経済のグローバル化に伴い、グローバル人材の重要性や、その育成については、わが国の至るところで語られるようになった。決して過言ではない。ところで、グローバル人材の定義とは、一体何か。それが明確にならないと、その育成方法も焦点が定まらなくなってしまう。
グローバル人材の定義を現場に聴く
グローバル人材の定義については、様々な見方があるが、「よくわからない時は、まず現場に聴く」という格言通りに、わが国の企業が今後の成長のために求めている人材像をヒアリングしていると、意外なほどにシンプルな答えが出てきた。
「未知の世界、時に非常に厳しい環境に、『面白そうだ』『やってみたい』という気持ちで、積極的に飛び込んでいく前向きな気持ち、姿勢・行動力を持っていること。そして、入社後に一皮、二皮剥けるため、『最後までやり抜く』『タフネスさ』があること。しっかりと自分の頭で考え、課題を解決しようとすること。」(厚生労働省、第9回雇用政策研究会資料。2012年7月23日)
要するに、
1. 未知の世界に飛び込める行動力
2. 最後までやり抜くタフネスさ
3. 自分の頭で考え、課題を解決する能力
の3点である。これが、企業が求めるグローバル人材の定義だとすれば、昔から企業の求める人材の素養は、あまり大きくは変化していないと考えることも出来るし、逆に、見方を変えれば、それだからこそ、わが国の企業はグローバル経済に乗り遅れたのだと考えることも出来るだろう。それは一先ず置いて、少なくとも、わが国企業が求めているグローバル人材像は明らかになったので、次にこの3つの素養は、どうやれば鍛えることが出来るのか、という点について考えてみたい。
未知の世界に飛び込むためには
未知の世界を面白いと感じ、積極的に飛び込む人材を育てるためには、何が必要か。未知の世界に飛び込む、ということは、リスクを取るということと、ほぼ同義であろう。私見では、最低次の2つの用件が欠かせないと考える。1つは、ロールモデルの重要性である。大人が未知の世界を面白いと感じて、どんどん飛び込んでいくような社会では、若者も自然とそれを真似て、リスクを取ることは楽しくて、面白いことだと思うようになるだろう。逆に、大人が安定指向で、リスクを取りたがらないような社会では、若者が保守的になるのは、当然でる。従って、例えば40代50代の大人が率先して起業を行うような仕組みを上手に作っていく必要がある。起業のために離職する40代や50代に対しては、退職金等を割り増すような施策が、その一例であろう。
次に、リスクを取るということは、同時に失敗がつきものだということでもある。そうであれば、リスクを取って、仮に失敗したとしても、そのことが社会的に許容され、オリンピックの柔道ではないが、敗者復活戦が幾重にも用意されていなければならない。アメリカのベンチャーキャピタルは、過去に失敗歴があったとしても、有能な人に対しては、「あれだけ痛い目にあったのだから、それを教訓として、今度は成功を収めるだろう」と考え、積極的に投資を行うと言われている。わが国も、そのようなチャレンジングな風土を官民あげて作っていかなければならない。「向う傷を問う」ような社会風土の下では、誰も喜んでリスクを取るはずがない。
この二つの要件を充足することが、未知の世界に飛び込む人材を育成する鍵だと考える。逆にこの二つの要件を欠いたまま、若者にいくら、リスクテイクの楽しさを説いたところで、それは絵に描いた餅以外の何物でもないだろう。
最後までやり抜くタフネスさ
与えられた仕事から、目を背けることなく真摯に向き合い、決して逃げずに、最後までその仕事をやり抜くタフネスさは、若者のみならず、現在のわが国の経営者、マネジメントにも最も求められている素養であると思われる。私見では、この能力はOJT、即ち仕事を通じて鍛えることが一番であろう。例えば、わが国の大企業であれば、内外に数多くの子会社や孫会社がある。現状を見ると、これらの関連会社は、特に国内の場合、出世競争に敗れた本社役職員の処遇の場として位置付けられていることが多いように思われる。社長になれなかった副社長が、大きな子会社の社長として処遇されるといった具合にである。しかし、こういった現状で、これらの関連会社が果たして大きく発展するだろうか。