2016年11月09日

『黄金のアデーレ 名画の帰還(原題:Woman in Gold)』

帝政末期のオーストリアの画家グスタフ・クリムトの代表作《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機佞歪垢蕕ウィーンのベルヴェデーレ美術館に飾られていた。しかし,本作はナチスがオーストリア併合(いわゆるアンシュルス)の際にユダヤ人の裕福な家庭から強奪したものであり,ベルヴェデーレ美術館に寄贈したのもナチスであった。しかも敗戦後の混乱によって元の所有権が有耶無耶になったまま,20世紀末(1998年)に至る。そこで,アメリカに亡命していたアデーレの姪マリア・アルトマンがオーストリア政府を相手取って訴訟を起こした。無謀と言われたこの訴訟は意外にもマリア・アルトマンの勝訴に終わり,最終的に2006年,オーストリア政府との間で調停が結ばれて,この名画はアメリカに移ることになる。現在はマリア・アルトマンが競売にかけて,購入した人物の持つ画廊に展示,公開されている。競売でついた価格は1億3500万ドル,当時の換算レートで約156億円であり,これは当時の絵画の最高落札額になる。

本作はこの事実に沿って制作されたノンフィクション映画であるが,完全に事実に沿ってストーリーが展開していくわけではなく,映画として映えるように,またマリア・アルトマン側が美化される形で脚色されている点は注意が必要である(脚色については記事末尾に後述)。事実と映画の相違点は英語なら比較サイトが豊富にあるが,日本語ではあまり存在していない。


この件について,オーストリア国民は「何かよくわからない経緯で,国宝級の絵画が強奪された」「しかも早々にオークションにかけられた,金目当ての強奪だった」という反応であったようで,事実よりもさらに原告寄りの目線で脚色された本作はなおのこと不評らしい。私も事実と映画の違いが気になっていろいろと調べてみたものの,その結果として言わせてもらうと,映画がオーストリア国民を悪役として描いていることとは無関係に(あるいは差し引いて見ても),この件と映画にかかわるオーストリア国民の反応は割りと見苦しい。若干ネタバレになるが,以下に本作の骨子である《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機佞僚衢権の変遷について簡単にまとめておくので,本作を見る気がない人も,読んでどちらに正当性があるか,ちょっと考えてみて欲しい。

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機佞魯織ぅ肇襪猟未螢▲如璽譟Ε屮蹈奪曄瓮丱Ε◆爾鬟皀妊襪防舛れた作品ではある。アデーレは遺言で「自分の肖像画は国家に寄贈し,ベルヴェデーレ美術館に飾られることを希望する」と書き残し,1925年に亡くなる。しかし,夫のフェルディナントは自分が亡くなってからの寄贈でよかろうと考え,手元に残していた。夫婦だからこの絵画作品は共有財産であるし,妻の形見と考えていたようである。話がややこしくなるのはここからで,その後の1938年にナチスがオーストリアを併合し,ユダヤ人であったこの家族から《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機佞鯔彈してしまい,そして奇しくもベルヴェデーレ美術館に寄贈してしまったということにある。

その後フェルディナントは1945年11月に亡命先のスイスで亡くなるが,その際の遺言で,遺産はアメリカに亡命した姪マリア・アルトマンを含めた何人かの親類に分け与えることとした。ただし,この時のフェルディナントは手持ちの財産が皆無で,莫大な財産をほとんどウィーンに置いてきていることから(しかもその全てはナチスに接収された),この遺言は手持ちの財産ではなくウィーンに置いてきた財産を指しているのは明白である。一方で,フェルディナントの遺言には《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機佞魎泙瓩審┣荳酩覆砲弔い督樟楔正擇なかった。これは「ウィーンでナチスに接収された財産」の中に含まれているから,わざわざ個別に言及しなかっただけのことであろう。また,大戦末期あるいは戦後直後の混乱の中で書かれた遺書であり,自分の財産がきちんと返還されるかわからない状態で書かれたものであるから,個別に事細かに言及する意味を感じなかったのかもしれない。

しかし,第二次世界大戦後のオーストリアは,《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機佞鬟侫Д襯妊ナントの相続人たちに返還せず,アデーレの遺言の存在を根拠に国有化し,そのままベルヴェデーレ美術館に展示し続けた。一応,オーストリア政府はフェルディナントの遺言の存在を知らなかった,という事情は加味されるべきかもしれない。また,1948年にフェルディナントの代理人を名乗る人物がオーストリア政府と交渉し,絵画返還の要求を行っているが,オーストリア政府はアデーレの遺言を持ち出して《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機佞魎泙犧酩雰欧亙峇圓靴覆った。結局,このフェルディナント氏の代理人はこのオーストリア政府の主張を認めてしまい,かなりの作品がオーストリア政府側に残ることになった。問題はこの代理人,フェルディナント氏本人が指名したのは間違いないようだが,彼がオーストリア政府と妥結したこと自体やその内容は,フェルディナントが遺言で指名した相続人たちに知らされておらず,しかも代理人は「相続人たちの同意の下に」と名乗って交渉していたということにある。この代理人の妥結の有効性は,当然後の争点になった。

そして1998年,オーストリアの有名なジャーナリストであるチェルニンが,ベルヴェデーレ美術館の書庫を調べていてフェルディナントの遺言を発見し,ロザンゼルス在住のマリア・アルトマンに連絡を取ったところから,事態は急転することになる。ここで,アデーレの遺言(と代理人の妥結)が優先されるか,フェルディナントの遺言が優先されるかという点で,オーストリア政府とマリア・アルトマンの主張が衝突することになった。


さて,私見だが,オーストリア側の敗訴は順当な結果だと思う。というかこの裁判の時に行ったオーストリア政府・美術館の主張が「アデーレの遺言に従って国有化しただけ」「歴史的経緯によって直接の寄贈者がナチスになってしまったが,“結果的に”アデーレの遺言に沿うことになったので問題ない」というのはちょっとひどくないですかね。この絵画の来歴の最大の問題点はナチスを経由したことである。美術作品の来歴は,作品の真贋にかかわるし,来歴自体が価値になることがあるから,極めて重要な要素である。アデーレが亡くなった時点ではナチス政権ではなかったし,彼らは間違いなくホロコーストの被害者である。ナチスによるオーストリア併合とホロコーストの不当性を論じることを回避して裁判を戦おうとすること自体,おこがましくないか。ナチスが絵画を接収の時点でアデーレの遺言は失効したと考えるのは自然な発想であるし,マリア・アルトマンへの返還は国家の贖罪という観点から言っても,正当であると思う。とすると,国家的贖罪を約60年も果たさず放置していたことのほうが,「金目当ての強奪」よりもよほど倫理的な悪ではないか。

ちなみに,私はブログ上で映画の批評を書く際に他者のレビューをそれなりの数読んでから書くことにしているが,日本人の反応として,従軍慰安婦問題と結びつけた上で本作を酷評したものが案の定さくっと見つかってしまい,何かもうこの世の邪悪の底を見た気分になった。


とまあ,映画自体の批評というよりも,映画周辺の話題に対する批評になってしまったが,最後に映画の出来自体を述べる。これは,おもしろいけど,さすがにちょっと原告側を美化しすぎではないか,と思わないでもない。美化せずとも原告側の正当性は保証されていたはずで,ゆえにこの美化は単純に「映画(映像)としての面白さ」を追求したものである。しかしどうにもやり過ぎ感があり,かえって真実味を削いでいるというか,外連味がありすぎるように思う。そこは残念。とはいえウィーンの風景は美しく,過去と現代の風景が入れ替わりながらストーリーが進んでいく様はなかなか見応えがあった。

なお,脚色が激しいのは確かである。たとえば,上述の代理人の妥結も映画では消されている。話がややこしくなって間延びするから削った可能性もあるが,原告側に不都合な部分であるのも確かである。また,実際には旧フェルディナント氏所有の絵画のうち1998年時点でベルヴェデーレ美術館が所蔵していたものは21点あり,うち16点は1999年の時点でマリア・アルトマンに返還されているという事実がある。5点が返還を拒否されたのは,この5点がアデーレの遺言で寄贈されたと判断されていたものであり,この5点の中に《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機佞盍泙泙譴討い拭この点も映画は一切返還しなかったかのように描いており,どころか美術館側の担当者を悪し様に描いていたが,これは明らかに映画の過剰な脚色である。
  

