつ丁寧にまとめあげたスコセッシの手腕に感嘆する。
ハリウッド映画にありがちな奇妙な日本描写や、日本人を他のアジア人が演じるという不自然さもなく安心して見ていられる(ロケ地が日本でないことはすぐ気づいてしまったが…)
「戦メリ」以来のハイレベルな和洋混合、とだれかが書いていたが、ある意味当たっているかもしれない。
日本人キャストの中では塚本晋也と窪塚洋介の演技が出色と感じた。

映画はもちろん見ごたえある作品に仕上がっているが、原作の方がより内面に踏み込んだ描写が多く、重厚で深く心を揺さぶられる。映画を鑑賞してさらに作品の理解を深めたい人にはぜひ原作小説をお勧めしたい。



僕と世界の方程式
「僕と世界の方程式」

自閉症スペクトラムの少年が、その才能を生かして数学オリンピックに挑戦する青春ストーリー。
「小さな恋のメロディ」っぽい展開が、何とも可愛いらしくてイイ話。
とはいえ彼の母親の気持ちになると、ハンカチ用意しないではいられない。だれよりも愛しているのに、夫を失ってひとりでがんばっているのに…なかなか息子と気持ちが通じ合えないとは、何とつらいことだろう。
空気読めない超個性的な少年なのに、両手に花的な事態になってしまうのも、演じているのがエイサ・バターフィールドなら許せるか。しかし天才少年も恋すると、数学的思考回路に支障をきたすとは人間的でいいね。
数学天才少年の集団の中で、主人公以上に浮きまくっている少年が哀しかった。そして周囲の大人たちのことも丁寧に描いていて好感が持てた。
英国ケンブリッジと台湾の台北というふたつの場所の対比も効果的に使われていたと思う。



cineplex
「ザ・コンサルタント」

これはまた実に爽快でスカッとする映画だった。面白すぎて2時間8分があっという間。
ベン・アフレック演じるこの映画の主人公も自閉症だ。数字にめっぽう強いが、強いのは頭脳だけではない、というのがミソ。
そう、彼は最強の会計士(原題のaccountant )なのだ。表の顔と裏の顔を持った主人公というのは山ほどあるが、その二面性が非常に説得力がある。彼の複雑なバックグラウンドもよく考えられている。
自閉症の人の「強いこだわり」はしばしばドラマになるが、ここでは強すぎるアンチヒーローへのユーモアとも受け取れる。
だれかが「伏線の回収の仕方が絶妙」と書いていたがまったくその通り。ジグソーパズルの最後の一コマがぴたっとハマるみたいなスッキリ感があって気分がいい。
J・Kシモンズら脇役の使い方が物足りなく感じるぐらい主人公のキャラが立っている。
インドネシアの格闘技シラットがこんなところに登場するとは。ムエタイじゃダメなのだw
続編ができそうな気がする…



マギーズプラン
「マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ」


何やら「アニー・ホール」の現代版のような、ウディ・アレンぽい匂いのする映画だな、と最初感じた。
おしゃれでオフビートな感覚の恋愛映画はけっこう私好みなのだ。
ヒロインのグレタ・ガーウィグの魅力のためか、男女関係でジタバタしても何かすっきりしているし憎めないキャラ…と思いきや、よくよく考えると彼女ってものすごく自分勝手、ヤな女じゃない? と見終わってしばらくしてふと感じた。おまけにその自覚がないのだから、よけいに始末が悪い。
イーサン・ホークとジュリアン・ムーアの中年夫婦は振り回されていい迷惑。もちろん彼らだって欠点だらけだけど。大人の都合で巻き込まれる子どもたちが気の毒だ。
何か決定的に結婚に向かないのだけど、常に男が途切れない彼女みたいな女性ってたまにいるよね、と思ったりした。
こういう映画に共感する女性、けっこう多いのだろうか。共感はいいけどあんまり憧れないでほしい、なんて考えた。



