谷中オペラ日記

オペラ=作品についての、備忘録のようなもの。

ミンコフスキーOEKセヴィリアの理髪師

我らが熊さん ミンコフスキーが金沢で振る。それも、ロッシーニのセヴィリアの理髪師となれば、ミンコマニアは、金沢に行かなければ行けないのだ。とにかく、今回のコンサートは素晴らしかった。今回は久しぶりに3列目舞台向かって左側の席を取った。それは、ミンコのエネルギッシュで、本当に音楽を愛する指揮ぶりを見たかったからだ。初めて、生のミンコを見たのは、シャトレ座のオッフェンバックの美しきエレーヌだった。ロット!!とブロン、ナウリ そして ミシェル・セネシャル!の至極のキャストに、ミンコの指揮ぶりに惚れた。彼の動きから、様々なテクスチャーの音がこぼれてくる。色彩感豊かで、洒脱でフランスのエスプリを感じさせる。そのあと、リヨンのオッフェンバック祭りの ラインの妖精の至極の時間は絶対忘れられない。そんなミンコ体験に匹敵するような体験が、まさか日本の北陸の金沢の地で体験できるようになるとは、時代は変わったのだ。金沢という都市の創造都市政策の本気がそうさせたのかもしれない。市民にとって、ミンコなんて誰?なんか熊みたいな指揮者でしかないかもしれないが、きっと度肝抜かれたはずだ。
今回の歌手、特に本当のタイトル・ロールであるアルマヴィーヴァ伯爵を歌った、オーストラリアの若手 デヴィッド・ポーティロが素晴らしかった。伯爵の大アリアも難なく歌いあげ、今後もチェックしたい。ロジーナを歌ったセレーナ・マルフィもフィガロを歌ったアンジェイ・フィロンチクこれから伸びる歌手だろう。様々な音楽祭で若手と接してきているミンコのめがねは確かなのだ。そこに、ベテランのカルロ・レポーレのバルトロが加わって、盤石な感じだった。バジリオを歌った後藤春馬も伸びしろを感じたし、そこに地元出身の小泉詠子のベルタも立派に歌った。そして、何よりも今回の公演では、イヴァン・アレクサンダーによる演出と自由闊達なピアノフォルテを忘れてはいけないだろう。

アンドレア・バッティストーニ指揮ヴェルディ「レクイエム」

新宿区成立70周年記念事業として、アンドレア・バッティストーニ指揮によるヴェルディ「レクイエム」の公演が、おお久しぶりの 新宿文化センターで行われた。このホールに行くのは、いつぶりだろうか?かって、二期会の公演が行われていたことがあって、宮本亜門演出のいわくつきの「ドン・ジョヴァンニ」を最前列で見たことがなつかしい。この演出に対して、オウム報道でしられる、オペラ好きの女性ジャーナリストのトンデモ批判があったはずだったが 遠い昔のような気がする。それ以来ということなので、このホールの周辺の再開発は全く知らず、浦島太郎状況で会場を訪問した。
着いてみると、残念なことにインフルエンザで小原啓楼はキャンセル、二期会はトスカを上演中ということもあってか?藤原の村上敏明が代演となっていた。
さて、イタリアの俊英 アンドレア・バッティストーニ、この指揮者のナヴッコできいたとき、序曲からただ者ではないと分かった。その後の日本での人気ぶりは、ご存じのどおりだろう。さて、今回のヴェル・レクは、僕は思ったほど楽しめなかった、隣の席に合唱体験者らしい御仁が一緒に小声で歌っていたりして気散じになったからかもしれない。それは、もっと凄いのを期待していたからかもしれない。この若い指揮者は、当然のごとく暗譜で曲の隅々まで身体に音楽が宿っているのだろう。ラストも長い沈黙を求めるのは、彼の宗教心とヴェルディへの敬意の表れであることは確かだろう。歌手はベテランの山下、妻屋は安定、バタフライの大役のあとの安藤赴美子も健闘といったところか。

