谷中オペラ日記

オペラ=作品についての、備忘録のようなもの。

薔薇の騎士@東京二期会

二期会の薔薇の騎士を見た。今回の演出は、グラインドボーン音楽祭と共同制作で、リチャード・ジョーンズの演出。指揮はセバスティアン・ヴァイグレ、で読売日本交響楽団がピットに入った。まず、読響絶好調で ドライブ感があって宜しい。林正子(元帥夫人)、妻屋秀和(オックス男爵)、小林由佳(オクタヴィアン)、幸田浩子(ゾフィー)の初日公演を見たのだが、幸田の絶不調ぶりが際立っていた。2003年にケルンのプロダクション=ギュンター・クレーマーの時は、林と幸田に勢いがあったが、あれから14年経って なんでゾフィーなんだろう 声質も違うだろうし だから泣けなかったのかな

備忘録 マリエッラ・デヴィーアのノルマ

またすっかり更新しなくて 閑古鳥が鳴いているこのブログ 備忘録的に 見たオペラについて書くと
7月1日 日生劇場で 藤原歌劇団のノルマを見た。演出は粟国淳。ベルカントだから歌だから演出しないで良いわけないのだけど もっと演技させろよと突っ込みをいれたくなる
指揮のフランチェスコ・ランツィッロッタと東京フィルは、鳴らない劇場で善戦していたかと思った。まあ、今回の舞台はマリエッラ・デヴィーアのノルマのためのものであるから それを堪能すれば良いんだろう ポリオーネ:笛田愽昭はもっと声だけに頼らず成長していって欲しいと思った

備忘録 ジークフリート@新国立劇場

新国のリング ジークフリートは最終日に見る 噂に聞いていた コスト高の小鳥たちと 新国ダンサーを辱める衣装に辟易 

68年5月のゲ・リュサック通り

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マグナムの写真家 ブルーノ・バーベイが1968年5月11日に撮影したゲ・リュサック通りの写真をみてみると騒動で沢山の車が横倒しになっている。まさに学生闘争真っ只中であり、敷石は剥がされ投擲されることになる。
初めてパリに行った1985年に、私はこの通りにあったホテルに滞在するのだが、その件については、モディアノの『廃墟に咲く花』の投稿で紹介している。さて、わかりづらいのだけど、そのとき紹介したホテルの写真を見て頂くとわかるのだが、ガラスの窓が割れている。もしかしたら、それが68年5月の名残であるのではないか?と妄想してみた。毎朝、そこでバゲットとコーヒーの朝食をとっていたのだが、割れたガラスを板で補強している光景が蘇った。

モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」@神奈川県立音楽堂

今年は、モンテヴェルディ生誕450周年であるが、神奈川県立音楽堂でリナルド・アレッサンドリーニ指揮コンチェルト・イタリアーノにより、「聖母マリアの夕べの祈り」のコンサートがあり、はせ参じた。神奈川県立音楽堂では、このあと11月25日にはBCJにより「ポッペアの戴冠」の公演が予定されている。
この曲に関しては、多くの人がガーディナーによるCDやLDの通過儀礼があっただろう。ガーディナーはその後、ヴェルサイユ宮殿で再び録画しているが、やはりそれよりもヴェネチアで録画された方が雰囲気があってよい。さて、そういった通過儀礼をへているので「偉大なモンテヴェディが生まれて450年目の6月、神奈川県立音楽堂がヴェネツィアのサン・マルコになる!」というコピーは、いささか大げさであるとは思うが、それでもイタリア的な声の響きを堪能することが出来た。

オッフェンバック「ラインの妖精」@東京オペラ・プロデュース

東京オペラ・プロデュースは、東京室内歌劇場なきあとにあって、オペラの秘曲を上演してくれる唯一のカンパニーだろう。その100回目の公演として、オッフェンバック「ラインの妖精」をとりあげてくれたことに感謝。じつは、2005年にコンサート形式ではあるが、リヨンでミンコフスキー指揮で、この曲の快演に出合っている。 だから、おそらく今後一生このときの上演以上のものは、ミンコ自身がやらない限りないだろうとさえ思っている。
そういう気持ちで臨んだ今回の公演、おそらく日本では今後上演されないだろうから・・笑・・演出つきで見られたのは嬉しかった・・・ドイツ語の発音はつらかったけど・・・
ところで、リヨンの公演の時に歌ったEndrik Wottrichが4月に亡くなった。1964年生まれというから53歳ぐらいか・・ウィーンのフォルクスオパーなどで活躍していた。早すぎる死であり、お悔やみ申し上げます。

