2007年11月29日

世間的に相撲需要が無いのは承知の上

今年の大相撲界を象徴するかのように、酷い結末の九州場所だった。相撲内容自体はところどころ良いものが見られるものの千代大海と稀勢の里の絡まない上位陣の取り組みは大概酷く、優勝争いは熾烈を通り過ぎて混沌とするし、おまけに三敗での優勝ではしまらない。立会いも安定せず、特に安馬と白鵬の絡む立会いは呼吸が合う合わないによらず汚い。同じモンゴル人でも旭天鵬のは見れるというのに。

白鵬の出来は先場所と打って変わって酷かった。仮に千代大海が休場せず、千秋楽の取り組みで優勝が決まる状況になっていたとしたら、千代大海が優勝だった確率は高い。それだけに14日目の怪我は惜しい。怪我の直接的な原因となったのは、不発であった白鵬のとったりなわけだが、白鵬が不調だからこそまともな投げが打てずとったりになったことを考えるに、ますます千代大海が不憫で仕方が無い。白鵬以外の二敗はどちらも相手の変化によるものだったことを考えても、今場所の千代大海の調子の良さが伺えた。

魁皇は……残っちゃったねぇ。確かにいまだ強いのは認めざるを得ないが、負けた取り組みを見ると明らかに体が無理をしているのがわかる。引き技を頻発するようになって取り組みも汚い。三場所くらい前から言い続けてるが、もう止めてほしい。まだ晩節を汚さずに済んでると思う。

それにしても、九州場所廃止論が本気で浮上してきたらしいが、去年の九州場所の時にも書いたけど自分は前から廃止論だ。客は入らないし、入った客はガラが悪いしどうしようもない。魁皇への過剰な応援は仕方が無いにしても、千秋楽、琴光喜が白鵬を破ったからといって座布団を投げてはいけない。琴光喜は大関じゃないか。名古屋場所、大阪場所を一場所増やすか、巡業の代わりに仙台か札幌で場所を持つことにすれば、解決すると思うのだが。

その他の力士については、琴欧洲は不幸すぎるので次の場所がんばってほしい。鶴竜はやれば出来る子だと信じてます。まだ動きがぎこちないけど、何か将来大役になりそうなものは持ってる。安馬は普通にやれば強いはずなんで、立会いに落ち着きを持ってください。今場所の稀勢の里は輝いてたと思う。えらい腰が重かった印象がある。把瑠都は出島戦がしびれた。マジ期待してるんだぜ。栃煌山には再奮起を促したい。どうしちゃったんだろうね、全然良いところが無かった。怪我してる様子も無いが。


後は、ほとんど需要が無いだろう初場所予想番付。誰か見てるんかな。
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2007年11月27日

やり場の無い怒り

アイマスはアイマスでもカルタは関係ない話。

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東京から約一時間

鳥獣戯画の翌日、三連休を利用して高尾山に登ってきた。紅葉を目的に行ったのだが、時期は正解だったものの常緑樹ばっかりでちっとも紅葉という雰囲気はしておらず。そう考えると、パンフレットの写真というのはよほどいいポイントを探して撮っているんだろうね。

高尾山口からケーブルカーやリフトが出ていたが、一月ほど早いコミケ並に混んでた上に「そんな軟弱なこと出来るか!」と無駄な根性を発揮して、緩やかなコースをあえて外し、川沿いを進む健脚者用コースから登った(登山者用コースもあったが、様子がわからず止めておいた。後から知ったが、健脚者コースと大差は無く若干遠回りなだけ)。

健脚者用コースはそう名乗るだけあって全く舗装されておらず、たくさん人があるいた結果勝手に整備されました、という様子。まあ獣道ではない。川沿いを進むだけあって森は綺麗だったがそれに隠れて遠景は全く見えなかった。森は全部常緑樹で、春と言われてもだまされるような。案の定川を見つけると童心に帰る法則を発揮して、ぴょんぴょん飛び回る大学生二人自重。

普段から歩きなれている二人なだけあって登山自体は全く苦にならず、90分のコースを70分弱で踏破。むしろ「山奥は寒い」という情報の元、真冬の装備(偶然二人ともアキバ系に見える服ランキング2位のダッフルコート)で行ったら偶然この三連休は日本晴れでめちゃくちゃ暑かった。ダッフルのかさばることといったら無い。