追悼:ニコライ・ゲッダ

先日、ニコライ・ゲッダがなくなったというニュースが配信された。亡くなったのは今年の1月8日で享年91、家族は落ち着いてから公表したのだろう。ゲッダのレパートリーは広く、ヴェルディやプッチーニらのイタリアものはもちろん、クレンペラーとのモーツァルトの録音 オッフェンバックやカルメン、マスネのウェルテルなどのフランスものだけでなく、もともとロシア系だったこともあってか、オネーギンなどのロシアものも歌った。
膨大な録音が残されていて、これはというものを上げるのは難しいが、クーベリックとフィシャー=ディースカウらとハンス・プフィッツナー「パレストリーナ」の録音が素晴らしいので、あげておこう。
ご冥福をお祈りします。

スケーエン デンマークの芸術家村展@国立西洋美術館

国立西洋美術館で10日から始まった、スケーエン デンマークの芸術家村展の内覧会に出かけた。特別展ではあるが、新館の2階(素描室含み)での展示であり、常設展料金で見られる展覧会である。その分、松方コレクションの出品作は少なくなるが、デンマークとの外交関係樹立150周年の機会に、良い企画展となっていた。少し前までは、北欧の美術というとムンクぐらいしか名前が出てこなかったかもしれないが、同じ国立西洋美術館で2008〜9年に開催された「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」展や、2015〜16年に芸大美術館を皮切りにして、全国各地で開催された「ヘレン・シャルフベック ─魂のまなざし」展などが続き、より身近な存在になってきているだろう。そのなかで、今回の展覧会になったが、正直 スケーエンってどこよ?って感じです。まだまだ勉強不足ではあるが、2014年にコペンハーゲンに行った際、何点かみていることを思い出した。この年の旅行は、コペンハーゲンでは一番の目的はマティスの1905年の夫人像であり、そしてハンマースホイであった。
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なのでスケーエン派の作品へは、興味をもてば写真に収める程度の集中度しかなかったのだが、The Hirschsprung Collectionのような小さな空間では、P.S.クロヤーやミカエル・アンカーの作品のインパクトは大きかった。
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2017年カルカルバタバタ

この死に体のブログ、更新せずに死んでいくしかないのかもしれないが、今年はFB中心じゃなくて、こちらも書いていくことにしよう。としあけて、4本オペラをみた。新国カルメン、藤原カルメン、高崎バタフライ、新国バタフライの四本。おそらく、世間的には山田和樹のカルメン、日フィル28年ぶりのグランドオペラが話題だろう。僕がみた初日の一幕、オケのミスが多く、歌手とのタイミングも悪かった。二幕以降持ち直していったけど、ただし一番の難点はカルメンが悪すぎた。それに比べホセを歌った笛田博昭は立派だった。今回の岩田演出で気になったのは、ラストのホセがカルメンを押し倒す暴力的なシーンだった。ああホセってそんなに悪人だったんだと思うとなにかやるせなくなる。それと、月のセットも既視感ありかと。
一方、新国のカルメン 僕は子供たちが出てくるオペラが好きなので、ラ・ボエームやカルメンで活躍して欲しいといつも思っている。藤原のカルメンは子供が弱かったのに比べこちらはしっかりしていている。見慣れた演出なので 安定したレパートリー公演だった。
次に高崎で蝶々夫人をみた。これは大阪、金沢、高崎、東京の4劇場の共同制作プロジェクト、劇場法が出来たから実現しているようなものだろうが、新ホール準備中の高崎では、今後の市民文化におけるオペラの普及について考える試金石になったのではないか?今回一番安い席だったのだが、一幕は私語が多く、遅刻者も席まで案内していたので、落ち着かなかった。ただ、これはオペラが見世物であった先祖返りのようなものなのかもしれない。レーモンド設計の横に広く、音響的に厳しいホールで公演を成功させた高崎財団の心意気に拍手を送りたい。さて、今回の笈田ヨシ演出、先日みたスカラ座における初演版公演のグロテスクな演出とはことなるものであったが、バタフライとケイトの対話を復活させていた。ただケイトは歌手でなくて女優だったこともあって、違和感はあった。
次に、新国のバタフライ これも何度もみているもの、日本人バタフライを安藤赴美子が熱演、ラストの自害シーン 子供が見つめる演出はママで 嫌いな人は嫌いだろう まあ、それと刀を抜いただけの笈田演出とどちらが好きかというと こちらの方が好きかな。そもそも、もんぺ姿のバタフライは アメリカと日本のコントラストをつけたい気持ちはわかるが みすぼらしく切ない。

