考えれば考えるほど凄い作品に思えてきた神のみぞ知るセカイ――神知ると約せばいい気がするけど、通るとそのうち神汁になりそうで怖い。再翻訳されると神のみそ汁セカイ。くるくる目エルシィが物凄い勢いで業務用鍋をかきまぜるイメージが浮かぶ浮かぶ。


 さて神のみぞ知るセカイの基本は、心の隙間に「駆け魂」がひそむ女の子をギャルゲーの達人、桂木桂馬が落とすことで心を充足させ――というか小さな病を恋の大病で塗りつぶしている気が――駆け魂を追い出し退治していくというものだ。
 そのツールとして使われるのが桂馬の常軌を逸して豊富なギャルゲー知識なわけだが、このギャルゲーをライブラリとして大っぴらに利用する発想が卓抜している。

 単にキャラクターデザインをギャルゲーから拝借するだけなら(良くあることにしても)それまでの作品になってしまうのだが、神のみぞ知るセカイでは桂馬という漫画内現実と仮想の境界が怪しい主人公を通してギャルゲキャラのほうを登場ヒロインに漸近させる作業が行われる。
 この過程を踏むことによって特定のギャルゲキャラというオリジナリティは徹底的な普遍化を受けてしまい、類型的な存在としてヒロインに投影出力される。

 ゆえに神のみぞ知るセカイはどれほどギャルゲーに範を取ろうとも決して模倣にはなりえない聖域を確保しているのである。そしてそのことが、あまりにも豊富なギャルゲーライブラリを作品に徹底的に利用させうる好循環をもたらしている。
 神知るは著作権利用に対する若木先生のひとつの回答、と見るのは穿ちすぎか。これが効果的にできるのも現在に至る飽和を通り越してなお膨張するギャルゲーライブラリがあったればこそ。まぁ、神のみぞ知るセカイが時代の寵児なのか鬼子なのかは今後の評価を待たなければならないが、コロンブスの卵的な先取権がものをいう「鉱脈」を確立したのは間違いない。


 別の表現をするとギャルゲープレイヤーを操作するゲームに等しい入れ子状にされたオリジナリティがあるわけで、まさしく桂馬の視座は読者(三次元)とヒロイン(二次元)をつなげる神官の座。ゆえに読者もヒロインも知らないセカイを知っているのかもしれない。

 最後に、思春期的な感性では思考や空想に没頭して現実が現実であることを忘れる(というか、それまでは知りもしなかったわけだが――なぜなら人は思春期以前においてはファンタジーも現実の一部として生きられたがゆえに)ことが往々にしてある。桂馬がギャルゲーに傾倒し子供が最良の兵士たりえるようにこの世の全てヒロインを薙ぎ倒していけるのは素晴らしき現実喪失感のおかげなのではないか。
 しかし、彼もいつかは現実が本当に現実であることを知る、あるいは直視せざるを得なくなるだろう(連載終了後かもしれんけど〜〜)。そのとき、この作品を成立させている前提は崩壊する。決壊した現実において桂馬はどうヒロインに対処し、自らのスタンスをどう再構築するのか――と考えると下手なファンタジーより少年誌にふさわしいテーマを内包しうる気もしてくる。

 ……まぁ、考え込むより桂馬きゅんに萌えるほうが「楽」だが、自分が酷くありがちな問題に悩んでいること自体を含めて懊悩する桂馬きゅんを想像しても激萌えるのでイッツオールライトッ!

神のみぞ知るセカイ FLAG.1感想
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神のみぞ知るセカイにある勝負の要素