帰り道は同じ道で帰るのもねぇ……常緑樹見飽きたし、ということで、観光スポットの多い緩やかな一般コースで下山した。途中稲綱権現と天狗を祀る薬王院という神社があったので、二人で「天狗が信仰の対象ってのは珍しいね」と言いながらお参りしていった。文ちゃーん、椛ー、藍しゃまーと騒いだのは秘密。うまそうな匂いをしていたおやきをつまみ食いしてしまったのだが、よく考えるとおやきって長野名物だよね。あと十割蕎麦も売ってたが、十割蕎麦も信州じゃないか……?中仙道つながりなんだろうが、無視される甲府かわいそす。

こめが大量に写真を撮っていたが、かなりの確率で俺が写っているのでうpは無理だな。リアルの友人で見たい人はこめに聞いてみてください。すごくいいところでした。ファミリーな観光客でめちゃくちゃ混んでたこと以外は。
  
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2007年11月26日

ケロちゃんかわいすぎる

あえて丁巻(鳥獣戯画)こめと一緒に鳥獣戯画展を見に行ってきた。今回は大きな展示替え(11/26)の前で、甲乙丙丁それぞれの前半部分と断簡が展示されていた。甲乙丙丁という分類自体が後世による後付ではあるのだが(高山寺に伝わる戯画をまとめて総称しているに過ぎないのだから)、分類によって大きく特徴が異なり、やはりどう考えても単独の作者はありえないだろうと思う。

甲巻が最も有名な、兎や蛙の擬人像が戯れている様子が描かれているものだ。空間の配置が天才的だった。乙巻は筆致こそよく似ているものの甲巻より若干描写が細かく、何より動物が擬人化されているものが少ない。兎や蛙ばかりではなく牛や馬、鷹等が登場し、モティーフ上の違いが激しい。

丙巻が最も特徴が薄いように思う。筆致は甲巻に近いがやや崩して描かれており、動物ではなく人間の像のほうが多い。丁巻は逆に最も異様を誇っており、極めて線が太くラフな描写が目立つ。描かれているのは丙巻同様人間のほうが圧倒的に多い。「落書き」という意味では、一番戯画らしい戯画が丁巻だろう。

このように見ていくと、甲乙丙丁全て作者がバラバラのように見える。また、一人で描いたのではなく工房で描かれただろうことを考えるに、鳥獣戯画全体には一体何人の人がかかわっているのか知れたものではない。現状作者は鳥羽僧正覚猷に帰されているが、これは「原」作者ということだろう。《鳥獣戯画》が日本の漫画の元祖と称されるようになって既に久しいが、ひょっとしたら日本の漫画は、原初より二次創作だったのかもしれない。

その工房も、寺社で絵を描いた密教系の絵仏師系か、それとも宮廷絵師かで議論が分かれている。絵仏師だとするならば仏教的な意味合いの強い解釈が可能だろうし、宮廷絵師ならばより広範な解釈が可能になるだろう。しかも四巻全てが同じ系統の工房が描いたとは限らなければ、四巻の目的もバラバラという可能性も高い。(我らが研究室の助手の方の専門が《鳥獣戯画》だが、甲巻は他の絵巻物との描写の類似から宮廷絵師の可能性が高いと主張していた。)

さらに、断簡や模写の存在が状況をややこしくしている。絵巻物は大雑把に言えば断簡の組み合わせなので、断簡の一枚や二枚はぐれていても適当な書き足しを行えば不自然には見えず、わからない。しかも昔の有名な画家たちによる模写がたくさん残っているが、どれを見ても現状の状態やそれぞれの間で食い違いがあり、オリジナルの状態の策定はほとんどゴールの無いジクソーパズルのようなものだ。研究者の方々の苦労には、本当に頭が下がる思いだ。

鳥獣戯画以外にはそれに類する掛け軸、絵巻物が飾ってあった。印象に残ったのはやはり一物比べをしている男たちと、《放屁合戦絵巻》だろうw 鳥獣戯画はともかく、あれだけでも見に行く価値はある。

  
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2007年11月19日

近世キリスト教の急激な変容

昨日の続き。あの本では山への崇敬が芽生えた理由としては様々なものが挙げられているが、その中心をなしていたのは科学の圧迫による神学上の思想の変化であった。そして、あれだけ自然物への敬意を捨てきっていたキリスト教世界がそれを拾いなおしたというのは、純粋な一神教が汎神論へ堕した瞬間だったのではないかと、私は思う。

キリスト教神学というのは後付の美学以外何者でもないわけであって、特に聖書の解釈に関してはころころと変わる。最初は「聖書の中身は歴史的真実」と言ってはばからなかったのに途中から「聖書に書かれていることは道徳的真実として読むべき」という主張に変わっていったのがその最大の例示だろう。

