2020年03月24日

「表現の不自由展 その後」と表現バッシングについてもう少しだけ

・「あいトリ」騒動は「芸術は自由に見ていい」教育の末路かもしれない(森 功次)(現代ビジネス)
→ すでにあいちトリエンナーレの「表現の不自由展 その後」については一筆書いているが,この記事に引っ掛けてもう少しだけ言及しておきたい。

本記事には同意しかない。本件に限らず,自由な解釈が許されているのと,誤読が許容されているのは全くの別物というのはこの社会に蔓延している間違った観念である。「 批評には正解はないけど間違いはある」というさる方のブコメの言い方も良い。これが芸術性の無いものならばほぼそうならないところ,小説や美術作品になると途端にこうなってしまうのは,本記事のタイトルの通り,学校教育の美術で「自由な鑑賞」が過剰に強調されてきたために社会に広がってしまったものだと思う。

ただし,仮に読解が難しいもの,高い専門性が無いと読み解けないものや文脈が込み入っているものは,それを提供する側に誤読された時の対処方法や覚悟の準備が必要だと思う。これは『宇崎ちゃん』ポスターバッシング事件の時にも述べた通り。実は最近まで本件と『宇崎ちゃん』騒動を表現の自由の点で並べるのは相違点が多すぎるだろうと思っていたのだけど,一般社会に対して難読文脈の理解をどこまで要求してよいかという点で見事に類似するので,一転して比較は正しいという立場に変わった。これらの件で立場を変えている人は,(文脈の中身が違いすぎるので)不誠実だとは思わないが,態度に説明は求められるとは思う。

閑話休題,そういうわけで私はあらゆる場面で誤読する側が悪い,ということになるとは思わない。社会の平均的な知識・興味関心の人にとって,読むのがどうしたって難しいものは世の中にいくらでもある。その上で言えば,この「表現の不自由展 その後」は社会に対して正しい理解を求めていいレベルのもので,すなわち良い意味での浅さしか有しておらず,なんなら『宇崎ちゃん』よりもわかりやすいものだったと思う。にもかかわらずこれだけの誤読が,それもそれが絶対的に正しい解釈であるという思い込みを伴って広がってしまったのは,本記事でも指摘されている通りに現代アートに対する嫌悪が社会にしみついていることであろう。これについては私自身も現代アートは嫌いなのでわかるのだが,企画した側が社会の抱く現代アートに対する嫌悪感をあまりにも軽視していたし,それがナイーブな政治問題と直結した時の想像力が欠如していたということを,やはり指摘しておかなければならない。そこは原則論で通さず,現実に対応するのが主催者の責務であろう。

ちなみに,私が今までの表現バッシング事案で最も「社会に要求していい文脈読解レベルが低いと思われた」「にもかかわらず批判側の誤読がすさまじかった」「誤読を指摘されても開き直りがひどかった」と思ったのはキズナアイバッシング事件で,今振り返ってもあれは自分の中でもインターネット論争史の中でも一つのターニングポイントだったなと思う。

この記事へのコメント
ちょうど紙屋高雪氏が来月、あいちトリエンナーレと宇崎ちゃんポスター問題について取り上げた本を出版されるので、これは押さえておきたいと思います。
Posted by スパルヴィエロ大公 at 2020年03月27日 13:07
そういえばそうでしたね。
それの告知の頃はまだピンときてなかったのでスルーするところでした。
思い出させてくれてありがとうございます。
Posted by DG-Law at 2020年03月27日 21:51