2018年08月06日

『りゅうおうのおしごと!』1〜5巻

私は将棋は駒の動かし方しか知らないレベルであり(よく意外と言われる),結局ほとんどそこから向上しないまま読み続けているので,完璧には楽しめていないと思われる。ついでに言うと囲碁もわからないしチェスもわからない。そうしたパワーは幼少期から大体全部麻雀といただきストリートに吸い込まれてしまったので,今になって若干後悔している。

それでも本作が面白いのはきらめく才能のぶつかり合いとして極上の表現であるからだ。本作2巻に「才能とは輝きだ。その輝きが強ければ強いほど,激しければ激しいほど,人は引きつけられる。」とある通りで,本作の面白さは究極のところこのフレーズに尽きる。磨かれて残った玉同士がぶつかって,真の玉として残るのはいずれか。残れず「石」になってしまった側はどう振る舞うか。本作はそのどちらも面白い。そしてまた,本作の主要人物は勝負師として皆優しすぎるのが良い。象徴的なエピソードが3巻の,あいが桂香さん相手に中盤まで全力を出せなかったシーンと,4巻の勝っているはずの桂香さんが号泣しているシーン。特に後者は強烈で,5巻の竜王防衛戦4戦目を除けばこれがベストバウトかもしれない。桂香さんが名勝負製造機と言われる所以である。

とはいえやはり5巻までの本作の白眉は言わずもがなその竜王防衛戦4戦目で,こういう作品で一番熱い勝負を扱うなら,その競技の本質に迫るものを使うのが最善手になるし,その王道を丁寧に仕上げきった。意外にも私が一番胸打たれたのはゴッドコルドレンさんがニコ生の解説でめちゃくちゃなエールを叫んでいるところ。なんででしょうね。前後の天衣も鵠さんも清滝師匠も姉弟子も良いシーンであるが,一番は横に並ぶライバルというのは,少年漫画を読んで育ってきたからか。


さて,言うまでもなくアニメ組です。アニメの出来については,アニメから入った身としてはあまりdisりたくないところで,加えて原作で言うと2巻まではそこまで削った部分が大きくないと思う(当然ながら個人の感想であって人によっては耐え難い部分が削られたかもしれないが)。一方でその後,3・4巻についてはちょっとスリムになりすぎた感がぬぐえず。アニメはどうしたって12話か13話にまとめる必要があるし,1話ごとに区切る必要もあるから計算して削り落としているのは理解している。加えて1クールのアニメをやるなら終わりは5巻の竜王防衛戦までやりきるしかないのも理解しているが,削ぎ落とされたもののもったいなさを考えると承服しかねるかな。最大の犠牲者はたまよんか山刀伐さんか。

りゅうおうのおしごと! (GA文庫)
白鳥 士郎
SBクリエイティブ
2015-09-12


  

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2017年08月07日

書評:『文学としてのドラゴンクエスト』さやわか著,コア新書

2巻の作業の完全終了からの『ドラクエ11』発売で,(本業と)ドラクエしかやらない日々を送った結果,ブログの更新を約10日止めてしまった。ぼちぼち再開させようと思うので,とりあえずドラクエの話題から行こう。

『文学としてのドラゴンクエスト』は,堀井雄二の作家性,及びドラクエシリーズに通底する文学性について掘り下げることを試みた本である。また,ドラゴンクエストが「日本では大ヒットするが,海外では大してヒットしていない」という点を指摘し,堀井雄二の作家性は日本人の琴線に特化して触れるものなのではないか,という論点を提示し,サブテーマとして論を進めている。なお,実際にはドラゴンクエストの物語面の制作にはシリーズが新しくなればなるほど膨大な人数がかかわっていくことになるが,本書では堀井雄二に代表させている。現在の11に至るまで総監督は堀井雄二で一貫している点,そして映画であっても語られるのは結局のところ監督の作家性であることを鑑みると,ゲームの場合も総監督者の名前で代表させても問題ないだろうという点がその理由である。合理的な理由なので,問題ないと思う。

結論から言えば,おもしろい点が半分,論の組み立てや結論が強引で疑問点が多いというのが半分という本であると思う。

本題のうち,堀井雄二の作家性の分析については,ドラクエを作る前の堀井雄二の経歴について触れた後(学生時代や漫画家時代,当然『ラブマッチテニス』や『ポートピア殺人事件』にも触れている),「意外にも村上春樹と経歴がよく似ている」として,村上春樹との共通点を見出す方向で論を進めている。これについては私が村上春樹を大して読んでいないというのを差し引いても,単純に堀井雄二と村上春樹の経歴が似ているという点は新鮮な視点だったものの,論自体が強引に感じた。この点は村上春樹とドラクエを両方知っている人,あるいは村上春樹の大ファンだけどドラクエは全くプレイしていない人の意見が気になるところ。一応事実関係だけ本書から抜書きしておくと,
・二人とも兵庫県の育ち。ただし堀井は淡路島,村上は西宮・芦屋・神戸。
・二人とも早稲田大学第一文学部出身,堀井は1972年入学で78年卒業,村上は1968年入学,75年卒業。
・二人とも学生運動には冷笑的な態度を取っており,また学生時代から様々な活動を始めている。ただし,直接の接点はない。
・『ドラクエ1』の発売が1986年,『ノルウェイの森』発売が1987年。

次に堀井が『指輪物語』といった文学作品ではなく,『ウルティマ』と『ウィザードリィ』といった海外RPGに範を取ってドラクエを作り始めたという,古参ファンには知られている話にも触れていた。だからドラクエは地中海や北欧の神話や『指輪物語』から“切断”されている。西洋人からすると確かに違和感はあろう。ベースは西洋のハイファンタジーであるのに,接ぎ木されたものは全く別の文脈から形成された,堀井の頭の中にあるストーリーである。この堀井のストーリーは「超人的な能力を持った勇者を主人公として,『全く違った自分』をプレイヤーに追体験させる」ものである。要するに「なりきり」の文化である。

ここまでは私も賛同するのだが,次の本書の主張は疑問符がつく。「なりきり」の文化は海外のRPGの文脈には無いため,海外では受け入れられていない,海外のRPGは多くは主人公が平凡でプレイヤーの視点の役割しか果たしていない,というのである。そんなに海外に「なりきり」の文化って無いか? RPGに限ればそうなのかもしれないが,残念ながら私に海外のRPGの知識はない。しかし,国内のRPGで比較するだけでも,FFの主人公に比べるとドラクエシリーズの主人公はむしろ至って無色透明な視点に過ぎない。「なりきり」の文化の理屈で言えば,本書の理屈で言えばFFの方が受けないはずだが,FFは普通に海外で受けている。FFシリーズのプレイヤーは主人公視点じゃなくて神の視点だから,という反論はありうるが,他はともかく7・8・10あたりは完全に「なりきり」では。10に至ってはそもそも「これは俺(お前)の物語だ」というフレーズがメインテーマである。

だから,ドラクエが海外で受けないのをストーリー面から考察するのであれば,要点は主人公ではなくストーリーそのものになるのではないかと思う。問題を主人公の性格に矮小化したのは残念である。

物語自体におけるドラクエらしさとは何か。実はこの後の本書が作品ごとに批評しているところで出てくる「不意に現れる暗い文学性」という点が強いのではないかと思う。ドラクエ3で最後に勇者一行がアレフガルドから帰れなくなるのは「セリフを考えるのが面倒だったから」と堀井が語っているが,真相がどうであれ,あれなんかは非常にドラクエらしさ漂うエンディングである。さすがに暗すぎるだろってくらい暗かったのがドラクエ7で,レブレサックなんかはある種の真骨頂だと思う(やり過ぎで嫌いな人も多いエピソードだけど)。この暗い文学性は堀井が学生時代から持っていたもので,彼が当時『ガロ』を愛読していたエピソードを引いているところは,本書の秀逸な点である。(ただしそれが海外で受けない理由なのかどうかは私には判断がつかないので,ここで論じるのは差し控えたい。そもそもドラクエが海外で受けない理由,ストーリー以外にもあるのでは。)

その他,この個別作品批評の部分は前半に比べると面白い指摘が見られる。結局のところ物語性を強くするには,無色透明な主人公は邪魔になる(主人公にも強い個性が必要になる)というジレンマが生じた。しかしドラクエはむしろ主人公の無個性さを強化する方向に動き,5以降10に至るまでどんどん主人公が凡人化していった点。それでも「主人公=プレイヤーによる物語の追体験」という構図を維持するために,戦闘中の主人公以外の行動をAIにしてみたり(4),主人公に人生の一大決断をさせてみたり(5),本当の自分を取り戻させてみたり(6)という工夫がなされていった点などは,なるほど確かに。

最後は9・10のオンライン化への挑戦について触れた後,(本書が発刊した2016年11月当時では未発売の)11でも文学的な意味での「ドラクエらしさ」が維持された作品が出てくるのではないか,と延べている。つまりは,「主人公=プレイヤーというなりきり」という核や,無個性にして主人公=プレイヤーを意識させるための物語上の工夫,ふと見え隠れする暗い文学性といった要素である。さて,その答え合わせは……ということは,私がドラクエ11をクリアしてから,また別に語ろうと思う。



  
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2016年10月11日

『哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する!』入不二基義著,ちくま新書

本書は大学入試に使われた哲学の現代文を使って,哲学的な考察を行うというコンセプトの本である。そこには様々な「誤読」が介在する。すなわち,出題者自身が本文を読解できておらず,したがって全く頓珍漢な設問になっているもの(第1章)。出題自体は適切であったが,内容が高度すぎて予備校の解答速報や参考書でさえ適切な読みができていないもの(第2章)。本書の筆者である入不二氏自身がある種の誤読をしてしまい,文章の意味を今ひとつとれなかったもの(第3章)。そして本文自体に矛盾を抱えており,結果的に複数の読みが成立しうるもの(第4章)。この4章で構成されており,「入試の現代文には様々な誤読が介在されてしまう余地がある」からこその『哲学の誤読』という書名になっている。

私が本書を読もうと思った理由はほとんどの読者にはお察しの通り,本書のコンセプトの一部がまんま拙著の現代文版であり,事実,受験現代文をメッタ斬りにした解説であった。拙著と目的・方向性が完全に合致しているのは第1章だけで,これは私の分類でいうところの「悪問」ということになろう。起きている誤読の悲惨さとしてはやはりこの第1章が極まっていて,出題者が誤読して作題した時の“転倒”の大変さは,社会科の比ではないのかもしれないと思った。なにせ入不二氏が「私の答案は,きっと0点だろう」とまで書いている。第2章は私の分類で言うところの「難問」ではあるが,そこは現代文である。社会科と異なり「受験範囲」というものが存在していないため,これだけ超越的難易度であっても「範囲外」にはならないせいか,入不二氏はその鋭い舌鋒を誤った解説をしている予備校や参考書だけに向けている。しかし,私の目線から言えばこれを受験生に解答させるほうが無理筋であろうと思う。

第3章は誤読しているのが著者本人なだけあって問題自体は成立しているものの,引用元が早稲田大の現代文であり,本格的な論述問題を含んでいないことから,入不二氏は「本文が極めて興味深い考察を展開してくれているのに対して,設問のほうはそれに釣り合っていないと思われる。」とあり,これはこれで辛辣なコメントである。その意味で第4章はここまでの3つとやや毛色が異なり,本文の筆者自身がある種の誤解に基いて執筆したため,文章に複数の読みが成立しうる。しかし,奇跡的に設問は複数の読みが生じる部分を避けているので,出題ミスには当たっていないという事態が起きている。しかも設問自体は良問という,これはこれでおもしろい転倒であろう。作題者が意図して避けたのか,本当に奇跡が起きたのかは不明であるが。

全体として批判は実にまっとうで読み応えがあり,おもしろい。本書は名著である。出版が2007年であるので取り上げられている入試問題も2007年が最新というのが玉に瑕で,是非とも2016年版を読みたいところだ。

なお,本書の著者の入不二氏は,駿台の講師をしていたことがあり(追記:氏の担当は英語らしい),そこから大学教員に転職した人物であるから,受験的な現代文にも,大学教授の立場にも,もちろん哲学自体にも十分に知悉しており,どこかに偏った立場からの解説にはなっていないのが本書の美点である。この点,拙著はやはり受験生と予備校の立場から書いた雰囲気が強いなと思わせられた。また,本書で扱われている哲学は主に時間論と実在論であるが,これは著者の専門分野がその辺りだからである。なので,欲を言えば,別の分野の哲学だとか,美学・芸術学,文学あたりの文章も扱ってほしかったとは思うが,これは本当に過剰な要求であるだろう。


以下は余談として。本書で取り上げられた入試問題は,第1章のとんでもない悪問が北大,第2章の「超難問」が東大,第3章のつまらないながらも成立した問題が早稲田大,第4章の良問が名古屋大である。そう,世界史の悪問・難問ラインナップからは考えられない“転倒”がここでも起きている。やはり注目したいのは東大で,補足と私の思い出話も兼ねて少々語らせて欲しい。厳密に言えば,ここで取り上げられているのは東大の第4問,文系だけが解く大問で,昔から現在まで「超難問が多い」とされている部分である。私が受験生だった時にも過去問を解いて「こんなの絶対解けない」と早々に諦めた部分であり,本試験でも適当に字数は埋めたものの,開示点数を見るにおそらくほとんど0点だったのではないかと思う。

本書に取り上げられた2002年の第4問も,高校生当時に赤本で解いて「解説読んでも何言っているのかさっぱりわからねぇ!」と言って投げ捨てた問題だったと思うが,それから十数年も経った今になってその『赤本』の偉そうな解説が全く見当違いで間違っていたことが発覚し,湧き上がってきたものは下がる溜飲が半分・十数年越しの怒りが半分で,この複雑な内部の葛藤を一体どう処理すればいいのか,悩んでいる。と同時に,世界史や日本史では東大がきっちりとした良問を出すのは「範囲」を律儀に守っているからなのだなということの再確認にはなった。実は東大は,今回のような文系現代文や理系数学ではしばしば予備校に怒られるような(まさに早稲田大や一橋大の社会科のような)超難問を出す,というのは本書で指摘されるまでもなく有名な話だったりする。にもかかわらず問題化しないのは,現代文や数学には厳密な「範囲」が存在していないからである。なお,東大が公表している受験生のデータを分析するに,にもかかわらず数学は満点を取っている受験生が珍しくないものの,国語は最高点が8割付近(比較的満点を取りやすい古文・漢文が配点の半分を占める“国語”のくくりで,である!)にしかならない年がある,という違いは特筆に値するだろう。その意味で,理系数学はほっといてもよい。でも,東大はいい加減,あの無駄な第4問をやめよう(提案)。



  
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2016年09月23日

書評:『ヘンタイ美術館』山田五郎,ダイヤモンド社

山田五郎が12人の画家を取り上げて,それぞれの画家のエピソードをざっくばらんに語っている本である。タイトルの『ヘンタイ美術館』は,最初は山田五郎自身が反対したそうで,実際にそれぞれの画家の変態性には(一部を除いて)焦点が当たっていない。12人の画家は3人ずつに分けられており,以下の通り。

・ルネサンス:ダ=ヴィンチ・ミケランジェロ・ラファエロ
・バロック:カラヴァッジョ・ルーベンス・レンブラント
・古典,ロマン主義,自然主義:アングル・ドラクロワ・クールベ
・印象派:マネ・モネ・ドガ

語られているエピソードは大体有名なものばかりで,全部知っているという人も多かろうと思う。「ヘンタイ」という観点から見ても,ミケランジェロの筋肉フェチ,カラヴァッジョの人格破綻,ルーベンスのデブ専,クールベの「世界の起源」,マネにまつわる昼ドラとか,王道のエピソードである。ただし,山田五郎のまとめ方は上手く,その点で知っていても読み応えはあった。ゆえに,全く知らない状態でも,もちろんおもしろいと思う。逆にラファエロは「別に変態じゃない」で本書で言い切られている通りで,数合わせ感は否めない。一方で,本書の特徴は各画家の変態エピソード紹介だけでなく,意外とまっとうな西洋美術史の歴史をたどった解説になっているというのがある。ラファエロは,そちらのまっとうな意味合いで数えられていると言っても過言ではない。たとえば“ラファエロ前派”はなぜ“ラファエロ”なのか(ダ=ヴィンチでもミケランジェロでもないのか)という点にもきっちり触れられているし,カラヴァッジョのテネブリズムはなぜ偉大なのか,彼がなぜバロックの開祖と呼ばれているのかにも説明がなされている。これは変な「すぐわかる! 西洋美術史」的な概説書よりもよほどわかりやすかろう。

しかし,本書の魅力はやはり山田五郎の語る「ヘンタイ」へのこだわりである。本書のタイトルに「ヘンタイ」を冠するのは,山田五郎は当初反対だったそうだ。実際,ラファエロやレンブラントは別に変態でもなんでもない。しかし,山田五郎に言わせると本書に登場する唯一の真の変態はドガだけだそうで,だからこそタイトルに「ヘンタイ」とつけるのは反対だったそうなのである。最後まで読むとその理由は非常に納得の行くものが用意されており,逆説的に「変態とは一体何なのか」というある種哲学めいた論題に真正面から解答を出している。過去の普遍と変態の狭間にいた画家たちを並べておいて,最後にドガを輝かせるという構成自体が,この解答の論証になっており,その点大変見事で,結果的に「ヘンタイ美術館」というタイトルがしっくり来る。ある意味,本書ほどドガが輝いている美術史概説書は無い。ドガがダ=ヴィンチやモネを差し置いて画家の頂点に立つ美術史概説書は前代未聞ではなかろうか。


ヘンタイ美術館
山田 五郎
ダイヤモンド社
2015-11-28




ところで,私が本書を知ったのはこのアニラジの山田五郎登場回,本人による宣伝である。この回の中でドガの話をしているが,まだ「ドガはなぜ真の変態なのか」の話の核心はしていない。このアニラジ自体とてもおもしろいので是非。というか,これはアニラジじゃないです。アニメの話してるの,6回に1回くらいじゃないか。


  
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2016年06月24日

書評:『ルワンダ中央銀行総裁日記』服部正也著,中公新書

本書はインターネットで話題となり,再販された。私もご多分に漏れず,このTogetterがきっかけだ。

・「まるで異世界召喚」「内政チートや」…名著「ルワンダ中央銀行総裁日記」は「ライトノベル的に面白い」という切り口に反響(Togetter)

ここでの紹介はリアル世界で本当に起きてしまった内政チート,という雰囲気だ。確かに,第二次世界大戦後の主権国家というものを急に“押し付けられ”,知識も技術も経済力もないが対応していかなくてはいけないアフリカ内陸の小国という究極の状況である。主人公が異世界に飛ばされたのではなく,異世界の側が現代世界に接続してしまったという方が近い。そしてまた,服部正也氏が極めて内政チートの主人公にふさわしい人物であった。内政チート物の(とりわけ異世界物)で指摘される主人公の不自然さをことごとく否定できてしまう。

・ぽっと出の主人公(現代人)がいきなり内政を自由にできる高官に就任できるはずないだろ
→ 日銀を勤めて20年の実績,IMFの推薦で中央銀行総裁に就任。高度経済成長真っ最中の日本の権威はルワンダでも相当効いていた。
・現地の有力者や既得権益層に反対されて改革なんて進むはずがない
→ 服部氏自身が老獪かつ豪腕で,様々な手段で政敵に対抗していく。最終的にはルワンダ秘密警察も行使していたことが本書で語られている。
・現地の事情を知らずに現代の制度や技術を植え付けても上手く行くはずがない
→ 実際にそうした失敗例として他のアフリカ諸国を研究し,さらにルワンダでも慎重に実地調査をしてから改革を実行。

そもそも服部氏は中央銀行総裁として赴任したはずであった。それがなぜチートと呼ばれるほど内政にかかわることになってしまったのか。IMFの指示はあくまで「ルワンダ通貨の安定」であった。しかし,実際に赴任してみると,通貨の安定どころではなかったのである。通貨の安定のためにはどうしてもルワンダの国民経済・国家財政が安定している必要があり,その旨を大統領に告げると「全面的に信頼するから,経済再建計画の立案はお前が全部やれ」と言われた,という経緯である。「大仕事を引き受けてしまったが,不思議と気は軽かった」とは服部氏本人の言である。そして1965年から6年かけて,彼はこの大仕事をゆっくりとこなしていった。


さて,本書は確かに内政チート物として読むこともできる。無い無い尽くしの中,服部氏はルワンダ人の官僚を育成し,農民を啓蒙し,現代的な経済制度とルワンダの実情を着実に接続させ,ルワンダ経済の近代化を成し遂げていく。古代・中世から,近世・近代をすっ飛ばしていきなり現代に接続する直線的な歴史発展の無視っぷりは爽快感がある。しかし,本書を内政チート物として読めるのは4割程度で,読んでみると全く違う読後感の方が強かった。では残りの6割は何なのか。

現実のルワンダと,多くの内政チート物には,前提条件に決定的な違いがある。植民地経験である。ルワンダの経済成長の足を引っ張っていたのは,残存する旧宗主国のベルギーによる植民地主義であった。より具体的に言えば,殿様商売をしているヨーロッパ人経営の商社とそれを保護する制度,ひどく不公正な為替制度,無知なルワンダ人政治家につけこむ怠惰な外国人官僚等である。そしてその背景にあったのは,どうせアフリカ人は永久にヨーロッパから自立できないという根強い偏見であった。というように,服部氏の主要な敵は植民地主義とヨーロッパ人の偏見であって,ルワンダ人の無知よりもこちらの方がよほどやっかいな難敵であった。描写としては,ルワンダ人を啓蒙しているシーンよりも,ベルギー人と戦っているシーンの方が多いのだ。だから,読後感の6割は植民地主義との戦いになる。

服部氏の信念は「経済の安定のためには国民経済の自立が必要で,国民経済が自立するためには民族資本の成長が不可欠である」であった。だからこそルワンダ人農民や商人の資質を時間をかけて確かめ,少しずつ外国人の影響力をそいでいった。終盤,どうせ自立できないと言われ続けていたルワンダ人農民や商人が経済的に自立し始めるのは,なかなかのカタルシスがある。服部氏の改革は,前近代的な国家に現代的な制度を植え付けていくというよりも,ベルギー人に押し付けられた不公正を正していったものという雰囲気の方が強い。なお,具体的にはどういう政策であったのは次の記事で細かくまとめてあり,参考になる。
・服部正也氏の「ビッグ・プッシュ」(「ルワンダ中央銀行総裁日記」より)(himaginaryの日記)


ところで,ルワンダというとどうしても大虐殺については触れざるをえない。1994年に起きた時点で服部氏は存命であり,彼による大虐殺への言及も増補版には付いている。しかし,服部氏は虐殺の約25年前までしかルワンダに赴任していなかったとはいえ,本書は民族問題をほとんど扱っていない。本書だけ読めば,1970年頃にはフツ人とツチ人の対立は無視できる程度にしか存在していなかったかのような印象を受けるが,もちろんそんなことはないのである。少なくともカイバンダ大統領が民族対立の種を育てたのは事実であるが,本書での服部氏の評価は異常なまでに高い。上掲のhimaginaryの日記の記事内にもある通り,これは視点の違いとして非常に興味深い。

さらに言えば,彼が赴任していた当時のカイバンダ政権はフツ系であり,ルワンダ虐殺で虐殺されたのは主にツチ人で,1994年当時の欧米諸国があからさまにツチ人に肩入れしていたという国際情勢もあいまって,この増補部分はあからさまに「ヨーロッパ人にはアフリカ人への偏見が残っていて,フツ人が不当に貶められて報道されている」という決め付けが見られる。服部氏が言うような不当さは確かに存在していたのだろうが(ユーゴ紛争から現在に至るまでの西欧のセルビアへの態度とちょうど重なる気が),この増補は全体としてあまり本質的な指摘ではなかったように思う。