ガリレオに宗教裁判をやったその50年後には、大方の聖職者が地球が丸いことを認めているわけで。(まああれはガリレオがお膝元のイタリア人だったってことが大きな原因なんだろうけど)山が地球にとって必要か不要かの議論をしている折に、地球が平らであることを基礎においた神学者はほとんどいない。論点はむしろ、地球誕生の時から山があったのか、ノアの大洪水のときに山が出来たのか、というところであったようだ。

汎神論へ向かったときも細かな後付の連続なわけだが(その詳細に関しては『暗い山と栄光の山』を参照のこと)、その強引な理論展開と奇怪な結論は、たとえば『創世記』を無理やり科学的に分析したらどうなるかとか今なら『空想科学読本』辺りが取り上げてもいいようなことを大真面目に書いていて、笑っちゃいけないんだろうけど笑える。

まあでもこういう神学の柔軟性がキリスト教文明を世界で初めて近代化させた一因なのかもしれない。逆に、近代化が真っ先に始まったから一神教文明の中では最も柔軟な神学になったのかもしれない。柔軟だったからこそ宗教改革が起きてプロテスタントが誕生したといえるのかもしれない。どっちにしても、この一神教らしからぬ後付の美学はけっこうおもしろい。仏教や日本神道はしょっちゅう後付してるけど、多神教にはよくあることってことで。

汎神論へ向かう折に多神教に寄り道しなかったのも、おもしろい。日本の多神教は八百万もいるせいで(むしろ汎神論的な要素の強さの表現なんだろうね)、ヒンドゥーや中国はもろに汎神論なせいでどうも汎神論=多神教なイメージがあるが、古代ギリシア、ローマの宗教や上座部仏教を見ていると多神教と汎神論はまったく別の概念なんだなと実感する。


ついでに。キリスト教といえばその超後付設定によって一神教にもかかわらず偶像崇拝(崇敬)を認めてしまったわけだが、にもかかわらず16〜17世紀の東アジア布教が失敗に終わったのは、様々な理由はあれどもイエズス会士の「日本人は神を拝んでいるのではなく十字架の像を拝んでいる」という嘆きからすれば、宣教師の側が「モノには神が宿る」という汎神論的な考え方を理解できなかったのかもしれない。彼らは古代ギリシア・ローマの多神教は知っていたが、インド以東の宗教に関しては無知だった。

まさかその宣教師たちも、そのすぐ後にはヨーロッパの価値観自体が汎神論寄りになっているとは、思いも寄らなかったに違いないが。まあ、崇高の発見をしたのはプロテスタント地域の人々だから、あんまり関係ないか。  
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2007年11月18日

第119回「暗い山と栄光の山」M・H・ニコルソン著、小黒和子訳、国書刊行会

今我々が山を見ると美しいと感じるのはほぼ当然の感動のように思われているが、そのような観念が定着したのは18世紀の頃であり、17世紀の後半から18世紀の初頭にかけてのわずかな期間に美学、文学上の大変革がイギリスで起きた結果であった。それまでの山というものは「地球のいぼ、こぶ、火ぶくれ、腫れ物」という散々な評価であり、単なる通行の邪魔者に過ぎなかったのだ。新しく誕生した美学は瞬く間にヨーロッパを席巻し、均整な地球に生えた邪魔な「暗い山」は神々の住む「栄光の山」へと生まれ変わっていった。

では、まずなぜ17世紀以前の人々はそう考えていたのか。なぜその大変革は起きたのか。その二点の論点に対して深く切り込んだのがこの古典的名著である。興味と多少のイギリス文学知識があれば(シェイクスピアとか)かなりおもしろく読める本だと思う。自分の場合は卒論の資料として読まざるを得なかったが、そうでなくても遅かれ早かれこのブックレビューの俎上に上げていただろうと思う。

研究書なので様々な具体例(文学)を列挙して説得力を増しているため、単なる読み物としては若干くどいかもしれない。ただし章立てがわかりやすく、飛ばし読みしても全然問題なく読み勧められる親切設計なのも好印象だ。科学と宗教、そして文学、哲学が絡み合って、爆発的な変革を起こした様子がありありと浮かんでくる.時間旅行をしているような感覚、とも言えるかもしれない。最後、ワーズワースにたどり着き彼の詩文がいかにして形成されたかを読み解けたときには、なかなか感動することができるだろう。


暗い山と栄光の山 クラテール叢書 13
  
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2007年11月14日

「多様性」は簡単に使えない言葉だと思う

ちょっとまじめに反応してみようと思う。この記事だけならよくある話だからスルーするつもりだったんだけど、このブログの他の記事がおもしろかったから、トラバ飛ばしてみようと思う。

