旅行・銭湯・鉄道

2021年10月03日

旅の撮り鉄1

鉄道の写真を撮るために遠くに出かけることはありませんが、旅先では鉄道の写真をよく撮ります。やはりこれも、子供の頃大宮駅などで電車の写真を撮っていた習性の名残でしょうか。そのために、カミさんを足止めさせて待たせることもしばしば(笑)。

長良川鉄道ナガラ300型長良川鉄道ナガラ300型長良川鉄道 ナガラ300形(2005年)

どちらも恐らく、自分が乗った同じ車両。

左画像は美濃太田駅で撮影。右画像は郡上八幡駅で撮影。


名鉄パノラマカー7000系/7500系


名古屋鉄道 パノラマカー7000系/7500系 岐阜駅(2005年)


上の画像と同じ旅行の時の撮影。旅のメインは愛・地球博で、名古屋と岐阜に宿泊。他に岐阜城、郡上八幡城、犬山城へ行きました(城好き)。この辺りでもっとも有名なお城、名古屋城へは前年の2004年に行っています(笑)。

画像のパノラマカーは2009年に引退。関東の人間としては、こういう車両を見ると小田急のロマンスカーを連想してしまいます。画像は普通電車。普通電車でこんな車両に乗れるなんて、すごいですね。

鳥羽駅

近鉄・JR鳥羽駅 (2004年)


名古屋城夫婦岩伊良湖、鳥羽に宿泊。この時に名古屋城へ(左画像)。

他に伊勢神宮、二見を観光。二見ヶ浦へ行ったのは小学生の時の家族旅行以来。夫婦岩(右画像)の造形が好きで、夫婦岩が図案になっている切手を集めていたことがありました(笑)。




キハ85系・311系


キハ85系(特急ひだ)、311系 岐阜駅(2005年)

左の85系は電車ではなくて気動車です。


113系成東駅113系 成東駅(2005年)

子供の頃から東北線(宇都宮線)に乗っていた私にはなじみのある見た目の車両ですが、色(横須賀色)に違和感があります。東北線(宇都宮線)は緑とオレンジの湘南色ですから。

でも、普段見ない色だからこそ、旅先などでこの色の電車を見るとウキウキします(笑)。113系は、房総方面では2011年に引退しているそうです。宇都宮線でも、もちろんこのタイプの車両(宇都宮線は115系)はすでに引退しています。地方に行けばまだ見られるんでしょうか。

右画像は画像を撮影した成東駅。ホームの大部分には屋根もない牧歌的な風景ですが、ホームと駅舎の配置が、1980年代半ばの岩槻駅(東武野田線)を思い出させました。

岩槻駅2009岩槻駅2016左画像:東武鉄道岩槻駅(2009年) 右画像:同駅(2016年)

東武ストアがなくなってしまったり、以前はなかった北口が出来たり、駅舎も含めてこの駅周辺はすっかり変わってしまいました。初めて行ったとき、駅前通りに人形店がずらりと並んでいたり墓地があったりと、家からそんなに遠くないところなのにカルチャーショックを受けました。

街自体は城下町で古く、本来埼玉県の県庁は岩槻に置かれるはずだったと、岩槻の人間が力説しているのを聞いたことがあります(改めて調べてみたら、実話らしいです)。


183系


183系特急しおさい 銚子駅(2005年)

見た目は大宮駅でもよく見た特急車両ですが、ヘッドライトがないこのタイプは、大宮であまり見たことがありません()。

183系とき※追記

全然走っていないこともなかった(笑)。1979年頃、大宮駅で撮影した183系特急とき



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まだ沢山画像があるので、次の機会にします(笑)。

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2021年09月16日

国電への憧れ

今日はワクチンの2回目だったのですが、今のところ前回同様の腕の痛みだけです。

京浜東北線

京浜東北線103系(昭和53〜54年頃 大宮駅)

子供の頃、山手線、京浜東北線などのいわゆる「国電」に対する憧れがありました。同じような車体で、色にバリエーションがあって、電車カタログ的な気持ちで見ていました。私の場合、大宮へ出なければ見ることもできませんし、乗る機会だって、せいぜい親と東京に出た時に、上野から少し移動するのに山手線に乗るくらい(あと、たまに親戚の家に行くときに乗る武蔵野線も、中央線の古い車両を使っていたと思いますが、やっぱり都心で乗らないと・笑)。「大きくなったら国電に乗る」というのは、小さい頃の私の夢でした。


