(8)

 





 目をもう一度開いたとき、俺は森の中にいた。

 空には太陽がある。立っていたのは木立の間の小径だ。
 板切れが並び、道のようになっている。その道のまんなかに、俺は立っている。

 全身を悪寒が走るが、すぐにそれが収まる。
 いまのはたぶん、単に、気持ちの問題だろう。

 本当に来てしまった。……夢ではなかった。

 そう考えながら、あたりを見回す。

 景色はどこまでも森だ。が、葉擦れの森の景色ではない。

 深い鮮やかな緑に彩られた、真昼の森。

 鳥の声すら聞こえないし、風も穏やかだ。

 ……大丈夫、と俺は自分に言い聞かせる。
 ここはあの森とは違う。まだ、恐れる必要はない。

 俺はポケットから携帯を取り出した。
 不思議な話だ。電話は切れていない。

「ちせ」
 
「……隼、さん」

 声が聞こえる。さっきよりも、ノイズはない。

「いま、どこにいる?」

「……どこ、と言われても、目印がなにも」

 景色が同じようなものだということは、そう離れたところにはいないのか、それともこの森が広いのか。

「どのくらい歩いた?」

「そんなには……途中で、歩き回るほうが危ないと思ったので」

 厄介なことに、ここは道の真ん中だ。
 距離がそう離れていないにしても、どちらに向かったかがわからない。

 俺は空を見た。……太陽の位置が参考になるかと思ったが、方位がわからない。
 
「太陽は、どちら側にあった?」

「背に。太陽を背に、歩きました」

「……すぐに向かう」

「隼さん、こっちにいるんですか」

『こっち』か。さすがに経験すると早い。

 電話を耳に当てたまま、俺は歩いていく。

「隼さん、ごめんなさい」

「いや、俺が説明しなかったのが悪い」

「隼さんは、でも、説明するつもりだったんでしょう?」

「それでも、予想できたことだった」

 無性に胸が痛むのは、さっき真中に言われたことを気にしているだろうか。

 俺はどこかで間違ったのか?
 でも、どこで間違ったんだ?

 そんな場合じゃないとわかっているのに、考えるのをやめられない。

「ごめんなさい、勝手なこと……して」

「……ちせ?」

「……は、い」

「おまえ、どうした?」

「ん……いえ、な、にも……」

 さっきは、ノイズのせいで気にしていなかった。
 こっちに来て話し声が鮮明になってからも、状況のせいで気にかけていなかった。

 息遣いが、荒いように感じる。

「……体調、悪いのか?」

「あ、いえ、そういうわけでは……」

 そうは言っても、電話の向こうの声だけでも、呼吸が浅いのがわかる。

「少し急ぐ」

「あ……隼、さん。すみ、ませんけど、その……」

「ん」

「……できるだけ、ゆっくり、きていただけると……」

「……は?」

「あ、えっと、大丈夫、なので……」

「……」

「えと、一度……電話、切っても、だいじょうぶ、ですか?」

「……もう一度繋がるとは限らないんだぞ」

「そ、う、ですよね……」

 苦しげに何かをこらえるような声が聞こえる。
 
「……なにか起きてるわけじゃないんだな?」

「は、い」

「……とりあえず、一応歩いてみる。合流できるまで、電話は切らない」

「あ……は、はい」

 息遣いが、まだ続いている。

「いま、どうしてるんだ?」

「えっ……ど、どう、って」

「どこかで休んでたのか?」

「あ……はい、えっと、木に、もたれて。少し、つかれ……たので」

「道から、外れてはいないか?」

「道は……はずれて、ない、です」

「……わかった。『太陽を背に、道に沿って歩く』」

 その宣言に意味があるのかはわからない。
 でも、言葉にしておいたほうがいいように思えたのだ。

 景色は続いていく。高い木々は、その空間は、広がっている。
 ここには広がりがある。絵のなかの景色、とは、違う。

 瀬尾も……あの絵から入ったのだとしたら、彼女に会うことも、できるかもしれない。
 とはいえいまは、ちせを見つけて連れ戻ることのほうが先だ。

 とにかく、『ここ』に来られた。
 それは、結果的にひとつの収穫だ。

 あとは、失うものがなければいい。

 道を歩いていく途中に、花が咲いているのを見つける。
 薄桃色の花びらがバドミントンのシャトルみたいな形をしていた。

 平たく広がる尖った輪郭の葉が、木漏れ日をかすかに浴びて濡れたように艶めいていた。

 視界の先まで睨んでみても、ちせの姿は見えない。

「ちせ!」

 呼んでみても、返事は聞こえない。

 まだ、距離があるのか。

 俺はもう一度電話に耳を当てる。
 荒い呼吸が聞こえるだけだ。

「隼、さ……」

 苦しげに、俺の名前を呼んでいた。

 歩きながら、なにかわかりやすい目印のようなものを探すけれど、見当たらない。
 さっきのを除いたら、花さえほとんど姿を見せなかった。

 林冠の隙間は徐々に狭まっていき、やがて日の光は遠く隠れていく。
 枝葉の合間に覗く空はたしかに真昼に近い色だが、風景は暗い緑に近付いていく。
 
 木漏れ日がまばゆいくらいに、歩く小径は暗くなっていた。

 まずいな、と俺は思う。
 頭がくらくらしてきた。

 覚悟は決めてきたつもりだったし、知っているぶん衝撃は少ないはずだった。

 それでも目眩のような感覚に襲われる。

 本当に、こんなところに来てしまった。
 わかっていたはずのことなのに、動悸がひどい。

 電話に、耳を当てる。

「ちせ」

「……は、い。……んう」

 んう。

「……ちせ、どうした?」

「ど、うもしてないです、ん……な、なんですか……?」

「さっき、名前を呼んでみたんだけど、聞こえたか?」

「……いえ、きこえませ……っ、でした……」

「今、もう一度呼んでみる」

 と言って、電話を離し、もう一度呼んでみる。
 
 そしてもう一度電話に耳を当てる。

「……ました。きこえ、ました。隼さ、きこえ」

「近くまで来られたみたいだな」

 ようやく、ほんの少しだけほっとする。
 見当違いの場所に来ていたらどうしようかと思っていたが、助かる。
 怜の検証のとおり、「近くから入れば近くに出る」というのはたしかと考えていいかもしれない。

 俺は小走りしながらちせの名前を呼んだ。
 ときどき電話に耳を当てて、ちせの言葉をヒントに、距離を詰めていく。

 やがて、電話のむこうのちせから、声をかけられた。

「とまって、ください」

「……え?」

「少し、待って」

 そして静かに、電話が切れた。

 そうなってしまうと、俺は本当に待つしかない。

「ちせ」

 そう名前を呼んでみる。返事はない。
 
 酩酊したように足元が急にぐらついた。
 俺はいま、誰とも繋がっていない。
 
 急な不安……けれど慣れている。
 慣れている、はずだ。

 やがて、

「隼さん」

 と、声をかけられた。後ろから。

 振り返ると、そこにちせが立っていた。

「……ちせ」

 駆け寄って、彼女の表情をたしかめる。それがちゃんと、俺の知っているちせだとわかる。

「大丈夫か?」

 彼女は、言葉にはすぐに答えずに、ほんの少し後ずさった。

「あ、はい。大丈夫ですよ」

 彼女は困ったように笑っていた。さっきまでとは違って、もう呼吸は乱れていないようだった。

「体調、悪かったのか?」

「あ、ええと……そんなことは、なかったんですけど」

 彼女は、俺と目を合わせようとしなかった。
 なにか気がかりなことでもあるみたいに、一定の距離をとって、制服の裾を引っ張るみたいに握っている。

 不審には思ったけれど、怪我はないみたいだとほっとする。
 それから急に不安になる。

「……ちせだよな?」

「……」

 問いかけの意味がわからない、というように、彼女は首をかしげた。
 なにかをごまかすみたいな微笑をたたえたまま、もぞもぞとからだを揺らしている。

「ちせ、ですよ……?」

 その表情には、どうしてだろう、不安や戸惑いみたいなものは浮かんでいなかった。
 もっと気がかりで仕方のないことがあるみたいな、何かを隠したがっているみたいな。

 とはいえ、ここでうだうだと言っていたところで仕方ない。
 
「とにかく、見つけられてよかった」

 それまで夢でも見ているみたいに心もとない表情をしていたちせは、はっと思い出したみたいな顔になる。

「……はい。よかった、です。本当に、ほっとしました」
 
 それでようやく、彼女の意識が本当の意味で現状をとらえたような気がした。

「電話、きたとき、ほっとしました。携帯、もってたのに、忘れてて……。ひとりだし、なにがなんだかわからなくて、このまま帰れなかったらどうしようって」

「……」

「ごめんなさい、隼さん」

「俺が悪い」と俺は繰り返すほかない。

「詳しい説明はあとでする。……とりあえず、帰ろう」

「はい……」

 とりあえず、来た道を引き返すことにする。
 ちせは、はぐれないためにか、それともいまさら不安が蘇ったのか、俺の制服の裾を掴んでいた。

「隼さんは、知ってたんですね。この場所のこと」

「……おぼろげにはな」

「そう、ですか」

 声の調子が、やはり、いつもと違うような気がする。
 少し、熱っぽいような、鼻にかかったような、甘えた声。
 
 やはり怯えているのかもしれない。

「……この場所にきてから、わたし、なんだか、おかしくて」

「ちせがおかしいんじゃないよ」と俺は言った。

「この場所がおかしいんだ」

 けれどその言葉に、ちせは「ちがいます」と小さな声で言った。

「わたし、おかしいんです……」

 消え入りそうな声だった。

 少し、こわかったけれど、俺は振り返った。

 ちせは顔を隠すみたいにうつむいて、足元を見ていた。
 そういえば、顔が少し赤いような気がする。

 俺が立ち止まって振り返ったことに気付くと、ちらりとこちらに視線をよこして、からだをびくりと震わせる。
 ちせが、スカートから伸びる両足がきゅっと閉じたのが目に入った。

 なんでかそれが妙に目に毒で、俺は思わず視線を外し、前方を向き直した。

「……とにかく、戻ろう」

「……はい」

 恥じ入るみたいな声が、妙に耳に残る。
 
 気を取り直して、俺は帰り道を……。

 ──帰り道?

「……あ」

「……隼さん?」

 思わず声をあげてしまった。

 そういえば、こっちに来る方法はわかっていたけれど、
 ……帰りは、どうすればいいんだ?

 ひとまず道を引き返しはしたものの、帰る宛があるわけでもなかった。

「……隼、さん?」

 黙って歩き始めた俺に、ちせは不安そうな声をあげた。

「いや、大丈夫」

 と、返事をしてから、真中の声が耳に甦った。

 ──せんぱいは、自分が何をしようとしてるのかも、ちせに何があったのかも教えてくれない。

 真中の言うことは、たしかだ。
 
 今、俺はどんなふうな思考をたどって、ちせに本当のことを話さなかったんだろう。

 余計な心配をかけたくなかったから。不安がらせたくなかったから。
 それとも、パニックになられると面倒だから?
 話したところで、何が解決するというわけでもないだろうから?

 でも、そんなふうに考えた末の発言だっただろうか。

 そうではなくて、俺はもっと当然のことのように、他人に本当のことを話さない癖がついているんじゃないか。

 それは仕方ないこと、なんだろうか。

 真中や大野や市川に、ここのことを話さなかったのはどうしてか。
 ちどりのことを話さなかったのは、どうしてか。

 考えれば考えるほど、わからなくなるような気がする。

「隼さん、青葉さんは……この場所のどこかに、いるんですか」

「……わからない」

 さっそく、詳しい説明をせずに、断片的な言葉を返してしまった。
 それが悔しくて、俺は言葉を続ける。

「たぶん、いると思う。いろいろと考えてみたけど、そうとしか考えられない」

「ここって、なんなんですか?」

「……あとで、ちゃんと説明する。こうなった以上、他の奴らにも説明はしやすい。
 でも、本当のことを言うと」

 本当のことを言うと、そうなんだ。

「俺も、よく知らないんだ」

 俺は知らない。
 この場所のこと、さくらのこと、カレハのこと、葉擦れの森のこと。
 神隠し、神さまの庭。そんな名前をつけたところで、なんにもわからないままだ。

 何が起きているかはおぼろげにわかっても、理由も理屈もわからない。
 それって、なんにも知らないのと同じだ。

 ここのことを、真中たちに話しても、なんにも解決しない。
 瀬尾とちどりのことも、俺の感覚のことも、全部そうだ。

 でも、よく考えてみれば、違うんじゃないか。

 俺ひとりで考えていたところで、なんにも解決しないのはおんなじだったんじゃないのか。

 たとえば、今もそう。
 
 不安がらせないように、とちせには黙っている。
 ちせに言ったところで解決する問題じゃないから、黙っている。

 でも、黙っていたところで、俺だって漠然と歩く以外の方策を今は持っていない。
 黙っていても、話しても解決する問題じゃないのに、どうして俺は黙っているほうを選ぶんだろう。

