2010年06月30日

非ニコマス定期消化 2010.3月上旬〜下旬



つい最近2話が来てた。皆妄想はしてたけど動画にはしてなかったところに,フルボイスでやってきた衝撃的作品。しかもEX入り。にしてもだーまえは野球好きだな。





人間どこから影響を受けているかわからないもんだ,と素直に思った。




元ネタもおもしろかったが,ジョン・カビラ万能説によりさらにおもしろくなった。




邪気眼好き必見。個人的には大好きです,ヨハン・シャドウグレイ。



こちらは最後まで行った。衝撃のラスト,剋目して見よ(笑)



あまりにも下手だったため1レースで終了。



ヨハンの中の人のプレイ。視聴者の統一感がやばい動画。空気は読むもの。




解せぬの人。小悪魔だしね,仕方ないね。






最後に自演乙優勝記念動画群を貼ろう。ダンサーは本当にしっかり練習してあって,検証のあった決勝のしーなPダンス以外でもよく踊られる振り付けで踊っている。公式といえる振り付けが無い中,よく探してきたと思う。ついでにコスプレイヤーについても大百科のほうで。アリスの子はガチでかわいいと思った。


  

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2010年06月26日

芸術定義議論の歴史的経緯(1)

美術・芸術とは一体なんだろうか。ここは私らしく,ガチガチに歴史的な方面から攻めていってみよう。超ざっくり端折って説明するので,部分的に間違っているという指摘はある程度勘弁。


その起源を追うと,古代ギリシアに置く人もいるだろうが,私はあえてルネサンス期に置くことができると言いたい。なぜなら,古代においても確かに「芸術作品」は存在したし,後世から芸術家と判断されるような人物も存在はしていた。芸術論というようなものも,プラトンやアリストテレスあたりから読み取れる。が,それでもやはり,古代ギリシア・ローマにおける芸術と,ルネサンス期以後の芸術では概念的な意味合いが異なると思われる。

そもそも,なぜ芸術という概念が必要なったか。これは実は至極現実的な問題に基づく。つまり,一部の職人の賃上げ交渉に他ならない。中世末のヨーロッパ・キリスト教的世界においては,手作業を行う職業・形而下を扱う職業は卑賤で,思考を伴う職業・形而上を扱う職業のほうが高貴であるとされていた。さらに言えば社会的地位も持てる金銭もまるで異なっていた。よって,ランクアップを狙うのならば,自らの職業が前者ではなく,後者,すなわち思想家と同等のものであると社会に認めてもらうほかない。


キリスト教神学とは後付と屁理屈の学問で,ギリシア哲学を中心に他の学問分野からいいとこどりで進化してきたものであるが,中世末北イタリアで最も熱い話題となっていたのは,トマス・アクィナスのアリストテレス引用と,イスラームの神学者であるイブン・ルシュド(アヴェロエス)のアリストテレス解釈の対決であった。この辺をガチでやると自分もよくわかってない超屁理屈のぶつかりあいになるが,歴史的な経緯だけで言えば,ギリシア語文献を捨て去った西欧世界に,ギリシア語も読めたイブン・ルシュドさんがアリストテレスをアラビア語に翻訳・注釈し,その文献が多国語話者だらけのシチリア島でアラビア語からラテン語に再翻訳され,ようやくラテン語しかできない西欧の神学者にも読めるようになった(いわゆる12世紀ルネサンス)。

しかし,いかんせん二度翻訳を経ている上に当時は写本であったため,トマス・アクィナスの読んだものが原典とはかけ離れていたことは想像にかたくない。それでも,トマス・アクィナスはうまくアリストテレスのエッセンスを用いてキリスト教神学を一度は大成させた。しかし,ビザンツ帝国の衰亡によりギリシア語知識・文献がイタリアに流入すると,ギリシア語の読める西欧人が増えた。そしてアリストテレスの原典及びイブン・ルシュドの正しい注釈が西欧人によって読まれるようになり,改めてイブン・ルシュド派が復権し,大論争を巻き起こした。このとき同時に新プラトン主義・グノーシス思想も同時に流入し,やはり大流行を起こしている。

で,これらの新思想に目をつけたのが知識人層でもあった上位の職人層だった。何故彼らは知識人層に入っていたかというと,中世末では描ける題材も限られ,もっぱらキリスト教ということになる。しかし単に題材を物語的に知っているだけではなく,その物語の持つ聖書上・教訓上の意義まで含めて,知識として持っていなければならなかった。すると聖書を読解する頭脳がなければ作品を描けず,売れっ子の「親方」ほど自然ラテン語が読めなければならなかった。すると,ラテン語が読めるほどの知識人であるのに賃金が安く社会的身分も低い,という不満が彼らの中で高まるのは自然な流れである。そして彼らがいろいろ難解な思想に触れていくうち,理論をこねくりまわせばなんとかならないだろうか,と考えるようになり,また,哲学者・人文主義者の側もこれに応じ,”親交のある発注先”をなんとか救えないだろうかと知恵をめぐらせた。

そしていくつもの屁理屈じみた思想や理論がいくつも積み重なった結果,14〜15世紀頃から次第に形成され,誕生した概念が「芸術」である。西洋で歴史的に「歴史画」が最上位のジャンルとされてきたのはここに起源がある。知識がないと描けないものが最上位に設置されるのは当然のことだ。知識が無くても描けるものは思想家ではない=職人同然の卑賤な技であったからだ。次席に肖像画が置かれたのは,人間そのものが高度な意味内容を持ち,描かれるに値するものとされたからであるが,この人間中心主義自体も中世末に勃興したものであった。