前もうちのブログでは書いているが、一つの文化というのは一定の機軸を持ちつつその中で微妙な変化を見せていくのであって、その変化が「微妙」だからこそおもしろい。機軸を破壊するような変化もたまに出現するが、要はそれが受容層に受け入れられればそれは後世「革新」と評価され、受け入れられなければ単なる挑戦に終わる。受容層が飽きるまでずっと革新が起きなければ、これもまた単にその業界が滅びるだけだ(まあ、まずそんなことはありえないのだが。必ずその前に革新は起きる。だって商売だもの)。

その革新にしたって、西洋絵画史上の印象派の登場のように一気に何かが変わることなんてめったになくて(その印象派も受容されるまでにずいぶんと時間がかかっているわけだし下地はあったわけだけど)、普通はだんだんと受容する側の嗜好が変化していくもんだ。それに印象派の登場後だって前近代の絵画は人気を失ったわけではなく、現代においてもマーケット上の人気はそれなりに高い。一定様式の美しいものはいつだって美しいのだ。

「雫」を元年とするならまだ誕生して15年かそこいらのエロゲ業界だが、その頃の絵と比べれば(技術的な問題を加味するにしても)ずいぶん様式が変わっているのは疑いえない。むしろその頃から比べればエロ漫画/アニメっぽい絵からエロゲ独自の絵、文化が根付いていて、その意味での「ジャンルとしての」独自性ならば現れてきている。最近やたらとシナリオライターの世代分けが話題になっているが、原画家も十分そういう俎上に上げられるはずだ。その上で「古典」に当たるのはやはり323等の葉の原画陣じゃないかと思う。

要は、ありふれた絵が氾濫することに対して憂う必要は全く無いし、常に変化は起きているということ。受容する側が飽きれば自然に絵の趣味は移り変わっていくし、逆にクリエイターの側がそういう需要を創始することもあると思う。だから、私は原画家が既存のエロゲ絵に似せない絵をエロゲに載せることには全く反対はしないし、そういう「革新的」な挑戦は非常に評価したい。その意味でならば、トラバ先の人の「もっと個性のある絵を評価する努力もした方がいい気がする.」という意見には賛同できる。もちろん、それでも「古典」たる323絵は生き残っていくだろうしね。とかそんなことを、鈴平絵やみやま絵、カーネリ絵が好きな自分が言ったら多少説得力あるかね。三人とも、少なくともリーフ原画陣とは大きく違うと思うんだけれど。(言うまでも無く323絵も好きだけど)


しかし、トラバ先の記事にどうしても反論しておかなければならないのは「似たような顔をした似たような魅力をもった,均一化されて,記号化されたラムちゃんが勢ぞろいすることだろう」とか、「エロゲンガーに同じ構図で髪型・髪色,目の色,肌の色一緒で,目の形(タレ目・ツリ目)も一緒のキャラを描かせたら,たぶん違いが解らないだろう…」といった文言。衆目を集めるための釣り文章にしか思えないくらいだ。

これらはいくらなんでも言いすぎだろう。そりゃ、323と池上茜と甘露樹絵を並べられれば相当判断には困るだろうけど、挙がっているようなべっかんこうと西又だったら十分違う。他の主要な原画家を見ていっても「一つの業界内としては」十分に多様性が認められうるだろう。革新の目は十分にありうるし、これからも徐々に変わっていくことだろう。もしどうにも個性が見出せないというのなら、それは数を見ていないかそういう感性を持っていないかどちらかだ。エロゲ業界は十分「ちょっとズレている作家も養」っている。

それと、エロゲンガーの例に西又とべっかんこうを出して、「作家個人が同じ絵しか描けないかどうかは問題にしてない」と言い張るのは若干人が悪い。言外のものだったとしても、そういう主張をしているようにしか思えない。業界内の絵が均一になりすぎている例を出すなら、さっきも挙げたが323と池上茜の比較画像でも載せてほしかった。そうすればまだ皆納得したのにね。
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2007年11月12日

細部とか全体とかポストモダンっぽいな

「神は細部に宿る」と、偉大なる美術史家ヴァールブルクは言った(もっとも彼が最初に言ったのかどうかは確認されていないようだが、広めたのは間違いなく彼であろう)。いかにもイコノロジーを創始した人間の言いそうな言葉だ。この格言は「神」という言葉の解釈によってどんな意味にも取れるが、イコノロジー的にはそういうところにこそ、絵の真意が隠されているとでも言いたげなことが読み取れる。これも一種のイコノロジー的作業か、絵じゃないけど。

