2017年12月29日

C93サークルチェックリスト(3日目)

今年の更新はこれが最後です。良いお年を。

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2017年12月28日

C93サークルチェックリスト(初日・2日目)

初日はFGOのサークルが非常に増えていた。2日目は行かない予定でしたが,行く用事ができました。

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2017年12月25日

白・青・金に輝くセーヴル

「雄山羊のついた楕円壺」と「雄山羊の頭部のついた壺」サントリー美術館のセーヴル焼展に行ってきた。セーヴル焼はフランスが誇る高級磁器の製造所・ブランドであり,創立は1740年代になる。当時はまだマイセンが唯一磁器の焼成に成功していた時代で,ヨーロッパ文化の中心地フランスとしては,威信をかけてこれに対抗することになった。当時のフランスはマイセンのあるザクセン王国からの輸入が膨大になり,重商主義の観点から言えば非常に不都合な状況となっていた。マニュファクチュアで生産できる高級材の輸入代替化を図りつつ,やがては輸出産業に転換させるべく国内産業を保護するのは,重商主義の典型例である。このことは美術史だけを見ていると忘れがちであるが,当時の磁器は紛れもなく重商主義の急先鋒をなす重要な“産業”であった。本展覧会,この辺りにも触れていたのは良いことであった。

こうして開業したセーヴル焼は,当初は軟質磁器(ボーンチャイナのような不完全な磁器)を作りつつ,マイセンから技術を学びつつ,国内で良質なカオリンが産出できる場所を必死に探すという経営方針であった。なお,セーヴルが選ばれたのは,ここが庇護者ポンパドゥール夫人の領地であったからである。そのかいあって,1768年にやっと鉱脈が見つかり,1773年に初めて硬質磁器の焼成に成功する。この頃のセーヴル焼の特徴は,結果として軟質磁器と硬質磁器が混在していたことと,先行するデルフトやマイセンが中国や日本の陶磁器の影響を強く受けた装飾であったのに対し,セーヴルは後発の強みでそこから脱し,純西洋風の装飾を売りにしたことである。このマイセンからの差別化,そしてそれが極めて上手くいったことは大変に興味深い。また,軟質磁器は硬質磁器に比べて柔らかく焼成中に変形しやすいという欠点があったが,かえって技術的に鍛えられることとなり,結果として技術水準が急速にマイセンに近づくことになった。色彩もカラフルになり,特に「ブリュ・ド・ロワ(王の青)」と呼ばれる独特の青色はセーヴルの代名詞となる。私もこの青色は大好きで,磁器という素材もあって非常に透明感が強い青色は確かに高級感がある。砧青磁を見ている時の感情に近い。白磁の白,豪華な金彩とそれらを調和させる青の三色構成はこの時代にすでに完成を見ていた。創業から約40年,異様なまでに急速な進歩である。

そしてセーヴルは硬質磁器の開発からわずか20年足らずでマイセンを追い抜き,ヨーロッパ随一の陶磁器ブランドに駆け上がっていった……ところで暗雲が立ち込める。ご存じ,フランス革命の勃発である。とはいえセーヴルは王立から国立への看板の架け替えを行うという,ルーヴル美術館等と同じ手法で革命の荒波を乗り越えることになる。フランスは19世紀の前半,ナポレオン・復古王政・七月王政・第二共和政と政体が目まぐるしく変わるが,国立となってからはさしたる動揺がなかったようだ。産業としての重要性もあれば,文化的威信の中核というのもあり,為政者も簡単には手を付けられなかったということであろう。同時期のセーヴルは発展する科学技術と歩調をあわせてさらにカラフルに,技巧的に,過剰装飾になっていく。また古代ギリシアやローマの模倣や,あるいはマイセンとは逆にこの時期になってシノワズリをやってみたりと,いわゆる「歴史主義」的な作品も作っているし,世紀末にアール=ヌーヴォーを展開するのも早かった。

20世紀に入ると,過去の名作の大量生産と,芸術家とのコラボによる一品物生産を並行していくことになる。この芸術家とのコラボ路線の一種の転換点になったのが1904年,日本の彫刻家の沼田一雅を初の外国人協力者として受け入れたことだそうである。他の西洋諸国を差し置いて日本人やるじゃないか,と思いきや,調べてみると当時としては練習生扱いだったようで,沼田自身も当時まだ日本ではメジャーではなかった陶磁彫刻を学びに行ったという意識だったようであるから,「芸術家とのコラボ」に数えてよいかは難しいようだ。この辺,サントリー美術館さんサイドのキュレーションに無理があるのでは。安直な日本ageに乗っかったようで,帰宅後に調べてから微妙な気分になった。

その後も芸術家とのコラボは続き,2005年には草間彌生とコラボしたそうで,その作品も来ていた。作品を見た感想は……うん……まあ,草間彌生だよね,としか言えない……。草間彌生含めて20世紀以降の芸術家コラボ路線はまさに「現代芸術」としか言いようがない作品が多く,過去の名作との乖離が激しい。私個人が現代芸術嫌いなので当然バイアスはかかっているものの,これらがセーヴル焼と言われても首をかしげるところはある。とはいえサントリー美術館としては草間彌生は“押し”で,その作品をスマホで写真に撮って各種SNSに投稿することを推奨していた。私は乗らなかったが。


なお,本展覧会はサントリー美術館の後,大阪の東洋陶磁美術館,山口県の萩美術館,静岡市美術館と広く巡回するので,見やすいところでどうぞ。  
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2017年12月23日

京阪神旅行記(後編):『有頂天家族2』・『Fate/stay night』聖地巡礼

二日目:狸谷山不動院・京都市街
この日は主に『有頂天家族2』の聖地巡礼に当てた。まず行ったのが狸谷山不動院。矢三郎の祖母が住んでおり,両親が結婚式を挙げた寺院でもある。これが下鴨神社から大きく東に外れた山の中で,Googlemap上で見ると近く見えることから「登れそうだけど,時間ももったいないし,タクシーで行こうぜ」と軽い気持ちでタクシーに乗ったら大正解だった。まだ住宅地が続いている麓から急激に登ること激しく,しかも山道としてつづら折りになっているというわけでもなく,急激な斜面にそれほど曲がらない車道が続いた。Google先生は全てを平面で考えるので上り坂を考慮しない。標高から言えば200mかそこらだし,舗装されていて自動車が通れる道ではあるが,仮に歩いて行くなら登山のような気持ちになるだろう。というよりも,行けるところまで車で行くのが正解としか言いようがない。



