2011年12月29日

宮城谷昌光「子産」に描かれた「エン陵の戦い」を戦況図化してみた

 大国間で翻弄される鄭国の視線から描かれた時代小説「子産」に描かれたエン陵の戦いをまとめてみた。春秋時代で三指に入る大会戦だが、五覇は関わっていない(からグダグダ気味……)。
 とはいえ、共公は楚でニ、三を争う名君だと思う。匕は諡から、お察しください。


戦略状況

 「シャク陂の戦い」後の紀元前575年5月、楚の命令で同盟国の宋を攻めた鄭を討つため、晋のレイ公は四軍からなる軍勢をひきいて黄河を渡った。晋軍の接近を察知した鄭は楚に急報を送り、援軍をもとめる。結果、楚の共王みずからひきいる軍勢が、唐・随などの中小国の軍勢をともなって性急な北上を開始する。
 一方の晋軍は、斉、魯、衛の軍との合流を図ったが一ヶ月待っても来なかったため、やむなく単独で南下を再開した。楚軍は順調に成公の鄭軍と合流し、両勢はエン陵の地で対陣することになった。
 晋軍に決戦へのためらいがあることを観てとった楚軍は6月28日の夜間に陣を出て、29日の朝から晋陣の至近距離に布陣を始めた。事ここに至っては退却しても追撃から逃れられないと判断した晋のレイ公は出陣を決した。


兵力と布陣

・晋連合軍
 総兵力:推定6万(晋軍四軍=5万、斉軍一軍=1万)
 総司令官:晋のレイ公
 軍師:苗賁皇
 主な晋将:欒書、士燮、郤キ、荀偃、韓厥、郤シュウ、郤至
 斉将:国佐、高無咎
 主な勇士:欒鍼、呂キ

・楚連合軍
 総兵力:推定7万(楚軍6万、鄭軍5千、唐・随など数千)
 総司令官:楚の共王
 軍師:伯州犂
 主な楚将:子重(公子嬰斉)子反(公子側)子辛(公子壬夫)
 主な鄭将:鄭の成公、子駟(公子ヒ)、子国(公子嘉)
 主な勇士:養由基、潘党、叔山冉

エン陵の戦い布陣
図1.両軍の布陣推定図

 
 晋軍は楚からの亡命者である苗賁皇の助言にしたがい、中軍の精鋭を左右にまわし上下軍の部隊を中軍の後方に集める。残った韓厥の下軍は遊撃隊となる。全体的には魚鱗の陣をなしている。
 楚軍は両翼を前進させた鶴翼の陣。鄭軍は右翼の補助を任されている。なお、両軍が布陣する高所の間には湿地がある。
 兵力については作中で具体的な数字が挙げられていない。ただし、晋は一軍の定数が12500で四軍であるので5万、同じく斉の一軍は定数1万であるので、合わせて6万と計算できる(ただし、斉軍は参戦しないで終わる)。
 対する楚連合軍については晋が斉、魯、衛から一軍ずつの援軍を受けると、ほぼ互角になると子駟が分析している。魯と衛は斉よりも小さな国なので合わせて1万と仮定すれば、楚軍の兵力は約7万に落ち着く。鄭軍の兵力については合戦後の記述に、死者数1千に動けなくなった負傷者を合わせれば、全体の4分の1が犠牲になったとある。俗に戦闘の重軽傷者は死者と同数になるいう。その中で動けない程の重傷者が4分の1程度ならば、鄭軍の総数は(1000+250)×4=5千であり、作中で鄭軍が頻繁に出撃させる兵力になる。唐・随などの小さな同盟国については殆ど不明である。これらの国から出撃させた師(2500人)旅(500人)を翼進させるとあるので、仮に数千としておいた。


作戦意図

 晋の軍師役である苗賁皇は、楚の精鋭は中軍にしかいないと視た。そこで、晋軍の中軍にある精鋭を左右に割いて寡兵でもって敵の左右軍を押さえさせ、上軍と新軍から引き抜いた兵を中軍の後方に集中して、楚軍の中央を数の力で揉みつぶす作戦を立てた。
 楚の軍師役である伯州犂は中軍で手強いのは士氏の兵だけと考えていた。だが、弱点である欒氏の兵を突き崩しても、左右の軍から援護を受ける準備があると判断し、楚軍の戦線に敵がつけいる凹凸を生まないように、じりじりと押していくことを理想とした。