一方で,Togetter内での言及では「もとの中央公論の寄稿の方では大統領のツチ反乱軍に対する差別的な言辞や、親族の不正への関与を匂わせる記述がある」とあり,これがどういう経緯で削られたのかは少々気になる。残っていれば,本書の印象がまた違ったものになっていただろう。




  
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2016年06月17日

書評:『まなざしのレッスン2』三浦篤著,東京大学出版会

本書は大学の学部生向けに書かれた西洋美術史学入門書『まなざしのレッスン』の続編である。1巻は私の知りうる限り最優秀の美術史学入門書である。「西洋美術は一種のパズルである」ことを示し,なぜ絵画を見るためには知識が必要なのかを説き,絵画に関する基礎知識について概説している。そこに趣味としての美術鑑賞の,学問としての美術史学の入り口が用意されているのである。入門書であるので平易な語り口であり,また読む上で必要な知識を極力減らしてあり,大学入りたての文系大学生や,西洋美術というものに疑問を持つ社会人がいかにもいだきそうな疑問にちょうどよく答える名著であった。その意味では必ずしも美術史学を専攻する予定の学生の入門書というより,入門する気のない人たちにとっての方が好都合な本だったとさえ言えるかもしれない。知識を覚えるための本ではなくて,「なぜ知識を覚える必要があるのか」という説明の方に徹底しているからである。また,ちょうどグローバル・ヒストリーにおける『砂糖の世界史』のような立ち位置と言えば,本ブログの読者には伝わりやすいかもしれない。

とはいえ,1巻には欠点があった。前近代(新古典主義期)までの西洋美術しか扱っていないので,美術史全体の概要を示しているとは言いがたかった点である。しかし,これには事情もある。西洋美術を鑑賞する上で必要な知識,言い換えれば「パズルの解法」は,前近代と近現代でルールが異なる。それもがらっと変わるというよりは徐々に変わっていくのであり,言ってしまえば近現代の美術史はルールがぶっ壊れていく過程そのものである。だから1冊の本で「ルール自体の説明」と「ルールの崩壊過程」を著すのは,入門書として無理があった。『まなざしのレッスン』が美術史学の入門書として完成するには,どうしても2巻が必要だったのである。しかし,待てど暮らせど2巻は出ない。あまりにも出ない間に,私の方が大学を脱出して就職し,趣味としての美術鑑賞は続けていても,学問からはすっかり離れてしまった。

そして2015年,1巻が出てから約15年経ってようやく待望の2巻が発売された。言うまでもなく近現代美術史編である。著者の三浦篤は専門が近代フランス美術であるが,だからこそ時間がかかったのかもしれない。あるいは1巻を書いた当時よりも先生御自身が随分と多忙になってしまい,研究や授業に忙しく,入門書を書いている時間が取れなかったのかもしれないし,1巻の評判が良かったプレッシャーもあったかもしれない。

2巻もまた近現代西洋美術史の優れた入門書になっている。1巻を読んでいることが前提ではあるが,西洋美術のルールが崩壊していく過程が,やはり平易な説明で綴られている。単純な時代順で,つまりロマン派→自然主義→印象派→……と追っていく美術史ではなく,絵画ジャンルやルール別に「どう崩壊したか」という点に焦点を当てて,前近代のルールと比べながらその変容を述べていくスタイルをとっている。ゆえに,1巻同様に美術史の知識はおろか,西洋史の知識自体も常識的なものしか要求されず安心して読める。非常に基本に忠実で,わかる人に言えばティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》の前のページに《オランピア》が掲載されているレベルである(しかも口絵にマティスの《バラ色の裸婦》があり本文でそちらに誘導されている)。そして「どうしてこうなっちゃったの」かが説明されている。

おそらく「わからない美術」の筆頭たるカンディンスキーらの抽象絵画もかなり紙面を割いて解説されているので,気になる方は是非。楽しめるようになるかどうかや納得するかは別にして(私自身いまだに楽しくない),こういうものが出てきた経緯や画家の意図はなんとなく説得された“気分”になれるだろう。


なお,繰り返しになるが,本書はあくまで美術史学的な美術作品の鑑賞方法・楽しみ方を提供する意味での入門書であって,知識を提供するたぐいの入門書ではない。有名な作品を1作1作懇切丁寧に説明しているわけではないし,美術史の流れ(様式史)を説明した本でもない。また,1巻を読んでいることは前提として書かれているので,その点も注意を要する。




  
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2016年06月09日

書評:『三国志』宮城谷昌光著,文春文庫

実はとうの昔に読み終わっていたのだけれど,書評を書くタイミングを逃したままここまで来てしまった。なにせ7・8巻の書評が3年前である。このまま9〜12巻は書評無しでもいいかとも思ったが,しかし12巻通した総評くらいは書かないと踏ん切りがつかなかったので,短くまとめておく。

しかし,3年経ったからこそ書けることもある。本書の世評が落ち着いているということである。本書の世評は毀誉褒貶なのだけれども,宮城谷昌光らしさという点では及第点であるが,三国志ファンの視点からすると物足りない作品とも言えるかもしれない。以下の3つの記事・Togetterは,当時の三国志ファン界隈の雰囲気が非常によくわかるものになっている。あえて言えばTogetterだけでも十分かもしれない。

・三国文化のバトンを持たずに疾走した有能なランナー宮城谷氏について(Togetter)
・『三国志読本』の感想ツイート(いつか書きたい『三国志』)
・宮城谷昌光『三国志読本』への批判 「新しい三国志」について(三国与太噺)

要するに,三国志ファン視点から見た時の不満は「今更『正史』を大正義のように持ってこられても,その,困る」ということに端を発している。3つめの三国与太噺の記事にある通り,日本の三国志は演義・正史・それ以外の文献のいいとこ取りで形成された特殊さや多様性があってそこがおもしろいところというのは私自身100%同意する意見である。別に桃園の誓いがあってもなくても,魏延が粗忽者の裏切り者であってもなくてもかまわないのである。確かに,この日本の状況で今更『正史』第一主義を主張されても,それも中国歴史小説の大家がこれこそ新規性とうたって乗り込んできても,かえって陳腐さしかない。

ただし,Togetterの末尾にあるような擁護は可能かもしれない。宮城谷三国志の連載開始は2001年である。宮城谷氏が執筆を始める準備段階(90年代末)では,まだまだ日本版三国志=『演義』という時代だった,という可能性はある。調べてみるとちくま文庫の『三国志(正史)』の出版が1992〜93年,『蒼天航路』の連載開始が1994年であるから,90年代末はまだ『演義』以外の文献の普及期だったと言えるかもしれない。またTogetterの末尾のyunishioさんの指摘は重要で,ネットの住民でも実際に正史が広がり始めたのは2001〜03年頃とすると,宮城谷三国志連載はむしろ時宜を得ていたとすら考えうる。すると宮城谷氏にとっての悲劇は約13年間走り続けている間に日本の三国志ファンの側が大きく変わってしまった,ということになろう。

なお,自分が初めて三国志(横山光輝と吉川英治,そして三好徹の『興亡三国志』)を読んだのも中学生だから2000年頃だが,当時の“大人の”空気はさすがに知らない。『蒼天航路』はうちの高校ではそれなりにメジャーな漫画であったし,『真・三國無双』のプレイ人口も多かった。ただ,じゃあその原典となる『演義』や『正史』となると踏み込んでいる人は極少数であり,話題にはならなかった。この辺の事情は2000年代前半ならどこの高校でも同じだったのではないか。大学生になって,ネットのあれこれを読むようになった2005〜06年頃には,もう「正史派VS演義派」という議論自体が“懐かしい物”になっていて,上述のような風潮だったかと思う。


はてさて,ここまで自分の感想を一切書かずに世評の分析だけをまとめてきたのだが,Togetter内にある「宮城谷氏を読む前からの三国志ファンで、宮城谷氏のファンだと言う方に、宮城谷三国志の感想を聞いてみたいもの」にお応えして,その一人して,ここからは自分の感想を述べていくが,実のところ三国志としては十分に面白かったという高評価だったりする。確かに,一人の三国志ファンとして「日本の三国志ファンは『演義』しか知らない」という氏の発言はイラッとしたし,思うところはある。しかし,『正史』と『資治通鑑』にベタッとくっついた小説だったかというと,意外とそうでもなかったように思う。採用した出来事やクローズアップするマイナーな人物の描写から言えばその通りであるが,主役級の人物の解釈や評価については宮城谷氏のオリジナリティが強く,読みどころはそこであった。白眉は劉備の描写であるが,これは7・8巻の書評の時に書いているのでリンクを張るに留めたい。

その上で,まず,Togetter内で全く同じことを言っている人がいてちょっと安心したのだが,本作は良くも悪くも圧倒的に史書の翻訳であり年表であった。宮城谷氏の作品はもとよりその傾向はあるが,三国志は特にこの傾向が強く,特に曹操と劉備が全く話に絡まない部分ではこの傾向が強くなった。というよりも結局のところ小説として描きたかったのは劉備と曹操だけ(あと諸葛亮と司馬懿かな)であり,あとは「こんな隠れた好漢を史書から発掘したので紹介します」ということに徹していたような気もする。我々が読みたかったのは小説であって史書の翻訳ではないのである。正史の紹介という意識が強すぎて,こういうことになったのかもしれない。次に,その影響もあってか,本作は曹操の躍進が始まる4巻から劉備が死ぬ8巻までは無茶苦茶おもしろいが,その前後は史書の翻訳傾向が強くなるアンバランスさがある。それもあって9巻以降の書評は書くことがあまり見当たらず,放置してしまったというのは言い訳として挙げておきたい。

さらに,世評も踏まえた上で書くならば,十分におもしろい三国志ではあったが,三国志小説の新たな金字塔にはなりえなかったのもまた確かであるかなとも思う。極めて長く,しかもスタートが黄巾の乱の百年近く前であることもあってとっつきづらく,それを乗り越えて「00〜10年代の代表的な『三国志』はこれを外せない」という評価にも至らなかった。「(劉備が)おもしろい三国志」の枠は出ていないのである。ましてや宮城谷昌光の代表作に本作を挙げる人も出てこないだろう。これは完結して3年経ったからこそ,実際にいないのを見て確信できてしまったことである。つまるところ,“あの”宮城谷昌光が10年以上の歳月をかけておきながら,塩野七生にとっての『ローマ人の物語』にあたるものを書けなかったということではないか。世間がかの大作家に課したハードルはかくも高かったのである。



三国志 第十二巻 (文春文庫)
宮城谷 昌光
文藝春秋
2015-04-10

  
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2014年12月15日

書評:『グレート・ギャッツビー』フィッツジェラルド著,小川高義訳,光文社古典新訳文庫

映画の方を先に見ていて,最初はギャッツビーのイメージが完全にレオナルド・ディカプリオの状態で読んでいたのが,次第にずれが大きくなった。最後まで読みきった感想としては「原作と映画でイメージが違いすぎる」。このイメージのズレについては,直接映画に言及しているわけではないのだが,訳者による解説が非常に役に立った。なぜギャッツビーは「グレート」なのか。鍵はそこにある。

要するに,後世の,それも日本人の我々からすると,アメリカはいつだってアメリカン・ドリームの国なのだ。ところが同時代人である小説家からすると,これは正反対になる。1920年代とは社会が保守化した時代であり,好景気が持続していた裏で,すでに出来上がってしまった階層秩序をひっくり返せない社会になりつつあった時代であった。ギャッツビーは言うまでもなく成金である。つまり,時代遅れなのであるが,それでも成金には違いなく,遅れてやってきたにもかかわらず階層を飛び越えた。その時代に逆行する精神こそが「偉大」なのである。ここが,過去の恋愛を取り返せると信じ,一途な愛情を昔の恋人に捧げようするギャッツビーの恋愛劇と重なる。このギャッツビーの成金としての性質と恋愛劇の行く末は,物語の後半になって綺麗に合流する。ここがこの小説を“偉大”たらしめているところだろう。映画の方はともかく,原作の方はこの前提が頭に入っていないと楽しめないのではないかと思う。いや,自分のように訳者解説を読んで,全ての疑問が氷解してすっきりする,という読み方もそれはそれでありだと思うけども。

もう一つ映画との違いで気になったのは,映像のクリアさである。原作は読んですぐに気づくことだが,かなり茫洋とした文体で,いろいろな物事をはっきりさせないまま描写していく。これが正体不明のギャッツビーやウルフシャイムといった面々の雰囲気醸成や,終盤の事件が主人公のあずかり知らぬところで進行していく様にすごくよくマッチしており,加えて言えば事件の現場にある巨大な目(「全てを見ている」)の看板との対比にさえなっている。これに対して,映画の方はあらゆることをくっきりと描きすぎている。あれはあれで狂乱の二十年代の雰囲気が楽しめたのでよかったのだけれど,『グレート・ギャッツビー』としては,それはどうなのか。


グレート・ギャッツビー (光文社古典新訳文庫)
F.スコット フィッツジェラルド
光文社
2009-09-08




以下は軽くネタバレ。訳者につっこまれていたけれども,あまり細かいところを気にして読んでなかった私でさえ,作中の矛盾が多くてかなり気になった。特にブキャナン夫妻の娘の年齢。結婚前に妊娠してないか? という点と,エアマットの上に寝転がっている人間を銃殺したら空気抜けるだろという点はかなり気になっていた。きっちりと訳者解説でつっこまれていて安心した。
  
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2014年12月14日

書評:『怪帝ナポレオン3世 第二帝政全史』鹿島茂著,講談社学術文庫

古典的名著だが,なぜこのタイミングで取り上げるかというと,とうとう本書の内容が高校世界史に降りてきたという喜ばしい事態が訪れたゆえである。そこで,本書の内容を簡潔に取りまとめておく。

これまでのナポレオン3世の業績というと,以下のように説明されていた。

「ナポレオン3世は叔父の人気によりかかって政権を奪取した。前期は権威主義的に政権を運営し,労働者と資本家の対立を煽り,その勢力均衡を図って政権を維持した(いわゆるボナパルティズム)。しかし,1860年以降となると民主化の要求に耐えられなくなり,立憲帝政へ移行していった。外征を繰り返したのも,国民の人気を保とうとしたがゆえであった。ゆえに戦敗がかさむと政権が倒れた。」

このような説を唱えていたのはカール・マルクスとヴィクトル・ユゴーの二人であり,20世紀も末になって彼らの権威が崩れ,ようやく実証的な研究が進んできた。これらの説明はほとんどデタラメである。根本的なところで,彼らもその追随者も,空想的社会主義であるところのサン・シモン主義を理解できていなかったし,する気もなかった。また,それを本気で達成しようと考える夢想家の為政者が登場することも,それがある程度強権で成功してしまったということも,信じられなかったのだ。


ナポレオン3世の思想基盤はサン・シモン主義である。サン・シモン主義では階級対立は起こりえず,産業の発展が貧困を根絶する。彼は,そのためには政府の積極的な関与が必要であると考えていた。ルイ・ナポレオン時代に書いた著書に『貧困の根絶』があり,そこで彼は,労働者に必要なものは「協同と教育と規律」であると主張している。すなわち,彼の内政方針は人気取りのための産業育成・社会福祉拡充だったのではなく,産業育成と社会福祉拡充自体が政策の目的であり,それらは別方向を向いていないというのがナポレオン3世の思想であった。事実,フランスの産業革命は1830年頃に始まったが,七月王政下では行き詰まり,本格化したのは1850年代のことである。第二帝政下においてフランスは鉄道大国となり,イギリスに次いで成熟した工業国・資本主義国となっていく。金融改革も進み,次世代のフランス帝国主義を支えていくことになるが,なぜだかまとめて自然現象として処理され,ナポレオン3世の積極的な施策は無視されてきた。パリの大改造もこの一環で理解される。主には衛生向上と交通渋滞の解消が目的であった。都市の近代化は産業育成の上でも社会福祉拡充の上でも至上命題であった。

権威帝政から自由帝政の移行についても,体制の限界が訪れたゆえの仕方なく,ではなくナポレオン3世の希望であった。当初では既存の最大多数・穏健派(秩序派)が腐りきっており,社会主義者はまだまだ勢力が弱かったから,一時議会から権力を取り上げ,権威帝政に移さざるをえなかった。4月選挙・6月暴動といった第二共和政の失敗は彼にとって強い教訓であった。この辺の事情はムスタファ・ケマルやシャルル・ド・ゴールに近いかもしれない。大衆人気に支えられた独裁という点ではファシズムに近く,マルクス主義の歴史家は実際そうなぞらえていたが,内情は似て非なるものであった。

外征も人気取りが目的というより,それ自体が彼の目的であったか,彼の意図しない形での勃発が多々あった。クリミア戦争はパックス=ブリタニカ時代到来を見ぬいた上での参戦であったし,イタリア統一戦争はイタリア情勢の安定を図ったものであった。インドシナ侵略・アロー戦争に至っては,フランス東洋艦隊の暴走に過ぎない。従来言われてきたような帝国主義戦争の先取り,すなわち金融資本に突き動かされた侵略ではない。メキシコ出兵は将来的なパナマ運河建設の足がかりだったという説があるが,これも資本投下というより販路の拡大の意味合いが強い。普仏戦争に関してはすでに自由帝政の末期であり,議会の参戦決議を拒否しきれなかったという事情がある。戦争に反対したのは,後の第三共和政初代大統領ティエール一人であった。

彼の欠点は,自身の強すぎる性欲であった。美人ながら敬虔なカトリックであるウージェニーと結婚したことで,己の目標に反してカトリック勢力を政治や社会から排除しきれなくなり,保守勢力につけこまれる余地を残した。普仏戦争でもウージェニーは大きく足を引っ張り,あのような最悪の形での終戦を迎えることになる。また,荒淫が過ぎたことで膀胱炎にかかり,晩年は終始体調不良で,政治的決断力が大きく鈍っていたとされる。ナポレオン3世に冴えないイメージが漂うのは,この晩年のイメージが強すぎるからだ。なお,ナポレオン4世は虚弱体質で政務に耐えられず,いずれにせよ彼の一代政権で終わったと思われる。私見だが,この辺は終身かつ世襲という帝政というシステムの限界だったように思う。

もう一つの欠点は戦争に関する才能を絶望的に欠いていたことで,クリミア戦争・イタリア統一戦争と続けてようやく己の無能を悟った。普仏戦争は負けるとわかっていて出征したようだが,悲壮感余りある。




  
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2014年06月14日

第234回『菅野も笑った!変な日本史入試問題』菅野祐孝著,エール出版

毎年恒例でやっている世界史悪問集だが,「日本史版も欲しい」という声は毎年多数聞かれる。しかし,それは私に力がないのでできない。やれば日本史の方もすごいものがいろいろ出てきそうである。で,この本を発掘してきた。予備校講師の菅野氏がうちのブログのようなノリで日本史の難問・奇問・悪問をピックアップして解答とコメントをつけている。執筆上の問題意識はうちの記事とおおよそかぶっており,本書のまえがきとうちの記事の「序」は大体同じことが書いてある。難問や悪問が続出する理由として,曰く「―仟蠎圓良塋拔,体面を保つ(満点をとらせない),9舁的な開き直り(選抜にはなっている)」。この辺はすごく共感が持てた。

ピックアップしてある問題はやはりひどいものが多い。いくつか例を挙げつつ私なりにコメントをつけると,


【問題】新安沖沈没船は1323年ごろに元の貿易港を出航している。この港は,かつて明州とも呼ばれた貿易港であり,現在の寧波にあたる。宋元時代の名称を漢字二字で答えよ。
【正解】慶元
→ てっきり寧波か明州を聞くのかと思ったら……明州ならそれでも十分な難問なはずで,世界史でも難問の部類に入る。宋元時代限定の名称なんて世界史でも範囲外だよ。ふざんけんな。

【問題】「春日権現験記」について,次の問いに答えよ。
 ,海粒┐鯢舛い燭箸気譴覲┿佞話か。
◆ヾ一九の一段に描かれている春日大社のすぐ東にある山で,今も多くの人々に親しまれているのは何という山か。
 巻一五の四段ほか,いろいろな場面に登場する春日明神の使い,あるいは象徴とされる動物は何か。
【正解】々盂隆兼 ∋鯵淹魁´鹿
→ 日本美術のファンとして言わせてもらうと切腹級の愚問としか。こういう問題が人々を美術から遠ざけるのですよ。

【問題】幕末に一時低迷した綿紡績業は,その後,ジョン=ケイの発明した[   呂覆匹瞭各により回復しつつあったが,良質の輸入綿糸には対抗できなかった。
【正解】飛び杼
→ 菅野氏が指摘していないので私がこの場で指摘しておくが,この問題は完全なる出題ミス。なぜならジョン=ケイの発明した飛び杼は織布過程の器械であって紡績過程ではないから。飛び杼の発明によって綿糸不足が発生し,紡績過程の機械化を促し,産業革命が発生するのだから,飛び杼が紡績機であるはずがない。しかも飛び杼は世界史用語であって日本史用語ではない。範囲外な上に出題ミスとか本当に愚か極まりない。2004年の立命館の問題だが,タイムスリップして出題者を殴りに行きたい。


2,3点留意事項とケチをつけると,まず本書は2006年発刊であるため,そこまでの入試問題しか収録されていない。ゆえに,2014年視点で見るとやや傾向が古い。また,本書はうちの記事ほど砕けてはおらず,一応受験生向けに書かれた本ではあるため,それなりに受験に役に立つような作りになっており,社会人が読むと違和感のある文章がちらほらと出てくる(実際には早慶同志社立命館受験生以外には全く役に立たないと思うが)。それに関連して,【辛口コメント】と題してはいるものの,実際には辛口であることはあまりなく,多くは「これは覚えておこう」で処理されている。いや,本書に載っているようなのは覚えるだけ無駄なのでは。確かに,2014年視点で見て「これは基礎知識では」というのもいくつかあったので,全部が全部無駄というわけではないとも思うけど。

何より残念な点としては,本書に収録されているのはほぼ短答記述問題(一問一答)のみであり,死ぬほどややこしい正誤判定や,解答不能に見える論述問題などは収録されていない。世界史であれだけひどいことになっているのだから,日本史でも無いってことはないだろう。どうせならきっちり収録して欲しかったところである。



  
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2014年05月05日

第233回『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』塩野七生著,新潮社

塩野七生による神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の評伝である。同じ時代を何度も扱っている塩野七生なだけあって,彼もすでに何度も登場している。『十字軍物語』,『ローマ亡き後の地中海世界』,そして『ルネサンスとは何であったのか』。前二つはフリードリヒ2世というと第5(6)回十字軍がハイライトであるので当然だが,最後は意外かもしれない。これは塩野七生の定義するところでは,ダンテに先駆けるルネサンス人としてアッシジの聖フランチェスコとともに挙げられているからである。神ではなく,人間愛にあふれた人間として。

では,すでに何度も描いてきたフリードリヒ2世をわざわざ再度取り上げる意味はなんだったのか,というときちんと意味はある。本書はそのルネサンス人・近代人としてのフリードリヒ2世の姿を中心として描いており,特にフリードリヒ2世が両シチリア王国で法治国家・中央集権的な官僚制国家を作ろうとしていた点を際立って取り上げている。確かにこの方面でフリードリヒ2世を書いた評伝は珍しかろう。一方,彼の人生のハイライトである第5(6)回十字軍については,本書では驚くほど記述が少ない。塩野七生が大好きなエピソードであるにもかかわらず。それこそすでに何度も描いていることだから避けたのだろう。