京浜東北線

京浜東北線103系(昭和54年頃 大宮駅)

向こうのホームに停まっているのは、クリーム色の東武野田線。

こちらも同じ京浜東北線103系。上の写真の車両と運転席の窓の感じが違いますが、同じ103系なんだそうです。調べて初めて知りました。上の、窓の縦幅が小さいタイプは、高運転台と言って事故対策や視認性向上のために改良されたものだそうです。

私は、ずっと上のタイプが103系で、下の窓が大きいタイプが101系だと思っていました。

で、私はどちらかと言うと下の、窓が大きいタイプの方が好き。上のタイプは「顔」と考えてみた感じ、エラそうじゃないですか?(笑)。

101系101系こちらが本物の101系。2014年に、さいたま市の鉄道博物館に展示されていたものを撮影。

まぁ、そっくりなんですけれど(笑)、いくつか見分けるポイントがあるそうです。

博物館に展示されている車両の中で、この101系は中に入ることもできます。写っている座っている人は私ではありません(笑)。この電車のシート、懐かしい(笑)。しかも扇風機ですよ。普段私が乗ることが多い宇都宮線(昔は東北線と呼んでいましたが)は、二人掛けのシートが向かい合わせになった「クロスシート」というタイプのシートが主流で、こういうシートさえ珍しい対象でした。ドアも4ドアだし(当時の宇都宮線は恐らく殆ど3ドア)。

京浜東北線こちらは現在の京浜東北線の主力車両E233系(2012年、赤羽駅)

なんとか国電に乗りたい私は、小学校高学年くらいになって私一人や、友人と東京へ行く用事ができると(友人のR.H.と上野に電車の写真を撮りに行ったりしたことがありました)、大宮で宇都宮線から京浜東北線に乗り換えて、各駅停車で時間をかけて行きました。大宮始発だから絶対座れますしね(笑)。

そのときに驚いたのが、王子駅と上中里駅の駅間の短さ。走り出したと思ったらすぐに駅に着きました。駅間は1.1キロくらい。普段、最低でも駅から駅まで5分くらい(土呂駅はまだない)の宇都宮線に乗っていた私たちはびっくりです。

山手線大宮での鉄道写真撮影に飽き足らず、R.H.と初めて上野に電車の写真を撮りに行ったとき、フィルムが露光してしまって、現像に出してみたら左のような出来損ないの写真が二、三枚しか戻ってきませんでした(笑)。上野駅で撮影した山手線です(昭和54〜55年頃)。


大宮に住んでいた頃、大人になって大学生の頃や社会人になってからも、休みの日で時間があるときだったら、東京へ出るときに大宮から京浜東北線に乗るというのはよくやっていました。

日常的に国電に乗るようになったのは、予備校に行くために千駄ヶ谷に通い始めた時でした(1987年頃)。その時には埼京線という新しい路線が誕生していて、最初の頃は山手線のカラーの103系が使われていました。もともと赤羽ー池袋間をピストン輸送していた赤羽線という路線も国電タイプの車両を使っていましたが、赤羽線は前の方と後ろの方で車両の色が違ったりする、おかしな路線でした(W〇kipediaにもそういう画像が使われています)。



あぁ、そういえばこの記事を書くために撮影した電車の画像を探していて、こんな画像が出てきました。

飯田橋駅飯田橋駅恐らく、以前のJR飯田橋駅のホームです。

ホームが曲線を描いているのが分かると思います。

右側の画像は、これだけだと隙間が最大のところかどうか、そしてこの隙間がどれだけのものなのかもよくわかりませんけれど(笑)。

撮影は2017年6月となっています。私が、飯田橋駅のホームが移設されることを知ったのがこの年の年末くらいでしたので(駅舎がなくなっていたのを見て調べました)、そのことを知らず「やっぱりここのホームはひどいなぁ」と思いながら、何となく撮影していたもの。


子供の頃は、電車の写真といっても一回撮影してフィルムを現像に出すと1500円から2000円くらいしますから、そう頻繁には撮影できないわけで(フィルムだってお金を出して買いますし)、あの頃デジカメがあったらもっと大量に電車の画像が残っていたと思います。そんな当時の欲求を満たすために、今でも普段デジカメを持っているときに、電車を見かけるとなんとなく撮影してしまいます(笑)。

この画像を撮影した同じ日に、秋葉原駅のホームで撮影した珍しいもの。

カラス(中途半端に)白いカラス?









