2009年02月10日
私の着物★
、私の着物は他のものを書く人と同様に独特の痛みかたをする。日本服だから袖口が痛むのはおきまりだけれど、絶えず机にすれるものだから袖口の外側からその下にかけてのところだの、羽織の襟の机に当るところだのが知らないうちに忽ち切れてしまう。それから、いしきが抜ける。これは私の重さもあるけれど、細いひとでも、一日の大部分腰をかけて、気付かない体の動きをつづけているひとは皆ここを切る。
羽織の袖口が余りバラバラおそろしくなるので、今着ているのは、外側から同じような布地でくるみぶちをとってしまった。細かい絣だから余りみっともなくない。
そういう羽織を着て、体の半分をくるむような大前掛をかけて、帯は御免蒙って兵児帯である。迚(とて)もしゃんとした帯をしめて仕事をすることは出来ない。
急にお客様があったりして、私はいつもそのまま出るのだけれど、私のような働きの性質だと、どうしても働き着即ちふだん着しか仕方がない。夏は袂を元禄袖にしているのもある。願くば、このくるみぶち付羽織だの着物だのに、せめて心持よい色彩あれ、と思っている。
もう一つ私は妙なものを使っている。それは私のせめてものくつろぎ用、寒さしのぎ用だが、部屋着から思いついて、どてら代りに綿入元禄袖のついたけ着物のように縫ったものに、横で結ぶ紐をつけ、寝間着の上から羽織ったり、夜はふだん着の上にひっかけたりしてオシャレ-!!
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急にお客様があったりして、私はいつもそのまま出るのだけれど、私のような働きの性質だと、どうしても働き着即ちふだん着しか仕方がない。夏は袂を元禄袖にしているのもある。願くば、このくるみぶち付羽織だの着物だのに、せめて心持よい色彩あれ、と思っている。
もう一つ私は妙なものを使っている。それは私のせめてものくつろぎ用、寒さしのぎ用だが、部屋着から思いついて、どてら代りに綿入元禄袖のついたけ着物のように縫ったものに、横で結ぶ紐をつけ、寝間着の上から羽織ったり、夜はふだん着の上にひっかけたりしてオシャレ-!!
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delizenkoku at 09:27|Permalink
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2005年12月30日
家庭でも働き着とふだん着との
区分が明瞭につけられると、却ってどちらもその性能をよく活かした形で徹底されるのだろう。私たちの女の生活に向う態度そのものに、そういう区分を生れさせる弾力がなくてはならないのだと思う。昔から日本の婦人の服装の改良というと、明治時代から改良服の系統を脱し得ないのは、いつも働き着とふだん着とが一緒にされて念頭にもち越されていたからなのだと思われる。
近頃一方に制服ばやりがあると共に、他方では極端な服装の単一化が考えられているけれども、先頃ナチスのヒットラー・ユーゲントが来たとき、割にその近くで接触していた人の話では、ユーゲントたちは制服は一通りだけれども、服装としては六七通りはそれぞれの必要にしたがって持っていた。ユーゲントの制服だけ見て、それだけ真似て、一組の装で万事すませようとするのだったら可笑しい、ということだった。
衣類の本当の合理化は、その人々の働きの種類によって、休安の目的によって形も地質も考えられるのが当然である。
近頃一方に制服ばやりがあると共に、他方では極端な服装の単一化が考えられているけれども、先頃ナチスのヒットラー・ユーゲントが来たとき、割にその近くで接触していた人の話では、ユーゲントたちは制服は一通りだけれども、服装としては六七通りはそれぞれの必要にしたがって持っていた。ユーゲントの制服だけ見て、それだけ真似て、一組の装で万事すませようとするのだったら可笑しい、ということだった。
衣類の本当の合理化は、その人々の働きの種類によって、休安の目的によって形も地質も考えられるのが当然である。
delizenkoku at 11:27|Permalink
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2005年12月29日
一日のうちのこういう変化は、
簡単であること、働きよいこと、金をかけないことと一致して、私たちの生活にもっととり入れられていいことだと思う。衣服にこういう変化を持てるということは、とりも直さず家庭での仕事、外での勤労が規則的に行われること、簡単に着換えられる衣類の形であること、生活の感情の多様さが活かされている社会の雰囲気であるということを語っていて、そこに簡単簡素ということは単調と同じものではないという事実がはっきり示されるわけである。