そんなフリードリヒ2世が作ったメルフィ憲章が歴史にほとんど名を残しておらず,同時代のマグナ・カルタが歴史に名を残したことについて,塩野七生はいかにも苦々しい表情がにじみ出ている文体で「ホーエンシュタウフェン朝は滅んだが,イギリスは残ったから」と書いている。加えて,フリードリヒ2世は自分の死後も統治の安定する国家を志向して法治国家の建設に邁進していたのに,実際には行政の実行者としての自らの役割が大きくなってしまい,結果としてはむしろフリードリヒ2世個人に寄りかかった国家になってしまったから,彼の死後早々にシュタウフェン朝が滅んでしまったことも指摘している。このあたりの指摘は的確であろう。結局のところフリードリヒ2世は偉大ではあれど,時代の状況があまりも悪く,改革も性急に過ぎた。そしてそれらを排して押し通すほどの,つまりカエサルやアレクサンドロス大王級の力量となると,さすがに持ち合わせていなかったのである。その限界も含めて,評するにはおもしろい人物とは言える。

あとはまあ,いつもの塩野七生である。帯で「古代にカエサルがいたように,中世にはこの男がいた!」とあおっているように,彼女はフリードリヒ2世が本当に好きなんだなぁというのが強く伝わってくる。ただし,世評にも見られる通り,本書には重複した文章が目立つ。それは本作内だけでほとんど同じ文章が何度も出てくるということもあるし,過去の小説に見られた文章とほぼ同じ文章があるということでもある。これは上記のごとくフリードリヒ2世を扱うのがもはや4度目というのもあるし,そもそも同じ内容の文章を何度も繰り返して強調するのは塩野七生の文章の昔からの特徴でもあるから,ある程度は仕方がない。しかし,今回はそれにしても多い。amazonに「重複した文章をすべて削ったら上下巻じゃなくて1冊に収まったのでは」というレビューがあったが,私も同感である。ほとんど全文章を二回ずつ読まされたような感覚がある。


さて,いくつか見つけたミスを指摘しておく。まず上巻pp.124-125。現代の国境線が引かれた地中海地方の地図が掲載されているが,コソヴォが存在していない,パレスチナがない(イスラエルがパレスチナ地方全域を支配している)あたりは政治的な問題が絡むからまだいいとしても,セルビアとモンテネグロが分裂していないのは完全にアウトだ。これ,現代じゃなくて2006年以前の地図なんじゃないか。

次,これが一番致命的だと思うが,上巻pp.212-213。フリードリヒ2世が1230年代の両シチリア王国で,地方統治の一環として各都市に身分制議会を創設し,聖職者・封建諸侯・市民が三分の一ずつを占めた議会であったことを述べた後に「この三部会がわれわれの前に再び姿を現すのは,これより五百七十年が過ぎたフランス大革命を待たねばならない。」とある。これは二重におかしい。まず,1230年代に570年を足せば1800年代になるが,言うまでもなくフランス大革命は1789年であり10年の開きがある。単純に算数が間違っており,「560年」が正しい。次に,フランスの三部会が誕生したのは1302年のことであり,フランス大革命のものはむしろ最後の三部会である。こんな中世ヨーロッパ史のところで塩野七生がミスをするか? とかなりいぶかしんだが,よくよく考えてみると塩野七生はなぜだかカペー朝のフランスが大嫌いなので(フィリップ2世もルイ9世も本書や『十字軍物語』でかなりけなされている),フィリップ4世のこともすぱっと頭から抜けていたのかもしれない。

下巻p.95,イブン・ルシュドのことをアヴェロール,もしくは「ヨーロッパではアヴェローエ(Averroe)の名のほうで有名だが」と紹介しているが,正確にはラテン語名の「アヴェロエス(Averroes)」の名で有名であった。アヴェローエは現代イタリア語の表記であり,この表記が中世イタリアに存在していたか不明。また,イブン・ルシュドの著作の翻訳が進んだのはイベリア半島のトレドなので,いずれにせよイタリア語にする必要性は感じず,やはり一般的なラテン語が良かろう。なお,現代スペイン語でも英語でもAverroesのようだ。アヴェロールはどこの表記なのか不明。

下巻p.108,1180年と1223年のフランス王国の地図があるが,フランス王領の範囲がおかしい。どちらもフランス王国のうち,イングランド王領でない領域はすべてフランス王領になっているが,もちろんそんなことはない。当時のフランスにはイングランド王領でもフランス王領でもない,自立した封建諸侯の領土が存在していたのだから。こんなにフランス王の直轄領が広ければ,フィリップ2世は苦労していない。





  
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2014年05月02日

第232回『貧しき人々』ドストエフスキー著,安岡治子訳,光文社古典新訳文庫

ドストエフスキーの処女作である。1845年,24歳のときに書かれたものだから非常に若い。彼の他の代表作というと『死の家の記録』が15年後の1860年,『地下室の手記』が1864年で,5大長編は全てその後になるから,かなり間が開いている。その理由は政治活動をしていたりシベリア送りになっていたり軍隊にいたりとせわしなく,小説を書いている場合ではなかったからだ。このシベリア送りの間に大きな思想的転換があり,その思想性への評価が彼を大作家たらしめている評価の一部と言える。一方,若い頃の作品は本作を除くとあまりメジャーではない。この文庫についている年表や解説でも,二作目以降は当時の評価が高くなかったことが書かれている。そういう意味では,この処女作だけが浮いているのである。

それを頭の片隅に置きつつ読むと,やっぱり私のイメージにあるドストエフスキーらしさは感じられなかった。キリスト教オチはどこ? 足の悪い女はいないの? という。特に前者についてはそこがまさにシベリア送りによる思想的転換なので,無くて当然ではあり,後者はひょっとしたら出てくるのかというちょっとした期待はあったが出てこなかった。あっちもシベリア送りの結果身についたものなのか。

そういう観点は横に置いとくと,心理描写の巧みさ,話の持って行き方の巧みさはさすがはドストエフスキーだなぁと思わせられた。解説にある通り,当時の流行の写実主義的な貧しい人たちの緻密な描写が続く小説だが,登場人物の行動や言葉の言い回しなどから,直接には表現されていない細かな感情の機微が見えてくる。特に主人公のマカールは貧しく教養も無く,卑屈ながら妙なところでプライドがある偏屈な壮年の男性である。読んでいくとどこが彼のプライドを傷つけるポイントなのか,読者にも次第にわかってくるからおもしろい。また,マカールは作中の時間経過とともに読書をして洗練した文章が書けるようになっていくのだが,それが日本語訳からでもわかるほどの変化で,これもまたおもしろかった。最初の方の彼の言葉は急き立てられるような感じで話がなかなか前に進まないが,最後の方は幾分すっきりした文章になっている。これはロシア語読める人が原文で読んだらよりはっきりしておもしろいだろうなぁ,とは思った。

ところで,本書は50代手前の男性マカールと,10代後半の少女ワルワーラの往復書簡という形態をとっている。あまりの年の差カップルに「これ,おっさんいつ裏切られるんや」といぶかしんで読んだ私の魂は汚れていた。ネタバレにならない範囲で書いておくと,この二人はともに善良な市民であり,相手を裏切るようなことはしない。ただし善良なだけかというとそうでもなく,前述の通りそれぞれ譲れないプライドがあり,特にマカールは作中とんでもない愚行を犯す。その結果,本作は完全な悲劇とも言えないが決してグッドエンドとはいえない終わりを迎えることになる。ただ単純な「貧しいが善良な人々」にしなかったところが本作のおもしろさではある。しかし,本書の解説いわく「ゴーゴリの『外套』では風刺され笑いのめされた」貧しく愚かな壮年男性を,あえてセンチメンタルな物語の主人公に仕立てあげたのがドストエフスキーの狙いだそうなので,「貧しくて善良だが愚か」からもうひとひねり入っているということで,私の読みではまだ浅い。それを味わうにはゴーゴリの『外套』を読まねばなるまいが,とりあえず今のところ私の読書予定リストには入っていない。

そうして訳者あとがきを読むと,訳者の先輩にあたる文学者の浦雅春氏が「実はこれは主人公の妄想で,往復書簡と見せかけつつ全部一人で書いているのでは」という意見を出しており,なにそれホラーすぎるんですがこわい。


貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)
フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
光文社
2010-04-08

  
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2014年04月07日

第231回『ガルパンの秘密〜美少女戦車アニメのファンはなぜ大洗に集うのか〜』廣済堂出版

廣済堂出版から発売されたガルパン関連書籍の第三弾。第一弾はガルパンのアニメに関する情報をまとめた『アルティメット・ガイド』,第二弾は聖地巡礼用の『トラベル・ガイド』であり,両方とも別記事にて触れている。両方ともB5サイズの大判だが,本書のみ新書サイズである。内容として,藤津亮太氏による深夜アニメの歴史事情とガルパン前史として『ストライクウィッチーズ』・『けいおん!』・『らき☆すた』を簡潔に説明する序章,石井誠氏による大洗のルポに続き,21人のガルパン関係者へのインタビューが収録されている。

前掲記事で書いたように前二書は随所に不満が見られる本で,『アルティメット・ガイド』は悪い意味で普通,『トラベル・ガイド』は旅行ガイドとしてちょっと雑であった。しかし,本書は読み応えのあるもので,インタビュー集として優れているのでお勧めできる。インタビューされている面々は,
・バンダイビジュアルプロデューサー:湯川淳,杉山潔
・アニメ会社アクタス社長:丸山俊平
・主要製作陣:吉田玲子(脚本),杉本功(総作画監督),柳野啓一郎(3D監督),カトキハジメ(絵コンテ,ただしOVAから),関根陽一(音楽P),渕上舞(みほ役),水島努(監督)
・大洗関係者:常盤良彦(クックファン・まいわい市場),大里明(肴屋本店),島根隆幸(大洗ホテル),樫村裕章(茨城県庁広報課),有國清光(大洗高校マーチングバンド部監督)
・その他:防衛省広報室&自衛隊茨城地本の方々,アマゾンジャパン,TSUTAYA
といった感じ。

それぞれおもしろいところはあったが,私的にピックアップして。p.17,ガルパンのスタートが,バンダイからアクタスへの「有名なクリエーターを誰か一人連れて来いで,それが島田フミカネだったということが明かされている。結果から言えばその他のスタッフも豪華なメンバーが集まったわけで,さながら曹操軍の幕僚状態だが,その最初が島田フミカネというのはやや意外である。人がそれだけ集まった企画の勝利とは言えるかなぁ。

p.39,杉山Pがまちおこし有りきだったわけではないという発言をしている。2012年のあんこう祭までは誰しもが半信半疑だったという話はよく聞くし,町側の動きが意外と遅かったのも確かだ。ただ,遅かったからこそ長持ちしている感も,巡礼者としてはある。この辺は常磐さんの「こそこそ作戦」が功を奏したと思う。最初から派手にやっていたら,あれだけ住民の理解を得るのは難しかったのではないか。杉山Pは「『アニメで町おこし』のモデルケースみたいに取り上げられるのですが,あれはちょっと違います」と言っているものの,結果的にはモデルケースになっているのではないか。初動は派手にやりすぎない,地元自体の良さで売る,明確な巡礼路を作ってあげる等々。

これに関連してp.121にはキャラパネルの設置が商店街に人を呼んだことが書かれている。一方,自分が巡礼に行った時に聞いた話でもあるが,「当初は54体のパネルが(設置希望店舗が少なく)余ってしまっていた」ということも書いてあった。あのパネルは斬新で良い試みだったが,斬新だからこそそういうことにもなったのだろう。p.153,大洗ホテルの島根氏も「(後発のまちおこしにアドバイスをするとしたら,)まず自分たちが楽しむこと」とある。だが,これは意外と実践が難しい。そもそも,そのアニメが本当におもしろくなかったら詰んでるわけでもあり。アニメ自体が抜群におもしろく,かつ町自体にも魅力があった大洗は本当に幸運な例だな,と改めて。




  
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2014年04月02日

第230回『欲望の美術史』宮下規久朗著,光文社新書

宮下規久朗による美術史にまつわるエッセイ集。元は産経新聞に連載されていた記事で,それらを加筆修正し画像を追加したのが本書となる。タイトルの通り,下世話な観点から美術史の出来事や作品に焦点を当てたもの。カラヴァッジョを専門とし,過去に『食べる西洋美術史』・『刺青とヌードの美術史』などを執筆してきた宮下規久朗らしいエッセイ集であると言える。というよりも,本書でもカラヴァッジョは当然のこととして,大食の悪徳や刺青・ヌードにも触れており,実に自由な筆を振るっている。それだけに文章もノッていておもしろい。

その他のテーマや登場する題材としては,女性問題を取り上げてのカルロ・クリヴェッリやグイド・カニャッチ,ロセッティ,ピカソ等。ライバル意識からギベルティとブルネレスキ。写実志向からの生人形やトロンプ・ルイユ。鎮魂からのむかさり絵馬。権力者の肖像画としてスターリンや毛沢東など。信仰というテーマでさえも,出てきたのは黒い聖母とマリア観音だ。土佐の絵金や,時事ネタとしてヒメネスさんの修復キリスト像にも触れている。全体として普通の美術史では出てこない題材が多く,目新しさも強い。宮下規久朗を知っている人には「またあの先生はこんなものを」と読めるし,知らない人(というよりも美術史自体に親しみのない人)には親しみやすく,かつ珍妙な美術史紹介として読めるだろう。軽く読めるし,どちらにもお勧めできる本である。

本書はフルカラーである。これはすばらしい。やはり美術史を扱った本たるもの,可能な限りフルカラーであってほしい。特に本書はバロックのゴテゴテとした装飾や絵金を扱っているのだから,フルカラーでないと威力が激減である。その代わり,ものの1〜2時間ほどで読めてしまう180ページの新書なのにお値段920円という大変なことになっているが,フルカラーへの〈欲望〉には耐えかねるのである。



  
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2013年12月02日

第229回『エロゲー文化研究概論』宮本直毅著,総合科学出版

エロゲーの歴史をまとめた本。1980年頃からの30年以上の歴史をまとめている大著である。まじめに考えてみると,これだけまとまったエロゲー史の本はこれが初ではないかと思う。

本書の特徴を2点挙げると,まず1980年頃から書き起こしている点。「どこからがエロゲーか」・「どこを起点として歴史を書き起こすかというのは歴史書としてどうしてもつきまとう問題だが,本書は前述の通り,その起源の起源から書き起こしている。ともすれば1990年代半ばから書き起こしたくなるのがエロゲー史だが,本書はPC-88,少しだけではあるがさらにその前のエロゲーから書き始めている(つまり『ナイトライフ』の前)。この頃だと,『ナイトライフ』自体がそうだが現代のエロゲーとは似ても似つかぬものであり,すなわち「エロゲーとはなにか」という定議論に直結する。そこにも当然触れ,「この定義であれば○○が原初」としているところは親切と言えよう。そこから少しずつ時代が進んで,最後には2012年まで到達する。

二つ目の特徴として,歴史書として中庸的と言える。歴史書というと,代表的な事件や人物,文化史ならば作品や作家だけをピックアップして取り上げ,「大きな物語」を抽出してダイナミズムを読者に悟らせるのが一つ。このやり方はわかりやすいし,抽出の仕方がうまければおもしろくなるが,どうがんばっても落ちるものは出てくる。もう一つのやり方は逆に,細かな事項も逐一拾って,とにかく全部書き出す。このやり方はその時代の理解に立体感は出てくる。が,マイナー事項重視になりやすいので,事件別の重要性がつかみづらく,かえってその時代の空気は理解しづらくなる。文化史であれば名作選になってしまいがちで,「で,様式は?」という話にもなり,また紹介作家・作品数の多さから一つ一つは極めて短くなる。一長一短なのだ。

本書は,そのどちらかに偏ることを頑張って避けているところはある。なるべく大きな流れも追いつつ,やや脇道の作品紹介もそれなりにこなして……という。バランスをうまく取っていると思う。作品紹介だけではなく,当時の事件やPCや媒体の進化などにも触れている。宮崎勤の事件や沙織事件,横道への波及としてドラクエ2のあぶない水着や,赤松健の『ラブひな』等にも触れている。用語の解説も適切で,萌え起源論なんかは割と目から鱗だった。なるほど,土萠ほたる説は消える。これは重要な検証だ。あと,みさくら語の解説も傑作で,これほど的確にみさくら語の意味を解説したものはないと思う。

というように高評価を下した上で,あえていくつかケチをつけると,まずそれでも漏れているものがいくつかある。まず,ケロQ諸作品にほとんど触れられておらず,『終ノ空』はクトゥルー神話の特集項目で触れているものの,『二重影』と『素晴らしき日々』は出てこない。前者は伝奇物の傑作として『月姫』時代の象徴だし,後者は哲学系エロゲーの頂点の一つであり,そういうブームが過ぎ去った残滓だと思う。『顔のない月』は館ものとして触れるべきだったと思うし(見落としてたら申し訳ない),ういんどみるは『はぴねす』の準にゃんに触れてほぼ終わりだ。あとBlackcyc(というか和泉万夜・上田メタヲ)もほとんど記述がなかった気がした(例によって見落としてたら申し訳ない)。この辺は書き落としじゃなかろうかと思う。

もう一つは,ほぼ年号順にトピックを並べてはいるものの,あるメーカーやライターが出てきたら,その人の初出作品の年号で全作品を記述したがる傾向があり,部分部分ではぶつ切りで時系列が行ったり来たり,やや煩雑な章立てになっていた。せっかく年号順に章立てされているのだから,一々区切ったほうがむしろわかりやすかったのではないかと思う。それに関連して,ゲームやブランド・ライター名の索引が欲しかった。何分大著であるので,ある作品やライターが話題に出たかどうか,どこのページに書いてあったのか探してページを戻す機会が多かったのだが,索引が無いのでこの作業は困難を極めた。つけてくれれば便利であった。

(追記)
twitterのフォロワーの方が教えてくれたのだが,ネット上に索引があった。別ページをあわせるとゲームタイトル,作家名,ブランド名の索引となっている。これで検索してみたが,上記で漏れていると書いたものはやはり漏れていた模様。しいて言えば,ういんどみるは『ウィッチズガーデン』でもう一度触れられていた。



  
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2013年10月23日

第228回『アニメキャラが行列を作る法律相談所』ronnor(QB被害者対策弁護団)著,総合科学出版

名作同人誌「これから『契約』の話をしよう」で,魔法少女まどか☆マギカの法律的解説をしてきたronnor氏率いるQB被害者対策弁護団が,他のアニメにまで範囲を広げて商業デビューした本。つまり,諸アニメにおける諸事件が,現実の法律ではどうなるのかという,空想科学読本的なお遊びである。

中身は非常にしっかりしており,文章もおもしろい。法律的な考察がしっかりしているのみならず,アニメネタも豊富である。前述の同人誌でわかっていたことではあるが,著者がにわかなオタクではなく,ガチガチのアニメオタクであることは文章から伝わってくる。というのも,こうした本にはありがちなことで,実は作者がそう対して秋葉原系の文化に染まってないことが往々にしてあるのだ。本書はそうした心配は無用である。ネットスラングが過多ということもなく,いい塩梅である。扱っているアニメは比較的メジャーどころが多く,『あの花』,『狼と香辛料』,『ハヤテのごとく!』,『CLANNAD』,『コクリコ坂から』,『魔法少女まどか☆マギカ』,『名探偵コナン』,『GOSICK』,『咲-Saki-』,『涼宮ハルヒの憂鬱』。元ネタのアニメを知っていないと辛いわけだから,メジャーどころから引っ張ってきたのは正解だろう。というよりも,その観点で考えると『GOSICK』,『あの花』あたりは限界スレスレの知名度な気がするが。

『咲-Saki-』については本ブログの読者的に気になる方も多いであろうから書いておくと,賭博罪についての考察である。ronnor氏のブログに元となった記事があるが,本書はこの記事に加筆修正されたものだ。基本的な骨子は全く変わっていないが,より詳しい解説が読みたかったら本書を読むといいだろう。他,大体アニメのタイトルから扱われている法律は類推がつくのだが,『コクリコ坂から』が家族法(民法),『CLANNAD』が遺産問題,『ハヤテのごとく!』が債権法,『狼と香辛料』が詐欺といった感じ。『狼と香辛料』は,がんばればこれだけで法律読解本が一冊書けそうだが,今回は一例のみである。特に現代日本の法律と,中世欧州(ハンザ都市辺り?)で結論が全然違うだろうし,ronnor氏の今後に期待したいところだ。

何が一番おもしろかったか,個人的な感想であげると『CLANNAD』。渚が死んだ後の遺産処理めんどくさすぎるでしょう……遺書は大事だわ。あと,『コクリコ坂から』のところで,「スウェーデンでは兄妹でも結婚できる」という事例が紹介されており,最近どっかで聞いたことあるような(リンク先エロゲ注意),と思いながらこの項目で爆笑していた。この事例,法律家界隈ではひょっとして有名なんですかね。妹,気になります。




  
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2013年10月07日

第227回『マグダラのマリア』岡田温司著,中公新書

本書の構成は大きく2つである。1つはマグダラのマリア像の形成過程,もう1つはマグダラのマリア信仰の変遷である。

マグダラのマリアはキリスト教カトリックでは重要な聖女であるが,他の教派ではそうでもない。なぜなら,『聖書』における彼女の活躍は,実は描写が少ない。残りの「設定」,つまりマルタ・ラザロの妹であったり娼婦であったりするするのは後世のカトリック教会による後付に過ぎないからだ。確かにその数少ない描写は,イエスの復活に最初に気づいた人であり,いわゆるノリ・メ・タンゲレの場面であるから,重要には違いない。が,そこだけなのである。残りの設定は元々,「別のマリア」(ベタニアのマリア,罪深い女)のものであったが,カトリック教会はあえて同一視を進めた。この後付がなぜ,どのように行われたのかを見ていくのが第1章である。

残りのすべて,つまり第2章から第4章はマグダラのマリア信仰の変遷を扱っている。当初のマグダラのマリアは悔悛する姿が強調された。最も罪深い娼婦であっても,深く悔悛すれば救われる代表例などとして扱われた。ゆえに,彼女は地味な描かれ方であった。ところがルネサンスが到来した頃から,「元は娼婦なんだから着飾ってる美女で当然」,「いつかは悔悛すればいいのだから若い内は人生を楽しんで良いというのがマグダラのマリアの教訓」という論理の転倒が行われ,実在の高級娼婦や有力者の愛人をモデルに,きらびやかにも自慢の金髪をたなびかせるマグダラのマリアが量産されていった。その後,宗教改革・反宗教改革の流れで服装自体は地味になるが,一方で金髪美女の設定は残る。そしてバロック期に今度は「聖女だから,悔悛後・苦行後でも美しさは失われない」という理屈が加わり,さらにアビラのテレサに代表される「法悦」の概念も強調されていく。

結果としてさまざまな要素が合体し,「服はボロだけど金髪美女がなんか恍惚として香油の壺かドクロを持ってる」という,我々のよく見るマグダラのマリア像が完成した。金髪美女のエロティックな姿を描く良い口実になっていったのである。本書はこれらの流れを,中世から近世にかけての絵画作品や当時の知識人たちの文章を引用して,詳細に追っている。特に図版が多く,図版自体がマグダラのマリア像の変遷をよく示しているので,非常にわかりやすい。中世→ジョット→ボッティチェリ→ティツィアーノ→グイド・レーニと見ていくと,想像以上にイメージがころころと変わっているのがわかり,おもしろい。