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2021年08月03日

おおるりグループ

ネットでみかけた記事

「『宿泊客が激減、温泉ホテルや旅館の閉鎖も...栃木・群馬・静岡3県で展開のグループ(読売新聞オンライン 7月31日付』

栃木、群馬、静岡3県で温泉ホテル・旅館12館を展開する「おおるりグループ」(斎藤正洋社長)が、日光市の鬼怒川温泉の「ホテルニューおおるり」など10館を8月末で閉館し、売却することが分かった。塩原温泉と、群馬・草津温泉のホテル2館は営業を継続する。新型コロナウイルス感染拡大の影響で激減した宿泊客回復の見込みが立たないと判断した。」


まぁ、コロナ禍に於いてそんなに積極的に旅行もできなくなってしまいましたから、旅行業界も大変ですよね。

おおるりグループ、私も一度だけ使ったことがあります。先日記事にした草津のホテルがおおるりグループでした。

おおるりグループは記事の3県で、全てそうではないかもしれませんが、もともと営業していた規模が大きめなホテルの経営状況が悪いところを買い取って激安展開していたグループで、草津のホテル以外にも私がかつて普通のホテル・旅館として営業していた時に行った所で後に「おおるりグループ」に成り代わったというところがいくつかあります。


おおるり



湯けむり号おおるり画像は、2008年頃入手した同グループのパンフレット。

宿泊料金が施設によって変わりますが、365日同一料金で1泊2食付きで5,000円台から7,000円代くらい(当時)。

土日も同一料金というのは嬉しいですし、それに加えて、宿へ行くのに専用のバスを出していて、それがまた破格の料金でした(都内などのターミナル駅に集合。このパンフでは一人往復で300円となっています。もっと前は確か無料でした)。草津は電車で行くと途中でバスに乗り換えたり面倒だし、交通費も結構かかりますからね。それだけ考えても楽だし安いです。

料金が激安なので、料理はまぁそれなりですけれど、もともとは一流として営業していたホテル・旅館なので宿からの眺望や温泉、部屋などの施設は、満足できるところが多かったと思います(私は、おおるりグループとして営業しているホテルは一カ所しか行ったことがないですけれど、前に行ったホテルで後にグループに吸収された所などを考えても)。

私が行った草津のホテルは、2018年には閉館しているみたいなので、コロナとは関係ないみたいです(笑)。湯畑からも近い、いいホテルだと思いましたけれどね。

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2021年06月20日

草津湯畑ライブカメラ

コロナ禍とは関係なく、家の事情で最近は宿泊を伴う旅行はしていませんが(最後に旅行に行ったのは2009年)、ここ数年、PCを開いているときにYoutubeでよく見ているのが、草津湯畑のライブカメラ。

草津湯畑


こんなアングルのライブカメラです(画像は2008年撮影)。湯畑のライブカメラは別アングルの物もありますし、草津周辺では西の河原公園とか、白根山を映したライブカメラとか、いくつかライブカメラがあります。

中でも上のアングルのカメラには観光客が沢山映りますし、なんとなく自分も湯畑の前にいるような気分になって、旅行気分を味わえます。最近は、普通に観光客がいますね。


草津も、いつかまた行ってみたい場所の一つです。

初めて行ったのは小学校5年の時。小学校の林間学校でした。

広縁広縁その時に泊まったホテルのことを覚えていて、同じところに泊まろうと思ってカミさんと行ったのが2002年。そして、2008年に再びカミさんと同じホテルに泊まりました。

左画像は、そのホテルの部屋と広縁。小学校の旅行(学年で200人弱)にしてはずいぶんまともな宿に泊まったなと思います(部屋の中の雰囲気など、全然覚えていないですけれど)。

夕食2002夕食2008左が2002年の旅行の時の夕食、右が2008年の旅行の時の夕食。同じホテルです。全然違う!(笑)。

2008年に泊まった時には、激安チェーンに吸収されていて、宿泊料金も大分安くなっていましたので仕方ないか。

そのホテルも、2018年に営業終了したようです。じゃあ、今度草津に行くときは別のところか。

そのホテルに思い入れがあったのは、小学生の時に行ったとき、ホテルの支配人さんが私と同姓でして(笑)。そんなにどこにでもいる姓ではなかったので、ホテルに着いたときに先生から私だけ呼ばれて、直々にご挨拶した記憶があります(笑)。