自分のことを考えてもつくづく思うのだけれども、日本の服装は実に閉口的に複雑であって、しかも単調だと思う。使わなければならない紐の数、小物の数、いかばかりだろう。その一つ一つに神経がいる。けれども、全体の形は少くともこれ迄は、働く時間の衣類の形もくつろぐ時、外出の時の衣服の形も同じで、動きを語る線の上でのくっきりとした変化というものは持たなかった。平常着を小ざっぱりと趣味をもって、ということは心がけのよい女性たちの念願だと思うが、日本のこれ迄の暮しの感情では、女のふだん着は働き着と同じ性能におかれていて、僅に夕飯後ふだん着の上に羽織られた袢纏が、日本女性のつつましい休息の姿を語っていた。
其故、この頃いろいろ衣服の改善が云われても、いつも「気が利いていて働きよい平常着」という観念の土台で袂がちぢめられたり、裾が袋にされたりしている。はっきりと働く時間の装はこれ、大働きの終ってからのふだん着はこれと、区別された生活感情で扱われていない。
自分のことを考えてもつくづく思うのだけれども、日本の服装は実に閉口的に複雑であって、しかも単調だと思う。使わなければならない紐の数、小物の数、いかばかりだろう。その一つ一つに神経がいる。けれども、全体の形は少くともこれ迄は、働く時間の衣類の形もくつろぐ時、外出の時の衣服の形も同じで、動きを語る線の上でのくっきりとした変化というものは持たなかった。平常着を小ざっぱりと趣味をもって、ということは心がけのよい女性たちの念願だと思うが、日本のこれ迄の暮しの感情では、女のふだん着は働き着と同じ性能におかれていて、僅に夕飯後ふだん着の上に羽織られた袢纏が、日本女性のつつましい休息の姿を語っていた。
其故、この頃いろいろ衣服の改善が云われても、いつも「気が利いていて働きよい平常着」という観念の土台で袂がちぢめられたり、裾が袋にされたりしている。はっきりと働く時間の装はこれ、大働きの終ってからのふだん着はこれと、区別された生活感情で扱われていない。
delizenkoku at 11:27|Permalink
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2005年12月28日
働くために
この頃は日本の女の服装について、簡単であること、働きよいこと、金をかけないことがどこででも云われている。大変着物に凝っている人たちが、昨今はそれらを又新しい工夫の条件にとりいれて違った形での数奇を示しているのや、それとは全く反対に、衣服は肉体をつつむ袋なりとでもいうように、何でもモンペの観念にひきつけてばかり考案されている単調さも、私たちの生活の現実とは何となしに遠い。
ごく大ざっぱに云って、私たち人間は皆一日のうち何時間か働いて、何時間かは休息しつつ生活している。着物もつまりは、その生活の二つの基調に適合した変化が必要だし、その必要をみたすことが衣服の最低の条件なのだろうと思う。
簡単服という言葉はホーム・ドレスを意味する日本名だが、日本の女性たちの生活は、働き着として朝身につけたその簡単着を、いつ、くつろぎ着にかえる時間と余裕とをもっているだろうか。
家の掃除をしたり洗濯をしたりするときホーム・ドレスで大働きをする主婦たちは、昼飯でもすんでからは、すこし気持のちがう午後の服に着かえるのが、洋服暮しの国々での普通の習慣である。そして、夜もうお客もないくつろぎの時間には、ゆったりとした寛衣にかえて、床に入る迄の休息を楽しむ。男のひとたちにしろ、その時刻には窮屈な上着はぬいで部屋着にくつろぐのである。
ごく大ざっぱに云って、私たち人間は皆一日のうち何時間か働いて、何時間かは休息しつつ生活している。着物もつまりは、その生活の二つの基調に適合した変化が必要だし、その必要をみたすことが衣服の最低の条件なのだろうと思う。
簡単服という言葉はホーム・ドレスを意味する日本名だが、日本の女性たちの生活は、働き着として朝身につけたその簡単着を、いつ、くつろぎ着にかえる時間と余裕とをもっているだろうか。
家の掃除をしたり洗濯をしたりするときホーム・ドレスで大働きをする主婦たちは、昼飯でもすんでからは、すこし気持のちがう午後の服に着かえるのが、洋服暮しの国々での普通の習慣である。そして、夜もうお客もないくつろぎの時間には、ゆったりとした寛衣にかえて、床に入る迄の休息を楽しむ。男のひとたちにしろ、その時刻には窮屈な上着はぬいで部屋着にくつろぐのである。
delizenkoku at 11:26|Permalink
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2005年12月27日
果して女の虚栄心が全部の原因か?