フランク・ヴェデキント「春のめざめ」@KAAT 

KAATの芸術監督 白井晃演出による、ヴェデキントの「春のめざめ」舞台上演にあわせてかは不明だが、酒寄 進一 による 現代口語の新訳 岩波文庫で出版されているによる上演。
まず、細長い舞台をつくり、そのまわりをアクリル板で囲み、その背後は照明によって見えたり隠れたりする、舞台と客席は近く、上演前には座席に俳優が座っていたりする。そして、劇がはじまると少年少女たちの葛藤を示すような音楽にあわせて、俳優たちがその苦々しい青春の日々を演じる。
主演の三人は、いかにもスターシステムを意識するような、志尊 淳、大野いと、栗原類 もっと小劇場あたりで、演技の上手い若いイケメン俳優もいるだろうが まあチケット販売考えれば致し方ないというところか 三人のうちやはり大野は弱い、栗原はいい味を出しているといった感じ。イケメンの志尊 はそのなかでは、良いと言った感じだった。さて、舞台はじまると男子生徒たちが自慰にふけっており、そしてアクリル板には白いペンキが塗られる。ああ、スペルマの直截な喩えだよ ヴェデキントの演劇の時代精神が有するであろうアヴァンギャルドな意識は読み取れない。さてさて、悪口ばかり言ってもしょうがない。結局、この戯曲を選んだ時点で失敗なんではないかとまで思えてくる。最後に登場する、仮面の紳士の解釈が読めない限り、スペルマまみれのあおはる物語は退屈でしかない。

SPACのアンティゴネ@駿府城公演内 特設舞台

しばらく更新が滞っていたブログですが 少しずつ再開します。
5月7日に、ふじのくに世界演劇祭を見に出かけた。今回は、授業の一環として、学生をつれてジゼル・ヴィエンヌ演出の「腹話術師たち、口角泡を飛ばす」、そして宮城 聰演出の「アンティゴネ 時を超える送り火」を見た。まず「アンティゴネ」であるが、今年のアヴィニョン演劇祭オープニングに招待されている。前のマハバーラタを石切場で見られなかった悔しさがあるが、今回も時期的に無理であって、あの法王庁中庭での上演が気になってしょうがない。
さて、今回の舞台は全面に水がはってあり、その上にシンプルな岩場が設けられている。そこで俳優による「行為」が上演されるのだが、俳優は台詞をかたらず黙役であり、台詞は別の役者によって語られることになる。主役たるアンティゴネはSPACのミューズ美加理、その所作は神々しく悲劇のカタルシスを導いて幕になる。

1940−リヒャルト・シュトラウスの家−@ふじのくに世界演劇祭

ふじのくに世界演劇祭2017の上演作「1940−リヒャルト・シュトラウスの家−」を見た。この作品は、静岡音楽館AOI芸術監督の野平一郎とSPACの宮城聰がタッグをくみ、大岡淳(SPAC文芸部)の脚本によって制作されたものだ。その内容は1940年の皇紀2600年祝賀行事に奉祝曲を作曲したリヒャルト・シュトラウスに焦点をあて、かれの周辺の日本人たちのたドラマを宮城が演出し、そこに同時代の音楽を、佐々木典子と妻屋秀和の歌唱で構成するというもの。結局、ラストは「四つの最後の歌」を佐々木が歌い、架空=虚構の公証人「橘正一」が実は、ゾルゲと繋がるソヴィエトのスパイであったという落ちとなる。さて、この舞台に関して 同行の目の厳しい友人たちは、かなり否定的であって、ボロクソにいっていたが、僕自体はそこそこ楽しめた。ここは日本だし、二人のヴェテラン歌手にとやかく文句をいう気持ちになれないし、僕自身が好きな曲でもあるので楽しめた。ただ、ドラマトゥルク大岡の構想に既視感を感じたため、その分興ざめした。つまりは、これって手塚治虫の「アドルフに告ぐ」にインスピレーションを受けているような気がしてならなかった。無論、そこにはシュトラウスは出てこないが、手塚の壮大なドラマにおける「峠草平」と「橘正一」を比較すると、あまりに後者の人物設定が甘いと思ったからだ。たしかに、音楽とドラマの時間配分で、人物像やドラマの掘り下げが難しかったのかもしれないが、なぜソヴィエトのスパイである必然性が見えてこなかった。ならば秘かにショスタコの作品を忍ばせても良かったのではないか?