「……ちせ、実はさ」

「はい」

「帰り方が、わからないのを忘れてた」

「……え?」

「来る方法は、たぶんというか、まあ、だいたいわかってたんだが、そういえば帰り方は……」

「え、っと。それは……困りましたね?」

「うん」

 そういえばそうだ。
 六年前の五月のときも、俺は、こちらからどうやって帰ったのかを覚えていない。

「……どうしましょう」

「帰る方法がないわけじゃない。ちゃんと帰る方法はある。それを見つければいいだけなんだけど」

「……方法、ですか」

「まあ、入り口と出口がおんなじものだと信じるなら、最初の地点に戻れればいいはずだけど……」

「でも、隼さん。わたしが来たところには、何もありませんでしたよ?」

「……まあ、だよな。俺もそうだったし」

「なにか、ヒントがあればいいんですけど」

「ヒント、ね……」

 やっぱり、こういう謎解きみたいなのは俺の領分じゃない。
 こういうのは俺じゃなくて……。

「……ちせ、こっちに来てから、携帯で誰かに電話をかけたりしたか?」

「え? ……いえ」

 だったら試す価値はあるか。
 携帯を取り出して、怜の番号を呼び出す。

 あいつはこっちに通っていたという。それなら、訊くのが一番早い。
 
 が、駄目だった。

「……つながらないな」

「……困りましたね」

 ふむ、とちせは一緒に考えてくれる。

「分け入っても分け入っても、森のなか、ですしね」

「道を辿って来たわけじゃないから、道を進んでも、行き着く先で戻れるともかぎらないか」

「……となると、やっぱり、一旦、見覚えのある地点まで引き返してみますか?」

「見覚えのある地点か」

 とはいえ、似たような景色が続いているのだから、確信が持てるものでもないだろう。
 不用意に歩いて回るのは危ない気もする。

 本当に、道標でもあればいいのだが。

 怜との会話に、なにかヒントはなかっただろうか。

「そういえば、こっちに来る方法はわかってたって言ってましたけど……」

「ああ」

「昼休みに、鏡や絵を探していた、ということは、それがこちらへの入り口なんですよね?」

「そうなるな。もっとも、俺も実際に来たのは久々だから、半信半疑だったんだが……」

「あの、隼さんがさっきおっしゃったように、入り口と出口が同じものだとしたら……」

「あ、そうか」

 思わず声をあげた。

「鏡や絵を見つければ……」

「はい。そこから帰れるかもしれません」

 俺たちは一瞬笑いあったが、すぐに肩を落とすハメになった。

「……一応聞くが、そういったものを見かけたか?」

「いえ……」

 振り出しだ。

 とはいえ、まあ、そういったものを探せば済むわけだ。

「森のなかで、絵といってもな」

「道の先にいくのが、正解なんでしょうか」

「……それは、できれば避けたいな」

 道を歩きながら、俺達はなるべく会話が途切れないようにしていた。
 黙り込むことで、打つ手がないという現状を認識しなおすのが嫌だったのかもしれない。

 いずれにせよ、道は一本だ。
 
 やがて、来たときとは反対に、小径は徐々に広がって、日の光が差し込むようになってきた。

 こんなに明るい場所から歩いてきたのだとは、ちょっと信じられないくらいに。

「ちょっと休むか」

 急がなくては、と思うのだけれど、実のところ、そこまで焦燥に駆られなくてはいけない理由もない。
 焦りはかえって危険かもしれない。それに、ちせはまだ疲れているように見えた。

 ぼんやりと空を見る。太陽の位置は、さっきと変わらないように思える。
 
 ただ歩いているだけなのに、道がそこまで整っていないせいか、足の裏が疲れているのを感じた。
 ……というか、俺もちせも上履きのままだ。

「帰ったら、靴の裏、綺麗にしないとな……」

 こんな状況でそんなことを言うのがおかしかったのか、ちせはくすくす笑った。

 そのままぼんやりと、足を軽く動かしたり、腰を回したりして身体をほぐす。
 近頃は運動不足みたいだ。余計なことばかり考えるのも、そのせいかもしれない。

 ふと、ちせの方を見る。
 
 電話中ずっと体調が悪いようだったし、会ってからも少し様子が変だった。

 目をむけると、彼女は道のそばの木に背中をあずけて、落ち着かなさそうに身じろぎしている。

 自分がおかしい、とちせは言っていたけど、話している分には、いつもどおりだ。
 人と会って、安心したのだろうか。

 自分の両手の指をからませたりほどいたりして、落ち着かなさそうにしているちせ。
 疲れたような溜め息を漏らしながら、膝と膝をこすり合わせるように、落ち着かなさそうに脚を何度も動かしている。
 というより、太腿をこすり合わせているようにも見える。

 ちせは、俺の視線に気付くと、はっとした表情で、一連の動作を強引に止めて、そそくさと視線を外し、前髪を指先でいじりはじめた。

 そういえば、ちせは昼休みからここにいるのだ。心当たりは浮かぶものの、とりあえず口には出さない。

「……えっと、そろそろ行くか」

「は、はい……」

 どことなく気まずそうな声のせいで、なんだかよくないものを見てしまったような気分になる。

 そうして歩き出したものの、やはり、目につくものはない。

 都合よく鏡のかけらでも落ちていないものかと思ったが、そうもいかないらしい。

 さっき見かけた花を見て、まだ最初の地点までは戻っていないのだと知る。

「……ほんとうに似たような景色だな」

「花なんて、さっきは気付かなかったです」

 視線をむけると、ちせは慌てたみたいにそっぽを向いた。
 
「……何の花だろうな」

 気まずさを打ち払うみたいに、俺は世間話のつもりでそう声をかけた。

「えっと……たぶん、ですけど、イワカガミですね」

「イワカガミ?」

「はい。花びらが筒状で、葉が厚くて、キョシがあって……」

「キョシ?」

「葉っぱの端のぎざぎざです。のこぎりの歯って書いて……」

「ああ、鋸歯か」

 なるほど、言われてみれば、深い緑色の艶めく葉は丸い形の端々が尖っている。
 房状のピンク色の花は頭を垂れるようにしながらいくつも連なって、束ねられた鈴のようだった。
 見た目はほんとうにささやかな、小さな花だ。

 ──待て。

「……えっと、ちせ? さっき、なんて?」

「……のこぎりの歯ですか?」

「ちがう。この花の名前」

「えっと、たぶん、イワカガミです。花言葉は忠実……」

「いや、花言葉はべつにいい」

 野花の知識が堪能だとは知らなかったが、ちせは未だピンと来ていないらしい。

「イワカガミっていうのは、漢字だとどう書くんだ」

「たしか……岩の鏡、だったと」

 あ、とちせはぽかんと口を開けた。

「で、でも……これは鏡じゃなくて花ですよ」

「考えてみれば、この道を歩いていて特徴的だったものなんてこの花だけなんだ。
 何が起きても不思議はない以上、藁にでもすがる価値はあるだろう」

 ましてやそれが、イワカガミだと言うならなおさらだ。

「……と、言っても、どうするんですか?」

「……どうするんだろうな?」

「隼さんって……いろいろ考えてるようで、けっこう考えなしなんですね」

「……」

 なんだか呆れられてしまったようだった。

「とりあえず」

「とりあえず?」

「触ってみるか……」

 ちせはくすくす笑って、俺が花びらに触れるのを見ていた。

「どうですか?」

「柔らかいな」

「それから?」

「植物に触れている感触がする」

「まあ、植物ですからね」

「……」

「……」

 何も起きない。

 ちせがまた笑った。今度は楽しそうに、声を上げて。

「……なんだよ、もう」

「いえ、ごめんなさい。なんだかおかしくって」

 まあ、状況が状況だ。悲壮感にかられているよりは、笑ってもらえたほうが気分はマシだ。

 そしてちせは、言葉を付け加えた。

「イワカガミの名前の由来は、葉にあるそうですよ」

「というと」

「表面がなめらかで、光沢がある様子が、鏡に喩えられたそうです」

「表面がなめらかで光沢のある葉を持つ植物なんて他にもさんざんありそうなものだが」

「無粋ですよ、隼さん」

 大人っぽく笑って、ちせは花のそばに屈み込んだ。

「花言葉の忠実というのも、おもしろいですね。頭を垂れた花の様子からという話ですけど、名前が鏡と言われると、それだけではないような気もします」

「というと」

「というと」

「……なんだ、急に」

「隼さん、二回目なので、真似してみました」

 ……こんなキャラだったか、こいつは。

「鏡を見るものは、まず自分自身と出会う。鏡は見るものの姿を忠実に映し出すものですよ」

 そう言って彼女は、イワカガミの小さな葉を覗き込んだ。

「とはいえ、こんな小さい花ですけどね」

 そう言って、彼女は俺の方を振り返った。
 愛らしい笑顔の向こう側で、小さな光が見える。

「……ちせ」

「へ?」

 まばゆい光が、目を潰すように、視界を覆う。

 次の瞬間には、ちせの姿は消えていた。

 ひとり取り残されて、「おいおい、マジか」と思わず呟いてみた。
 アタリか、これ。こんなんでいいのか?

 なんだか急に、自分がものすごく無駄な恐怖を抱いていたような気分になってきた。

 それともまさか、別の場所に送られたとか……。そっちの可能性も、考慮するべきだっただろうか。
  
 などと、ここで唸っていても仕方ない。

 俺はちせを真似て、イワカガミの葉を覗き込む。

 艶めいた葉に……何かが映り込んだ。

 思わず俺は、背をのけぞらせた。

 そこに映っていたのは俺の顔ではない。
 たしかに、誰か別の人間の顔が映っていた。
 
 ……いや、そうなのか?

 ──鏡を見るものは、まず自分自身と出会う。

 ふと、足音が聞こえて、考えるより先に振り返っていた。

 驚きながらも、俺はどこかで予感していたのかもしれない。

「や。ひさびさ」

 瀬尾青葉が、そこに立っていた。

 瀬尾は、当たり前みたいな顔で俺に笑いかけた。
 
 さすがに俺は反応できない。言葉ひとつさえ浮かんできやしない。

「本当に、来ちゃったんだね。来ないほうがいいって、言ったのに」

 言いながらも、瀬尾はまるで、昨日までも当たり前に会っていた相手にするみたいに、自然に話している。
 そうして、花のそばにかがんだままの俺を見下ろしている。

「なにか言ってよ」

「……なにかって、なんだよ」

「なにか」

 もどかしそうに、瀬尾は身体をゆらゆらと揺らしてみせる。

「……馬鹿野郎」

「ばかやろうはひどい」

「……」

「ごめんね」

「なにが」

「いろいろ、心配かけて。ちょっと、ひどいことも、うん。言っちゃった気がする」

 久しぶりに見る瀬尾の表情は、以前とは違う気がした。
 どこか遠くて、澄んでいて、清らかに見えた。

「ん。どうしたの、副部長。じっと見て」

「……」

「ま、青葉さんはかわいいからね。見とれちゃうのも仕方ない」

「……」

「……なんか言ってよ」

 いつも以上におどけたような軽口は、なにかをごまかすためだろうか。
 わからないけど……。

「瀬尾」

「……なに」

「ひさびさに見るとたしかにかわいいような気がする」

「……な、なに急に。ていうか、ひさびさに見るとってなんだ」

 ……なるべくいつもどおりに話そうとした結果、過剰にふざけすぎたらしい。 
 彼女はびっくりしていた。

「……瀬尾」

「な、なに……?」

「帰ろう。ここは、よくないよ」

 俺の言葉に、彼女は寂しそうに笑った。

「ん。……うん、いつかは、帰るよ」

「いつかって、いつだよ」

「……いつか、だよ」

「少なくとも、今じゃない。……まだわたしは、ここで見つけてないものがあるから」

「……」

「捜し物をしてるの。たぶん、大事なもの。ここなら見つかると思う」

「……それ、なきゃだめなのか」

「たぶん、なくてもなんとかなると思う。でも、見つけなくちゃ」

「……帰ってこいよ」

「なんで、きみが泣きそうな顔をするの?」

「してない」

 あは、と瀬尾は笑った。

「へんなの。……ね、三枝くん」

 他人みたいな呼び方だと思った。
 一年前まで、そう呼ばれていたのに、なつかしさすら覚えない。

「だったらきみがわたしの、帰る理由になってくれる?」

「……なんだ、それ」

「わたしが帰ったら、きみは、わたしだけの居場所になってくれる?」
 
「居場所……?」

 居場所。

 瀬尾青葉の、瀬尾青葉だけの。

「……無理だよね」

 わかっていたことをたしかめただけだというみたいに、声は弾んでいるのに、どうして、
 どうしてそんなに悲しそうな顔で笑うんだ。

「……だから、もう少しだけ、わがまま、言わせて。心配、してくれたとしたら、ごめんだけど。たぶんわたしは、見つけないといけないんだと思う」

「……瀬尾、俺は」

「わたしは、ひとりでも大丈夫だから。だから今日は、もう帰りなよ」

「市川も、真中も、大野も、ちせだって、心配してた」

「ちせちゃん、会ったんだね。うん。さっき見てて、気付いたよ」

「俺だって……」

 くすぐったそうに、瀬尾はまた笑う。

「だめだよ、ほら、早く帰りなさい」

 そう言って、彼女は俺の背にトンと触れた。
 
 俺は前を見る。眼の前の、イワカガミの花を見る。
 
 彼女に帰る意思がないのなら、無理に連れ帰しても、仕方ないのかもしれない。

「瀬尾」

「ん」

「……無理するなよ」

「ん。また手紙出すね」

「やばそうだと思ったら、すぐに来るからな、おまえが嫌がったって」

「……副部長って、そんなにわたしのこと好きだったっけ?」

「茶化すなよ」

「ん。あ、そだ。今度来るときはね、土産物を献上せよ」

「土産物?」

「牛乳プリンがたべたいかな」

「……考えとくよ」

「……ん。へへ、よろしく」

「あのさ、おまえの家にも、行ったんだ」

「……」

「お母さん。心配してたよ」

「……そっか」

 瀬尾がそのとき何を考えていたのか、俺にはわからない。

「……俺も、もしかしたら」

 もしかしたら、こちらで探すものが、あるのかもしれない。
 けれど今は、帰ろう。

 あまりあちらを不安がらせてもいけない。
 もう、時が経ちすぎている。

「今日のところは、帰るよ」

「ん。ばいばい」

 俺は、イワカガミの葉を覗き込む。
 やはりそこには、俺ではない誰かの姿が映り込んでいるように見える。

 光が視界を覆っていく。
 どうして悲しいのかわからなかった。

 結局俺は、なんにもできやしないのか。
 誰にも、何にも。

 最後の最後に、

「またね──隼ちゃん」

 そんな声が耳朶を打ったように思えたけれど、それはきっと、気のせいなんだろう。

 


 そして視界を取り戻すと、俺の身体は文芸部室にあった。
 瀬尾青葉はどこにもいなかった。



 
 部室にはちせの姿がちゃんとあった。市川と大野もいる。
 
「隼さん!」
 
 と、ちせが俺を呼んだ。

 あっけにとられたような様子の大野と市川を背後に、彼女は俺に駆け寄ってきた。

「よかったです。帰ってくるの遅いから、何かあったのかもって……」

「ああ、うん……」

 返事をしながら、からだのふらつきをどうにかこらえる。
 急に投げ出された勢いが、からだのなかで渦を巻いて行き場を探しているみたいだった。

 やっと落ち着いて直立できるようになると、大野と市川がぽかんとした表情でこちらを見ているのに気付いた。

「……ただいま」

 と俺は言う。

 大野は表情も変えられないようすで、

「おかえり」

 と言った。

「……なにがなんだかわからん。説明してくれるんだったな」

「……ああ。真中は?」

「廊下。俺と市川は、物音がしたから入ってきたんだ」

「あの、わたしが盛大に転びまして……」

 恥ずかしそうに、ちせが膝小僧をおさえた。
 
 俺は扉を開け、廊下を覗いた。

 真中は、廊下の壁に背をあずけて座り込んでいる。
 表情は、ここからでは見えない。

「真中」

 と呼んでも、返事をしない。

「真中、終わった」

「……ん」

 やっと、真中は顔を上げてこちらを見てくれる。
 ちょっとすねたみたいな顔をしていた。

「どうした」

「……せんぱいが、外で待ってろって言ってたから。呼ぶまで待ってろって、言ってたから」
 
「……」

 だから、大野と市川が音を聞いて飛び込んできた後も、ひとりでここにいたのか。
 
「もういいよ。真中」

「……うん」

 彼女は立ち上がって、静かにこちらへ近付いてくる。

 それから、なにかを待つみたいに、俺の顔を見上げた。
 不安そうな顔をしている。

「……どうしたんだよ」

 なんでもない、と真中は言った。
 落ち着かないみたいに、両方の手のひらを繋いだまま、俺の方を見ている。

「悪かったよ」と俺は言う。

「全部話す」

「……いいんだ、そんなの。話してくれなくても、いい」

「でも」

「ちょっと寂しかったから、すねてただけ」

「……」

「仕方ないことだから」

 この子はどうして、こんなふうな表情をしてまで、俺の近くにいてくれるんだろう。
 そんなことが不思議で仕方ない。

 今だって俺はこいつにひどいことをしている。

 それは俺にだってちゃんと分かる。
 
 ──だったらきみがわたしの、帰る理由になってくれる?