Square de Montsourisの藤田嗣治

NHKで放映された「パリ狂騒の20年代」はとても面白いドキュメンタリーだった。その映像のうち、藤田嗣治が登場するシーンがある。それは、8分ぐらいすぎたところで和服で登場しKIKIのデッサンをするシーンと、坂道を降りてくるシーンだ。このうち、坂道を降りてくるシーンは、モンスリ公園近くのSquare de Montsourisであり、そのまま登り下ると言わずもがなLCが設計したオザンファンのアトリエにたどり着く。この映像が、いつ撮影されたかは知らないが、藤田が3番地に居を構えたのは1928年とのことであり、この近くには大学都市があり藤田の壁画がある日本館がオープンしたのが1929年であることからすれば、そのぐらいの時期なのだろう。
実は、藤田の生涯など詳しくなく 藤田がこの通りに住んでいたことを知らなかったので、初見でこの通りであることは直観でわかったが、自分で撮影した写真をみるまで確証できなかった。
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確かに↓のような写真と比較してぴったりだけど、右のバルコンみたいなところが確証もてなかった。
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一階部分にある楕円の形状が確認できれば、まさにこの道なんだろうと思ったわけだ。
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そこで、2008年の大量なデータの中から探すと あった よくみるとこの通りのオザンファン邸に向かって右側二軒目の前に藤田はたっていることになる。そもそも、この一軒目つまりは2番地の建物は、オーギュスト・ペレが1923年に建てたMaison Gautであり、そのとなりの4番地が問題の建物になる。さて、その隣の建物は誰が設計したのか?こんな探偵ごっこしている暇はないのだけど、気になっている。
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豊田市美術館 開館20周年記念展 ソフィー・カルなど

豊田市美術館が20周年とのことで、バリアフリー化工事などして、リニューアルオープンした。名古屋で学会があり、豊橋で途中下車して、久しぶりに行ってみた。リニューアル記念の展覧会は、前期と後期に分かれて4月迄開催されるとこのこだが、その前期の展覧会は、「ソフィ・カル 最後のとき/最初のとき」展示室1-4 と、「開館20周年記念コレクション展I:わたしたちのすがた、いのちのゆくえ ―この街の100年と、美術館の20年」展示室8、美術館ギャラリー「牧野義雄」展示室5 と、盛りだくさんだった。
まず、特別展扱いのソフィー・カルの「ソフィ・カル 最後のとき/最初のとき」だが、これらの作品のいくつかは、いろんな場所でみたことのある作品であるものだ。そのなかで、一つ気になったのはロマネスク美術愛好家的視点というか、ヴェズレーのタンパンの彫刻の作品だ。というのも、配布されているパンフレットには「私が見た最も美しいものは、ヴェズレーのキリスト像です。絶対的な美しさです。浮き彫り状の起伏はかなり衝撃的です。」と訳されているのだが、ここで「像」と訳されている語はmoulageであり、statueではない。もしかしたら、この子は石膏像、あるいは鋳造された複製品を実際に触ったのかもしれない、すると「衝撃的」と訳されたtouchant の意味合いも変わってくるかもしれない。そこに、視覚だけでなく字義どおりの「触る」意識があったのかもしれない。とはいえ、ヴェズレーの複製は、トロカデロ宮の建築文化財都市に、確かにあるが、手で触れるような状況ではない。リヨンの複製美術館等に触れるような状況であったのか、不明のままだ。
 コレクション展は、この美術館が豊田市の税金で運営されていることを意識しているのか、コレクションと並行して豊田市の歴史についての展示が行われていた。情報通からの話だと、この展示は苦肉の策であったという話だが、面白い企画だった。それにしても、コレクションが充実しているし、谷口モダニズムの建築は美しく、野外彫刻も充実している。ただ、難点をいえば名古屋からも、豊橋からも遠いということだろう。