そういうわけで到着,車でこれるのはここまで。この入口からは石段が250段続くだけで,そこまで苦労はしない。この寺院の開山は18世紀初頭で,江戸時代のある僧がこの地で修行に励み,不動明王像をここに安置したのが起源であるが,しばらくの間は野ざらし状態であった。そしてお堂を建てる計画が立ったのが1944年,実際に建ったのは戦後直後のことであるから,京都の寺院としては極めて新しい部類に入る。本堂は清水寺や投入堂等と共通する懸造りで,ぱっと見は「保存状態の良い平安時代の作例」に見えるが,どっこい昭和の作例である。20世紀半ばの土木建築技術なら楽勝に作れたのだろうと思われるかもしれないが,よくよく考えてみると大都会京都から近いとはいえ重機の入らない山奥,それも物資不足の戦中から建て始めたのだから,平安時代とそれほど変わらぬ労力がかかったのではないか。たぬきから転じて「他を抜く」ということから勝負の願掛けをする寺院となっており,入り口と本堂の周辺には「1985年」やら「2003年」やらに建てられた特定の球団の「戦勝記念碑」が大量に据えられていた。京都人は大阪人ほど野球を見ていない印象はあるが。



本堂の隣の寺務所では,かなり大きく『有頂天家族2』が取り上げられていた。写真に写っている矢三郎祖母のぬいぐるみで,これ以外に桃仙の大きなポップが立っていた。

なお,本堂の近くに「宮本武蔵が修行した滝」なる史跡があるが,前述のようにここの開山は18世紀初頭であり,加えて修行が(創作が疑われている)吉岡一門との決闘に向けてという伝承であることから,極めて胡散臭い。しかもこの滝,2017年秋の台風で周辺の大木がなぎ倒された影響で碑やお堂が崩れ去っており,おそらく滝自体の形も変わってしまったのだろう,非常に軟弱な滝がちょろちょろと流れているだけであった。極めて残念感しかないスポットである。やはり胡散臭い伝説を商売道具にしてはだめだと思う(右の方を向きながら)。

狸谷山不動院を見た後は一気に坂を下りて大きな通りに出て,再びタクシーを捕まえて南禅寺へ。山門を見上げながら「玉蘭さん将棋打ちましょう」と言うミッションをこなし,ついでに琵琶湖疏水も見た。20年ぶりぐらいに見たけど,南禅寺はよくこれを境内に通すのを許したと思う。今となってはこの疎水もまたノスタルジーを誘うものになってしまい,かえって南禅寺の日本庭園にマッチするようになってしまった。時間の流れは早い。さらにその後は六道珍皇寺へ。井戸を覗き込んで「兄さん会いに来たぞ」と言うミッションをこなす予定であったが,井戸まで近接できない残念仕様であった。道中に同行者が「牛丼を買っていかないと」と言っていたが,買っていかなくてよかった。間違いなく持て余していた。この辺で日が落ちたのでホテルに撤収。日が暮れてから南座を外から眺めた。ちょうど改修中であり,「まあ,天狗に壊されたんでしょうね」と多分ここに聖地巡礼に来たオタクの100人中98人くらいが言ってそうなジョークを言うミッションをこなした。この日は先斗町へ行って料亭で懐石料理を食す。金をかけずに美味いものを探すのは好きなのだが,金をかけて味が保証されているものを食べるのはそれはそれで趣深いのだな,という経験が積めたので,対価を支払っただけの価値はあったように思う。これ1食でガチャ◯回分か……と考えると世の中のことが何もわからなくなる気分になれる。人生は難しい。その後,ホテルに帰って就寝。


三日目:神戸
朝は辻利の直営喫茶店(都路里)へ。一服後は京都から阪急を使って一気に神戸(三宮)へ。少し時間帯が早かったが,さっさとホテルに向かった。何しろ,このホテルが今回の旅の最大の目的地なのだ。





ホテルモントレ神戸は1階のロビー,中庭と地下1階チャペルが『Fate/stay night』の言峰教会のモデルとなっている。中庭が一番わかりやすい。ホテルに入って中庭を見た瞬間の「あ,ここだ」感は非常に強い。“愉悦部部室”も同じく。ここを落ち着いて巡礼できるのは宿泊者の特権であり,まさしく愉悦の気分である。思わずソファーに寝っ転がってギル様と同じポーズをしてしまった。ところで,間違いなく同じ目的であろう宿泊客が全く同じルートでホテル館内をうろつき同じ角度で写真を撮っていたが,この御一行様,男性イケメン1人に女性3人という異色の組み合わせであった。奇しくも士郎くん+各ルートの女性でこの組み合わせになり,『Fate/stay night』の巡礼としてはこれが完璧なのかもしれない。女性陣がチャペルの長椅子に腰をかけながら「ここでガチャ回す?」という会話をしていたのが印象的であった。対抗してその場で侘び石を使ってガチャを引いた頬付は見事に星5のエレシュキガルを引き当てており,「愉悦……」と恍惚の表情であった。聖地で引くとご利益があるのだろうか。

なお,我々が急いでここの聖地巡礼をしたのには理由があり,このホテルモントレ神戸は2017年12月31日をもって改装工事に入り,休館してしまう。“言峰教会”の聖地巡礼ができるのは,年内が最後の機会なのである。みなさんも駆け込みで見に行ってはいかがか。その後は神戸中華街へ。ここで激辛麻婆豆腐を食っていたら,上掲の同行者の「言峰教会にきた」というtweetに対して「どうした、食べていかないのか」ってリプライがとんで来たのが,間違いなくこの旅行のハイライト。まさに今食べてるんだよなぁ……仕込みかというくらいにタイミングが完璧であった。

神戸中華街で腹を満たした後は,生田神社を通って,北野異人街へ。遠坂凛の家は2つの実在の屋敷をモチーフにしており,外観は最も有名な異人館の「風見鶏の館」。内装は「うろこの家」からとられている。そんなわけで風見鶏の館へ。




『Fate/stay night』とは関係なくそもそも超有名な観光地であるが,改めてじっくり眺めてみると確かにどう見ても遠坂邸の赤い屋敷である。なお,中を見学しているとFateの主要キャラを折った折り紙が飾ってあって,これだけ有名な観光地でも聖地になったという自覚はあるのだなとちょっと驚いた。