「ネオン・デーモン」

私がトシなのかもしれないけど、この映画の良さがわからなかった。確かに映像は刺激的で新鮮に感じなくはなかったけど…
エル・ファニング主演、ファッション業界の内幕ものというから期待していたし、途中までは熱心に見入ったのだが。最後の方でスプラッターみたいになった時にはひたすら気色悪くて。
あれじゃエル・ファニングは、ただの思慮の浅いアホ娘ではないか。ヒロインのバック・グラウンドは語られることなく物語性も乏しい。まあ、そういったものを期待する方が間違っているのかも…



幸せなひとりぼっち
「幸せなひとりぼっち」

スウェーデン発の人間ドラマ。最愛の妻に先立たれたオーヴェは、異常なまでに偏屈な頑固おやじだ。
周囲の人々と折り合おうとはせず、協調性はゼロ。毎日文句ばかり人々に言ってまわっている。だが近所に引っ越してきた一家は、オーヴェに頼みごとをしたり世話を焼いたり、何かにつけて関わりを持とうとしている。
生きる気力をなくしている彼は亡き妻の元へ行こうと自殺を試みる。が、いろいろな人や事やネコにまで邪魔されてままならない。
死のうとするたびに彼は人生を振り返る。回想シーンを織り交ぜながら、オーヴェがなぜそういう人間になったかを語っている。彼は愛を知らない孤独な頑固おやじではなかったのだ。
運の悪いことは多かったが、愛にあふれた人生だったことは確かだ。彼の生きてきた道は悲喜こもごもだったが決して悪くはない。
お節介だが心やさしく逞しい隣人一家との関わりの中で、オーヴェの固く閉ざされた心が少しずつほぐれていく。やはり人間、ひとりでは生きられないのだ。
ただの「いいお話」では収まらない少しビターな人生讃歌。ラストも、これでいいのだ、と納得できる締め方だった。
アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。この賞は当ブログで推している作品がノミネートor受賞することが多い気がする…



アイヒマンを追え
「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」

数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ったナチス戦犯アイヒマンを、1960年に潜伏先で拘束するまでの極秘作戦の裏側を描いた実録サスペンス。
以前当ブログでも取り上げた「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」の前日譚、とも言える内容の映画だ。できればこちらを先に見たかった。
ドイツ人検事長のバウアーは、ナチスによる戦争犯罪の告発に奔走していたが、捜査は難航していた。アイヒマンの潜伏場所の情報を得て、身柄拘束に踏み切ろうとする。
計画は極秘のうちに進められるが、さまざまな困難が立ちはだかる。頼りになる部下もひとりだけという状況だ。スリリングな展開に最後まで飽きることがなかった。
そして、同性愛がまだ「重罪」だった時代の哀しいサイドストーリーも物語に色を添えていた。



knight-of-cups
「聖杯たちの騎士」

なにしろあの「ツリー・オブ・ライフ」のテレンス・マリック監督作品なのだから一応、覚悟はして出かけた。試写でなく自腹で観ているのだから、途中で席を立つこともあり得るかも、と。
さすがに途中退席はしなかったものの、ああ、やはり…私にはダメだった。どうにも苦手なのだ。
めくるめく映像美、は文句なく認める。しかしその壮大な映像に身を委ねてみても、クリスチャン・ベイル演じる主人公の心情は迫ってこない。
虚飾に満ちた生活にむなしさを感じて何やらもがいているようだが、偉大な自然の中で彼の内面はいかにも貧相に感じてしまう。大物俳優を贅沢に配置したものの、あまり効果的とは思えなかったし。
物語性が稀薄なことが問題なのではなく、どうにも大仰すぎてついて行けない。
章ごとに出てくるタロットカードの札の意味も、いまひとつピンとこなかったのだが。
タイトル通り小アルカナの「カップの騎士」が主人公なのか。それなら繊細で感情豊かなナイトは、まだ当分の間は彷徨い続けるのだろう。
苦手とは言ったが、何の作風もない凡百な映画より遙かに価値があるとは思っている。