ウィーン・アカデミー管弦楽団"ベートーヴェン交響曲全曲演奏会"

一年間の改修工事を終えた、武蔵野市民文化会館リニューアル・オープン記念特別公演 ウィーン・アカデミー管弦楽団"ベートーヴェン交響曲全曲演奏会"の全四回を聞いた。まず、今回のリニューアルで、まず座席が2cm広くなった。つまり左右1cm あの窮屈さは多少緩和された。また、ステージの床も張り替えられたという。とはいえ、通信機能抑止装置は追加されていないようで、マナーの悪い観客の着信音が鳴ってしまった(多分あれは着信音だと・・)ことは残念。
さて、今回の演奏会だが 初日が6番7番、以下4番5番、1番2番3番、最終日が8番9番が演奏された。初日はステージ上には台がもうけられず平戸間での演奏だったが、翌日から台がもうけられ、指揮者の部分は最終日は延伸した。というのも、今回の演奏会では第九の合唱はオケの前に立ったので、その分指揮者の場所を延伸しなければ行けなくなった。私は今回1列目の席だったので、第九では女性合唱隊のダイレクトの声が響き、私的にはバランス悪かったが まあしょうがない。
さて、今回の演奏会では、まず古楽器によるピリオドスタイル
の演奏だったので、祝祭的で騒がしい演奏だった。指揮は国際的なオルガニストであるマルティン・ハーゼルベックが担当したのだが、まあ はっきり言って指揮ぶりは下手くそだった。そのため、アンサンブルが乱れる部分もあったが、オケはうまく反応して、大事故にはならないと感じ。すべての演奏を聴いて、コンサート一曲目はだめで、二曲目から盛り上がるといった感じだった。私的には、7番、3番、5番の順に良かったが、指揮は下手でも音楽への愛は強く感じた。

Nevermore ポーとゴーギャン、そしてゴダールと私

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FBで今日のネクタイというシリーズで、ネクタイの写真をアップしている。多分ネクタイが200本ぐらいあるから、毎日違うネクタイをしめていけば、そのうち全部使えるだろうと思っていた。結局、大体しめたし、いまさら買い足すのもなんだし、またしばらくストールばっかりだったので、FBにネクタイをアップしなくなったのだが、なぜか新学期になって、またネクタイをしめるようになったので、再開したというわけだ。とはいえ、毎日違うネクタイをしめると、あまり好みじゃないのをしめることになり、また好みのネクタイをたびたび使えなくなるというジレンマもあった。それは好きなネクタイが劣化しなくて良いというメリットもあるが、何か寂しくもある。
さて、今日は好きなネクタイをしめている。ロンドンのコートルド/インスティテュート・ギャラリーで20年くらい前に購入したもので、ゴーギャンのNevermore.1891のモチーフを商品化したものである。とはいえ、横たわるタヒチの女や悪魔の鳥のモチーフは採用されていない。採用されたのはベッドや背景の平面的な装飾のみである。このネクタイを見て、ネヴァーモアですねと言ってくれる人がいれば、なかなかのマニアであろう。
さて、このNevermoreは、エドガー・アラン・ポーの「大鴉」The Raven.1845を示唆するのだろう。そもそも、この詩は熱狂を以てフランスでも紹介され、マネが挿絵を描いていることでも知られている。そして、それ以上にボードレールの熱狂が重要であろう。じつのところ、今日なにげにこのネクタイをしめたくなったのは、授業でゴダールの『フランス映画の2×50年』を取り上げたからだ。そこで、ゴダールは真の映画の兆しとして、シャルル・クロとシャルル・ボードレールの名をあげ、ボードレールの「旅」の朗読が続く。この部分は、『映画史2A』の部分でジュリー・デルピーがまどろみながら、朗読するシーンの別ヴァージョンである。そして、この朗読のあとでミッシェル・ピコリが「大鴉」について語り、Nevermoreと語るのだ。
さてさて、私のネクタイ話はゴダールまでたどり着いたが、このネクタイについては、二度としめないということはなく、しばらくしてまた気が向いたときにしめることになるだろう。

