2016年12月09日

離 婚

非常に書きにくい記事ではありますが、後から読み返してあの時自分が何を考えていたのかを知る手掛かりになるかもしれないので、あえて書いてみようと思います。



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dennismoore1988 at 22:47|PermalinkComments(0)clip!私・ひと 

2016年12月08日

クラウス・キンスキー

今、CSで『夕陽のガンマン』を放送しているので観ていました。

クラウス・キンスキーが出ています。今初めて知ったわけではないですけれど、もう本当に悪役というか...。他の画像もいろいろ検索してみましたが、まさに「怪優」といった感じの俳優です。

でも、私はこの人の名前しか知らないときは、もっと紳士的な役を演じた人なのかと思っていました。もともと私は、この人のことはナスターシャ・キンスキーの父親ということで初めて認識をしました。

(と書いている間に、クラウス・キンスキーはリー・ヴァン・クリーフと撃ち合って殺されてしまいました)

ナスターシャ・キンスキーと言えば正統派の美人女優じゃないですか。その父親がこんな悪人顔だったなんて(笑)。それに、私が思っていたよりもずっと若かったというのも意外でした(と言っても、もう亡くなっていますが)。なんとなく名前のイメージだけで考えていた頃は、物静かな老紳士というイメージでした。耳にした感じでは厳かな感じの名前じゃないですか(笑)。


dennismoore1988 at 22:41|PermalinkComments(0)clip!映画 

2016年12月03日

市ヶ谷、飯田橋 食の記憶

先日の記事に書いたように、私が通っていた大学はJRの市ヶ谷駅と飯田橋駅のちょうど真ん中あたりにありました。営団地下鉄(現東京メトロ有楽町線)の駅だと市ヶ谷駅はやや大学に近いところに一方の出口がありました。

大学に入学した当初、私は予備校が千駄ヶ谷だったこともあり、慣れているそちらの方回り(新宿経由)で市ヶ谷駅を通学時に利用していましたが、サークルに入ってみるとサークルが終わった後に食事や飲みに行くとき、お店が多い飯田橋を利用することが多くなり、次に定期を買うときには上野回りで飯田橋でも降りられるようにしたうえで、市ヶ谷までの定期を買うようにしました(経路を変えるときに、駅員さんに嫌な顔をされましたが)。

手帳以前記事に書いたことがありますが、大学生当時、どこの店に誰と行ったか、大体手帳につけていました。

これから記すお店の名前は、大学4年間の手帳(左画像)に出てくる市ヶ谷、飯田橋周辺の飲食店他の一覧です。今はもうなくなってしまったお店も沢山出てきます。一人で行ったお店、サークルの仲間と行ったお店、カミさんと行ったお店...どの店も懐かしいお店です(手帳に出てきた順、一店につき一度のみ記載)。


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dennismoore1988 at 18:03|PermalinkComments(3)clip!お店紹介(お食事系) 

2016年11月27日

『BGM』と『テクノデリック』

BGM テクノデリック小学生の時に"テクノポリス"で出会って、聴き続けていたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)。

ファンになってからリアルタイムのアルバムとしては『パブリック・プレッシャー』(ライヴ・アルバム)、『増殖』、それから前にさかのぼって『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』、デビュー盤の『イエロー・マジック・オーケストラ』。全部聴きました。

『増殖』では曲の間にスネークマン・ショーのコントのようなものが収録されているのが新しい試みではあったものの、音楽的にはそれまでの作品と同様、電子的でポップな音楽でした。


そして、その後にリリースされたのが『BGM』(1981年3月リリース。トップ画像左側のLPレコード)。私は中学生になろうとしていた頃でした。

これがもう、音楽的にガラッと変わっていました。全然ポップではなく、なにか暗くて地味で重々しく、まだ子供の私にはつまらなく感じました。特にSide-2の"Cue"はまだいいとして、その後は理解できませんでした。最後の"Room"なんて、「ナニコレ?」という感じ(笑)。映画『2001年宇宙の旅』の最後の方みたいで、不気味にすら感じていました。