メルー
「メルー」

ヒマラヤ山脈のメルー峰にある岩壁シャークスフィンに挑んだクライマーたちのドキュメンタリー映画。別に撮影隊がいるわけではなく、彼ら自身がカメラを回しているのでリアルなことこの上ない。
なぜわざわざこんな難しいルートを命がけで登りたいのか。私のちっぽけな想像力では到底理解できない…けれども、一見何の得にもならないことに夢中になり、取り憑かれている人たちを見るのは好きだ。
一日数メートルしか進めない日があったり、気温マイナス30度とか、宙づりのテントの中で3日間かんづめとか、あり得ないことだらけ。
でもきっと体験した人でなければ絶対にわからないような醍醐味を、彼らは存分に知っているのだろう。
手が届きそうなほど近くに見える天然のプラネタリウムとか、映像で見る百倍ぐらい素晴らしいにちがいない。人生観も変わるだろう。






2016年の1年間に観た映画の中で、特に印象に残った映画は以下です。

ベストテン形式のような順位はつけません。
今さらですが、セレクトには非常に偏りがあります。
観る人によっては、ぜんぜんよくなかった、という作品も含まれているかもしれません。


「サウルの息子」
「ディストラクション・ベイビーズ」
「淵に立つ」
「シークレット・オブ・モンスター」
「エヴォリューション」
「レヴェナント」


次に印象に残った映画

「キャロル」
「リリーのすべて」
「裸足の季節」
「グッバイ、サマー」
「白い帽子の女」
「シング・ストリート 未来へのうた」
「エブリバディ・ウォンツ・サム」



本年も当ブログをよろしくお願い致します。
メディアがあまり取り上げない、けどいい作品、をどんどん紹介していきたいと思います。




エヴォリューション
「エヴォリューション」

独特のタッチで森の奥に住む少女たちを描いた「エコール」。その監督の新作と知って迷わず観に出かけた。
今回は、少年と大人の女性だけが暮らす小さな島が舞台になっている。「エコール」よりもさらに特異な作風だが、思わず引き込まれ見入ってしまった。
少年たちは一定の年ごろになると、ある医療行為がほどこされる。そして女性たちは夜な夜な浜辺に集合して奇妙な儀式?を行う。
主人公のニコラはとても勘の鋭い子で、この島の秘密を探ろうとするが…
「エコール」もそうだったがこちらも、「囲われた状況から逃げ出したい願望」のようなものを描かれている。一種のファンタジーだが「エヴォリューション」は最初から最後まで、どこか不穏な空気が全面に漂っている。
美しい海の映像にも、どこかに何か潜んでいるかもしれないというそこはかとない恐怖が。
女たちからも母性はあまり感じられず、魚のような眼をして無表情で得体が知れない。医療行為をほどこす看護婦はもっと不気味で、無力な少年たちは完全に支配下だ。
ニコラだけが支配から逃れようとする。毅然とした表情と少年らしい機敏な動作。この子なら脱出できるかもしれない、ぜひ逃げてと背中を押したくなる。しかし、島から遠く離れた陸の街に果たして彼の居場所があるのか、そこで生き抜いていけるのか…不安ばかりが募るのだが。
「イレイザーヘッド」を思わせるシーンがあって、妊娠中の人にはちょっと酷かも。いずれにせよ観る人を選ぶ映画ではある。