今尚、そしてほぼ未来永劫イコノロジーという分野は美術史の中で生き続けていくだろうし、実際おもしろいと思う。格言自体がもっともらしいこともあって、何の疑いも無くいい言葉だと思ってたのだが、最近某論文で某ドイツ人の学者が、直接ヴァールブルク(やイコノロジー系の学者)を指していたわけではないけども、思いっきり反発していた、こんな風に。

「大衆にしろ知識人にしろ、初見で見るのは絵全体のはずだ。細部を見るのはそれからの作業のはずだ。だったら、画家がひねくれていないか、隠すことが目的じゃない限り、初見でわかるところに一番主張すべきものを持ってくるのが当然ではないのか。もちろん、裏の意味などを細部から読み取ることも重要だが、今の美術史はあまりにも『図像解釈』にこだわりすぎていて、絵全体が与える『直感的な感想』というものをなおざりにしている。」

見ようによっては当然のことしか言っていないのだが、短い期間ながら美術史という学問にどっぷり漬かってきた自分としては割と目から鱗が落ちた。ファーストインパクトで強い感情を与えられなければ、解釈しようという気は起きない。にもかかわらず第一印象の話は「当然」として議論から省略してしまうのは、学問としての「細部」にまで目が行き届いていないのかもしれない。

ましてやフリードリヒというのはロマン主義の極北に存在する画家なわけで、どの作品を見てもファーストインパクトが強い。にもかかわらず、象徴的解釈ばかりが先行して美学的な議論がたいして進んでいないのは、(一つには研究史上の事情もあるのだが)逆にインパクトが強すぎて当然の見られる動きが強いせいか。


つまりは「神は○○にいる」のではなくて、神は名作と呼ばれる絵画全体に遍在しているんじゃないかと。むしろ全体か細部か、どちらかにしか神が存在しないような作品は名作とは呼びがたいのではないかと、そう認識してみることにしたい。  
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2007年11月09日

久しぶりに京浜東北線に乗った

落穂拾い、夏タダ券をもらったので、埼玉県立近代美術館の開館25周年記念展「田園讃歌」に行ってきた。展示の骨子としては東西の近代の画家が描いた田園の風景ということで、そこからなんとなくわかる通り様式としても自然主義から印象主義まででそろえている。

地方の美術館ではあるがうちの教授が前文書いてるし学芸員も有名な方らしいということでそれなりに期待をしていったら、割と期待通りだった。バージョン違いとはいえ、ミレーの《落穂拾い》の真作(山梨県美所蔵)にお出迎えされるとは思っても無かった。実は宣伝ちらしが《落穂拾い》だったので模写でも飾ってあるのかなとか思ってましたごめんなさい(確かに模写もあったけど)。他にも西洋でも有名な画家は多かったし、明治期の画家はかなり豪華なメンバーだったと思う。

発展史的な見方はあまり良くないとは思いつつも、そういう展示の仕方がしてあったこともあり、自然主義の作品を見るとやはり古典主義(やロマン主義)と印象派の橋渡しという感想にどうしてもなってしまう。特にミレーやその周囲の画家に限れば人間や動物の描き方は写実的で、どちらかと言えばアカデミックなのに植物の描き方はかなり印象派を予見させると思う。対象物によって描き方が違うという意味では自然主義なのに「不自然」とでも言うべきか。

印象派ゾーンではおもしろい作品がいくつかあった。まずはモネの《積みわら》の一つで、印象派を飛び越えてナビ派か野獣派かのような筆触分割を超えたべた塗りがしてあった。ゴーギャンはタヒチに行く前の作品があった。前も書いた気がするが、自分はタヒチに行く前のゴーギャンなら好きである。タヒチ後のゴーギャンはもう野獣派に分類していいと思うが、それ以前の彼はちゃんとした印象派でかなり良い筆触分割をしてると思う。というか自分の場合、プリミティズムが嫌いなんだろうね、きっと。オールドマスター好きですから。

ゴッホは発狂前の作品が置いてあったが、彼の場合は逆に発狂後のほうが好き。わがままですいません。ヴラマンクの絵も少々あって嬉しかった。彼に与える言葉は……逝ってるターナーか、印象派じゃないゴッホか、生まれる時代を間違えたフリードリヒか。

日本画家ゾーン。まずビゴーのまともな絵があってびっくり、風刺画以外も描いてたのね。自分無知すぎる。日本の画家も発展史的な展示のされ方だったが、そうして見ると日本の油彩画も、大きく独自さが見えるものの、基本的にいつぞやのロシア同様本場から約20年遅れで様式が移り変わっているのが見える。