 瀬尾にそう問いかけられたとき、俺の頭に浮かんだのは、どうしてか真中のことだった。

 それがそのまま答えになれば、それでよかったはずなのに。

「……ちせ、連れて帰ってきた」

 その言葉の意味を理解できているわけではないだろうが、真中は頷いた。

 それ以上何も言えずに、俺は真中に部室に戻るように手招きして、ふたりで扉の内側に入っていった。

 戻ると、皆が説明を求めるように俺を見ている。

 大野と市川は、俺が戻ってくるさまを目の当たりにした。ちせは実際にむこうに行った。
 結果的に言えば、何もなかったときよりは、説明は幾分簡単になったとは言える。

 俺は掌を見つめて、握ったり開いたりしてみる。

 感覚はちゃんとある。今のこの感覚を疑ってしまえば、どこまでもどこまでも落ちていってしまうだろう。

 だから、今は疑わない。

「じゃあ、説明してくれるんだよな」

 大野がまたそう繰り返す。俺は頷いた。

 そこでちせが「あの!」といきなり手を挙げた。

「……なに?」

「えっと、話を聞く前に、なんですけど」

「ああ」

「……その。ちょっと、お手洗いに、いってきても、いいですか?」

「……どうぞ」

「……す、すみません」

 ちせが戻ってきてから、俺は説明を始めることにした。

 パイプ椅子に腰掛けて、四人は俺の方を見ている。

 俺はホワイトボードの前に立っている。
 こんな景色を、俺は見たことがある。

 いや、見たことがあるわけではない。知っているだけだ。

『薄明』を出そうというときに、こんなふうに並んで座ったのだ。
 そのとき瀬尾が立っていた場所に、いま俺は立っている。
 
 そして、俺の代わりに、ちせが座っているのだ。

 不意に雷鳴が聞こえた。音につられて窓の外を見る。
 雨が降っている。雲は厚く、景色は暗い。

「雷だな」と大野が言う。

 俺は黙って頷いて、どこから話したものだろうな、と考えた。

 まずは、そう、起きたことから。

「大野と市川は、俺が戻ってくるところを見たな」

 ふたりは、それぞれに頷いた。

「それに、お前以外いないはずの部室に……えっと、名前、ちせさん、だったか」

「ちせ、でかまいません」と、ちせはいつか俺に言ったのと同じようなことを言う。

「ちせがいた。そして、物音に気付いて戻ってきたとき、おまえがいなかった」

 俺は頷いた。それが、大野たちが見た景色だ。
 真中は直接見てはいないが、おそらく彼女は、俺を疑いはしないだろう。

「見間違いじゃなければ、おまえは……絵の中から出てきた、ように見えた」

 大野の言葉が沈黙にまとわりつくように響いた。
 皆の視線が一枚の絵に集まる。水平線。海と空とグランドピアノ。

「説明は聞きたい、が……単純に納得できそうにはないな」

 真中と市川は、黙り込んでいる。
 雨の音が部室の中に響いていた。

「簡単には納得できない話だと思う。だからこそ、というのは言い訳だが、だからこそ、話しにくかった」

「はい」とちせが手をあげた。

 さっきまでの落ち着かない様子はなりをひそめて、もういつものように自然な振る舞いに戻っている。 
 彼女がどうして電話口であんなふうになっていたのか、と、どうして会ったときは普通に戻っていたのか、は、考えないことにする。
 
 彼女は「道を離れていない」と言ったのに、俺の背後からあらわれた。彼女はそのとき、一度道の外にいたのだ。
 くわえて、電話を切ろうとしたし、実際、切った。何かを俺に隠そうとしたのだ。である以上、それを暴き立てることもない。

 気になるのは、「わたし、おかしいんです」という言葉だ。
 
 それでも、やはり、俺は彼女に何も聞かないことにする。
 ……あれこれ想像するのもよくない。考えるのも避けるのがいいだろう。
 必要があることならば、ちせは話す。そうしない以上、それは知られたくないことなのだ。

「なんだろう、ちせ」

「隼さんは、あの場所のことを最初から知っていたんですか?」

「知っていた」
 
 どうしようかな、と俺は思う。どこから話せばいいのだろう。
 ちせと俺がどこにいたのか、そこからだろうか。

 それとも……。

「あの場所って?」

 大野が口を挟んだ。

 そうだな、と俺は頷いた。そこから話すのがいいだろう。

「順を追って説明する。混乱するのはよくないから、俺の解釈みたいなものも付け加えない。知っていること、起きたことだけを、話す」

 信じてもらえるかどうかは、もう関係ない。実際に起きたことの説明を、彼らは求めているんだから。

「ちせは、実際にむこうにいったから、現象としては目の当たりにしていることになる」

「『むこう』。『あの場所』」

「……」

 不意に、市川が、その名の通りの鈴を転がすような声音で、呟いた。

「隼くんは絵の中から出てきた。状況から考えると、ちせちゃんもそう。ということは」

 混乱したりは、しないんだろうか。市川は落ち着いた様子だった。

「『空間』があるんだね。あの絵の中に」

「そういうことになる」

 俺が頷いた瞬間、大野が額を抑えるのが見えた。常識人の大野としては、さすがに頭が痛いところだろう。

「ゲームかなにかか、ここは……」

「理屈はわからない。でも、とにかく、ある」

「本当です」とちせが言う。

「わたしは、昼休みに、隼さんがこの絵を調べるのを見てたんです。それで、ひとりになったときに、ここに来て絵に触れてみた。そうしたら、気付いたら、まったく別の空間にいました。どこか……山深くの、森みたいな場所です」

「……幻覚、とは、ならないよな」

「大野たちは、物音がするまで部室の外の廊下にいたんだろう?」

「……そうだな」と、大野が頷く。

「トリックでも疑いたいところだが……そんなことをする意味もないか」

 彼は静かに言葉を続けた。

「部室唯一の出入り口は俺たちが見張ってた。今日は雨で窓は閉めっぱなしだし、仮に開いていたって、どうがんばっても窓からは入れない。というか、そんなことをしてまで俺たちを驚かすことに何のメリットもない。そこにちせが現れて、おまえがいなくなって、それからおまえが絵の中から現れた。見たものは信じるしかない」 

 幻覚という説明はありえない。ちせは実際、いなかったはずなのにいたし、いたはずの俺もいなくなっていた。
 そして、何より、俺は絵の中からあらわれた。

「わかった。認める。とにかくそういう空間が、『在る』。……瀬尾の手紙のこともあるしな」

 とりあえずの納得を得て、俺は話を続ける。

「今日、俺はここにいる人間に、『むこう』について話そうと思っていた。昼休みにちせと会ったときに、ちせにも話すことにした。そのとき、俺が絵に触れたときは何も起きなかった。でも、ちせがそのあとにひとりで触れたとき、おそらく、反応したんだろう」

「はい」とちせが頷いた。

「……六年前、俺はその空間に迷い込んだことがある」

 詳しい説明は避ける。ちどりのことや、怜のことは、今は直接関係がない。

「……待て。それは六年前に、ここに来て、この絵に触れたってことか?」

「違う。この絵以外にも、入り口がある」

「入り口」

「そう。あちこちに、『入り口』がある。そのことを知っていたから、俺は瀬尾がひょっとしたら、『むこう』に迷い込んだんじゃないかって思ってたんだ」

「……むこう」

「静かな湖畔で暮らしている、と瀬尾が言ったとき、そういう景色は『むこう』にならありえると思った。瀬尾がいなくなったとき、あいつの靴は下駄箱に残ったままだったし、荷物だってあった。どこかに行ったというよりは、校内で忽然と姿を消したみたいだ」

「……まあ、それは不思議だったが」

「くわえて、瀬尾からは手紙が来た。もし瀬尾が校内に隠れて、『伝奇集』にこっそりメモを挟んでいるのでないのなら……。そこにはなにか、理外の力が働いていたはずなんだ」

 異論はないのだろう。みんな押し黙った。
 手紙について、現実的に説明するのは難しい。それを奇妙に思っていたのは、全員が同じなのだ。

「瀬尾の手紙が理外の力によって届けられているなら、そして瀬尾の手紙に嘘がなく、彼女が本当に湖畔で暮らしているなら、それが『理外の空間』から届けられていると連想するのは難しくなかった。少なくとも俺は、そこにいったことがあるから」
 
 これは、カレハと話し合った夜に話したことの反復にすぎない。
 あのとき整理できたおかげで、俺は筋道立てて説明することができる。

 とはいえそれを信じてもらえるかというと、少し怪しいところかもしれないが。

「じゃあ、瀬尾は、その絵の中にいるってことか?」

「と、俺は考えて、今日その話をするつもりだった」

「……なんとも荒唐無稽だな」

 半信半疑、といったところだろう。
 認めるには証拠がないが、状況を見ると俺の説明に難はない。
 なにせ、俺とちせは知っている。それは実際に起きたことなのだ。

 さて、ここからの言葉を、信じてもらえるかどうか。

「さっき、実は、ちせが帰ったあと、俺は瀬尾に会った」

 これには、四人とも驚いた。

「あいつはまだ帰らないと言っていた。何かやることがあるから、と」

「……なるほどな」

「ねえ」と口を開いたのは、また市川だった。

「もう、説明を聞くより、会いにいったほうが早いんじゃないかな」

「ていうと」

「その、『むこう』に。わたしや大野くんや柚子ちゃんも。
 それなら、信じるも信じないもないでしょう?」

「……まあ、手っ取り早くはあるんだろうが」

「なにか、渋る理由があるの?」

「正直、俺とちせがこうして帰ってこられたのだってたまたまだったんだ。実際、ちせは帰り方がわからなくて、俺が迎えにいかなきゃいけなかった」

「そのうえ、隼さんは帰り方がわかりませんでしたしね」

「実を言うと、あまり行きたくはない」

「どうしてだ?」

 どう説明するのが最善なのか、わからない。
 頭が拒否する。からだが嫌がる。

 あの場所には行きたくない。

「何が起きるか、わからない」

「でも、それならなおさら、引っ張ってでも瀬尾さんを連れ帰るべきなんじゃない?」

 市川のその言葉は、もっともだ。

「……うん。そうなのかもしれない」

 ただ、それでも付け加えなければならないだろう。

「六年前、むこうに迷い込んだとき、俺は帰り方が分からなくなって、暗い森に二週間取り残された。迷い込んだのは俺ひとりじゃない。四人、むこうに行った。そのうちのひとりは、そのときの記憶をなくしていた。繰り返すが、何が起きるかわからない」

「……」

「だから、正直、話したくなかった」

 真中が、俺の顔をじっと見ていることに気付いた。
 何かを言いたげに、けれどこらえているみたいに、じっと、こちらを見ている。

 俺が聞いている葉擦れの音、二重の風景のことは言わない。
 信じてもらえるかわからないし、俺自身、話したくはなかった。

「にわかには信じがたい話だが……」

 大野は、俺ではなく、市川の方を見た。
 これまでの流れからして、意見を求めるなら市川だと思ったのだろう。

「……でも、とりあえず、瀬尾さんはむこうにいる。自分の意思で。そういうことだよね?」

「ああ。そう言っていた」

「……隼くんの言うことを信じるなら、か」

 もちろん、そういう話になるだろうことはわかっていた。

「でも、市川も見ただろ。こいつは絵の中から出てきた」

「うん、でも、そこが何が起きるかわからない場所だとしたら、『隼くんが瀬尾さんの幻を見た』って可能性だってあるわけでしょう」

「それを言われると、参る。俺には証明する手立てがない」

「だから」と市川は続ける。

「だからわたしは言う。『むこう』にいって、瀬尾さんの姿を自分の目で見るまで、信じきれない」

 たしかに、そういう話になる。

 だが、彼女は気付いているだろうか?