dont breath
「ドント・ブリーズ」

映画解説者のある人がこの映画のことを、今夏「ロスト・バケーション」(当ブログでも取り上げている)にツボった人にはおススメ、と書いていた。あ、それ私のことだ、と思っていそいそと観に出かけた。
観ている間中、ずっとヒロインといっしょに息をつめていた気がする。タイトル通りまさに、息もできない。88分という短い尺ながら無駄のないつくりで引き込まれ、そして疲れた…
盲目の老人の家に強盗に入った若者3人組が、異常に鋭い聴覚と暴力性を持った老人の反撃に遭い、家の中に閉じ込められてしまう、というホラー映画。元軍人である老人は目は見えなくてもめっぽう強くて、しかも凶暴な犬まで飼っているのだ。
強盗に入ったのだから怖い目に遭うのは自業自得…と思いたくなるのだが、若者にも事情というものがあるのだ。金に執着するにはワケがある。そして実は、老人の方にも秘密にしている事情があって、彼らはたまたまそれを知ってしまう。と、単に怖がらせるだけでなく、なかなか凝った構成になっている。
さすがに、目が見えないのにそれはないでしょ、という無理矢理な設定もあったけど、そんなことはどうだっていい。いつどこから現れるかわからない盲目の老人に脅えてしまうのだ。
目の見えない人が被害者になる作品はいくもあったけど、逆パターンは初めてだ。
正月映画のダークホース、かも。


Crazy-About-Tiffanys
「ディファニー ニューヨーク五番街の秘密」

だれもが知っているティファニーのドキュメンタリー映画。とても興味深く観た。
あのティファニーのブルーがこんなにも計算された色だったとは…さすがだな、と感心。あのブルーの小さな箱に白いリボンをかければ、もう中身が何だってわくわくすることまちがいなしなのだ。
ヨーロッパにはたくさんのジュエリー・ブランドがあるけれど、アメリカではやはりここかな。
エピソードに欠かないティファニー。その歴史の中には有名人の顧客も多い。たくさんの人のインタビューが出てきたが、ティファニー初の女性デザイン・ディレクターの話がよかった。製作現場の裏側も。
確かに全面ティファニーのPVみたいな映画だが、そもそもいくらかでも興味のある人しか観ないでしょう。自分が買うとか買えないとか関係なく、美しいものを美しく見せてほしいという願望は満たされた。
低価格のラインもちゃんと定番商品として、長年作り続けているのはエライ。

シークレット・オブ・モンスター
「シークレット・オブ・モンスター」

ミステリーというより、一種の政治寓話として観た方がよさそうだ。
かくして独裁者は生まれた…と。サルトルの「一指導者の幼年時代」という短編小説がベースになっているらしい。
とにかく映画が始まるやいなや、アグレッシブな「音」の攻撃に圧倒される。ただごどではない何かが始まろうとしているのだ、と思わず身構えてしまう。
1918年、ヴェルサイユ条約締結のため、フランスにやって来たアメリカの政府高官。彼には若く美しい妻と、まるで女の子のように愛らしい息子がいた。
しかし少年は、その容貌に似合わず常に不満を抱えた子で、深い心の闇と危険性をはらんだ子どもだ。両親は息子を持て余している。甘やかすからという理由でなついていた家政婦をクビにし、彼が心を寄せていた家庭教師も遠ざけてしまった。すると彼の精神は危険水位を超えてしまい突然の大爆発…モンスターの誕生だ。
観る者に緊張と不安を煽る音楽がとにかく凄かった。生理的にこの音がダメだった人には気の毒だが、非常に印象的でいつまでも耳に残る。
映画は説明が少なく、一度観ただけではわかりにくい部分も多い。公式サイトに監督からの解説が掲載されているので、鑑賞後にそちらを参考にすることをお勧めする。
特に「あの役」の俳優が二役演じていたことはまったく気づかなかったので、それを知った時にはかなり納得することができた。