草津白根山湯釜左画像は草津白根山。

小学校の旅行でも行きましたし、草津に行くたびに行っていますが、ここも2018年の噴火があったり、画像のところまでは行けないんでしょうね(2008年撮影)。




温泉まんじゅう温泉まんじゅうも、また食べたい(笑)。

※関連記事

§夏の旅行

§草津旅行記 1

§草津旅行記 2

§草津旅行記 3

§温泉まんじゅう

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2020年05月31日

広縁(その2)と旅メシ

考えてみたら、今使っているパソコンとか、容量が少なくなったらそのまま保存しているデジカメのSDカード(2009頃からそのようにしています)に、旅行関係の画像はそんなに残っているはずがないということに気づきました。私がよく旅行に出かけていたのは2008年頃までのことでしたので。

紙の写真のアルバムや、以前のPCのハードディスク(PCを処分するときに、業者に依頼してハードディスクだけ取り出してもらって残しています)を見たら、旅行関連、そして広縁など部屋を撮影した写真、画像が沢山出てきました(笑)。

1997伊東S荘1997伊東S荘§1997年伊東旅行 ホテルS荘(営業終了)

ここは街中のホテルでしたので、広縁からの景色はそんなに大したことはありませんでしたが(でも、横を何の変哲もない川が流れていたかな?)、大体私の考える広縁のスペースです。

広縁の画像だけでは寂しいので、旅行の時の食事(夕食)の画像も掲載しておきます(笑)。



伊東N1998伊東N§1998年伊東旅行 旅館N(現在不明)

どういう経緯だったのか忘れてしまいましたが、この時はまず熱海へ行き、そこから伊東に行って、その場で観光案内所のようなところで宿を探して泊まったという記録が残っています。

最初からそういう予定だったのか、日帰りで熱海へ行くつもりが泊まってしまおうということになったのか、経緯を全然覚えていません(笑)。広縁が二方向にあるような部屋のようですね。テーブルセットは一つだけ。しかし、ここも街中で窓の外は他の建物が近く、しかも一階だったため景色の方は全然...。

1998伊東Nでも、急遽決めた宿なのでそんなに期待していなかった夕食で、この刺身、特にまぐろ(中とろ)がとても美味しかったことは記憶に残っています。

伊勢エビもありますね。私が伊勢エビというものを初めて食べたのは、仕事関係で取引店のパーティーに出た時のことです。

そんなに大きなパーティーではなくて、小さな一軒のお店が内装、外装を新しくしてリニューアルしたことを祝うパーティーで、出席者も20人いるかどうかというものでしたが、そこで伊勢エビの刺身が出まして(海とは全然関係がない場所です)、「こんなに美味しいものがあるのか」と(笑)。

私が旅行の宿泊先を決めるときは、旅行会社の店先に置いてあるパンフレットを見て、その旅行会社で決めることもよくありましたが、そんなときには「伊勢エビ付き」とか「舟盛付き」とかいうプランをよく選んでいました(笑)。そうなると自然と、伊豆方面の旅行が多くなるんですよね(笑)。

1998稲取Kホテル1998稲取Kホテル§1998年 伊豆旅行 Kホテル(営業終了)

ここは、窓の外がひたすら海。

しかし、街中から離れ過ぎていて本当に海しかなくて、ちょっと物悲しい雰囲気でした。観光ホテルだけ数軒立ち並んでいるエリアです。


05千葉05千葉§2005年 千葉旅行 国民宿舎(現在は民営としてリニューアル)

ここも目の前は海。でも、海との間に車がよく通る道路とか、何かあるだけでもまた雰囲気が違いますね。ここはそういうところでした。椅子とテーブルがややショボい気がしますが(笑)。

国民宿舎は通常の夕食だと民間の旅館、ホテルには少し見劣りがしますので、国民宿舎に泊まるときにはなにか一品料理を追加することにしています。

前もって刺身盛り合わせ(2〜3人分)というのを頼んでおいて出てきたのがこれ。

05千葉


これ、2,3人分ですか?。4〜5人分と言ってもいいレベルだと思います(笑)。よく見たら右側に値段表が写っていますね。4〜5人前と間違えたのでしょうか?(何年後かに、もう一度行ったときに同じものを頼んだら、やっぱり同じくらいのものが出てきたので、間違いではないようです)。私は刺身だったらいくらでも食べられるのでいいですが(笑)。

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※コレジャナイ広縁

伊良湖04伊良湖・鳥羽§2004年伊良湖・鳥羽(伊勢志摩)旅行 国民宿舎(営業終了)