笈田ヨシ「真珠採り」@マスカット歌劇場について

大阪、金沢、高崎、東京と巡った笈田ヨシの「蝶々夫人」が今週末のNHKBsプレミアムシアターで放映されることになっている。それはそれなのだが、ボルドーの来シーズンが早く決まらないかなと、ネットでチェックしていると、来月ボルドーで笈田ヨシ演出のビゼー「真珠採り」が上演されるとある。
5月9日から6公演あって、8ユーロから112ユーロのチケット構成となっている。それはさておき、おそらく、この上演はおなじく以前プレミアムシアターでも放送された、2012年にオペラ・コミーク座のプロダクションと同一のものだろう。つまりは、あの日本風の衣裳のやつだ。笈田さんの公式HPには、この公演が、オペラ・コミーク座とリエージュの共同制作とあるし、ボルドーのHPにも、記述がある。そこまでは、良くある話なのだが、まさにボルドーでこの5月に上演するのと同じ時期に、なんと中東のオマーンの首都マスカットの王立歌劇場でも、上演されることを知り驚いた。
アブダビにルーブルの別館が建てられたりして、美術工芸の分野での中東の文化政策は気になっていたが、クラシック音楽やオペラの分野は盲点だった。調べてみると、マスカットのオペラハウスは観光名所にもなるほどの素晴らしいところで、年に6演目程度の公演があることを知った。また、operabaseを調べていると、2015年にはあのバッティストーニが指揮した、ゼッフィレッリ演出のトゥーランドットが上演されている。知らなかったよ・・・そうなると無性に行きたくなるのだが、「真珠採り」だと一番高い席で2万円ぐらいだった。歌手の情報は少なくAnnick Massis as Leila and Marc Laho as Nadir.とだけある。アニック・マシスは名歌手だが、そろそろ還暦をむかえる。マルク・ラホもヴェテランなので、はずれはないだろうが、新鮮味も少ない・・ところで 指揮はオケはどこなんだろうか?リエージュのオペラハウスの引っ越し公演のようであるが、中東マネーのオペラへの投資がドーハでも、ドバイでも、アブダビでもなく、マスカットであるというのが興味深い。