舞台は夢@spac-1

宮城聰率いるSPACの今シーズン最初の演目は、フレデリック・フィスバック演出による、ピエール・コルネイユのIllusion Comique.「舞台は夢」だった。色々と忙しくて、なかなか感想が書けなかったが、書くことにしよう。
まずこの劇は、ゴダールの一連のメタ映画のような、メタ演劇であること。しかも、バロック劇であるということに特徴がある。コルネイユは1637年のル・シッドの成功のあと、いろいろと妬まれて論争となり、それが三単一の法則や真実らしさ、ふさわしさの規則を遵守するフランス古典主義を導くことになるのだが、このイリュージョン・コミックはル・シッドより以前の1635年の作品だ。この作品では、イリュージョンつまりは、幻覚であったり、錯覚によって登場人物の情念は揺れ動いている。とはいえ、2年後のル・シッド論争とデカルトの『方法叙説』が同年であることを思えば、この作品にも、全ての人に公平に分配された良識bon sensつまりは理性raisonの意識はあるだろう。たとえば、三幕のクランドールとリーズの会話は、興味深い。伊藤洋訳だとこんな感じ
クランドールは、「愛は束縛とはそりが合わない。愛の最大の魅力は、愛しているときでも、そうでない時でも、つまりは味わうということにあるんだ。さあ、ぼくが君に捧げるこの愛に、お返しをしておくれ」とリーズに投げかけると、リーズは「あなたはわたしを良く知っているのだから、あたしをそんなふうに愛せるはずないは。あなたの本心をみせずに、面白半分にあたしをからかってばかりいるのね。」と応える。
この翻訳は初版をあえて使っていて、やっかいだったが原文をgallicaから拾ってくると以下のような感じ
Se goute quand on aime, et qu'on peut n'aimer pas.
Vous me connoissez trop pour m'aimer de la sorte, Et vous eu parlez moins de votre sentiment, Qu'a dessein de railler par divertissement.
まあ、美学的には あじわうという用語が気になる さらにバロック的な感性といえば、本質と見せかけの問題となる。ところが、この部分は 後の版ではこんな↓ふうになる
De ce qu'a mes desirs ma raison fait d'injure.
A tes moindres coups d'oeil je me laisse charmer.
Ah ! Que je t'aimerais, s'il ne fallait qu'aimer,
Et que tu me plairais, s'il ne fallait que plaire !
LYSE.
Que vous auriez d'esprit si vous saviez vous taire,
Ou remettre du moins en quelque autre saison
A montrer tant d'amour avec tant de raison !

ここでは、raison やesprit という用語が気になるし、演出のことも書きたいが時間切れ 初版のテキスト探すのに時間がかかりすぎた

イヨネスコの犀@彩の国埼玉劇場byFT

フェスティバル・トーキョーの事業なのに、なんで与野本町なのかという疑問はさておき、この劇場の立地が嫌いで足が遠のいていたが、イヨネスコの犀を上演するというので、行ってみた。通常不条理劇と括られるこの劇であろうが、イヨネスコがファシズムに感じていたリアリティとは別の視点で、この劇の現在的なリアリティを見いだせなければ、この劇が演劇における身体性と音響や舞台装置の問題に収斂してしまうだろう。そもそも、フランスの役者さんたちの地声の大きさが、気になった。なぜ、そんなにまで叫び続けなければいけないのか、そのなかで、おどおどしているベランジェも最後に人間でいることの決意は力強い。
当然ながら、わたしたちはこの劇を上演したパリ市劇場のことに、そしてパリのことに思いを寄せなければいけない状況にある。シャトレからあのテロの起こった場所は、さほど遠くない。世の中は、この劇以上に不条理な世界が蔓延している。イヨネスコはファシズムに対抗しうるヒューマニズムを見ていたのか?卑劣な行動をしたISはファシズムと同じなワケがない。一方、それに対抗するための軍事行動をヒューマニズムの問題では解決できない。ならば、犀とはなになのか?この劇のなかで犀は美しいという台詞がでてくる。犀へのあこがれとは?ファシズムが政治の美学化であったとすれば、それも納得いくが、ISに美学化は成立するのか?美しいということばは危険なのだ、それが人間が人間でなくなる可能性をひめているとき、人間でいるといつづけるという宣言は、美学化を拒むような意志のようにも思えてきた。