最後にいろんなポスターが飾ってあって、これも珍しくてよかった。ミュシャかわいいよミュシャ。ビールの擬人化とか自重。全体的に作品数の多い展示だったと思う。その後常設展を見ていったが常設展は小さかった。置いてあったものは若干現代芸術が大目で閉口したことを除けばおもしろかったと思う。まあ埼玉県民は誇ってもいいんじゃないでしょうか。  
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2007年11月08日

とりあえず神輿はあれば担ぐ

自分は割りとアッパー系。創作はしないけどそれは自分の才能が創作向きじゃないと思っているからで、「こういう展開(システム)のほうがもっとおもしろくならないか?」という改善案はよく話のネタにする(主にORATORIOと)。すべての作品は批評か、できなければ感想を述べるべきだと思ってるし、要は「語る対象」ってこと。

知っての通り、お祭り大好き。「地雷アイテムへの特攻など、ウケ狙いの買い物に走る。」とか、もうあるあるwwwwwwwとしか。とりあえず人が集まらないと何も始まらないと思ってる人。過去に何度、友人たちで集まって馬鹿をやったかは知れない。このブログにはあんま書いてないけど、甘口イチゴスパ自作とかだんご大家族自作とか(イビベコンが消失してるので見せられないが)。とりあえず、ノーパの前に自作した食物を飾って二次元キャラと一緒に食すという痛い行動は一通りやりつくしたわけだが、若気の至りということで許していただきたいところだ。

買い物とか鑑賞会とかも大体大人数。そういえば劇場版AIRも皆で見に行ったし、「秒速5cm」も集団で行った。カラオケも一カラしなくもないけど、基本的に集団で行ったほうが楽しいと思う。コミケなんて前回の2人がありえなく少ないだけで、大体5人くらいのパーティーを組む。んで、何でも付き合ってくれるお前らが好きだ。

ここでふと思ったのだが、俺の周りってアッパー系のヲタクしかいない気がする。ta-kiとかネ右とか言うに及ばず、ORATORIOは割と自分とポジションが似てると思う。環氏もきっとそう。若干の例外が燕とUさくか。彼らはダウナー系のような(もっとも燕は最近アッパー系になってきたかも)。やっぱ似たもの同士でそろっていくのかな。

ただし唯一の例外として、ゲームのやりこみは制限プレイよりもフルコンプをしたがる。これは一つ、反射神経が足りていないから制限プレイは強制的に出来ないという事情もある。だからこそ、FFのアクション的ミニゲーム嫌いなんだよね。RPGくらい、まったりやらせてほしい。


元記事に一つだけ突っ込みを入れるなら、アッパー系=創作、ダウナー系=末端消費者というのは違うんじゃないかと。創作者って意外とダウナー系が多い。ヲタによらずそうだと思うが。

最後に。ニコニコ動画というのは、要はアッパー系ヲタのお祭りなんじゃないかと思う。本当の現実じゃない分、ダウナー系のヲタもアッパー系に混じって騒ぎやすいという利点がある。2chの場合は匿名性が高すぎて、アッパーもダウナーも関係ない(見分けがつかない)ことになってるんじゃないか。  
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2007年11月06日

ろりとごあとばたいゆのおはなし

※ 今回の話はいろんな意味で十八歳未満閲覧禁止でございます。出だしからしてこんな感じ。





この間友人に言われて気づいたのだが、自分は設定年齢萌えであってロリコンではけっしてないらしい。  続きを読む
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2007年11月04日

意外と楽だったのはさびしいかも

前に「今度は他のI'veの歌姫ひっくるめて30曲チョイスしてみるか………ああ、無謀。」とか書いちゃってるので、作ってみた。母集団は約250曲程度だと思う。前回もそうだったが、「どこまでがI'veか」という線引きは大変難しい。基本的にI've Sound Explorer準拠。


それはそれとして、カラフルウィッシュにある意味での期待しているのは俺だけではないはずだ。



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2007年11月03日

ネタ切れが怖い

実家帰った時に、ドクターKを部分的に読み返した。全61巻(現在)はさすがに厚い。自分の中での医療漫画というとブラックジャックでもゴッドハンド輝でもなく、やはりドクターK以外は考えられない。