それでも風景画や静物画がまったく評価されなかったわけでもないのは,思想がなくとも高度な技術そのものが賞賛の対象であったためである。いかに高度な内容の作品であっても,それが伝わるよう表象されなければ無意味であったからだ。また,後述するデューラーの自画像のように,ジャンルが異なっても高度な内容を伴う作品も出現するため,必ずしもジャンルで完全に切り捨てるわけにはいかなかったという事情もある。それとは別に,ジャンルヒエラルキーとは関係なく,自己の感性から風景画/静物画が好みだ,と考えるパトロンはいつの時代も必ず存在したのが,これらのジャンルが廃れなかった事情であろう。


一つそうした理論の例を挙げると,私が比較的詳しいところで「神としての芸術家」という思想がある。これはプラトンの『ティマイオス』からデミウルゴスの概念をもらい(より正確には新プラトン主義やグノーシスからの援用であるが),俗物的なデミウルゴスは職人的だと規定し,その上で「迫真的な絵画とは一つの世界の創造である」とすることで,創造主が無から有を生み出したのと同様に,単なる物質的材料から一つの世界を創造する芸術家は神・創造主に比されるべきである,と話を持って行くのがこの理論である。(デミウルゴスと創造主の違いは,自分で新プラトン主義なりグノーシスなりの本を読んで確認してほしい。)

2つほど余談を挟む。まず,この「神としての芸術家」(artist as God)という言葉から,ルネサンス後期に「神のごとき芸術家(Divine painter)」という言葉が生まれ,ペルジーノやミケランジェロに与えられることになる。この二人は,システィーナ礼拝堂の壁画を担当していることで共通している。もう一つ,この理論を踏まえてデューラーの《28歳の自画像》を見ると非常に意義深い。当時ほぼタブーであった正面観での自画像により,自らをキリストになぞられたのは,三位一体を踏まえれば自らを創造主になぞらえる行為にほかならない。ここに示されているのは,ルネサンスの生んだ「芸術」概念の意義の再確認と,自らがドイツにルネサンスを持ち込むのだという彼の気概である。と同時に,当時の知識人はこのような意義を明確に読み取っていたからこそ,この作品はジャンル的ヒエラルキーでは次席の肖像画であるにもかかわらず,当時からすでに例外的に評価の高い作品となりえたのであった。(なお,実際には他にもこの自画像には多数の仕掛けが施されているのだが省きたい。)


現象面での証拠として,中世からルネサンスにかけては,画家や彫刻家に対する給料の支払い方が決定的に違ってくる。すなわち中世では「親方」が画材・顔料の調達から完成・納品まで全てに責任を負い,業務全体の経費をパトロンから受け取り,弟子への給料もそこから支払った。題材もパトロンが指定した。利益は作品の評価ではなく,経費削減から生まれるものであり,彼らは職人である以上に経営者でもあった。それがルネサンス期以降は次第に,材料や納品は状況やパトロンとの話し合いによるようになり,工房の経営という点での労力はかなり少なくなっていった。題材も話し合いで決められるパターンが増え,場合によっては芸術家の側に決定権が与えられた。値段も経費ではなく描かれた内容・技術で評価されるようになった。なぜなら描かれた内容の知識・思想こそが重要であり,それが芸術家が哲学者や思想家と同等の地位を保証される理由でもあった。同様に技術も重視された。世界を正しく再現・創造する能力は神に比されるものとされ,これもまた思想同様に芸術家の上位の社会的地位を規定する要素であった(前述の通り,歴史画以外のジャンルもそれなりに評価された理由でもある)。中世末から急激に逸名の画家が減り,名前が特定可能な芸術家が増えていくのも,社会的地位の上昇を示す大きな証拠である。


ちなみに,似たような現象は東洋でも起きている。時代は五代末〜北宋である。ただし,こちらは「芸術」という抽象概念の誕生を伴ったものではなく,芸術家が思想家と同じ高みに上ったわけでもない。しかし,いっぱしの文人が親しむべき余技として「琴棋書画」が挙げられ,絵画は書と同様の地位を得て,その専門家もやはりそれなりの敬意をもって遇されるようになったのである。画家の名前が史書にはっきりと残るようになり,画論が盛んに論じられるようになったのも,やはり五代末の時期であった。ゆえに,このような現象は西洋限定と扱うべきではなく,人類には比較的普遍的な現象として扱ってもまずくはなかろう。


(2)へ続いた。
  
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2010年06月24日

大相撲の賭博騒動について

ブコメで100字じゃ無理とか書いてしまったので,ブログのほうで書きたい。

まず,大相撲は「興行」であり「神事」であり,そして「スポーツ」である。しかし,古くから続く興行である以上,裏社会とのつながり無しには生きていけなかったという事情は存在する。ただし,この点では相撲協会をなんら擁護するものではない。少なくとも以前ならば,たとえば巡業の際には地元の暴力団に頼まなければ場所が確保できなかったという事情もあっただろう。ゆえに,突然降って沸いたように,893との関係が登場してきたわけではなく,他のスポーツのようにはうまくいかなかったという点は考慮されてもよいだろう。まあ,双葉山が出てくる前くらいまでの,東西対戦やってた頃の大相撲なんてひどいもので。問題はどちらかと言えば,時代が変わって暴力団に頼る必要性がなくなってきたことと,暴力団に対する世間の風当たりが強くなってきたという時代の流れを読みきれず,うまく浄化できていなかったという点にあるだろう。

さて,問題が複雑なので混乱しているが,いろいろしゃっきりと区別しなければなるまい。最も問題な点は,神事であり公益法人の運営するスポーツでもありながら,反社会的団体とつながりのある人間を土俵に上げ,それを汚していた点である。公益法人ということで税制上優遇されていることを考慮しても,社会的責任は免れないだろう。ただし,やはり相撲協会が負うべき責任と個人の負うべき責任は峻別されるべきで,まずは個人の負える責任はそちらで負ってもらわねばならない。