モンパルナス駅(ヒューゴの不思議な発明)のVU

授業でメリエスの話をすることになって、そういえば「ヒューゴの不思議な発明」のあの人ですよと説明した。20年代のシュルレアリスム期からトーキーの時代にかけて、フランス映画が低迷しメリエスが忘れられていく文脈での話だったのだが、「ヒューゴの不思議な発明」の時代考証で、気に入っているのは、駅に写真雑誌VUの広告が映っていることだ 28年に創刊されたこの雑誌はウィキにもあるように 28年に創刊して ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」を掲載したことでも知られている
まあ、このあたりはずっとエレンブルグの話をしているときに、語ってきたのだけど それが、まさか「ヒューゴの不思議な発明」(20から25秒あたり)で出てくるとはと、飛行機の機内映画でみたとき唸った記憶が蘇った
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トスカ@新国立劇場

アイーダの次に集客が見込める新国立劇場のトスカ、何回目だろうか・・一幕のラスト テデウムの美しさを見たくて、初日に出かけた。ブログを検索してみたら、今回で5回目のようで、2012年はドラゴンが素晴らしいと書いてあった。
さて、今回のキャストは以下の通り
トスカ マリア・ホセ・シーリ
カヴァラドッシ ホルヘ・デ・レオン
スカルピア ロベルト・フロンターリ
アンジェロッティ 大沼 徹
スポレッタ 松浦 健
シャルローネ 大塚博章
堂守 志村文彦
看守 秋本 健
羊飼い 前川依子

まず、トスカ 高い日本公演のスカラは行けないので、はじめてかな 顔立ちは地味に見えたけど、完全に自分の役となっていて、破綻なく安定していてスカルピアを殺害するシーンの演技などもいい
いままでのプロダクションの中で、サンタンジェロ城からの落下のシーンは一番ダイナミックだったような気がする 来年の『アンドレア・シェニエ』マッダレーナも楽しみだ
カヴァラドッシのホルヘ・デ・レオン  も良かったが やはり 何回も聞いているフロンターリ 良かったり悪かったりだけど、今回はとても気に入った いやらしい悪漢ぶりは気持ちよい 指揮はノルウェーのエイヴィン・グルベルグ・イェンセン 春に読響を振ったらしいが聞いていない なので初めてかな?ダイナミックで馬鹿馬鹿しく 美しいプッチーニの音楽を堪能させてくれた 

No Museum, No Life?―これからの美術館事典 国立美術館コレクションによる展覧会

東京国立近代美術館にて、No Museum, No Life?―これからの美術館事典国立美術館コレクションによる展覧会を見た。国立の美術館5館のコレクションを駆使した優良な展示であり、これで夏休みのレポートを書かせたくなるような展覧会であった。それは、日本の国立美術館のコレクションの幅の広さと優良さを感じさせるに十分な展示であるが、一般受けするかな?戦後70周年ということもあり、常設展示ではいつも以上に戦争画の展示が充実していた。それと同時に、特別展と常設展とで、藤田嗣治の作品を多くみることが出来た。
さて、展覧会は美術館事典に徹底するからNo Museum, No Life?という題をつけたくなるのだろう。このときNo Art, No Life?ではないのがミソなのかもしれないが、美術館などなくても生きていける、芸術さえ存在するのであれば・・・といったような斜に構えた芸術至上主義、ロマン主義は無効な時代なんだろうなあと漠然と思った。