 俺が見た瀬尾が幻だという可能性を理由に、むこうで瀬尾を見るまで信じられないというならば、
 市川がむこうにいったとき、見つけた瀬尾の姿だって、幻じゃないとはかぎらないのだ。

 見たものを信じられなくなったとき、人は未分化の混沌に踏み入ることになる。

 そこにはもはや足場すらない。

 ……この二重の風景が、俺にとっての現実を歪めてしまっているのと同じように。

「はい」とちせがまた手を挙げた。

「だったら、みんなで行くといいと思います」

「……ちせ」

「隼さんが心配するのはわかりますが、そこに青葉さんが取り残されているのは事実です。それに、ここまで聞いてしまった以上、隼さんがいくら止めても、『むこう』へ行きたい人が出るのは当たり前です。だとしたら、それぞれが勝手な行動を取るよりも、みんなで力を合わせてむこうを調べたほうがいいと思う。どうでしょう?」

 さすがに答えに窮する。

「幸い、隼さんとわたしで、帰り道になりそうな法則みたいなものは見つけられました。もちろん、それが通用するとはかぎりませんけど、わたしが見たかぎり、あの空間にそこまで変なところはありませんでした」

 ちせはわかっていない。
 あの森に立ち入っていないから、わかっていない。

 けれど、それを説明する術はないし、したところでわかってもらえるわけもない。

 実際、ちせの言うとおりかもしれない。

 怜は、『むこう』に何度も向かい、そして帰ってきている。
 だとすると、用心さえすれば、帰ってこれなくなることは、ないのかもしれない。

 かもしれない、かもしれない。……人を巻き込むには、仮定が多すぎる。

「……どう? 隼くん」

 市川にそう訊ねられ、俺は頷くほかなかった。

「ちょっと、時間をくれ。いろいろと考えてみる」

 納得したかはわからないが、俺がそれ以上話をする気がないとわかったのだろう。大野も市川も頷いてくれる。

 無事に、確実に帰ってくる方法さえあれば、たしかに『むこう』に行ったほうが話は早い。

 俺ひとりでは無理でも、瀬尾の説得もできるかもしれない。
 怜に、詳しい話を改めて聞いてみるべきだろう。



「ぼくに何の相談もなかったっていうのは、どういう了見だろうね」

 その日の夜、夕食に純佳が作ってくれたオムライスを食べてから、部屋に戻って怜に電話をかけた。

「事後報告になるのは謝るが、状況が状況だったのはわかってくれるだろ」

「それで、瀬尾青葉さんは見つけられたわけだ」

「ああ」

「万事解決だね」

「……ま、そうだな。あいつが帰ってきさえすれば」

「そこが不思議だな」と怜は考え込むように呟いた。

「瀬尾さんは帰り方がわからなかったわけではない。のに、帰らないんだろ?」

「何かを探してる風だった」

「……学生証かな?」

「だったら話は簡単なんだけどな」と俺は笑った。

「観念的な空間だからね」と怜は言う。

「観念的なさがしものなんだろう」

「観念的、というと」

「さあ? 記憶かな」

 記憶。そうかもしれない、と俺は思う。

「ちょっと困ったことにはなってるんだ」

「うん。そうだろうね」

「どう思う?」

「仕方ないだろうね。見られたんだから」

「……まあ、そうだな」

 迂闊なところがあったのは事実だが、そもそも、「ちせ」があんなふうに簡単にむこうに行ったこと自体が驚きだ。
 今日のように誰もが簡単にむこうにいけるなら、あっちに行ったことのある人間は、もっと多くてもいいはずだ。

 だからこそ条件があると思っていたのだが、どういうことだろう。

「それで、他の部員もあちらに行ってみたいと言ってるんだ」

「それも仕方ない」

「そう、仕方ないことなのかもしれない」

「まあ、たぶん……問題ないと思う」

 怜の反応は、思った以上にシンプルだった。

「根拠は?」

「ないといえばない。でも、『むこう』にいっても、基本的に害はないと思うんだ」

「長年の研究の結果か」

「そういう言い方もできるけど。少なくとも、あの森に入り込まないかぎりは、危険はないと思う」

 ここに俺と怜の認識の違いがあるのかもしれない。
 怜は、あの場所に踏み入るリスクを、俺よりも軽く見積もっているように思う。

「……まあ、そこに関しては仕方ないか」

 今日は実際、帰ってくることができた。
 瀬尾が帰ってこない以上、あちらに行く意味はないが、大野たちが瀬尾の無事を確認したいという気持ちも理解できる。
 それに、未知の現象をどうにか自分の感覚に落とし込んで納得したいという気持ちも、わからないではない。

「でも、隼、気をつけたほうがいいね」

「ん」

「瀬尾青葉さんの学生証のことを考えれば、彼女が必ずしも安心できる状態ではないということは、たしかだと思うから」

「……」

 考えてみれば不思議な話だ。
 怜は瀬尾青葉の『顔』を知らない。

 とはいえ、そこに関しては、今はわからないことだ。口に出す意味もない。
 
「それで、怜、聞きたかったのはべつのことなんだ。帰り方のことなんだけど」

「帰り方?」

「むこうに行ったとき、おまえはどうやって帰ってきてるんだ? 通ってる以上、帰り方は知ってるわけだろ」

「うん。まあね。……そっか。その話をしてなかった」

「おかげで帰ってこられなくなるところだった」

「べつにぼくのせいじゃないと思うけどね」

「誰のせいでもないってことだろうな」

 うん、と怜は頷いた。

「帰り方はシンプルだよ。鏡や絵を探せばいい」

「鏡、絵、か」

「隼は、どうやって帰ってきたんだ?」

「花だよ」

「花?」

「イワカガミだ」

「なるほどね」と怜はくすくす笑った。

「カガミとついてればなんでもいいってことか?」

「いや、違う。言っただろ。あそこは観念的な場所なんだ」

「観念的な場所。というと」

「物理的に鏡であっても駄目なんだ。観念的に鏡でなければいけない」

「……イワカガミの葉は、観念的に鏡だってことか?」

「そういうことになるね」

「だとすると……『窓』では駄目か」

「駄目だ。たとえ鏡としての機能を果たしたとしても、それは鏡ではない。
 そうわかっていれば、出口探しはそんなに難しくないよ」

 難しくない? ……怜はあちこちからむこうに行ったという。
 そのどこにでも、鏡があったとは……。

 いや、違う。

「入り口の近くに、出口はかならずある。簡単には見つけられないだけだ」

「そうは言っても、イワカガミみたいなものばかりだったら、途方に暮れるしかないが」

「いや。それはたぶん、むしろ珍しいくらいの出入り口だよ。普通はもっとシンプルだ」

「結論から言ってくれ」

「水だ」

「……水鏡か」

「それが一番多い。人工物のようなものが多い場所だと、絵のほうが多いな。ただの鏡って場合もあるけど」

「……とにかく、迷ったら、絵か、水か、鏡を探せ、ということか」

「隼ひとりで行かなくてよかったね」と怜は言った。

「ひとりで言っていたら、イワカガミなんて気づきもしなかっただろう」

「まあ、そうだな」

 そう考えると、結果的にはよかったかもしれない。

「瀬尾さんが見つかったというなら、ぼくが無理になにかアクションを起こす理由はない。ただ、むこうに行くときは、念のためにぼくにあらかじめ連絡してくれ」

「……そうするよ」

「それから、隼」

「ん」

「さいきん、ちどりになにかあった?」

「……なにかって?」

「昨日連絡したんだけど、ちょっと様子がおかしかったような気がして。
 ……考えすぎかもしれないけど、気になってね」

「……心当たりはないが、一応気にかけておく」

 嘘だ。ないわけではない。
 
「隼は嘘つきだからな」と怜は言った。そのとおりだと俺は思う。



 怜との電話を切り、あれこれと考えを巡らせる。
 
 瀬尾は見つけた。彼女は帰ろうとしないだけだ。
 それを無理に連れ帰ることは、できない。

 その上で改めて考えてしまう。

 とりあえずのところ。
 むこうの法則のようなものを見つけ、ある意味で対策は打てる立場になった。
 瀬尾を探していたメンバーにも、一応の説明は行えた。

 けれど、何も解決なんてしていない。

 俺はこれまで、何を優先しても瀬尾の行方を特定するのが最初だと思っていた。
 でも、それは正しかったのだろうか。

 瀬尾の居場所がわかったところで、なにも事態は変わっていない。

 俺は相変わらず葉擦れの音を聞いている。景色が二重に見えている。

 瀬尾を連れ帰ったらさくらを手伝うと約束はした。

 けれど……瀬尾が帰ってきたとき、俺はどうなっているんだろう。

「隼ちゃん」と、瀬尾は最後に、俺のことをそう呼んだ。
 俺をそう呼ぶのは、鴻ノ巣ちどりだけだ。

 瀬尾はちどりに会ったことがない。

 今、考えても結論は出せない。
 
 いずれにしても、瀬尾が探しているものは、俺もまた見つけなければいけないものなのかもしれない。
 
 そうしなければ、このわけのわからない状態に決着をつけることはできないだろう。

 でも、本当のところ、俺はどうしたいんだろう。

 瀬尾を連れ戻して、それで?

 それでいったい、どうなるっていうんだろう。

 俺は、自分が何を求めているのか、わからない。

 ……いいかげん、逃げ回っているわけにも、いかないのだろうか。
 
 瀬尾があの場所で何かをさがすというなら、俺もまた、彼女のように何かを見つけなければならないだろう。

 そうしなければ、俺は永遠にこのままなのかもしれない。




 翌日、瀬尾からの手紙が『伝奇集』に届いていた。

「昨日はありがとうございました。次来る時は牛乳プリンを忘れずに」

 そう書かれていたが、その日、俺たちは『むこう』に行くことができなかった。

 やはり何か条件があるのだろうか、大野や市川だけではなく、ちせや俺までも、絵の中に入ることはできない。

 誰も不平は言わなかったが、拍子抜けした感は否めなかった。

 真中は部室にいるとき、なにかいいあぐねているみたいに俺に声をかけずにいた。

 その日の夕方はバイトがあって、結局何もできないまま終わった。

 バイトに入る前に、俺はある人に連絡を入れた。



 県道沿いに立つファミレスのテーブル席に座って、彼女は俺を待っていた。
 時刻は夜の九時半を過ぎた頃。バイトを終えてすぐに来たが、いくらか待たせる格好になった。

 黒く長い髪の毛先を巻いて横に結び、首にかかるように流している、そんな髪型が大人っぽくて新鮮だった。
 俺と毎日のように会っていたとき、彼女が髪を結んでいた記憶はない。

 袖の短いカットソーから伸びる腕は、相変わらず白く、細かった。

 彼女は俺を見つけてふわりと笑う。その所作は、不思議と懐かしかった。

 俺は彼女の真向かいに腰をおろし、その様子を改めて眺めてみる。

 そんなに長い時間が経ったというわけでもないのに、別人のようにすら思える。
 が、いや、やはり、この人は変わっていないのだと気付く。

 単に、私服姿が珍しいというだけのことなのかもしれない。

「お久しぶりです」と声をかけると、彼女は子供みたいににかっと笑った。

「ん。ひさしぶりだね、後輩くん」

 人形のような綺麗な顔つきと、取り繕わない自然な表情の動き。
 微細に計算されているような、それでいて自然にこぼれだしたような変化。

 ましろ先輩は、口元に笑みを浮かべたまま、メロンソーダの入ったカップのストローに口をつけて俺を見ていた。



「どう、部活」

 何の説明もしていないから、ましろ先輩はそんな世間話を最初に口に出した。
 
 少し会えませんか、と連絡して、いいよ、と返信が来たのだ。ありがたいことだ。

「順調とは言い難いですね」

「んん。そうなの?」

「ちせから、聞いてないんですか?」

「何を?」

「瀬尾がいなくなったこと」

「……」

 きょとんとした顔で、彼女は俺を見る。

「いなくなった? 青葉ちゃんが?」

 てっきりちせは、そのことをとっくにましろ先輩に話しているものだと思っていた。
 だから今日の用件だって、何も言われなくてもそうわかったはずだと思ったのだけれど。

「……聞いてないんですね」

「ん。あとでお仕置きだね」

「あんまりいじめないであげてください」

「ええ? いっつもわたしがいじめられてるほうなのにな」

「そうなんですか?」

「ん。ちせは、わたしにはお説教ばっかりだからね」

 思い出し笑いみたいに、彼女は頬を緩めた。
 意外といえばそうだという気もしたが、似合うといえば似合う話かもしれない。

「岐阜城はどうしました?」

「岐阜城?」

「最近日本の城のプラモデルに凝ってるって聞きましたけど」

「あ、うん。……いや、そんな話はいいんだよ。青葉ちゃんのこと」

「ええと、いや、とりあえず見つかったんで、大丈夫です」

「見つかった? ……なんか、全部事後報告だなあ」

「知ってると思ってましたから」

「今日わたしを呼んだのは、そのこと?」

「そのことも、です」

「ん。聞こうか」

 ましろ先輩は、背筋をピンと正して、いつもみたいに(……いつも?)、笑う。

「ひさびさに、相談室を開いてあげましょう」

 頷いて、俺は話の出だしを考える。
 会うのは久しぶりなのに、ましろ先輩にいろいろなことを話すのには、抵抗がない。
 
 聞きたいことも、言いたいことも、たくさんある。
 けれど最初に、いちばん気になっていたことを、聞いてしまおう。

「ましろ先輩。……先輩は、『むこう』に行ったことがありますね?」

 彼女は視線をそらしながら、ことん、と力を抜くみたいに、首をかしげて笑った。




「『むこう』って、何の話?」

「……先輩は俺に、桜の木の下は、『異境の入り口』だって言いましたよね」

 その言葉が意味のあるものとして頭に蘇ったのは、つい最近のことだ。

 先輩は言っていた。瀬尾には、『守り神』と、俺には、『異境の入り口』だと。

 そのときは深く考えていなかった。
 当時はあの場所のことをまともに考えてはいなかったし、ましろ先輩が『むこう』を知っている可能性だって考えていなかった。
 
 だから気付かなかった。

「そんな話もしたかな」と、ましろ先輩はまた首をかしげる。

「瀬尾には、守り神と言っていましたね」

「ん。その話はしたかもね」

「先輩は、何を知ってたんですか」

「ちょっとまってよ」と慌てたみたいに彼女は手をぱたぱたさせた。

「何の話か、ぜんぜんわかんないよ」

「……」

 思えば、ましろ先輩が、俺と瀬尾に別々の情報を与えたことは、それが初めてではない。

 部員数が足りなかったときもそうだ。
 ましろ先輩は、部の維持条件について、俺と瀬尾に別々のことを言った。

 瀬尾には廃部になると言い、俺には廃部にはならないと言った。

 そうすることで、彼女は俺と瀬尾を、それぞれに都合よく動かした。

 そこまで気付いてしまえば、嫌でも想像してしまう。
 先輩は、そのときもまた、俺と瀬尾に別々の情報を与えることで、何かをさせようとしていたんじゃないのか。


「まったく。後輩くんは、わたしのことを全知全能だとでも思ってるんでしょ。じっさいわたしは、青葉ちゃんのことだって、今日初めて聞いたんだよ?」

「それに関しては、本当に驚きです」

「それなのに、人がいつも何かを企んでるみたいに言って。ちょっとひどいよ」

「……でも、『むこう』のことは知ってるでしょ」

「ん。まあね」

 これだ。がっくり肩が落ちるのが分かる。

「知ってるんじゃないですか」

「そりゃあ、まあね。だから教えたでしょ。桜の木の下は、あそこは異境の入り口だって」

 異境の入り口。たしかに怜も言っていた。鏡、絵、それから、『人目につかない自然の中』。
 もちろんあそこは人目につかないとは言い難い場所だが、あの朝、たしかに周囲に人はいなかった。

「何者なんですか、先輩は。さくらのことも、異境のことも、全部知ってたんですね」

「……だからさ、わたしはべつに、全知全能でもなんでもないんだって。知ってることなんて、本当にわずかだし、実のところ、なんにもわかってないんだよ」
 
「じゃあ、知ってることだけでも教えてください」

「甘えてるねえ、後輩くん」

「いけませんか」

「……そこで開き直られると、弱いなあ」

 そう言ってましろ先輩は、自分の毛束の先を指先でつまむみたいに撫でて苦笑する。

「ね、後輩くん。さくらは元気?」

「……どう、ですかね。俺にはわからないけど」

 あんまり、元気ではないような気がする。

「鍵の代金、ちゃんと払ってもらわないとね」

「忘れてるわけじゃ、ないですよ」

「ん。よろしい。ね、わたしの方からも、いくつか質問するね」

「はい」

「まず、話の流れからして、青葉ちゃんは『異境』にいたんだね?」

「……はい」

「そっか。ところで、後輩くんはやっぱり『異境』を知ってたんだね」

「ええ、まあ……」

 ……やっぱり?