ここで相撲協会が拙速だったのは,当初力士に対し「賭博の自己申告」を迫った上に,「申告すればお咎めなし」という布告を出してしまった点にある。相撲協会自体が,何が最も問題であったのかを把握できていなかったということを見事に露呈してしまった。最初から「野球賭博」で申告させておけば,これほど混乱することもなかったであろうし,申告してもきちんと責任は取らせるということと,申告されずとも捜査は警察によって行われきっちり処罰されるということは,あらかじめ明示しておくべきであった。実名公表は捜査に差し障りがあるという点で,現状行っていないのは正解だが,最終的には細かい部分まで含めて公開する責任が協会にはある。この点の取り決めの杜撰さも拙速であった。後から追加で取り決めをするから信用を失う。

その上で,やはり野球賭博というどう考えても暴力団がかかわっているものについては,力士も親方も解雇が相当だろう。そうでなければ,かわいがり殺人事件や,この間の木瀬親方の一件との釣り合いがとれない。今回はあれらに相当する責任の重さが問われるものだ。通常の賭博であれば,重くて1場所出場停止,普通に科すなら罰金でよい。それとは別に,相撲協会自体も何かしらの処罰を受けるべきだ。それは自主的なものであってもかまわないし,文科省から下されるものでもかまわない。まあ,永谷園の撤退が今のところ一番効いているような気はするが。


しかし,それはそれとして,名古屋場所は中止するべきではない。本場所は技能披露の場であり,それ自体がまた神事でもある。一連の所作があり,それぞれの関取が自らの力を示すことで土俵が清められ,神々への奉納ということになる。また,現実的な問題として,野球賭博にかかわっていない力士にとってはとんだとばっちりであり,このような形での連帯責任は認められるべきではない。先日挙げたように番付がスカスカになるかもしれないが,それでもかまわない。むしろ,今まで土俵を汚していた人間を挙げなくて済むのだから,見せしめのような形としてはこれでよいのだ。

それに対して金を払うかどうかは,我々好角家の判断であり,外野に口を出される筋合いはどこにもない。その金が反社会的団体に流れている可能性を指弾されるのは,好角家も含めて責任を負う必要がある。しかし,それでも私はNHKが放送してくれるならば今場所も全日程録画して見る。NHKは名古屋場所を放映するべきだ。これを放映しないということはこれもまた無用な処罰を無関係の人々まで与えることになり,しかも相撲協会にはそれほど痛手でもない。むしろNHKは放映料の減額や,名古屋場所のチャリティー化圧力などといった形で,相撲協会に責を取らせるよう行動していくべきではないだろうか。ちなみに,私は名古屋場所は無観客でも開催するべきだ,とどこかで書いたが,それは相撲協会の寄付行為に反するので不可能なんだそうだ。この点は私も勉強不足であった。
  
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2010年06月23日

本当に賭博してた人を全員休場させたら割がどうなるか?

という非常に性格の悪い思考実験。発覚してる分だけ考える。よって,情報が更新されるとこの記事も更新される。名古屋場所どうすべきか,という話は別記事で。まだ本場所の番付が発表されてないので,暫定的に前回の自分の予想番付で代用。大して間違ってないだろうしね。というわけで,

これが名古屋場所の予想番付。


で,まず琴光喜は確実にアウト。出場辞退と言っていたが解雇か除名の勢い。ちなみに,愛知県だとトップニュース扱いでワールドカップよりも優先されるとマザーが言ってた。そして琴奨菊,豊ノ島,雅山,豪栄道,豊響。この辺は仲良しなので,最初に豪栄道の名前が挙がったときに全員危ないって言われていた。なので,好角家の間では「案の定」というリアクションが広がった。しかし,実際には琴奨菊は別ルートだった模様。

日本人三役候補,通称「七人の侍」も4人が汚染されていた(琴奨菊,豊ノ島,豪栄道,豊響)。というよりも汚染の中核だった模様。清廉潔白なのは稀勢の里,栃煌山,豊真将の3人なので,ツイッターで誰かが言ってたが,相撲協会は善玉対悪玉で盛り上げればいいと思う(棒読み)。まあ,豊真将が汚染されてたらもう誰も信用できなくなるところだったので,一つ救われた感じはする。稀勢の里と栃煌山もまずやってないだろう。

あと幕内で名前が挙がったのは垣添,嘉風,隠岐の海の三人。こう言っちゃなんだが,隠岐の海が意外すぎる。まだ上がってきたばっかりだし,そういうことはしなさそうな言動だったが,我々もイケメンにだまされていたということか。総勢9人(現状)。予想されうる人の名前を挙げるのはよしておこう。頼むからこれ以上増えるなよ。あとは十両勢で春日錦,千代白鵬,清瀬海,普天王の名前が上がっている。普天王は幕下落ちが確実なだけに,自業自得とはいえ踏んだり蹴ったり。あと,彼はブログで釈明すればいいと思う。いい感じに炎上すると思われる。

で,暫定的にできたのがこれ。

斜線が賭博関取。試しに白鵬の割を作るとして,上から単純に当ててっただけでも,前頭6枚目まで下りてこないと対戦が組めない。ましてや初日小結といういつもの割を組むと,多分十日目当たりまで本割が安定しない。しかもいい感じにスカスカなので,一人二人ケガで休場が出るとさらに下のほうに降りていかざるをえないので,霜鳳あたりまでは対戦の可能性がある。鶴竜あたりは今場所上位戦が無いから調子を上向かせるチャンス!と捉えていただろうに,かわいそうである。なお,某夕刊フジさんが「まるでW杯?」などと便乗タイトルをつけた記事を書いていたようだが,この予想番付上で白鵬に上からぶつけていくと,15人中10人外国人力士である。そのうち6人がモンゴル人だが。