続いて,うろこの館の内装。こちらも見るとすぐにわかる遠坂凛の私室。ただ,アニメ等での描写に比べると実物は少し狭い。この広さではアーチャーが落下してきた時に,部分損壊ではすまず完全崩壊しそうである。あとはこの近くに,教会へ続く坂道の元になった坂道もあるので,必見。こうして北野を見終わったら,次は一転して海沿いに出て,モノレールに乗って神戸大橋へ。





これまたFateファンなら一発でわかる,新都へつながる橋。『Zero』でアイオニオン・ヘタイロイが展開されたり,『hollow』ではアーチャーの矢が飛んできたりしたあの橋である。ついでに言うと我々が写真を撮っていたのは北公園で,ここはセイバールート(Fateルート)で士郎とセイバーがデートの最後に来た場所であり,ギルガメッシュの襲撃を受けた場所でもある。さて,橋到着時点で17時頃で,ライトアップが18時半頃であったから,1時間半ほど時間を潰す必要に迫られた。いくらなんでも徒歩20分圏内に喫茶店くらいあるだろうと高をくくっていたが,このポートアイランド内はそうした施設が一切ない。結局モノレールの駅の待合室の暖房がよく聞いた部屋で待機することになった。あの辺,喫茶店もコンビニも他の観光名所も含めて本当に何もないので,後続の聖地巡礼者は気をつけよう。しかし,待ったかいはあって,

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見事な夜景の写真。「エクスカリバーが4本生えた」とは同行者の弁である。非常に満足した気分でモノレールに乗って撤収し,ホテルを経由してお夕飯へ。神戸牛を食した。最近「まあこれも言ってしまえばガチャ◯回分に満たないからな」という理屈のせいで,うまい飯のために高額を支払う心理的障壁が下がっている。怖い。その後はすぐにホテルに戻って就寝。


4日目:有馬温泉
起床後,ホテルのバイキングの朝飯を食べて出発。三宮駅からバスに乗って有馬温泉へ。到着したらとりあえず「余裕有馬温泉」をつぶやくミッションをこなす。いや,ここに来たのは『ゆるゆり』の聖地巡礼ではなく,『有頂天家族2』の聖地巡礼である。なにはなくとも金の湯へ。



ご存じの方も多かろうとは思うが,有馬温泉には金の湯と銀の湯がある。金の湯の温泉は薄めれば確かに金色に見えなくもないが,実際に入ってみると見事なまでに真っ赤で,「あ,これ別府でも見たわ」というのが第一印象。別府の場合,入れる温泉の色は割りと普通なので,その意味では有馬温泉の方が稀少である。いろいろと温泉に入ってきたが,これだけ真っ赤なのは初めてだった。その場で買った金の湯タオルも真っ赤に染色されてしまった。浸かり心地は大変良く,なるほど,都からこの距離でこんなに良い温泉があったら,権力者の連中は古代から通いつめますわなぁと体で納得した。そして聖地巡礼の続き。




例のポストと例の喫茶店のシュガーポット。この他の場面も密集していて巡礼しやすかった。一通り有馬温泉を観光したら新神戸に移動して,帰宅。今回もいい旅であった。

  
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2017年12月20日

京阪神旅行記(前編):『響け!ユーフォニアム』聖地巡礼・宇治陵

京阪神に諸々の聖地巡礼の旅に出たので,要点だけまとめて報告。今回は旅行中に撮った写真のほとんどは事前に自分または同行者がTwitterにあげていたので,それを転用する。

初日:宇治(・木幡)
言うまでもなく『響け!ユーフォニアム』の聖地巡礼。というわけで何はなくとも



通称“上手くなりたい橋”。ここから「上手くなりたい」と叫んでから練習すると,楽器やスポーツの上達が早まるという(嘘)。ところでこの時川辺で重機が工事をしていたのだが,何か新しく作るのだろうか。次に向かったのが平等院鳳凰堂。塗り直した後のものを見たかったのもあり,訪ねた。塗り直しにより新品同然になったことについて世論は賛否両論であったが,個人的には賛成で,別に侘びを売りにしている建物ではないのだから,当時のままの方がよいだろう。というよりも,外面だけ塗り直しても中途半端で,どうせなら内側も完全復元して雲中菩薩52体も全部再配置して,藤原頼通が見たままのものを見せてほしいと思う。平等院鳳凰堂から出たら門前の商店街は抹茶一色で,歩いているだけで抹茶の匂いが充満しているのがわかるのだからすごい。抹茶ソフトを食べながら移動して向かった次の目的地は,



橋姫神社。今回の旅行の写真で一番反応が悪かったのがこのtweetなのだが,おそらく東方ファンすら何のことだかわからなかったのだと思う。ググってもらうのも何なので東方ファン以外にもわかるように解説しておくと,ここは『東方地霊殿』の聖地の1つである。『東方地霊殿』の2面ボスの名前を水橋パルスィといい,嫉妬心を操る程度の能力を持った妖怪である。元ネタの宇治の橋姫伝説は,夫の浮気に嫉妬した女が生きながらに鬼と化し,復讐を果たしたというもの。「パルスィ」はパールシー,すなわちペルシア人の意味であるが,これを唐代の中国ではペルシアを「波斯」と書いた。さらにこれを日本語で読めば「はし」となる,つまりダジャレである。水橋パルスィの立ち絵を見ると「緑眼」になっており,彼女のテーマ曲も「緑眼のジェラシー」だが,英語でGreen-eyedは「嫉妬深い」の意味である。出典はシェイクスピアの『オセロ』だそうだ。なお,現地の橋姫神社は宇治の橋姫伝説の知名度から考えれば極めて寂れており,後述するように,それ以外の観光地を見ても,宇治の方々は平等院鳳凰堂と『源氏物語』宇治十帖という二大観光資源が大きすぎて,他の観光名所を持て余している印象を受けた。少なくとも橋姫神社くらいは,橋姫の嫉妬を受けて大変なことにならないうちに整備してあげてほしい。ついでに言うと,橋姫も一応「橋姫ちゃん」というゆるキャラ化・グッズ化されており,この子は赤眼であった。

続いて宇治から北に2駅,木幡に移動。真っ先に行ったのは京アニショップだったが,16時閉店で入れなかった。平日だから仕方がない。これをスルーしてもう3分ほど歩くと,見えてくるのは許波多神社である。藤原基経の墓があると聞いていたし,なにせ木幡駅から歩いて5分,京アニショップから歩いて3分の立地であるから,小さくはあれどそれなりに整った神社なのだろうと思っていったら,ここもこの上なく寂れていた。行った時には地元の小学生がダンスの練習をしており,神社に入ってきた我々は明らかに不審者であった。これはこれで神社のあり方としては正しいとは思うものの。おかげで藤原基経の墓を探すのにも一苦労であった。鳥居をくぐれば全景が見渡せてしまうような規模であるにもかかわらず,5分は探した。というわけで,