椅子が一つ。これじゃない(笑)。肘掛けもないし。

これでは寛げませんね。椅子が一つなのは一人旅だったらまだいいかもしれませんが。

部屋も二人ではやや狭い感じでした。もしかして、本来は一人用の部屋だったのかな(笑)。夏休みのハイシーズンではありました。

04伊良湖・鳥羽


この時にも刺身の盛り合わせを別注。


1999ホテルJ§1999年伊豆旅行 ホテルJ(現存)

上の方に広縁が見えます。

これじゃないんです。広縁の椅子は、脚付きの椅子でなければ!(笑)。

これじゃ、客室の座椅子に座っているのと気分が変わらないじゃないですか。


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※おまけ

1995鳥羽Pホテル§1995年伊良湖・鳥羽(伊勢志摩)旅行 Pホテル(営業終了)

初めての舟盛(笑)。

これが、その後の旅行ラッシュの原点だったかもしれないですね。

ここ数年、家で刺身を食べるときにはロヂャースで刺身を買ったときに入っていた寿司桶のような容器(プラスチック製、しっかりしたもので直径25センチくらいの円形)に入れて食べていましたが(3つくらいとっておいた)、引っ越しの時に(私にしてみたら)泣く泣く処分してしまったので、最近はあまり刺身を食べる意欲もなくなっていました。

実際、こちらで刺身を買ってきて食べたのは10回もありません。どこで美味しい刺身が買えるのかもよく分かりませんし。でも、こういう画像を見ていたら、ふつふつと刺身欲が湧いてきました(笑)。

川越のロヂャースにもあの容器に入った刺身売っているかな(でも、移動距離が...)。それとも、通販で舟盛の容器(調べたら結構売っていました)を買ってしまおうか。


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2020年05月23日

河口湖とゴダイゴ

ゴダイゴのギタリスト、浅野孝已氏が亡くなったときに、ネットを色々見ていて、あるページを目にしました。それは浅野氏のfacebookのとある日のページです。

(一部引用)

「4月に入り桜も見頃になりましたね。
所用で河口湖に来ました。
3人目の孫の安産祈願もして来ました。
昔ゴダイゴでLiveに来たのが懐かしいなぁ。
大好きな富士山をみてパワーを頂きました。」


2017年の書き込みなので、そうですか...三人目のお孫さんが生まれていれば、おじいちゃん(浅野氏)の記憶はまだこれから、という時期だったんですね。亡くなってしまったのが本当に残念です。


ゴダイゴ浅野氏は、ゴダイゴがブレイクした後の昭和54年に結婚されています。左は月刊明星昭和54年10月号の付録。ゴダイゴに関する小冊子(これだけはずっととっておいた)。こちらにも記述があります。当時姉が浅野氏のファンだったので、とても残念がっていました(笑)。

でも、ゴダイゴとしてもそれ以外でも、日本中色んなところで演奏されたと思うのですが、河口湖でのライヴを特別に覚えていただいていたというのはうれしい話です。それは、これまでブログにも何度も書いているように、その河口湖でのゴダイゴのライヴは、私が唯一自分の目で見たゴダイゴのライヴだからです。


河口湖に大きな音楽ホールなどは恐らくないと思いますので、浅野氏が言及しているライヴというのは、昭和54年(1979年)に行われた、湖上祭のイベントの一部として行われた無料コンサートのことだと思います。当時私は小学生。私の家ではその頃、よく河口湖に旅行に行っていて、その年はゴダイゴのライヴの話が前もって分かっていたので、わざわざ日程を合わせてもらって家族4人で河口湖へ行ったのです。

河口湖の湖上祭というのは、恐らく今でも毎年行われているイベントで(今年は休止のようです)、曜日関係なく毎年同じ日に行われます(8月4日、5日頃)。メインは花火大会。私はこの時の旅行で初めて、大きな花火大会を間近で見ました。

例年は湖上祭の時期は沢山人が来るし旅館も予約が取りにくいので、父が旅行を計画するときにその時期を外していたようですが(行くのはいつも夏休みの時期)、その年はゴダイゴ見たさに日程を合わせてもらいました。


ライヴ当日、旅館で朝ご飯を食べた後、チケットをもらうために湖の近くの指定の場所へ行き、家族4人で延々と並び続けました。そして、その並んでいる間に衝撃の光景を目撃しました。なんだか業者の人がやってきて、ジュースの自動販売機をいじっているのです。なんだろうと思って列から離れて見に行ってみると、ジュースの値段が高くなっていました(笑)。