宮本亜門演出 二期会「魔笛」@東京文化会館

先週の話だが、二期会の「魔笛」を観る。一言でいえば、良く出来た舞台だった。特にプロジェクション・マッピングによる映像表現が見事で、それとスクリーンとなる舞台装置との連動もすばらしく、良く考えられていた。亜門の演出は、序曲の部分でホームドラマ風に仕事に疲れた父親と母親、そして子供たちと祖父との幸せの家庭が母親の家出という試練をうみ、それが最後には大団円で解決するというもので、普通考えれば最初から十分予想出来る展開ではある。ただ、そんな見え見えの演出ではあるが、妙に説得力を感じてしまった。要するに、ぐっときたんだ。そこには、テレビドラマを見ているような感じ、それは大人の女性歌手ではなく、少年たちが三人の童子を演じていたからかもしれない。カルメンにしろ、ラ・ボエームにしろ僕はオペラの子供たちが大好きなので、それだけでも甘めになっていたのかもしれない。二期会は、おそらくウルトラマン魔笛以来の新制作なのだろうけど、それぞれのドイツ語は今一つだった。子供連れも多かったのだから、日本語でもよかったのではと思った。
歌手は、幸田浩子のパミーナ 鈴木唯のタミーノ、そして妻屋秀和のザラストロ、さすが二期会ならではの安定感ではあるが、裏キャストも気になっていた。それは、亜門がKAATの監督時代に上演した「マダム・バタフライX」で蝶々夫人を演じた嘉目真木子のパミーナも聴いてみたかった。

針と鋏の表象について ヘレン・シャルフベック展@東京藝術大学美術館

フィンランドの女性画家、ヘレン・シャルフベック展を見た。一人の女性画家の生涯を一気に見ることが出来た好企画で、ハンマースホイ展以来日本に余り知られていない北欧の画家たちを紹介する、担当者の熱意を強くかんじる展覧会だった。
この画家について、何かを語る術はないのだが、今回の展覧会で気になった作品について、書くことにする。それは、〈お針子(働く女性)〉」という作品で、1905年に描かれていて、おそらく構図からしてホイッスラーの〈灰色と黒のアレンジメントNo.1(母の肖像)〉をイメージソースにしているというものだ。展覧会では、晩年に再解釈された作品も展示されていた。

今回の展覧会では、〈家にて(裁縫する母)〉1903年という作品も展示されていたが、二つの作品は両方とも裁縫に関係するが、〈お針子(働く女性)〉と邦題がつけられた作品には針がなく、腰からリボンでつながれた鋏が描かれ、〈家にて(裁縫する母)〉では縫い仕事をしているので、明瞭ではないが針の存在を意識させる。そもそも英語でseamstressをお針子と訳すことに問題があるのかもしれないが、お針子の表象については、神戸大学の平芳裕子さんの一連の研究があり、それらを見てもお針子は字義通り「針」により縫うことの表象が中心であり、鋏により裁つ表象を見いだすのは困難だ。例えば、平芳さんが紹介する1849年のパンチ誌の図像には、暗い部屋で給金を稼ぐために裁縫をする女性の横にろうそくの光の下で照らされる図像を見いだすことが出来る。
さて、先月の京都国立近代美術館講堂で開催された、藝術学関連学会のシンポジウムで平芳さんは登壇して、マンガから映画化された「繕い裁つ人」を例にあげて服をつくることをについて語った。ここでは、針仕事からミシンの時代に変わり、鋏の表象の方が優勢になるような気がする。
シャルフベックに戻ると、家庭の画題の針仕事となり、労働の画題の〈お針子(働く女性)〉を対比的にみることは可能なのか考えることになる。そもそも、シャルフベックはファッションに敏感であったという、そのなかでこの時代のフィンランドの仕立て屋事情は不明なので、何とも言えないが、何かしらの関連があるのではと思った。
ところでフィンランドにはフィスカースという有名な鋏ブランドがあり、この絵の鋏はフィスカース社のものなのでは?と色々と画像検索したが思うようにいかなかった。その画像検索のなかで、gallica を検索したら、Roubaixのサイトに飛んで、腰紐に鋏を結んだ画像に行き着いた。これは麻糸のパッケージデザインなのようだ。残念なことに年代は19−20世紀とざっくり。この先論じる術もなく、今日の検索遊びは終わりにする。
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テオドール・クルレンツィスの件

あの、超弩級に面白い モーツァルトのレクイエムやショスタコの14番で知られていたテオドール・クルレンツィス メジャーなソニーからダ・ポンテ三部作のうち、フィガロとコジが販売されている。これも素晴らしく、独創的な演奏なのだが、生で聴いたことあるかなと 調べてみると2008年のパリオペラ座のドン・カルロで出演している。
それは、当然見ているので、日記を探してみると。残念なことに、当日は別の指揮者が担当していて、結構ボロクソに書いている。じゃあ、いつ生で彼らの演奏を聴けるのだろうか?