girl on the train
「ガール・オン・ザ・トレイン」

こちらはヒットした同名小説の映画化で、本格ミステリーもの。
子どもの頃から電車通学していた私は、このヒロインと同じように電窓から見える家にお気に入りを見つけると、そこでどんな人がどういう暮らしをしているのか想像するのが好きだった。子どもなので無邪気な空想だったが、しかしこの映画のヒロインはかなり病んでいる。
結婚が破綻したのをきっかけに、精神が不安定になりアルコール依存に。そのおかげでしばしばブラックアウト(記憶障害)が起きるのだ。
そんなあぶなっかしい人が探偵役なのだから、見ている方も心許ない気分になってくる。しかしこのあやういヒロインをエミリー・ブラントが熱演しているのだ。自然にこちらも力が入ってくる。
物語が進むにつれ、登場人物たちの意外な側面が次々にあらわになってくるのは興味深い。一体だれが言っていることが真実なのか、本当に悪いのはだれなのか…
ヒロインの他にカギを握る2人の女性の視点も加わって、少々複雑な展開になっていく。が、フラッシュバックを多用して心理描写を巧みに処理していく技はなかなか見事。
女性作家の原作ということで、フェミニズム的観点からもう少し女性映画としてのテーマをはっきりさせてもよかった気がするのだが…


Every-Thing-Will-Be-Fine-2015
「誰のせいでもない」

原題は「Every Thing Will Be Fine」、ヴィム・ベンダース監督。私は2Dで観たのだが3Dだったら印象が変わったのだろうか。人間ドラマなので視覚的な仕掛けはあまり関係なさそうに思えたのだが…
どうにも避けようのない事故で幼い子どもを轢いてしまった主人公。作家だがうまく書けず妻との関係もぎくしゃくしている最中だったので、余計に落ち込んで生きる気力さえなくしてしまう。
もちろん最愛の息子を失った母親は片腕をもぎ取られたぐらいのショックだし、同じ場所にいてすべてを目撃した子どもの兄にも大きな影響を与えた。
作家は妻と離婚し、やがて事故の経験を小説にして書いて、売れるようになった。再婚もして人生は順調だ。しかし、それですべてがうまくいった…とは限らない。あの日のあの偶然の事故は、過去のものでは決してないのだ。
映画は10年にわたる歳月を、2年後、7年後といった時点で丁寧に描いている。
主人公のジェームス・フランコは、最初は苦悩する小説家にはあまり見えなかったのだが、物語が進むにつれ熟してくる感じだ。作家にありがちな身勝手さと、それでも良心は失わない誠実さをよく表現していた。
子を失ったシングルマザーは悲しみからなかなか立ち直れないが、もうひとりの子とともに毎日を淡々と生きていく。まさにシャルロット・ゲンズブールのハマリ役だ。
結局、相手を許すことでしか自分自身も救われないのだと思う。恨みや復讐では何も解決しない…そんなことまで考えさせられる映画だった。


Julieta
「ジュリエッタ」

アルモドバル監督作品で、しかも「ボルペール」以来の母娘もの、とくれば観に行かない理由はない。
予告篇を見たら…何の理由もわからず12年前に突然母親の前から姿を消した娘。
娘をひたすら待ち続け、読まれるあてもない娘への手紙を書き続ける母…これはもうダイレクトに心に響きそう。ハンカチ必携だ、ととても期待して観に行った。
うーん、結果的には泣かなかった。もちろん響くところは多々あったし、痛いほどの母親の心の叫びは十分に伝わってはいた。が、なぜだろう、どこか客観的というかドラマに引きずられたというか。以前の作品のようなシャープさは影をひそめ丸くなった印象。ラストもちょっと物足りない。動機づけがあまりにもありふれていたし。
20代の母親と現在を別々の女優が演じているのはまったく問題ない。2人とも好演していたと思うし、入れ替わりも自然だった。
特に冒頭、列車のくだりはサスペンスタッチで、ドラマチックな展開を予感させるものがあった。ここがこの作品のひとつの肝だ。原色を散りばめた色づかいもこの監督ならでは。
かつてのアルモドバル作品には欠かせない存在だった「鼻の女優さん」ロッシ・デ・パルマが、老いたとはいえ、いかにも訳ありなお手伝い役で怪演していたのはも見逃せない。