戦闘経過

エン陵の戦い前半
図2.エン陵の戦いの展開前半

 実況は共王、解説は伯州犂の晋軍観察が終わると、占いで苗賁皇の作戦に吉をえた晋軍は両軍の間にある湿地に降りた。総司令官であるレイ公が沼に嵌り、泥まみれになる一幕もあって、中軍の動きが遅れる(図2−1)。やがて両軍は激突し、押し合いとなる。伯州犂は突撃にはやる共王をいさめ、前進が順調ではない右軍に中軍を合わせることを勧める。積極的な共王が加勢を送ると右軍も前に進んだため(図2−2)、兵車を進めた共王に合わせて中軍全体が晋軍を圧迫しはじめた(図2−3)。
 楚軍の右翼を援護していた鄭軍はここで一挙に動き、晋軍新軍の左側面を衝く構えをみせた(図2−4)。しかし、晋との友誼に未練のある鄭軍はすぐさま攻撃に出ることを控え、一拍を置いた。その間に晋の下軍をひきいる韓厥が軍を巡らせて、鄭軍に襲いかかった(図2−5)。

エン陵の戦い後半
図3.エン陵の戦いの展開後半(湿地は省略)

 鄭軍は韓厥の采配に絡めとられ、子国による突撃も不発に終わる。結果的に鄭軍は晋の新軍と下軍に挟撃されることになった(図3−6)。わずかな供回りと突出することになった成公は追撃を受けて、旗を巻いて逃走する破目になった(図3−7)。韓厥と郤至はあいついで成公に遭遇したが、国君を傷つけることに不吉さを覚えた二人は潔く追撃を打ち切った。
 中央では混戦の度が深まっており、郤至が今度は共王に三度も遭遇した(図3−8)。彼は敵の君主にまみえるたびに敬意を表すために、兵車を降り冑を脱いで走り去った。また、レイ公の車右、欒鍼が面識のあった子重を発見して、酒を送ることをせがんだ。戦いの展開に余裕を感じていたレイ公は、これを容れて酒を敵将に送り届けさせた(図3−9)。
 戦いが長引くにつれて苗賁皇の作戦が功を奏し、厚みのある晋の中軍は楚の中軍をじわじわと押し込みはじめた(図3−10)。この時、晋の大夫である呂キが不遜にも共王の目を射たため、怒った共王の命を受けた養由基に射殺されている。
 乱戦の最中、斉軍が戦場に到着していたが、斉軍をひきいる老獪な国佐は、参戦しても得るものはないと見て、レイ公が見つからないことを理由に参戦を見合わせた(図3−11)。
 共王は追い詰められ険阻な地を背負うところまで下がったが、剛力の叔山冉が養由基に矢を放つことを呼びかけ、揃って反撃したため、後一歩のところで晋軍は勢いを失った。楚軍は左右の軍のみならず中軍までもが後退をやめ、攻め疲れた晋軍を押し返した(図3−12)。
 両軍は日没後も互角の戦いを続け、疲労困憊して、ようやく地に伏した。


結果

 6月28日の戦いは引き分けに終わった。
 楚の司馬子反は翌日の戦いにそなえ、てきぱきと部署を示すと、余裕があったので酒を嗜んだ。敵の厳粛さを兵たちが恐れるのをみて、苗賁皇は一計を案じ、晋軍を奮い立たせてから楚の捕虜を放った。
 捕虜を通じて晋軍の戦意を知った共王は不安に思い、子反に下問したが、このとき司馬は酩酊していて答えられる状況ではなかった。それを知った共王は絶望して、夜のうちに逃げてしまった。それを知った楚軍も動揺し、王を追って敗走した。
 戦場に千名を越える死者を出していた鄭軍が取り残された。彼らは地の利を知っていることを活かして辛うじて虎口をすり抜けた。かくしてエン陵の戦いは終わった。
 戦後、子反は敗戦の原因になったことを恥じて自殺した。共王もエン陵の負け戦を罪として自分に悪い諡号をつけるように遺言するほどだった。これは時の令尹が機知を働かせたことで回避されて、共の諡が与えられている。
 勝者である晋軍は兵糧が尽き欠けていたので追撃を行わず、楚軍の残していった食料を平らげて、三日間、戦場にとどまった。大勝によって晋の君臣は驕慢さを増し、国内政争は混迷を深めていくことになる。