例えば、もともと100円のジュースだったら150円とか。湖上祭に合わせて値上げしていたんでしょうね。やっぱり、湖上祭の時期は外した方がよさそうです(笑)。まぁ、最近では観光地でもジュースが高いなんてことはなくなりましたけれど、昔はよくありましたよね。またこのとき、河口湖では私がそれまで見たことがなかった、ファンタレモンを売っていたことも印象的でした。


何とか4人分チケットが取れました(無料なので、チケットというよりは整理券)。普段は駐車場として使用しているような広いスペースに特設ステージを作って、客席の椅子もあったと思います。イベントの一部なので、ゴダイゴは途中から出てきて数曲演奏したくらいだったと思います。それでも30分から1時間くらいは演奏したのでしょうか。記憶はあいまいです。私たちがいたのは客席の真ん中からちょっと後ろくらい。かなり小さくですけれど、メンバーが動いているのをこの目で見ました。

MAGIC CAPSULEこの時のライヴは、後に劇場公開されたゴダイゴのライウ・ドキュメンタリー、『Magic capsule』に一部映像が収録されています。左画像は、劇場公開当時のチラシ。このチラシは大宮ハタシネマのもので、それによると大宮ハタシネマ1で1979年の10月27日から『星のオルフェウス』との二本立て公開だったようです(大宮ハタプラザにはスクリーンが3つありました)。

11月に友人R.H.と、それを観に行ったところが前の週くらいで終わっており、仕方なくその時上映されていた『がんばれタブチくん』を観た、という話も過去にブログで何度も書いています(笑)。私が実際にこの映画を見たのは、ずーーっと後になってまだセルビデオで売られているのを知り、購入した後でした。実際のライヴ当日から20年近く経っていたかもしれません。

画像のチラシによると、このコンサートには2万人が集まったとあります「(チラシより)河口湖・湖上祭コンサート、炎天下に2万人を集める」。屋外で、雲が出ていなければ演奏者はステージから富士山もよく見えるような位置でのライヴだったので、浅野氏も印象に残っていたのかもしれません。

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※この部分追記(5月27日)

湖上祭の無料コンサートが行われた大体の場所が分かりました(『Magic capsule』Magic capsuleの映像から推定)

河口湖 湖上祭


大体上のような感じです。富士河口湖町浅川の、Googleの地図では無料駐車場と表記されているあたり。

河口湖レストラン、土産物店の「きよすみ」の前あたりです。

左画像も同じ画像(2003年撮影)。昔話のカチカチ山の舞台と言われている天上山のロープウェイに乗ったときに上から撮影したもの。『Magic capsule』にも、このロープウェイから会場を映したと思われる映像が使われています。

(追記ここまで)


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私たち家族がいつも河口湖で宿泊するのは一般的な旅館で、S荘というところでした。私の記憶では私が小学校2年、3年、5年の時に行っています。それまでS荘に泊まると、富士山がよく見える部屋に泊まりましたが、湖上祭の時はやはり混んでいたのか、初めて湖側の部屋に泊まりました。まぁ、それはそれで気分が変わって私は面白かったですけれど。

富士山1970’s左の画像(写真)は、恐らくS荘の部屋から撮影したものだと思います。もちろん、写っているのは富士山です(笠富士)。ほかに残っている写真との照合から、昭和54年の撮影でしょうか。上の方の赤い線は、写真の汚れ。でも、この年は湖側の部屋に泊まったはずなんだけれど...。ひょっとすると、河口湖では毎回最低2泊はしていたので、2日目は富士山側の部屋を用意してくれたのかもしれません。何度も行っていたので旅館の方は良くしてくださって、特別なお土産をくれたりすることもありました(大きな富士山の額とか)。

よく、部屋の広縁の椅子に座ってこの富士山を眺めていたものです。

S荘は、その後音楽ホール、会議室などがある別棟を増築して、現在も音楽サークルなどの合宿などで利用されているようです。私は小学生の時の家族旅行以来S荘に宿泊はしていませんが、河口湖を訪れた時には近くまで行ってみることがありました。

富士山スタンプ左側は、父のアルバムから(笑)。これまたとんでもなく古い写真(笑)。前からこの写真は目にしていたのですが、素人が撮影したにしては構図がバッチリ決まっているな、と思って、写真の裏を見てみたら、記念スタンプのようなものが押してありました。

「岡田寫眞舘」

なんだ、やっぱりプロの仕事か。「昇仙峡パノラマ台登山記念」となっています。日付が...