イプセン「海の夫人」@新国ピット

ノルウェー語から新らたに翻訳された台本に基づき、イプセンの「海の夫人」をみた。
宮田芸術監督の演出により、キャストは麻実れい 村田雄浩 大石継太 眞島秀和 橋本 淳 横堀悦夫 太田緑ロランス 山 薫 といったひとたち。
ピットの中央に舞台をくみ、客席は舞台を囲むようになっており、またスノーボードのハーフパイプみたいに、舞台は左右というか前後にせりあがっている そのせり上がり部分は登場人物たちの出入り口をもつ構造で、それぞれの幕で場所設定が変わるというものだ。
麻美れいは、ここでは亜門演出のサロメ へロディア以来 まあ上手い。タイトル・ロールならでは、対照的な姉妹もメリハリついていてよい。

サーリアホ「遙かなる愛」@オペラシティコンサートホール

サーリアホのオペラ「遙かなる愛」を見た。コンサート形式なので、見たというよりは、聴くの方が良いかもしれないが、僕的には舞台後方のスクリーンに上映された、映像と音楽との関係を重視したいので、見たとしておく。また、マーケットではloinを彼方としているが、今回は遙かなるとなっている。まあどうでもいいが、悠久さは遥かに軍配があがるが、彼方はただの距離感が強いかもしれない。
このオペラは、ジェラール・モルティエがサーリアホに依頼し、2000年のザルツブルグ音楽祭で上演されたものだ。その後、サロネンがフィンランドオペラで上演したものが、dvd化されている。それらは、ピーター・セラーズが演出しているのだが、ピーター・セラーズは、アダムズの「エルニーニョ」やビル・ヴィオラとタッグを組んだトリスタンとイゾルデでは、舞台と映像の関係性が問題になるところでもある。ただ、今回の舞台で上映された映像は、ジャン・バティスト・バリエールによるものであり、セラーズの演出の記憶を消すことから生まれたとのことだ。
映像は元の映像に、ライブカメラ4台をミックスして、後方に投影されたのだが、主として歌手のクローズアップを、エフェクトかけて元の映像に被せるという手法によっている。まあ、コンサート形式による舞台で、それほど効果があるかは疑問ではあるが、現代音楽初心者の興味を引きつける効果は多少あったのかもしれない。かといって、それに集中させるといった物でもなかった。つまりは中途半端だ。
会場にはスピーカーがせっちされ、ささやくような声などが、聞こえていたはずだが、私の席からは判明には聞き取れず中途半端さを感じた。

ばらの騎士@新国立劇場

マチネ公演ばかりのなか、唯一のソワレ公演にでかけた。そもそも、このオペラは昼見る物じゃないだろう。それは、さておきストレスのないいつもの3階席で見たのだが、本当に4階席はだめだ。今回のばらは、確か3回目かと思うが、ジョナサン・ミラーの由緒正しい演出は、再演演出家によって随分下品な感じになった感は否めないが、それでも ばら は大好きなオペラであり、大作でもあるので、見る機会を逸したくない。
今回の舞台はシュテファン・ショルテスの指揮で、歌手は【元帥夫人】アンネ・シュヴァーネヴィルムス【オックス男爵】ユルゲン・リン【オクタヴィアン】ステファニー・アタナソフ【ファーニナル】クレメンス・ウンターライナー【ゾフィー】アンケ・ブリーゲル【マリアンネ】田中三佐代【ヴァルツァッキ】高橋 淳【アンニーナ】加納悦子【警部】妻屋秀和【元帥夫人の執事】大野光彦【ファーニナル家の執事】村上公太【公証人】晴 雅彦【料理屋の主人】加茂下 稔【テノール歌手】水口 聡【帽子屋】佐藤路子【動物商】土崎 譲 というもの。
日本人歌手では、妻屋、加納といったヴェテランの安定ぶりと、大野、晴、加茂下、高橋といった一癖も二癖もあるバイプレイヤーの安定ぶりも見逃せない。つまりは、安定している レパートリー公演としての一定のクオリティはあるといったとこrか、問題は主要歌手であるが、元帥夫人とオックス、ファーニナルそれぞれ出来がよい。オクタヴィアンとゾフィーの若いカップルは、オクタヴィアンは少年らしいというか、宝塚的というか、西本智美っぽいというかそんな体なのに、ゾフィーは垢抜けない感じでアンバランスな感じがきになる。オケは、レパートリー公演の水準というべきかもしれないが、何故か泣けなかった。それは個人的理由もあるが、なぜかラストの高揚感を楽しめなかったからだ。それは歌手とオケのバランスからだったかもしれないが、シュトラウスはシュトラウスのありがたさはある。