オテロ@新国立劇場

新国立劇場のオテロ、9日の初日をマチネでみた。客の入りも良く、学生にチケをばらまいた感は少なかった。このプロダクションは2009年のプルミエのあと2012年、そして5年ぶりの再演となった。舞台全体に水を張る美しい舞台は、プルミエの時にはかなり驚いたが、見慣れた感はあるが美しい舞台といえる。この舞台は前回はかなりダメで不満が残ったが、今回はそこそこといった感じか?歌手は以下のとおり
オテロ カルロ・ヴェントレ
デズデーモナ セレーナ・ファルノッキア
イアーゴ ウラディーミル・ストヤノフ
ロドヴィーコ 妻屋秀和
カッシオ 与儀 巧
エミーリア 清水華澄
ロデリーゴ 村上敏明
モンターノ 伊藤貴之
伝 令 タン・ジュンボ
まず、一幕でオテロの第一声から、声質に違和感を感じた。新国で『トスカ』『アイーダ』『アンドレア・シェニエ』を歌ってきたカルロ・ヴェントレは、いままでも凄く良いといった印象はない・・・デズデーモナのセレーナ・ファルノッキアは、そのなかできっちりと仕事をしていた。ただ柳の歌では泣けなかった。結局僕が気に入ったのは、イアーゴのウラディーミル・ストヤノフぐらいだった。
本当は、泣く気持ちで一杯だったのだが、二幕はじまるとき後ろの席の方から、背中をつけてみてくださいというクレームがあって、しらけてしまった。今回は、いつもながらのC席だけどたまたま1列目を買っていたのだが、L10列の前の席の人の頭がかかっていて、とてもストレスがたまった。かといって、前のめりになって見るのは後ろに迷惑がかかると思い、まあしょうがない、こんな時もあるよと思って、背もたれを強く意識して観劇していたのに、まさか注意されるとは思いもよらなかった。配慮してくださいって言われても、ずっと配慮して見ている自信はあるし・・いままでこの劇場には100回以上は通っていて勝手が良くわかっているのに なんで?って感じだった。その方には、前の方の頭の件を説明したら、じゃあ前のかたに注意してくれって言われるしまつ。ただ、前の方は、みるところ極端な前のめりじゃないので、注意をするのが憚れる状況だった。
結局のところ、劇場の設計ミスは明白であり、いつもの3列目か4列目 あるいは4階の一列目を買うしかないのだらろう。C席の場合は・・・7


ティツィアーノとヴェネツィア派展とヴィチェンツァ

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4月2日が会期末だった、東京都美術館の「ティツィアーノとヴェネツィア派展」ですが、フィレンツェのウフィツィ美術館やナポリのカポディモンテ美術館の大作の来日が目を引きましたが、ヴェネチアのアカデミア美術館の作品の来日はなく、コッレール美術館から周辺作の脇を固めるといった感じでした。しかし、それよりもこの展覧会の監修者が館長をつとめている、ヴィチェンツァのキエリカーティ宮絵画館に関しては、何か触れないでいる見たいな印象をもちました。カタログを購入しなかったので、もしかしたらカタログに記載されているのかもしれませんが・・・ まあ、一般の観客からすれば、都市の名前も似ているしヴェネチアにあるキエリカーティ宮絵画から来日したなんて勘違いしてもおかしくないような気がしました。
ここで、キエリカーティ宮絵画にこだわりたいのは、キエリカーティ宮がパッラーディオ設計によるものだからという、建築マニア的な発想にすぎないのですが、パッラーディオのパトロンだったジェローラモ・キエリカーティ伯爵がこのヴィッラを起工するのは1550年(竣工は1680年)なので、この展覧会でいえば靴竜霈△燭舛龍ス腓了期にあたります。今回の展覧会では、ヴェロネーゼの工房作が来日していましたが、おそらくこの美術館で一番の作品はヴェロネーゼの「聖母子と殉教者とペテロ」あるいは、バロトロメオ・モンターニャの聖母子の作品なのではと思います。というのも、2011年に来訪したとき、強い印象を受けたからなのですが・・・ただし、この美術館は丁度改装中で、なにか十分な鑑賞環境にはありませんでした。
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当然ながら、ヴェネチアの美術館よりもコレクション的には劣ります。だから美術館のコレクション自体を展覧会でもっと前面に押し出すことは困難なのでしょうが、パッラーディオとの同時代性という視点は興味深いと思います。

