2011年12月16日

宮城谷昌光「沙中の回廊」に描かれた「城濮の戦い」を戦況図化してみた

 士会の生涯を描いた時代小説「沙中の回廊」から、春秋時代でもっとも劇的な会戦――ある意味ならぶのは大棘の戦いくらいだ――である「城濮の戦い」を戦況図化してみた。晋軍がかなり玄妙な動きをしており、まとめてみると非常に楽しい。脳裏に上手く図を描きながら読む能力があれば、まとめるまでもなくこの楽しさを味わえるのかも……。
 ちなみに主人公である士会は兄(士コク)の車右として戦いに参加しており、とりたてて図に落とせる規模の動きはしていない。

戦略状況

 紀元前633年(士会29歳の年)、周王をたすけた晋の文公に可能性をみて楚から晋に乗り換えた宋を楚軍が攻めた。また楚と連携した魯の軍が斉の一邑「穀」を攻め取り、楚王の息が掛かった斉の公子「子雍」が楚軍に守られて穀に入った。
 翌紀元前632年、宋と斉の脱落も最強と名高い楚軍との直接対決も恐れる晋は、宋を救うため楚の同盟国である衛と曹を伐ち、楚の侵攻軍を二国から引きはがそうと計った。衛と曹、そして魯に対する晋の総力をあげた侵攻は成功したものの、楚軍主力は宋の首都「商丘」から離れない。
 そこで晋は先軫の提案により、秦と斉に賄賂を贈って、楚に軍を引くようとりなしを依頼した。晋の文公に覇者の器を認める楚の成王は軍を引くことにしたが、楚の中軍をひきいる令尹の子玉はこれを不服として商丘に留まり、晋軍の南下に対抗する姿勢をみせた。やむなく成王は子玉に増援を送り、同盟国の陳と蔡の兵に道を引き返させて子玉軍に加わらせた。
 子玉の衛と曹を元通りにすれば商丘を解囲するとの傲慢な要求に、晋はあえて応えたうえで、衛と曹を寝返らせ、また楚使の苑春を捕縛させた。怒った子玉は商丘の攻囲を解き、晋軍目掛けて北上する。流浪時代の約束にしたがい三舎(行軍距離三日分)後退した晋軍は城濮の地に陣取った。城濮で斉軍および秦軍、そして商丘を包囲されていた宋軍が晋軍に合流した。
 かくして紀元前632年4月4日、晋の文公ひきいる晋、斉、秦、宋の連合軍9万5千と楚の令尹子玉ひきいる楚、陳、蔡の連合軍3万数千が激突する運びとなった。


兵力と布陣

・晋連合軍
 総兵力:9万5千(晋軍7万・兵車700乗、秦軍1万、斉軍1万、宋軍5千)
 総司令官:晋の文公
 主な晋将:先軫、欒枝、狐毛、狐偃、郤シン、胥臣、士コク
 斉将:国帰父、崔夭
 秦将:小子ギン
 宋将:宋の成公
 主な勇士:士会、狼ジン、先且居

・楚同盟軍
 総兵力:3万数千(楚軍3万・兵車300乗、陳・蔡軍数千)
 総司令官:子玉
 主な将:子西、子上、子越

城濮の戦い布陣
図1.両軍の布陣推定図

 晋軍は上軍(右翼)、中軍、下軍(左翼)の編成であるが、下軍を2つに分割し最左翼を佐(参謀)の胥臣に、中央寄りを将の欒枝に指揮させた。上軍の将と佐は狐毛、狐偃兄弟。中軍の将と佐は先軫、郤シンである。中軍のうち、1万5千は元帥先軫みずからが率いる伏兵となり、下軍後方の一本道沿いに身を隠した。晋の同盟軍は戦場に存在はしていても戦いに加わっていないため位置が不明である。とりあえず母国の位置に合わせ後方に配置した。
 楚軍は左翼(左氏伝によれば左師)を司馬の子西、陳と蔡の軍をふくむ右翼(左氏伝によれば右師)を子上が受け持つ。子玉の中軍には若ゴウ氏の精鋭部隊600名が子越指揮下で加わっている。なお、楚軍の兵力を3万とする根拠は、楚のイカによる「子玉が300乗以上の兵車を率いてでかければ、おそらく帰還はむずかしい」という発言に拠るもので、率直に言って薄弱である。


作戦意図

・晋軍
 兵力に優る晋軍の狙いは下軍に偽りの敗走を行わせ、楚の中軍を待ち伏せ攻撃することにある。この偽装敗走の際に、無理矢理引っ張り出されてやる気のない陳と蔡の軍を調子に乗らせないため、胥臣の軍に彼らへの攻撃を行わせることにした。