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2016年11月07日

『ブロークバック・マウンテン』

これは傑作。どのくらい傑作かというと『ショーシャンクの空に』クラスだと思う。明らかに私が見た映画の傑作トップ20には入る。トップ10に入れてもいいかもしれない。

有名な作品ではあるが2005年公開の作品であるし,あらすじを書いたほうが説明しやすいので,あらすじを書きながら要点をまとめていく。舞台はアメリカ中西部ワイオミング州,時代は1960年頃〜80年頃まで。主人公は二人のカウボーイの青年,ジャックとイニスである。彼らは夏の間ブロークバック・マウンテンで羊を放牧する季節労働を受ける。二人は雄大かつ過酷なロッキー山脈を,羊を連れて駆け抜けていく。仕事で協力する中で二人の間には友情が芽生える(ついでに一線も超える)。

結局二人は夏が終わって仕事も終わると離れ離れになり,連絡もとらないまま,4年の歳月が過ぎる。二人とも結婚して家庭を持ち子供ももうけたが,それぞれの事情によりどちらも幸せな家庭を築けたとは言えず,抑圧された生活を送っていた。そして4年経ったある日,ジャックがイニスを見つけ出して連絡を取り,二人は再会する。それから16年間,二人は何ヶ月かに一度会っては旅行に出かけ,再び友情(と愛情)を育んでいく。しかし,同性愛混じりのその友情は,保守的な社会の中では当然禁忌であり,それもあって二人の旅行先は必ず人目のつかないワイオミングの山中,ブロークバック・マウンテンだった。だが,はっきり言ってしまうと「人目を避けるため」というのは表向きの口実にすぎなかった。映画はストーリーを映像に語らせるのが真骨頂であるとするなら,本作は満点である。ブロークバック・マウンテンは,二人にとってはカウボーイでいられた若き日の思い出の場所であったことを,その自然の雄大な美しさをもって雄弁に語っていた。それは抑圧された家庭を持った二人にとって,何よりもかけがえのない思い出であった。本作が名作たる所以はいくつかあるが,その最大の理由を挙げるなら,間違いなく風景による心情の代弁であり,ロッキー山脈の美しさそれ自体でもある。(余談1:実際のロケ地自体はカナダだったそうだが,私は聞かなかったことにした。余談2:町山智浩氏はこの美しさをアダムとアダムと例えていたが,うんまあ,確かに森の妖精だったかな……。むしろニコニコ動画でアレを「アダムとアダム」や「森の妖精」と名付けた人は本作や町山氏の批評を知ってて付けたのなら,意外に趣深い。)

しかし,雄大な自然はただそこにあるだけで,鬱屈した現実を解決してくれるわけではない。16年続いた二人の交際は,ある事情によりあっけなく終わりを告げることになる。悲恋の物語だが,悲恋というだけで終わらせなかったので,非常に爽やかなエンディングとなっている。


本作で描かれているのは「二人の男性が長期間に渡って育んだ友情」であり,また「同性愛」である。一方で,同性愛の要素が無くても本作のストーリーは実はほとんど成立してしまう。友情のストーリーとして追っていくと,始まりからエンディングに至るまで,同性愛の部分を捨象しても十分に成り立ってしまうし,それでも本作は十分におもしろいのである。ではなぜ,本作はあえて同性愛を入れたのか。もちろん,アメリカ中西部の保守的で閉鎖的な社会を批判したかったという意図は無かったわけではなかろう。しかし,それ以上に友情と恋愛の垣根を取っ払って描写したかったというのが何よりの意図だったのだと思う。監督自身が「本作は普遍的なラブストーリー」と言っているように,逆転の発想で,何なら本作のストーリーは男女にしてしまって成立しないことはない(女性のカウボーイという存在が許されるのかは別問題として,あくまで筋だけ考えれば)。あえて言ってしまえば二人の関係は親友かつ恋人であり,そのいずれか片方ではないのである。

実はこの「友情の延長線上にある同性愛」という考え,私は百合ややおいに通じるものを見た。本作の公開年と奇しくも同じ2005年,『リリカルなのはA's』の誰だったかの評論で,「友情は過酷な戦闘を通じて恋愛との区別がつかなくなる……という発想を誘発する作品で,やおいを誘発する作品も同じ構造をしている」というのがあって,なるほどと思った記憶がある。当時ははてブなんて知らなかったので記録をとっていないのが残念である(そういえばはてブも2005年にサービス開始である)。『ブロークバック・マウンテン』を見て私が真っ先に思い出したのが,先の評論だったりする。


以下はネタバレで雑多に。  続きを読む
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2016年10月07日

『高慢と偏見とゾンビ』

イギリスの傑作古典小説『高慢と偏見』になぜかゾンビをつっこむという,どう考えても作者の頭がどうかしているパロディ(マッシュアップ)小説の映画化。原作の『高慢と偏見』が好きだったし,どうB級映画化したのかが気になったので見に行ったら,予想通りの面白さであった。

ストーリーの基本ラインは『高慢と偏見』の通り……と言いたいところだが,ゾンビが混入されているせいで後半は大きく捻じ曲げられていくことになる。というか前半も,本筋から外れていないだけで,原作では優雅なお茶会で姉妹が語り合うシーンがカンフーの修行しながら語り合うシーンに変わっているし,何よりダーシーが高慢さを捨ててリジーに愛を告白する(が,リジーの偏見により振られる)という原作屈指の名シーンもなぜかカンフーバトルになるというぶっ壊し具合で(私が見た劇場はここで観衆一同大爆笑であった),この映画最大の“加害者”はゾンビというよりカンフーだったのではないかと思う。

本作のゾンビ周りの設定は作中で語られるが,大体以下の通り。

・大航海時代により人間がゾンビ化する疫病が世界中に流行してしまい,人類は割りと存亡の危機。
・イギリスもゾンビ化によりロンドンが壊滅し,生き残った人々は郊外に館(というか要塞)を構えて生活している。
・この世界の淑女の嗜みは戦車道ならぬカンフー。
・この世界のグランドツアーはイタリアではなく,中国または日本へのカンフー修行。(私的にはここで一番爆笑した)
・この世界の教養はフランス語やラテン語ではなく,中国語と日本語。
・ゾンビにかじられると自分もゾンビ化する。
・ゾンビは頭を優先的にかじろうとする習性がある。(人間の脳が好物)
・頭をかじられてゾンビ化すると理性を失うが,その他の部位をかじられてゾンビ化した場合は理性が残る。
(したがって人間に擬態して社会に溶け込むゾンビが出てくる)

一番下に挙げた設定が意外と重要で,「理性を保ったゾンビは,ゾンビとして“貴族”である」「“貴族”ゾンビが統制すれば,ゾンビも秩序を形成できる」「“貴族”ゾンビとなら人類は共存できる」と主張する登場人物が現れ,これが原作の「高慢」要素に混ざる。また,実際に人間に擬態するゾンビが出てきて登場人物たちが互いに疑心暗鬼になり,それが本筋の「偏見」にかかわる。この設定のおかげで上手いこと原作とゾンビが融合できてしまったのではないかと思う。


原作の知識は当然あったほうがよく,今から読むなら光文社古典新訳文庫が読みやすくてよい。が,最悪の場合はWikipediaなりを読んでいけばよいかと思われる。




原作既読者に向けて興味を持たせることを言うと,

・原作の登場人物描写が非常に忠実に再現されていて,ミセス・ベネットとコリンズ牧師のウザさ,ダーシーとリジーの聡明さ,ビングリーのイケメン具合,リディアの俗っぽさ等,ピタリとはまった配役・演技・脚本になっている。
・大きな設定の変更は,ダーシーはゾンビ対策専門の軍属(階級は大佐)になっていることくらい。
・その中で,原作と一番描写の違う登場人物はウィカム。原作のウィカムはこんなにかっこよくなかった。
・本作のロンドンはすでにゾンビによって陥落している。原作ではロンボーン(ロングボーン)とロンドンの行き来があって,それが一つ登場人物たちのすれ違いの要因になっていたと思うが,本作もそれは健在。むしろロンドンがゾンビ化していることで,ビングリー一家がロンドンに帰ったあたりから原作から話がずれていくので注目してほしい。