夫人の虚栄心から出入りの軍需工業会社員から金銭を収受し、ついに夫の地位と名誉にまで累を及ぼした植村中将の事件についていって見たい。
こういう事件はやはり昨今の一部にかたよった景気につれて起った事でしょう、まだ一般の間に示されない、大なり小なりの同じような事実がないとはいえないという事は想像できます。
ただこの場合、当事者の夫人の虚栄心が災いを引き起したという事が主として強調されていますが、私ども女にとっては、何か合点の行くような行かないような気がします。
女の虚栄心ということは、昔から一つの通俗的な世間道徳の戒めとなっており、犯罪の裏には女ありなどといわれますが、この夫人の派手ずきな気質を助長させ、またそれを可能ならしめるような周囲の事情というものが、大きい結果を生んだのだということも忘れてはなりますまい。
常識的に見ると、こういう複雑な場合では、この周囲の社会的事情そのものの中にある原因を十分探究摘発すべきであって、たまたま派手ずきで目立っていた一婦人の虚栄心という所にのみ、その責任の大部分を塗りつけるのは無理です、何か弱いものいじめのような気がします。
〔一九三六年十一月〕
こういう事件はやはり昨今の一部にかたよった景気につれて起った事でしょう、まだ一般の間に示されない、大なり小なりの同じような事実がないとはいえないという事は想像できます。
ただこの場合、当事者の夫人の虚栄心が災いを引き起したという事が主として強調されていますが、私ども女にとっては、何か合点の行くような行かないような気がします。
女の虚栄心ということは、昔から一つの通俗的な世間道徳の戒めとなっており、犯罪の裏には女ありなどといわれますが、この夫人の派手ずきな気質を助長させ、またそれを可能ならしめるような周囲の事情というものが、大きい結果を生んだのだということも忘れてはなりますまい。
常識的に見ると、こういう複雑な場合では、この周囲の社会的事情そのものの中にある原因を十分探究摘発すべきであって、たまたま派手ずきで目立っていた一婦人の虚栄心という所にのみ、その責任の大部分を塗りつけるのは無理です、何か弱いものいじめのような気がします。
〔一九三六年十一月〕
delizenkoku at 11:25|Permalink
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2005年12月26日
一つの句は一つだけ、
自身のマンネリズムで作るなということもきびしい表現で云っていて面白い。芸術と人生の生きかたを刻々に流れ動きしかも不易である豊富な生命に一致させようという志から、一笠一杖の生活も発している。僧侶風な遁世とは違う。今日私たちが芭蕉に感じる尊敬と感興は、十七世紀日本の寂しさと現代の寂寥の質の違うことを確りと感情において自覚しつつ、従って表現の様式も十七字から溢れていることを知りつつ、猶芭蕉が自身の芸術にとりくんだ魂魄の烈しさによって、今日と明日の芸術の建設のための鼓舞を感じるところにあると思う。芭蕉は弟子に向って、師である彼の芸術的境地の「底をぬけ」ということを切に切に云っている。そういう人物の見当らぬことを悲しんでさえいる。「この道に古人なし」それは古人の跡を追随するなという意味、完成された芸術に屈服するな、今日の現実感覚に立て、という意味できわめて強調されているのである。芭蕉こそ真の芸術家として、古典というものが再びそこにそのままの姿で住むことは出来ない民族芸術の故郷だからこそ価値の深いものであることを知りつくしていたと思う。
〔一九四〇年一月〕
〔一九四〇年一月〕
delizenkoku at 11:24|Permalink
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2005年12月25日
芭蕉を、