・秦軍
 子玉に特別な策はなく、楚兵の強さを頼りに全面攻勢に出た。


戦闘経過

城濮の戦い前半
図2.城濮の戦いの展開前半

 4月4日の黎明、陣立てが終了すると子玉が太鼓を打たせ、両軍が動きはじめる。晋の上軍をひきいる狐毛と狐偃は、楚の左軍を挟撃しようと打ち合わせ、軍を分割して動かした(図2−1)。晋軍の左翼では胥臣が馬に虎の皮をかぶせた兵車で陳・蔡軍の隊列に突入する(図2−2)。続いて全軍が激突し、二倍の兵数さを克服して、楚軍が晋軍の中央をくぼませていく(図2−3)。戦局を案じた文公は退却にそなえて船の手配を命じた。
 日が高くなり、ついに陳・蔡軍が潰走しだす(図2−4)。胥臣の軍はそのまま楚の右軍に襲い掛かった。子玉は右翼へを繕うのではなく、右翼が崩れる前に中央での圧力を更に高めて勝利を奪おうとした(図2−5)。その結果、欒枝がひきいる軍が偽りの敗走をはじめる。欒枝は兵車に柴をつけてひきずらせ、砂煙を立てることで巧みに敵を待ち伏せ地点に誘い込んだ(図2−6)。


城濮の戦い後半
図3.城濮の戦いの展開後半

 戦場の東では晋の下軍と楚の右軍の戦いが決着し、陳・蔡の軍に続いて子上の軍も戦線を離脱した(図3−7)。反対側では狐氏兄弟の連携作戦が成功。楚の左軍から、おびただしい兵車と捕虜を得た(図3−8)。指揮官の子西はからくも脱出している。
 中央では、まんまと誘い込まれた楚軍の一部が隘路で伸びきった隊列を伏兵に叩かれる(図3−9)。歴戦の楚軍は下級指揮官ごとの判断で踏みとどまり、激しく応戦する。だが見事な抗戦も、偽装敗走した欒枝の軍が反転して、楚軍を叩くまでだった(図3−10)。ついに楚軍は敗走をはじめ、晋軍が追撃する。いまだ統制を保っている子玉の本陣が殿軍に立ち、一目散に敵を追う晋兵を次々と屠っていく(図3−11)。敵の追撃が鈍らせた子玉はゆるゆると兵を引いた(図3−12)。


結果

 戦いは晋の鮮やかな勝利に終わり、文公の覇権が確立した。
 令尹の子玉は敗戦の責任を取り自殺したものの、暴走した中軍が敗れただけの楚も一敗地にまみれることにはならず、強力な成王の元で国力を増して行く。だが、城濮の戦いを機に中華の小国は、周に覇者として認められた晋になびくようになった。
 楚の台頭によって南に移動した中華の重心は、再び北に戻ったのである。


考察

・楚の拙い戦略
 城濮の戦いの勝敗を決定付けた最大の要素は、楚軍の戦略のまずさにある。敵の全力に対して自軍の一部をあてるなど「どうぞ各個撃破してください」と言っているのと同じである。
 成王がどうしても子玉を止められないならば、彼から兵を徹底的に奪い、兵車を300乗以下にしてやるべきだった。イカの呪いから解き放たれた子玉なら、臨機応変に戦った可能性がある。晋の一部を奇襲で撃破すれば、子玉の面目も立ったはずだ――三舎後退させただけでも成王の面目は立っているんだけど。
 子玉はまさに「ピーターの法則」の体現者。殿軍を行った振る舞いからみて部隊指揮官としては文句なく優秀だったが、それゆえに更に上の階級に進んで、限界を露呈してしまった。

・胥臣の大活躍
 基本的に大軍で小軍を潰している晋軍にあって、胥臣だけが自軍と同等か、それ以上の敵を撃破している。中軍を半分にした伏兵部隊の兵数が1万5千であるから、中軍全体は3万、上軍下軍を均等に割り振ればそれぞれ2万で、その半分の胥臣隊は1万と推測される(少しだけ記述のあった先衛部隊が別に編成されていれば、兵数は更に少なくなる)。対する楚の右軍は陳・蔡軍が加わっているため1万以上はあったと作中で推測されている。
 そもそも当時の戦車戦においては右翼が突撃を、左翼が持久を重視していた――と宮城谷先生の「シャク陂の戦い」などで言われている――はずで、最左翼の部隊に突撃をまかせる作戦は意表をついていた。
 逆に楚軍の側にしてみれば士気に不安のある同盟国軍には、右軍の後からついてきてもらえば良いと考えていたのではないか。

・事実上の6軍体制
 晋軍は上軍、中軍、下軍の三軍体制であるが、一軍の定数は1万2千5百であり、全軍あわせて7万は定数の二倍近い数字になる。事実、晋軍はすべての部隊が軍を分割して戦っており、事実上の6軍体制に移行していた。
 楚軍の側にしてみれば3軍と戦っているつもりであるから、残り半分の部隊が心理的にも伏兵となる。
 晋が三舎後退するのを追って、その滞陣跡を観たはずなのに、敵兵力の見積もりが不十分だった感は否めない。あるいは、それを逆手に取って文公は7万人が必要とする半分のカマドを残していったのであろうか?