考察

・同盟軍の働き
 晋軍の側面をついて崩壊させるチャンスのあった鄭軍にも、戦いの最中に到着して自由に行動できた斉軍にも、痛み分けに近い形で終わったエン陵の戦いを勝利に導くチャンスがあった。
 彼らがあえてそれをしなかった理由には作中で語られている以外にも、小勢力の身で大国の恨みを一身に受けるような活躍をしては滅びを招くという意識があったのではないか。特に晋と楚に挟まれている鄭は、危険が大きい。
 もし仮に楚を大勝させて晋を滅ぼすところまで行っても、目覚しい戦果をあげたことを警戒されて辛い目に遭うだけである――しかも乗り換える先は滅びている。単独で勝利して、敵国を自分の血肉にできない以上、中小国は灰色の行動を続ける他はない。

・韓厥軍の行動
 韓厥は自軍の半分以下の敵を挟撃で潰したにも関わらず、楚軍にちょくせつダメージを与えることができなかった。鄭軍との乱戦を早めに切り上げて楚軍の右側面を衝いていれば、戦いは晋の鮮やかな勝利に終わったのではないか。
 名将と謳われる韓厥がこういう作戦に出られなかった背景にあるのは地形的な制約でなければ、戦闘中に現れた斉軍の存在にあるのかもしれない。整然とした1万の兵力がやってきたは良いものの静観している状況はかなり不気味だ。いきなり味方の背後を衝く畏れがあると韓厥が感じたならば軽々しくは動けない。
 レイ公が斉軍を督戦し、韓厥に的確な支持を与えられれば良かったのだが、血の気の多い彼は戦場を俯瞰することなく、乱戦に埋没してしまった。

・両翼での実力差
 楚の左右軍は苗賁皇の読みどおり、少数の精鋭部隊に抑えこまれ兵数の多さを活かすことができなかった(郤シュウに鄭軍を攻撃する余裕まで与えてしまっている右軍は特に情けない)。作中で言われていたとおり、郤氏の兵が精強であったことも大きく響いていたのかもしれない。さらに士氏の兵も精鋭で、韓厥は名将の誉れが高い。けっきょく晋は四軍すべてに精鋭が含まれていたことになる。
 基本的に質の晋軍、数の楚軍の戦いで、ゆいいつ質も持っている楚の中軍に対して晋は兵力を集中している。同じ状況なら最強の部隊を敵の最弱の部隊にまとめてぶつける解も存在するわけで、苗賁皇がこちらを選択していれば戦いはどちらが勝つにしろ短時間で決着を見ていたことだろう。
 文公が安全な後方から戦いを見守っていた城濮の戦いと違って、レイ公は中軍のただなかに位置していたから、時間は掛かっても総大将戦死のリスクの小さい作戦を採ったのかもしれない。また、今回は晋軍の方が劣勢である点も大きい。

・もしも養由基が最初から矢を射ていたら
 共王は養由基と潘党が開戦前に弓比べをしたことに不吉さを感じて、彼らに矢を放たせなかった。養由基が晋軍の勢いを止めるほどの戦力であったことを思えば、この決定は重い。少なくとも共王が呂キに目を射られる結果にはならなかったはずだ。
 目の傷が戦後の楚王の心理に与えた影響を考えても、7万人中の2人に弓を取らせなかった影響は意外に大きかったと言える。だがまぁ共王の判断したことだから肯定してあげたい気分になるんだな、これが。先代の偉大さに押し潰されまいと精励する二代目が好きなんで。


参考文献

以上、宮城谷昌光「子産・上」83〜156Pより


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