ところで,本書のあとがきではマグダラのマリアが登場するフィクションが多く挙げられており,創作の良い種になっていることが説明される。しかし,『ダ・ヴィンチ・コード』について一切触れられていない。本書の初版が2005年で,『ダ・ヴィンチ・コード』は2003年に英語版,2004年に日本語版であるから,挙げようと思えば挙げられたはずである。加えて言えば,2004年の映画『PASSION』は挙げられていた。というよりも,マグダラのマリアをキリストの妻として扱った作品は一切挙げられていない。著者としては,その説だけはない,ということなのだろうか。



  
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2013年09月25日

第226回『チェーザレ・ボルジアを知っていますか?』モーニング編集部,講談社

漫画『チェーザレ』の副読本。内容はルネサンスに至るまでのヨーロッパ史・イタリア史概説,キリスト教カトリック・ローマ教皇庁の簡単な紹介,ルネサンス期のローマ・教皇庁の紹介,ルネサンス期の国々・都市・人名・名家の事典,最後にチェーザレ縁の地の観光案内と,なぜかワイン・関連書籍・ドラマの紹介が入って終わる。内容は,一つ一つ見ていくと薄いところもあるが,多岐にわたっているのは間違いなく,最後の宣伝も含めてがんばって全部網羅しているというところはある。軽くここまでのおさらいをするにはこれで良かろう。

ただし,多くのチェーザレファンが本当に「軽く」を求めていたかは疑問である。もっとがっつり深く掘り下げたものを,どちらかというと期待していた。また今後の展開のネタバレを不自然に避けていることによって一々中途半端に終わっているところも気になった。たとえばジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世に即位することは明記されているのに,ロドリーゴ・ボルジアの項目ではアレクサンデル6世に即位したことが書かれていない。どうもちぐはぐである。史実を追っているのだから,そうむきになってネタバレを回避しなくても良かったのではないか。

そうしたややこしい処理をしつつ,かつ膨大な情報を取り扱ったせいか,初版は多くの誤字・誤謬がある(2版以降があるのかどうかは知らない)。誤解というよりは誤字・誤謬と言ったほうがいいミスばかりだったので,そこは原基晶がちゃんと監修しているのだろう。一読して私の気がついた範囲で一覧に示しておくので(amazonの後段),買われた方は参考にしてほしい。



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2013年09月08日

第225回『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル著,鬼澤忍訳,早川書房(ハヤカワ文庫)

今更?そう今更である。一応読み終わったので書くだけ書いておく。説明不要の一世を風靡した本書だが,平易な哲学思想の紹介である。現代社会において普遍的に論点になりそうなポイントをピックアップし,それに対して解答を出せそうな哲学者の思想を説明していくスタイルで,先に論点が来るところに特徴がある。それゆえに主要な全哲学者の思想を紹介していない,というよりもベンサム,J・S・ミル,リバタリアン,カント,ロールズ,アリストテレス,そして自らの属する共同体主義の6種類しか,基本的には紹介していない。順番もこの順番で,要するに時代順には全くなっていない。取り上げられている諸問題は,「忠誠心は金で買えるか(外国人傭兵について)」「代理出産の是非」「自殺幇助」「アファーマティブ・アクション」等。

説明は本当に巧みで,紹介された思想については,論点からスタートして乖離せず,根本的な部分まで説明しつつちゃんと論点に戻ってくる,ということをやっている。このスタイルをとる概説書だと,これがなかなか難しい。論点から旅立って一度根本思想にたどり着くと,そのままどっかに飛んでいって論点に戻ってこないことがしばしばあるからだ。時代順になっておらず,思想史には一切触れていないのも,哲学思想の普遍性を強調する上ではむしろ効果的であった。哲学にある程度親しい人なら問題ないが,全く知らない人からすれば「なんで2300年前に生まれた思想が,現代社会の論点を考える上で役立つの?」ということにはなるだろう。また,そのくらいの初心者なら「哲学思想ってこんなにラディカルなんだ」と思わせられる点でも新鮮かもしれない。そして本書はそのラディカルさが,現代社会の諸問題の解決においていい切れ味を見せていることを紹介するのがとてもうまい。なるほど良書である。

トップに功利主義が来て,「功利主義は強いが人間性に欠く」という批判からリバタリアン,カントとロールズが出てきて,別の観点からの批判としてアリストテレスが呼ばれ,最後にちゃぶ台をひっくり返して自らの共同体主義が出てくる。こうして書くと共同体主義の売り込みのようにも見えるが,実際のところ共同体主義は最後の最後で少し紹介されるだけであまり出てこない。まさに自らの思想の売り込みと思われるのを避けたのではないか。また,基本的に功利主義に反論する形で他の哲学者を紹介して進んでいくので,功利主義は中盤以降サンドバック状態であった。これはアメリカで功利主義が根強いのが原因らしい。私個人としてはまず共同体主義,次点で功利主義に親和性が高いので,なんとも複雑な気分になる構成の本であった。(要するに私は保守主義なので,中立性・絶対的な正義の法則を否定する共同体主義は親和性が高い。相対主義やコミュニティの抑圧には反発しつつも,コミュニティの持つ道徳的重みも認めていく路線は賛同するし魅力的だが,バランスが難しい。むしろそのバランスをとるには熟慮・熟議をとるほかなく,それは保守主義なのではないかと。余談ですが。)

自分としては復習がてら読んだところが強いが,その上で改めてカントの思想とは絶望的にそりが合わないのが確認できたのが最大の収穫であった。人間の尊厳を認めること自体はいいのだが,カントの「理性は全ての人間に普遍的に同質=道徳法則も普遍的」にはまるで賛同できない,というところで。



  
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2013年06月09日

第224回『ロスト・シンボル』ダン・ブラウン著,越前敏弥訳,角川書店(文庫)

ダン・ブラウンによるロバート・ラングドンシリーズの第三作である。今回登場する秘密結社は超メジャーどころで,フリーメイソンであった。場所もヨーロッパではなく筆者と主人公の地元,アメリカ合衆国はワシントンDCである。

さて,読んだ感想をすぱっと言えば,つまらないとまでは言わないが,まあおもしろいかと言われると別に……というくらいであった。『ダ・ヴィンチ・コード』,『天使と悪魔』のずば抜けたおもしろさに比べると,格段に落ちると言わざるをえない。その理由を端的に言うと,2つある。まず,話のテンポが遅く,起こっている事件の大きさの割りには緊迫感に欠いた。『ダ・ヴィンチ・コード』は次々と解くパズルが変わり場面も変わる。パリからロンドンと移動距離も長く,常に公権力から追われる立場である。さらに,『天使と悪魔』は場面こそローマに集中しているが,序盤に謎が4つ提示されていて,しかもタイムリミット付で素早く話が進む。ラングドン本人の生命はかかっていないものの,4人の枢機卿の生命がかかっており,かつローマ教皇庁そのものも存亡の危機に立たされていた。4つの謎もそれぞれインパクトがありつつ,ラングドンがすいすいと解いては話が進んでいった。これは緊迫感に満ちていた。

一方,『ロスト・シンボル』は延々と同じパズルの解読が進む。それも解読方法がわからないからというよりも,ラングドン本人が解読に乗り気でなく,謎が提示されてから延々と謎が放置されていたからである。いいから早く答えをくれと。パズルの数は実際のところ少なくなく,今ざっと数えたら4つはある(ピラミッドの表の刻印の”暗号”,ある人物へのアナグラム,ある科学実験で現れる文字,最後の暗号)。にもかかわらず謎の数が少なく感じられたのは,前述のようにラングドンが解かずに躊躇していたからというのと,提示されてから解法がわかるまでのタイムラグの長さが理由であろう。いいから早くその謎を解いてほしいと,読んでて何度思ったことか。

そして,公権力や犯人に狙われて身体の自由や生命が危険に晒されていた点は『ダ・ヴィンチ・コード』と同様ながら,犯人はともかくCIAがラングドンの身をつけ狙っていた理由がなかなか明かされない。で,明かされてみるとCIAの打った手が非常に悪手であり,そりゃラングドン逃げたくなくても逃げるよなぁと思ってしまう。『ロスト・シンボル』は早々にCIAがうまいこと手を打っていれば,もっとすんなり解決した事件ではなかったか。事件が長引いた理由を誰かの愚かさ,とりわけCIAのような組織に押し付ける手法はうまくない。これも話のテンポが遅くなった理由であろう。

もう1つの理由は,今回出てくるトンデモ超科学「純粋知性科学」のせいではないかと思う。『ダ・ヴィンチ・コード』ではラングドンたちが追っていたもの(イエスの血筋)自体がトンデモではあったが,そもそもこれはそういう話というのが前提にあるので問題がなかったし,科学面でぶっ飛んだ話というわけではなかった。『天使と悪魔』はトンデモ超科学が生んだとある大量破壊兵器が出てきて話が進むものの,あれはローマをぶっ壊すための小道具というのが読者には十分わかる作りになっていて,科学的な理屈自体はどうでもよかった。また,そのトンデモ超科学自体が『天使と悪魔』のテーマである「宗教と科学の融和」に直接結びついてるので,この点から考えても自然に納得できるSF的な設定であった。

そこへ行くと,本作の「純粋知性科学」はだいぶ弱い。これ自体がラングドンに脅威を及ぼしていたわけではないし,フリーメイソンの暗号にも全くの無関係である。物語のテーマである「言葉の重み」には関連性があり,フリーメイソンの理想ともかかわりがあるので,全く無意味だったというわけではない。が,前作に比べると科学の絡め方が弱いとしか言えない。作劇の小道具としては全くの不要だったのがどうしても響いている。


そんな本作も映画化が進行中だそうだが,意外にもそれなりに楽しみである。なぜなら本作は「ワシントンDC観光名所を巡る旅」としては優秀で,場面のつなげ方と紹介の仕方という点ではよくできていたからだ。しかもこれだけ間延びした展開だから,映画にする上で脚本はおそらくばっさりとカットした部分が多くなり,逆に引き締まった展開になっていいかもしれない。『天使と悪魔』もローマの観光名所紹介ムービーとしては大変素晴らしかった一方,脚本がばっさりと切りすぎて原作の再構成という観点では落第であった。本作の映画がどうなるか,注目である。


ロスト・シンボル (上) (角川文庫)ロスト・シンボル (上) (角川文庫) [文庫]
著者:ダン・ブラウン
出版:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-08-25)

ロスト・シンボル (中) (角川文庫)ロスト・シンボル (中) (角川文庫) [文庫]
著者:ダン・ブラウン
出版:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-08-25)

ロスト・シンボル (下) (角川文庫)ロスト・シンボル (下) (角川文庫) [文庫]
著者:ダン・ブラウン
出版:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-08-25)

  
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2013年05月29日

『文明崩壊(ジャレド・ダイアモンド)』で気になったところ

書評自体はこちら。私の指摘が合っているという自信もあまりないので,正誤表というよりは「ひとまず私が気になったところ」を列挙しておいた。読者からのさらなる指摘を待ちたい。論がひっくり返りかねないものから定訳でないものの指摘まで,とりあえず並べておいた。ページ数は文庫版に準拠,第三刷で見ている。引用文中の強調は全てブログ主による。


上巻
p.39 「ギリシアのミュケナイ文明や青銅時代地中海沿岸社会の滅亡と”海の人”の侵入」
→ 定訳は”海の民”である。というよりも海の人という表記は初めて見た。この表記で,途端に本書の訳に対する信用が下がったのだが,上巻ではこの種の翻訳ミスが意外と少なかった。


p.358 「ヴァイキング自身の言語(古ノルド語)でも,呼び名の語源となった”ヴィーキンガー”という単語は”襲撃者”を意味する」
→ 自分の言語学は全くの専門外だが,ヴァイキングの語源は古ノルド語の「入り江」を意味するヴィーク(Vik)を語源とするのが一般的な学説のはず。

p.370 「一〇六六年は,ヴァイキングによる襲撃が終焉を迎えた年としても知られる」
→ 要するにノルマン朝イングランド成立をもってヴァイキング襲撃の終焉としているわけだが,両シチリア王国の建国(1130年)は……それは遠すぎるとしても,ロベール・ギスカールとその弟ルッジェーロによるシチリア征服が11世紀末なので,そこまではヴァイキングの征服活動に含めるのが一般的ではないか。
→ もっとも,本書はその数ページ前でヴァイキングのイタリア進出に極めて短いながら触れているので,この段落を書く際にすっぽ抜けただけではないかと思う。

p.401 「写真15 紀元1300年ごろ,ノルウェー人がグリーンランド東入植地のフヴァルセーに建築した石造りの教会」
→ どう考えても紀元後である。文庫版にこんなひどい誤植が残ってるとは思わなかった。

p.540 「シーグリズ・ビョルンドッター」
→ これも自分はアイスランド語に詳しくないという前提で。中世アイスランド人の名前だが,この表記はひどい。中世と現代に発音の差はあるだろうということを鑑みても,せめて現代の発音に近いものにしておくべきで。dottirと綴るんだから”ドッター”はなかろう。この場合は「ビョルンドッティル」や「ビョルンドゥフティル」あたりが適切ではないか。
→ あと,この女性人名のみならず本書全体で勘違いされているっぽいのだが,ビョルンドッティルは姓ではなく父称である。姓のように扱って書いてはいけない。



下巻
p.48〜70
→ 日本を扱った章だが,全体的にかなり苦しい。江戸幕府の日本が17世紀後半以降飢饉が多発するようになった理由を森林伐採による環境破壊に求めていながら,一方で崩壊せずに250年続いた理由を森林管理・人口調整をするようになったからとしている。これだけ読むと筋は通っているのだが,一通り日本史をやった人なら違和感を覚えるはずだ。
→ 一つずつやっていく。18世紀以降,森林管理をするようになってから飢饉の多発が止まったかというと,全くと言ってそうではない。むしろ18世紀後半になるほど多くなっていき,最大の被害が出たのは天明の大飢饉(1782〜84)。原因は気候の寒冷化と火山の噴火。まさに本書のテーマの一つ,非人為による環境変動に当てはまるはずだが,本書はこの点を全く指摘していない。意図的に無視しているのにせよ勘違いにせよ,これは大問題だ。幕府による森林管理自体はあった施策だと思うが,本書の指摘するような治水的意味合いは強くなかっただろう。
→ もう一つ,人口調整は確かにそうした面もなくはないもので,本書の「江戸時代の出生率の上昇と下降が,米価の上昇と下降に連動している」という指摘はまあそうだろうと思う。が,どちらかというと江戸時代の人口成長が2700万人付近で停滞した原因は経済統制と鎖国による社会矛盾の増大が原因であるはずだ。結果として農村人口が大量に都市に流入するも,劣悪な環境下で都市は平均寿命が極端に下がり,結果として人口が一定以上に増えなかったといういびつな構造である。鎖国と米本位の経済体制をやめれば状況は大きく変わっていただろう。

p.50 「平和と繁栄は,日本の人口と経済を一気に押し上げた。戦国時代の終わりから一世紀のうちに,以下に挙げるさまざまな要因がうまく重なり合って,人口が倍増した。平和な世が続いたこと,(中略)二種類の生産性の高い作物(ジャガイモとサツマイモ)の新たな伝来によって農業の生産力が向上したこと,(後略)」
→ サツマイモの伝来は確かに1600年頃ながら,普及は18世紀の享保の改革以降なので外れる。ジャガイモも同じで,伝来は1600年頃だが普及は18世紀に入ってから。サツマイモのほうは青木昆陽の有名なエピソードじゃないか?
→ ちなみに同様の勘違いはしばしば起こる。日本同様,中国も清朝の康煕帝から乾隆帝までの約150年間(1661〜1796)で急激に人口が増加し,その原因として新大陸産の救荒作物が挙げられる。これ自体は事実だが,そのジャガイモ,サツマイモが伝播したのは清代ではなく明末にあたる。そもそも,ヨーロッパでも16世紀に伝播してすぐには普及していない。結局伝播から普及までは時間がかかる,という話で。

p.59 「(森林を破壊する)農業への圧力を緩和するため,(食糧生産が多角化され)魚介類やアイヌとの貿易で得た食料への依存を増やしたことだ。」
→ これも勘違いではないかと思う。食料生産の多角化は幕府が望んだものではなく,単純に経済成長による産業発展の結果であるはずだ。そもそも幕府としては実質的な貨幣を果たす米の増産が第一であったはずで,一部有力な藩が藩政改革の一環で商品作物の専売はしていたものの,主導は商人や富農であった。これにより農村に貨幣経済が浸透して自作農の没落・貧富の差の拡大が発生し,江戸の農村社会が不安定になっていく。そりゃ耕す田畑の無い貧農の次男坊三男坊は都会へ出ますわな。で,その多くは若いうちに死んで,江戸時代の人口”安定”に寄与するわけだ。
→ さらに草木灰から金肥(魚粉)への肥料転換が指摘されており,これ自体は事実だ。しかし,これも森林破壊防止というよりは単純にそのほうがよく育ったからではなかったかと思う。金肥は高価だったので,綿花など高価で採算の取れるものにしか使われなかったはずだが,うろ覚えなので誰かに補足を頼みたい。なお,草木灰利用の普及は江戸初期ではなく鎌倉時代だったはずなので,いずれにせよ草木灰を江戸時代の森林破壊の要因と見なすのは苦しいのではないか。

p.60 「十七世紀末には,木の代替燃料として,石炭の利用が始まった」
→ 確かに石炭利用の開始はそのあたりだが,急激に普及したかというとそうでも……臭いで嫌われて地元の北九州以外では流通しなかったはずである。薪炭不足が原因なので,指摘自体は正しいものの,森林管理の一環といえるほど大規模ではなかったかと思う。

p.66 「(日本の)南西部は亜熱帯気候,北部は温帯気候に属するが」
→ これはひどい。すぐ確認できるんだから誰か指摘してやれよ。北海道のみ冷帯,本州他大部分は温帯,そして南西諸島・小笠原諸島のみ亜熱帯に属する。今ぐぐったら「北東北も冷帯とする」説も見つけてしまったが,いずれにせよ南西部が亜熱帯はありえない。


p.121 「フランス領サン・ドミング」
→ フランス語なんだからサン・ドマングが定訳では。


以下は「追記 アンコールの章」の記述。

p.472 「現カンボジアに位置する”扶南”という土地で」
→ 扶南は確かにクメール人の王朝だが,場所は現ベトナム南部のメコン川デルタ地帯を中心とするので,「現カンボジアに位置する」と言い切っていいかどうかは怪しい。私的には苦しいと思う。また,この場所に関する問題はp.475の項でも取り上げる。

p.475 「東隣りの南ベトナムのチャム族」
→ これは個人差があるので,人によっては誤解でもなんでもないと言うかもしれない。というか,「南ベトナムに位置したチャンパー」と書いてある歴史の本は多数あるので。ただ,厳密に言えばチャンパーが存在したのはベトナム中部(もしくは中南部)のはずである。(Wikipedia:チャンパーの版図
→ どういうことかと言えば前項にも書いた通り,現ベトナム南部は長らくクメール人の居住地で,これをベトナムの王朝が征服したのは黎朝の18世紀頃のことになる。この征服以前の現南ベトナムは”当時はベトナムではなかった”と見るなら,確かにチャンパーが南ベトナムで,ベトナム人の王朝(李朝・陳朝)があったのが北ベトナム,ということになる。
→ ただし,私はこの見方に同意できない。なぜなら,この観点で平等を期すならば,チャンパーが存在した地域は「チャンパー」としか表現できないはずで,現北ベトナムだけを指してベトナムと言うべきである。にもかかわらずチャンパーを”当時の南ベトナム”と言ってしまうのは「チャム人は将来的にベトナムに吸収されて少数民族に転落するのだから過去に遡及して無視しても良い。ただし,クメール人は現在カンボジアという独立国家を持っているのだから配慮すべき」という浅慮が透けて見えるからだ。
→ 話がややこしくなるので,現在の諸国の版図を基準にすべきで,少なくとも陳朝・黎朝によるチャンパー侵略が始まる以前のベトナムは「ハノイ王朝があるのが北部,チャンパーがあるのが中部,クメール人居住地域が南部」でよいのではないか。
→ もっとも,この著者,もしくは訳者がどういう意識でチャンパーを南ベトナムとしたのか,推測できないが。ただし,本書のp.484に「ベトナムは1700年代にメコン・デルタをクメール人から奪った」という記述があるので,史実は押さえているようだ。

p.476 「(前近代の人口高密度都市の代表例として)七世紀のバグダッド」
→ これもひどい。バグダードの建設はアッバース朝二代目カリフ:マンスールによるもので,アッバース朝の建国自体が750年なのだから七世紀は絶対にありえない。

p.477 「十三世紀ミャンマーのバガン
→ パガン朝の首都を指しているならパガンが正しい。BとPの見間違えはなさそうなので,パとバか。
  
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第223回『文明崩壊』ジャレド・ダイアモンド著,楡井浩一訳,草思社(文庫)

『銃・病原菌・鉄』のジャレド・ダイアモンドの著作である。あちらは「文明の発祥・発展とその条件」とポジティブな方向で文明を分析したものであったが,こちらは「すでに滅んでしまった文明,及び現代社会の環境破壊におけるその要因」が主なテーマとなる。ここで”現代社会”と入っているところが一つポイントで,前作のノリで読むと少々苦しい思いをすることになると思う。というのは,確かに本書は歴史上の諸文明の滅亡理由にも焦点を当てているものの,それは現代社会分析で応用するためであって,本書の主眼はあくまでも現代社会の環境破壊が現代文明崩壊を早めているのではないか,という極めて現代的なところにある。私は歴史物だと思って読み始めたから,現代社会の比重が大きく,少し拍子抜けしながら読むことになってしまった。読書をする上で読み始めの心構えは大事であるから,これはこれからの読者のために警告しておきたい。

また,前著はそうでもなかった気がしたが,本書はアメリカ国民向けへ向けられた視線が強い。環境問題を扱った本であり,現在の地球環境を破壊している最大派閥はアメリカ人であるから,著者がアメリカ人であることを差し引いてもその判断は正しかろう。しかし,それを日本人の私が読むという観点で見ると,勝手ながら少々ピントがずれた話をしていると思える箇所は何箇所かあった。それはあまりにも基礎知識すぎやしないか,と思える部分も。特に第1章のモンタナ州の話はこの欠点が強いので,読破に自信がないなら読み飛ばすことをお勧めする。この辺は,実はアル・ゴアの『不都合な真実』を6年ほど前の流行った時にも全く同じ感想を抱いたので,アメリカ人の意識・知識なんてそんなものかもしれない。少なくとも2005年頃は。本書も英語で最初に出版されたのは2005年のことだったか。

あと書いておくべきこととして,若干の用語の不適切ないし誤解が見られる。章によってはかなり多い。自分が指摘できるくらいなのだから,世の中でもっと騒がれているだろうと思って検索したが,意外にも指摘がほとんど無かった。どういうことなんだよと首を傾げながら,以下自分が気づいたものをささいな点から重大な点まで列挙しておく。著者が悪いのか翻訳が悪いのか……。本当はこの記事の最下部につけておく予定であったが,あまりにも多くなってきたので別記事を立てることにした。→ 『文明崩壊(ジャレド・ダイアモンド)』で気になったところ


とはいえ,本書には美点もある。本書は文明が崩壊する理由を5つの要因に分類して分析している。すなわち,「(人為・非人為によらず)環境の変動」,「(短期・長期によらず)気候の変動」,「近隣の敵対集団の存在」,逆に「友好的な集団の存在」,そして「変化に対する社会の対応」の5つである。この分析項目は的確で,過去の崩壊した文明,崩壊しなかった文明の説明は整然となされていたように思えた。特に力が入っていたと見えて,大きく取り上げているノルウェー領グリーンランドの事例はとてもおもしろく読めた。ただし,比較すると現代社会に対する分析は前述の事情もあってやや新鮮味を欠くものが多い。