これが,かの日本史上初の関白に就任した藤原基経の墓である。橋姫神社以上に,知名度に比して何もない。今から『応天の門』が大ヒットして歴女の皆さんが聖地巡礼してここが整備されるという未来はあるのだろうか……。

さて,あえてここまで説明せずに書いてきたのだが,この極小規模の墳丘,正確には「宇治陵36号」と呼ぶ。そう,36号なのである。実は宇治には「藤原北家一族の墳丘墓が無数にある」ということだけわかっていて,宮内庁により一応番号付けがされて管理されているが,今ひとつどれが誰の墓なのか確定していない墓が多い。あまりにも被葬者が確定できないがために,最も大規模で被葬者も確定している1号が代表とされ,総遥拝所(ここに参拝したら全部回ったことにしてよい)となった。ただし,その1号の被葬者は嬉子や威子等の皇女等であり,摂関を継いだ人物は一人として埋まっていない。つまり,藤原基経は36号と推定がついていてしかも神社の境内で静かに眠れているだけマシ,というよりも大いに恵まれている。

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これがその1号墳。確かにここはそれなりに大きかったが,それでも全く観光地化されておらず,管理所っぽいものもない。それでも他に比べると整っている。



そしてこれらが,どちらかが藤原道長の墓とされている32号・33号墳。こんなにも無常を感じる光景はそうそうない。完全に住宅地に埋もれていた。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだあの藤原道長の墓が,現在こうなっていようとは,日本人の99.9%は思っていまい。今回の旅行で最も感情が揺れ動いたのは間違いなくこの場所で,自分で予期していた以上に,自分の中の無常観に訴えかけてくるものがあった。探すのはかなりの困難を伴うが,皆も探そう32号・33号墳。なお,3枚目の画像は,往時にはこれらの墳墓を管理していた藤原北家の菩提寺,浄妙寺の跡地であったことを示す看板である。浄妙寺跡は現在小学校となっており,この小学校建設の際の発掘調査で実在が確認された。1970年頃のことだそうなので今から40年以上前のことではあるが,それまであの藤原北家の菩提寺の所在地も正確にはわかっていなかったというのも,また無常の極みである。後世の摂関家はどうしていたのかと思い調べてみると,平安末に五摂家に分裂した段階で宇治の墳丘墓は放置されるようになり,浄妙寺も鎌倉時代に衰退して15世紀後半に焼失したとのこと。


初日はこの後,完全に日がとっぷり暮れてしまった後ながら伏見稲荷を訪れ,千本鳥居を四の辻まで登山。夜の伏見稲荷は,夏場は肝試しスポットとして賑わうそうだが,この冬場では閑散としており,これはこれで趣深い。途中,やたらと人間に慣れた野良猫と,空を自由に闊歩するムササビを見かけるという僥倖も得た。さらにその後は大阪に移動し,すっかりミナミの人間になっていた友人と旧交を温めて就寝。翌日,午前中に軽く大阪観光(真田丸と心斎橋・なんば)をした後,午後から京都の洛中に移動して,再びアニメと歴史の聖地巡礼の旅に戻った。(続く)
  
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2017年12月17日

非ニコマス系動画紹介 2017.5月中旬〜2017.5月下旬



極楽浄土以外ではこれが好き。「踊ればすてきコンビ」タグ,なるほど。



今回は中華。今のところはGirlsや極楽浄土ほどには踊られていない印象。



この発想はあった。なんでこれ伸びてないの。




どこから出てきたその発想……



スケッチバグを使って世界崩壊後に移動,マッシュタイマーを使って飛空艇内で全滅という手段で飛空艇バグを魔大陸を使わずに達成。実用性は無さそう。



同志でっかいの,かわいい。



ドラクエ8の長さを考えるととんでもない苦行。OPで橋の方向に向かって走っていく時点で嫌な予感しかしなかった視聴者は多かろう。part1では1歩も進んでいない,長く苦しい旅の始まりである。



バグを使ってレベル1の3人でケフカを撃破。FF6はステータスよりもレベルの影響が大きいため,ステータスはカンストしていてもレベル1だと弱くて意外と苦戦する。頼みの綱はバリアントナイフ。



アイテムドロップ1/4096の一角,スライムLv8を撃破。なんど見ても,1/4096は設定ミスだと思うよ……あとは同じく1/4096のメタルスライムLv8だけ。
  
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2017年12月15日

『ゴッホ 最期の手紙』(原題:LOVING VINCENT)

公式サイト。「我々は自分たちの絵にしか語らせることはできないのだ」というゴッホの言葉を真に受けて,油彩画62,450枚を使ったアニメーション映画が誕生してしまった。制作者たちの頭はおかしい(褒め言葉)。完全に天国のゴッホからの「俺の言いたかったことはそういうことじゃない」というツッコミ待ちである。しかも,わざわざ実写の映画を先に撮影して,それを事実上の絵コンテとして世界中の画家125名に振り分けて油彩画を描かせたという謎の力の入れよう。私は字幕で見たのだが,結果的に「日本語吹き替えで見ると,元の俳優さんたちの痕跡が映画から完全に消え去る」という謎の面白みが浮上するので,本作は吹き替えで見る価値があるという点は先に言及しておきたい。

さて,衝撃の余りに冒頭で茶化してしまったものの,実際のところ,本作の着想としてゴッホが選ばれたのは,先述の格言以外にも大きな理由があり,それを踏まえると実は突飛な発想というわけではないということが言える。まず,ゴッホがポスト印象派に属する画家であり,大きくうねるようなタッチ(筆触)を特徴としたこと。西洋美術史はルネサンス以降,高い迫真性を持ってある一瞬を切り取ることを目標に発展していった。写真のような精密さを目指すわけだから,当然人為が見えるタッチは残さないように描くことになる。しかし,それは19世紀初頭の新古典主義までにほぼ達成されてしまったから,次の目標探しが始まる。その問いと解の1つが印象派による筆触分割で,あえてタッチを残しつつ異なる色を並べて画面に置くことで,「一瞬を切り取る」のではなく「光や水面が揺らめく数秒の動き」を切り取ることに成功した。モネの《印象・日の出》は印象派の名前を作ったその典型的な作品だが,モネのやりたかったことがよくわかる作品だろう。