ジャケットのイラストも意味不明だし、この頃から温泉のマークなんかを使いだして、「YMOは迷走を始めたのか?」と、当時の私は思いました。少なくとも私には、セールス的には「いい方向」への転換だったようには思えず、ワールド・ツアーの成功で社会現象にまでなったYMOの一大ブームが、やや落ち着いてしまった感じになりました。

それに追い打ちをかけるように、同じ年の11月には『テクノデリック』(トップ画像左側。これは初回盤のジャケット。現在CDで売られているジャケットは全く別物です)がリリースされました。音楽の雰囲気、路線的には『BGM』を踏襲しているように感じられました。その中で"体操"なんて、ちょっとおふざけ気味の曲もあって(PVもふざけた感じでした)、「やっぱりYMOは迷走している」と感じたものです。やっぱりこのアルバムも、最後の二曲(連続性のある二曲)が、私には理解できませんでした。

シングル左画像;アルバム『BGM』からのシングル二枚。

1981年の11月から年末にかけて、この二枚のアルバム収録曲を中心に国内ツアーが行われ、それは私がYMOファンになって初めて彼らのコンサートに行くチャンスでしたが、この2枚のアルバムがあまり好きになれなかった私は見送りました。関東地方でのコンサートの回数が少なく、チケットを取りにくかったという面もありましたが、高橋 幸宏のソロ・コンサートやイベントなどには友人たちと積極的に行っていたので、恐らく半分意図的に行かなかったのだと思います。YMOに対する私(や、同じYMOファンだった友人たち)のテンションが下がりつつあったことは事実です。

その後、一転して"君に、胸キュン"(1983年)で、私が望むものとは別方向でポップな音楽になってしまい、徐々にYMOから離れていきました(その分の私のエネルギーはビートルズへ)。



あれから三十数年...

いま改めて聴くと分かります。

『BGM』も『テクノデリック』も、大傑作です。初期のポップな時代の音楽よりも、全然飽きがきません。小学生、中学生には難しすぎる音楽だったのです。



dennismoore1988 at 17:01|PermalinkComments(2)clip!音楽(ロック・ポップス) 

2016年11月26日

Tamulevich Artist Management

Tamulevich Artist Management

現在マイケル・ジョンソン(MJ)のマネジメントをしている会社のHPを見つけました(↑のリンク)。

代表?を務めるDavid Tamulevichは、Mustard's retreat(マスターズ・リトリート)のメンバー。MJと共演していて当たり前でした(笑)。

ピーター・ヤーロウのブッキングも行っているようで、先日の記事に書いたようなコンサートが実現したのでしょう。

『Moonlit Deja Vu』他のブッキング・アーティストとしてJohn Gorkaの名前もあります。もともとMJが2012年にニュー・アルバム、『Moonlit Deja Vu』をリリースする前に、このJohn Gorkaと出会い、彼の紹介でRed house recordsと契約した、ということを以前記事に書きました。その流れでこのTamulevich artist managementに所属することになったようです(後述のバイオグラフィーのページに詳しく書かれています)。私が持っているMustard's retreatのCDもRed house recordからリリースされています。

気になるのはTamulevich artist ManagementのHPで、MJのバイオグラフィーのページ。『Moonlit Deja Vu』リリース後の記載だと思いますが、こんなことが書かれています。

"A new CD is in the works, scheduled for a Fall 2014 release."

予定から二年経ってしまいましたが(笑)、とりあえず新作への意欲を持ち続けているということが確認できました。




dennismoore1988 at 12:59|PermalinkComments(2)clip!Michael Johnson 

2016年11月23日

『太陽の街・大宮』

私が卒業した中学校のチャイムは、一般的な学校のチャイム(ウエストミンスターのチャイム、もともとはイギリス、ロンドンのビッグベンの時計塔の鐘の音。リンク; https://www.youtube.com/watch?v=M7eULb8VchU (Youtube))ではなくて、変わったメロディーのチャイムでした。