本書の特質は,訳者あとがきにもある通り安易な古代社会賛美に走らず,極めて公平な目で古代社会を評価している点だと思う。そう,人間は古代だろうと現代だろうと,環境を破壊し続けており,そのコントロールがうまく行かなければ崩壊するのだ。また安易な人類批判に走ってもいない。環境の変化は人類自身が引き起こしたものもあれば,地球自体の長期的な変化が及ぼしたものもある。これに対する社会の対応も様々なで,一概に崩壊した社会の成員だけが原因だとは決め付けることができない。原因は大体複合的なのだ。この視点が貫かれているのは美点であった。

総じて,前書『銃・病原菌・鉄』ほどのおもしろさはなく,お勧めしづらい。


文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫) [文庫]
著者:ジャレド ダイアモンド
出版:草思社
(2012-12-04)

文明崩壊 下: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)文明崩壊 下: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫) [文庫]
著者:ジャレド ダイアモンド
出版:草思社
(2012-12-04)



  
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2013年04月11日

『三国志 7・8巻』宮城谷昌光著,文春文庫

実は最も書くべきことは前回の書評に書いてしまっている。8巻でとうとう劉備が死ぬことになるが,これによって本書の頂上は過ぎてしまったように思う。

劉備は捨てに捨てて曹操の対極を行った。彼の徳はそれゆえに高まったものであるが,これは次の当たり前ことをも意味する。持たぬゆえに,物理的な意味では曹操に勝てぬのだ。劉備が彼自身の正義を貫きつつも野望を達成するには,自らの徳の源泉自体を捨てて物理的な所領と軍事力を手に入れる必要があった。この指針を示したのが諸葛亮であったのだろう。だからこそ,劉備をわかりすぎている関羽と張飛は,決して諸葛亮と親しくならなかったし,劉備自身も次第に徳を失っていく。最後には暗愚な息子への愛情をも捨てられず,これを指して「劉備の一生には創意も工夫もなかった。ただし,それをつらぬいたことで,凡庸さをも突き破ったのである。が,曹操の有為に対して劉備の無為は,秘めた徳というべき玄徳に達したか、どうか。」と来る,宮城谷三国志の冷酷なまでの人物評と文章の美しさに,ページをめくる手が止まるほどしびれた。

劉備の直接的な死因は夷陵の戦いといってよいと思うが,夷陵の戦いの原因は関羽の独断専行であった。呉が裏切らなければ,という話であるのはもちろんだが,同盟軍といえど南郡(江陵)の食糧を勝手に利用した時点で呉の憤慨は予想できたことであったし,呉の領土からの食糧略奪がなければ樊城(襄陽)を落とせなかったのであればやはりそれは無謀な計画だったと言わざるをえない。史実でもなぜに関羽が独断専行したのか大きな疑問点であったが,その理由として本書が挙げる「劉備が失った徳を,義兄弟が取り戻そうとした。そのために曹操と戦うという大義が必要であった」というのはそれなりに強い説得力があった。関羽は半ば死地に赴くつもりであった,とするのは踏み込みすぎであろうか。死して関羽は劉備への敬愛を示したのだ。

一方,曹操の死は淡々としたものであった。あくまで正統派な英雄だったということであろう。ちょっとおもしろいのは,本書の曹丕はほとんど暗君と言っていい状態であることだ。確かに彼にそういう要素はあるが,一般的なかかれ方よりもかなり悪しざまであるように思う。この理由はどうやら9巻にまわされるようなのでそちらに期待したい。ところで,本書は小説の三国志にしては珍しく九品官人法に触れており,曹操の実力主義から安定した家柄・貴族主義への転換点として評価(というよりも批判)している。この点は好感を持った。確かに,小説としての三国志の主流ではない事象だが,ある種の「三国志」の終わりの始まりであり,唐まで続く中国社会の基盤となった制度であるので,本来は触れない方がおかしい。

また,本書の孫権は一貫して胡散臭い人物として描かれている。確かに呉の外交的立ち回りを見るとその通りなのだが,これは呉の立ち回りであって孫権の立ち回りではないのでは,という気はする。この孫権の描かれ方の理由も,今後出てくるのだろうか。


三国志〈第7巻〉 (文春文庫)三国志〈第7巻〉 (文春文庫) [文庫]
著者:宮城谷 昌光
出版:文藝春秋
(2011-10-07)

三国志 第八巻 (文春文庫)三国志 第八巻 (文春文庫) [文庫]
著者:宮城谷 昌光
出版:文藝春秋
(2012-10-10)

  
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2013年03月16日

第220回『パスタでたどるイタリア史』池上俊一著,岩波ジュニア新書

本書はタイトルの通り,パスタを通してイタリア史を概観していくというものである。古代ローマや中世のイタリアでいかにパスタが誕生したか。そこから何があって現在のパスタになっていったのか。そもそも現在のパスタの特徴とは何か,そこから見える現代社会とは何か,などに切り込んでいる。私事ではあるが,著者の池上俊一は私と高校・大学が同じである。

今回「岩波ジュニア新書」というレーベルにほぼ初めて触れたわけだが,パスタという取っ付き易いものを扱っている,かつ文体が丁寧に書かれているというところを見ると,確かにこれはジュニア向けなのだろう。しかし,どこからどこまでがジュニアなのか,どういったジュニアが対象なのかは,読んでいて今ひとつわからなかった。内容はそう簡単ではない。文体が子供向けを意識したものである分,違和感がある。たとえば,これはやってしまいがちなのだが,そもそも歴史に親しみがない人から見れば年号も「○世紀」も数字である以上は大して差がない。これなら「何百年前」と書いてあげたほうが親切だ。何世紀のどこどこというのがわかれば大体時代の風潮がわかるというのは,かなり歴史好きな中高生になると思う。こういう細かいところの配慮が行き届いていない感じはしたのだが,一方でこうした新書を手にとるのは”かなり歴史好きな中高生”しかいないかもしれない。

いわゆる伝統料理・民族(を代表する)料理と呼ばれるものにはありがちなことだが,そうしたものは案外と歴史が浅かったり,上流階級の食べ物だったものが19世紀後半か20世紀前半になってから庶民にも普及している。パスタも例外ではない。本書はパスタの歴史的な形成過程を振り返りつつも,それが料理として整理されたのは19世紀後半のことで,「イタリア料理の父」としてアルトゥージという人物を紹介している。また本書は,「結局のところ長らく小麦自体が,貧しい農民が気安く食べられるものではなかった」と指摘し,それが改善されたのは20世紀初頭以降だとしている。そしてその理由として挙げられているのは,工業化によるイタリア自体の経済状況の改善,ナショナリズムによって”国民食”が求められたこと,そしてファシスト政権による福祉の向上だ。3つめの事情は意外と言えば意外だ。

また,本書はイタリア人のパスタに対するイメージとして「母親が作るもの」であるということを挙げ(いわゆる”おふくろの味”である),イタリア人の国民性(マザコン)起源について若干なりページを割いて触れている。まさかそう来るとは思わなかったが,この章が一番おもしろかったかもしれない。このうち料理上手が嫁の条件であったことや近代化によって定まった良妻の規範が広がったこと等はイタリアによらず普遍的なものだと思う。一方,強いカトリックの影響,特に強いマリア信仰,離乳食としてのパスタの存在あたりは確かにイタリア人特有のものなのだろう。それにしても,著者のイタリア人評がすごい。「親離れ・子離れができない」「無条件の母親愛」「小さな罪責感情」「弱い超自我」「楽天的な信頼感情」「人懐っこさ」etc。イタリア人というかラテン系に多く見られる要素かなぁと考えると,やはりカトリックとマリア信仰なのか。


パスタでたどるイタリア史 (岩波ジュニア新書)パスタでたどるイタリア史 (岩波ジュニア新書) [新書]
著者:池上 俊一
出版: 岩波書店
(2011-11-19)

  
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2013年02月23日

第219回『天地明察』冲方丁,角川文庫

タイ旅行の飛行機の行き帰りもたせる予定が,あまりのおもしろさに旅行中に読み終わってしまった小説。なお,帰りの飛行機では偶然にも『天地明察』映画版が視聴可能であったので,これを見て帰った。映画版については別記事を立てたいと思う。

というわけで,とてもおもしろい小説であった。歴史小説ではあるが,本質的な所では綺麗な「努力・友情・勝利」でとても少年漫画らしい作りになっている。いやらしさがなく非常にさわやかなのは主人公の性格自体がそうでありつつ,周囲の人間もまた気のいい人たちばかりであり,まさにそうした好漢たちの努力の結晶が,貞享暦の勝利として最終的に帰結する。痛快な物語である。この物語とキャラの明快さはライトノベル由来だとすれば,ラノベも他の小説ジャンルに新風を吹き入れているのだなと感覚を新たにするところである。(というのがラノベも歴史小説も中途半端にしか読まない身の正直な感想であるが,全く的外れかもしれぬ。)

一方で,暦の改訂という一制度上の変更にすぎないものを,政治体制の転換に結びつけて話を大きくしたところは歴史小説らしいところで,うまいこと融合しているとも言える。ついでに言えば,わかりやすい巨悪を設置せず,歴史の重みそのものを敵とすることで,さらにさわやかになっていると思う。その意味では,本作は歴史と科学の戦いでもあるのだが,科学の側に神道や朱子学を味方させることでそこもうまいこと和らげている。特に朱子学は比較的守旧派として描かれることが一般的に多いので,こうした使い方はとても珍しく思えた。この辺りも歴史小説らしい工夫と言えるのではないだろうか。(というところで,映画を見た方には,私にはあの映画が大いに不満だったことは察していただけるかもしれない。)

言うまでもなく本作最大の特徴は主人公,渋川春海の性格である。才能があるのに(それも多才),生まれの事情から卑屈で,読んでいると「君はもうちょっといばってもいいのだよ」と声をかけたくなる。しかし卑屈すぎるというわけではなく,見る目のある人に大業を与えられればそれをきちんとやり遂げていく。挫折と挑戦を繰り返す中で卑屈さはなくなり,どっしりと構えられるようになっていく様子は,歴史小説であり,一人の人生という長いスパンを描けるからこそのゆったりとした成長物語であろう。自らの言をひっくり返すようであるが,少年漫画特有の不自然さといえば,急激な成長の早さだと思うのだ。ドラゴンボールもそこをうまいこと処理しているなと思うが(孫悟空がちゃんと年をとっているので),話がそれてきたのでこの辺でやめておく。


ちなみに,授時暦は元代の中国で,郭守敬という天文学者が作ったものだ。本作でも「正確無比」と評されているが,郭守敬が参考にしたのはイスラームの天文学であった。ユーラシアの大部分を統一したモンゴル帝国では人材の交流が活発であり,特に元朝では西方の人材が「色目人」として,モンゴル人に続く身分制度の二番目に置かれていたことは習った覚えのある方も多いのではないか。続く明朝では大統暦が採用されたことと,授時暦に比べて正確さに劣ることが本書で紹介されているが,実際大統暦はそれほど重要ではない。しかし,本作で紹介されない大統暦の次,清朝の暦は非常に重要である。これを「時憲暦」というが,その根本に使用された知見は西洋由来のもので,伝えたのはイエズス会宣教師の一行であった。成立は1644年で,実は貞享暦よりも早い。日本の改暦事業にも,以後は西洋の知見が取り入れられるようになっていく。世界の学問の最先端がイスラーム世界から西欧に移り変わったことを図らずも示しているのが,極東の暦事情であったりするところも,歴史のおもしろみと言えるかもしれない。


歴史小説であるので史実と異なるポイントがいくつかある。これらについては一通り参照しておくべきであろう。ということで,参考文献の著者(近世数学史)から入ったツッコミを張っておく。 
→ ここが違うよ『天地明察』:参考文献の著者から(satokenichilab's blog)
その他,天文学や囲碁の観点からも史実との相違や著者の誤解と思しきところに指摘が入っているので,気になる方はいろいろ調べてみるとよいだろう。


天地明察(上) (角川文庫)天地明察(上) (角川文庫)
著者:冲方 丁
販売元:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-05-18)
販売元:Amazon.co.jp
  
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2013年02月15日

第218回『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』酒井健,ちくま学芸文庫

本書を読むきっかけとなったやり取りについて,先に書いておきたい。それはある日twitterでこのようなtweetを見かけたところから始まる。

「12世紀のドイツ、フランスじゃあ人口の9割が農民、そのうちのほとんどが非キリスト教徒、という記述を読んで、ほおーっと思う。4世紀末にローマ帝国国教化、と話したから、ヨーロッパ全体がそこですっかりキリスト教に染まると勘違いしている学生が多そうだな。」

え,いやそんなはずはないだろう,というのが初見での感想であった。後半の感想もおかしい。4世紀末での国教化時点でローマ系住民はかなりの割合で改宗しているはずで,ゲルマン人に対してもアリウス派の布教が広まっていたはずである。そしてカトリック教会もゲルマン人への布教は熱心に行なっており,だからこそクローヴィスのアタナシウス派改宗やグレゴリウス1世は重要人物として歴史に名を刻んでいる。

ではこの情報のソースは何かというところで,本書が紹介されていた。そして著者名を見てまた驚いた。酒井健氏はバタイユ研究で有名な方で,そうそういい加減なことは書かない人だからである。ただし,本職とは別の分野であることはやや気にかかった。この本は後日読むこととして,TLでとある方と話し合って出た結論としては,

「実際に聖職叙任権闘争が解決するまでは,まともな(カトリックの)聖職者が存在しない地域(教区)も多かった。いわゆる冠婚葬祭の形式統一が図られ,生活にカトリックが浸透するのは中世末のことであった。また,13世紀まではまだカタリ派などの異端も生き残っていた。これらのことを考慮すると,表面的・アイデンティティとしてクリスチャンであっても,実態として異教徒であった人の割合が12世紀時点で90%であったということを言いたかったのではないか

ということであった。で,本書を読んでみた結果としては,半分ほどはこの結論で推測として間違っていなかったようである。該当部分を引用する。

「大開墾運動の始まる十一世紀半ば,フランスの総人口の九十パーセントは農民だった。そして彼ら農民のほとんどは非キリスト教徒であった。たとえキリスト教に帰依していても,それは表面上で,生活の中で彼らは異教の信仰と風習をしっかり維持していた。」

元tweetが間違っている点を指摘するとすれば12世紀とは本書に書かれていない点で,実はこの100年の違いは大きい。1050年から1150年の間に中世ヨーロッパは大きな変化を遂げているからだ。大開墾が進み,商業が復活し,叙任権闘争が起き,十字軍が始まり,レコンキスタが激化し,12世紀ルネサンスが始まった。そしてまさにこれらを要因としてゴシック様式が生まれたのがこの期間であった。(中世ヨーロッパの社会変化については以前書いているので,そちらの記事参照のこと。→ 中世ヨーロッパの11世紀以前・以後)ところで,あえてリンクを張らなかったがこの元tweetをした人,どうも学者のようなのだが,この辺のことを知らなかったとするとすさまじく危ういような。中世ヨーロッパ史の根幹がすっぽ抜けているわけで。


閑話休題。ともあれ本書は決して怪しげな本ではなく,やはり信頼できる著者によるちゃんとした精神史の書物である。前半はゴシック様式の誕生した経緯について,精神史の観点から説明している。すなわち,「森林から抜け出た元農民たちは,都市でも母なる森林を必要とした」結果としての高層・過剰装飾・列柱のゴシック様式なのだということを語っており,様々な論拠を挙げていて強い説得力を持っている。特にバタイユを引いて聖性の二極面を説明し,死や自然への畏敬が教会へ入り込んでいったことを紹介したあたりは,とてもこの著者らしくて良い。

しかし1つだけケチをつけるなら,精神史を焦点としているといえど周辺的な事情についてはばっさり省いた説明になっている点を挙げておかねばなるまい。商業の復活と都市人口の増加により城壁の内側の面積が不足し,高層化の傾向が強まったこと。その延長線上にゴシック建築があることや,建築技術の発展はイスラーム文明の流入(12世紀ルネサンス)に負うこと等もほとんど記述が無い(12世紀ルネサンス自体は「スコラ学とゴシックの関連性」のところで触れているにもかかわらず)。完全に精神史に焦点を当てたはいいがそれで全て説明しようとしているところは,危うい。何より叙任権闘争に関連する事項は全くと言って記述が無かった。叙任権闘争があったからこそ教会は教義や儀式を西欧中に行き渡らせることができたのではなかったか。ずらずらと説明しろとは言わないが一言二言添えるだけでも違ったはずで,よく知らずに本書を手にとった読者が,(それこそ上記のtweetの類の)勘違いしないか心配である。

後半はルネサンス以後の精神史,ゴシックに対する毀誉褒貶を追う章となっている。こちらもおもしろいし,簡潔にまとまっている。こうして読むとルネサンスはゴシックの反発として全てをひっくり返しているなぁと。宗教改革はまだしも,ルネサンスがこれだけ残念系で語られる書物もなかなか無い。ゴシック=リヴァイヴァルの部分ではイギリスの庭園文化やピクチャレスク・廃墟・崇高などにも触れており,アレグザンダー・ポープやジョゼフ・アディソン,エドマンド・バーク,ホレス・ウォルポールといった,イギリス園芸について調べたことがあれば必ず知っている面々の名前も上がっている。この辺りの簡潔なまとめとしても優れている。一方,ところどころに著者のど直球な感想が入り込んでいるのも興味深い。特に宗教改革ではカルヴィニズムにはかなり手厳しい記述になっているが,著者は何か恨みでもあるのか。「エッフェル塔は崇高ではない」という著者のコメントも,これ自体意見の分かれるところだろう。


ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)
著者:酒井 健
販売元:筑摩書房
(2006-05)
販売元:Amazon.co.jp
  
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2012年12月15日

第217回『蝉丸Pのつれづれ仏教講座』蝉丸P,エンターブレイン

知っている人は知っている,ネット界のリア住こと蝉丸Pによる仏教講座。構成は大きく分けて4つ。現代日本の仏教・宗教に関する一般の方が疑問に考えていそうなことに対する解答あれこれ(第1章),現代日本の仏僧の生活の様子(第2章前半),海外の仏教事情(第2章後半),仏教史(第3章)。これを大きく2つに分けると第1章と第2章の前半が「現代僧侶FAQ」,第2章後半と第3章はそこから漏れた話という形になる。

本書執筆の動機が「ネット檀家から同じ質問を何度もされるため」ということなので,前半に関しては本当にその通りの問答集になっている。逆に言って,後半は蝉丸Pが積極的な理由で書きたかったところで,彼の問題意識が前面に出た文章である。とりわけ,”ピュアブッディズム(ロマン派仏教)”に対する懐疑は何度も提示されていた。約430ページという大著であり,内容はとてつもなく濃い。「わかりやすく解説」だし,「ネタっぽく見える」からと気軽に読み始めると挫折することが容易に想像できる本となっている。前半の「現代僧侶FAQ」はまだ気楽に読めるのだが,第2章後半あたりからとても掘り下げた話がざくざくと出てくる。無論のことながら考えてそういう構成にしたのだろう。

文章自体は読みやすく可読性は高いのだが,一方で,ネットスラングとオタク用語は躊躇なく使用されており,一応解説・捕捉は入るものの多分に”解説自体がネタ”になっているため,おおよそ機能していない。そもそも親ネット・親オタクでなければ本書を手に取ることはないと思うし,事実amazonなどのレビューを読んでもそこに苦言を呈しているものはあまり見かけない。が,可読性とは別方向に,たとえがやや強引だったり逆にわかりにくかったりして,そこまで無理してオタク性を出さなくてもいいのではと感じる箇所は多々あった。これは特に前半,FAQのパートで強く見られた。

前半はFAQなだけあって,動画の形でよりわかりやすく説明されているものが多い。既存のネット檀家の一同ならば「この説明ニコニコ動画で読んだ」ということが多かったであろう。一方,後半は目新しい話も多く,私自身後半のほうが楽しんで読めた。本書で一番おもしろいのは「海外の仏教事情」の部分ではないだろうか。新たに得られた知識もさることながら,ピュアブッディズムへの懐疑という著者の問題意識が強く伝わってきて,読み応えがあった。第3章の仏教史に関してもよくできているのだが,2箇所ほど誤りがあるので指摘しておく。私が持っているのは初版なので,今はもう直っているかもしれないが,ぐぐっても正誤表が見当たらなかったので。

p.267:「アーリア人がインダス文明を滅ぼし」と書いてあるが,現在この説はあまり支持されていない。アーリア人のインド進出は紀元前1500年頃から始まっているが,インダス文明は紀元前1800年頃までに自然現象(洪水や旱魃)を原因として滅亡済,というほうが有力。

p.336:「5世紀にイスラーム教の開祖ムハンマドが昇天してから……」とあるが,言うまでもなくムハンマドの昇天は630年頃,つまり7世紀のこと。まあ蝉丸Pが知らないはずがないので,指がキーボード2つ分ずれていて,校正も誰も気が付かなかったんだろう。


蝉丸Pのつれづれ仏教講座蝉丸Pのつれづれ仏教講座
著者:蝉丸P
販売元:エンターブレイン
(2012-06-15)
販売元:Amazon.co.jp
  
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2012年09月11日

第216回『アホ大学のバカ学生』石渡嶺司・山内太地著,光文社新書

著者の一人,石渡嶺司は第137回『就活のバカヤロー』の著者でもある。だからこそ本書を手にとって読んだというところが大きい。

内容はタイトルの通りで,なっちゃいない大学経営やそれに甘んじるダメな学生のダメっぷりを赤裸々に暴露してdisりまくる本。タイトルからして喧嘩売りまくりな感じの新書だが,読んでみると案外と褒めてられている大学が多い,といった印象で,バランスはとれているように思う。叩くだけの本ではなく,大学や学生のあるべき姿を提示している……というと持ち上げすぎではあるのだが,少なくとも叩くだけではないという姿勢は十分に示せていると思う。著者のがんばっている大学や学生への比較的素直な愛情を感じ取ることはできるし,ダメな大学や学生への歪んだ愛情も同時に感じ取れなくはない。


具体的にそれぞれの章の内容を挙げておく。第1章がバカ学生の具体像。この章は「上場企業ってなんですか?」やネットリテラシーの甘い子など,よくある事例の紹介が多い。第2章は逆に,本気で学生を集める気があるのか疑わしい大学の事例。こちらのほうが(私を含め)多くの読者には新鮮な情報が多かろう。私も「情報コミュニケーション学部」と「情報科学部」の違いはわからない。なんとかしてほしい。欄外の小コラムで珍名大学・学部を紹介しているので,これを読んでいるだけでもけっこう笑える。本当は笑っちゃいけないのだろうが,笑えるような学部名をつけるほうがどうかしている,とは本気で思う。

第3章は第2章の引き続きで,学生を集めないパンフレットの作り方。これがけっこうあるあるで,苦笑いしかできない。「表紙がぱっと見で大学パンフレットとわからない」とか「1ページ目に学園沿革と理事長挨拶」とか,どうしてこうなった。第4章のテーマは『就活のバカヤロー』にやや近い,就活をめぐるあれこれだが,内容は大きく違う。なぜ一見不まじめな学生のほうが,まじめな学生よりも内定を取りやすいかの考察がなされていて,なかなかしっくり来るのだが,どうせならインターネットミームでいうところの「まじめ系クズ」という単語を使ってくれればもっとすっきり説明ができたのではないかと思う。一方,詐欺的な就活セミナーや名ばかりインターンシップを批判しているのもこの章である。もはや懐かしい感覚さえする,就活デモの批判もこの章でしている。

