2006年08月

2006年08月25日

「序」を終える

 論文の「序章」を書き終える。書き出して10日以上経つのだが、やっと本論に入ったところ、というのはなんとも情けない。ペースがまったく上がらないのは困った事実であるが、しかし、「序章」にこんなに時間を費やしたのは他にも原因があるのだ。
 それが序章の量。なぜか15000字。原稿用紙にして38枚程を、なんと本論に入る前に使ってしまった。別に紙数に制限がある訳ではないので、関連する事項については努力が及ぶ範囲で書き尽くしたい、と思って書いていたらこうなってしまった様だ。
 いや、しかし15000字とは……全四章からなる本論がいったいどれ程の量になるのか、書いている自分ですら全くわからない。

2006年08月24日

うる星やつら2──押井守の底力

うる星2

 かねてから、「「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」がヤバイ」という風の噂を度々耳にしていたのだが、一昨日またその話を耳にして、さらにその直後東浩紀がブログに同じようなことを書いているのを見た。そんな偶然が重なって、これはきっと「今見ろ」という何かの知らせだな、という都合の良い時だけ盛り上がる神秘主義志向がムクムクと起動されてしまい、昨日学校帰りにレンタルビデオ店でDVDを借りてくる。レンタルビデオを殆ど利用した事がないので(だから映画教養が恐ろしく欠落しているのだけれど)、最近は入会金もなく一週間で100円という激安がスタンダードになっているらしく、とても感動した。(で、やっぱりカウンターにパッケージを持って行ってしまって、また怒られた。)
 そんなこんなで、意気揚々と借りてきて軽い気持ちで見始めたのだが、これが凄かった。アニメーションのこと、例えば構図だとか美術だとか声優だとか……ということはあまり詳しく無いので良くわからないが、とにかくスゴイのは「これをよく1984年に作ったもんだ!」ということである。(逆に、あの時代だからこそ作り得たのだろうが、しかしそれは凡人のなせる業ではない。)
 消費社会化が怒濤のように展開する80年代において、おそらく多くの人は現実として立ち上げられた「虚構」に対して距離などとれなかったことだろう。ところが、「うる星2」の映像世界の中で、世界は完全にメタな地点から「虚構」と「現実」が等価なものとして相対化されている。それがまさしく象徴されているのが、最後の「うる星やつら2」のタイトルが出されるシーンではないか。もはや、ラストシーンの後に続くであろう「学園祭」は、「虚構」と「現実」の境界が失効し、さらに言えば見ているこちらの「現実」との距離感も曖昧になっている(と受け取ることもできる)。
 この「うる星2」を貫く、眼前で展開される「記号」への徹底した不信感と、それに対して別の「記号」を投げつけるという浅はかな選択肢に対する冷静さは、「劇場版 パトレイバー」とその多くを共有しており、従って「うる星2」のヤバさは、監督を努めた押井守によるところが大きいだろう。最近は、「立ち食い」とかでなんだか趣味の領域に閉じこもっているように思える押井だが、やはりスゴイ人だと認識を改めさせられてしまった。
 うん……いいもの見たなぁ、と100円で大満足である。返すまでにあと何度か見ておきたいものだ。

2006年08月23日

Number Girl……もしかして、結構いいんじゃないか?

向井秀徳

 論文を書いている時の楽しみは、草稿を書いているWordの裏側のiTunesである。この前、ひょんなことからNumber Girlを聴いて、「あぁ、こんなだったな」と懐かしく思ったのだが、同時に単なる郷愁ではなく「あ、もしかしたらこれは結構良い曲かもしれない」と思った。ついでにZAZEN BOYZのライブのmp3ファイルが向井秀徳のサイトに上がっていて、それを聴いてみたのだけれどやっぱり「良い曲かもしれない」という印象は変わらなかった。
 高校の頃からNumber Girlは聴いていたけれど、向井の芝居がかった胡散臭さがあまりに鼻について、嫌いだった。田淵ひさ子のギターとか、アヒトの手数のやたら多いドラムとかは好きだったんだけれど、どうも向井の声と自意識過剰な歌詞が、生理的に受け付けず、インストだったらきっと好きになれたろう、とさえ思ったことがあった。そういえばフジロックで、オアシスでファンに取り巻かれながら、ギターを弾いて隣に座った女の子に「赤いスイートピー」を歌わせていた向井を見かけた事があったのだが、その時とっさに「ナンバガの向井だッ!!」と叫んだ僕を、向井はひどくジトっとした陰惨な目で見て、それで僕は「向井というのは、こんなところでまで「松田聖子ネタ」という自己演出をしてしまうようなヤツなのか」と一層嫌いになったのだった。
 ところが、歳のせいか夏のせいか論文のせいか知らないけれど、「演出なのか否か」の真偽は別にして「演出を演出として」受け止めてしまうと、意外とこれが良い曲なのではないかと今日思ったのだ。ガサツな印象はあるけれど、意外と計算はされているんじゃないか……と。かくして、論文を書く間に、みるみる「向井秀徳」の記号性は再編成されていったのであった。