ところで,ひょっとして自分が最年少だったのではと思うくらい観客の年齢層が高かったのがとても驚いた。まあ原作を読んでないと興味を惹かれないとは思うけど,高年齢層だと今度はゾンビに興味が持てないとは思われ,改めてどこの層を狙った映画なのかよくわからない,とその場で考え込んでしまった。結果的にはどちらかというと『高慢と偏見』のファン層に引っかかったようではあるが。
  
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2016年09月25日

映画評まとめて(『レゴムービー』他)

エロゲの感想同様に,ここ数年分のまとまった記事にならなかったものをまとめて。

扱っている作品は『ミネハハ』『レッドクリフ』『レゴムービー』『ステキな金縛り』。
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2016年08月22日

『シン・ゴジラ』感想

ネタバレ注意。

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2015年11月27日

『ガールズ&パンツァー劇場版』感想

円盤見直して細かいところを確認したい部分が多すぎるので,簡潔に箇条書きで。

・予告編を見てから行ったのだが,嘘予告すぎるでしょこれw。すでに劇場版を見てしまった人も,見てみると笑えると思う。本編の隠蔽っぷりに。


・120分もあったのはちょっと驚いたところで,パンフレットで水島監督が「1カットも無駄なシーンはないというところまで削った」と言っていたが,納得である。確かにギリギリまで削ぎ落とした感があって,むしろ引き伸ばせば余裕で前後編が作れたような。
・たとえばダージリンとオレンジペコが格言マニアなのに対して,アッサムはブリティッシュジョークマニアという設定があるのだけれど,劇場版ではアッサムのジョークが披露されなかった。これとかが削られたんだろう。

・話も映像もすごい映画で,長いこと待ったかいがあった。これでもかってくらい戦車が動くし,話も熱いし。あんなに大量のキャラが出てくるのに,どのキャラもほぼ見せ場があるのはすごいバランス配分。テレビシリーズを見てるなら必ず見に行くべき。

以下はネタバレ。

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2015年05月23日

明日の相撲は楽しみ

大相撲が荒れに荒れてて,優勝候補者が8人もいるので整理しておく。
3敗:白鵬・照ノ富士
4敗:日馬富士・稀勢の里・高安・魁聖・勢・嘉風

本割:白鵬VS日馬富士=70:30(本来はもっと白鵬の勝率が高いが,日馬富士が死力を尽くして戦うだろうというのと,白鵬の不調を鑑み)
照ノ富士VS碧山=80:20(ここまでの戦績は3-0で照ノ富士。正直照ノ富士が負けるとは思えない。)

白鵬・照ノ富士ともに本割勝利 → 決定戦で白鵬優勝:35%
白鵬・照ノ富士ともに本割勝利 → 決定戦で照ノ富士優勝:20%
本割で白鵬勝利・照ノ富士敗退 → 白鵬優勝:15%
本割で照ノ富士勝利・白鵬敗退 → 照ノ富士優勝:25%
両者本割で敗退 → 4敗勢X人(2〜8人)による決定戦(5%) → 白鵬優勝 3%,照ノ富士優勝1%,その他1%。その他のうち,0.5%が日馬富士,0.3%が稀勢の里,残りの0.2%が他の4人,というくらいじゃないかと思う。
意外と照ノ富士優勝&大関飛び級昇進とかいう展開,低くないんじゃないかと。白鵬劇的な35度目の優勝とか,決定戦で日馬富士or稀勢の里逆転優勝も歴史に残りそうだし,どうなって明日は歴史的な楽日になる。なぜ仕事先から明日の出頭が入ったのか理解に苦しむところだが職場で血の涙を流しつつ私は耐えているので,皆さんは両国かテレビの前で楽しんでください。普段は相撲を見ない方も,明日は午後16時半頃から1時間だけ見るとおもしろいかと思います。


・1度は行くべき! 「世界の桜の名所5選」 - ドイツの八重桜にパリの白い桜も(マイナビニュース)
→ パリに大ぶりの桜があるというのは『乙女理論とその周辺』というエロゲをクリアした人にはおそらく非常に衝撃的な話。『乙りろ2』が作られるなら是非とも拾って欲しいネタである。とはいえ,『乙りろ』のアーモンドの花びらを桜に見立てるのは,好きな演出だった。だからこそ『2』で本物が出てきたら感慨深そう。
→ ただ,ソー公園はパリ市のかなり外れの方で,『乙りろ』はリュクサンブール公園あたりのパリ中心部が舞台なのでけっこう難しいかも。『2』の舞台をあそこら辺にすれば解決する話ではあるが。


・かぐや姫の物語 感想その二 高畑勲監督は原作の良さを自己中心的に曲げたダメ映画 (玖足手帖-アニメ&創作-)
→ 自分も『竹取物語』なら飛鳥時代だろうに,なぜに平安時代(の後期)? と疑問に思ったのは確かだが,まあそれも高畑監督のオリジナリティかと納得していた。しかし,こうして読んでみると確かに単純に「雑」なだけだったのではないかと思う。なお,Wikipedia及び元記事では飛鳥時代ではなく「奈良時代初期」とあるが,貴公子のモデルのうち3人は710年より前に死んでるし,死んでなくても老人の域には達しているので,ありえない。これはこれで調べが足りない。というかWikipediaは何を論拠に奈良時代初期にしているんだろう。
→ 後段のダメ3・4・6は納得するところ(5は私に和歌の素養がないので判断できない)。まあ何より6だよねぇ。『竹取物語』における天皇は会いに行くところから富士山のエピソードまで含めて5人の貴公子とは違ったところを見せる印象深い存在で,それをああして投げ捨てるのはもったいない原作の潰し方だったと思う。不死の薬は出てきすらしない。
→ 今更ジブリに原始共産主義の何がええんや,と言うのは今更感があるが,『竹取物語』の翻案・アダプテーションとしてやりたかったことが“これ”か,というのは現在でも十分批評として成り立つと思う。


・ロ、ウクライナ政変で核使用準備 プーチン大統領が明かす(47NEWS)
→ けっこう驚いたが,「アメリカにとってのキューバ危機だったのでは」という意見を見てなるほどと。


・【算数】あなたは解ける?小4の問題が難し過ぎると話題に!(Togetter)
→ 一応自分も一瞬で解けたクチではあるが,ルート2とルート5を作ればよい → ルート2は2辺が1の直角二等辺三角形,ルート5は1・2の直角三角形で作れるという発想だったので,ピタゴラスの定理をおもいっきり使っていた。Togetterの下の方を見ればわかるが,ピタゴラスの定理を使わなくても作れるし,そうした幾何学的発想の方が小学4年生らしい解き方であろう。
→ ただまあ,この問題を三平方の定理を使って解く問題と想定するなら,先にルート2を求めさせる問題があって,ルート5を求めさせる問題が本丸という構成は,生徒の学習を深める手法として上手い。その意味で,小4の問題として,幾何学的な発想に限定させるのはもったいない気も。
→ それと,宿題としてはセーフだが,試験問題として出すならきっちり「斜めに線引いてもOK」って書いとかないと,後で不平を生徒は出てくるだろうなと思う。そこでその子供に「斜めという発想が出てこなかったお前が悪い」と言ってしまえばそこまでだが,そう責めることに教育的効果があるのかを考えると,先に明示して上げたほうがよかろう。
  
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2014年08月08日

華麗なるギャツビー(映画)

恥ずかしながら原作未読。レオナルド・ディカプリオ主演の方の映画である。ストーリーについては全く予備知識無しに見たので,新鮮ではあったのだが,原作との違いが気になってしまいストーリー面で真正面から評価するのをためらわれることになってしまったので,素直に原作を読んでから見るべきだったと若干後悔している。この辺は人によるのだと思うが,やはり自分の場合原作が気になるのであった。これが再確認できただけあって見た意味はあったかもしれない。本作はやや犠牲になる形になってしまったが。ネットでざっと感想を見た感じでは,原作におおよそ忠実であったようで,気にしすぎなのかもしれない。