彼の生きた時代の世相との関係でみれば、世俗的には負けていて、世事万端の流転を自然とともに眺める哲学の内容も、仏教渡来後の日本の知識人として当時に於いてもありふれたものであった。哲学として或は人生観のつづまりとしては、西鶴も近松門左衛門も最もありあわせた仏教的なものに納まっている。しかし、芭蕉の芭蕉たるところは、哲学的にそういう支柱のある境地さえも自身の寂しさ一徹の直感でうちぬけて、飽くまでもその直感に立って眼目にふれる万象を詩的象徴と見たところにあるのだと思われる。「さび」が日本の心の窮極にあるというよりは、どこまでも感性にふれる形象をとおしてのみ芭蕉の象徴があったという点こそ、彼の芸術が中国にも印度にも無いものである所ではなかろうか。芭蕉には実に微妙複雑な象徴はあるが、抽象はない。少くとも彼の完成した後の芸術境にはない。それだからこそ私たちは、一読「こがねを打ちのべたような」彼の芸術の世界の感性、象徴にひき入れられ、一句一句がそれぞれに「底をぬいて」いること、すなわち夾雑観念のないそのものとしての境地にふれている純一を感じ、対象と作者の感覚の「間に髪を入れざる」印象、本性たがわじの芸術を心に銘じられるのだと思う。芭蕉というと枯淡と言葉を合わせ、一笠一杖の人生行脚の姿を感傷的に描くのが俗流風雅の好みである。真実の芸術家として、芭蕉が「此一筋につながる」とばかり執拗に、果敢に破綻をもおそれず、即発燃焼を志して一箇の芸術境をきずいて行った姿というものは、平俗に逃避したりおさまったりした枯淡と何等の通じるものをもっていない。はりつめて対象の底にまで流れ入り、それを浮上らせている精神の美があるからこそ、芭蕉の寂しさの象徴は感覚として活きているのだし、感覚としての響とひろがりと直接さをもっている。そういう一世界を十七字のうちに立てるため、とらえて現実とするために芭蕉は様式についても言葉一つ一つについても敏感であったのは当然であろう。その点では談林のお喋りに反撥して、鬼貫が「まこと」一本やりで、すがた形を二のつぎにした態度から、歴史的一歩を歩み出している。芭蕉は、二六時「内につとめたる」主観と対象の刹那の結合で俳諧は出来るべきもので、つくるべきものではないとしたが、それは作為を拒んだので、一句一句そのものとしての世界が客観的に確立すべきことは目ざされていた。
delizenkoku at 11:24|Permalink
│
2005年12月23日
渾沌翠(みどり)に乗て気に遊ぶ
人死を待(まつ)て生(せい)たはいなし
こんな禅臭の句も作った。しかし、芸術家としての彼が遂に一大勇猛心をふるいおこして、小さい囲炉裏(いろり)のような私一個の安心立命は思い捨て、この人生が彼にとって根本に寂しと観じられているならそれなり刻々の我が全生活をかけて、感覚と形象の世界へ突入してゆくことで天地の生気の諸相を捉えようと歩み出した。それが、
野ざらしをこゝろに風のしむ身かな
秋十とせ却つて江戸をさす古郷
にはじまる「野ざらし紀行」以後の一貫した態度であることは十分頷ける。元禄七年五十一歳で生涯を終るまでの十年、芭蕉はきびしく生活と芸術の統一を護って、「七部集」ほか「更級紀行」「奥の細道」等、日本文学に極めて独自な美をもたらしたのであった。云ってみれば、芭蕉の芸術などというものは爾来二百五十有余年、その道の人々によって研究されつづけて来ているようなものである。芭蕉の美の原理としての「こころ」「不易流行」「さび・しおり・ほそみ」等は精密を極めた考証とともにしらべられて、それぞれの見解はその道の人々にとっての一大事とされている。私たちはそういう或る意味では煩瑣な芭蕉学から離れ、きょうのこの心のままで彼の芸術にふれてゆくのであるが、それなりに生々とした感銘をうけ、感覚に迫ったものをうけるのは、芭蕉の芸術にどういう力があればであろうか。
こんな禅臭の句も作った。しかし、芸術家としての彼が遂に一大勇猛心をふるいおこして、小さい囲炉裏(いろり)のような私一個の安心立命は思い捨て、この人生が彼にとって根本に寂しと観じられているならそれなり刻々の我が全生活をかけて、感覚と形象の世界へ突入してゆくことで天地の生気の諸相を捉えようと歩み出した。それが、
野ざらしをこゝろに風のしむ身かな
秋十とせ却つて江戸をさす古郷
にはじまる「野ざらし紀行」以後の一貫した態度であることは十分頷ける。元禄七年五十一歳で生涯を終るまでの十年、芭蕉はきびしく生活と芸術の統一を護って、「七部集」ほか「更級紀行」「奥の細道」等、日本文学に極めて独自な美をもたらしたのであった。云ってみれば、芭蕉の芸術などというものは爾来二百五十有余年、その道の人々によって研究されつづけて来ているようなものである。芭蕉の美の原理としての「こころ」「不易流行」「さび・しおり・ほそみ」等は精密を極めた考証とともにしらべられて、それぞれの見解はその道の人々にとっての一大事とされている。私たちはそういう或る意味では煩瑣な芭蕉学から離れ、きょうのこの心のままで彼の芸術にふれてゆくのであるが、それなりに生々とした感銘をうけ、感覚に迫ったものをうけるのは、芭蕉の芸術にどういう力があればであろうか。