「やっぱりってなんですか」

「きみの小説。あんなの、分かる人には何のことだか分かっちゃうよ」

 そうか。
 俺が部誌に寄せた小説は、『むこう』をモデルにした話だった。
 知っている人には、それと分かってしまう。

「……先輩は、いつむこうに行ったんですか」

「それは答えになっちゃうなあ」

「何の、ですか」

 なぞなぞがしたいわけじゃない。
 
「ん。そんな怖い顔しないでよ。べつにはぐらかしてるわけじゃなくて……。ううん、はぐらかしてるんだけど、そうだね、わたしもちょっと期待しすぎたのかも」

「期待?」

「そうだね、ここらで、話してもいいかな」

 そう言って、ましろ先輩は俺を見て笑った。

「本当は、自分で気付いてほしかったんだけどね」

「なにを、ですか?」

「わたしときみが、会ったことがあるってこと」

「……」

「きみは、わたしと会ったことがあるんだよ。気付いても、ぜんぜん不思議じゃないのに、きみはぜんぜん気が付かなかった」

「それって、学校で会うより前に、ってことですか」

「ん。そのとおり」

 それは、思い出したというより、たくさんの手がかりから結びついた結論だった。
 そんなひとつの思いつきが、俺のことを一瞬で支配した。

 そうだ。

『むこう』に行ったことがあったからって、俺の小説を読んで、それが『むこう』の景色だと特定できるわけがない。
 怜は言っていた。「どこから入るかによって、景色はまるで違う」。

 だとしたら先輩は、『俺が見たのと同じ場所』にいたのだ。

 ──きみ、この先に行くつもりなの?

 よぎる記憶は、やっぱり、夢のようだった。

 ──ここから先はきっと、わたしたちが行くべき場所じゃないよ。

 ましろ先輩の表情を、見る。
 端正な顔立ち。やさしげな目元、親しげな微笑。

「やーっと、気付いてくれた?」

「先輩は……」

「わたしは、きみが気付いてくれるかもって、ずっと待ってたんだぜ?」

 茶化すみたいに、彼女はテーブルの上に両腕を組み、顎をのせて上目遣いに俺を見た。

 六年前の五月、あの日、あの場所には、怜とちどりのほかに、もうひとり、知らない女の子がいた。
 中学の制服を着た、親切な女の子。

「あれが……先輩?」

「ふふふ」と彼女はわざとらしく笑った。

「気付くのが遅いぞ、後輩くん」




「あの頃のわたしの話はしたって仕方ないことだから、とりあえずいいね。そうだね、当時のわたしにもいろいろあったけど、それもまあよくある話だから。

 それで、わたしはあの頃、『あの場所』に通うのが好きだった。
 わたしだけの秘密の遊び。誰にも知られない場所。

 その入口に、ある日きみが立っていた。

 わかるよね?」

 六年前の五月、俺は、いなくなったちどりと怜を探して、あの木立の向こうに立った。
 ましろ先輩は、そこにいたのだ。

「きみが入部してきたとき、わたしはきみをどこかで見たことあるなって思ったんだ。それは錯覚じゃなかった。きみの小説を読む前から、ひょっとしたらって思ってた。でも、きみはわたしがわからないみたいだったし、言わないようにしてたんだ」

「どうして言ってくれなかったんですか」

「ん。まあ、いろいろね」

「先輩は……じゃあ、先輩が異境の話をしたのは」

「ひょっとしたら、思い出してくれるかな、と思って。でも、空振りだった」

 さすがに頭が混乱してくる。

 ましろ先輩、瀬尾青葉、鴻ノ巣ちどり。
 
 俺の身の回りに起きたすべての不思議が、六年前の五月に収斂していく。

 何が問題で何が聞きたいのかすら、自分じゃわからなくなりそうだ。

「先輩は、思い出させることで、俺に何かをさせたかったんですか?」

「ん、んん。べつに、そういうわけじゃないよ」

 彼女は困ったみたいに眉を寄せた。

「よくわかんないな。青葉ちゃんを見つけられて、きみの周りに、もう問題なんてないんじゃない?」

「……」

「きみはなにか、困ってるの?」

 なにか、困っているか。

 なにか、困っているか、か。
 
「……べつに、そういうわけじゃありませんよ」

「あ、心を閉ざす音が聞こえた」

「……」

「ごめんね、茶化してるわけじゃない。これでも心配してるんだよ、きみのことは」

「心配?」

「乗りかかった船だからね」

 その言葉の意味はわからなかった。俺はため息をつく。

「教えてあげようか。きみが、なにに困ってるのか」

「……」

 まるで知ってるみたいな言い草だな、と俺は思う。

「きみはね、恋がしたいんだよ」

「は?」

「恋がしたいから、困ってるんだ」

「……そういえば、なにか注文しないといけませんね」

「あからさまにごまかさないでよ」

「いや、ほら、来てからなんにも頼んでないですし、さすがにお腹がすいてますから」

「……ま、なんかは頼まないといけないんだけどさ」

「おいしそうですね。じゃがバター炒め」

「後輩くん、わたしこのダブルチョリソーってやつ。あ、でも唐揚げ食べたい気分もないではない……」

「おごりませんよ」

「ええ? なんで? 誘ったの後輩くんなのに?」

「年下にたからないでください」

「おっかしいな。ちせにはジュースおごったって聞いたのにな」

「……」

「……やっぱちせには勝てないかー」

「……まあ、サイドメニューくらいだったら別に払いますよ」

 適当に注文を済ませてから、あまり間もおかずに皿が届き始める。
 先輩はチョリソーを一口かじると、「から……からい……」と涙目になった。

「そりゃ辛いですよ」

「チョリソーは、べつに辛いソーセージのことではない……」

「あ、そうなんだ……」

 知らなかったなあ、と思いながら、俺はじゃがバターを頬張った。
 
「後輩くん、飲み物よかったの?」

「ええ、まあ……」

「飲む? メロンソーダ」

 差し出されて、どうしようかなあと迷ったけれど、とりあえずいただいた。

「おお、躊躇もなく」

「……」

「ちょっと照れますなあ」

「……からかってますよね?」

「そんなことないもーん」

 子供みたいな人だ、本当に。

「それで、きみの話だけど」

「そんなに辛いんですか、そのチョリソー」

「話題を変えようとしないでね。きみの恋の話」

「悪い冗談はよしてください」

 いいかげんにしてほしい。

「恋ってなんですか」

「恋は恋だよ」

「……ああ、そうか」

 ……この人、さくらの手伝いをしていたんだった。

「さくらは、きみのこと、変だって言ってたよ」

「直接言われましたよ」と俺は答える。

「この世のものとは思えないとかなんとか……」

「ひどい言われようだねえ」

「さすがの俺でも傷つきましたね」

「嘘つき」とましろ先輩はまた笑う。

 たしかに嘘だ。そんなに傷つかなかった。
 よく分かるものだ。

「さくらは言ってた。『この人には難しいと思います』って」

「……何が、ですか」

「恋が、だって。なんでなのかは知らない。さくらはほら、そういう子だから」

「……」

「わたしも、そうなのかなって思った。でも、さくらはこうも言ってた。
『この人からは、たくさんの縁の糸が伸びていますよ』って」

「……縁の糸、ね」

 ポテトフライが届いた。ましろ先輩はにこっと笑って塩をふりかける。

「そう、さくらに言わせるときみは一種の『混乱』なんだってさ」

「混乱?」

「人一倍、縁の糸が多い人。モテるって意味じゃなくてね、どういう表現だったかな……」

「モテるって意味ではなくてですか」

 知ってはいるが。

「そう、モテるっていうのとは違う。おそろしく『良縁に恵まれている』って言ったかな」

「良縁……? おみくじみたいですね」

「でも、さくらはきみを難しいと言った」

 ──あなたが周囲に嫌われていないことの方がわたしには不可解です。

 さくらはいつかそう言っていた。

「きみはその縁に心当たりがある?」

「……ずいぶん優しい人間が周囲にいてくれるな、とは思っていますね」

「さくらは、きみを『混乱』と呼んだけど、わたしはあんまりそうは思わないんだよね」

 ましろ先輩はポテトをつまみつつ、話を続ける。

「厄介な荷物を持ってそうだな、とは思うけど」

「荷物ですか」

「きみを苦しめているものって、なんだろうね」

「……」

 そうだな。

 瀬尾の行方を見つけた今となっても、俺は以前のように、日々に戻ることができずにいる。
 さくらのこと、神様の庭のこと。

 何が問題なのか
 明白だ。

『葉擦れの音』だ。

 だからこそ俺は、ましろ先輩に声をかけた。

「先輩は、『異境』に通ってたって言いましたけど、なにか変なことは起きなかったですか?」

「たとえば?」

「見えないものが見えるようになったとか」

「見えないもの」

「聞こえないはずのものが聞こえるとか」

「きみは何が知りたいの?」

「……異境、って、先輩は呼びますけど。あの場所は、いったいなんなんでしょう?」

「ふむ」

「あの場所が、なにかおかしなことを引き起こす、そんなことがあるんでしょうか?」

 たとえば、カレハが言った、あの『繋がり』。

 その正体が、今は気になって仕方ない。

 俺が考えているのは、この葉擦れの音がどうしたら止んでくれるのか、という、ただそれだけ。

「先輩は、どうして俺が、恋をしたがってるなんて思うんですか」

「きみは、心当たりがないの?」

「俺は……」

 人を好きになることは、おそろしいことだ。

 茫漠とした塩の砂漠に放り出されるような、
 涯のない桜の森の下で求めたものさえかき消えるような、
 ひとりで深い森をさまよい歩いたあの夜のような。

「……できることなら、恋なんてしたくないです」

「嘘だよ」と、彼女はあっさりとそう言った。

「どうして、先輩にそんなことが言えるんですか」

「それは、わたしもそうだからだよ」

「……」

「なんてね」

「……先輩」

「ポテト、冷めちゃうよ。ほら、お食べ」

「……」

「さくらはわたしの友達なんだよ」

 ポテトをまたかじりつつ、先輩は話を変えた。

「ずっと昔から、わたしとさくらは一緒だった」

「……」

「さくらは、わたしの唯一の友達だった。何でも話せる、誰とも違う、友達」

 どうして、そんな話をするんだろう。

「さくらは言ったよ。この世界は、愛に満ちてるんだって。でも、わたしはそうは思えなかったな。
 それでもわたしには、さくらはいちばんの友達だった」

「……それで、さくらと一緒に、縁結びをしてたんですか」

「ん。そういうこと」

 唯一の友達。先輩がそんな言葉を使うのが、意外と言えば意外だった。
 
 少し考えて、違和感を抱く。

「ずっと昔からって?」

「あ、ほら、料理来たよ、皿寄せて」

「あ、はい」

 ウェイトレスはテーブルの上に器用に皿を並べていく。
 ご注文は以上でおそろいでしょうか。それではごゆっくりお召し上がりください。

 話の内容を忘れたみたいに、ましろ先輩はカルボナーラをフォークで不器用そうに巻き上げている。

「それで、ましろ先輩、さっきの話ですけど」

「んー?」

「ずっと昔から、さくらと一緒だったって言いましたよね。でも、さくらはあの学校の守り神なんじゃ」

「ん。そうだよ」

「じゃあ、高一の頃からってことですか?」

「ん。んー。もっと前だね」

「……でも、それっておかしいじゃないですか」

「そう、おかしいんだ」

 先輩はくすくす笑った。

「さくらはいつのまに、守り神なんかになっちゃったんだろうね?」

「……どういう意味ですか?」

「もともとさくらは、わたしの友達だったんだよ。わたしだけの……"架空のおともだち"」

「……」

「子供の頃からね。いつのまにか会えなくなってた。それなのに、わたしが高校に入った頃に、突然、わたしの前にまた現れた。そのときのさくらは、なんにも覚えてなかったよ。自分はずっとあの学校にいるんだって言ってた」

「……どういう意味ですか?」

「たとえ話でもなんでもないよ。"さくらはわたしの友達"」

「だって、さくらは、でも、ずっと学校にいたんでしょう?」

「本人はそう言ってる。どっちが本当なんだろう? わたしはこう思ってる。さくらはあの学校にずっと居たわけじゃない。あの学校にずっと居た、という記憶を持って、ある日突然あらわれたんだって、そう思ってる」

「……」

「六年前の五月、あの場所はわたしとさくらの遊び場だった。でもあのとき、きみたちと森の奥に入ってから、さくらはずっと姿を消していたんだ。そういうものなんだって、思おうとしたんだけど……再び現れた。初対面みたいにね」

「……」

「どっちだと思う? わたしの記憶がおかしいのかな、それとも、さくらの記憶がおかしいのかな?」

 どっち、
 どっちが……?