「16.11.12」

おーーっと、2016年じゃないですよ、もちろん(笑)。平成16年でもありません。

昭和16年ですよ、多分。1941年11月12日ですかね。太平洋戦争開戦のおよそ1か月前...歴史を感じます。さすがに1916年(大正5年)ではないですよね(笑)。

「昇仙峡パノラマ台 富士山」で画像検索すると、現代の同じ構図の画像が出てきます。やはり富士山撮影の有名なスポットのようです。
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2020年05月17日

非日常空間、広縁

旅行に出かけた時、宿泊するホテル、旅館などで部屋に入ってまず確認するのは、「広縁(ひろえん)」があるかどうか、ということ。

広縁


※画像は、宿泊したことがない、既に営業を終えている観光ホテルのパンフレットより(自分で行った旅行の写真では、ちゃんと写ったものが見つかりませんでした)。



画像の写真で、部屋の奥にあるテーブルと椅子が置いてあるスペースが広縁です。ホテルや旅館で和室の部屋には大抵ありますよね。前もってどういう部屋なのか確認できないときに、この広縁がなかったりするとちょっとガッカリします(経験あり)。

このスペースが大好きです(笑)。夜、畳のところに布団が敷かれた状況でも、この広縁の椅子に座ってグダグダするのは、私にとって至福の時間です。ここでジュースを飲んだり、翌日の旅行の計画を確認したり...。このスペースの壁際に姿見とか、冷蔵庫が置いてあるところも多いですね。

逆に、個人の家でこういうスペースって、私はあまり見たことがありません(もちろん、このスペースが好きで作っている人もいるんでしょうけれど)。やっぱり旅先のホテル・旅館のイメージです。なので、私にとっては非日常的な空間というイメージです。

ただ、ホテル・旅館によっては、この広縁のスペースも手前の客室と同様に畳敷きというケースもたまにあります。それはそれで興覚めします(笑)。また、手前の客室と同じような座椅子(とテーブル)が置いてある部屋に当たったこともありました。なにそれ、意味ないでしょ(笑)。広縁は客室部分と完全に別空間であって欲しいのです。

昔からぼんやりと、このスペース(広縁)が好きだなぁと考えていて、ネットで調べてみたら、やっぱりそういう人が結構いるらしいことを知りました。


広縁とは反対側に、部屋のドアから客室までのところに広いスペースを取っているホテル・旅館もあります。この部分は「踏み込み」と言います。その踏み込みの部分には全く思い入れがないので、この部分に畳何畳分も使ってくれなくていいです、私は(笑)。


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2020年04月24日

佐渡の旅

※2020年5月1日:画像を追加しました。

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中学を卒業してから高校に入学するまでの春休みに、旅行に行かないかと友人に誘われました。親なし、子供だけの計画です。

誘ってきたのは中学三年で初めて同じクラスになったS.H.という男。家は近所で以前から顔は知っていましたが、幼稚園から小学校も同じなのに一度も同じクラスになったことがなく、中三で同じクラスになって初めて口をききました。しかし気が合ってすぐに仲良くなり、中三から高校三年間にかけて一番付き合いが深かった友人と言ってもいいと思います。高校時代にプールでアルバイトをしていたことをこのブログでも何度か書いてきましたが、そのアルバイトも高一の時に彼、S.H.と一緒に始めたものです(高校は地理的には近いけれど、別の高校)。

S.H.は私の他にもう一人、M.K.という男を誘いました。M.K.は、このブログに登場する機会はそんなに多くありませんでしたが、高三のときに大学受験に失敗して、一緒に予備校に行ったのがこのM.K.。彼が河合塾に行くというので私もそうしようと思って、同じ予備校に決めました(クラス=コースは別)。彼とは中一のときに同じクラスで仲良くなりました(中二では別のクラスになり、中三で再び同じクラスに)。彼も中学、高校、予備校、大学にかけて付き合いが深い友人です。

中三の時には私を含めたその三人以外にも一緒に遊ぶ人間はいましたが(このブログに登場するM.H.やR.H.、Sなど)、私とS.H.、M.K.は親がそんなに厳しくないという共通項がありまして(笑)、その計画に誘われたのだと思います。

両津港ターミナル


行く場所はあらかじめ決まっていて、新潟県の佐渡島(さどがしま)です。

※上画像:佐渡両津港ターミナル

というのも、S.H.の祖父が佐渡に住んでいて、家には使っていない離れがあるのでそこに泊まろう、という話だったのです。さすがに(卒業したとはいえ)中学生で普通の旅館やホテルに泊まるような旅行だったら、普通の親はそう簡単に許してはくれないでしょう(私の親だったら許してくれたかもしれませんが・笑)。


