マスコミに載らない海外記事「ハーバード大学の偽ニュース・サイトに関する偽ガイド 21世紀のアメリカ“禁書目録”」に、アメリカで一番の名門大学とされているハーバード大学で、
カトリック教会の禁書に習った様な、禁書目録が発表されたそうである。

あらゆる重要な問題に関して真実を語っているものを悪く言い、信頼に足る代替ニュース、情報、分析を中傷し、検閲官として機能しているFactCheck.org、Politifact、Snopes.com、ワシントン・ポストFact Checkerや他の自称事実チェック・サイトの利用を勧めている。と言って此の記事の筆者は怒っておられるが、
ハーバード大学がこういう発表したのは、
ハーバード大学がやっと、大学というものの本当の姿の一部を、
一般ピープルの目に曝してくれたと言うべきなのかもしれない。

アメリカもそうだと思うけれど、
私達日本人は子供の頃から「学問の自由」とか、「思想信条の自由」とかが、
学問の府にはある様に教えられてきた。
しかし、それらの自由は権力者の利益に反しない限りの自由であって、
何者にも犯される事のない自由ではなかったのではないだろうか?

これ迄、可也自由が認められていたとしても、
一般ピープルを学問というものに、帰依させたいが故に、
絶対権力者も今は我慢の為所と、
学問の府が真実と認めることを真実と認め、
それらに基づく思想信条の自由を、許していただけなのではないだろうか。

現在の世界においては、学問の府を創って一般ピープル操作にしようと目論んでいた強権グループが、
無理な計画と数々の失策が祟って、可也追い詰められているらしい。
だから、これまでのように大学に真実を教えさせると、
彼らにとって致命傷となるかも知れない状況になっている。

彼等が系統的に学問なるものを教える為の学校制度を創ったのは、
一般ピープルを、彼等が決めた学問というものを修めさせることで、世界中の価値感を統一し、
自分達のために使いやすい人間を、多数作るのが目的だったのだから、
自分たちにとって致命傷となるかも知れない事態に於いて迄、
大学に真実の追究をさせる気は、当初から彼らにはなかったのである。

学問の自由も思想信条の自由も、学問なるものを信じさせる為のツールに過ぎなかったのである。

これ迄一般ピープルは単純に、学問の府には思想信条の自由が、
本当にあると思い違いしていただけなのである。
学校で教えられる事には、本来は疑っても良いような事柄が多数あっても、
ずっとそういう教育がなされて来たというだけの理由で、
殆どのものが疑われる事なく、教え続けられている事柄が沢山あるのではないだろうか?

疑問符を打ちたいものの中で単純な事柄では、
日本に於いて西洋史は可也詳しく教えられているが、
東洋史は中国の事が殆どで、
お隣の韓国の歴史さえ、余り教えられてはいなかった様に思う。
私は4~5年前、テレビで韓国の歴史ドラマを見て初めて、
チュモン大王という高句麗の創設者の名前を知ったのだった。

海を隔てているとは言え、お隣の国であるベトナムの事も、
殆ど知る機会がなかったので、
ベトナムの事で私が知っているのは、ベトナム戦争の事位である。

この様に近隣国の事を殆ど教えないで、
日本から遠く離れた西洋の歴史は、可也詳しく教えていたのも、
教える側に、或意図があったからではないだろうか?

最近日本人がもっと英語が使えるようにならねばならぬと言って、
小学校から英語を教える事になったそうであるが、
近年までは中学高校の6年間も英語を習っても、
英語で自由に会話が出来る様になる者は殆どなかった。
これは本当に、生徒達や教師の能力不足のせいだったのだろうか?
もしかしたら日本人総てが、
英会話に堪能になる事を、
日本の権力が嫌っていたからなのではないだろうか?

想像すると切りがないけれど、
学問の自由などと言うものなど、
始めからあった試しはなかったのではないだろうか?
あったのは、所謂文明圏なる西洋社会のものの考え方を、
世界の共通認識とするための教育機関であって、
私達は西洋人に洗脳される為に、
学校に通わされていたのではないだろうか?

吉永小百合さんが嫌いなわけではない事を前もってお断りしておかねばならないが、
昔、吉永小百合さん主演された「キューポラのある町」という映画に付いて、
一寸物申したい気持ちがある。
此の映画の主題が何だったかはよく覚えていないのだけれど、
此の映画の中で、誰かのお父さんの役の人が、
「自分には学問がないから、~が出来ない」というような事を言って、嘆く場面があり、
映画のその場面で、学問がないから~という言葉に、
異を唱える者が一人もなかった事が、印象に残っている。

あのキューポラのある町という映画は、表面上のテーマは兎も角、
日本人に「学問がなかったら社会に出て何も出来ない人間になる」と
思い込ませるのが目的の洗脳映画だったのではないだろうか?

学問がなくても田中角栄氏は立派に事業を起こし、
総理大臣にまで出世して、
日本のために日中国交正常化を果すという、立派な業績まで残された。

安倍晋三氏は大学まで行っても、
自分の出身大学の名前さえ書き間違える漢字能力しか持てず、
云々をデンデンと読んだと言って、笑いものにさえされている。

知識などというものは、
何も高校や大学に行かないでも、
本を読んだり、実地に見聞を広めたりで、
必要な知識を得る事は可能な筈である。

しかし、昭和30~40年代の頃、
しきりに、「学問がなければ・・・・」的な言動が、聞かされたものだった。
その頃から、日本が豊かになった所為もあるだろうけれど、
高校進学率がどんどん上がって行った。
それから数十年後には、
大学の進学率が嘗ての高校進学率に並ぶ程になって来ている。

それで日本人はそんなに賢くなっただろうか?
実地には殆ど役に立たない事を延々と習って、
卒業後仕事で使う知識だけは忘れないかも知れないが、
大部分の知識は卒業後殆ど使う事もなく、
40歳を迎える頃には、学校で習った殆どの事は、
忘れているのが実態なのではないだろうか?

そんな事のために6・3・3・4と16年間、
学業成績の高低が、人間の価値を決めるかの様な競争場裏の学校で、
人は四苦八苦して過ごす幼少年時代を過ごさねばならないのだろうか?
今の日本の習慣は、本当にこれで良いのだろうか?

ハーバード大学という世界有数の学問の府で、
大学とはどういうものであるかという事が暴露された。
その大学を卒業した人には哀しい限りだろうけれど、
これが学問という名のイカサマに気付くきっかけとなれば、
一般ピープルにとっては、寧ろ喜ぶべき事なのではないだろうか?