ゴッホはそこからもう一歩進んだ。だからこそポスト印象派と呼ばれることになるが,それはタッチをさらに大きくうねらせたことと,補色を上手く用いた点にある。《星月夜》なんかが典型例だが,あまりにも大きくうねっているばかりに,星々や月の光や夜空の空気,そして本来は静止しているはずの糸杉までもが,生命を持って動いているように見える。補色による強烈なインパクトが,これを補強する。目に見えた印象や人間の感情を表現するには,見たままを描くだけではだめで,むしろ架空が入り込まなければならない。ゴッホが見出した架空は,ひとりでに動き出す大きなうねりであった。だからこそ実際に動かしてみる,アニメーションにする価値があるのだ。もっとも,ゴッホの持つ感情は力強すぎて,絵も歪んだ力にあふれていたがために,その奇妙な人生もあいまって,彼は伝説の狂気の画家というポジションを与えられることになってしまう。

補色という点では,もう一点注目すべきポイントがある。本作,主人公がゴッホの死の謎を追うというミステリー型のストーリーで展開するが,主人公の見た風景や,主人公自身はまさにゴッホの画風で描かれる。現実世界であるという範囲の中で最大限に補色が使われ,目が痛いくらい鮮やかである。しかし,主人公がゴッホ縁の登場人物たちに話を聞いて回ると,再現される回想シーンはモノクロ,すなわちゴッホ自身の目線で描かれる情景は全てモノクロで,しかもタッチの消された写実的な画風で表現された。これはとてつもなく怖いことだ。本作の作品世界においては,現実世界はゴッホの絵であるにもかかわらず,その創造主の目に映る世界はそれが否定されているのだから。言うまでもないが,写実的か否かだけで言えば,むしろ回想シーンの方が写実的である。モノクロではあるが,タッチが消されているのだから,写真に近い。しかし,それはゴッホが理想とした“絵”ではない。この対比がゴッホの恵まれない環境,悲憤に満ちたその精神世界を否応なく表現する。そして映画の最後の最後,そこで初めてゴッホ自身がゴッホの画風で描かれ,自画像が再現される。ゴッホの死の真相が明らかになったことで,ゴッホは初めて現実世界に回帰したのである。



というような難しいことを考えなくても,実際のところ本作は西洋美術史のミーハーファンとしてワーキャー騒ぎながら見ることが許される作品で,気を抜いて見ていると,ひょろっとゴッホの名画の場面が出てくるので,全く油断ならない。しょっぱなから《夜のカフェテラス》と《夜のカフェ》をぶっこんでくるし,最後は《種まく人》だし,当然《郵便夫ジョゼフ・ルーラン》も《タンギー爺さん》も《ガシェ医師》もあのポーズしてくれるし,《椅子》があの椅子なら《寝室》もあの寝室,そして《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》まで。何より《悲しむ老人》が来た時の「その発想はなかった」感。  
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2017年12月13日

最近読んだもの・買ったもの(『東方鈴奈庵』他)

・『東方外來韋編』4巻。
→ 特集は東方天空璋と10周年の風神録。実は忙しくていまだに天空璋はあまり調べておらず,摩多羅神の本も読みたいなと思いつつ積んですらない状況であるので,本誌はネタバレの宝庫であった。
→ 当初のテーマが河原者・障害者だったところ,説教臭くなりすぎる(または逆に茶化した印象になってしまう)のであえてわかりにくい作りにした,摩多羅隠岐奈が座っているのも当初の案では椅子ではなく車椅子だった。幻想郷の起源の一つがそうした被差別階級であり,その守護神としての摩多羅神が「幻想郷の賢者」の一人(一柱)になっているというのは衝撃的な設定だった。確かに現世から文字通り隔離された存在であったのは,むしろ過去であり,言われてみると幻想郷の設定には近い。なんだろう,柳田国男の話というよりも網野善彦の話になるのだろうか。
→ 「幻想郷の賢者」であることが明確になったのは,これで八雲紫,摩多羅隠岐奈,茨木華扇の3人か(八意永琳は月の賢者なので別枠として)。ここに来て急に増えたし,今後増えていくのかな。Phではないものの,6ボスとEXボスを兼ねた初のキャラで,特別感は強い。そういう意味では華扇ちゃんの立場がないが。
→ 風神録についての神主インタビュー。風神録を作る際に会社を辞めたことについて「出版社から儚月抄の原稿で新卒サラリーマンの月収くらいは出せます」と言われたから安堵して風神録が作れた,と言っているのは興味深い裏話。儚月抄,作品自体は散々な評価ながらそんなところで役に立っていた。また,風神録から神霊廟・心綺楼くらいまでの東方のテーマが「信仰」だったのはねらい通りとのことで,なんなら風神録が聖地巡礼しやすいのも狙いの範疇だった模様。三度も諏訪に行った私は完全に掌で踊らされている。「東方は宗教」というネタフレーズにも触れられており,神主公認になってっしまった。まあ仕掛け通りではあるわけで……ちなみに,インタビュアーによる注釈によると,「東方は宗教」の初出は2006年頃で,実は「Fateは文学」「CLANNADは人生」のコピペは2007年10月であるから,実は「東方は宗教」の方が早いらしい。よく調べたな(完全な揶揄なので誇れない歴史であるが)。
→ インタビューはいつもの同人ソフト勢以外に,石鹸屋。来歴が語られているが,メンバーの入れ替わりが本当に激しいバンドであるw。秀三が毎回咲夜さんのコスプレをしている理由も語られている。そして今回の雑誌付録のCDは石鹸屋アレンジ。ちなみに,99%のブログ読者にとってはどうでもいい情報だと思うが,私は石鹸屋なら「D-89」「もう歌しかうたえない」あたりが好きです。
→ もう一つの特別インタビューは比良坂真琴さん。最初期に出した同人誌が『ぱすチャ』『痕』でKey作品というあたり,完全にプレ東方世代の典型例であった。そして妖々夢から東方へ。「キャラの等身がどんどん縮んでいく」のは自覚があるらしいw。一方で,「こういうロリっぽい絵しか描けないと思われがちなんですが,そこまで趣味100%というわけではないので,普通の等身のお姉さんも描いていきたい」と言っているのはやや意外。
→ 幻想郷人妖名鑑は風神録の面々。漫画はいつもの面々が描いている感じ。あらたとしひらさんが描いている「新旧女子高生対決」が一番笑った。