東京・春・音楽祭「神々の黄昏」@東京文化会館

ヤノフスキーの春祭リング、二夜まで入学式やら、オリエンテーションやらで全くスケジュールが合わなかったが、神々の黄昏は奇跡的にオリエンテーションが午前中だったこともあり、午後からの公演を聴くことができた。この公演は、ジークフリート役のロバート・ディーン・スミスが来日したけど、声の調子が悪く、急遽代役をアーノルド・ベズイエンにお願いしたとのこと、通常のオペラみたいにアンダーは考えていなかったのだろうか?当日歌えなくなったら、中止になってしまうだろうし・・・予算的なこともあるかもしれないが、危うい賭けのようでもある この歌手が引き受けてくれなかったら公演それ自体が中止にならざるを得なかったとしたら 素直に感謝すべきなのかもしれないが、明らかにジークフリートとしては役不足であって 可哀想だという反面 スミスさん 体調管理しっかりしてくれよと言いたくなる
さて、ジークフリートはさておき、他の歌手が良いこともあって、あるいはNHK交響楽団の底力もあって、あるいは早めなテンポでぐいぐい指揮をしたヤノフスキーの力もあってか 素晴らしい公演となっていた 僕は歌手としてはまずハーゲンのアイン・アンガーが一番素晴らしいと思ったし、そのいやらしいぐらいの存在感は圧倒的だった。ブリュンヒルデはクリスティアーネ・リボールも頑張っていたと思う、とにかくラストの自己犠牲という圧倒的なカタルシスを見事に歌ってくれた。ここで、大体泣くことになっているのだけど、背景のビデオ映像が何か同世代的なアニメ経験を共有するような感じになり、そのおかしさに号泣という失態免れた。

トスカニーニ生誕150周年

クラシック界のメモリヤルイヤーですが、今年は色々と不作な感じがしていました。毎年、年賀状はそのネタで作成しているので、今年はモンテヴェルディの生誕450周年で作成しました。
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ところが、演奏者目線でいえば、ことしはトスカニーニの生誕150周年、巷では様々なコメントがでていますので、それに便乗した投稿です。

↑は、トスカニーニと放送メディア=ラジオとの関連を示していて興味深いです。ただ、日本で言えばNHK交響楽団、イギリスのBBC響、フランス国立放送響、ドイツ各地の放送局管弦楽団が現在でも、活動していることを思えば、カリスマ指揮者が辞めたあとのNBC交響楽団の終焉はとても儚く思えてなりません。アルヴィン・トフラーの『文化の消費者』は1973年に出版されているのですが、そのときNBC響のあとの作られたThe Symphony of the Airが、解散してから10年の月日が経っています。なにか、書かれているかと久しぶりに手にとってみると、このオーケストラの記述は見られませんでした。57年に亡くなったトスカニーニの遺産よりも、この時代はバーンスタイン、オーマンディの時代なのでしょう。しかし、トフラーの記述ではアメリカにおいて、公共財としてのオーケストラを支えるパトロンや寄付文化の醸成に注目したいです。そして、トフラーは1940年代に、デトロイト交響楽団を私物化していた百万長者の例を挙げています。彼はオケへの支援を打ち切るのですが、その後民主的な運営にかわり、現在に至ってます。それに比べて、NBC響はRCAのレーベルでトスカニーニの名と共にだけで歴史に名を残していること!そこにやはり儚さを感じるのです。

藤森照信展@水戸芸術館

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水戸芸術館の藤森照信展をみた。もともとは東京大学の近代建築史と都市史の研究者であったが、45歳から突然独創的な建築を創り出してきた、変人の展覧会だ。展覧会は、水戸芸術館の設計者である磯崎新の言葉から始まるが、そこに磯崎は藤森の建築に狂気をみている。そもそも、藤森の卒論は、ルドゥーの研究だったらしく、18世紀の幻視の建築家への眼差しは、磯崎とも共有していたのだろう。ただ、藤森の建築は泥臭く磯崎らのポストモダンも、回帰した最近のモダニズムも、くそ食らえといった感じだ。路上観察学会での仕事は、ある意味モダニズムに潜む狂気を顴骨奪還して笑いを導くようであり、見立ての美学でもあったのだろう。ただ、その見立てるヴォキャブラリーは、実はスノッブであったのではないだろうか?このあとで、東京駅のステーションギャラリーで開催中のパロディ展を見たが、そこにあったある種の皮肉、批判の精神といったものを、路上観察に見出すのは困難だ。そして、藤森が創る狂気の建築といわれるものは、僕からしたらある種の造形ではあるが、磯崎が指摘するような社会的精度としての建築ではないだろう。磯崎は、それを「つくりもの」としているが、僕もそれに同意し、その「つくりもの」の馬鹿馬鹿しさが、狂気が人を惑わす魅力を持っていることは確かだ。つまりは、これはシュヴァルの理想宮の系譜にあるが、アル=ケ=スナンの王立製塩所の系譜にはないということなんだろう。
会場には、高校生ウィークのカフェが併設され、磯崎と篠山紀信が作ったルドゥーの本を見ることができる。そこに、藤森のラ・コリーナの外観を併置すると、その差異は明瞭なものといえよう。
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SPAC『アンティゴネ』アヴィニョン演劇祭のオープニング作品に決定!!