 そんなの、確かめようがない。

 でも、ここでまたひとつつながりが見えた。

"ましろ先輩は、昔からさくらという友達をもっていた"。
 そして彼女は、六年前の五月、"俺たちと一緒にむこうに行った"。

 そうだとすれば、また繋がる。

 学校から出たことのないはずのさくらと、彼女にそっくりなカレハ。
 その繋がりが、ましろ先輩によって生まれる。

 ましろ先輩とさくらが友達だったなら、"さくらはましろ先輩と一緒にあの森に踏み入った"のだ。

「わたしは思うよ。あの森には、良くも悪くも、よくわかんない力が働いてる」

「……」

「きみの混乱も、もしかしたらそうかもしれないね」

「……先輩だって、『混乱』じゃないですか」

「そうだね。そういうことになる。問題は、きみが方位磁針を見失っていることにあるんだろうね」

「……」

「だから、恋をするといいよ」

「……どうして、恋なんですか」

「なんとなくかな」

 そんな軽口は、やっぱり見透かしたみたいな、企んでいるみたいな雰囲気で、
 だから俺は、そんな言葉を真剣に考えてしまう。





 ましろ先輩と別れて、家への道のりを歩く。
 
 自分が何を考えようとしているのかすらもわからなくなってしまった。

 今、俺が求めていることを、俺がわかっていない。
 恋をしたがっている、と先輩は言ったけれど、ことはそう単純だろうか。

 恋なんて、したところで何が変わるっていうんだろう。

 そもそも俺は……この葉擦れの音を、止ませたいと思っていただろうか?

 昔からずっとこうだった。
 とっくの昔に慣れてしまった。
 
 たまにつらくなる日があるだけだ。

 この音が止んだからといって、何が変わるというわけでもないはずなのに、
 それとも俺は、この音を止ませることで、何かが変わるんじゃないかと期待しているのか?

 ……いや、期待していたんだろう。
 だからこそ、さくらの誘いに乗って、彼女を手伝った。
 
 ふと思い立って、家を通り越し、あの公園へとひとりで向かった。
 もう時刻は十一時を回っている。
 純佳には遅くなることを伝えてある。たぶん、先に眠ってしまうだろう。

 ……頭が痛い。

 いろんなことを、思い出す。
 
 春になって、瀬尾と文芸部でふたりきりになった。
 大野と真中が入部して、市川が部に顔を出すようになった。
 
 部誌を完成させて、瀬尾がいなくなって、ちせと会って、真中との関係が変わって、
 純佳やちどりや怜と、今日はましろ先輩と、過去を探って。

 ……いろんなことが起きたせいで、妙な焦燥にでも駆られていたのかもしれない。
 
 べつに、いますぐに何かをしなきゃいけないわけじゃない。

 切羽詰まった状態にあるわけじゃ、ない。

 怜も、ましろ先輩も、むこうに通っていたという。
 だったら、瀬尾についてだって、ひとまず安心していいんじゃないか?

 森の奥にいかないかぎり、何も起きないんじゃないか?

 俺はただ、取越苦労をしていただけなのかもしれない。

 第一、なにか起きたとして、どうして俺がどうにかしなきゃいけないなんて思う?

 べつに、好きでやっていることなら、放っておいたって……。

 ちどりと瀬尾が繋がっているとか、さくらとカレハもそうだとか、そんなことがなんだっていうんだ。
 ましろ先輩や怜がむこうに通っていたからって、何かが起きたわけでもない。

 瀬尾があっちにいるからって、それがなんだっていうんだ。

 さくらが言うように、俺の視界が空虚で充溢しているからって、
 真中が言うように、俺が誰のことも好きになれなくたって。

 本当はそんなこと、重苦しく考え込むほどのことじゃない。

 葉擦れの音が聞こえたまま、今日まで生き延びてきた。

 それなのにどうして最近になって、それをどうにかしなきゃなんて思うんだろう。

 どうだっていい。
 どうだっていいんじゃないか、本当は。

 木立のむこうには、涸れた噴水がある。
 忘れ去られた小屋がある。

 俺は、そこまで、歩いていく。

 ぬるい湿気にまとわりつかれながら、雑草をかき分けるように進んでいく。

 涸れた噴水が、そこにはある。

 空にはぽかんと月が浮かんでいる。

 こんな場所に、何があるっていうんだろう。

  ……ついこのあいだも、ここに来た。

 あのとき見つけたメモには、なんて書いてあったっけ。

「わたしはだれ」と、そうあったんだっけ。

 そんなこと、どうでもいいじゃないか。
 自分が誰かなんて、たいしたことじゃない。

 瀬尾青葉は瀬尾青葉で、鴻ノ巣ちどりは鴻ノ巣ちどりで、さくらはさくらで、カレハはカレハで。
 俺は三枝隼で。

 それでべつにかまわないじゃないか。

 そう思うのに、そうじゃないと思う自分も、やはりいる。

 涸れた噴水に、雨が、少し残ったのだろうか、水が、溜まって、丸い月を映している。
 
 風が吹き抜ける音がする。

 けれど、ここではない。枝葉はかすりとも揺れていない。
 むこうで風が吹いているのだ。




 翌日の昼休み、俺はひとり屋上で弁当をつついていた。

 最近じゃ珍しい快晴だった。このところずっと曇りか雨だったから、こんな日には外で食べるのがいいと思った。

 そこにさくらがやってきて、

「ずいぶんぼんやりしてますね」と言う。

「そうだね」と俺は頷いた。彼女はなにも言わずに、俺の隣に腰をおろした。

「どうしたんです、いったい?」

「さあ……。瀬尾も見つかったし、ひとまず、一段落ってところだろう」

 もちろん、大野たちをむこうに連れて行くという問題は残っている。

 どんな条件が必要なのか、俺もちせも、むこうには行けないままだ。
 ルールがわからないままだ。あるいは、そんなものないのかもしれない。

 ただ、起きることは起きて、起きないことは起きない。それだけのことなのかもしれない。

「だったら、そろそろ手伝ってもらえますか?」

「ん。そういう約束だったな」

 本当は、なにひとつ片付いていない。
 でも、なにかしていないと落ち着かなかった。

 手繰り寄せられるだけの手がかりは全部手繰り寄せてみた。
 でも結局、なんにもわからないままだ。

 カレハにも、あれ以来会っていない。

 何をどうすればいいのか、そもそも自分がどうしたいのかも、わからないままだ。
 
 結局、瀬尾を見つけた今になっても、俺にできることなんて、なんとなく日々をやり過ごすことだけだ。

 それが不満なわけじゃない。でも、ぽっかりと穴が開いたみたいに、なにもかもがどうでもいい。
 日常が、またからっぽになってしまう。

 ここは俺のための景色じゃない。だから、何をしても仕方ない。
 どうしてそんなふうに考えてしまうんだろう。

「わたし、思うんです。人間は、何もしないでいると、腐っていくって」

 さくらは不意に、そんな言葉を俺に投げかけた。
 ずっと前に、同じ言葉を聞いた気がする。

「手伝ってくれるんですよね?」

「……ああ」

 そう、そういう約束だ。

「じゃあ、ここからはラブコメと行きましょう」

 さくらはそう言って茶化した。

「ちょうど今日の標的が動き出したところです」

「……ずいぶん急だな」

「縁はいつも動いています。あなたにもいつか見える日が来るでしょう」

「いや、見えないと思うが」

「ま、それはそれとして、です。今回のターゲットのご紹介といきましょう」

「昼飯くらい食わせろよ」

「じゃあ、食べながら聞いてください」

 そしてさくらは話し出す。

「今回のターゲットは一年生の男女です」

「はい」

「二人は同じクラスです」

「はい」

「幼馴染同士と呼んで差し支えないでしょう」

「はあ」

「二人は小学校の頃から家が近く仲がよかったのですが、中学に入ると同時に女の子のほうが隣町に引っ越しました。それで別々の中学校に入ったのですが、高校に進学する際にたまたま同じ学校になったわけです」

 思い切り人のプライベートを覗いている気がしてきた。いまさらだけれど。

「そう、いまさらです」とさくらは言った。

「さて、それでこの春再会する運びとなったわけですが、ふたりには気まずい雰囲気が漂っています」

 卵焼きを咀嚼しながら、なぜ、と頭の中で訊ねてみる。

「もともと女の子の方は男の子の方が好きだったんです。やんちゃな子でしたが、からかわれがちな女の子にも優しかったので」

 返事が返ってくるのにも慣れてはきたが、こうして食事しながらでも意思疎通を図れるというのはなかなか便利だ。
 
「で、彼女は引っ越しの間際、女の子は携帯電話を買ってもらって、男の子の母親に電話番号を書いた紙を渡しました」

「ふむ」

「ですが男の子の母親は、その紙を男の子に渡すのをすっかり忘れてしまったのです」

「……ははあ」

 
「女の子は連絡が来ないということで悲しみました。自分なんてべつにいなくても平気だったんだなあと思うわけです。それで、今年の春同じクラスになってから、彼に話しかけられませんでした。自分が避けられていると思っているからです」

 なるほど。冷食の唐揚げが美味しい。

「わたしもご相伴に預かりたいものです」

 やらん。

「で、男の子の方も、女の子が以前よりも女の子らしくなっていることに戸惑って、気後れを感じています」

 甘酸っぱいな。

「からあげがですか?」

 そのエピソードがである。

「そういうわけで、お互い悪く思っているわけではないのですが、なんとなく気まずくて話しづらい雰囲気なわけです」

 そのふたりをくっつけてしまおうというわけですか。

「いえ。お互いの誤解をとくくらいにとどめておきましょう」

 さくらにしては控えめな判断だという気がした。

「わたしだって、なにがなんでもくっつくべきだと思うわけではないです。 でも、せっかくの縁が途切れてしまうのはもったいないですから」
 縁が見えるとこいつは言うけれど、それはどんなふうなんだろうか。

 どんなふうに、何を基準に繋がっているんだろう。

「……わたしは、人の心というのは、もともと瑕疵のない球体なのだと思います」

 球体。
 丸いビー玉を想像する。

「生きているうちに、それが徐々に、ぶつかりあって、傷つけられて、削れて、割れて、すり減っていくんだと思う。でも、そうすることで、欠けていくことで、いずれ、その傷にぴたりとはまるみたいに、誰かと繋がり合えるんです」

 その説によると、と俺は思った。
 最後の最後には、粉々になって消えてしまうかもしれないな。

「そうかもしれない」とさくらは言った。

「でも、傷一つない球体のままでいくら誰かと繋がり合おうとしても、きっと、本当に触れ合える面はごくわずかですから」

 けれど、うまく繋がり合えないまま、ぶつかりあって、傷つけられ、削られて、
 いずれ、誰ともくっつけないくらい、誰かと繋がっても、すぐに剥がれてしまうくらい、小さく削れてしまうかもしれない。

「そうかもしれない」

 とやはりさくらは言う。

「でも、それを拾い集めて、もとに戻してくれる人も、きっといないわけではないですから」

 俺はふりかけごはんをぱくぱく咀嚼して、飲み込んでから訊ねた。

「それが愛?」

「あるいは」とさくらは少し考えるみたいな顔をした。

「やさしさ、かもしれないです」

 なるほどな、と俺は思った。




 弁当を食べ終わったあと、俺はさくらに言われるままに屋上を後にした。

「まずは状況の確認と行きましょう」

 そう言って彼女が俺の前を歩いていく。
 人がいようとおかまいなしに、彼女は話を続けていく。

「ふたりは今教室でそれぞれに昼食をとっているはずです。あなたが食事を急いでくれたおかげで間に合いそうですね」

「調子は取り戻したみたいだな」

「はい。あ、周りに人がいますから、喋らないほうがいいですよ」

 そういえばそうだった。俺には見えるし聞こえるから、つい油断してしまう。
 ……ましろ先輩の、友達。

 考えると、不思議なことだ。

 さくらは心が読めるのに、ましろ先輩がさくらを知っていたことは、分からなかったんだろうか。
 それに、いまこうして俺がそれについて考えていることを、さくらは『聞いて』いないのだろうか?

「……どうしたんです、急に黙って」

 ……聞こえていないのか。
 どういう理屈なんだろう。

 さくら自身の持っている『力』が、さくらにそれを教えまいとしているみたいだ。

 あるいはさくらが……知りたくないのか。

 すべてがご都合主義だ。
 何かをもくろんでいる『何者か』を仮定したくなるくらいに。

 でもきっと、そんな存在はどこにもいない。
 
 最初からずっとそうだ。俺たちは何かを演じている。誰が仕組んだ舞台かもわからないまま。

「ここですね」とさくらが言う。

 一年の廊下は賑やかだった。ときどき俺をちらちら見てくる奴がいるのは、上級生だからだろう。
 あんまり気にかけられないように、なるべく堂々と振る舞う。

「似合いませんね、堂々と、というのは」

 じゃあどうしろっていうんだ。

「斜に構えていてください。そのほうが似合います」

 ……斜に構えたやつはいけすかないって言ってなかったっけか?

「人には向き不向きがあります」

 そう言われると返す言葉もなかった。

「ここです」とさくらがある教室の入り口で立ち止まった。

「窓際の三人組が見えますか」

 見える。

「一番奥に座っている子です」

 なるほど。そう言われても、さっき聞いた情報だけでは何の感慨も湧かなかった。

「男の子の方は……教室中央で、ふたりで食べていますね。眼鏡をかけていないほうです」

 ふむ。それで、これを知ったところでどうなるというんだろう。

「顔を覚えておいてください。あとで話しかけることになりますから」

 なるほどね。

「ちなみに女の子のあだ名はコマツナです」

「は?」

 慌てて口を覆った。

「名前が小松ななみなので」

 はあ。そうですか。

「せんぱい、なにしてるの?」

 後ろから声をかけられて振り向くと、真中とちせが揃って立っていた。

「ああ、いや……」

「一年の教室に、なにか用事ですか?」

「せんぱいに『用事』なんてものがあるの?」

「どういう意味だ真中」

「あ、いや。深い意味はないけど」

 しかし考えてみれば、真中の言う通りかもしれない。

 俺の用事なんて、そもそも文芸部関連と大野からの頼み事以外にはほとんどない。
 瀬尾がおらず、大野が自分で感想文を書くようになった今、俺には用事なんてものはない。

 個人的なものはだいたいメッセージで済ませてしまうし。

 ……。

「何をむなしくなってるんですか」とさくらが言う。

 最近は思うところがいろいろあってな、と頭の中だけで返事をした。

「……そちらは?」

 と、ちせが視線をさくらに向ける。
 この流れは覚えがあるぞ、と俺は思った。

「悪い、急用を思い出した」

 と言って、俺はその場を逃げ出した。
 



「よかったんですか?」とさくらが訊いてくる。
 
 俺と彼女は、中庭の欅の下に立っている。

「仕方ない」と俺は答えた。何がよくて、何が仕方ないんだろう?

 ……本当に仕方ないのだろうか?