家から始発くらいの早い電車に乗って、恐らく普通電車を乗り継いで新潟に出ました。新潟ではレインボータワーという観光用タワーで上まで行ったような記憶があります。


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2019年07月10日

中四国旅行 写真版

§お城

姫路城


姫路城
現在の大小天守(現存天守)は慶長6年、1601年から8年かけて改修(=国宝)

※現存天守はお城に関する用語で、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のこと。現在残っているのは12か所であるため、現存12天守などとも言います。



岡山城


岡山城
天守は昭和20年、1945年空襲により焼失。現在の天守は昭和41年、1966年に再建


丸亀城大洲城址左:丸亀城(現存天守は寛永から万治の時代に修築=重要文化財)

なんだか、修復工事のようなことをしていますね。ひょっとするとそのせいで観覧自体が出来なかったのかもしれません。

右:大洲城址にて。現在は天守が復元されていますが(平成16年、2004年木造で復元)、私が行った時には天守がなく、いくつかの遺構が残るのみでした。画像は台所櫓(安政6年、1859年再建)。

元の天守は明治21年、1888年解体。



今治城

今治城
天守は昭和55年、1980年再建(もともと天守閣があったかどうかは未確定)


松山城

松山城
現存天守(連立式天守)は慶長7年、1602年築城に着手(大天守他=重要文化財)


宇和島城

宇和島城
現存天守は寛文11年、1671年改修竣工(=重要文化財)



※関連記事

§城巡りの旅(中部地方のお城を巡った記録)


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§旅の風景

瀬戸大橋瀬戸大橋瀬戸大橋

左は鷲羽山から。右は恐らく、観光遊覧船に乗船した時に船の上から。

瀬戸大橋は1988年全線開通。橋の部分に高さ(厚み)がありますが、車が通る道路の下を電車が通っています。



児島松山市街 市電左:児島の浜辺。

岡山県児島市田の口

右、松山市街。市電が見えます。




伊予大洲駅小豆島より左:伊予大洲駅の牧歌的な風景。

右:小豆島にて

幻想的な空




寒霞渓


寒霞渓ロープウェイ

寒霞渓

下はロープウェイの中から。乗っていると岩にぶつかるんじゃないかと思うくらい、ギリギリのところを通ります。


松山城から宇和島城から左:松山城から

右:宇和島城から







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dennismoore1988 at 22:06|PermalinkComments(2)clip!

2019年07月07日

中四国旅行

大学の卒業旅行で行った中四国旅行。もう少し詳細を。

就職活動はバブル末期ではありましたが、6月には内定が複数出て、入社する会社は早々に決まっていました。サークルの最大のイベントである演奏会が11月に終わり、12月頃には気持ちの上でも時間的にも余裕が出てきました(大学の勉強の上でも、卒業の心配はそれほどなく)。

「会社に入ったら、長く休めることなんてそんなにないのだろうなぁ」と思って、卒業旅行を計画しました。まぁ、友人と行くという選択もあるでしょうが、自分のペースで(お金の上でも時間の上でも)旅行したいと思ったので、一人旅です(現在のカミさんとその頃も付き合っていましたが、まだ一緒に行くという選択肢はなかったですね・笑)。

場所は行ったことがない四国。

四国に入るちょっと手前の岡山県に、父の会社の保養所があったので予約してもらい、他の宿は安く済ませるには公営の宿舎だと思って、国民宿舎、公営宿舎のガイドブックを買ってきて、電話をかけまくって予約しました(まだインターネットがない時代)。

交通費はフリーきっぷの存在を知って、大学に学割申請をして購入。そのきっぷは手元に残っていないので記憶によれば、10日か二週間くらいの有効期間で、四国へ行く途中も下車自由で、四国内はもちろん乗り降り自由というきっぷでした。

旅行ノート中四国旅行当時旅行に持って行って付けていたノート(左画像)によると、四国では「いしづち」「しおかぜ」「しまんと」といった特急列車にも乗っているので、四国内では特急列車も利用できたようです。

宿泊地は4か所。岡山県の児島に二泊(父の会社の保養所に宿泊)、香川県の高松に二泊(厚生年金会館に宿泊)、愛媛県の大洲に三泊(国民宿舎に宿泊)、香川県の小豆島に二泊(国民宿舎に宿泊)です。


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dennismoore1988 at 16:36|PermalinkComments(2)clip!

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