そのもう少し下,徳瀬川あたりも悲惨で,上も下もスカスカすぎてもはや誰と組まされるかわかったもんじゃない。なんか上は白馬,下は豊真将なんてことになりそうだなぁ。そのさらに下の幕尻付近となると,ほとんど総当り状態になるか,もう幕内なのか十両なのかわからない状態になるか。しかし,十両も賭博関取がそこそこいるわけで,一体どこまで下がって拾ってくればよいのやら,になりかねない。どちらにせよすごいカオスである。

しかし本当に悲惨なのは場所後で,琴光喜は引退としても,他は野球賭博で893と直接かかわった証拠が見つかったり,立件されたりしない限り一発引退させられないだろうから,普通に全休扱いで15枚下がるということになる。そうすると彼らはいっせいに幕尻か十両上位に落ちることになり,逆にその当たりの力士はちょっと勝っただけですぐに10枚ほど上昇する。普段の1勝1枚では番付がまったく埋まらないだろう。十両筆頭で優勝しようものなら,一発で前頭筆頭もありうる。まあ,それはそれで清廉潔白なご褒美としてありな気がしないでもない。
  
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2010年06月21日

江戸時代と米本位制

・世界初!愛知県豊田市で誕生したコメ兌換通貨の凄味〜「腐るおカネ化」で流通の加速を目指す(ダイヤモンド・オンライン)(Yahoo!ニュース)

自分以外も何人か指摘していたが,これは要するに江戸時代の制度とほぼ同じである。江戸時代は金銀複本位制だったということになってはいるが,実際のところは金銀米複本位制だったというのが適当だろう。

誤解を恐れずざっくり説明すると,江戸時代は身分・階層・地域によって貨幣が異なっていた。武士は農民から米を現物で徴税し,それを上方(大阪)で換金。西日本の通貨は銀貨であったためここで銀貨に変わるが,さらに東日本・江戸幕府及び各大名は金貨を正規の通貨としていたため,これをそれぞれの歳入とする折,もしくは東日本の商人に流通させるべく,両替がなされる。この一連の兌換にかかわって大もうけしていたのが両替商である。大名や大商人への貸し付けもやっていたから,すでに銀行とほぼ同じ機能である。

さて,米と銀の交換比はその年の米の収穫量で変化する。凶作ならば単価が上がり,豊作だと下がる。ゆえに,やや飢饉になるくらいのほうが一般武士・大商人には都合がよく,庶民や農民は困窮する。豊作だと農村は飢饉におびえずに済むが,物価がインフレして都市民は困るという矛盾がここで生じる。しかも初期の幕府は収穫量に対する割合で年貢を徴税していたため,財政が不安定であった。そこで吉宗が享保の改革で「それでは幕府の歳入が固定されず,予算が立てられない」とし,年貢を平均収穫量で固定した(検見法→定免法)。これにより確かに表面上の財政は安定したかに見えたが,よく考えてみると根本的には解決していない。

なぜなら,徴税された米及び農村で消費し尽くされなかった米はいずれにせよ市場に出回る。幕府は金貨・銀貨の改鋳権を持っていたが,米についてはいじりようがなかった。というよりも,米の収穫量が調整できたらそれは錬金術か魔法にほかならず,現実的ではない。そのため米の収穫量が米価を決め,米価が都市民の購買力に直結するため,そのまま諸物価に影響するという構造は,変化しようがない。ゆえに,結局米の収穫量=通貨流通量が毎年のように変化するため経済が混乱するという,根本的な矛盾は解決しなかったのである。幕府は金貨・銀貨を激しく改鋳することでインフレ・デフレに対応したが,ここに米本位制の限界が見える。

米が輸出できればそれが調整弁として機能し,まだ話は違ったのだろうが,周知の通り,当時の日本は鎖国体制を取っていた。実際には中国・オランダとは貿易を行っていたのだが,どちらの国にも日本米の需要など存在しなかったことは想像に難くなかろう。国際的な米市場が存在しなかったわけではない。当時の東南アジア諸国家は内陸部で生産させた米や農産物・香辛料を首都=海港都市に集積させ,輸出して外貨を得るという体制を確立していた。17世紀にはこの市場に日本も中国(明・清)も参加していたが,18世紀までにどちらも鎖国体制に入り,撤退してしまう。

この経済体制の矛盾がわかっていながら,石高制である以上一定量の米を生産することからは脱却できず,米本位制を維持せざるを得なかった幕府・諸大名は,時代が進むにつれ困窮。逆に金銀貨幣を日常的に用い,米以外の商品作物を生産する富農や,大都市の商人層は経済的優越を得るようになった。米本位制とモノカルチャー経済からの脱却に成功したのである。工場制手工業(マニュファクチュア)が発展し,工場生産の経験や資本の蓄積など明治維新後の産業革命に対応しうる状況が整えられつつあった。実際には当時米があまり気味で,飢饉でばたばた人が死ぬのは元々米作りには向かない土地柄の東北地方の寒村が中心であったとされる。

しかし,だったら商人の真似をすればいいではないかという発想に行き着き,商品作物の奨励によって財政を建て直した藩もいくつかあるし(一番有名なのは米沢藩か),蓄えた力で軍拡に励んで幕末に明治維新の立役者となった藩もある(薩長土肥)。だが,幕府は自重に耐えきれず,発想自体はあったにもかかわらず,身動きがとれなかった。ここに優秀な人材を多数抱えつつも,幾度もの改革に失敗したままペリー来航を迎えてしまった江戸幕府の悲哀がある。江戸時代の経済は相当複雑でおもしろいので,興味のある人はぜひ調べてみてほしい。


さて,一応本題にも触れておこう。マルクスのような物言いになるが,結局利用価値のある物を通貨として使用するのは限界があるように思われる。おまけに米の場合,江戸時代という非常に有名な事例があるので全く凄味がない。
  