定年を待つだけの関連会社の経営陣が、奮って新機軸を打ち出すとは、なかなか考えにくい。逆に、関連会社の経営陣には、若くて、その会社の将来を賭ける可能性がある有望な若手を送り込むべきである。そして、彼らがその関連会社を大きく育て上げて初めて、本社の経営陣に呼び戻せばいいのだ。即ち、海外を含めた関連会社を、「経営幹部登用の登龍門」として位置付け、そこで、全責任を背負って最後までやり抜いた人材だけを本社の役員に抜擢するような仕組みを作れば、タフネスさは十分、育成することができるのではないか。以上述べて来たように、ビジネスにおけるタフネスさは、ある程度の仕事を任せ、本人に直接やらせてみなければ、なかなか涵養できない能力であるように思われる。
自分の頭で考えることの重要性
タフネスさに対して、自分の頭で考える能力は、企業のOJTというよりは、むしろ、大学でとことん鍛えるべき能力ではないだろうか。よく、「思考力は、きちんと書かれたテキストを一語一句疎かにせず丁寧に読み込んで、著者の思考のプロセスを追体験することによってしか、鍛えることは出来ない」と言われているが、全くもって同感である。そして、同じ追体験するなら、テキストの著者は超一流である方が、良いに決まっている。これが、古典を読むことの基本的な意義である。
とある雑誌に、日本の大学生は、4年間で平均100冊の本を読了するのに対して、米国の大学生は、4年間で平均400冊を読了するという記事があり、誰かがツイッターで、「将来、グローバル企業でどちらの卒業生が上司になるか、もう勝負はついているのではないか」とコメントしていたことを思い出したが、大学で若者を徹底的に勉強させなければ、しっかりと自分の頭で考える能力は身に付かないと考える。
そのためには、大学生を勉強に集中させる仕組みが必要である。一番簡単で有効な方法は、極論だが、「青田買い」を法律で禁止して、在学中の学生に企業の側から接触することを、出来なくすることだ。そして、卒業後に、成績証明書を持参して、就活を行うような仕組みに切り替えれば、学生は安心して勉学に打ち込み、自分の頭で考える能力を身に付けることができるのではないか。また、大学は本来、勉強をするところなのだから、良い成績証明書は、自分の頭で考える力に加えて、最後まで(勉学を)やり抜いたタフネスさの証にもなるだろう。
これもツイッターでの話だが、とある大学の先生が、「企業の人事担当の皆さん、私の学生をゼミに帰してください。今が学生にとって、勉強に一番大切な時期なのですから」とツイートされていた。大学の先生に、このようなツイートをさせる愚かな国が、一体世界のどこにあるというのだろう。
英語力が必要なことは当然
以上の3つの能力に加えて、グローバル経済の下では、リンガ・フランカである英語力が、グローバル人材に必要なことは言うまでもあるまい。もちろん、わが国の全ての企業がグローバル展開を目指している訳ではないので、楽天のように、英語を社内の公用語にする必要はないと思うが、グローバル企業であれば、例えば、採用の際に、大学の成績証明書に加えて、TOEFLの成績証明書を学生に提示させてもいいだろう。一旦、このような仕組みを作れば、大学生の英語力は直ちに急上昇するに違いない。加えて、上級公務員試験や司法試験、公認会計士試験等にもTOEFL(例えば100点以上)を義務付ければ、わが国の官民の英語力のレベルは、一挙に世界一となるのではないか。
もっと言えば、大学入試センター試験を、英語についてはTOEFLを代用すると決めれば、現在、東大を中心に検討が進んでいる秋入学にも、都合がいいのではないか。海外の大学も国内と併せて受験する学生にとっては、TOEFLの試験対策に集中できて、一石二鳥だと考える次第である。また、大学受験でTOEFLに慣れていれば、社会人になった後に大学院へ留学する際にも有効であり、グローバル人材の数を増やす下支えにもなるのではないか。
なお、蛇足ではあるが、人材の流動性がこれからの大きな流れであることは、自明なので、グローバル人材の育成は決して1企業の問題ではなく、大学や企業を含めた社会全体で取り組まなければならない課題であることは、言を俟たないであろう。
(文中意見に係る部分はすべて筆者の個人的見解である。)