SPAC『アンティゴネ』アヴィニョン演劇祭のオープニング作品に決定!! 公式サイトでも発表
これは凄い話だと思います。今回はアヴィニョン法王庁中庭での公演ですので、行きたくなります。
オリヴィエ・ピのパリジャンとか2−3作みて弾丸で帰ってくるとか・・・まあ難しいのですが、同時期のエクスの音楽祭にはしごするのも有りかもしれません。Dmitri Tcherniakov演出のカルメンの新制作とかがあるようですが・・まあ 妄想なんですが

お悔やみ:Trisha Brown

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アメリカのコンテンポラリーダンスの代表的なコレオグラファーだった、トリシャ・ブラウンが80歳でなくなったというニュースが流れている。ニューヨークタイムズ、フランスのフィガロ紙など・・長く認知症で闘病していて、その精神は彼女のカンパニーに継承されているので、時間の問題だったのかもしれないが、まずお悔やみ申し上げます。
 さて、彼女の作品は、ロバート・ラウシェンバーグやドナルド・ジャッドら現代美術作家とのコラボレーションでも知られている。昨年京都での公演を見逃しているので、私が彼女の作品に立ち会ったのは、2009年9月のリヨンオペラでの公演のみ。このときは、三人の作品で構成ラルフ・レモン、マース・ガニンガム、そしてトリシャ・ブラウンの三人の作品が取り上げられ、ブラウンの作品はローリー・アンダーソンが音楽を担当した Set and Reset / Resetが上演された。このときは、カニンガムがなくなったばかりであり、ジョン・ケージの音楽と共に何か追悼する気分だった。そして、今回は彼女も亡くなってしまった。リヨンやパリではレパートリーになっているが、なかなか日本のバレエ団あるいはカンパニーでレパートリーにするのは難しいのかもしれない。
現在、ロンドンのテートモダンではラウシェンバーグの展覧会が開催されており、その際83年のSet and Resetが上演されたという。もし、日本で大規模なラウシェンバーグの回顧展が開催されるのであれば、同様の公演を期待したいし、リヨンオペラ座バレエのように /Reset の公演も上演できないものかと思ったりしている。


勅使河原三郎の魔笛@神奈川県民ホール

 昨年のあいちトリエンナーレで上演された勅使河原三郎演出の魔笛、指揮者が若手の川瀬 賢太郎にかわって、大分と横浜で上演された。川瀬のモーツァルトは、昨年の日生劇場の「後宮からの誘拐」以来か?本公演でなく、金山幸田組のゲネプロを見させて頂いたので批評みたいなことは差し控えるが、日本語ナレーションによる公演は、アーノンクールの名盤などの例もあるが、やはりジングシュピールであるのであれば、日本語の台詞でもあったほうが良かったのでは?と思う。
 さて、この公演は大分の iichiko総合文化センターとの共同制作でもある。このような連携は、今後も続く、来年は札幌の文化芸術劇場が開場するので、そこと神奈川県民ホール、兵庫県立芸術文化センター、大分・iichiko総合文化センター、東京二期会が共同で、アイーダを上演することになっている。その指揮は、アンドレア・バッティストーニが担当するという。神奈川県民ホールはしばらく、びわ湖ホールと共同制作していたが、今年からびわ湖はワグナーのリングが始まったこともあって、コラボレーションはなかなか難しいのだろう。地方の劇場の共同制作は、劇場法以降の創造的劇場の推進という社会的ニーズに合致するが、そこに参加できる劇場と出来ない劇場の格差は依然として残っている。
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