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2010年06月19日

大概何かしらあるよね

今頃だが,サッカーW杯の,グループリーグの国家同士に歴史的因縁ありそうなところでも書くか。


グループA;珍しいことに,4カ国の間にほとんど因縁が見あたらないグループ。しいて言えばメキシコとウルグアイがともにスペイン植民地だったことぐらいだが,それぞれ別の副王領だった上に,ウルグアイの成立は実は複雑な経緯をたどっており,純粋なスペイン植民地からの独立とは言い難い面もある。しかし,フランスは情けない。98優勝,02一次リーグ敗退,06準優勝と,隔回でしか実力を発揮できないのではないか。

グループB:ここもつながりのないグループ。つまらんのう。しいて言えば,韓国とギリシアはともに冷戦の最前線にいたってことですかね。ギリシアはトルーマン・ドクトリンでの最重要支援国,韓国は朝鮮戦争の当事国。

グループC:イングランドのやらかしとスロヴェニアの善戦で死のリーグと化している。さて,アメリカとイングランドの関係は言うまでもない。しかし,引き分けたのは驚いた。皆言ってることだが,イングランドのGKは呪われてるんじゃないか。ところで実はさっき気づいたのだが,アメリカは90年大会から連続6大会連続出場で,もはや常連であるが,それ以前は50年大会まで出場がない。他の国では,アルジェリアはフランス植民地なので,ここには宗主国がいない。逆にナイジェリアは旧イギリス植民地。入れ替わってたらいろいろありすぎるほど因縁があったのに。スロヴェニアは今回出場国で最小人口だそうで。面積的にもほとんど最小ではなかろうか。そこが超大国アメリカと引き分け,グループリーグ突破しそうだからおもしろい。

グループD:ここもドイツがセルビアに負けたことで比較的混沌とした情勢。ドイツとセルビアは両者WW1の対戦国。まあ直接セルビアと戦ったのはオーストリアではあるが。逆に,セルビアとオーストラリアはともにWW1で協商国側にいたが,当事者間になんの親近感もないだろう。ガーナはオーストラリア同様,旧イギリス植民地だが,オーストラリアはイギリス人が盛んに移民したため白人国家だが,ガーナは奴隷とプランテーション作物の基地に過ぎなかったため,植民地としての形態がまるで違う。

グループE:オランダは言うまでもなく,江戸時代の鎖国中唯一日本と取引のあった西洋国家。実は江戸幕府成立1603年,オランダ独立1609年なので,新興勢力同士の友好であった。日本にとって,デンマークはEU内部で数少ない捕鯨国である。デンマーク領のフェロー諸島に捕鯨を行う先住民がいる。オランダとデンマークは地理的にも近いが,近世に北海覇権を巡って争った国家。ここにスウェーデンやらプロイセンやらが絡んで,大変複雑な歴史をたどった。この辺はいつか長編で書きたいなと思う。総じてこのグループはなかなか因縁深く,カメルーンはサッカーから離れた歴史的因縁において,このグループ内では完全にぼっちである。

グループF:イタリアとスロヴァキアはWW2における枢軸国つながりがあるが,スロヴァキアを枢軸国にいれるとスロヴァキア人に怒られるような気はする。ニュージーランドは連合国側なのでこの二国と戦っているはずだが,完全に形式的な宣戦布告だったと言えるだろう。太平洋南洋と東欧じゃなぁ。どうでもいいことを言うと,パラグアイ,スロヴァキアは完全内陸国であるのに対し,ニュージーランドは完全島国。

グループG:ブラジル・ポルトガルは植民地・宗主国。どうでもいいが,ジュリオ・セーザルという名前を見てすごいなと思ったのは確実に俺だけではあるまい。コートジボワールは名前からしてフランス植民地だが(意味は象牙海岸),他の旧アフリカ植民地と比べるとヨーロッパとのかかわりは深い。近世にはここからブラジルに大量の黒人奴隷が輸出された。もっとも,輸出されていたのは現在のコートジボワールに居住した部族ではなく,海岸沿いに存在した王国が西洋人(主に英仏)から銃器を購入し,内陸の部族を乱獲して西洋人に売り払った。どちらかと言えば,彼らの先祖は売り払う側の人間であった。近代に奴隷制が廃止されると,名前の通り象牙が主力商品となる。連行先のブラジルでは,サトウキビやコーヒー栽培に従事させられた。北朝鮮?ぼっちだなぁ。

グループH:ホンジュラスは旧スペイン領。正確に言えば,スペインから独立した中央アメリカ連邦からホンジュラスが分離独立した。チリも同様だが,実は旧スペイン領だったのは北半分だけで,南半分はチリが自力で征服・開拓した領土だったりする(アラウカニア・パタゴニア王国)。北半分においても,独立当初はボリビア領だったものを戦争でもぎとった(南米の太平洋戦争)。スイスはぼっち。唯一の内陸国という意味でも。ぼっち多いな今回。
  
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2010年06月14日

有名どころ勢ぞろい

ゴッホ《オーヴェールの家々》六本木ヒルズ・森アーツセンターギャラリー(森美術館の一階下)のボストン美術館展に行ってきた。こういうのはもうなんかいいかなー,1年に数回で,とか考えてスルーしかけていたが,某人に「どうして行かないんだよ」とけしかけられたので,ここも20時まで空いているありがたい美術館だったこともあり(さすが六本木ヒルズ),金曜日の退勤後に寄ることにした。地下鉄六本木駅からちょっと遠かったのが玉に瑕である。