 俺は真中から逃げている。そんな気がする。

「今回はずいぶん雑でしたね」とさくらは言った。

「もう答えが出ているだろう」

「……あなたからしたら、そうかもしれない」

「ちせは"むこう"に行った。それでさくらが見えるようになった」

 予想していたことではあった。

 俺とましろ先輩に見えて、真中には見えない。
 以前のちせには見えなかった。このあいだ、"むこう"に行く直前まで、ちせはさくらを認識できなかった。
 今は見えている。

 条件はわかりきっている。

「"むこう"に行った人間には、さくらが見えるようになる」

「……そういうこと、なんでしょうか?」

 さくら本人さえ、不思議そうにしているが、ここまで来ると話はシンプルだ。

 そして、"瀬尾は最初からさくらの姿が見えていた"。
 部誌を完成させてあちらに行く以前から、さくらが見えていた。

 ということは、"瀬尾は、それ以前にむこうに行ったことがある"。

「……ということは」

 やはり、むこうに行ったことがある人間、行ける人間というのは、本当にわずかなのだろう。
 それに関して考えるのは、後にすることにした。

「あの二人のこと。どうすればいい?」

「あの二人、というと、コマツナさんたちのことですか」

「そう」

「今日の放課後です。コマツナさんがここに来るので、あなたもここにいてください」

「……」

 放課後は部室に行かなければいけない。大野と市川は、瀬尾の姿を見たがっている。
 俺だってそうだ。
 
 瀬尾が、あいつが帰ってきさえすれば、俺だって……。

「いいでしょう、今日は息抜きです」

「息抜き、ね」

 仕方ない。
 もう俺だって、いろいろと限界が来ている。
 
 いろんなことが、耐え難くなっている。
 今日のところは、さくらの言うとおりにするのも、悪くない。




 そして放課後、俺はさくらと一緒に、中庭の欅のそばにいた。

 すると例の"コマツナさん"があらわれた。

「こんにちは」と彼女は声をかけてきた。

「ああ」と俺は頷いた。

「こんにちは」

「柚子の彼氏さんですよね」

 人当たりのよさそうな笑顔。俺は少しだけ驚いた。

「真中の知り合いだったのか」

「はい。クラスは違いますけど、ともだちです。先輩のこと、よく聞かされてます」

「悪口ばかりだろ」

「はい」と言って、彼女は困り顔で笑った。

「仕方ないことだけどな」

「そうなんですか?」

「ああ」

 さくらはここで待っているだけでいいと言った。
 案の定、コマツナさんはここに来た。本当に、こんな力があれば、なんだってやりたい放題じゃないか。

「そうも行きませんよ」とさくらは言う。やっぱりそうかもしれない。

「先輩は、柚子と付き合ってはないんでしたっけ」

「うん。まあな」

「どうして付き合わないんですか?」

「どうして」

 どうして? それが分かれば苦労はしない。

「先輩は恋愛感情がないのかもしれないって柚子が心配してました」

「それできみは、おせっかいを焼いてここに来たの?」

「そういう言われ方をするとあれですが、ちょっとどんな人か気になってたので」

「そんなに話題に昇るのか」

「はい。柚子からもちせからも。……どっちの印象も、なんだか偏ってそうで」

 たしかにそうかもしれない。

「きみ、名前は?」

「小松ななみです」

「コマツナさん」

「コマツナってゆうな」

「……」

 ナチュラルに呼び名を統一しようと思ったのだが、阻止されてしまった。嫌な思い出があるのかもしれない。

「……小松さん。俺にだって恋愛感情くらいあるよ」

「そうなんですか?」

「たぶん。いや、ていうか、わからない。どうなんだろう。そう聞かれると不安になるな」

「え、なんでですか」

「誰かと比べることができないものだしな。自分のこれがそう呼ぶのかなんてわからないだろう」

「わたし、あの、ポップソングとかで好きなフレーズがあるんですけど」

「ん」

「"これ"が"それ"じゃないなら、何が"それ"なのかわからない、みたいな言い回しです」

「……ふむ」

 と俺は考えてみた。

「『愛をこめて花束を』みたいな?」

「そう、まさしくそれです。あと、『リユニオン』とか」

「……なんだっけ、それ」

「ラッドです」

「あー、なるほど」

 ……まあ、そういう考え方もあるのかもしれない。

「先輩って、なんか人間不信っぽいですよね」

「そう?」

 ていうか初対面だよね、と言いたくなるのを飲み込む。
 一応ここでこうして話しているのは目的あってのことだ。気まずくなってもいけない。

「話聞いてるだけでもそんな気がしますけど、なんだかいつも、浮いてる感じ」

「浮いてる?」

「現実から三ミリくらい」

「ドラえもんか俺は」

「物の例えですよ」

「比喩じゃなかったら怖いだろ……」

 小松はくすくすと笑う。
 どうして俺は女の子と話す度にこうやって主導権を握られてしまうのか……。

「でも、柚子のこと、はっきりしてあげないとかわいそうですよ」

「わかってるよ」

「なにか事情がありそうですね」

「そんな大層なことでもないけど……」

「……ふむ?」

 彼女は不思議そうに眉を寄せた。

「恋というのがどうにも分からなくて」

「ははあ。青春ですね」

「そうかもね。……」

「今です」とさくらは言った。俺もそう思う。

「きみは?」

「へ?」

「恋。してます?」

「……え、ええ。そこでわたしの話になるんですか?」

「なにかの参考になるかと思って」

「人のを聞いてどうこうなるような話でもないと思いますが……」

「何もかもが経験によってしか学べないようなものだとしたら」と俺は言う。

「誰かの思考の足跡である本にも、表現である芸術にも何の意味もなくなるだろう。少なくとも俺はそこに学ぶものがないとは思わない」

「……さすが文芸部ですね。何言ってるかさっぱりわかんないです」

「物の例えだよ」と俺は彼女の言い方を真似た。

「少女漫画に恋を学んだっていいだろう」

「読むんですか?」

「たまにね」

「……ふーん。ちょっと意外」

 小松はうなずきながら空を見た。今日の空は薄曇り。いつ雨が降り出してもおかしくなさそうだった。
 
「わたしも、恋ってよくわかんないです」

「そうかな。偉そうなこと言っといて」

「これがそうかな、って思ったことはあります」

「まあ、わかるよ」

「でも、いろいろあって、なんだかどうでもよくなっちゃって。どうでもよくなるなら、それって、恋なのかなって」

「どうでもよくなるような恋があってもいいだろう」

「そういうもんですか?」

「一時の気の迷いなんて言い方をしてたら、この世に気の迷いじゃないものなんてなくなるだろうからな」

「それにしても今日のあなたはいつにもまして喋りが適当ですね」とさくらが感心したような声を漏らす。
 俺はそれを無視した。

「……そういうもん、ですかねえ」

「と、思うよ」

「先輩、けっこう良いこといいますね」

 ……そうか?
 さて、でも、これではもちろん足りないだろう。
 俺は少し考えることにする。

「……たとえばだけど。ちょっとしたことが理由で、話しにくくなったりするだろう」

「はあ」

「でも、そういうのって案外、なんでもない誤解や行き違いだったりして、話してみればすぐに解決したりする」

「……はあ」

「急に下手になりましたね」とさくらが言う。じゃあおまえが考えろ。

「わたしは今日は傍観です」

 いいご身分だ。

「先輩は、そういう経験、あるんですか?」

「……ずっと前に、女の子に告白したことがある」

「え」

 と小松は口をあんぐり開けた。

「いつですか」

「ずっと前だ」

「どうなったんですか」

「返事はその場でもらえなくて……次に会ったときに、なんでもないみたいに振る舞われた」

「……うわ、それは……」

「ま、脈なしだったんだろうな、という話だ」

「……しんどいですね。あれ、でも、その話、いまの流れにどう繋がるんですか?」

「あ、いや。つながらないかもしれない」

「なんですか、それ」

 俺は、鴻ノ巣ちどりのことが好きだった。
 彼女に告白した。

 でも、彼女はなにもなかったみたいに振る舞った。

 ちどりはなかったことにしたいんだ、と思った。
 だから俺も、なかったことにしていた。

 俺は、『神さまの庭』に閉じ込められた二週間のうち、どこかで、『先に帰ったはずのちどり』ともう一度会っている。
 そこで俺は、彼女に告白したのだ。
 
 でも、彼女はいなくなってしまって、俺はひとり、暗い森に取り残された。

 こっちに帰ってきた俺は、葉擦れの音と二重の風景に悩まされた。
 そんななか、ちどりは俺が帰ったあとも、なにもなかったみたいな顔をしていた。

 ――隼ちゃん。

 ――どうしてそんなに、泣きそうな顔をしているんですか?

 どちらにしても、もう一度ちどりに告白したいという気持ちはなかった。
 それがいったいなんだったのか、俺にはもうわからない。

 ちどりがあのときの記憶をなくしていると気付いたのは、ずっとあとのことだった。

「でもそれだって、話してみたらなんでもない誤解で……たとえば彼女は、俺の言葉がよく聞こえなかっただけなのかもしれない」

「……」

「連絡先を人づてに渡すように頼んだのに、連絡が来なかったこともある。でもよく考えたら、頼んだ奴が忘れてたのかもしれない」

 小松は、ちょっと息を呑んだ。

「気になることなら、本当に会えなくなる前に、確かめればよかったんだよな」

「……」

 考え込むような顔のまま、小松は俯いた。
 ちょっと動揺しているみたいだ。



「……くだんない話をしたな」

「いえ……。あの、わたし、もう行きますね」

「ああ。まあ、がんばれよ」

「な、なにをですか」

「いろいろかな」

「いろいろ、ですか」

 ふむ、と小松は頷いた。

「じゃあ、わたし行きます。先輩も、いろいろがんばってください」

「そうするよ。じゃあな、コマツナ」

「コマツナってゆうな」

 それで小松はいなくなった。
 俺はさくらとふたり取り残される。

「どうだろうな」と俺は訊ねた。

「どうでしょうね」とさくらもぼんやりしていた。


 コマツナとのやりとりを終えてから、俺は部室に向かった。
 メンバーは揃っている。ちせもまた、顔を出している。

「遅かったな」と大野が行った。

「所用があったものですから」と俺は軽く返事をする。

「やる気ないね、隼くん」

「そういうわけじゃないが、こうも収穫なしだとな」

「いったい、なんなんだよ、この状況は」

 俺は肩をすくめた。

「何が足りないんですかね?」

 あれこれと話し合い、いろいろと考えてみたものの、結局その日も"むこう"にはいけなかった。

 解散になったあと、ひとり帰路につこうとすると、後ろから真中に声をかけられた。

「せんぱい」

「ん」

 うなずきを返すと、真中は何も言わずに隣に並んだ。
 そんな、何気ないやりとりが、無性に、苛立たしくなる。

 急に、そう感じる。

 真中に対する苛立ちではない。俺自身に対する苛立ちだ。
 いつまでこんなことを続けるつもりなんだ?

「……真中はさ」

「ん」

「なんで、俺のとこに来るの」

「……迷惑?」

「違う」

 そう答えてから、いっそ、迷惑だと言ってしまったほうが、こいつは楽になれるんだろうか、と考えた。
 
「だったら、いいでしょ?」

「いいっていえば、いいんだ」

「じゃあ、なんなの?」

 なんなの、と聞かれても、わからない。
 このままじゃ駄目なんだと分かっている。
 
 俺は、自分がどうしたいのか、それが分かっていない。

「……なにか、あったの?」

 こんなときに、真中はまだ、心配そうな顔で、俺を見る。
 
 不機嫌そうでもない、からかうようでもない、今はただ俺のことが心配だというみたいな顔で、俺を見る。
 その顔に、俺は一層の苛立ちを覚える。

 どうして俺をそんな目で見るんだ。

「よくわからないんだ」

「なにが?」

「真中がどうして……俺にこだわるのか」

 彼女はムッとした顔をした。それは分かる。

「なんで」

「なんでって、なんだよ」

「どうして、そんなこと思うの」

「……やっぱりやめよう、この話」

「わたしはせんぱいのことが好きだよ」

 俺は真中の顔を見た。彼女も俺の方をまっすぐに見ている。
 以前のような無表情なら、きっと冗談だってやり過ごすことができた。

 でも今は、今の真中の表情は、怒っているようにさえ見える。
 それくらい真剣なんだと分かってしまう。

 だからこそ俺は、よりいっそう深く混乱する。

 これは違う、これは俺のためのものではない。

 真中が俺を好きなのだと、そう感じさせられるたび、信じそうになるたび、
 俺のなかの歯車が悲鳴をあげるみたいに火花を散らす。
 焦げ付きそうになる。

 うまく、動作しなくなる。

「話してよ」と真中は言った。

「面倒だなんて思わないから、思ってること、全部言ってよ。不安なことも、どうしたいかも」

「……」

「そうやって話してくれないと、わたし、いつまで経ってもこんなふうにしてないといけなくなる」

 不安なこと。
 どうしたいか。

 そんなの……。

「"どうしたいか"?」と俺は思わず繰り返してしまった。
 
 声が震えていることに、自分で気付いた。

「俺がどうしたいかなんて、そんなの……」

 続きを待つみたいに、真中は俺の方を見ている。
 じっと、覚悟を決めたみたいな顔で。

 怯えているんだろうか。
 唇をきゅっと結んで、叱られるのを待っている子供みたいな顔で。

 どうしてこんな顔をさせてしまうんだろう。

「……悪い。先に帰る」

 結局、俺はまた真中から逃げる。

「逃げるんですね」とさくらの声が聞こえる。

 どこで聞いていたんだろう。
 自分の足音が廊下にこだましている。

「せんぱい! わたしは、せんぱいのことが好きだよ!」

 背後から、そんな声がかけられる。
 東校舎には、まだ生徒たちは残っている。

 大野や市川やちせだって、遠くには行っていないだろう。
 それなのに真中は、そう言わずにはいられないみたいに、そんなことを言う。

 言えるわけがない。
  
 俺は何も望んでなんていない。

 目標も、目的も、望みも展望も、なにもない。

 誰かとどうなりたいとか、自分をどうしていきたいとか、そんなビジョンはひとつもない。
 やってみたいことも、触れてみたいものも、見てみたいものも、本当はひとつもない。