・『東方茨歌仙』8巻。
→ まさかのヒダル神登場で『咲-Saki-』とネタかぶり。そんなマイナーな神様で……と思ったが,マイナーだからこそ東方と咲でかぶったのだと考えると不思議ではなかった。
→ 索道(ロープウェイ)完成。多分永遠に完成しないと思っていた読者が多数だったと思う。神主が完成させる気だったことに読者は驚いている。なお,あずまあや氏曰くリアルタイムで3年半かかっているとのこと。索道の労力は水力。川・滝または間欠泉を電力化することなく,そのまま活かしているとのこと。そして神社・天狗・河童の三方が全員得する展開を考えた神奈子様マジ切れ者。


・『東方鈴奈庵』7巻(完結)。
→ 人間は妖怪たちによって里を守られ,妖怪たちは人間たちの恐怖によって生存を許させる。そんな人妖のせめぎあい,相互補完の場としての幻想郷。これに加えて人妖の境界線上に立って上手く調整するアウトローの人間たち(『幻想郷縁起』の言い方をすれば“英雄”)という3者がいて,幻想郷は成り立っている……という構図を,本居小鈴というただの人間がアウトロー側に移動するエピソードによって描き出した。確かに,言われてみると「妖怪は人間を脅かし,人間は妖怪を退治するもの」という設定だけあって,「とはいえ妖怪は基本的に人間よりも強いが,その妖怪を退治できる人間ってなんだ?」という疑問にはほとんど触れられてこなかった。博麗の巫女が特権的な立場にいて,普通の人間とは一線を画しているという設定は昔からあったが,では魔理沙や咲夜や早苗は,能力自体はともかく,何の権利があって人里に住んでいないのか? 妖怪を退治しているのか? ということについては,神主があえて放置してきたように思う。
→ 東方projectも様々に作品が増えてきたものの,実は設定資料でもなくゲームでもなく,ちゃんとした作劇として設定を描き出したのは,本作が初めてではなかったか。ゲームではどうしてもアウトローと妖怪だけにフォーカスがあたり,設定資料集では文字通り「設定」なので,内実がわからない。そこへ行くと,人間・妖怪・アウトローの関係が明確に,わかりやすく“物語として”描き出されたという点で本作は大成功の傑作であり,本作により幻想郷の姿は随分とリアルになったように思う。
→ それはそれとして,本作のもう一つの功績は春河もえという人材の発掘で,絵の上手さはこれまでの東方公式絵師の中でも随一であった。これから東方作品の漫画を新たに手がけるのか,全く別の漫画を描き始めるのかはわからないが,注視しておきたい。


  
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2017年12月11日

出川館長は良い銘を考えてください

・イバラキスタン政変(Togetter)
→ 茨城県なんて縁も縁もなかったのに,某人のせいでイバラキスタンネタを知ってしまい,タイトルで意味がわかってしまった時の謎の敗北感。次の大井川知事は中央アジアっぽくない顔であるし,これでネタも風化していくのだろうか。大井川知事が多選したら話は別だけど。なお,ここまでの歴代知事が3・4・5・6選と来てるから,大井川知事は7選する可能性が……?


・FgoCM原画集がコミケ後aniplexで通販開始になったけどこれいいの?ってはなし(Togetter)
→ これ突拍子もなさすぎて最初は何がアウトなのかよくわからなかったのだけど,「元は個人サークルの同人誌であることを明言しないまま,公式が商業販路に乗せた」ということなのね。それは完全にアウトですわ。
→ まず本来は同人誌であるものを公式の商業作品と偽ったことになるから,(気にする人が少ないとしても)単純に購入者に対する詐欺行為になる。次に,公式公認の同人誌が,後で商業販路に乗ること自体は確かにある。しかし,それはあくまで「公式の商品になったわけではなくて,特例として販路に乗せている」という建前の下で運用されてきた。この慣習が崩されると,コミケの個人サークルのブースで商業作品を販売してもよいことになってしまうが,それは明確にコミケの規約違反である。またブコメで指摘されているが,近年コミケの商業ブースは競争が激しくなっていてスペースの確保が容易ではなく,参加費も個人サークルに比べて当然高い。これを抜け道にされると個人ブースでどんどんと事実上の商業作品が販売されるようになってしまう。これはコミケを成立させている建前が崩壊することになりかねないという点で,徹夜組並にアコギな行為である。
→ 本件に限って言えば,最初から同人誌って明示するだけで回避できたのに,なぜしなかったのか。不可解であり,仮に「同人誌と明示すると購入を避ける人が増える」という判断,あるいは「実は最初から公式商品であり,上述の抜け道を利用するためコミケ期間中だけ同人誌とみなしていた」という事情だったのなら悪質極まりない。


・日本が貸した伊万里焼、故宮博物院で破損 台湾、展示中(朝日新聞)
・台湾で展示の伊万里焼破損 大阪市から貸し出し(琉球新報)
→ 別記事の情報になるが,配置や陳列方法などは全て日本側の指揮の下に行われたものとのこと。人為的な破損ではなく,極めて珍しいことではあるが,自然に割れてしまったようだ。琉球新報の方の記事を見ると割れた後の写真が載っているが,思っていたよりも綺麗に割れていて驚いた。「220万円相当」とのことで意外と安く思われるかもしれないが,確かに古くはあれどありふれた染付に見えるから,そんなもんだろう。「出帆万里—日本伊万里磁器特別展」という展示会名から言っても,珍しいものだから出品したというよりも「日中交流の証拠」として出品したものと思われる。
・故宮南院で割れた伊万里焼、継ぎ目を金で修復 日台合作の証しに/台湾(中央社フォーカス台湾)
→ 互いに非がないのであるし,金継ぎで直すのだろうと思っていたら,やはりそうなった。馬蝗絆のごとく,これが新たな価値であり,記事名の通り,日中交流ならぬ日台友好の証になるのであれば今回の事故の意味もあろう。
→ ところで,すでに散々指摘されているが「出川哲朗」館長。すごい同姓同名。  
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2017年12月09日

ボケ方も神

・世界史の窓
→ 世界史の情報がめちゃくちゃ詰まっているサイト。引退した高校の世界史の教員が運営している。情報がやや古いこともあるが,熱心に更新されており放置されているわけではない。個人的には軽く調べ物をするときに非常に重宝している。高校世界史の用語で検索するとWikipedia・コトバンクの次くらいにはこのサイトがひっかかるので,かなり有名なサイトだと私は思いこんでいたが,世間的には全くそうでないらしい。世界史講義録がバズっていたことだし,埋もれるにはもったいないサイトなので紹介しておく。


