日本は民主主義国という事になっているから、
国会議員でも地方自治体の首長でも議員でも、皆選挙で選ぶ事になっている。
民主主義国では、選挙で選んだ政治家が倫理的に許せない事をしたときには、
マスコミの報道でそれを知った国民は、次の選挙で問題の政治家を落選させれば良い、
と言うシステムになっていると私は習っていた。

だから、現政権の大臣や与党議員に、極めて濃厚な疑いのある政治家たちがいても、
政府は無罪奉免にしている場合が多い。
マスコミも政府に同調して、深追いするどころか、おざなりの報道で、
無罪放免にしている事が多い。
政府もマスコミも、それが民主主義だと言うスタンスだったかと思う。

しかし、マスコミは時々一人の政治家を、異常に執念深く叩き続ける事がある。
思い出すのは佐藤栄佐久元福島県知事と、
小沢一郎元民主党代表の叩かれ方である。

福島県知事だった佐藤栄佐久氏に付いて、
普段は東北地方のニュース等、殆ど報道されていなかった近畿地方の新聞にまで、
連日佐藤知事の収賄疑惑の記事が、一面トップで書かれていた。

小沢一郎氏の場合は総選挙直前だったのに、
新聞・テレビでの小沢氏叩きは超異常であった。

佐藤栄佐久知事は東電福島第一原発の、再稼動を禁止しようとしていたから、
新聞がプロパガンダを張って、知事の座から追い落とそうとしていたと思われる。
佐藤知事は東電福島原発事故の後で、結果的に冤罪だと判明した(有罪判決ながら収賄額0円)。
小沢一郎氏の場合も最終的判決は、政治資金規正法違反(記載漏れ)だけだったそうである。

小沢一郎氏は収賄の嫌疑をかけられだけで、民主党代表の地位を追われ、
遂には同じ民主党員にまで叩かれ続けて、
民主党まで追われてしまっている。

どちらも民主主義で選ばれた政治家が、国民の意思によるのではなく、
何処かの闇の権力の意思によって、しつこくプロパガンダ報道をされて、
職を追われているのである。

今マスコミに叩かれている舛添知事の場合、
佐藤栄佐久知事のような綺麗な政治家ではないとは思うけれど、
テレビのバラエティー番組が、どのチャンネルを見ても、
舛添疑惑しか放送していないという状態が何日も続くと、
舛添知事は辞めるべきでないとの思いが募ってくる。

テレビのコマーシャルは殆ど電通が差配しているそうである。
ここまで各局が息を合わせて舛添叩きをしているのを見ると、
裏で電通が糸を引いている姿が垣間見えてくる。

電通はオリンピック誘致に際して、黒い疑惑があるのに、マスコミは話題にさえしない。
しかし、オリンピック誘致に電通が深く噛んでいる事は事実らしい。

(色々な理由が語られていて)どういう理由からなのかは分からないのだけれど、
オリンピック委員会は当初予算を次々に反故にして、
建築予算を千億2千億と、どんどん増額して行こうとしている。
当然東京都にも予算増額が求められているのだろう。

マスコミを支配している権力は今回と同じようにプロパガンダ報道をして、
猪瀬前知事を知事の座から追い落としたばかりであった。
その後闇の権力は、舛添氏がああいう人間である事は、以前から分かっていた筈なのに、
急遽都知事選をして迄、舛添氏を全力で応援して、知事の座につけたのだった。

今闇の権力が舛添氏をプロパガンダ的に叩いているのは、
舛添知事がオリンピック委員会の要求に、抗っているから(要求どおりの金額を都合しないから)
舛添叩きが急浮上したのではないかとの疑惑が湧いてくるのである。

都のお金の使い方に付いてだと、石原元都知事の方がずっと酷かったし、
ガス工場跡地で有害物質が満ちている土地に、
築地市場を移転させるというような、都民を害するかも知れない政策を推進していても、
石原都知事は殆どマスコミに叩かれる事はなかった。

石原元都知事に較べたら、舛添知事の使い込み方など小さなものであろう。

マスコミは都立銀行を創って、何十億円も息子の選挙運動費を流用したとの疑惑もある石原のような、
大きな使い込みは許せるけれど、
舛添の様なセコイ使い込みは許せないと言わぬばかりである。

今日のテレビで出演者が、
大抵の政治家は、これ(舛添)くらいの使い方はしているのに、
「どうして叩かれる政治家と叩かれない政治家が有るのかが分からないのですよね。」
と言っているシーンがあった。
報道を担当する立場であっても、そのくらいの事を言わなかったら、
恥ずかしくて場がもてないからなのではないかと感じさせられた。

大臣でも知事でも、陰の権力の気に入らなかったら、
挿げ替え自由の風潮を阻止する為にも、
今舛添知事には根限り頑張って、辞職はしないでもらいたいと思う。

陰の権力者が政治家の生殺与奪の権を握っているのでは、
民主主義とは言えないではないか!

色々とセコイ事をやって来た罪滅ぼしの為にも、
舛添知事には民主主義のために頑張っていただきたいと、切に願うものである。