2010年11月15日

石川五右衛門も欲しがったという

根津美術館の南宋の青磁展に行ってきた。今回の展示ではほぼ全て竜泉窯であった。「陶磁器は南宋期の砧青磁を至高とするが」と自己紹介にある通り,砧青磁が大好きである。あのぬめっとした感じであり,それでいてかつ磁器特有の硬質さを失っていない見栄えは,矛盾した感覚をそのうちに秘めている。

ただ,今回飽きるほど見て少し感じたのは,砧青磁というのは美しいだけだな,ということである。もちろんそれはそれで重要なことで,唯美的な良さというのもあるし,それは私を支配する一つの価値観である。が,砧青磁に黒楽茶碗や曜変天目茶碗のような小宇宙を感じたかと言われれば,どれ一つとして感じることは無かった。あまりにも美しいがゆえに,そこで閉じてしまっているのである。一つなら欲しいが,二つ目は欲しくならない。まあ,絵画と違って道具ではあるので,ある程度の画一性は求められるべきであろうから,全部同じに見えることに文句をつけてもしょうがない。その点ではむしろ,唯一無二な世界を持つ,黒楽や天目のほうがおかしいのであろう。

そうそう,青磁に金継の技法での修復はどうかと思った。あれは「閉じた世界」をぶち壊している。とても無粋に見える。しかし,では他の技法で修復したらよいかと言われるとそれも困難で,そもそも砧青磁というものは欠けた時点でおしまいなのではないだろうか。完璧な美しさをほこるがゆえの欠点ではないか。かいらぎについても同様のことが言える。砧青磁に貫入を認めるのは是か非か。完全な完璧を求めるのであれば非なのだろうが……青磁は白磁よりも低温で焼けるが,逆に発色は不安定で,釉薬が厚いため貫入がおきやすい。それほどに,完璧な砧青磁の製造は難しい。

妙な名物としては,かの有名な千鳥の香炉が展示されていた。キャプションが地味だったので一瞬気が付かなかったが,ちゃんと紹介して欲しいところである。


今回驚いた展示といえば,米色青磁である。白いのに青磁とはこれいかに,というわけだが,それを言い出すと青磁だって実は青じゃないじゃないかといえるわけで(ほとんどの青磁は碧色である),これはそもそも中国だと青・緑・碧あたりは適当に使われていたことに由来するのであろう。磁器の歴史として白磁のほうがかなり遅いはずなので,色付の磁器はすべて「青磁」とする風習がついたのかもしれない。なるほど,「米色」は白色ではない。


根津美術館の庭園は広大で美しいが,いまのタイミングでは紅葉までまだ一歩足りない感じであった。来週末行くとちょうどいいくらいかもしれない。

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