2006年08月20日

片桐はいりvs佐藤琢磨

 いったいこれは何の勝負なのか?日本の夏にはお決まりの「あれ」、つまるところ高校野球決勝である。
 本当は学校で論文を書くつもりだったのだけれど、お昼ご飯を食べ終わった頃に、どうやら右手の人差し指が誤ってNHKにチャンネルを設定してしまったらしい。そんなわけで「青春」のステレオタイプを煮詰めて映像化したような、「性春」などの欠片もない(かのような)画面に釘付けになってしまう。壮絶な投手戦が予想されていたけれども、所詮は高校生(でも未だにブラウン管ごしの高校生は年上に見えるのだけれど)、甲子園決勝にいつものペースが保てるわけなどなく、3〜4回長くても6回までには試合は決するであろう……と思って見始めたのは良いものの、北海道の片桐はいりも、東京の佐藤琢磨もなかなかどうして肝のすわった高校生で、まぁよく投げる、おさえる。
 結局延長15回でも決着はつかず再試合に。時刻はすっかり16時を過ぎ、家を出るのは完全に夕刻になった。とはいえ、大変面白い試合を久しぶりに見て満足。これから大人の汚い金が流れて、ドラフトで一悶着起きるのが非常に楽しみである。頑張れ、ナベツネ!


2006年08月19日

行為は、行為中よりその開始の瞬間にその本質が結晶している

 ついに、論文を書き始めている。
 論文の様な、「準備して、準備して、準備して……いざっ!」という類いの行為というものは、兎角この「いざっ!」という踏ん切りの瞬間が非常に重要なのであるが、私はこの見極めがことの外苦手である。この見極めを困難にしているものは、「行為の為の準備行為」と「行為」がその評価において本質的に異なる事に起因するにちがいない。つまり待機の時期、即ち来るべき行為に向けて準備するという「行為」は、基本的に「不十分」であることを前提に評価されるものであって、「はかどらない」とか「遅い」という評価はあり得るとしても、原理的に行為それ自体が否定されるべき対象とはなり得ない。仮に当該「準備行為」が無駄である事が判明しても、それはいずれ評価されるべき「行為」のために必要な準備行為であった──いま「無駄」だって気付けてよかったのだ、これによって今後有用な「準備行為」ができるのだから──として、その評価を来るべき「行為」そのものに丸投げ可能である。
 しかしながら、それに対し「行為」そのものは、もはやそれ自体が否定される可能性を孕んで現前する。つまり「失敗」する可能性が浮上するのだ。
 この可能性が、行為への跳躍を一層困難にしているのであるが、それは結局「行為の瞬間の先延ばし」へと帰結する。だが、一方で「行為の瞬間」というものが想定される程に「飽和量」に達した準備行為は、当然「未だ準備されていない外部」を想定するのが困難な状況にあるのであり、従ってもはや内容のある「準備行為」というものは存在し得ない。それゆえ、先延ばししたところで何をするかといえば「無為な日常を漠然とした不安を抱えてすごす」というどーしよーもないことになるのである。
 これは「研究発表」やプレゼンなど機会に毎度毎度感じることで、準備期間も含めて日程が定められる「発表」などについてはその空白期間をいかに埋めるかということに苦心していたのである。(それゆえ、先月の研究発表前一週間は知の底上げをはかる「谷崎潤一郎WEEK」とした。)
 とはいえ、今回は全く個人的な日程で動けるので、今週から(とはいえ月曜火曜と微妙な時間を挟んだけれど)ついにその決死の跳躍へと踏み切った訳で、もう踏み切ってしまえば、まさに「やるっきゃない」という土井たか子的感情のまま動けるわけで、今まで用意してきたことに自らの全てを任せて、ひたすらキーボードを叩く。