 俺はただ、やり過ごしているだけだ。
 葉擦れの音と二重の風景の中で、どうにか、変に思われないように、みんなからはぐれないように、必死で維持しているだけだ。

 最低限の日々を。

 それ以上のものを考える余裕なんてない。
 
 俺には、なにもない。
 空虚だ。

 何も求めたくなんかない。そんな余裕は俺にはない。
 何かをしているときだけ、ほんの少し、聞こえる音のことを考えなくて済む。
 
 そうやってどうにかやり過ごしているだけで、本当は、いつだってそれどころじゃない。

 自分がどうしたいか?
 真中のことを好きになれたら幸せだろうと俺は思う。

 でも、俺は、この絶え間ない音の中で、誰かのことを考えている余裕なんてない。

 ときどき本当に、自分が存在しているのかさえ怪しく思える。

 そんな人間が、誰かを好きになれるわけがない。
 誰かを求めていいわけがない。

 そんな言葉を、真中にぶつけられるわけがない。

 ……いや、違う。

 俺はそれを、真中に知られたくない、と思っている。
 そんなことを言って、真中が離れていってしまうことを、それでも恐れている。
 
 逃げるように足早に昇降口へ向かってから、牛乳プリンかもしれない、と思った。
 ひょっとしたら、瀬尾のところに行くためには、必要なのかもしれない。

 俺は携帯を取り出して、大野にメッセージを送った。

「牛乳プリンかもしれない」。既読はすぐについたが、返信が来なかった。






「兄、どうしたんですか」

 そんなに様子がおかしかったのだろうか。
 夕食のとき、純佳は俺に向かってそう言った。

「なにが」

「今日、ずいぶん、様子が変ですよ」

「そうかな」

「はい」

 とぼけてみせても、純佳は戸惑いすらしなかった。
 彼女には見ただけでわかってしまうらしい。

「べつに、なにもないよ」

「そうですか」
 
 ほっとしたわけではないだろう。それでも純佳は、わざとらしく安堵した表情をつくったように見えた。

 食卓を挟んで、純佳の表情を見やる。
 一瞬それが泣いているように見えたけれど、どうやら錯覚だったらしい。

 俺は死んでしまった猫のことを思い出した。
 
 ちどりと、あの雨の金曜日に拾った小さな猫。
 
 家に連れ帰って、飼い猫にしたけれど、数年後に車に轢かれて死んでしまった。

 俺が中学生だった頃のことだ。

 怜が転校し、真中と出会い、ちどりと疎遠になった、あの頃。

 かわいがっていたのは純佳だった。
 純佳はあのときもこんな顔をしていた。

 そんなことを思い出して、やるせない気分になる。

 あんな気持ちになるなら、最初から猫なんて拾うんじゃなかった、とまでは言わない。
 言わないけれど……。

 いま、俺は、ひどく疲れているのかもしれない。
 どうしてだろう。どうしてこんなに疲れているんだろう。
 
 結局、それ以上交わす言葉もなく、俺達は食事を終えた。

 食器を洗い、風呂に湯をためて、その夜を過ごした。




 九時半を回った頃に、ましろ先輩から電話が来た。
 俺は少し迷ってから、電話を受けた。

「もしもし」

「こんばんは、後輩くん」

「どうかしましたか」

「ん。べつに、たいした用事はないんだけどね。なんだか、ちょっと心配になって」

「心配?」

「なんだろう、虫の知らせって奴かな」

 ちょうどいいのかもしれないな、と俺は思う。

「ましろ先輩、聞きたいことがあったんです」

「ん」

「先輩は、六年前、俺と会っていた。そして、そのことに気付いたんですよね」

「うん。そうだね」

「じゃあ、瀬尾青葉とも六年前に会っていたことを知っていましたか?」

「……青葉ちゃんと?」

「……」

「あの、どちらかが、青葉ちゃん?」

「……やっぱり」

 やっぱりそうだ。先輩は、瀬尾とちどりを同一人物だと認識していなかった。

「……どうだったかな。森の中は暗かったし、外に出た頃には夜だったし、顔もよく覚えていない」

「俺のことは、すぐに分かったんですよね」

「すぐにじゃないよ。言ったと思うけど、似てるなとは思ったけど、決め手になったのは小説だったから」

「そうですか」

「それに、きみと青葉ちゃん、高校で初対面みたいな感じじゃなかった?」

「……そうですよね」

 こんな偶然ってあるんだろうか。
 
 ましろ先輩は、俺が入部したときから見覚えがあるように感じていた、と言った。

「ひょっとしたら」と思っていたと。

 そして、その認識を、瀬尾青葉には抱いていなかった。
 当然だ。ちどりと瀬尾は、顔立ちや体格こそ似通っているけれど、雰囲気がぜんぜん違う。
 髪型も、仕草も、違う。

 幼い頃のちどりを見たことがあったとしても、それと瀬尾は結び付けられなかったのかもしれない。

 だとしたら、全部偶然だ。

 俺と瀬尾が同じ学校に入り、
 同じ部活に入り、
 そこにましろ先輩がいたこと。

 そのすべては、本当に偶然でしかない。

 縁、とさくらは言うけれど……これはもう、そういう次元ではないような気がする。

「青葉ちゃんが、あの場にいたの?」

「わかりません」と俺は答えた。

 けれど俺は、瀬尾青葉と鴻ノ巣ちどりの"繋がり"に気付いてから、ずっと思っていた。
 さくらとカレハのことを知り、さくらが"ましろ先輩の友達"だったことを知って、よりいっそう疑念が深まった。

「先輩、"スワンプマン"って知ってますか?」

「……えっと。スパイダーマンの仲間?」

「いえ。一種の思考実験です」

「思考実験。スワンプは……沼地とか、湿地だっけ?」

「はい。沼の男という意味だったと思います」

「どんな思考実験?」

「ある男が、ハイキングに出かけます。その道程の途中の沼のそばで、男は落雷に打たれます」

 不意に……風の音が聞こえる。
 二重の景色に、カレハが姿を見せる。

 もうすぐですよ、と彼女が言った。心待ちにするみたいに、楽しげに。
 やっぱりわたしは、あなたのために生まれてきたのかもしれない。彼女はそう言っている。

「男は落雷で命を落としますが、ほぼ同時に、偶然、もうひとつの雷が沼に落ちます。その結果、落雷は、沼の汚泥と化学反応を引き起こすんです」

「……どうなるの?」

「奇跡的な偶然によって、その沼の汚泥は、雷によって、死んだ男とまったく同一と言ってもいい存在を生み出すんです」

「同一?」

「はい」

 俺は、静かに言葉を選んだ。

「先輩は言っていましたよね。『さくらはあの学校にずっと居たわけじゃなくて、あの学校に居たという記憶を持って、あるとき生まれたんだ』って」

「……うん」

「それと同じです。この、泥から生まれた存在は、死んだ男とまったく同一の記憶、知識を持って、雷によって生まれる。『雷に打たれる直前の男』と、原子レベルで同一の存在として。そして、自分が死んだ男自身なのだと疑いもせずに信じ、帰路につくんです」
 
 死んだ男の家に帰り、死んだ男の家族に電話し、死んだ男が途中まで読んでいた本の続きを読む。

「それがスワンプマンです」

「……それが、どうしたの?」

 カレハが騒いでいる。「もうすぐだよ」

 ずっとまえから、そんな気がしていた。

「先輩、俺は、六年前、先輩たちとはぐれてから、あの森から帰ってきた記憶がないんです。目に映る全部が、俺のためのものじゃないような気がする。他の誰かの居場所を、かすめとっているような気がする」


 ずっと不思議だった。
 
 先輩や、ちどりや怜とはぐれたあと、俺はたしかに、ちどりにもう一度会った。
 その記憶がある。それなのに、怜といくら話しても、ちどりがもう一度いなくなったなんてことは言わなかった。

 俺があのとき会ったちどりは誰だったのか?
 
 どうしてさくらとカレハという、よく似た存在が、むこうとこちらにそれぞれ存在しているのか?

 仮に、あの森が、踏み込んだものになにかの影響を与えたとしたら、
 たとえば鏡映しのように、その者とまったく同質の別の存在をつくりだしていたとしたら?

 それがどうして、怜や先輩には起こらなかったのかはわからない。

 それでもそうだとしたら、説明がつく。

 カレハは、「先輩の友達」としてのさくらのデッドコピーだとしたら?
 俺があの森の中で再会したちどりが、ちどりのデッドコピーだったとしたら?
 そのデッドコピーが、のちに森を抜け出して、瀬尾青葉として生きることになったのだとしたら?

 本物とデッドコピーの間には"繋がり"があり、感覚を共有しているとする。
 そして俺のこの二重の風景が、その"繋がり"ゆえのものだったとしたら。

 だとしたら俺は?

「先輩、俺は、三枝隼ですか?」

「なにを、言ってるの?」

「それとも俺は──三枝隼のスワンプマンですか?」

 どこかから、哄笑がきこえる。
 誰かが俺を嗤っている。

 俺は、あの日森に踏み込んだ三枝隼という少年のデッドコピーなんじゃないか。
 だとしたらいま、この暗い景色を眺めている誰かこそが、本当の三枝隼なんじゃないか。

 俺は六年もの間、三枝隼という空の玉座を不当に占有し続けた簒奪者なんじゃないか?

「……後輩くん、あのね。何を言ってるのかわからないけど」

「……はい」

「きみとはぐれたあと、わたしがきみを探さなかったと思う?」

「……え?」

「わたしは、ふたりを無事に家に送ってから、もう一度あの森に向かった。
 そこできみを探したんだよ。見つけるまで、時間はかかったけど」

「……」

「二週間かかった。でもちゃんと見つけ出したよ。
 きみに帰るときの記憶がないのは、当たり前。きみは、眠っていたからね」

「……」

「後輩くん、わたしはね、眠るきみを背負って、森を出たんだよ」

「……」

「だから、あんまり、変なことを考えないほうがいいよ。
 きみは少し、疲れてるんだと思う」

 でも、そんな単純な問題じゃないんです、と、俺は言えなかった。





 電話を切って、俺はまた夜の散歩に出かけた。
 
 行き先は、公園。木立の奥の、噴水。

 今日もまだ、水が溜まったままになっている。
 月が、静かに水面に浮かんでいる。

 考えてみれば、嘘と偽物とまがいものにまみれていた。

 俺が書いた作文は、俺が書いたわけじゃない。偽物だ。
 俺と真中は、付き合ってなんかいない。嘘だ。
 俺の書いた小説は、瀬尾の書いた小説のまがいものだ。

 俺が、三枝隼ではなく、三枝隼の偽物だったとしたら?
 
 だとしたら、説明がつく。

 ……もちろん、違う可能性もあるのかもしれない。
 事実は逆で、森の中で夜を眺めているあちらこそが、スワンプマンなのかもしれない。

 だから、説明がつく、というのとは、違うかもしれない。
 納得がいくのだ。

 俺のものではない。
 俺のための場所ではない。
 俺のための景色ではない。

 そう思うと、心がすっと楽になるのだ。

 誰のことも求められない自分自身。
 なにひとつ目指せない、自分自身。
 
 何も得ようと思えない、俺自身のことが、すとんと胸に落ちるように、納得がいく。
 
 偽物だから。
 この場にいるはずのない存在だから。

 俺は三枝隼ではなく、
 両親や純佳の優しさも、ちどりや怜の親愛も、真中の好意も、
 大野や市川との関係も、ちせの信頼も、瀬尾の視線も、
 クラスメイトと交わすバカな会話も、けだるい朝に部屋にさしこむ日差しも、
 あの、雨に濡れた金曜日の記憶も、ちどりを好きだったことでさえ、
 全部、俺のものではない。俺のためのものではない。
 
 ましろ先輩は間違えて連れて帰って来てしまったのだ。

 本物の三枝隼と、偽物の三枝隼を、取り違えてしまったのだ。

 俺は本来、この場にいるべき人間じゃない。
 
 誰のことも好きになるべきじゃない。
 誰のことも愛せない。
 誰からも何も受け取るべきじゃない。

 俺は不当な簒奪者だ。

 だからこんなに、こんなにも……忘れるなと言うみたいに、葉擦れの音が耳元で騒ぐ。
 
 でも、じゃあ俺はどうすればいい?

 空席の王座を掠め取った俺は、どうすればいい?

 ……不意に、

 簡単なことですよ、とカレハが言った。

 明け渡せばいいんです。

 彼女は笑う。
 景色に彼女が映っている。
 雑音のなか、いま、俺は涸れた噴水の水面を眺めている。

 その景色が、徐々に薄らいでいく。
 暗い森の景色のほうが、本当になっていく。

 覗き込んでください、と、カレハは笑う。

 俺は、涸れた噴水の水面を眺めている。
 そこには、俺が、俺自身が映っている。

『鏡を覗くものは、まず自分自身と出会う』

 明け渡せ、と声が聞こえた。

 水面に映る、俺の口が動いている。
 明け渡せ、と、動いている。

 水面に映る俺の姿が、誰か別の人間のように感じられる。

「おまえが過ごすのを、ずっと見ていた」

 と、彼は言う。

「俺が求めて得られないものを、おまえが拒んでいるさまを、俺はまざまざと見せつけられていた」

 その声は地底深くから轟くように俺の足元から響いてくる。

 存在の足場が崩れる。

「おまえは不当な簒奪者だ。奪い取ったものを、不要なもののように粗雑に扱っている」

 俺は不当な簒奪者だ。

「おまえは俺の偽物だ」と声は言った。

 カレハが嗤っている。いよいよですね、と彼女は言う。

 頭を、顔がよぎる。
 純佳の、ちどりの、瀬尾の、市川の、さくらの、ましろ先輩の、ちせの、怜の、大野の、
 たくさんの、顔。

 顔。顔。顔。顔。顔。顔がよぎる。

「──さあ、"返せ"」

 光が。
 光が。
 引きずりこんでいく。

 俺の意識は森の中に飲まれていき、
 二重の風景が逆さになる。

 森のなかが俺にとっての現実になり、
 水鏡を覗く景色は"俺"のものではなくなる。

 いま、二重の視界に、涸れ噴水の水面には、俺が映っている。
 それはもう、ほかの誰かではない。俺という、意識が、水面のなかに映っている。

 怯えきった、俺の顔が映っている。

 そして、それまで俺だった身体は俺のものではなくなった。
"俺"は、噴水を見つめるのをやめ、静かにひとつ伸びをして、身体の感覚をたしかめるように、自分自身の腕を撫でた。
 その光景を俺は、"二重の風景"として、眺めている。

「ああ……」と、"俺"は声をあげる。

「帰ってきた」と"俺"は言う。

「俺だ」と、"彼"は言う。

「俺が、三枝隼だ」

 その声を聞いた瞬間、既に俺は葉擦れの森にいる。

 眼の前に、カレハがいる。
 彼女が嗤っている。

 楽しげに嗤っている。

 その様子を、俺は、もうなにひとつ考えられなくなったまま、眺めている。