狂乱のアメリカ1920年代という雰囲気はよく出てたと思う。引いた位置からカメラを高速で手前or奥に移動させてズームアップし,画面にインパクトを与える手法や,上空からの俯瞰からパンをしながら近づいていく手法は,よく知らなかったのだがこの監督の特徴らしい。なるほど,どの映画でもこのカメラを多用するのであれば,それは確かに強い特徴だろう。本作においては効果的に動いていたと思う。それでカメラが寄ったときに飛び出してくるのが露骨に趣味のよろしくないド派手な衣装や部屋の内装であり,テンポの早いダンスである。ギャツビーの屋敷で繰り広げられていた,そして実際のニューヨークでもよくあったのであろう乱痴気騒ぎの雰囲気はとてもよく伝わってきたし,本作の最大の見どころと言っていいかもしれない。

そうしたシーンの多い前半に対し,ギャツビーの正体と目的が明らかになるにつれてパーティーの回数は減っていき,作品はむしろ落ち着いた雰囲気を見せ始める。ストーリー的にはここからようやく動き出すので,ストーリー面を中心に見る人は映像にだまされることができずに飽きてしまうかもしれない。実際にそういう感想はいくつか見受けられた。私はうまいことだまされた側の人間なので,気にならなかったが。映像の派手さとストーリーの動きが,ギャツビーの正体が明かされることでスイッチし,昼と夜のように切り替わるのは構成としておもしろかった。

原作が有名ではあるのだが一応ネタバレは無しで言うと,ストーリーはわかりやすく,オチは割と早々に気づく。が,王道は王道だからこそおもしろいを地で行くので読めても問題ないし,むしろ予想通りの道を特急で駆け抜けてくれるので気持ちがいい。主人公ギャツビーは「華麗なる(the great)」とつくだけあって,超大金持ち・イケメン・陽気で派手好き・好感の持てる立ち居振る舞いと非の打ち所のない人物に見えるが,謎めいていてどこかに影を持っており,心の底では信用ならない人物にも見える。そうしたつかみどころのない人物像はレオナルド・ディカプリオにとってはまり役であった。彼と言えばずっと『タイタニック』のイメージしか無かったが,うまく年を取って貫禄が出てきたように思う。あまりにぴったりすぎてむしろレオナルド・ディカプリオ本人も心の底では信用ならない人物に見えてきたという自分の中での風評被害が生じてしまったが,そのうち『アビエイター』でも見て上書きしておこう。あと原作はそのうち,おいおい。


華麗なるギャツビー [Blu-ray]
レオナルド・ディカプリオ
ワーナー・ホーム・ビデオ
2014-05-02

  
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2014年08月05日

ヒトラーの贋札

ホロコーストを扱った映画の金字塔というと『シンドラーのリスト』で異論は無かろう。あの作品は強制収容所内の悲惨さを訴えた系統の作品であった。しかし,『シンドラーのリスト』があまりにも偉大すぎるため,以後のホロコースト作品は何かしらの工夫が必要になる。うまい具合に比較されることを避け,新たな作品像を打ち立てたのは『戦場のピアニスト』だと思う。あえて逃げまわるピアニストと破壊されるワルシャワ市内に焦点を当て,悲惨の強調される強制収容所は映さなかった。しかし,孤独極まる逃亡生活の苦しさや廃墟となったワルシャワの虚無感,そして哀愁漂うショパンの音楽と,ホロコーストの悲劇を示すには十分なインパクトを持った。『ライフイズビューティフル』は強制収容所が舞台の話ではあるが,主役を「楽しく生きよう」をモットーとするイタリア人にすることで,重く苦しい収容所生活の中に明るさを持ち込んで差別化しようとしていた。

さて,『ヒトラーの贋札』はどうだったかというと,「(比較的)厚遇されるユダヤ人」に焦点を当てることで差別化を図った,と言えるだろう。主人公は天才的な贋札造りの犯人で,それゆえに「ポンドやドルの贋札を作って連合国の経済を混乱させる」という作戦が発動されると,一躍厚遇される立場となった。作業場には他にも印刷工や画家志望の学生など,贋札造りに必要な技術の持ち主だったり手先が器用だったりする人々が集められ,「これだけの待遇を与えてやっているのだから,協力しろ」と迫ってくるわけである。協力すれば戦争は長引くし,協力しなければ元の収容所へ連れ戻されたり殺されたりする。結局,彼らは巧妙にボイコットしつつも,贋札造りに協力せざるをえないのである。

本作のハイライトは,誰しもが次のシーン群を挙げるだろう。一般のユダヤ人収容者の生活を,彼らが覗いてしまった場面や,無造作に殺害されるのを目撃してしまったシーンである。あからさまな分割統治ではあるが,自分たちが厚遇されているだけに,そして強制的にとはいえ協力してしまっているだけに,やりきれない気持ちが蔓延する。彼らは贋札造りに協力すべきであったのか否か,彼らに与えられた厚遇は許されざるものなのか。本作はその倫理的な答えを出さないし,また出ない類の問いであろう。しかし,主人公ソロヴィッチは,その倫理的問いと答えの間をかいくぐり,知恵と機転を働かせて,最適解を導いていく。極限状況で最後に勝利を得るのは個人の才知というのがひょっとしたら答えなのかもしれないと考えると,誤りではないがそれはそれで薄ら寒い。

なお,本作は実際に贋札造りに参加した人の自伝をベースにしている実話である。また,『ヒトラー最期の十二日間』と同じ制作会社ということを頭の片隅に入れておくと,さらにおもしろいかもしれない。


ヒトラーの贋札 [DVD]
カール・マルコヴィクス
東宝
2008-07-11


  
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2014年07月14日

テルマエ・ロマエ2

テルマエ・ロマエ1が好評だった理由を,そのまま2でも使った感じである。オペラ歌手のおっさんは相変わらずおもしろかったし,ウォシュレットはやっぱり出てきたし,ラテン語を話す日本人俳優に日本語字幕が付くカオスさ。電力を知らないので何でも奴隷がやってると思い込むオチは,原作だとルシウスが電力を知ってしまうのでできないギャグだ。

ストーリーは原作とかなり大きく違う。バイアエに温泉街を作れと言われるところまでは同じだが,原作ではルシウスの日本滞在時間が長く,最後にハドリアヌス帝が死ぬ(もちろんケイオニウスも死んでる)のに対し,劇場版ではルシウスの日本滞在時間は比較的短く,ローマでの陰謀劇に少しかかわっている。そしてハドリアヌスは最後まで健在で,死ぬのはケイオニウスだけである。ただ,死に際はかなりかっこいいので,見てない方はぜひ自分の目で確認して欲しい。

さて,好角家としては相撲の巡業が出てきたことや,力士の皆さんがグラディエーターとして出演していたことに言及せねばなるまい。思っていた以上にコロッセウムに溶け込んでて笑った。特に曙はかなり良い役を与えられていて,あんなにメジャー級の配役とは思ってもなかったので僥倖であった。グラディエーターではなく,本当に力士役として出演された方々としては富士東の演技が光っていたのでここに書いておく。力士というのは,完成された身体を見せるのが仕事という見方もできるので,曙にしろ琴欧洲にしろその他の力士たちにしろ,十全の役割を果たすことができたと言えるだろう。

一つだけ苦言を呈しておきたいのは,座布団を投げるのは禁止行為であるということ。作品中で,ローマのコロッセウムで観客たちが石を投げ込むのを危険な行為としてルシウスが不快に感じ,現代日本の相撲で座布団が投げ込まれるのを見て「これなら痛くない」と,座布団投げをコロッセウムに導入するシーンがある。別記事に書いた文章をそのまま再掲するが,座布団は勝利した力士に対する褒賞の意味合いで投げられるものであって敗北した力士へのブーイングではない。もともとは座布団ではなく,羽織を投げていた。その羽織には家紋が入っていたから,家紋を見て投げた観客を探し当て,後日羽織を返しに行くと,羽織と引き換えに祝儀を受け取った,という風習があった。しかし,普段着の洋装化により代わって座布団を投げるようになった。加えて言うと座布団投げは他の観客に当たると危険なので公式には禁止されている。館内アナウンスでも「大変危険ですから,座布団を投げないでください」と必ず流れる。風習だから黙認されているところがあるものの,国技館の側でも座布団を投げにくいものに変える計画があるし,すでに心ある観客は投げない。私自身投げない。