・秋葉原店から見る最近の「東方」(速水瞬次@AKBH店長)
→ 例大祭の客層を観察した感じとか,人気投票のデータで見ている感じ,自分の実感にも当てはまっている。入り口はゆっくり実況と音ゲー。それもここ最近ではなく,3年くらい前からこれらのルートでの小中学生のファン層が増えているように見える。それにしても「東方はサザエさん・ドラえもん化してる」と言われるとなかなか衝撃的だが。


・神絵師のイラスト(いらすとや)
→ 神絵師じゃなくて「神が絵師」だろ,というツッコミ待ち。
→ ちなみに,西洋美術史学上,15〜16世紀の画家が職人から知的職業(=芸術家)へのランクアップを図った際に用いられた,「創造者としての芸術家」という理屈がある。これは,芸術家とは無から有を作り出す,真っ白な画面に新たな一つの世界を作り出すという点において神と同じ創造を行っているのだ,というものだ。これを示した代表例が有名なデューラーの28歳の自画像で,イエスにしか許されていなかった正面観をあえて採用したのはそういう事情である。……というのを知っていて「神が絵師」というボケをかましたのなら,いらすとやの中の人は相当なインテリ,または西洋美術史マニア。


・ドラクエ11の「マジスロ」が面白すぎて世界が救えない件(ねとらぼ)
→ イベント上カジノは何度かやらざるをえないこともあって今作のカジノも一通りやったのだけど,個人的には全く楽しめなくて,結局必要なコインは全部ポーカーで稼いだ。なにせあまりのつまらなさにスラりんの声でいらっとするようになり二度と打たないと心に決めたレベルでつまらなかった。あれで楽しめた人をどうこう言うつもりは全くないが,あれに詰められたのがパチスロのおもしろいポイントであるのなら,自分はリアルでも一生パチスロを打つことはないと思う。文化が違う。
→ 誤解のないように言っておくと,私は過去のドラクエでグリンガムのムチがとれるまでスロットを回すタイプの人間であるし,昔は競馬もやっていた(ナリタブライアン全盛期からダイワスカーレット・ウォッカくらいまで)。ギャンブルのおもしろさ自体を否定しているわけではない。
→ その上でちょっとだけ具体的に言及すると,結局のところギャンブルなのだからすぱっと当たり外れを出してほしいというのがまず何よりのつまらなかったポイントで,仕様が無駄に複雑なようにしか感じなかった。というよりも,ここで止めると何枚もらえるのかというのを延々と確定させないことで拘束時間を引き伸ばしたい仕様なのだろうというのはわかるのだが,こちらとしてはそれは求めていないのだ。それにもかかわることだが,「液晶の演出だけを楽しむという遊び方もアリだろう」とあるけどあの液晶の演出がまさにつまらなかったところで,同じような展開の繰り返しですぐに見飽きてしまった。
→ 個人的にはこれとウマレースがドラクエ11の数少ない汚点。ウマレースは入手できるものが単に強いもの/役立つものというだけだったら許せたが,(クリア後に)ガイアのハンマーが置いてあるのはギルティでしょ。根性で取ったけど。  
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2017年12月04日

これだから時機を得た制度設計は難しい

受験世界史関連で書きたい記事が溜まってきているが,準備中である。年内には公開するので,もうしばらくお待ち下さい。


・マージャンやるなら川の中 猛暑の中国・四川省(BBC)
→ 猛暑(40度)はうらやましくないが,川の中で麻雀はちょっとうらやましい。私も川の水につかりながら野外で中国麻雀やりたい。
→ ちなみに,麻雀には川にかかわる用語がいくつかあるが,日本と中国の麻雀はそのルールがけっこう違う。たとえば,中国麻雀では流局時のノーテン罰符がない。捨て牌を並べる場を河と呼ぶが,中国麻雀はフリテンがなく,したがって順序よく並べる必要がない。結果的に河が非常に汚くなる(プレイヤーたちの性格にもよるが)。そして日本麻雀の海底摸月は中国麻雀だと「妙手回春」,河底撈魚は「海底撈月」と呼ぶので,中国麻雀に河底撈魚という名前の役は存在していなかったりする。
→ 一方,日本では水中で麻雀を打つ連中が。
→ あと,ブコメに「鴨川で見た(=夏の京大生)」というものが複数あったが,京大ではよくある光景なのだろうか? 東大には,そもそも身近な川もないのであった。


・Eastern Roman gold coins found in 1,500-year-old Chinese tomb(The Archaeology News Network)
→ 西魏自体の墓からほぼ同時期のビザンツ帝国・ササン朝の金貨・銀貨が発掘されたとのこと。それ自体は別に驚くべきことでもないが,おそらく鋳造から中国到達が極めて短い点は注目に値する。西魏の高官とみられる埋葬者が亡くなったのが538年。これに対してユスティニアヌス1世の在位年代が527〜565年であるから,即位直後の金貨としても11年以内に西魏時代の長安に到達していたことになる。現実的には数年以内だろう。墓に入った時点でまだユスティニアヌスは生きており,まさか自分より先にコインの方が墓に入るとは思っていなかっただろう。
→ シルクロード交易は一人の行商人が端から端まで移動するものではなく,いくつもの隊商が(それでも長距離移動ではあるが)リレーしてつないでいくものであったから,商品の移動には膨大な時間がかかっている。このコインはとんでもない速さで東へ運ばれていった例と思われる。