確か何かの歌のメロディーで、そのもとになる歌は、その中学か小学校の時か忘れましたが、お昼のお弁当(小学校だったら給食)とか掃除の時間なんかにスピーカーから、たまに流れることがあったような記憶があります。歌詞に「大宮」という言葉が入っていたような記憶がありますので、大宮に関連する歌だったのかもしれません。歌は女性でした。

私の中学校は周りに小学校、高校、保育園まで隣接しており(保育園は分かりませんが、小・中・高は普通の公立です)、他の学校のチャイムと混同しないように、そのように変わったチャイムにしていたのかもしれないと、今になって考えるとそう思います。あの中学校では、今でも同じチャイムを使っているんだろうか?。

そのまま曲名も分からず、その後ネットで調べてもずっと解決していなかったのですが、今年になってようやく曲名が分かりました。


『太陽の街・大宮』 作詞;白鳥 朝詠、作曲;吉田矢 健治 唄:真理 ヨシコ、ボニージャックス


この曲のレコード(ドーナツ盤)がネットオークションに出ていて、そのページを見つけました。簡単な楽譜が出ていて、この歌があのチャイムのもとになっていることに間違いありません。残念ながら音源は発見できませんでしたが、曲の名前が分かっただけでも私にとっては大発見です。

レコードのジャケットには旧大宮市の市章とともに、「大宮市民の歌 市制施行30周年記念」と書かれています。大宮市は1940年に誕生していますので、レコードができたのは1970年(昭和45年)頃でしょうか。ジャケットに出ている、空から大宮駅周辺を写した写真には、まだ高島屋が見当たりません(大宮高島屋は1970年11月オープン)。レコードのB面は「世界はみんなお友達」(笑)。ジャケットには価格が出ていないので、一般には売られずに配られたりしたレコードなのかもしれません。

合併して大宮市もなくなってしまったし、今後この歌にスポットライトが当たることはないでしょう。だれか音源を持っている人が、Youtubeにアップしてくれないかしら(笑)。


dennismoore1988 at 13:10|PermalinkComments(2)clip!街の記憶 

2016年11月19日

銀座コージーコーナー飯田橋ラムラ店

コージーコーナー飯田橋ラムラの一階に、「銀座コージーコーナー」があります。

ここのコージーはケーキの売店だけではなく、カフェ、レストランも併設しています。レストランも併設しているコージーは、現在東京、神奈川で4店舗。そのうちの一店がここ、飯田橋ラムラのコージーです。

私が大学に通っていた頃からあり、大学一年の時にサークルの練習の後、先輩に連れられて初めて入りました。私は恐らく、その時初めて「銀座コージーコーナー」というお店を知ったと思います。当時1980年代後半...大宮あたりでもコージーはなかったんじゃないだろうか。もしケーキの売店くらいはあったとしても、高校生、予備校生の頃は外でケーキを買う習慣なんてないですから(笑)。今は大宮駅構内の、東口の外へ出る途中の目立つ場所にケーキの売店があります。

大学時代でも、コージーへ行くときは割と懐に余裕があるとき(笑)。それでも食事というよりはケーキセットくらいしか頼まなかったと思いますが。店内は普段行く居酒屋や喫茶店よりも高級感があって、お上品。喫茶店だったら私の場合、普段は昭和の香りが漂う「白ゆり」の方が行きつけでした。

当時コージーには「ストロベリーシャンテリー」という伝説的なメニューがありました。苺をたくさん使ったパフェのようなメニューで、ものすごく大きく、確か値段が当時1,400円だったと思います。パフェ一つに1,400円は、大学に入ったばかりの学生には高すぎます(笑)。大きなパフェだったら「白ゆり」のチョコパフェデラックスなら1,000円しないし、みんなの中で話題にはなりましたが、実際に頼むことはなく...それでも女性の先輩が二人か三人で頼んでいるのを見たことがあります。

ネットで調べると、ストロベリーシャンテリーは現在通常メニューにはなく、たまに復刻されることがあるようです。検索すると画像も出てきますが、昔はもっと圧倒的な大きさだったような...。ネットに出てくるストロベリーシャンテリーは1,200円とか1,000円となっているので、昔のものよりも小さめのサイズなのかもしれません。


コージーコーナージャンボシュークリーム店先にはこんなポスターパネルが。

ジャンボシュークリーム800000000個突破!