  
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2014年07月09日

『言の葉の庭』

なぜ新宿御苑でなくてはならなかったのか。「庭」は,特に都会の中の庭園は喧騒の中の憩いの場である。これは新宿御苑の場合,その意味合いはさらに強い。周囲を高層ビルに囲まれているが,新宿御苑自身も木々が多く,高層ビル群に対抗するかのごとく庭園を覆っている。結果的に庭園の中は外界から隔絶された空間となっている。それでも空を見上げると,木々の上から見下ろしてくる高層ビル群が見えてしまい,人によっては「せっかくの庭園の景観を高層ビルが壊している」と批判的であるが,私は逆だ。高層ビルが垣間見えるからこそ,新宿御苑の外界からの隔絶が際立つのである。

都内の他の庭園ではこうはいかない。六義園や清澄庭園では周囲に高層ビルがなく,そこが高評価ポイントではあるが,新宿御苑のような詩情とは別種である。また最近ではスカイツリーが見えてしまうので,そう完璧な景観でもなくなったように思う。浜離宮庭園は比較的新宿御苑に近いが,片側が海に面していて開放的である上に,池が大きすぎて樹木がそう多くない。小石川後楽園も高層ビルに囲まれていて樹木が多いものの,今度は庭園内の景観が充溢しすぎていて,心を休ませる場所というよりは「楽しむ」場所であると言える。芝離宮庭園も同様の理屈で,しっとりと落ち着いた雰囲気を推すのはやや苦しい。以上の理由から,本作の舞台は新宿御苑しか考えられないのである。(大阪や名古屋で探せばまだあるかもしれないが)


解題に近くなるが,「言の葉」は新宿御苑の木々の葉と,言葉のダブルミーニングである。木々は都会の喧騒からの守り手であり,傷ついた二人は木々に守られて言葉をかわし,庭園から巣立っていく。本作は主人公のモノローグがやたらと多く,それが「脚本がひどい」「映像で説明すべきところを全て言葉で説明しており,作劇として下手」と酷評を受けている。これはこれでまっとうな批判ではあるが,二つの点であまり意味がない批判と言えるかもしれない。まず,本作はモノローグである必要性があったとも言える。「幸せ」や「好き」という言葉は心のなかであれ発せられなくてはならなかった。あれらは自らの感情の確認であって,言葉という形で明確に表現される必要があった。それ自体が言葉の強みであり,情景描写で表現されるものではない。

もう一つは,そもそも新海誠の作品とは詩情を風景で描写することに命がかかっている作品であり,人間感情の描写やストーリーラインは二の次であり,詩情あふれる風景に対してかしずくものでしかない。だからそれらがうるさくてはいけないし,風景描写を邪魔することになってはいけないのである。本作の描く新宿御苑は,見慣れたものがこうも美しく描かれるのかと思えるほどに美しかった。ゆえに物語は至極単純で,かつ庭園が「都会の喧騒からの守護者」というのがストレートにわかるものでなくてはならず,かつ詩情を強調するためには詩=言葉そのものをダブルミーニングとして引っ張ってくる必要があった。そういうわけで,私は世間で言われているほど,ひどい脚本とは思わない。


さて,これで『星を追う子ども』を見れば新海誠監督作品はコンプリートなのだが,あまり好きそうな作品ではないのが。



  
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2014年05月08日

『たまこラブストーリー』

最初に劇場版のキービジュアルを見た時に「ビジュアルとタイトルから,ストーリーが全く想像できない」と書き,事前情報も「こっ恥ずかしい」「もち蔵ががんばる」ということだけ聞いて見に行った。前情報通りの,実にこっ恥ずかしくなるど直球の青春劇であった。というよりも,「たまこまーけっとでラブストーリーなんてできんの」という意外性を完全に逆手に取られた形であり,できてしまった上にその意外性で90分も引っ張られ,まっとうに感動させられては,参りましたと頭を下げるほかない。

まず,主にTVシリーズを見てない人へ。本作は『たまこまーけっと』というTVシリーズの劇場版であり,その設定とストーリーが下敷きになっている。人によっては「TVシリーズの方は見てなくても大丈夫」というが,私はできれば見てから見に行ったほうがいいと思う。一方,TVシリーズと劇場版では,作品の雰囲気は全く別物なので,TVシリーズがつまらなくても劇場版が楽しめる可能性はある。これは,TVシリーズを見たけどあっちはつまんなかった,ということで劇場版に二の足踏んでいる人にも全く同じことが言える。ぶっちゃけて言えば私の『たまこまーけっと』に対する評価も微妙であった。しかし,「たまこまーけっとでラブストーリーなんてできんの」と思っている人ほど,案外楽しめるのではないかと思う。

じゃあ,何がおもしろかったのかというと,単純に映画としてうまい。脚本も映像も実に丁寧に作ってある。ストーリーは単純に言ってしまえば,進路を決めなくてはならない高校3年生としての成長・変化と,恋愛を経験することによる成長・変化が絡んで話が進んでいくというありがちなものだが,進路の決定と恋心の絡め方が実にうまい。周囲の仲間たちは皆,何かを見つけて変わっていくのである。それに対して,たまこはどうするのか,どうしたいのか。彼女も90分かけて少しずつ変化を受け入れていく。彼女が詰まれば,周囲の変化がそのヒントになる。史織やかんな,何よりもち蔵の行動が,たまこのヒントになる。モノローグ少なく,なるべく映像に任せて進んでいくのでとても心地よい。お餅もバトンも糸電話も,実にいいキーアイテムであった。その他具体的に語るには,とても一度見ただけでは足りない。BD買ってから,メモ取りながらじっくりと観察したい。

さて,主要な登場キャラたちの中で少し立ち位置が違うのがあんことみどりの二人だ。なぜならこの二人,TVシリーズの方で先に話が終わっているから。あんこは高校3年生という点が強調される話の展開上,妹として影から見守っているという立ち位置が多い。しかし,みどりの方は違う。今回のみどりはTVシリーズであったあれやこれやが下敷きになって,狂言回しの役割を与えられているからだ。そう,なぜ彼女が狂言回しなのかが,TVシリーズを見てないと理解できないし,彼女が司会進行だからこそ本作は一層切ないのである。だから,私は見てから行くことを勧めたいのだ。鑑賞者の多くが感想で「みどりちゃんこそ幸せになってほしい」と言うそうだが,さもありなん。
  
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2014年05月03日

『リンカーン』(映画)

これは傑作。本作はアメリカ合衆国第16代大統領リンカーンを描いたものだが,生涯すべてを扱っているわけではない。どころか作中にゲティスバーグの演説のシーンもなければ,奴隷解放宣言のシーンもないのである。1865年1月のわずか1ヶ月間だけを極めて濃密に描いたのがこの映画だ。奴隷解放を法的に根拠づける憲法修正第13条の下院可決が1月31日のことで,南北戦争の終結は4月9日のことである。リンカーンがこの2つの難題に対してどう挑んだのかが,本作の焦点である。

作中でおおよそ説明されるものの,これらがいかに難題であったか列挙しておく。
・憲法修正には出席議員の2/3以上の賛成が必要だが,共和党が全員賛成したとしてもまだ20票足りない。
・共和党も一枚岩ではなく,解放は参政権を含めない法的平等にとどめたい保守派と,参政権なども含めたラディカルな解放を望む急進派に分かれていた。
・戦争終結してからゆっくり通せばいいのではないか,というとそれも違う。南部と妥協的に講和すればなし崩し的に奴隷制は残ってしまう可能性が高く,民主党のみならず共和党保守派も戦争が早期に終結するためなら憲法修正は必要ないと考えていた(奴隷解放をすれば南部が徹底抗戦に向かうため戦争終結が遠のく)。逆に言って,リンカーンにとっては南部に徹底抗戦してもらう必要があり,途中講和なんてもってのほかであったし,戦争中の可決でなければ意味が無かった。
・ところが戦争は北部の勝利で終結寸前であり,実際南部から和平交渉の特使が来てしまっていた。
これらには,南北戦争は実際には奴隷制が焦点というよりは,北部と南部の経済体制の違いに起因したものであったという背景知識があると理解しやすい。作中でも南部の政治家が「戦争と奴隷解放が南部の経済を破壊した」とリンカーンをなじるシーンが出てくる。ゆえに奴隷制の有無が戦争終結と直結してはいなかったのであり,勝利とは別に憲法の修正が必要だった理由もここにある。また,憲法修正第13条に先立って発表されていた奴隷解放宣言には国内における法的根拠が全くなく,諸外国に対して北部の正当性を喧伝したものに過ぎなかったため,国内の議論に対しては全くの無力であった。このことも知っていると,なおのこと憲法修正第13条の必要性が理解できよう。

