2011年08月24日

超絶技巧の磁器(キャプション原文ママ)

粉彩花卉文碗(景徳鎮官窯・雍正年間)出光美術館の明清期の陶磁器展に行ってきた。中国の陶磁器といえば宋が注目されがちなのは,あの時代が陶磁器において(そして画においても)中国のルネサンス=真の美術史の始まりにあたり,そこが最も輝いた時代であるという価値観がある程度強い説得力を持っているからであろう。が,実際にはその後も中国の陶磁器は正統進化を続けており,とりわけ技術の発達とは切り離すことができない。そもそも宋代がそれだけ注目を浴びるのも,北宋代に白磁の技術が完成したためであり,中国の陶磁器の歴史は技術の進化とは切っても切り離せず,宋代だけを特別視するのはあまりおもしろくないと思う。

本展覧会は時代別に陶磁器が並べてあり,初心者としては大変ありがたかった。明代の前期には青花(染付)が流行したが,これは元の時代に染付の技術が発明されて発達していた点と,新時代の清らかな雰囲気が染付の持つイメージと合致したせいだと思われる。ただし,明代は強い統制経済で,特に明の前期は王朝の権力が強かったため,良くも悪くも政府が多くを主導した。陶磁器で強かったのも官窯だった。しかし,いわゆる北虜南倭による外圧や王朝そのものの劣化から政府の統制が崩れ,なし崩し的に海禁政策も緩んでいくと,海外需要の増大の波にさらされて民窯が力をつけていく。また,赤色をうまく発色させる技術が開発されて,呉須赤絵や万暦赤絵として発展していく。金を用いた豪華絢爛な金襴手が発達したのもこの時代で,輸出産業となった。これにより,シンプルな青白ニ色の染付からの脱却が図られ,模様の多様化が進んだ。なお,万暦赤絵は万暦帝の時代の景徳鎮で隆盛したためこの名前がついたが,万暦帝は秀吉の朝鮮出兵に対抗して明の援軍を送り込んだ皇帝であり,日本軍が朝鮮から陶工を連行して自らの陶磁器を発展させた。当時の戦国大名は朝鮮からも明からも,茶道具として大量の陶磁器を購入していたのだから,輸入代替化も考えるだろう。

万暦帝の遠征は朝鮮王朝の命脈を保ったが明の財政を破綻させ,明滅亡の原因となった。かわって清朝は異民族王朝ではあったが,中国の伝統を保護した。陶磁器も例外ではなく,景徳鎮はじめ官窯は引き続き王朝に奉仕し,民窯も活発に活動した。前時代から入ってきていた西洋の技術の流入や,ヒ素を用いることで絵の具の定着が良くなることが発見されたことから,いよいよ絹本のように磁器の肌に綿密な画を描くことが可能になり(この技術を粉彩という),また色自体も多様に発明が進み,清朝前期では極めてカラフルで極めてマニエリスティックな陶磁器が展開されることにあった。これが本当にすばらしい。もっと見たかったのだが,今回は明朝前期から清朝前期まで全てを扱う展覧会だったこともあり,それほど数が多くなかった。

しかし一方で,清朝前期は近代の科学技術を伴わない範囲での技術革新が限界に達し,また周囲の追い上げが厳しくなっていった時代でもあった。朝鮮はいわずもがな,明の時代から高度な白磁を生産していたし,その朝鮮から技術を得て,朝鮮や清朝が鎖国している間に輸出産業に成長した日本(特に伊万里)もいる。そしてその主要な輸出先であるヨーロッパでは,18世紀初頭にまずマイセンが磁器の製法を解明して生産を開始し,その他の諸国でも次々と磁器生産が始まっていった。そして18世紀後半からの清朝は,長く続きすぎた平和による政府の腐敗と軍隊の弱体化,統制経済が経済発展・人口増加に耐えられなくなってきたことによる民衆の不満増加や,宗教結社による大規模な反乱が重なった。そしてここに,イギリス人がアヘンを持ってやって来て,中国に大きな社会混乱を起こすのである。陶磁器の発展もここで止まってしまった。

まあ伊万里好きの私が見ればそりゃ清朝の超絶技巧気に入りますよねって話ではあるんだが,伊万里ほど金襴手がくどくなく,本当に「カラフル」としか表現しようがない。また,色のバリエーションが非常に多様で,江戸末期や西洋磁器でもこうゆう発色はあるのだけど,やはり中国は相当に先んじていたんだなと思わせられた。景徳鎮ぱないの。



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