・晋の同盟軍の不参戦
 晋には2万5千もの援軍があったわけだが、彼らは結局戦局に寄与することなく、晋軍が独力で楚連合軍を撃破して戦いは終わった。文公に対して含むところのある秦の穆公につかわされた秦軍はそそくさと戦場を後にしている。
 結果的には単独で畏れられた楚を撃破したことで、晋の威信はより強まったと考えられる。下手に戦わせると陳・蔡軍のように大軍のウィークポイントになりかねないという心配もあったのかもしれない。
 楚軍の側から見れば、同盟軍を威圧して裏崩れを狙う手もあったわけだが、晋軍だけでも巨大なので、そこまで手が回らなかった。そもそも子玉にそんな寝技が使えれば戦いになっていない。

・楚軍の予備兵力
 最終局面で楚軍の壊滅を防いだことは紛れもなく子玉の功績である。彼が手元に自由になる部隊を残していたことが、少なからぬ楚兵を救った。
 この部隊はもともと中央後方にあったものでなければ、郤シンの部隊を後退させて余裕をえた中央左側の部隊であろう。子玉にまとまった予備兵力があれば、2−5の段階で投入していそうなものなので、図では中央左側の部隊としている。
 また、位置関係上、胥臣の隊には楚軍の後方を遮断する機会があったはずだ。だが、祖国へ帰ろうと必死な兵を妨害するほど、胥臣は愚かではなかった。

・他の再現との異同
 私の手元には、城濮の戦いを戦況図にした本が、覇者の戦術戦略戦術兵器事典1〜古代中国編世界戦史2〜英雄かく戦えりの三冊がある。時代小説である「沙中の回廊」と比較することに無理があるのを承知であえて行えば、この三冊では晋軍の中軍が伏兵にならず、後列から直接敵の横腹をついている点が大きく違っている(覇者の戦術は戦略戦術兵器事典1を参考文献にしているため影響を受けている模様。しかし細部には違いがある。それどころか、戦略戦術兵器事典1にある二つの城濮の戦い記事同士の間にも違いがある。いつか史記や春秋左氏伝を読んで自分なりの判断をしたい)。
 中軍の半分が戦場を離れていなかったとする三冊の解釈は、実質的な晋軍の司令官である先軫が状況を管制下における点に合理性がある。だが、各軍の見事な連携を見ていると、わざわざ先軫が目配りをする必要性は低いのかもしれない。
 指揮官のほとんどが文公と苦難を共にした臣同士であるから、有機的な戦い方が可能だったのではないか。そして、各軍の高い独立性は指揮官同士の意思疎通が不十分な場合には欠陥となりうる。
 晋の城濮の戦いにおける完勝の中には、各軍がバラバラに行動して楚軍に大破されたヒツの戦いにおける完敗が既に潜んでいたのではないか。


以上、宮城谷昌光「沙中の回廊・上」121〜213Pより


参考文献

覇者の戦術 中里融司
戦略戦術兵器事典1〜古代中国編
世界戦史2〜英雄かく戦えり


関連記事

沙中の回廊・上
宮城谷昌光「王家の風日」に描かれた「牧野の戦い」を戦況図化してみた
宮城谷昌光「華栄の丘」に描かれた「スイ水の戦い」を戦況図化してみた
宮城谷昌光「子産」に描かれた「シャク陂の戦い」を戦況図化してみた
宮城谷昌光作品感想記事一覧

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
今月のイチ押し
魔王城でおやすみ 5 (少年サンデーコミックス)
カッコイイ構図に見せかけて……


2017年10月購入予定コミックス一覧
Recent Comments
スポンサードリンク

おもちゃ/ ぬいぐるみ/VOCALOID3 MAYU団子 コスプレ道具小物 アニメ/コスプレ/アニコス


profile
永遠に覚醒しない楚の荘王

漫画を愛する心に卒業なんてないんだ…

趣味
 読書、作文、漫画、写真、天体観測、石集め、歴史(古代欧州、三国志、日本戦国時代)、ネットサーフ、その他たしなむ程度にいろいろ。
そして、このブログ

このブログへのトラックバック、リンクはご自由に。
トラックバックは可能な限りお返しします。どんなに古い記事でもトラックバック・コメントをいただければ喜びます。

更新の目安…かも
月:ジャンプ感想
火:月刊漫画誌感想
水:サンデー感想
木:チャンピオン個別感想
金:チャンピオン感想
土:漫画単行本・マガジン感想
日:漫画考察・Web漫画紹介