これらに対してリンカーンはどうしたのか。急進派には「主張を抑えろ,今は法的平等で我慢してくれ」と説得し。保守派には「戦争終結には憲法修正が必要だ」と説得し,南部からの和平交渉特使を隠蔽。民主党には多数派工作で切り崩しを図る。次の選挙で落選濃厚な議員に対して,直接の実弾は使っていないが,落選後の職は斡旋するというグレーなやり方で。

本作のハイライトの一つは,リンカーンは南部からの特使の存在を隠蔽するための電報を打つシーンだ。彼は一度は正確な内容を打電するよう部下の技師に伝えるが,すぐに思い直して虚偽の電報を打つ。このときにリンカーンが「どんな手段を用いてでも憲法修正第13条を通す」という決意を固めたというのが明示される。ここからのリンカーンはすごい。あの手この手を尽くして最後の20票をかき集めていく。

本作は派手な戦争描写もないし歴史上有名なシーンがあるわけでもない。延々と続くのは議会での討議,リンカーン陣営が作戦会議を練っているシーンと,リンカーン本人やスタッフたちが裏工作に奔走しているシーンである。正直に言って地味だ。しかし,どの場面を見ても強い緊張感が漂い,それをリンカーンがジョークを言って和ませたり,叱咤激励してさらに引き締めたりと,硬軟織り交ぜてスタッフたちの士気を保っていく。本作の楽しむべきポイントはそうしたリンカーンのリーダーシップであって,つまるところ本作は偉大なるリーダーによる政治劇である。さすがはスピルバーグ監督というべきか,地味な政治劇がメリハリのある物語として楽しめるよう工夫を凝らしている。


一つ苦言を呈しておく。本作の世評を見るに「前提知識が無いから楽しめなかった」「アメリカ人ではないから,実感がわきづらい」というのがあるが,後者はまだしも前者は信じがたい。煽っているわけではない。実際,本作を楽しむのに必要な最低限の前提知識は
・共和党のリンカーン大統領が率いる北部が南北戦争に勝利し,その末期に憲法を修正して奴隷を法的に解放した。
というごくごく常識的なことだけである。後のことは作中でおおよそ説明される。にもかかわらずこうした世評が出てきたのは,要するに“地味な政治劇”が耐えられなかっただけではないか。もっと言えば,地味な政治劇を地味でなくするための工夫が感じ取れなかっただけではないかと思う。それはそれで正当な批評であって,合う合わないのあるところでもあるだろう。だからこそ,地味な政治劇が耐えられなかったのではなく,「自らの知識不足」に理由をすり替えるのは,あまり美しい行為とは思えない。もっと言えば,「政治劇が耐えられなかったこと」よりも「無知」の方がマシだと考える価値観は,私とは全く相容れない。


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2014-02-05

  
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2014年04月08日

劇場版アイドルマスター

偶然にも春香の誕生日に見に行っていた,ということに見終わってから気づいた。

正直に言えば満点という出来ではなく,不満点は無くは無い。特に作画について。ストーリーはどうしても好き嫌いもあるし,キャラの扱いは人数が多いから偏るのも致し方ないところがある。しかし,作画は劇場版なんだから。「おい,顔歪んでんぞ」というシーンがいくつかあって,とても残念であった。まあ,不満点は置いておこう。その上で,ストーリー面の話をする。

劇場版の春香たちは,TVシリーズでの艱難辛苦を乗り越えて設定的にもトップアイドルになってしまった。美希と春香はそれぞれステージに立つことの意味を考え直してそこに戻ってきた。千早は家族と正面から向き合い始めた。特にこの3人は物語の中核として,巻き起こした波乱の意味は大きかった。ただ,その中から今回リーダーに選ばれたのが春香なのは,極めて自然なことだ。箱○無印の頃から語られていることではあるが,それぞれの目指すアイドルのタイプは異なっている。しかし,3人の中で一番「アイドル」という概念自体にこだわりを持っているのは春香である。

逆説的にも,春香が一番ピンでやっていけるのである。だからこそ,箱○無印のあのエンディングになるのだから。美希はハニーがいないと成り立たないし,デレた千早なんて今回の劇場版で春香にべったりだったのが非常に象徴的である。春香と千早の対照では,どちらも「歌が好き」という気持ちが活動の根底にあるものの,春香は本当に「好き」の一心であるのに対し,千早は歌に人生をかけていて重い。この対比はアイマスだけに限ったものではなく,音楽はただ音楽であるべきか,人生や魂を乗せたものであるべきかというテーマは音楽を扱った作品では時々見られる。そうして見るに,「ハニー」も「歌」も必要とせず,ただステージとファンがいれば成り立ってしまう春香さんのアイドル像はとても透徹なのではないかと思う。

話が少々それたので,戻そう。そうして成長してきた彼女らだ。今更彼女らに内紛を起こしたりするのは不自然になる。しかし,ストーリーは盛り上げなければならぬ。だからミリマス勢が連れて来られたわけだ。しかし,それってもう765プロの面々はアイドルとして完成されすぎていて,アイドルの概念をテーマにしたストーリーでは中心になりえないということを提示してしまったのではあるまいか。無論,劇場版アイドルマスターの主人公は765プロの面々であって,さらに言えば春香であった。しかし,主人公格と中心は違うもので,ストーリーの焦点はあくまでミリマス勢バックダンサーズの成長である。重ねて言って,765プロの面々に(文字通り)スポットライトが当たっていなかったというわけではなく,むしろミリマス勢よりも出番が多かったし,キャラへの掘り下げもなされていた。春香以外の面々にも「先輩」としての姿がしっかり割り振られていたのは良かった点だ。しかし,それはあくまで「後輩を導く先輩アイドル」としての姿であって,成長する主体ではなかった。

要するに「そろそろ引退しろよ」というか「引退してもいいんだよ」といいますか,そういう空気が映画から漂っていなかったか。勘違いしないで欲しいのは,私はそれを批判しているわけではない。むしろ逆である。それはファンである自分にもある感情で,無論彼女らを嫌いになったわけではないし飽きたわけでもなく,いつまでも前線で活躍して欲しい。一方で,project im@sとしてはいじりにくい重鎮になってしまった感がある。アイマス3では,いよいよ「トップアイドル」として背景になるしかないのでは。バンナムの戦略としては,本当はim@sDSが出た段階で765プロの面々の背景化の布石を打っていたのだろうけど,あの段階ではまだ少々早かった。その意味で,この劇場版は再度の試金石だったと言えるのではないか。少なくとも私には納得の行く卒業式にはなった。

じゃあ次世代に引き継ぐぞというところで,ここが本作のおもしろいところであり,悩ましいところでもあった。何かと言えば,春香のリーダーとしてのやり方である。春香のやり方は一見優しいように見えて落伍者を認めないという実はとても厳しいスタイルだ。「アイドル」そのものにこだわりを持つ春香らしいもので,これはあの13人でやってる分にはうまく回る。それはTVシリーズや,ひいてはゲーム版という下積みがあるからで。良くも悪くも,あれが第一世代765プロだ。ああでなければ,あの13人じゃないとまで言っていい。じゃあミリマス勢が次世代かというと,これは私がミリマスをやっていないことを横に置いといても違和感はある。あの春香のスタイルをそのまま引き継ぐのは苦しいのではないかと思うし,あの劇場版からはそっくりそのまま受け継ぐんかなぁ……という印象しか受けなかったからだ。彼女らには彼女らのスタイルがあるのではないか。その上で,アイマス製作陣が「いや,あの春香のスタイルこそ,project im@s全体で貫かれる通奏低音だ」と言うのであれば,私はそれをじっくり見守るだけだ。