結果的に行って正解で,こういった○○美術館展としては比較的気合の入った仕事を見せてもらった。少なくとも名古屋のボストン美術館よりも平均的に質が良かったように思う。改装中で本館の展示品が巡回しているだけのことはある。特徴としては,有名人のもので質が悪くない作品ながら,作品単体としては知名度の低いものが多かった。美術ファンは結果質が高ければ満足するし,そうでない人は画家の知名度につられてくるから,ビジネス的にはうまい戦略だろう。実際,金曜日の午後7時頃ということもあり,かなり混んでいた。客層はばらばらである(もうちょっとカップル多めかと思っていた)。自分のようなスーツ単身というのもちらほらと見た。

作品の画家たちはざっと一線級のものだけ挙げただけでもエル・グレコ,ベラスケス,ヴァン・ダイク,レンブラント,コロー,ミレー,クールベ,マネ,モネ,ルノワール,ドガ,セザンヌ,ゴッホ,マティス,ブラック,ピカソといったふうである。その他ティントレットやスルバラン,ゲインズバラにロートレックと二線級も含めたら枚挙に暇がなく,けっこうな鑑賞客はほとんどの画家名を知っていたのではないだろうか。

並べ方は時代順ではなくジャンル別で,肖像画→宗教画→室内画→風景画→少数の静物画といったふうであった。風景画が案外と多く,これは嬉しい誤算であった。なかでもカナレットのイギリス時代のカプリッチオという珍しいものが見れたのが良かった。また,モネの風景画が10点と多く,なかなか見ごたえがあった。ゴッホの作品はオーヴェール=シュル=オワーズ時代,つまり最晩年の風景画で,見るからに気が狂っていて良かった(今回の画像)。やはりゴッホはこうでなければならない。

風景画以外では,ブーグローの作品が気になった。モチーフは誰でも気付くほど明らかにラファエロの聖母子なのだが,洗礼者ヨハネっぽい男の子がキリストっぽい幼児にキスをしていて,タイトルが《兄弟愛》。うん,ブーグローはショタコン。そりゃ,聖母子ってタイトルつけれんわな……

  
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2010年06月12日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて付録:参考文献一覧

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2010年06月11日

非ニコマス定期消化 2010.2月上旬〜2月下旬

なぜか来たブリハマチブーム。東方キャラがかわいくてそれで良かった。今も後悔していない。あとこの時期仕事忙しくてニコニコ時代をあまり見ていない。




元ネタ。



フランちゃんのほうがちょっと大人でした。いろんな意味で。



ぱっちぇさんマジ隠れ巨乳。



まさかのhounori参戦。藍様……





萌 え 死 ん だ 。




爆笑。イグノーベル賞とはかくあるべきという見本。




近年稀に見る公式が病気っぷり。素材を提供してくれてるとしか思えないw




そういえばありそうでなかったMAD。テンポが非常にいい。




三回目の更新。その根性は認めるが早く2年目を作って欲しいw。回を経るごとに投稿者コメントが洗練されていく。

  
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2010年06月07日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(5):評価/研究史・周辺の画家

最後に,死後,一時ほぼ完全に忘却されてからどのように復活し,評価されてきたかという歴史と,周辺の画家についてを簡潔に紹介して終わりとする。


評価史について。フリードリヒが発掘されたのは死後60年ほど経過した,20世紀初頭のことである。1906年にベルリンの国立美術館で開催された「ドイツ100年展」がその契機であったとされる。当時ベルリン国立美術館の館長であったフーゴー・フォン・チューディは近代美術の擁護者であり、公的な美術館としては世界で初めてマネの作品を購入し 、同時代のドイツ人画家であるベックリーンやトーマ、クリンガーと交流を持つなど国立美術館の近代化に尽力していた。チューディがどこでどうフリードリヒを発掘したのかは明確ではないが,19世紀末頃から次第に美術雑誌等でフリードリヒの紹介が始まっていたため,経路は複数想定できる。

そしてチューディは,知名度に対して明らかに過大な扱いでフリードリヒを100年展に登場させ、「光と空気の変化の戯れとしての無限の風景の描写が、初めてドイツに出現したのである」と評した。これは明らかにフランス美術との関連性に焦点を当てている 。つまり,フリードリヒのロマン主義を古典主義に対抗するものとして扱い,近代美術の端緒,思想としては象徴主義芸術の,技法としては印象主義の前段階のものとして,積極的な評価を与えた。これらは現代の研究から見て必ずしも間違っていない分析だが,一方でかなり恣意的な評価であるとも言わざるをえない。これには当時,近代芸術において最先端をひた走っていたフランスへの対抗心があったことは言うまでもない。ベルリンをパリと並ぶ前衛芸術の都にしようとしていた,チューディの心情がうかがえる。

しかし1910年代に入るとフリードリヒ作品の愛国主義的な面が強調されるようになっていく。一つはフリードリヒ研究が進みナポレオン戦争に反対した自由主義者であったということが判明したこと。もう一つは戦争の足音が聞こえてきたがゆえに,ドイツ人の民族主義・反仏感情が湧き上がってきていたという時代の変化であろう。実際,1914年には第一次世界大戦が勃発している。チューディの後継者として国立美術館館長となったルードヴィヒ・ユスティが1921年,国立美術館の画集『カスパー・ダーフィト・フリードリヒ』において,「ドイツ的魂のあふれるばかりの内面性」と表現しているのは象徴的な出来事である。以後,後世の研究者が「ナチスの悪用」と表現しているように、第二次世界大戦が終結するまでこのような愛国主義的な解釈が続いていく。ワーグナー同様の被害者であった。いや,フリードリヒには反ユダヤ感情が微塵も無かったであろうことを考えると,ワーグナー以上のとばっちりであった。