1984年以来、販売数が8億個を突破したそうです。右は9月に地元のコージーで同じポスターを見たので買ったもの。115円(税別)でした。私が初めてこのシュークリームを食べた時は100円(恐らく消費税もありませんでした)で、この大きさで100円はスゴいと思いました(それでも昔より小さくなったような?。気のせい?)。

現在は、普通のスーパーでもたまに特売のような形で店頭に並ぶことがあります。



dennismoore1988 at 15:21|PermalinkComments(4)clip!お店紹介(お食事系) 

2016年11月17日

『To find my son』

何日か前、相次いで飛び込んできたレナード・コーエン("Bird on the wire"の作者)とレオン・ラッセルの訃報のニュースをネットで見ていて、関連ニュースのところに、ロバート・ヴォーンの訃報が出ていました。ロバート・ヴォーンが亡くなったのも11月11日と、つい最近の出来事です。

『荒野の七人』ロバート・ヴォーンと言えば私の中では『荒野の七人』(1960年)。腕利きの賞金稼ぎだけれど精神的に追い込まれて神経質なガンマンを演じていたのがロバート・ヴォーンでした。そして、「七人」のガンマンを演じた俳優で、最後に残ったのがロバート・ヴォーンでした。


Wi○ipediaでロバート・ヴォーン→『荒野の七人』と見ていて、そこから『七人の侍』(1954年)へ。もちろん、『荒野の七人』は、『七人の侍』のハリウッド版ですから。でも実は私、『七人の侍』はちゃんと観ていないんですよね。歴史ものとか舞台が古い日本の映画とかはあまり好きではないのと、子供の頃黒澤 明の映画で『七人の侍』とか『羅生門』などがテレビで放送されても白黒で画質が悪かったし、セリフが聞き取りにくいという原体験がありまして、あまり黒澤映画は真剣に観ていなかったのです。唯一、黒澤作品で好きな映画は『生きる』(1952年)です。

『七人の侍』の項に飛んでみると、そこに書かれた制作に関するエピソードなどが興味深く、やっぱりこれからでも真剣に観ないとダメだと思いました。世界的にも評価が高い作品ですし、もともと『荒野の七人』は大好きな映画ですから。


Wi○kipediaの『七人の侍』の項を見ていると、リメイク版として『荒野の七人』ともう一つ、『宇宙の七人』(1980年、原題"Battle beyond the stars")が紹介されていました。


あ〜、『宇宙の七人』、あったなぁ(笑)。以前テレビで放送されたことがあって、録画してみたけれど全然心に残りませんでした(笑)。正直言って、あんまりおもしろくありませんでした。

※追記;調べてみたら、『宇宙の七人』にはロバート・ヴォーンも出演しているみたいです。

その『宇宙の七人』を、録画してまで観てみようと思ったのは、私が好きな俳優が出演しているから。


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dennismoore1988 at 23:14|PermalinkComments(2)clip!映画 

2016年11月13日

RAMLA呑み

RAMLAJR・東京メトロの飯田橋駅に隣接したビル、セントラルプラザ。上層階は住宅・オフィスになっていて、一階、二階はRAMLA(ラムラ)というショッピング・グルメゾーンになっています。調べてみると左画像の手前がオフィス棟で、奥に見えるのが住宅棟らしいです。上まで上がったことはないですが。

いいなぁ、こんなところに家があったら。都会のど真ん中じゃないですか。もし私が大学生の時にここに住んでいたら、絶対に終電の心配がいりません。そのかわり、毎日のように友人が押しかけてきそうですが(笑)。

ちなみに、賃貸の家賃を調べてみたら、やっぱりそれなりにお高い(笑)。築年月が1985年となっているので、私が大学に入った頃は、まだ出来て3年くらいという新しい建物だったんですね。

