「楽しい夢でも見たのかい?」
酒場のマスターの手に揺り起こされた時、男は一人だった。
窓の外には小鳥が囀り、既に夜の気配は消え失せている。
あたかも一夜の夢の如く。
幻の如くに、朝は何もなかったかのような顔をして。
「……夢……?」
どこかぼんやりと、男は応じた。
テーブルに残されたのは、己の空けたグラスばかり。
そう、確かに夢であったのかも知れぬ。
ねずみと呼ばれた男──ぬいぐるみと酒飲み交わしたことも、
サンドリヨンという娘と旅したことも、彼女の首が宙に飛んだことも───…
「……、ンだこれ?
…ッは。あいつらに渡してくれってーのかよ。」
いや。夢はやはり夢ではない。
証拠はきちりと、記憶に、心に、────テーブルの上に残されていた。
夢の名残に、置かれていたのはブランデーケーキが3つほど。
可愛らしく残されたそれらを手にして、男は笑う。
「…ったく。あのなァ…。これは差し入れじゃなく、お供えっつーんだ。お供え。」
確か、いつか言ったと同じ文句を微かに笑って呟いた。
テーブルに3つ並べ置かれたブランデーケーキ、
このうちひとつはハナコと呼び習わす幽霊に宛てたものに違いあるまい。
幽霊は、物が食べられない。当たり前だ。だからこれはお供えだ。
しかしお供えを貰う立場だというのに、この幽霊、先日妙なことをしでかした。
どうやら、自分では食べられない飴を他人のために拵えたらしいのだ。
神官さんとの合作であったらしい。
幽霊さんと飴をつくりました!と、神官さんがにこにことした顔で教えてくれた。
もっとも、神官さんは作ったのやら味見メインだったのやら分からない。
……幽霊がどうやって飴を作ったんだ、とか。それを食べても本当に平気なのか、とか。
聞きたいことは山ほどあったけれども、結局それらは何も聞いていない。
聞いて、幽霊に説明でもされてしまったらどうするのだ。
また、あの恐ろしい顔を、湿った気配を真正面から見て感じなくてはならないというのか。
藪をつつくとはこのことだ。何が出てくるやら…お化けが出てくるやら恐ろしい。
だから、男は何も聞いていない。飴の味も知らないわけだが。
「律儀なこッて。」
飴は、旅立つ彼ら…ねずみと少女のためのものだった。
だからこのケーキは、そのお礼を意図したものでもあるのだろう。
ならばと二つは残し、ひとつは摘んで、そのまま自らの口の中へと放りやる。
ふわりと甘い、優しい味が酔いを残した喉へと落ちた。
そのまま無造作に椅子を引いて席を立つ。
酒場のマスターに礼を告げて、古びた軋む木戸を押し開けた。
眩しい朝の光が降り注いでくる。
それに男は瞳を細めて背を伸ばした。梢に揺れる緑が目に沁みる。
「───…俺ァ…、」
その誰もいない宙へと向け、男は静かに言葉を放りやる。
昨夜のねずみへと───共に杯交わした”友”へと向けて、鮮やかなる”夢”へと向けて。
「永劫の別れじゃありやせん
死んでもそれはそれでラプンツェル――ハナコの姐御の同類になって会いに来やす」
「…幽霊なんざ、嫌いなンだよ。」
幽霊と共に旅を続ける男は、以前と変わらぬ言葉を、以前とは少し違う響きで音にして嘯く。
だから生きてまた戻れと、そんなことは音にするまでもなく言葉の外に響かせたまま。
「また、いつか旅をして
また、いつか酒を飲んで
また、いつか――笑いやしょう。 」
当たり前だ。
互いに旅の中で出会った。そして旅の中で別れた。
ただそれだけのことだ。
ならばまた、旅の中で巡りあうこともあるだろう。…また、笑いあえるだろう。
「世話になりやした。それじゃあ、また――どこか、で。 」
「───またな。」
だからまた、と。
別れではなく再会を約する言葉しか、男は告げない。
手の中には、幽霊との仲を繋ごうとした娘の面影残る、優しい味のケーキが二つ。
きっと神官さんはブランデーケーキに大喜びをするだろう。
その喜びようを思う男の唇の端が、笑みの形にくつりと歪んだ。
その背中に、ひときわ高く、小鳥が朗らかな囀りを響かせた。
なだらかに続く調べは、新しい朝の旅立ちを祝うかのように青い空へと高く、高く響き渡った。