しかしナチスによって正常なフリードリヒ研究が捨てられたわけではない。ヘルベルト・フォン・アイネムは1938年に”Caspar David Friedrich”を刊行。これは戦後の1950年に再出版され,記念碑的研究書となった(和訳も存在)。フォン・アイネムは画家の人生や環境、時代背景や技法などから美術作品を分析する立場をとった。一方,カタログレゾネ(全作品集)を作る動きもあり,これはベルシュ=ズーパンにより1974年に完遂される。ベルシュ=ズーパンはフォン・アイネムとは対照的に,徹底して画面に描かれた図像による作品解釈をする立場をとる。すなわち,画家の背景よりも,画面の自然な読解・象徴表現の連結に重きを置いた。レゾネもこのような視点で作られているため,このことを念頭に置いて読まなければベルシュ=ズーパンの恣意的な画面解釈に引きずられることになる。

ただし,戦後になって決してフリードリヒの国際的な知名度が上がっていたわけではない。むしろナチスのせいで不当に低く評価されていたということは指摘されてしかるべきである。たとえば世界的に有名な美術史家の一人ケネス・クラークの大著『風景画論』(1949年)においても、フリードリヒに関する記述は極めて短く、しかもサミュエル・パーマーと比較してより強烈な印象を与える、と評しているのみである。

この状況から変化が見られたのは,レゾネの完成した70年代のことである。まず72年にロンドンのテート・ブリテンで個展が開かれた後、74年にはモスクワ、レニングラード、ハンブルク、ドレスデンで生誕200周年を記念する回顧展があった。日本での78年に国立近代美術館にて展覧会が催された。一応日本においてはそれよりも以前に,東山魁夷がドイツに滞在した際,最も影響を受けた画家の一人として紹介している。現在においてもフリードリヒ研究は、大枠で見ればフォン・アイネムとベルシュ=ズーパンの二大路線に収まっているか,その止揚を目指そうとしている状況にある。すなわち,画家の背景から推定するか,画面の読解を優位に置くか,そしてそれらをいかにすりあわせるか。いずれにせよ,いまだ解釈の定まっていない作品は多く,世界に名だたる巨大な画家としては,まだ開拓の余地がある画家ではあるように思われる。



以下は,フリードリヒ周辺の画家の紹介と,ドイツ・ロマン主義絵画の簡単な流れ。
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2010年06月06日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(4):人生と画業の遍歴・後編

ラムドール論争からの続き。もう一度《テッチェン祭壇画》をよく眺めた上で,ラムドールの主張を吟味してみると,彼は決してヒエラルキーへの抵触のみで批判していたわけではないということがわかる。すなわちラムドールの主張とは,

1,歴史画・宗教画を最上とするジャンル別ヒエラルキーへの抵触
2,美的感動ではなく感情を掻き立てるものであること
3,技法上のアカデミーの規則からの逸脱


の3点である。1についてはすでに説明した通りである。2については,当時のカントの「崇高なるものは自然に限定される」という思想が背景にある(シラーやバークはこれにも反対し絵画にも適用される概念だと主張)。そして問題は3についてである。《テッチェン祭壇画》は強い逆光で描かれている上に、そのせいでキリストが黒く影になってしまっている。また岩山に立体感が欠け、そのせいで岩山は空から浮き出ているように見える。これらは当時のアカデミックな風景画からは完全に逸脱した手法であった。このような発想そのものが過去ロイスダールくらいにしかさかのぼれず,あまりにも斬新であった。

しかし,フリードリヒにはアカデミーの規則よりも優先すべきものがあった。《テッチェン祭壇画》を解題すれば以下のようなことになる。すなわち,落日は旧約の父なる神であり,山上のキリストを照らす。よって,鑑賞者の視点からはこのキリストが後光に照らされているように見えなければならなかった。十字架の立つところはペトロを意味する岩でなければならず,鑑賞者の視線の動きが落日→十字架→岩山という順番になるには,岩山を目立たぬよう塗りつぶし平面的なものにしてしまう必要があった。総じて,「神が直接支配する時代から、キリストの恩寵の時代へ,そして人間の時代へ」というテーマを貫き通すには,彼にはこの配置以外考えられなかった。


ラムドール論争の1808年頃といえば,ドイツにとってはそんな論争をしている場合ではない状況でもあった。すなわち,イエーナの戦いとベルリン勅令,神聖ローマ帝国解体に,そしてティルジット条約の締結である。前述のように,フリードリヒの汎ゲルマン民族主義は,反理性主義・反フランスと明確に結びついていた。ゆえに,このような政治状況は屈辱的に感じられた。ラムドール論争による精神的疲労と,政治状況への義憤が,フリードリヒを初のスランプに陥らせたのはまったく不思議なことではない。

08〜13年頃のフリードリヒはしばしば気を紛らわせるように旅行に出掛け,今後の作品のためのスケッチを増やしている。1810年,22歳のショーペンハウアーの訪問を受ける。会話の様子は残っていないが,残っていれば両者にとって一級史料であったに違いない。1810年に《海辺の僧侶》《オーク林の中の僧院》をベルリン・アカデミー出品。これらがプロイセン皇太子買い上げとなり,ベルリン・アカデミー客員会員として認められた。いよいよ名実ともに,当時のドイツを代表する画家の仲間入りである。ちなみに,1810年頃の自画像。(やや画像重め注意)晴れてアカデミー会員となったフリードリヒは周囲からイタリア旅行をしきりに勧められたが,とにかく北方志向であった彼はイタリア風景の美しさを認めつつも,決してイタリアに足を踏み入れなかった。彼の人生最南端はおそらくボヘミアということになる。

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2010年06月05日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(3):人生と画業の遍歴・前編

コペンハーゲン・アカデミーを1799年、25歳で卒業したところから再開。ここからフリードリヒは学生ではなく画家に身分を移すことになるが、実際のところコペンハーゲン時代から絵を売って生計を立てていたようだし、明確な区分があるわけではない。便宜的に卒業と言ってみたところで、次の在籍先は結局ドレスデンのアカデミーになるのだから(しかも別に教師として招聘されたわけではない)、身分は不明瞭である。