第5章は大学側の対策について。どこもかしこも一年生対策・面倒見のよさが売りになりつつあるのはなぜか,という話。様々な対策を紹介しており,比較的遠くない昔に(受験生だった&)入学したはずの自分から見ても,だいぶ変わってるんだなという印象を受ける。第6章は「日本バカ学生史」と題し,ちょっと珍しい明治・大正の就活模様を紹介している。バカ学生史とは言うが,どちらかというとあまりにも変わらない就活事情に無常感を感じる章である。

第7章は定員割れ大学について。なんらかの対策が功を奏して立ち直った大学もあれば,どうにもならない感じの大学も。がんばっていながら立ち直っていない大学の紹介が一番おもしろかった。そういう大学は応援したくなる。一方,どうにもならない感じの大学の「無気力地獄」は言い得て妙すぎてなんともコメントできない。第8章,ラストは今のキーワードとしての「グローバル人材」と「バカ学生」を掲げているが,実際には前者に偏った内容である。この話題にある程度詳しい人は予想がつくであろう,国際教養大学の名前はここで出てくる。本当に「猫も杓子も国際教養大」な状況であるが,あの成功は一つの希望ではあると思う。

タイトルの仰々しさに反して,昨今の大学・就活事情を探る上でまっとうに楽しめた一冊。


アホ大学のバカ学生 グローバル人材と就活迷子のあいだ (光文社新書)アホ大学のバカ学生 グローバル人材と就活迷子のあいだ (光文社新書)
著者:石渡嶺司
販売元:光文社
(2012-01-17)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年09月06日

第215回『西洋美学史』小田部胤久著,東京大学出版会

約一ヶ月間,仲間内でtwitter読書会をやっていた本である。togetterにまとめられているので,それらと参加者のブックレビューのリンクを張っておく。

初回:はじめに,1章(プラトン),2章(アリストテレス),3章(プロティノス)
2回目:4章(アウグスティヌス),5章(トマス=アクィナス)
3回目:6章(ライプニッツ),7章(ヴィーコ),8章(ヤング)
4回目:9章(ヒューム),10章(レッシング)
5回目:ドイツ観念論回:11章(カント),12章(シラー),13章(シュレーゲル)
6回目:ドイツ観念論回2:14章(シェリング),15章(ヘーゲル)
7回目:最終回:16章(ハンスリック),17章(ハイデガー),18章(ダントー)

tieckPの感想(読書メーター)
シノハラユウキさんのブックレビュー(logical cypher scape)
ja_bra_af_cuさんの読書会の補足と余談(Sound, Language, and Human)

読書会を離れた全般的な感想として。ヘーゲルから最後までの4章以外は,章立てこそ主題に立てられた哲学者の登場時代順となっているものの,比較的全時代を通じて通用するトピックが挙げられており,そのテーマに言及した哲学者は時代を問わずその章で扱われている。つまり,時代順のように見えて実はテーマ別という,やや不思議な構成をとっているのが本書であった。各章のテーマ設定については,参加者の一人シノハラユウキ(@sakstyle)さんのブックレビューにまとまっているので,そちらをご参照いただきたい。実はこうした構成をとっているがゆえに,多様な言及を行った哲学者は章を飛び越えて何度も登場する。カントとシュレーゲル,シェリング,そして何より自分の章を持っていないのにもかかわらずガーダマーがやたらと何度も登場するのはそのためである。また,逆に言ってヘーゲルから後ろ4章は「西洋的な芸術概念の終焉」がテーマとして通底している章であり,時系列的にしかまとめようがなかったのであろう。

個人的な好みで言えばテーマ別よりも完全時代順のほうが好きではあるが,今回読んでみて,美学はテーマが非常に多岐に渡るので,このような構成にしなければ逆に煩雑になるのだろうということはよくわかった。逆に言って,過去に登場したトピックがかなり時代を隔てて再登場するというのは他の学問でなかなか見ない,美学のおもしろい点だと思う。また,そのトピックの内容の変更点が,その哲学者(美学者)本人の性向によるものか,時代に伴う変化によるものか,というのを考えるのはとてもおもしろかった。美学というよりは哲学全体に言えることではあるのだが,そこに普遍性を求められても現代の目線から言うと例外があるので成り立たない理屈というのは割りと多かったように思えた。世界の広がりは,哲学の理論に大きな影響がある。

一方で,「それは本当に同一テーマか?」という強引な話題転換が多く,ちょっとついていきづらいところは多かった。より多くの美学者(とその理論)を出すため,概説書としての使命を果たすために仕方がなかったのだろうなという著者の苦労が透けて見えるところである。同様の現象として,章題の人物よりも別の美学者のほうがより多く紙面がとられていた章がいくつかあり,本書の構成の困難さをうかがわせた。ライプニッツの章はバウムガルテンに,ハイデガーの章はメルロ=ポンティにのっとられている。


西洋美学史西洋美学史
著者:小田部 胤久
販売元:東京大学出版会
(2009-05-27)
販売元:Amazon.co.jp
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あとは,読書会を通じて得られた感想として。とりとめもなく。togetter見ながら読んでもらえるとよい。
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2012年07月07日

第214回『三国志 演義から正史へ、そして史実へ』渡邊義浩著,中公新書

三国志の研究者,渡邊義浩氏の新書。テーマはサブタイトルの通り。まず,いわゆる「正史」が史実のように扱われている現状を突き,正史もまた陳寿による偏向がある点を説く。その上で,(現代歴史学がわかっている)史実と正史,そして『演義』の違いを比較していく。その目的は『演義』の文学性の強調である。正史を史実と誤認するのと裏返しに,しばしば創作性が批判されている『演義』ではあるが,質の悪いものであれば現代まで生き残っていない。本書では『演義』成立の過程を説明し,最終的に出来上がった清代の毛宗崗本の特徴を述べている。

毛宗崗本の特徴は三人の人物に焦点を当てており,曹操・関羽・諸葛亮がその3人である。本書もこの3人+『演義』の被害者:呉+袁家を軸に章立てして,魏呉蜀の正史と史実,そして『演義』の違いを並び立てていく。曹操がいかに『演義』で批判され,逆に「正史」では称揚されているか,という知られた話もあれば,研究者らしくつっこんだ話もある。なくてもよいが,多少儒教や,その後の中国史に関する知識があると,より深く楽しめるかもしれない。関羽がなぜ神となったかとか,諸葛亮と劉備が実は「水魚の交わり」ではなかったのではないか,等の語りはなかなか特徴的。

本書の最後には,渡邊義浩氏の研究のメインテーマである「名士論」についての話と,それに関連して九品中正が中国史における豪族の貴族化を促したという話が出てくる。後者の話は,高校世界史で触れるが説明されない部分なので,高校世界史をやったことがある人ならさらにおもしろいかもしれない。前者の「名士論」は,著者がその著作で,論文から一般書に至るまで折にふれて語る概念だが,本書は新書で紙面も短いため,相当端折って書かれている。ややずれるが,私は割りと名士論に好意的な立場である。なんでもかんでも説明できるとは思わないし,氏の考えにはやりすぎの部分もあるものの,ああした地方豪族と君主のせめぎあい自体は世界史上ある程度普遍的な現象であるし,三国志の多くの事象をうまく説明できていると思うし,何よりその後の九品中正と貴族化の流れを綺麗に説明できる。

そういうわけで,物語としての三国志は好きだけど,研究としての三国志の入門ってどんなのかなーとか考えてる人は是非に。堅苦しくなく,入門から踏み込む気のない人でも,楽に読めると思う。


三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書)三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書)
著者:渡邉 義浩
販売元:中央公論新社
(2011-03)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年06月25日

第213回『エロティシズムの歴史』ジョルジュ=バタイユ著,湯浅博雄・中地義和訳,ちくま学芸文庫

久しぶりに出たちくま学芸文庫のバタイユ著書(の文庫化)。タイトルは「エロティシズムの歴史」で,これを見ると割とストレートなテーマなのだろうかと思わなくもないのだが,実際のところ書いてあるものはいつもの断片集である。サブタイトルの通り,本書は「呪われた部分 第2巻」であり,『呪われた部分』同様の断片集は極めて読みづらい。一応タイトル通りと言えるのは,本書でバタイユはエロティシズムの起源を探し求めるという形で文章をつづっている点で,そこでは近親相姦と排泄行為,そして結婚を挙げている。これらが原初的なタブーであり,そこからエロティシズムの観念が発展していったという。理屈そのものはいつもの理性の誕生による禁止と,それを侵犯することによる快楽である。

では読む意味が全くないかというとそうでもなく,バタイユの思想を理解した上で読むと,1フレーズごとに区切ればなかなかしっくり来る言葉が多い。特にエロティシズムの定義については,『エロティシズム』の「エロティシズムとは死におけるまで生を讃えることだ」という名句よりも,本書の「エロティシズムとは動物の性活動と対比された人間の性活動である」のほうが,圧倒的にわかりやすい。要するに,理性の判断する,子供を生む”生産性”よりも,快楽が優先されて追求される。この活動の諸形態こそがエロティシズムである。動物性は,それそのものはエロティシズムと対置されるものである。(ただし,エロティシズムは一度人間性を肯定した上でのその破壊であるので,一周回って動物性の発露がエロティシズムとなることはあるだろう。バタイユが直接そう明言した文章は見たことがないが。)

他にも,バタイユの考えが端的に言い表されている表現がいくつかあり,その点では楽しめた本であった。「私の考えでは,思想の隷従性,つまり思想が有用な諸目的に屈服すること,一言でいえば思想の自己放棄は,ついに計りしれないほど恐るべきものとなってしまったように思われる。」には,バタイユが近現代にあってこのような思想体系を構築した危機感のようなものを感じる。「もし私の観点がなんらかの意味で護教論的であるとしても,その護教論の対象はエロティシズムではなく,全般的な意味での人間性なのである」も,エロティシズムの対義語が動物性ということを補強しつつ,理論構築の目的を説明している。とりあえず両方第一部から引っ張ってきたが,このような形で目を引く言葉は全体を通して出てくる。訳者あとがきも短いながらバタイユの良い説明になっていて読む価値がある。全体をひっくるめて,お勧めしていいものかどうかは,なんとも言えない。


エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻 (ちくま学芸文庫)エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻 (ちくま学芸文庫)
著者:ジョルジュ・バタイユ
販売元:筑摩書房
(2011-07-06)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年06月06日

第212回『入門 世界システム分析』ウォーラーステイン著,山下範久訳,藤原書店

世界システム論(分析)について,ウォーラーステイン本人が書いた入門書の翻訳。翻訳したのも山下範久という第一人者である。ただし,決して基本的な知識の話をしているわけではなく,具体的な史実がどうこうという話をしているわけではない。ではどこらへんが入門編なのかというと,ウォーラーステインが何をどう考えた結果,世界システム分析という考えに至ったのかという点について,懇切丁寧に説明している。そこで,ウォーラーステインの出発点が,文系諸学問というと主語が大きいかもしれないが,社会科学の学問的行き詰まりへの関心から,世界システム分析に至ったことがわかる。ウォーラーステイン自身の経歴を見てもわかることだが,実は歴史学を基盤としているわけではないのだ。むしろ逆で,現代の学問の手法的行き詰まりからさかのぼっていって史的分析にたどり着いたのである。

だから話として続くのは史実の再検証ではなく,抽象的な,理論的に世界のシステムがどう変わっていったかという話であり,理論的にはこうなるという話や,ゆえに現実世界はこう分析できる,という総括的な話が多い。ややこしい・細かい話をばっさりと省いているという意味では,確かに入門書然としている。が,そうした事情により歴史畑の人間にはなかなかハードルが高い。むしろ政治学や経済学に明るい者のほうが,「この方面から歴史を切ってくとこうなるのか」という理解ができて読むのが早いかもしれないし,楽しめるように思う。

では,歴史畑の人間にとって入門書として機能してないか,というとそうではない。じっくりと読んでいけば,結果的に世界システム分析についてはきっちりと十全に説明がなされている。「世界経済」「世界帝国」「垂直的分業」「国債分業体制」「近代世界システム(=資本主義的世界経済)」あたりの基礎的な概念は,読み通せば理解できるようになっているだろう。

そういうわけで,とてもおもしろい良書ではあるのだけれど,誰に勧めてよいかはとても悩みどころである。しいて言えば自分のような,歴史畑から世界システム分析には興味を持っているのだけれど,そういえばウォーラーステイン本人の研究自体は詳しくないなーという人を対象とするのが一番勧めやすいのかもしれない。ブックガイド含めて250ページしか無い割に,読むのはけっこう根気が必要であった。今見たらamazonのレビューでも「誰に勧めて良いかわからない入門書」的なレビューが多かったので,やっぱりそうなんだろう。これも他の方のレビューにあったが,先に講談社選書メチエの『ウォーラーステイン』(リンク先amazon)を読んでおいたほうが,理解はしやすい。私からもこちらを推薦しておく。


入門・世界システム分析入門・世界システム分析
著者:イマニュエル ウォーラーステイン
販売元:藤原書店
(2006-10)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年06月04日

第211回『天使と悪魔』ダン・ブラウン著,越前敏弥訳,角川文庫

本作は『ダ・ヴィンチ・コード』同様,主人公はハーバード大学で美術史学(正確には宗教象徴学)を専門としているロバート・ラングドン教授で,宗教が引き起こした事件に巻き込まれるスペクタクル小説である。基本的に敵役がオプス・デイではなくイルミナティになっているだけで,話の本筋は大体同じである。実は『ダ・ヴィンチ・コード』よりも先に世に出ており,『ダ・ヴィンチ・コード』が売れたことでこちらも世界的に有名になった。ゆえに,本作がヒットしたので,同じ方式で書かれたのが『ダ・ヴィンチ・コード』と言ったほうが正しかろう。そして,後者のほうがキリスト本人を扱った分センセーショナルであり,より爆発的にヒットした,というわけだ。もっとも,本作も扱っている分野は相当に際どい。舞台はローマとヴァチカンで,サン・ピエトロ大聖堂が灰燼と化すか否かの瀬戸際で話が続く。

『ダ・ヴィンチ・コード』を楽しめた方なら間違い無く楽しめるだろうし,逆に言って,本作を先に読むことで『ダ・ヴィンチ・コード』の試金石にすることもできよう。本作の対立軸は信仰(狂信)と科学であるが,その落ちもなかなかおもしろい。科学は時として,その宗教が創始された頃には全く予期されていなかったことをなしてしまう。それは何も素粒子物理学だけがなせる技ではないのだ。どんでん返しではあるのだが,不自然さが少ない。そういえば本作も映画化されている。今度見ておこうと思う。


実はこのブログの第1回書評が『ダ・ヴィンチ・コード』だったりするのだが,当時と今では自分の美術史学的知識に大きな違いがある。で,時間が経ってて知識も違うからどうだったのかといえば,なんのことはない,やっぱりずば抜けておもしろかった。むしろ,美術史学的知識がある分,本作のほうが楽しめたところはあると思う。「サンティ」の罠や「聖女テレジアの法悦」などはまさにラングドンと同じ心境であった。もっとも,『ダ・ヴィンチ・コード』は読んだ直後にパリへ旅行して直接サン・シュルピス教会を訪れる機会を得たという幸運があったのだけれども,今回はローマ旅行が企画されているとかそんなことはなかった。と,私事はこれくらいにして。


天使と悪魔 (上) (角川文庫)天使と悪魔 (上) (角川文庫)
著者:ダン・ブラウン
販売元:角川書店
(2006-06-08)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年05月13日

第208・9・10回『新世界史の見取り図 上・中・下』荒巻豊志著,東進ブックス

以前紹介した参考書の改訂版。参考書としてはかなり異質で,大学受験の方向を必ずしも向いていない,というのが本書の変わらぬ特徴と言えるだろう。

本書については,旧シリーズの評判が良かったにもかかわらず完結せず,5冊中4冊までは出たところで止まっていたため,結局新シリーズ3冊として再出発してようやく完結した,という事情がある。その旧シリーズが完結しなかった事情はご本人のブログにて詳細に語られているが「受験世界史との折り合いがつかなかったため」である。確かにそれは旧シリーズにおいて感じられた点で,特に,本シリーズは論述対策と言える参考書であるのに私大の入試問題が練習問題として載っている等,迷走している部分があった。ついでに言えば,私は「旧2巻を高く評価し4巻は微妙だった」と評価していた受験生・大学生の一人なので,前出の記事を読んで若干申し訳ない気持ちになった。

しかし一方で,今回の新シリーズにおいても決してモチベーションが十分だったというわけではないようで,初版では非常に多くの誤植がある。下巻の「トルコ共和国2004年にEU加盟」がその最たるものだろう。ただし,これらの誤植については,これもまたご自身のブログで正誤表があるので,参照しながら読めばよいだろう。また,俗説や妥当性が高いとは言いがたい学説が註釈無く載っており,これらについては前段と逆に著者が好きに書いた結果だと思うのだが,これらは受験参考書としてどうかというよりも,歴史を語る言葉として危うい。著者が右派的なのは読んでいけばわかるところだが,南京論争についての指摘なんかも相当際どいものがある。

しかしそれでもなお,本書は世界史の参考書として一級品であると評さざるをえない。特に東大や一橋の論述対策として欲しいエッセンスがここには詰まっており,その範囲を超えて歴史叙述のおもしろさを存分に読者に教えていると言える。特に立憲主義やナショナリズムの説明は社会人となった今読んでもやはり十分におもしろいし,読む価値がある。この点は旧シリーズが受験生以外から高く評価された所以であり,その良さは失われていない。大人向けの振りをして書かれた凡百の「歴史がわかる本」や「現代世界がわかる本」なんかよりも,よほど理解が深まる。受験世界史を単語と年号の暗記で終わらせないためにも,本書は広く読まれるべきである。

荒巻の新世界史の見取り図 上巻 (東進ブックス 名人の授業)荒巻の新世界史の見取り図 上巻 (東進ブックス 名人の授業)
著者:荒巻 豊志
販売元:ナガセ
(2010-12)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年03月14日

第207回『十字軍物語3』塩野七生著,新潮社

2巻の感想に書いた通り,3巻では十字軍の残り全部,つまり第三次十字軍から最後の第八次十字軍まで扱っている。そのため,非常にせわしない構成になっている。しかも,第三次十字軍に大きく焦点が当たっているため,第四次以降はかなりの部分で事実の羅列に近いものがあり,塩野七生らしからぬ淡々とした描写と言える。

しばしば言われることだが,「塩野七生はリチャード獅子心王とサラディンを描き終わったところで満足したから残りは手抜き」というのは,半分正解で半分誤りであると思う。なぜなら,第四次十字軍・第六次十字軍については彼女が好きな人物が登場しているからだ(エンリコ・ダンドロとフリードリヒ2世)。にもかかわらず,これらの十字軍についての描写が簡素なのは,以前に著述が終わっているからである。第四次十字軍は『海の都の物語』で,第六次十字軍は『ルネサンスとは何であったのか』で十分に書いてしまっているので,今更言及する意味をあまり見いだせなかったのであろう。それでも第四次のほうが言及が多いのは,それだけエンリコ・ダンドロを愛しているというのもあるだろうが,『海の都』を書いたのが30年前で,まだしも振り返る気力が湧いたのだと思う。『ルネサンス』のほうは刊行が2001年で,文庫化に至っては2008年である。まだ『ローマ亡き後の地中海世界』を執筆中の時期であり,それだけ最近のことを再び書くのはそれなりに苦痛だったのではないか。

第五次十字軍については,そもそも書くことがそれほどない。高校世界史ではスルーされる,したがって以後番号が1つずつずれ,フリードリヒ2世のものが第五次,ルイ9世のものが第六・七次ということになる。ゆえに,彼女が本当に書く気がなかったのは,ルイ9世についてであろう。しかし,それにしても本書のフランス王に対する扱いがひどい。フィリップ2世もルイ9世も随分と辛辣に書かれている。まあ,彼女がキャラ萌えで歴史を描くのは周知のことで,我々もそれが好きだから塩野七生を読み続けているのであるから,それ自体をどうこう言うつもりはない。また,それで鵜呑みに仕切らない義務はある程度読者の側にあるものであろう。本書に対するカウンターとしては,新書ではあるが佐藤賢一の『カペー朝』を挙げておく。

とはいえ,本書の核がリチャード獅子心王にあることは間違いなく,極めて魅力的な人物として描かれていた。特に,お遊びで騎士に叙したサラディンの甥っ子が,後にフリードリヒ2世と第六次十字軍で相対するアル・カーミルというのは歴史の醍醐味の一つだと思うのだが,これに関する描写は秀逸であった。この人がもう少し長生きしたら,フィリップ2世が英雄となれたかどうかは疑わしい。


が,それでも私自身はフィリップ2世のほうが好きであるし,英雄的であると思う。本書には「フィリップ2世オーギュストと古代ローマのアウグストゥスが似ているのは,長命であったことと戦下手であったこと」とあるが,フィリップ2世はそこまで戦下手ではない。というよりも,ブーヴィーヌの戦いでは同数かそれ以上の兵数の神聖ローマ帝国軍に大勝している。ぶっちゃけて言えば,呂布や関羽と正面から戦ったら誰だって勝てないが,より英雄的なのは曹操であるというのと同じではないかと思う。また,フィリップ2世の業績のものの最大は,封建制を脱して国王の代官を派遣し,加えて中央政府にも改革を加えて官僚制を推進したことであり,これがその後のフランス王権強化を決定的とした。

ルイ9世についても,彼は単純な狂信だけで十字軍を起こしたわけではない点を擁護しておく必要があろう。彼とてカペー朝の君主として王権の伸長に興味がなかったわけではない。本書では内政は善政,外政はズタズタという書かれ方をしているが正確ではない。両シチリア王国をホーエンシュタウフェン朝から分捕ってシャルル・ダンジューに預け,第四次十字軍でフランス系封建諸侯が支配することになったビザンツ帝国やヴェネツィアとも連携してあわせて地中海に影響力を及ぼしている。さらにモンゴルへはウィリアム・ルブルックを派遣してイスラームへの挟撃を呼びかけるなど,ある種先代のフィリップ2世を継ぐような斬新さ・周到さを見せている。それでも彼の十字軍が失敗したのはひとえに彼の軍事的無能さとしか評価しようがないのではあるが,総合的に見れば決して無能とは言えない。

それにも関連するが,398ページにモンゴル帝国の勢力圏の地図が掲載されているが,これの時代と出典がわからない。最盛期だとしても,インドにも網掛けが入っているが,モンゴルのインド侵入はデリー・スルタン朝の激しい反撃にあって失敗しているから勢力圏とは言えない。同様にノヴゴロド攻撃にも失敗しているので北ロシアは塗れないはずである。逆に,短期間とはいえ侵攻に成功してパガン朝を崩壊させたビルマは塗られていない等,不可解な点の多い地図である。また,402ページでマムルーク朝について「日本では奴隷王朝と訳される」としているが,これは誤り。日本では普通,インドのデリー・スルタン朝の最初を奴隷王朝と訳し,エジプトの方は訳さずにマムルーク朝と呼ぶのが慣例である。このあたりの誤りからして,モンゴルに関してはあまり調べてないんじゃないかという雰囲気がする。


十字軍物語〈3〉十字軍物語〈3〉
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
(2011-12)
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2012年03月12日