じゃあ彼女らが独自のスタイルを作るとして,それはどういうものになるか。それを考えるには,劇場版はあまりにも短くて素材が足りない。劇場版の放映時間が120分という限界,765プロの面々を掘り下げるのに必要な時間が長かったという制約があったのはわかるが,にしてもバックダンサーズの一人一人に対する掘り下げがあまりにも少なく,未プレイヤーとしては印象に残らないまま終わってしまったというのが正直な感想だ。未プレイヤーをミリマスに誘導する目的がこの劇場版にあったのだとしたら,それはあまり成功しているとは思えない。今後,バンナムがどういう戦略を取っていくのか,注目したい。  
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2013年11月10日

テルマエ・ロマエ(映画)

やっと見た。前評判通り,阿部寛他濃い面々のローマ人はそれほど違和感が無かった。これは配役の完全勝利である。賛否両論だった上戸彩の演じる女性の登場は,原作の終わった今となっては,これも違和感がない。映画が放映された当時の原作は女性が登場していなかったか,さつきが登場し始めた頃で,「映画のために女性を出した」と批判されたこともあった。しかし,終わってみれば原作のさつきと映画の女性は全く違う女性であり,これはこれでキャラが立っていた。ストーリーのオチも原作と違った。結局,あれは謂れ無き誹謗であった。この辺り,世評を気にせず見ることができたのは,遅れて見た唯一のメリットだったと言える。それにしても,当時の批判は,あれなんだったのか。

バカバカしい作品として振り切っていたのが功を奏していた。この点は誰からも異論あるまい。ルシウスが流されるたびに登場するイタリア人の歌手のおっさんは非常に良い味を出していた。オペラもイタリア語のものでそろえられており,それなりにこだわりを感じた。ウォシュレットのシーンではワンダーウェーブ洗浄のイメージ映像が出てきて爆笑したのだが,あれはTOTOから映像をもらってきたんだろうか。

原作からのストーリー変更も悪くなかった。原作では,オンドル小屋を建てて兵士を癒やすのはユダヤ属州の反乱になっていたが,映画ではパンノニア属州でのゲルマン人との戦争に変わっていた。この変更にともなって帝位継承が話に絡み,うまいこと原作よりも短く話を締めることができている。こういう映画はバカバカしさを優先し過ぎて考証をすっ飛ばしてしまいコケるというパターンをよく見るが,本作はこうるさい私から見ても史実をねじまげてる感は特に無かった。本筋がバカバカしい以上,こういうところで締めるのは案外と大事で,制作陣の気合が暗に伝わってくるところでもあるかなと。続編は期待して待ちたい。



  
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2013年10月30日

love is blind ―まどか☆マギカ劇場版[新編]感想・考察 ※ネタバレ

どうにもまとまらないので,箇条書き的に。完全ネタバレなので,折りたたむ。


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2013年10月22日

インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア

とあるニコマス動画に触発されて,15年ぶりくらいに見たくなって借りてきた。

古い映画なのであらすじの紹介はいたるところでされているが,一応書いておく。ある記者がサンフランシスコ在住のインタビューをするという形式で始まる。インタビューされる吸血鬼はルイ。今はサンフランシスコに住んでいるが,以前はニューオーリンズに住んでいた。彼が人間であった最後の年は1791年,当時の現地はスペイン領だが,ルイ自身はそれ以前から植民していたフランス系の,プランターの大富豪であった。妻を亡くして自暴自棄になっていた彼のところに,吸血鬼レスタトがやってくる。レスタトはルイを吸血鬼にしたが,ルイは人間としての良心が忘れられず,吸血鬼としての生活になかなかなじめなかった。そこでレスタトは,ルイの殺し損ねた少女クローディアを,戯れに吸血鬼にする。波乱はそこから始まる。以降のネタバレは本記事の最下段に隠す。


物語のテーマとしては,吸血鬼物としては比較的多いものの中でがんばって描いている部類だと思う。人間の捕食者として,人間を食料としてしか見ないか,そこに何かしらの葛藤が残るのか。アーマンドも言う。「吸血鬼は永遠の命を持っているが,それに耐えられず多くのものは死んでいく。」「享楽的であるだけでは,生きている意味が無い」。しかし,パリの有象無象は置いておくとしても,レスタトにも美学はあったわけで,でなければルイやクローディアを吸血鬼にはするまい。彼は単に享楽的であったのはなく,彼も”新大陸”で変化を求めていたのだ。が,ルイには理解されなかった。クローディアは二人の娘として,レスタトもルイも理解していた。だからこそ,レスタトに従い気の向くままに吸血行為を楽しんだ一方で,自分を吸血鬼にしたレスタトを恨み殺害にまで至った。そして,ルイがアーマンドに惹かれていくと,捨てられる恐怖から仲間を増やそうとした。妙に哲学的で,そもそも厭世的な理由から吸血鬼になったルイよりも,クローディアのほうが人間くさい吸血鬼だったと言えるかもしれない。

ルイを演じるのがブラッド・ピット,先輩吸血鬼レスタトを演じるのがトム・クルーズである。この二人が吸血シーンということでからみあうのだから,まあ耽美的・同性愛的である。ここまではまだ平凡といえば平凡なのだが,ここにクローディアが加わったことで絵面にも捻転が起きる。クローディアは,肉体的な幼さと,大人並みの人生経験,これに大人に対する憧憬が加わり,結果クローディアにとってのルイはパパであると同時に恋人にもなっていく。ルイとクローディアの擬似的な親子関係はそのまま近親相姦的なものに変わり,かつ少女性愛でもある。彼女がレスタトやアーマンドをも含めた三角・四角関係を作り出していくのだから,キーパーソンこの上ない。擬似同性愛・近親相姦・少女性愛・三角関係とこれだけねじれにねじれ,しかも性的情景に近似できる吸血シーンが乱舞するのだから,映像的にはすごいことになっている。にもかかわらず,実は通常の性交シーンが本作には一度もなく,どころか主要人物の身体が半裸になるシーンすら無く,抑制された結果として,余計に吸血シーンのエロさが目立つ結果となっている。この映像作りはすごい。というか,この映像作りのために,これだけ設定をねじくりまわした脚本(原作)がすごい。ゴシック・ホラーの名作である。


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2013年10月19日

アメイジング・グレイス(Amazing Grace)

ウィルバーフォースを主人公とした史劇の映画である。1782年から1807年の25年間に,ウィルバーフォースが行った奴隷貿易廃止運動を描く。イギリスの奴隷貿易廃止200年を記念して制作されたイギリス映画である。名曲『アメイジング・グレイス』は,奴隷船の元船長が改悛して作詞した歌詞が元になっており,作中でもウィルバーフォース本人が歌うなどしばしば引用されている。

題材からして勝っているような作品ではあるが,映画としての出来は手放しで賞賛できるものではないかと思う。フィルバーフォースの活動に焦点を当てた映画,というよりはその一点しか描いていないと言ったほうが正しい。映画の主眼はあくまでそこだけであった。ウィルバーフォースが政治の道に進むか聖職者になるか悩んだり,運動がうまく行かずに悩み苦しんでいる様子や,結婚してそこから立ち直る様子などが,最も時間を費やされていた。本作は徹底して奴隷制廃止についての映画ではなく,「ウィルバーフォース」という信念を貫き通した政治家の人生を描いた映画だったと言える。ここを勘違いして見ると肩透かしを食らうと思うし,私も食らった。

結果として本作は非常に地味な映画となっており,それ自体を批判するのは少々気が引ける。しかし,やはり「一人の男の人生を描く」には奴隷制廃止はテーマが重すぎたのではないかという違和感は,視聴している間終始拭えなかった。奴隷制の悲惨さを訴えるには,本作が映像作品であるにしては映像的な弱さが目立つ。奴隷がいためつけられているような映像は,長くは挿入されない。タイトルに使われたアメイジング・グレイスの制作秘話的な話があるかというと,その話はすぐに片付けられ,歌われるのもウィルバーフォースが1回だけで,これも序盤の場面である。重要なシーンで効果的に歌が使われているとは言いがたい。議会での巧みなやりとり・策謀が焦点かというとこれも中途半端で,無いわけではなかったが,主眼というほどではなかった。あくまで,ウィルバーフォースの人生を追った映画である。このことは理解した上で,ご視聴いただきたい。