椿姫@新国立劇場

新制作の椿姫を見る。最終日のマチネ、場違いとも思われるようなドレス姿の令嬢軍団と、平日マチネがありがたい余裕世代の方々のアンバランスなメランジュに苦笑い・・・またチケット買い忘れたこともあり、久しぶりに4階席 例によって1列目の方の不作法と2列目の方のお怒りという現場に遭遇し、劇場の構造的な欠陥とその場の苦々しい状況に辟易した次第。
さて、それはさておき、今回の上演は【指揮】イヴ・アベル【演出・衣裳】ヴァンサン・ブサール【美術】ヴァンサン・ルメール【照明】グイド・レヴィと言った方々による新制作で、椿姫のモデルとなった、マリ・デュプレシに焦点をあてるというもので、彼女の画像や碑文やらが投影される。また、彼女の生きていた時代のピアノが舞台装置となり、同時代のパリオペラ座の映像なども使われた。さらに、舞台はオケピの上に一部つきだした形で設定され、全体として鏡張りで、幻惑感が漂わせるものであった。
キャストは【ヴィオレッタ】ベルナルダ・ボブロ【アルフレード】アントニオ・ポーリ【ジェルモン】アルフレード・ダザ【フローラ】山下牧子【ガストン子爵】小原啓楼【ドゥフォール男爵】須藤慎吾【ドビニー侯爵】北川辰彦【医師グランヴィル】鹿野由之【アンニーナ】与田朝子の面々
まず、指揮のイヴ・アベルが良かった。メリハリがあり、感傷にながれすぎず、音の構造を意識させ、よろしい。歌手はやはり、ボブロのヴィオレッタが一番であり、他もなかなかだ。ただ、今回の公演はやはり、通常の演出とは異なる点が特筆されるべきだろう。特に第三幕の紗幕と丸い額縁の意図を考えなければならない。死に瀕した、ヴィオレッタはピアノの上に横たわっているが、紗幕で隔たれ、アンニーナ、グランヴィルそしてジェルモン親子とも違う世界にいるかのようになっている。ならばヴィオレッタはどこに、いるというのだろうか?それは額縁の向こう側の、単なる妄想なのか、そして黒く丸い額縁はヴィオレッタが死ぬときにはあがり、最終的にパリオペラ座ガルニエの赤い緞帳のクローズアップで終わる。この解釈については、じれったさが残った舞台であった。

ガタリ「リトルネロ」のゲ=リュサック通り

ガタリのリトルネロ まあ買うほどの本でもないだろうと図書館で借りた  気になったテキストは以下のところ

ときおり、私は彼をオートバイで連れ出し、リュシアン、ピエール、そしてミッシェルに会わせた。ムッシュー・プランス通り。ゲ=リュサック通り。恋愛の地図。 

先に未来ホテルと進歩ホテルはゲ=リュサック通りにある。そこに反応したのだが、そこからリュクサンブール公園方面へ移動し、サン・ジャック通りの狭い道を歩いてみる そんな85年の記憶が蘇る。
そこで、ガタリ気取って 自分なりの記憶を重ねてみる

ゲ=リュサック通り未来ホテルと進歩ホテルの記憶が交差 21番と27番のバス サン・ジャック通りの安中華店 昔の京子 スキュデリの恋愛の地図 笑うべきプレシューズ ゴダール 男の子の名前はみんなパトリックというの リュクサンブール公園の気狂いピエロ エリー・フォールのヴェラスケス ムッシュ・プランス通りの映画館 ゲアトルーズ 城壁の記憶 レストラン・ポリドールのトルコ式トイレ ウリポ 
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