第206回『悪霊』(3)ドストエフスキー著,亀山郁夫訳,光文社古典新訳文庫

1・2巻についてはこちら。3巻も読み終えたので,その部分も含めた話をしたい。

1・2巻のところで書いた通り,2巻末から本書の雰囲気は「狂騒」としか言いようがない状態に陥っていく。これ自体がテロリズムを考える政治結社の企みであるのだが,この政治結社の内部では個人の思想の違いから結束力に欠け,今後の計画に支障をきたす恐れもあった。そこで指導者であるピョートルは,スタヴローギンのアドバイス通り「一人殺して秘密を共有し結束力を強化する=血の縛り」を実行に移す。この陰惨な殺人事件と,その発覚過程が3巻のハイライトになるわけだが,一方で町は狂騒状態を極めていく。一方で,殺人事件の描写はいやに冷めているのである。そしてこの殺人事件の発覚と犯人集団の逮捕が,町を襲って狂騒となしたいくつものスキャンダルの原因を暴くことになり,皮肉にも町の狂騒を鎮めていくという結果となった。

無論のことながら,ドストエフスキーの『悪霊』におけるテーマは政治的テロリズムの馬鹿らしさとその結社のおぞましさの描写にある。しかし,描写上の,文章技法上の焦点としては,この町の狂騒と,いやに冷めた殺人事件の二重の推移にあったのではないかと思う。この全く正反対の雰囲気が全くの同時並行で進んでいくのは見事である。かつ,この二つの雰囲気が違和感なく次第に混ざり合っていき,それが事件の解決という文章の内容にも影響していく感覚は,さすがはドストエフスキーとしか言えない文章の冴えである。


一方,私がいまひとつこの『悪霊』を手放しで褒め称えることができず,長編では『カラマーゾフ』・『罪と罰』の3番手としか評価できないのには別の理由がある。それは端的に言って,ドストエフスキーにしてはテーマの描写に引きずられすぎていて,登場人物の描写に深みが感じられなかったことだ。ドストエフスキーが実在の事件に範をとること自体は珍しくない,というよりもこの点は『カラマーゾフ』も全く同じはずである。しかし,今回は極左サークルの内ゲバ事件が着想であり,ほぼ全く同じ事件を作中で引き起こしている。それは前述の通り,こうした結社で起こる内ゲバのおぞましさの描写が,本書の第一の目的であったからだ。

また,実のところ,本書は町一つを舞台としているため,一家の事件である『カラマーゾフ』や,個人の殺人事件である『罪と罰』に比べれば舞台は広いはずなのだ。しかし,サークルのメンバーという閉じた集団と,ステパン・ヴェルホヴェンスキーからユーリヤ夫人まで含む町の上流階級の集まりの,大雑把に分ければ二箇所しか移動がない。しかも,思い返してみるとこの二箇所を移動するのはピョートルとスタヴローギンの二人しかいない(一応レビャートキンも両方の集団に顔を出すが)。だからこそ,この2つをお話の上で結びつけるべくピョートルが2巻で八面六臂の活躍をしたわけだ。これ自体は成功していたように思う。が,その結果ピョートルのキャラだけがやけに目立ち,他の面々の描写が少々薄かったのではないか。

特にスタヴローギンは今ひとつ何をやりたかったのか,終始わからなかった。何がやりたかったというと語弊があるが,行動の指針的なものが見えないまま,(ネタバレ)いつの間にかダーシャに振られて自殺していた,というのが正直な感想である。彼については,あとがきで訳者が「有能」「神の如き」としきりに書いているのだが,全くそんな感触がない。解説をしっかり読むと,彼が暗躍していたことはよくわかったのだが,「暗躍」すぎてわかりづらかった。読解力不足と言われればそこまでだが……読み落としも含め,結局どこまでが彼らの計画でどこからが偶然の事件だったのかいまひとつ判別がつかない。ぐぐってみたが,けっこう同じ感想の人がいて少し安心した。「スタヴローギンを悪の権化だと思って読むと間違う」という人もいて,割りと納得しないでもない。というよりも,私個人の倫理観で言えば,スタヴローギンの「暗躍」は特に罪があるとはあまり……「チーホンのもとで」の告白はおいておくとして。

他の登場人物では,それでも上流階級側については1巻で紙面が割かれていたから,それなりに掘り下げがあった。ユーリヤ夫人の功名心やレンプケーの情けなさ,ワルワーラ夫人とヴェルホヴェンスキー氏の不思議な友情関係など,見所は多い。つまり,問題は反対側,「五人組」の面々である。ピョートルは当然キャラが立っていたとして,残りの面々がどうも判別がつきづらいまま殺人事件の場に至ってしまった。むしろ,彼らの殺人事件に対するかかわり方・振る舞いで判別できるようになったくらいだ。実は,読了した今でもリプーチンとリャームシンあたりが混ざる。

私自身,強い政治的保守主義で反革命派なので,ドストエフスキーの土壌主義には必ずしも賛同しないまでも,本書で描かれた暴力革命を目指す政治結社のおぞましさには共感するところがある。が,わかりきっているからこそ別の所に注目して読んだのがまずかったのか,結果として登場人物の掘り下げにだけ注目しすぎて読んだのがまずかったのか。それとも,そもそもの話,教唆に関する倫理観の著者との違いが乗りきれなかった原因か。「敗因」はこのあたりかと自己分析しておく。そこらへんを気をつけて読めば,おもしろく読めると思う。あと,本当にどうでもいいけどまた足の悪い女と聖書出てきたので,長編全部に出てくるのか期待して,いつか『白痴』に挑みたい。


悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
(2011-12-08)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年02月22日

第205回『恋文の技術』森見登美彦著,ポプラ文庫

本作はタイトルで推測のつく通り,書簡体形式をとった小説である。主人公守田一郎は相変わらずうだつのあがらない京大の大学院生という設定で,自らは院入学と同時に能登の研究所に行くことになったのをきっかけに,研究室の面々を主とした様々な人間と文通することにした,というところから物語が始まる。しかし,そもそもの目的は卒業と同時に就職しつながりを失ってしまった片思いの女性と文通することであったのだが,なかなか一通目が送れずにずるずると物語が進行していくあたりが,実にいつも通りの森見登美彦の主人公である。

本作が書簡体小説である最大の意義は,日付が入っていることだ。実際にはもういくつか書簡体であることを生かしたギミックがあるのだが,やはり最大のメリットは日付であろう。本書の章立ては手紙を送った相手ごとで区切られており,その上で日付順になっている。そのため,章が変わるごとに日付が大きく戻ることが多い。そして,第一章・二章を読んでいる頃にはわからなかった研究室内の人間関係や,作中の時間経過で起きている諸事件の日付や内容が,複数人との手紙のやり取りを読んでいくうちに次第に明らかになっていく,という具合である。この物語展開自体がおもしろい。

また,主人公や登場人物たちには様々な事件が起きるのだが,それらの事件は明示的に描写されるわけではない。「◯◯があった」と簡潔に手紙の中で語られるだけである。また,本作は主人公が他の登場人物たちへ送った手紙しか収録されていないため,事実は一方的な視点から語られる一方である。にもかかわらず,本作の諸事件が立体的に映し出されるのは,同じ事件を違う相手への手紙でそれぞれ繰り返し説明されるためであり,主人公が手紙を送る相手により説明を少しずつ変えているためである。遠慮のない相手や当事者であれば隠し事なく説明するし,見栄を張りたい相手や隠しておきたい相手にはぼかしたり誇張したりして書いている。そうしていくうちに逆に,主人公と登場人物の関係や事件の概要が改めて見えてくるのである。やはりこの構成は上手であり,フィクションの書簡体小説だからこそできる芸当であろう。

まあ,内容そのものは本当にいつもの森見登美彦なので,そんなことを考えずに適当に読んでも別に問題ない。


恋文の技術 (ポプラ文庫)恋文の技術 (ポプラ文庫)
著者:森見 登美彦
販売元:ポプラ社
(2011-04-06)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年02月15日

第204回『猫と共に去りぬ』ジャンニ・ロダーリ著,関口英子訳,光文社古典新訳文庫

これも某エロゲーに影響されて読んだ本。なのだが,『シラノ』とは大きく毛色が異なる。

著者のジャンニ・ロダーリはイタリアの児童文学作家で,本書も児童文学の体裁をとった短篇集である。思わず「体裁をとった」と書いてしまったのだが,本作に収録された各短編はあまりにもシュールだったり不条理だったりで,純な児童文学として見るには吹っ飛んでいる。大人を笑わせようとしているとしか思えない。そもそもぶっ飛びすぎてて児童に理解できるのだろうか,という疑問もあるが,子供というものは大人が思っているよりも賢いので案外理解できるのかもしれない。落ちも単純な勧善懲悪や教訓が示されるようなことは決してなく,含意には富むものの含意がありすぎて表現しづらかったり,かなりひねくれた教訓が示されていたり,教訓を通りすぎて皮肉か風刺の領域であったりとこちらも一筋縄ではいかない。

いやしかし,徹底して自由と反暴力を訴えている点では一貫している。また,性善説をとっている点でも一貫しており,子供に悪い子はいないとする一方で大人は良い人も悪い人も出てくる,という点も特徴的であろう。これだけ堂々と悪い大人が,リアリティをもって描かれているからこそ,本作は(そのシュールさや不条理さを除いてもまだなお)児童文学らしくないのかもしれない。しかし,悪い大人が過度に俗悪に描かれている点については,大人にだっていろいろあるんだよと心のどこかで思ってしまう。児童文学なんだから,強調されているに過ぎないのではと言われればそれまでではあるが,やはりしっくり来ない。

読了後,twitterで思わず「僕にこれを語る語彙がない。」とつぶやいてしまったが,正直に言って児童文学も,こうしたシュール系短編小説も,いずれも読みなれておらず,評価しようがない。感想は端的に言って「困惑」である。おもしろくないことはなかったが,かと言って積極的に評価する気にもなれず,困惑している。もうちょっと自分が皮肉を愛する人ならなぁ,ということで,私の周囲には多そうな皮肉好きたちにお勧めしておく。


猫とともに去りぬ (光文社古典新訳文庫)猫とともに去りぬ (光文社古典新訳文庫)
著者:ジャンニ ロダーリ
販売元:光文社
(2006-09-07)
販売元:Amazon.co.jp
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以下は,割りとどうでもいい割に長くなってしまった付記。作中に登場する音楽・美術ネタについて。

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2012年02月09日

第203回『シラノ・ド・ベルジュラック』エドモン・ロスタン著,渡辺守章訳,光文社古典新訳文庫

読もうとした動機は某エロゲーではあるのだが,作中での紹介にあまりにも惹かれたために購入。そして実際におもしろかったのだから,これほど幸せな読書体験もあるまい。

本書のおもしろさは話の筋というよりは小気味良いテンポで刻まれた文章のおもしろさであるが,ここで本書が翻訳であるという問題点が浮上する。私は,本書の文章的おもしろさは,原文と訳文それぞれにあると思う。おそらく原文も天才的な文章なのだろう。しかし,読者にそう思わせるだけの訳文,というのはさらにすごい。その逆が起きて悲劇となることが珍しくないだけに。より正確に言えば,本書の訳文は原文の雰囲気を出そうという尽力が見られる。日本語訳で脚韻を踏むなどということは土台無理なのは踏まえられた上で,なんとかテンポだけはあわせようとしていたり,掛詞をも訳出しようとしている。

しかし,本書が真に素晴らしいのはその脚註である。本文が約370ページに対し脚註の量は80ページであり,比較的多い部類と言える。こうした脚註は固有名詞の説明で消費されるのが普通だが,本書の場合,脚註の多くは訳出の過程で削いでしまったもの,もしくは意訳になってしまった理由の説明に費やされている。場合によっては原文や先行する翻訳,さらに(本書は演劇が元であるので)近年演じられた演劇での使用例を紹介し,そこに自分の考えを盛り込んだ上で,本文の訳を説明している。訳者の「できれば原文を読者の脳に直接流し込んでしまいたい」とでも言うような執念を感じる註である。

もちろん,他の小説でもこうした作業はなされているのであろうから,その点本書が特別傑出しているとは言えまい。しかし,表に出してくれなければ,原文を知らない・専門知識のない読者にはそうした努力は見えてこない。下手をすると,先行する翻訳と読み比べて異なる部分を見つけてしまい,首を捻ったまま放置する羽目になる。本書はそうした努力をさらけ出している分,誠実であると思うし,誤訳に対する不安感が薄れる。普通これだけ脚註があると読みづらさを感じ,結局何がなんだかわからないまま読み終わることもしばしばあるが,それを感じさせなかったのは,やはり本文自身の力と言えるだろう。

(某エロゲーでも話題になったラストシーンもこの例に漏れず,翻訳者自身のこだわりもあり,なぜ「心意気」になったのかについて,丸々2ページ使って説明している。某エロゲーでは羽飾りとの掛詞であることは説明されたものの,由岐姉は微妙に納得が行っていない様子であった。しかし,この脚註においてなぜ本文で「羽根飾り」という言葉を使わなかったのかについてきちんと説明されているので,気になる人はこの脚註を読んでおくとよい。もっとも,ライター自身はそれでも納得行かなかったのであろうから,由岐姉にああいう説明をさせたのであろうが。)


物語の筋は至って簡潔で,いかにも文章・言葉で魅せるのだという心意気が感じられる。主人公シラノは天才的な詩人であり凄腕の剣客,博識な学者であるのだが豪放磊落な性格・歯に衣着せぬ物言いで敵が多く,なにより巨大な鼻を持つ醜男であった。一方,青年隊(軍隊)の同僚クリスチャンは美男子であり性格も良い貴公子ではあるのだが,詩文の才能はなく,また極度の上がり症で女性の前に出ると語彙が減るヘタレであった。この二人が同じ女性ロクサーヌに恋をして,協力してこの美女を落とそうとするのだが……前半はコメディタッチと言えなくもない軽いノリであり,ちょうど半分ほどのところで一挙に暗転,悲劇に向かって突き進んでいく。それでも終始明るい雰囲気がするのは,シラノの性格によるものだろう。


19世紀末のパリで本作が初演された時,当時の文壇や前衛的な芸術家は反動的だとして評価しなかった。一方,劇場に見に来た観客は熱狂的に歓迎し,『シラノ』はフランス演劇史上最大のヒット作となった。訳者による解題によれば,現在でもこのような評価はさほど変わっておらず,「できの良い商業演劇」と取られることも少なくないという。読んでみた感想としては,確かに本書は商業演劇・小説と受け取られても仕方がない面はあると思う。訳者自身「超絶技巧の台詞回し」と評しているように,はっきり言ってしまえば技巧主義的であり思想的な含意は薄く,当のフランス人にはわかりやすい方向での凄さだと言える。しかも非常にすかっとして気持ちのいい物語に仕上がっている。であれば,すでに印象派が受容された頃のフランス,パリであれば本作が支持された理由も理解できる。加えて,(さほど物語的な意味はないものの)史実の人物に一応の範をとっているように,本作の舞台は17世紀前半のフランスであり,また原文の文体は「定型韻文」という50年ほど前にロマン派が置いていったものであった。このように懐古主義や衒学趣味も端々に感じなくはない作品であり,そうした部分も,当時や現在の中・上流階級に対して通俗的に受ける理由であるだろう。

しかしまあ,私自身がそうした気取れない垢抜けない中流であるという自負と自虐を踏まえた上で,それでも本書はやはりおもしろかった。本書が芸術に値するか否かは私に知識も判断材料もないので明言できないが,それこそ印象派がありなら,本書の軽い方向に極められたおもしろさもありなのではないかと思う。様々な理由で,様々な人にお勧めする。


シラノ・ド・ベルジュラック (光文社古典新訳文庫)シラノ・ド・ベルジュラック (光文社古典新訳文庫)
著者:エドモン ロスタン
販売元:光文社
(2008-11-11)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年01月17日

第202回『ドラゴンクエスト25th アニバーサリー 冒険の歴史書』スクウェア・エニックス

ドラゴンクエスト25周年を記念して発売されたもの。基本的にはドラクエ展で販売されていた。一般販売されているのか非常に不安だったが,amazon先生におうかがいたてたところ,ちゃんと売っているらしい。ISBN番号ついてるし,じゃあいいかということでここに簡単な書評を書いておく。

本書はドラクエシリーズ作品の登場人物やストーリー,世界地図などを見て読者に作品を懐かしんでもらうことに主眼が置かれたものである。冒頭にはドラクエ25年の歩みが書かれた年表もついている。メインコンテンツなだけあって,これら自体もよくまとまっており,クリアした人間は目論見通り懐かしい気分に浸ることができる。私の場合,4から後ろは大体覚えているけど,3から前はキャラを見ても関連したエピソードをなかなか思い出せず,頭をひねってりしながら読ませてもらった。3でやまたのおろちにいきなり行って全滅とか,海底神殿のキラーマジンガで全滅とかあるあるネタもしっかりと押さえている。

しかし,本書の真髄は各作品の紹介の合間に挟まっている題して「ドラゴンクエストシリーズ研究」であり,これはシリーズ通してやっている読者にはむちゃくちゃおもしろい。ストーリー関係ではロトシリーズと天空シリーズの比較に始まり,歴代主人公の身分がだんだん一般人に近くなっていく様子や,乗り物の比較,共通して登場する人物の比較(ビビアンやカンダタ,ルイーダ),モンスターの比較等々。ビビアンがこんなにシリーズ通して出演していたとか,本書で初めて知った人も,私を含めて多いのではないだろうか。

バトル・システム関連では,便利コマンドの歴史はシステムの進化が如実に現れていておもしろかった。ほかに毒沼・ダメージ床の変化,預かり所の変遷,戦闘コマンドの変化,4以降の「さくせん」の変化,パラメータの変遷など。そこに公式が踏み込んでいいの?と思ったものでは,メタル狩りの歴史なんていうのもあった。7はレベルを上げて物理で殴る」が効くから楽だとか,アリーナさんマジ最高とか,3はドラゴラムとか。読後に誰かと語り合いたくなること請け合い。

アイテム編では呪い装備の比較がおもしろかった。そういえばあまり気にしたことなかったが,言われてみれば確かに呪いの解き方が作品ごとによってぜんぜん違うのだ。各ゲームで最強の攻撃力を誇る武器の比較もある。当然最強はメタル系が多いと思いきや,実は4と5だけだったりする。個人的にドラクエというと伝説の武器が全然最強じゃないというイメージがあったのだが,システムが特殊な9を除くと1・3・6・8では主人公固有武器が最強であった。自分のイメージは周回プレイしてた5と7の影響だろうか。他にふんの比較,ラーの鏡・鍵シリーズの比較,下着・水着シリーズの比較など。ゼシカたんはぁはぁ。

呪文編では登場呪文の比較や威力・効果の比較,習得方法やエフェクトの違いなど。5ではヒャドが敵しか使えないなど,ここでもマニアックな情報が多い。興味深いのはやはりルーラの違いで,どんどんと便利になっていく様子がよくわかる。正直5以前の消費MP6やら8やらはだるかった。だったらキメラのつばさ買うよ的な。そして私はこの本で6以前と7以降ではダンジョン・屋内の判定が微妙に違うということを知った。本当に今さらな知識がよく頭に入ってくる本である。無論のことながら,パルプンテの比較もある。別項には特技や職業のもある。

最後にちいさなメダルやカジノなどの寄り道の比較と,裏技の一覧。ちいさなメダルは4や5の交換方式が嫌だったので,リメイク3で積立方式になったときにとても嬉しかった覚えがある。6はマップ全体をとうぞくのはなとレミラーマしまくったが,7以降はネットで調べたという時代の変化を思い出す。毎作思うのは,きせきのつるぎが安売りされすぎだろうと。どの作品でも集め始めて割とすぐに手に入ってラスダンまで使えるアイテムだ。裏技の歴史もメタル狩り同様今だから(そして公式攻略本ではないから)載せられるネタなんだろう,ロンダルキアの洞窟の落とし穴ネタや,ドラクエ5のカジノ・スライムレース必勝法など。

ドラクエシリーズ好きなら,買って損はない。是非に。


ドラゴンクエスト25thアニバーサリー 冒険の歴史書 (SE-MOOK)ドラゴンクエスト25thアニバーサリー 冒険の歴史書 (SE-MOOK)
販売元:スクウェア・エニックス
(2011-11-10)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年01月10日

第201回『きつねのはなし』森見登美彦著,新潮文庫

森見登美彦にしては珍しい,怪奇譚。珍しいとは言っても,時系列的には二作目にあたるので,当時としては「第一作の『太陽の塔』からがらりと作風を変えたな」という印象だったのだろう。

個人的にはあまり楽しめなかったのだが,amazon等の評判は高いので,単純に私だけ合わなかったのだろうと思う。その理由は,世間の評価が高いのを知ってから考えてみて気づいたのだが,端的に言って私はあまり怪奇譚を読み慣れていないというか,書物であまり怖がる性質ではないということが関係しているのではないかと思う。ホラー自体は割りと嫌いではないのだが,大概は映画やゲームで怖がったのであって,小説で怖がったことは振り返ってみるとない。『リング』シリーズは『ゼロ/バースデイ』まで含めて全部読んでいてかなり好きなのだが,実際のところあれも話の筋がおもしろかっただけで,怖かったわけではない。一方,映画の『リング』は絶望的に怖かった。話を筋を知ってても怖かったのだから相当なものだ。

本書も,誰もが書評でそう書いている通り,京都という場所の妖しさをうまく使い,暗い路地に魅入られてうっかり入り込むと出て来れなくなる雰囲気は巧みに表現されていると思う。その点では評価が高いのはわかる。しかし,私が小説で怖がらない点を考慮してもしっくりこなかったのは,描写がやや淡々としていて,また(森見作品ではいつものことだが)話が脇にそれて行ってから本筋になかなか戻ってこず,いつもならそれでもよいのだが,結果的に本作の「京都」に私が入り込みきれなかったのが原因だったのではないかと思う。情景描写が濃かったせいか,「水神」が一番入り込めた。特に「きつねのはなし」がそうだったのが,怖いとかおもしろいよりも,きつねの正体が気になりすぎて煙に巻かれたように感じられたのが,自分側の敗因ではないかと思う。

まあ,「いつもの」の正反対な森見が読めた,ということで。

きつねのはなしきつねのはなし
著者:森見 登美彦
販売元:新潮社
(2006-10-28)
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2011年11月30日

第200回『絶頂美術館』西岡文彦著,新潮文庫

「神は細部に宿る」とは言われても,細部であるからこそ気づきにくい。実際細部とはどこなのだ?というのを,うまいこと解説した本であると思う。タイトルやサブタイトルの「名画に隠されたエロス」の通り,中でも本書が焦点を当てているのは女性のエクスタシーであり,西洋美術史がいかに男性の欲望を気付かれないよう細部に込めてきたかを解説している。

第一章からして「カバネルの《ヴィーナスの誕生》のヴィーナスは,なぜ足指がそりかえっているのか?」であり,そのほかの不自然な描写も含めて,ずばりこの絵は誕生のシーンに見せかけて実際にはエクスタシーのシーンを描いたものだからだと喝破する。その他,比較的メジャーな作品としてはアングルの《トルコ風呂》と《グランド・オダリスク》,ドラクロワの《サルダナパールの死》と《キオス島の虐殺》,クールベの《眠り》と《画家のアトリエ》,マネの《草上の昼食》と《オランピア》,ゴヤの両《マハ》。ややマイナーなところではアルマ=タデマ,ジェロームとブーグロー,ロセッティとミレイなどのラファエロ前派などである。