everybody wants some
「エブリバディ・ウォンツ・サム!」

「6才のボクが大人になるまで」の監督の最新作というので、軽い気持ちで観に行ったがこれが大当たりだった。
時は1980年、大学入学を目前に控えた野球部の学生たちの3日間を描いた青春群像劇。
いきなりナックの「マイ・シャローナ」が流れるベタな始まり方には特に反応しなかった私だが、とにかく音楽がツボだった。
私はこの監督と年齢がかなり近いようで、同時代を生きたことにまず共感。同じ大学生活といっても日本とアメリカではずいぶんとライフスタイルは違っているが、聴いていた音楽は同じ!誰のファンだったとかは関係なく、BGMが同じだったという共通点が。
いわゆるヒットナンバーばかりでなく、ジャンルも無節操で幅広いところがまたいい。
ヴァン・ヘイレンからブロンディ、ホット・チョコレート、ピンク・フロイド等等、よく聴いたし踊った。とても懐かしい…
一見ノーテンキなおバカ映画に見えて、けっこ深いところを突いている脚本にも感心した。入学前の3日間だけを丁寧に切り取っているところがよかった。お祭騒ぎは一段落し、入学と同時に若者たちは現実に立ち戻っていくのだ…
最後の最後まで面白いので、エンドタイトルが始まっても席を立ってはダメ!


手紙は憶えている
「手紙は憶えている」

クリストファー・プラマー演じる主人公は、アウシュヴィッツで家族を皆殺しにされながらも生き残って渡米し、現在は高齢者用のケア施設で暮している。彼はナチスの逃亡犯に復讐するため施設を抜け出し旅に出る。
とにかく主人公が90歳の老人で、足腰はまだ何とかいけるが認知症の症状が出始めているのだ。これはなかなか厳しいハンデだ。何しろ一度眠って起きると、その前のことをすっかり忘れてしまっているのだから。
自分が一体何の目的で出かけて来たのかさえ覚えていない。
それを思い出すため、仲間が書いてくれた手紙をいちいち読み返す。それまでの経緯が手紙にすべて書かれているのだ。そのあたり、主人公の意識や記憶がぼんやりしているもどかしさや、思い通りにいかないいらだちは実にリアルに描かれていた。不自由な身で知らない土地を歩き、逃亡犯の候補者をひとりひとり訪ねて歩く様子はサスペンスフルでもある。
本作のテーマのひとつは「記憶」なのだが、人間の記憶は自分の意志で作り替えることが可能である、と。もしや…と途中でうっすら予想はついたがそれでもなお、最終地点での展開はあざやかな演出だ。
それにしても、衝撃のラストとかどんでん返し、といったキーワードも十分にネタバレになるので、宣伝フレーズなどはもっと気を配ってほしいと常々思っている。


人間の値打ち
「人間の値打ち」

イタリア映画にはこういった秀作があるからやはり見逃せない、とつくづく感じた。
人間の値打ち、とは映画のタイトルらしからぬ響きだが、最後の最後にその意味することがわかった時、非常に皮肉だがこれが現実なのだと思い知らされる。
ひとつのひき逃げ事件をきっかけに、富豪、中流、貧困の三つの家族に起こった悲喜劇を描く。全体を4つのパートに分け、それぞれ主人公を変えながら同じ時間軸を多角的に描写するというミステリータッチの手法を取り入れて引き込まれる。
とにかく語り口がうまく、よく出来た脚本で一瞬も目が離せなくなってしまう。
人間の愚かさや弱さ、ずるさ、腹黒さといったものが事件によって噴出し、ダークな部分を否応なしに見せけられる。そしてまた、悪いとは知りながらだれかを守るためなら平気で嘘もつく…といった人間くささもこの映画では語っている。
結局最後に笑ったのはだれだろう。いや、満面の笑みを浮かべているように見えても腹の底はわからないし、次の瞬間どこでどう足元をすくわれるか…。愛でさえ信用できないし長続きもしないのだから。
といったように深いところまで考えさせられる作品だった。
少し前に観た仏映画「アスファルト」で看護婦役の女優ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(カーラ・ブルーニの姉!)が、満たされない富豪の妻を好演し印象的だった。