いずれにせよ、彼はドレスデンに移り住んだ。wikipedia参照の通り、ドイツ中央部に位置し、チェコ(ボヘミア)との国境付近にあたる。ザクセン公国の首都であり、ザクセン公国といえば神聖ローマ帝国内ではオーストリア・プロイセン・バイエルンに次ぐ比較的大規模な公国である。選帝侯でもあり、神聖ローマ帝国建国当初から存在する。歴代当主は伝統的に学芸・文化を奨励し、ルターをかくまっていち早く新教に乗り換えたという歴史もあれば、中国陶磁器にはまりこみ、その復元に情熱を注いだ結果マイセン磁器が誕生したという歴史も持つ。

そんなザクセン公国の当主様が、ここ3代ほどはまり込んでいたのが絵画であり、中でも風景画であった。現在でもドレスデン美術館のコレクションと言えばヨーロッパでも一線級のものの一つだが、フリードリヒが訪れた18世紀末の時点でそのかなりの部分は完成されていた。一般的にはラファエロ、ジョルジョーネ、フェルメール、プッサン、デューラー、クラナハが紹介されるようだ。

しかし、やはりフリードリヒ研究という観点からは、ヴェネツィアの景観画(ヴェドゥータ)で有名なベルナルド・ベロットの作品が多数所蔵されていたということに注目せねばなるまい。ドレスデンは自らをヴェネツィアに比し、長い時間をかけて自らの景観に磨きをかけてきた。と同時に、歴代のザクセン公はヴェドゥータに比す都市景観画をドレスデンを舞台に描くよう、画家たちに募集をかけていた。こうして、ドレスデン・アカデミーはパトロンの意向により、自然と風景画王国となっていった。ドレスデン・アカデミーには、ヴェドゥータからその描法だけでなく「現地を美しく描く」という精神を学び取っていた。(なお、より詳しいドレスデン絵画史を知りたければ、アレクサンダー・ティーレ、アードリアン・ツィンク、クリスティアン・クレンゲルあたりを調べるとよいだろう。最も、ドイツ語文献以外は存在しないが。)

このような環境に、フリードリヒが憧れたのは言うまでもあるまい。彼は、滞在許可をザクセン公に申請する手紙の中でこう述べている。「暫くベルリンに滞在し、そこで芸術に勤しんだ後、18年前に選りすぐりの芸術作品の近くで、その美しい自然に囲まれて制作を継続するためにこのドレスデンにやってきました。」すなわち、彼はドレスデン自身の持つ都市景観の美しさと、所蔵する風景画の両方を評価して、ドレスデンを選び取ったのだ。

実のところフリードリヒ自身、自らの真の画風が売れ線ではないことを自覚しており、本格的にロマン主義画家として活動を始める1808年頃までは、ヴェドゥータ的景観画を描いて生計を立てていた。腕の良さは早くから認められており、ドレスデンでは名の知れた人気画家であったという。ヴェドゥータというと、美化はするにしても基本的に都市をそのまま描くものであり、後の人工的な風景画とは相容れない。しかし、生活のためとはいえけっこう長期間ヴェドゥータを描き続けていたことを考えるに、ヴェドゥータに対してはそれほど抵抗感が無かったのかもしれない。

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2010年06月04日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(2):脇道、崇高概念について

予定通り(4)で終わらない目処が立ったので、修正しておく。案の定画業遍歴が長くなったのと、ここでついでに作品紹介をしたほうが簡潔でよいということに気付いたので、構成を以下のように変える。

5部作で、(1)思想形成、(2)崇高議論について、(3)人生と画業の遍歴・前編(4)画業遍歴・後編 (5)評価史と周辺の画家

さて、(2)は先に脇道にそれた、美術史ではない美学的な話を処理しておくことにする。脇道ではあるが、重要な話である。フリードリヒ等という画家にしか焦点の当たっていない話よりも、一般性があって重要な話かもしれない。

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2010年06月03日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(1):思想形成

これについても書いておかなければ、卒業したことにはなるまい。そう思いつつ書こうと思い立ってはや二ヶ月が経過していた。でもやはりやっておこう。

これから書くことは卒業論文で提出したものの前半部分を基調とはしているが、全くの別物である。あくまで彼の紹介という点に重点がおかれている上に、論文ではとても書けないような無根拠な私見も混じっている。執筆の目的は、フリードリヒの紹介半分、フリードリヒで卒論なりレポートなり書こうとする大学生がぐぐってたどり着いたときに参考してもらうのが半分、といったところである。そんなレポート出す先生は極めて限られており、大学名がわかれば特定できるレベルだが、まあ、コピペだけは勘弁して欲しい。私も特定される可能性がある。まあ、大学の先生はけっこう調べてますよ、自分の名前でぐぐったり。

4部作で、(1)思想形成、(2)崇高議論について、(3)人生と画業の遍歴、(4)研究史・作品紹介、となる予定。というわけで、当分美術の話題が続きます。すいません。



(1)については以下で述べているわけだが、非常に長くなったので、先にこれを掲載しておく。フリードリヒ理解の一助となれば幸いである。

まとめという名の箇条書き:フリードリヒの思想形成について

・スウェーデン領ドイツの地方生まれ(=自由主義万歳+北方万歳)

・厳格なルター派の父

・人物画が苦手ということが発覚

・シュライアーマッハーの汎神論

・ロイスダールの風景画

・フランス革命に対するドイツ人の反応(=反理性主義+民族主義)
→ フリードリヒもかぶれる

・イギリス源流の崇高美学?

=汎神論的プロテスタンティズム、宗教画としての人工的な風景画、熱い民族主義


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