細部にこだわった解説だから敷居が高いかというとそうではなく,むしろ非常に平易な書き方をしているため,ある程度詳しい人から全くの初心者まで幅広く楽しめる作りになっている。あとがきで触れられているように,著者はNHKの「日曜美術館」やテレビ東京の「誰でもピカソ」などテレビ番組の企画・制作に長年携わってきた方であるため,そこらへんのさじ加減は心得たものであったのだろう。「西洋美術は男女ともにやたらめったら裸なのはなぜなのか」とか,「マネの《草上の昼食》はどこがスキャンダルになったのか」など,基礎の基礎から徹底的に説明されている。ジェロームの《剣闘士》が映画『グラディエーター』のイメージソースになったことなどの小ネタが挟まれている点も良い。

ちょっと大胆に言いすぎなところがなきにしもあらずだけど(ロセッティが現代ヒロイン像を作ったと言われると違和感がある),まあ誤差範囲だろう。エロというド直球に惹きつけられて,美術に全く興味なかった人が手にとってくれると嬉しい本である。本書一冊だけでも,入り口としては十分すぎる情報量だろうし。

ついでに書くと,あとがきの文章には全力で同意する。批評や感想文を詩作や随筆と勘違いしている方は残念ながら時代遅れだと思うし,嫌いである。ましてや,平均的知性で読解できないものには,首をかしげざるを得ない。いかに「美術作品のパズル化」と避難されようが,ストイックな絵解き解説のほうが良心的と言えるのではないか。批評はその先にあるのだから。なお,本書の多くは1990年代の連載のリライトであり,筆者の先見の明は卓越していたように思う。


絶頂美術館―名画に隠されたエロス (新潮文庫)絶頂美術館―名画に隠されたエロス (新潮文庫)
著者:西岡 文彦
販売元:新潮社
(2011-10-28)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年11月21日

第199回『有頂天家族』森見登美彦著,幻冬舎文庫

今度はいつもの森見節の小説だろ,と思っていたら,その要素もあるものの,けっこうしんみりする人情話であった。そのせいか,文庫で420ページといつもよりもちょっと厚い。

舞台はいつも通りの現代の京都。ただし,京都には人間以外に狸と天狗が住んでいるという設定である。主人公の狸・下鴨矢三郎は苗字の通り,下鴨神社奥の糺ノ森に居住する狸である。これも森見読者にはおなじみであろう,とりわけ『四畳半神話大系』の舞台もまさに下鴨であった。設定もいつも通り共通しており,金曜倶楽部や偽電気ブラン,京都大学詭弁論部が登場する。特に金曜倶楽部のメンバーはおおよそ『夜は短し』と共通しており(李白は寿老人と推定される=高利貸しである点や偽電気ブランの元締めである点が共通しているため),先にこれらを読んでおくとより楽しめるかもしれない。また,逆に偽電気ブランの工場を運営しているのは狸であることが本作であきらかになるため,他作品で登場したときにニヤリとできるかもしれない。

タイトルの通り,主人公の家族である下鴨家を巡る騒動が本作の本筋である。これも,森見作品としては珍しいことに余分な横道にそれることなく,おおよそまっすぐ本筋を進んでいく。無論,この一家は狸であり,森見作品の登場キャラなので,言うまでもなく阿呆の塊である。阿呆ではあるのだが,本作の大騒動の発端となった事件が主人公の父である下鴨総一郎の死であり,下鴨家の家族愛もかなりストレートに描かれている。結果として,同じ阿呆でもずいぶんと哀愁の漂う阿呆さとなっており,笑いながら読めるシーンもあればしんみりするシーンもあり,簡単に笑い飛ばして終わることができるものではなく,本作はなかなか複雑な様相を見せる。そして,そこに潜むストレートな家族愛が,とても温かい。

シリアスな場面にあたって,普段阿呆な連中の本気が見せる哀愁や滑稽さという点では,同じ狸を描いた傑作であるジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』に似たものがあるかもしれない。そういったものを描くのに,狸は向いているのだろう。森見登美彦はこういうのも書けたのか,とちょっと驚いた。いつもとちょっと違う,けど大きくは違わない森見節をご覧あれ。


有頂天家族 (幻冬舎文庫)有頂天家族 (幻冬舎文庫)
著者:森見 登美彦
販売元:幻冬舎
(2010-08-05)
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2011年11月16日

第198回『美女と竹林』森見登美彦著,光文社

森見登美彦のエッセイ。タイトルを読んで「どうせ美女なんて出てこないんだろwwwww」と思い,前半半分読み終わったところで案の定だわざまぁって言ってたら突然登場してびびったでござるの巻。

エッセイではあるが,いつもの森見登美彦節はなんら変わらず健在である。一応,竹林の伐採を職場の同僚から請け負い,そこから話が展開していくはずだったのだが,実際のところ森見自身の多忙によりまるで竹林の伐採を行なっておらず,自然話も弁明中心になり,挙句の果てにはどんどん全く関係のない話にそれていき,(まるでイカ娘の侵略のごとき)適当極まりない扱いを受けるのが本作の竹林伐採の扱いである。伐採を除いた竹林自体の話はそれよりは話題に上るが,ここはまあそれなりにエッセイになっている。美女のほうは一瞬出てくるが,あとはまあ関係ない。取ってつけたように「美女と竹林は等価交換」とかいつもの調子で吹いているが,まあ平常営業である。

というように,基本的には竹林伐採に出かける余裕がないことに対する弁明からつながる妄想トークで,「それならお前,エッセイじゃなくても普段の小説と変わらんじゃないかい!」というツッコミが入ることは間違いない。「もしも、同作家の別の小説を知らずに最初にコレを手にしてしまったら、大変危険」ということを書いている書評があったが,全力で同意しておく。文章中で自ら『四畳半神話大系』のパロディをしているように,あらかじめ森見登美彦がどういった文章を書くかを知っている人向けのエッセイである。でなければ,どこまでがマジでどこからがギャグなのか判別がつくまい。

……しかし,多分本当は本当に,妄想エッセイにする予定はなくて,ちゃんと竹林伐採記をやりたかったんだろうなぁ。ちゃんと締切を守っている以上,本当はこの人スケジュール管理がしっかり出来てしまうんだろうけど,お人好しに仕事を請け負ううちに溜まっていって「この状況はそれはそれでおいしい」などと考えているうちに,半ば確信犯的にこういうエッセイになっていっただろうことは容易に想像できる。なお,80〜81ページの説明は,ある種の大学生の精神の描写としてこの上なく適切であるので必読である。これは,彼の小説読解にも役に立つだろう。

いやあ,いいよね竹林。私も大好きですよ。俺も週末遁世を流行させて,隣の庵のイケてる乙女と「世の捨て方」について議論したいわー。んで,かぐや姫発見したら結婚するわー。


美女と竹林 (光文社文庫)美女と竹林 (光文社文庫)
著者:森見 登美彦
販売元:光文社
(2010-12-09)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年11月05日

第197回『世界各国女傑列伝』山本昌弘著,社会評論社

本書は『ダメ人間の世界史』,及び『ダメ人間の日本史』の著者たちによる第四弾である。社会評論社の悪乗りはさらに続く。本書のコンセプトは明確で「全国家から一人ずつ女傑を挙げていく」というもの。全国家とは現代基準であるため,無論のことながら本来複数挙げられて然るべき国家もあり,逆にむりくり現代史の女性運動家・政治家からひねくり出さないとどうにもならない国家まで存在している。南スーダンまで含めて総勢194人,なかなかの大著である。

本書はまえがきにて,現代の国家という枠組が恣意的である点,しかしそこからひねりだされて作られた人為的な列伝であることは重々自覚していることが説明されており,そのようなミクロ国家や文字史料の希薄な国については,「その国の紙幣や切手になりそうな女傑は誰か」ということに重点を置いて楽しんで欲しいことが説明されている。結果的に,モナコはグレースケリーになっている。一方,もっと他に候補がたくさんいただろう中国は呂后だし,アメリカは吝嗇で有名な実業家ヘティ・グリーンが選ばれていて,メジャーな国家は逆に著者の趣味が出過ぎているとは言える。(アメリカならストウ夫人なりアメリア・イアハートなりのほうがよかったんじゃ。ヘティ・グリーンは奇をてらうにしても,正直インパクトに欠ける人選である。)

おもしろいのはコンセプトに則ったマイナー国家群で,アフリカや中南米,東欧となるとエヴァ・ペロンやハトシェプスト,ヤドヴィガのような例外を除くと多くの人物は全く知られていない。彼女らを大きく分けると,前近代の王朝においてなんらかの事情で活躍せざるを得ず,政治的に活躍させられた王族。もしくは,近現代において,民族運動や独立運動で活躍した政治家の2グループに分けられる。著者はどうも,探せる限り探して前者が見つからなかった場合,後者を紹介することにしているようだ。まあ,ジャンヌ・ダルクやエカチェリーナ2世のような存在がいる国のほうが少ない。なお,本邦を代表しているのは北条政子である。


世界各国女傑列伝―全独立国から代表的な女性を一人ずつ紹介世界各国女傑列伝―全独立国から代表的な女性を一人ずつ紹介
著者:山田 昌弘
販売元:社会評論社
(2011-09)
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2011年08月10日

第196回『地下室の手記』ドストエフスキー著,安岡治子訳,光文社古典新訳文庫

本書はドストエフスキー作品ながらどこかつまらないと思いながら読み進め,しっくり来ないまま訳者あとがきに出てきたナボコフの評を読んでその疑問が氷解した。「ドストエフスキーの主題,方法,語り口を,もっともよく描き出した一枚の絵」である。ドストエフスキーの小説はしばしば思想小説と呼ばれ,分類されるが,それは彼の思想面と,小説の物語性がうまく接続しているがゆえである。つまり,ドストエフスキーの小説のおもしろさは

1.小説としてのおもしろさ。意外とサスペンス色,ミステリー色が強く,伏線処理が巧み。
2.思想としてのおもしろさ。キリスト教やロシア愛郷主義に基づく。
3.思想と小説をつなげる巧みさ。隠喩の多用と鋭い人間描写。


の複合技である。しかし,本書は2に偏っており,小説としての工夫は薄い。伏線も何もあったもんじゃない展開で,2章構成のうち,1章は主人公が思うところを語りつくしただけ,2章は主人公が行き当たりばったり行動し,前半はぼっちだったのに見栄を張って学生時代の旧友の集まりに出て顰蹙を買い,後半は娼婦にらしくもない説教してブーメランと要約できてしまうだけのストーリーである。主人公の行動原理の説明やそれを受けた友人たちや娼婦の反応など,人間描写は流石の一言で,これは文句のつけようがない。特に主人公の性格はねじけきっており,内的思考力は高いのにプライドと自意識と自己弁護力が高すぎて身動きが取れない端から見ると哀れな人間の姿を描写しきっている。これは現代的な問題でもあり,人によっては非常に身につまされる話ではあるだろう。

が,鋭いだけで,主人公の台詞や説教の内容自体は著者の思想の駄々漏れであり,特に工夫がされているわけではない。直なだけに毒気は強いが,それも他の著作でドストエフスキーに触れていれば衝撃を受けるようなものでもなく,さしたるおもしろみはない。他の短編のような,長編を圧縮したようなものを期待すると大きく肩透かしを食らうと思う。

まあ,これも訳者あとがきに書かれているが,本書でドストエフスキーデビューする人は極稀だと思われるので,本書のせいでドストエフスキーを誤解する人はほとんどいないと思う。わかってて読むのであれば損はしない,が別にドストエフスキーに深入りする気がなければ特に読む必要もない,というのが本書の位置づけではないだろうか。


地下室の手記(光文社古典新訳文庫)地下室の手記(光文社古典新訳文庫)
著者:ドストエフスキー
販売元:光文社
(2007-05-10)
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2011年07月28日

第195回『新・現代歴史学の名著』樺山紘一編著,中公新書

本書は近年重要視される,20世紀後半から21世紀初頭にかけて書かれた歴史学の名著を紹介することで,現代の歴史学の推移や特徴をも紹介しようとするものである。本書の説明はそれぞれの専門家が書いたものだが非常に簡潔でわかりやすく,前書を読んでいない,史学史には明るくない読者であっても十分に読めるものであると思う。史学史の流れを追いたいという方であれば,自信をもってお勧めできる一冊である。ということは先に述べておきたい。

その上で以下に述べたいのは,本書が22年前に出た『現代歴史学の名著』の続編であるということだ(ゆえに書名に『新』がついている)。リストは全て入れ替わっており,この入れ替わり自体が歴史学の流れを非常によく示している。ぐぐって見たところ,この一覧を掲載するのが本書のレビューの様式美であるようだが,冗長になるので私はリンクを張って済ませることにする。


双方のリストを見て感じられる歴史学の変化として第一に,やはり20世紀の歴史学の主体はアナール学派だったのだなということが感じられた。『現代』のほうではマルク・ブロック,フェルナン・ブローデル,心性史という点で選出されているエリクソン等がリストに入っており,『新・現代』のほうではそれを継ぐ形でラデュリ,ル・ゴフ,ピエール・ノラが選出されている。また直接的にアナール学派ではなくとも社会史・経済史・心性史に近い分野からの紹介が多い。特にピエール・ノラはアナール学派の一区切りとして意義深い。

もう2点違いから感じられたことを挙げるとすると,まず19世紀的な大きな物語に対し,20世紀後半は小さな物語を語らざるをえない状況になっているということ。これに対し積極的な価値を認める意味合いで掲載されたのがギンズブルグだと思うのだが,一方それでも大きな物語を語る意識は残っているという点で,アナール学派内側からの視点としてル・ゴフが,外側からではニーダムが挙げられていると思われる。もう1点は,一国史的な視点が明確に後退し,代わりに構造主義的な視点が主流になっていること。これについてはやはりウォーラーステインとオブライエンの違いが一つの軸になっているのではないかと思う。

気になる点を挙げるとすれば,前書に比べてメンバーのやや格落ち感が否めないかもしれない。前書があまりにもそうそうたるメンバーではあるにせよ,クールズ,ダワー,メドヴェージェフあたりが今後時間の洗礼に耐え切れるのかなと思うと少々疑問である。やや考古学的な範疇ではあるにせよ,2000年代の人文書で世界で最も読まれたとされる『銃・病原菌・鉄』が入っていないのにも首を傾げる(本書でもっとも新しい速水融の著作が2002年,『銃・病原菌・鉄』の刊行はアメリカで1997年,日本では2000年)。無論歴史学の書ではないという異論はあるだろうが,であれば梅澤忠夫あたりにも疑問を持たねばならず,切りがないので大枠で収録しても良かったのではないか。


新・現代歴史学の名著―普遍から多様へ (中公新書)新・現代歴史学の名著―普遍から多様へ (中公新書)
著者:樺山 紘一
販売元:中央公論新社
(2010-03)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年07月14日

第194回『敗戦処理首脳列伝』麓直浩著,社会評論社

本書は『ダメ人間の世界史』,及び『ダメ人間の日本史』の著者による第三弾である。社会評論社の悪乗りは続く。が,本書は前二冊に比べるとかなり真面目じみたテーマを扱っている。タイトルの通り,敗戦が確定した状態で,前任者からその処理だけのために政権を移譲された人物,もしくは単純に敗戦処理を担当したため世界史に名が残ってしまった人物を紹介している。

400ページ近くあってかなり分厚い本だが,紹介している人物の数もかなり多いため,一人当たりの分量はそれほど多くない。また,マイナーな人物が含まれているとはいえ,扱われている戦争の説明にも大きく紙面を割いているが,これは余分であった。人物紹介と融合させてしまったほうが紙面がすっきりし,かつ一人当たりの説明も充実じたのではないか。一人当たりの説明が短かったせいか,文面が前二書と比べて非常に淡白で,どちらかというと事実の羅列が多い。amazonの書評にもある通り,『列伝』と名乗るのであれば,もっと筆者の人物評価を聞きたかったところである。

人物一覧を載せているブログがあったので,リンクを張らせてもらう。やや長く紹介されていたのはタレーランで,さすがに敗戦処理の英雄筆頭と言えるだろう。敗戦処理は一歩間違えると亡国となり,うまくいっても現状維持だから割りに合わない。やり方としても粛々と勝者にしたがって処理するか玉砕覚悟で最後の抵抗を見せるかくらいしかなく,中途半端な決断は本邦のWW2のごとく,ひどい結果しか生まない。結果的にタレーランやケマル・アタテュルクくらいしか,その筋で有名な人物が存在せず,本書もマイナーな人物だらけとなっている。それが本書の目的なのだから,それでいいのではあるが。第二次世界大戦の項目はさすがにそうそうたる面々で,マンネルヘイム,ペタン,バドリオ,デーニッツ,小磯国昭,鈴木貫太郎,東久邇宮稔彦と続く。彼らにも同情できたりできなかったり様々である。

発売してそれなりに経つのにぐぐってもあまり書評が出てこないというのは,売れてないということなんだろうか。


敗戦処理首脳列伝―祖国滅亡の危機に立ち向かった真の英雄たち敗戦処理首脳列伝―祖国滅亡の危機に立ち向かった真の英雄たち
著者:麓 直浩
販売元:社会評論社
(2011-05)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年07月13日

第193回『不朽の名画を読み解く』宮下規久朗編著,ナツメ社

久しぶりに入門書的なものでも読もうかと思いつつも,単なる入門書じゃつまらないなということで,偶然見つけた宮下規久朗編著のものを手にとってみた。その意味では,私の期待に応えてくれた本である。

編著という形になっているが,ご本人が書いたのは専門であるバロックのゾーンであろう。ここだけ極めて宮下規久朗色が強い。バロック章の冒頭の説明の「西洋美術の黄金時代」はまあいいとしても,ベラスケスを「西洋美術史上最高の天才」と評し,カラッチやボローニャ派,ティエポロにも極めて高評価を与えている。「フランスは圧倒的にイタリアの影響下にあり」というのはその通りだとしても,そのノリでそのまま「ロココは独立した様式というより,小規模なバロックというべきもの」と断じているのは,やはり入門書としては非常に独自性が高い。作品別の説明においても,カラッチの《バッカスとアリアドネ》を「世界三大壁画の一つ」とし(残り2つはラファエロのヴァティカン宮殿とミケランジェロのシスティーナ礼拝堂),《ラス・メニーナス》に至っては「世界最高の究極の名画」と持ち上げている。西洋美術飛び越えて世界最高言い出しちゃったよこの人……

そもそもバロック以外の部分でも独自性は高い。元々60しか選ばなかったら編集部に「せめてもう10足してくれ,日本人になじみのある作品で」と頼まれたらしいことがはしがきに書かれており,編集部の苦労が透けて見えるようである。実際には70しか紹介していないのではなくて,コラムという形でちまちまと増やしその倍くらいは紹介しているのだが,「これスルーしたのに,こっちは紹介するの?」ということがしばしば発生している。私はロレンツェッティの《善政の効果》を紹介した入門書を初めて見たし,ティエポロレベルでも入門書には載ってないことのほうが多い。一方,ミケランジェロの《最後の審判》やルノワールの《イレーヌ嬢》《ムーランドラギャレット》が載っていない(それぞれ《システィーナ礼拝堂天井画》,《舟遊びをする人々の昼食》)。ドガもバレエの作品じゃないし,クリムトも《接吻》ではない。

じゃあ印象派以降も気合が入ってるのかというとそうでもなく,前近代の画家は一人当たり4〜6ページとってあるのに対し,新古典主義以降はほとんどの画家が2ページで終わっている(モネ,セザンヌ,ゴッホ,ピカソの4人だけ例外)。20世紀は非常にすっきりしており,にもかかわらずウォーホルが《キャンベルスープ缶》じゃないという妙なこだわりは発揮されており,バーネット・ニューマンやフランク・ステラといったマイナーな画家も紹介されている。はっきり言って基準がまったくわからない。

総じて入門書としてではなく,宮下規久朗編著の概説書はこうなるのか,という気持ちで読むと吉である。


不朽の名画を読み解く不朽の名画を読み解く
著者:宮下 規久朗
販売元:ナツメ社
(2010-07-21)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年06月21日

第192.5回『悪霊(1)(2)』ドストエフスキー著,亀山郁夫訳,光文社古典新訳文庫

完結してないのにうっかり買ってしまい,読み通したはいいが物語があまりにも複雑で登場人物が多く,3巻が出るまでに内容を忘れそうであるため,半ば備忘録的に感想を残しておこうと思った。よって,ナンバリングは0.5回である。


論点は2つ。第一点。既読の『罪と罰』,『カラマーゾフの兄弟』でもそうだったが,ドストエフスキーは物語の雰囲気を作り出し,それをだれさせないまま維持することが巧みで,ストーリーテラーとしては(当たり前だが)超一流であるということを再確認した。ただし,物語の雰囲気はゆっくり創り上げていくタイプなので,どうしても冒頭は物語の方向性がつかめず,どこに連れていかれるのかわからない不安感がある。『カラマーゾフ』は遺作なだけあって,あれだけ長編であるにもかかわらず割とつかみはばっちりであったが,『罪と罰』はラスコーリニコフが実際に行動し始めるまでよくわからなかった。本作の場合はこの欠点がやや大きく,第1部の第1章は訳者が読書ガイドにも書いている通り,その後の展開の下地に過ぎず物語的には本筋とほとんど関係の無い描写が続く。真の主人公であるニコライ・スタヴローギンが登場するまでに100ページもかかるのは少々やり過ぎではないか。

その後も2章・3章は準備段階が続きどうしたものか,と戸惑うのが典型的な読者像ではないかと思うのだが,これだけじっくり雰囲気をつくってきただけあって,第1部のラスト,シャートフがスタヴローギンにグーパンチしたところから突然弾ける。第2部以降の『悪霊』の雰囲気は一言で言って狂騒以外何物でもないと思うが,第2部に入った途端,第1部の展開は全て嵐の前の静けさの演出に過ぎなかったのだということを悟らされ,かつ狂騒の雰囲気は収まるどころか次第に増していく。読んでいてこちらがはらはらさせられる,まだ何も事件が起きていないのに。無論狂騒の張本人はピョートル・ヴェルホヴェンスキーであり,第1部の時点ではスタヴローギンとともに「こういう悪目立ちする奴はいる」という程度の印象だったのに,第2部になって随分キャラが深くなった。こいつこそ紛れもなく悪霊だ。第3部はとうとういろいろ事件が起きていき,狂騒はクライマックスへと向かっていくわけだが,楽しみにしておく。と同時に,中短編ではこの方式で雰囲気作りができないわけで,どうしているのか気になった。次は『地下室の手記』でも読もうか。


もう一つは,ドストエフスキーは真っ当な恋愛描写ができないのではなかろうかと。これを某人には言ったら,「中二病的に女性を神格化させたらなかなかだけど,具体的な人として恋愛を書くのは苦手かも」という返答をもらった。これには完全に同意である。これはまあ美点というよりは欠点だと思うのだが,ドストエフスキーの場合,何を書かせても社会的になるか宗教的になってしまうところは多分あって,こと恋愛劇に限ればこれは相当余分な要素がくっついてしまっているのではないかと思う。おかげで本作でも足が悪く精神も病んでいるマリヤ・レビャートキナについては描写が豊富だが,ダーリヤやリーザについては特筆すべき動きがない。

前出の某人はついでに「そういうリアルな人の機微はチェーホフ先生に任せておきましょう」とも言っていた。まあチェーホフ読んだことがないので何とも言えないが,私が最近読んだものとしてはトルストイの描写の細かさとは大きな違いだなと思った。最後に。また足の悪い女のかよ。カラマーゾフとネタかぶってんよ(カラマーゾフのほうが後だけど)。


悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫)悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
(2010-09-09)
販売元:Amazon.co.jp
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悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
(2011-04-12)
販売元:Amazon.co.jp
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