ベストセラー
「ベストセラー  編集者パーキンズに捧ぐ」

どんな作家にも担当の編集者がいて、最初の読者であり批評家でもある。時には家族以上の濃い付き合いも…が、現代ではそういった関係を嫌って仕事の連絡もすべてメールやラインで、なんていう風に変わってきているのだろうか。
実話に基づいたこの映画は1930年代、フィッツジェラルドやヘミングウェイが活躍した時代のこと。
作家トマス・ウルフ(ジュード・ロウ)と彼を見い出した敏腕編集者パーキンズ(コリン・ファース)の物語だ。
トマス・ウルフは日本では作品のほとんどが絶版になっていて広くは知られていないが、短い作家人生にもかかわらずアメリカ文学史で偉大な作家と位置づけられている。
木箱にぎっしりと詰めみ数人がかりで運ぶほどの大量の手書き原稿を、彼はパーキンズのオフィスに持ち込む。原稿を読むのが仕事の編集者でさえうんざりするほどの量だ。それをすべて読破し、手を入れて(赤入れして)いく。大変な作業だがこれこそが編集者の仕事の醍醐味。荒削りの原石に磨きをかけるわけだから。
パーキンズによって生み出されたウルフの処女作は爆発的にヒットする。パーキンズは家庭を顧みることがなくなるほど仕事に邁進し、ウルフもまた恋人が嫉妬するほど執筆に没頭する。だが2人の関係は長くは続かず、ウルフは次第にパーキンズと距離を置くようになる…
まだ文学が世の中を動かしていた古きよき時代。パーキンズが育てた作家として、すでに落ち目になりかけていたフィッツジェラルドと、釣り好きのヘミングウェイも登場する。ガイ・ピアースが演じるフィッツジェラルドはなかなかいい味を出していた。
ウルフの恋人アイリーンはニコール・キッドマンが熱演していたが、実際は彼女が18歳も年上なのにまっくそうは見えず少々違和感が。
ウルフがパーキンズに宛てた最後の手紙に思わず泣かされてしまった。抑制のきいた演出と淡々とした語り口、何よりコリン・ファースの渋い演技が光っていた。


奇蹟がくれた数式
「奇蹟がくれた数式」

こちらも実話。実在した「インドのアインシュタイン」と呼ばれる数学者ラマヌジャン(「スラムドッグ・ミリオネア」のデヴ・パテル)と、彼を見い出した英国人数学者ハーディ(ジェレミー・アイアンズ)の物語。
数学にかぎりない憧れを抱く文系の私は、理解できない数学ネタにもわくわくさせられっぱなしだった。
詩人が言葉を紡ぎ、作曲家が楽譜を書くように…まるで神の啓示を受けたかのように数式がするすると降りてくるというラマヌジャン。これぞ天才。しかし正式な教育を受けず植民地下のインド出身の彼のことを、英国の学会はまったく認めようとしない。
ケンブリッジ大のハーディ教授だけが理解と興味を示し、ラマヌジャンをインドから呼び寄せる。彼はどっぷりと数学漬けの日々を送るが、そこでもまた偏見と差別は続き苦労の連続。
折しも第一次世界大戦が始まり、インドに残した妻からの便りも途絶え、ラマヌジャンは次第に心身とも疲弊していく…
数学研究もまた人間ドラマなしでは語れないのだ。
作中に登場した素数や分割数に関する数学ネタだが…映画の公式HP内で木村俊一教授が「天才数学魔術師ラマヌジャンの魅力」というエッセイを書かれていて、そこで素人でもわかる詳しい解説がなされている。大変面白い内容なので興味のある人はぜひ読んでほしい。
今回初めて撮影が許可されたという、ケンブリッジ大トリニティ・カレッジの荘厳な佇まいも一見に値する。

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