読み返して思ったのは、医療技術の進歩だ。細かな進歩が多いから普段は全く気がつかないが、ドクターKが始まったのは88年であり、臓器移植法が成立していないのは当然としても、内視鏡が無かったり生体肝移植が難手術だったり、医学がいかに長足の進歩を遂げているかよくわかる。時代背景もそうで、初期のKAZUYAが冷戦に巻き込まれたりペレストロイカが云々語られてたりするのを見ても、時代の流れを感じざるを得ない。

Wikipediaでも突っ込まれていたが、長期連載の弊害として設定の後付がめちゃくちゃ多いことにも気づいた。特にKの一族関連に関してはもう後付の後付という感じ。KEIの登場が一番ひずみを生ませているのではないだろうか。どうでもいいが、KEI先生はけっこう萌える気がしたのは私だけだろうか。あれは良質のツンデレだ。まあツンすぎて殺されそうだが。兄のKAZUYAにいじられてるところなんかはいいデレっぷりでそこだけ漫画が違う。そうそう、KAZUYAは意外とユーモアのある人だったと思う、今の一人君は完璧な寡黙っぷりだけど。

さらにどうでもいいが、私はいつKAZUYAが七瀬と結婚するのかとずっと楽しみにしていたんだが、『K2』になってとうとう七瀬自体が出てこなくなってしまった。作者も存在を忘れているか、登場させると話がややこしくなると考えているからか。『DoctorK』の記憶失ったときに「ようやくフラグ立ったか」と思ったのに。

『DoctorK』のラストの「K」は誰なのか?これを解決するための『K2』だと思うが、解決する気がしない。年齢から考えて多分一也君だと思うのだけれど、そうすると一人君はやっぱ死ぬの?という話にもなるし、一也君はKAZUYAが「自分とは全く違うタイプの医師になるだろう」と予言していて、作者も今のところそういう書き方をしているので、『DoctorK』のラストの描写を見る限りこれも違うと思いたい。そうすると、読者の裏を書いて一巳君?それはそれでおもしろい展開だが。

とりあえず、『こち亀』並の長寿になることと、矛盾の無いラストになることを願いつつ。にしても自分、イブニング・モーニング信者だなぁ。  
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2007年11月02日

1-0というのが中日らしいラスト

どうにも眠かったのでアニメと特番はニコニコ任せということにして、優勝してブログ更新して風呂入って寝てしまった。一晩寝てもまだ興奮冷めやまず、とりあえず今はCBC特番を見ている。

実はここで一気にいろいろ言おうと思って、普段の日記はあんまり中日のことは触れてなかった。正直に言ってクライマックスシリーズの巨人戦も日本シリーズも勝てるとはあまり思っていなかったのだが、ほとんどストレートで勝ってしまった。むちゃくちゃ強かった。先発陣がそろって恐ろしく調子良かった。

終わってから分析してみれば、巨人戦に関しては監督・戦術の差だと思うけど(地力は巨人のほうがあった気がする)、日ハムに関しては自分が過大評価しすぎていたような気がする。打線が打たないというのはわかっていたけれど、思っていたより投手陣にすごみが無かった。ダルビッシュ以外がねぇ。ただまあ巨人に関しても、中日はクライマックスシリーズを見据えてペナントレース終盤は手を抜いてたというか、調整に徹してたところがあるので、本気出してれば(山本昌に登板させないとか)、リーグ優勝も出来ていたような気がしたが。

それにしても、先発陣の出来がすごく良かったのは幸いだった、それがすべてのポストシーズンだったんじゃないかと思う。川上はクライマックスシリーズは完璧だったし、日本シリーズは負け投手だったにしても3失点完投なら内容は十分。小笠原も良く奇襲という大役を果たしたと思う、それも二回も。朝倉と中田は言うことなし。彼らがいれば当分先発陣は安泰だわ。山井は……ほんと大舞台に強いよね。だから平常時ももっと(ry

なお、山井の降板に関しては豆がつぶれてもう無理、と自分から森ピッチングコーチに進言したとのこと。落合監督は行かせるつもりだったらしい。落合監督を責めるのは間違ってる。でも、やはり山井の完全試合見たかったな。あのスライダーはどうやっても打てない。


打線も思ったよりは打ってくれた。アライバは流石。特に荒木は走りすぎ守りすぎ。森野もいいところで打つし、何よりやはりMVPはノリさんだわな。これなんて美談?ノリさんは年俸いくら上がるんだろうね。フロントは気前よく上げてやってほしい。井上、立浪辺りから削ってでも。

ウッズは置き物だったね……まあクライマックスのほうで打ってくれたからよしとしよう。平田は来年以降のため出してたんだろうが、いい経験になっただろうか、まさか本人も日本シリーズの決勝点になるとは思わなかったに違いない。藤井でも良かった気はするが。一方で立浪の出番が無かったのは寂しい。それだけ先発の調子が良かったということではあるんだが。井上のことも、思い出してあげてください。


さて、言いたいこと言ったので燃えよドラゴンズでも歌いたいところなのだが、実は2007年度版がまだ無いんじゃない?まあそれだけ優勝すると思われてなかったってことなんだろうけど。  
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2007年11月01日

祝杯

中日ドラゴンズ日本一


おめでとう!!!