大学が市ヶ谷駅と飯田橋駅の真ん中あたりにあって、サークルが終わった後に食事や飲みに行くときにどちらも使えましたが、どちらかというとそういうお店が沢山あって、神楽坂も近く繁華街的な雰囲気もある飯田橋の方に流れていくことが多かったと思います。

一階飲食店街その中でもラムラには飲食店街があって、お酒を飲むお店はそんなになかったと思いますが、食事の時に重宝しました。

左画像はラムラ一階の飲食店街。当時のお店はほとんど残っていませんが、カミさんともよく来ました。

飲食店だけでなく大きな本屋や、今はなくなってしまったけれどCDショップ、結構大きな文具店などもあったので、大学へ行くときに飯田橋で降りる私は、行き帰りによくラムラで時間を過ごしていました。



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dennismoore1988 at 17:06|PermalinkComments(2)clip!街の記憶 

2016年11月12日

法政大学再訪2016

法政大学2016法政大学2016久しぶりに市ヶ谷の、法政大学を訪れてみました。2011年以来でしょうか。

私が在学中、キャンパスのメイン校舎だった55・58年館の取り壊しが決定しています。

トップ画像は、お濠の反対側から撮影した現在の法政大学。見える部分で、私が在学中(1980年代後半から1990年代前半にかけて)に存在していた建物はありません。すべて卒業後に完成した建物です。

※黒いぼんやりしたものが写っていますが、デジカメが古くなってきたので内部の汚れか何かが写ったものです。そろそろ買い替え時か。


法政大学1989左が当時(私が在学中)の法政大学(1989年、私が撮影したもの)。上の画像と同じようなアングルから撮影しています。手前から右奥にあるのが53年館(ボアソナードタワー建設のために取り壊し)。左奥に伸びるのが55・58年館(両方合わせて一つの建物)。総武線もまだ全体が黄色い車両です(笑)。

法政大学だけでなく、周辺の様子もだいぶ様変わりしました。

現在、55・58年館の取り壊し・建て替えが決定していて、手前に富士見ゲートという施設が完成しています(本年度秋学期より利用開始)。トップ画像の正面に見える横長の窓の建物がそれにあたります。

富士見ゲート55年館左画像は正門の手前から。富士見ゲート越しに見える58年館。

55・58年館は一部取り壊しも始まっていて、右画像は55年館エレベーターホール。本来白い壁の奥には511教室という学内最大か二番目か、とにかく大教室がありましたが、取り壊しの最中のようです。法政大学HPによると、55・58年館全体の解体は2019年4月から、ということです。

学生会館がなくなり、62年館がなくなり(他に私はそんなに使う機会がありませんでしたが前述の53年館、田町校舎や69年館もなくなっています※追記参照)、55・58年館がなくなると、本当に私の記憶の中の法政大学の施設というのは、殆ど消えてしまいます。

まぁ、これも時代の流れですかね。確かに、東日本大震災の少し前に55・58年館に行ったときに、壁や天井など結構ヒビ割れがあって、補修した跡が見えていましたから。その後東日本大震災があって、法政からも近い九段会館で天井板崩落事故があって、死者も出てしまいましたし。

55・58年館メモリアル写真集55・58年館メモリアル写真集生協に立ち寄ってみると、こんなものが売られていました。

「55・58年館メモリアル写真集」

こんなもの、私が買わないわけがないでしょう(笑)。ということで購入(800円)。


表表紙の写真は現在の法政大学(これは模型ですかね?)、裏表紙はかつての、ボアソナードタワーがない時代の法政大学。

58年館写真の上下のパターンはもちろん、55・58年館の外壁パネルのパターンを表しています。





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ボールペンそれともう一つ。法政の名入れボールペンを購入(パイロット社製)。

法政と言えばオレンジ。でも、このマークも、私がいた頃にはなかったマークです。調べたところ、2013年から使用しているブランドマークだそうです。




※追記:法政大学HPを見てみると、62年館はリノベーション、69年館は改修してそれぞれ新しい施設になっているとあります。すっかり昔の面影がなくなったことは事実です。

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dennismoore1988 at 20:15|PermalinkComments(4)clip!街の記憶