・約半数の35校が破綻。法科大学院の大量閉校は誰が責任を取るのか(BUSINESS INSIDER JAPAN)
→ 法科大学院は,「法学部卒以外の人や社会人にも法曹への道を開いて法曹の多様性を確保する」「合格率3%の司法試験を現実的な合格率の試験に変貌させる」という理念自体は悪くなかったが,法曹需要が伸びるだろうという予測の下にスタート時点で法科大学院設置許可を乱発しすぎたのが失敗の元凶であった。実際には,日本はアメリカのような訴訟社会にはならず,法曹需要が伸び悩み,結果的に司法試験の合格者人数は抑制された。となると法科大学院の卒業者の合格率が当初の80%という目標を大きく下回っていくのは当然の成り行きで,予備試験の存在もあり,合格に自身がある人ほど法科大学院を迂回するようになる。あとは良い人材が集まらずに合格率が下がり……という負のスパイラルである。
→ というような過程があるので,「日本が訴訟社会化するという予測が甘すぎたのでは」という一点を除くと,そう批判する気になれなかったりする。私の友人でも一人,他学部卒からの法科大学院卒で弁護士になった人がいるし,社会人から法科大学院に行ったという話もちらほら聞く。合格率3%の国家試験のまま改革しないというのも怠慢というものであろうし,医学部が6年制なのだからということで法科大学院という発想になったこと自体は,悪くなかったと思う。最初から今生き残っている大学のようなラインナップの少数精鋭で設置を認めておけば,軌道に乗っていた制度ではないかと思う。今後,自然淘汰でそうなっていくだろうが,これだけ予備試験が一般化してしまった後では軌道修正が効くまい。
→ ところで,リンクを張っておいてなんだが,そういった事情を知った上でこの記事を読むと,記事の著者もよくわかってなさそうで,批判も的外れである。「これだけ法曹志願者が減ってしまい、優秀な人材が他分野に流れることによって、20年、30年後、法曹界では人材不足が起こりはしないか。」と言われても,弁護士は現状余っている状態であり,むしろ積極的に法律知識が必要な他分野に流れていってほしい状態である。  
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2017年12月03日

最近読んだもの・買ったもの

やっと9月末のものまで読み終わった。年内に10月末まではたどり着きたい。


・『アルテ』7巻。ダフネの秘密とカタリーナ出生の秘密,カタリーナとソフィアの肖像画完成,
→ ヴェネツィア編の核心。今まで逆風にしかなってこなかった「貴族」と「女」が,ここに来て彼女の武器になった。逆風に反発することがアイデンティティだった彼女にとっては単純ながら深刻なアイデンティティクライシスであり,終始そのことに悩ませられ続けるヴェネツィア編であった。
→ p.108,瀉血を勧める描写が出てきてテンションの上がる歴史クラスタ。
→ p.127-128で語られている肖像画論は西洋美術史を勉強していたら必ず出てくるもの。本人と特定できるよう特徴を残しつつ,本人が望むなら美化し,かつ性格や雰囲気を“にじませる”必要があるからこそ肖像画は難しく,伝統的なジャンル別ヒエラルキーでは歴史画(宗教画)に次ぐ地位を与えられてきた。そして,その前提が語られてからの肖像画の公開。カタリーナとソフィアの肖像画,当然現実には存在していないだけに,かえって「これらが現存していたらアカデミア美術館の一角を飾っていたんだろうなぁ」という謎の感慨が。作中画だけど,名画ですよこれは。
→ ヴェネツィアの工房の職人マテイさんが語る時代の変化。画家が職人から芸術家へと変貌していく過渡期,ルネサンスだからこそ,愚直な職人気質の人にとっては逆風であり,アルテの作風には順風になる。やっと自分の出自や性別が「武器」だと自認できるようになったアルテは,いよいよフィレンツェに帰るのか,というところで8巻へ。


・『聖☆おにいさん』14巻。
→ 恵比寿様って神無月でも出雲に行かないのね。不覚にも知らなかった。えびす講,なるほど。
→ イスカリオテのユダが3000円の福袋を100円玉30枚で買って,中身が「赤ワインとパン,薔薇紅茶,にぼし」だったことで「何か大切なものを買い直した気がした」とつぶやく話,ユダが救われていて普通に良い話では。ちなみに,赤ワインとパンは説明不要として,バラは殉教の象徴,魚はキリストの象徴。
→ これだけメジャーな人物が出揃っていて,確かにパウロは出てきていなかった。言われてみると『新約聖書』って章立て上は半分がパウロの書簡なんだよな。本当にパウロが書いた書簡だったかは別問題であるが。そうして,本作での扱いは筆まめキャラに。


・『アド・アストラ』12巻。バグラデス川の戦い,ヌミディア統一とソフォニスバの死,インスブリアの戦いとマゴの死,ハンニバルのアフリカ上陸,和平会談,ザマの戦い前夜。
→ バグラデス川の戦いは特に脚色は無いと思われる。一方,ソフォニスバの死関連は脚色が多く,ソフォニスバがシュファクスの子を身ごもっていたというのは創作。確かにこの方が,スキピオやマシニッサの意に反してソフォニスバが自殺したというストーリーは描きやすい。
→ イタリアを去るハンニバルが「戦争も最後は国力」と諦めたように言い放つのは重い。豊富な人材のプールもまた国力であり,緒戦の惨敗をファビウス・マルケルス・スキピオを筆頭に優秀な指導者を多数輩出して挽回したのがローマの真の国力であった。終始ハンニバル一人(あるいは弟ハスドルバル他バルカ家の親族)しか当てにできなかったカルタゴ側との大きな違いであった。
→ インスブリアの戦いは全面カットに近い描写。マゴの死に焦点を当てつつストーリー展開を急ぐとこうなったか。作者あとがきにあるが,英雄にあこがれてたどり着けなかった凡人マゴの物語も本作を彩る一片であった。まあ正直,大して重要な人物でもないのによく出てくるなとは前巻まで思ってたけど。ここで使うのであれば,もう少し伏線を張っておくべきだったのではと思う。マゴは死の淵にあって突然出てきた感じも否めず,この点,本作では珍しく上手くない。
→ 実はザマの戦いの前にカルタゴとローマは和平交渉をしているが(北イタリアのマゴの残党兵がアフリカに到着する前のタイミング),これはカットされた。この時の和平案,実はローマ側の元老院では承認され,カルタゴ側の議会で承認されれば発効していたところ,カルタゴ側の議会が拒否するというまさかの展開で流れたという経緯があるが,ザマの戦いを必然の衝突として描きたかった本作としてはカットせざるを得なかったか。ただ,カルタゴ側の議会の無能っぷりを描くにはいい材料だったし,それでも和平交渉が流れたということでもザマの戦いの必然性を描けたと思うので,やや残念。
→ ハンニバルとスキピオの歴史的な会談は,ハンニバルが象を集めるための陽動として描かれた。実際にはそのような策はなく,会談前に象は集められていたはずだが,ローマ側の不自然な陣形とザマの戦いの初動を描く伏線としては良い。
→ 「13巻でザマ」という11巻時点での読みは当たっていたけど,13巻で完結らしい。ということは第二次ポエニ戦争の終結ですぱっと終わるということか。本作による,戦後のハンニバルとスキピオが死ぬまでの話も読んでみたかった気も。
  
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