  
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ニコニコについてちょっと考える

(極狭い部分的な)世間はニコニコとアニメの関係が最も熱い議題として論壇に上がっているが、自分も何か言ってみよう。ややこしいことにはなってるけど、論点は大雑把に二つ。「ニコニコにアニメ本編をアップするのは法的にグレーゾーンであること」と「ニコニコのせいでアニメ業界が縮小する懸念があること」。どっちも我々が騒いでどうこうなるもんでもないが、それを言ったらおしまいなのでそれは禁句。

まず、自分の立場としては「ニコニコでアニメは見てるけど、ニコニコが無かったらそもそもほとんどアニメ見ない」人である。例外は京アニ作品、うたわれ、ひぐらしとかまあヲタとして普遍的な作品のみで、それもこれらもようつべがほとんど。もちろんDVDなんて買ったことない。要は「タダだから見る」のであって、「見たいものがたまたまタダ」なのではない。これは大きな違い。思うに、自分みたいな人が多いのではないか。(その意味でこの分析には賛同できる。

この問題を語る上で決定的な落とし穴は、誰もニコニコでアニメを視聴している層の具体的な分析をやったことがないことだ。自分みたいな人が多いのか、それとも「ニコニコがあるから地上波では見なくなった」人が多いのか。「コメントやタグを楽しむために両方見ている」人もいるだろう。加えて言えば、ニコニコのせいでDVDが売れないかどうかも別問題だ。よく勘違いしがちだが、我々は別段業界の構造自体が目的なわけではなくて、よりよい自分のヲタライフのためにそれが必要ならば応援するという程度。

前者の法的な問題は、ぶっちゃけて言えば後者の経済的な問題が解決すれば自然に解決すると思う。倫理や法律がどうこう語るのは、グレーゾーンである以上どっちの立場も言い訳はどうとでも出来てしまうので現状言葉遊びの域は出ないだろう。そして後者をどうにかしたいなら、やはりニコ厨にそれなりの出血を伴っていただくしかない。

多くの人が発案しているのは「アニメプレミアム」を月額1500〜2000円程度で新設して、ニワンゴからアニメ制作会社に間接的に料金を支払う、というもの。自分もこれは割とありだとは思うが(実際自分も課金する気がする)、二つほど懸念がある。まず間違いなく、一般会員用の動画をアップする奴が出てくるということと、登録する奴がそんなに多いかということ。タダ乗りしてたものに対して急に払えと言われても心象が悪い。「払わされている」のではなくて「好きで払っている」とニコ厨に思わせる必要があるのではないか。


まあ成功するかどうかは別として、自分の浅慮ではWeb投げ銭なんてどうだろうと思った。今のニコニコ市場の盛況っぷりは、心理的な動きだけ考えれば「金のかかるタグ遊び」なわけで、それと同様に多くの人がタグの変更感覚で投げ銭してくれると思う。本編アニメはアニメ会社に行くよう、ニワンゴ側で設定すればいい。たとえば『ひぐらし解』なら10万再生しているが、一人10円投げたとしてもそれで100万円。現状のアニメ制作費の1/10にはなる。私的な予想では、一人10円は確実に超えると思う。

そうすると投げ銭のためにクレカが必要になるわけだ。そこでニコニコの登録に、プレミアムにするかどうかは別としても、クレカを必須ということにする。そうすることでまず未成年者が格段に減るので、現在ニコニコが抱える18禁動画の問題も解決するだろうし、空気を読まない子が減って治安も良くなる。ついでにプレミアムを躊躇している層にもついでに課金するか、という気にさせる可能性が高い。

加えて言えば、MAD制作者にも投げ銭できるようにすれば、彼らの意識も高くなるだろう。そのMADへの投げ銭も、MAD制作者と元ネタの制作者の両方に投げ銭できるようなシステムを整えてみてもいい。何、一回10円なんだから月に100回投げても千円だ。重症のニコ厨は「自分から好きで払っている」という感覚さえ持たせれば、それくらいは投げてくれると思う。  続きを読む
Posted by dg_law at 12:00Comments(2)TrackBack(0)