delizenkoku at 11:24|Permalink
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2005年12月22日
芭蕉よりは十歳以上若い彼は
やはり同じ時代の芸術家らしい現実的、写実的傾向に立っていて、門左衛門の劇作に対する抱負は、昔の花も実もない浄瑠璃に対して、「文句に心を用うる事昔にかわり一等高く」、例えば同じ武家を描いても、「その程その程をもって差別をなす」というリアリズムの強調にあった。西鶴は、当時の世相を対象とする風俗描写とそこにおける芸術感情が日常性に腰を据えていることを懐疑しないように見える。近松門左衛門は、元禄という新しい時代の息ぶきで目ざまされ自然平等に発露しようとする人間の情、男女の情が、やはり昔ながらの身分のへだて、社会のしきたりの中にのこされている浮世の義理のしがらみにかかって破られ或は悲しい諦めに陥る悲劇を悲劇のなりに描き出しているように見える。
芭蕉自身にしろ、西鶴や門左衛門と等しく、古いものの権威の失墜と、人間性の高揚と現実に即してはなれぬ時代気風とを、骨髄に持って成長して来ている。けれども、彼が芸術として俳諧に求めたのは、西鶴のような現象を追うばかりの浮世絵巻としてではない俳諧、門左衛門のように己とひとを涙にとかす悲劇に我から没入せず、何かより勁(つよ)い人間精神の高揚によって社会悲劇をも克服した芸術としての俳諧、そういうものを自分の芸術に求めていたのではあるまいか。そういう芸術探求の道で芭蕉でもやっぱり一度は禅宗などに踏み入っているのは面白い。
芭蕉自身にしろ、西鶴や門左衛門と等しく、古いものの権威の失墜と、人間性の高揚と現実に即してはなれぬ時代気風とを、骨髄に持って成長して来ている。けれども、彼が芸術として俳諧に求めたのは、西鶴のような現象を追うばかりの浮世絵巻としてではない俳諧、門左衛門のように己とひとを涙にとかす悲劇に我から没入せず、何かより勁(つよ)い人間精神の高揚によって社会悲劇をも克服した芸術としての俳諧、そういうものを自分の芸術に求めていたのではあるまいか。そういう芸術探求の道で芭蕉でもやっぱり一度は禅宗などに踏み入っているのは面白い。
delizenkoku at 11:23|Permalink
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2005年12月21日
同時代の芸術家として、
近松門左衛門や井原西鶴等の生きかたと芭蕉の生涯とは今日の目におのずから対比されて様々に考えさせるところがある。宗房より二つばかり年上であった大阪生れの西鶴は、通称を平山藤五と云い、有徳な町人であった。妻に早世され、娘を早く喪ってからは店を手代にゆずって僧にもならず一種の楽隠居で、半年は旅に半年は家居して暮すという境遇の俳人、談林派の宗匠であった。町人に生まれ、折から興隆期にある町人文化の代表者として、西鶴は談林派の自在性、その芸術感想の日常性を懐疑なく駆使して、当時の世相万端、投機、分散、夜逃げ、金銭ずくの縁組みから月ぎめの妾の境遇に到るまでを、写実的な俳諧で風俗描写している。住吉の社頭で大矢数一昼夜に二万三千五百句を吐いた西鶴が、そのような早口俳諧をもってする風俗描写の練達から自然散文の世界に入って、浮世草子「好色一代男」(天和二年)などを書き始めた必然の過程は、人生と芸術への疑いにみたされていた桃青にどのような感想を与えたであろうか。近松門左衛門の「世継曾我」が上方で華やかな世評を喚起したのもこの前後であった。京都生れの武士であった近松は、当時崩れゆく武家の経済事情に押し流されて、いくつかの主家を転々した末は浪人して、歌舞伎の大成期であったその時代から辛苦の多い劇作家の生活に入った。
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