それはそれとして,奴隷解放というとアメリカの南北戦争とリンカーンのイメージがあまりにも強く,イギリスはというと世界史をちゃんとやった人じゃないと知らないかもしれない。この映画の感想をいくつか読んでみると,けっこうな数の人が「南北戦争の60年も前にこんなことがあったなんて」ということに驚いており,その啓蒙・普及がなされただけでも本作が日本で公開された意義があったと言えるかもしれない。ちなみにフランスはフランス革命時に一度廃止されたがすぐに復活,完全廃止は1848年(二月革命)のこと。イギリスは最大の奴隷貿易国であった一方,廃止も早かった。また,イギリスが廃止に踏みきれた裏の事情として,経済の主力が奴隷と砂糖から,産業革命による工業製品(綿布)に変わりつつある時期であったことは映画に描かれなかったが指摘しておきたい。

ちなみに,1807年の段階では奴隷貿易が廃止されただけであり,その後もウィルバーフォースの活動は続いた。奴隷制度そのものの廃止は,貿易の廃止からさらに約25年かかり,1833年のこと。ウィルバーフォースはこの廃止がなされた直後に亡くなっており,映画の中の「彼は活動を通して若さと健康を失った」という言葉通り,彼の奴隷制廃止運動は障害を賭した仕事だったと言える。


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2013年08月04日

るろ剣の実写版についての短評

この間の金曜ロードショーでるろ剣の実写版が流れていたので,見たわけだが,あれはひどかった。「実写版にしてはがんばってた」という世評を聞いていたので,期待しすぎず警戒しすぎず見ていたのだが,個人的にはちょっと擁護できない。短く書くつもりがちょっと長くなったので,独立した記事にしておく。

ストーリー面については,基本的に論評を避けたい。テレビ放映版ではかなりカットされていたそうなので,言及してもしょうがなかろう。設定がばっさり変わっていたが,四乃森蒼紫をいないことにしつつ,鵜堂刃衛を観柳編のラスボスに据え,ついでに偽人斬り抜刀斎を名乗らせることで原作1話の展開も消化。そうして見ると,まずまず原作単行本1〜4巻を再構成したのではないか。左之助の登場だけどうにも不自然だったけど,まあそれくらいは。


問題は徹底的に殺陣である。あれは飛天御剣流ではない。ただの殺陣である上に,ただの殺陣としてもおもしろくなかった。まず,飛天御剣流は一対多に特化したため,読みの早さと最小限の動きで最速最多殺を目指す剣術である。だから,原作の剣心は一振りで三人倒す,避けつつ切り返す,移動しつつ切る等,特に雑魚を散らすときは効率の良い動き方をしている。そこへ行くと実写版は,殺陣としては派手だったけど無駄な動きが多すぎた。一振りで三人倒すどころか一人倒すのに何度も切りかかっているし,避けるだけで攻撃は別アクション,避けてる間に相手にイニシアチブをとられる,敵前で無駄に走り回るという……特に一撃で倒せてないのはひどい。「逆刃刀でない限り確実に惨殺する剣術」じゃなかったんですかね。

加えて体術を使い過ぎである。原作の剣心が徒手空拳に頼ったのは,蒼紫の小太刀を白刃取りしたときくらいである。剣心は細身なので体術使用は向かない。この辺,師匠の比古清十郎,ライバルの蒼紫や斎藤一が体術(拳法)にもたけているのとは対照的だ。そういう設定がきちんとあるのだから,それを活かして欲しかったところだ。

ワイヤーアクションで飛び跳ねてるから飛天御剣流っぽいじゃん,ということに関しても同様のことが言える。剣心が飛び跳ねるのは主に龍槌閃や龍翔閃など,雑魚ではない相手を倒すための一撃必殺のため。もしくは間合いを取って仕切りなおすためであって,無駄な飛翔は少ない。ついでに言えばワイヤーアクションの出来自体良くなかったですよね。飛天御剣流じゃないけど,なんですかあの対空式の牙突は。あまりのひどさに呆然としてしまった。言及しちゃったので書くけど,牙突も間違っていた。劇場版では飛び立つ時点で左の刀を突き出し,そのままワイヤーで引っ張っていたが,原作の牙突は刀を持たない右手を前に構えたままの状態で突進し,相手の間合いに入ったところで左手の刀を突き出す。右手は照準をあわせる・間合いを量る,かつ反動をつけて威力を高めるためにそうしているのであり,直前に引っ込めるのでなければ意味が無い。ちゃんと構えの意味をわかってて殺陣作ったんですかね。

「原作」の飛天御剣流と「劇場版」の飛天御剣流は別物だとかいう反論は全く意味が無い。そもそも原作の飛天御剣流でなければ『るろうに剣心』である必要がない。劇場版のような殺陣がやりたかったのであれば,『るろ剣』を名乗らずにやればよかったのである。もう一つ,「逆刃刀でも打ちどころが悪かったら死ぬだろ。だったら体術のほうが不殺守りやすいんじゃね」という類の反論については,そういうのは15年前に戻って原作に対してするべきで今するものじゃないだろと。「原作の飛天御剣流を再現しても,絵にならないのでは」という意見については,唯一一考の余地があるものの,私は絵になったと思う。少なくとも私は飛天御剣流が見たかったのであって,ワイヤーアクションが時々入るただの殺陣を見たかったわけではないのである。
  
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2013年06月26日

キングダム・オブ・ヘブン

十字軍時代を扱った話。第三回十字軍の直前,サラディンによって退潮に向かう十字軍国家を描いている。史実は主人公のバリアン・オブ・イベリンを中心とした部分のみ大きく書き換えられており,塩野七生の『十字軍物語』の2巻でも史実との違いが大きく取り上げられていた。その本が今私の手元にないので確認ができないのが辛いところだが,割りと悪くない評価であったように思う。まあ,塩野七生自身こうした史実改変は多く行なっているので,悪くは書けまい。そういえば,私がボードゥアン4世の存在を知ったのも塩野七生の『十字軍物語』だが,知らずにこの映画を見ていたら大変に驚いていたことだろう。


物語の本筋は置いておくとして,十字軍時代の西欧の雰囲気はよく出ている映画だと思う。バリアンが西欧を出てパレスチナに到着するまでの描き方を見て感心した。当時の西欧は食糧増産・産業発展が著しく進んだ一方で,深刻なマルサスの罠を抱えており,人口の排出先が必要であった。とりわけ騎士の次男坊・三男坊は継ぐべき土地がなく,騎士甲冑は買えるがこのままでは領地に居場所がなくなるという状態であったから,腕っ節で土地を奪える十字軍やレコンキスタ,東方植民はうってつけであった。もちろん庶民でも状況は同じである。中にはバリアンのように,集落での居場所がなくなったから,という動機で行ったものも多かった。バリアンがまさにそうであったように,聖地に行けば宗教的にも救われると信じながらの移動であったに違いない。

ところが,イタリアに着いたあたりから様子が変わる。実際のパレスチナでは戦争なんてしていないのである。一攫千金の土地であることには変わりないが,それは”商人にとっての”という頭文字がつくのであった。ムスリムとの交流,特に東方の物産(絹織物や香辛料)を媒介した交易は莫大な利益を生んだ。作中でも市場がとても賑わっている様子がよく描かれていた。皮肉にも十字軍の最大の成果は東方貿易の拡大であり,聖地を手に入れたというよりは,交易拠点としての沿岸都市を手に入れたのが大きな価値を持つようになってしまった。無論,巡礼もキリスト教徒にとって重要な要素であった。だから,何も考える必要のない庶民であれば,念願の巡礼を済ませ,ついでに市場を楽しんで帰っていくことだろう。ひょっとしたら地元では十字軍に対する寄付なんかをして,異教徒は殺せ!なんて調子良く叫んでいるのかもしれない。

しかし,バリアンのように鋭い人間がこのような状況に直面すると,どうしてもこう考えてしまうのである。十字軍とは何か,聖地とは一体何なのか。バリアンは一度「無」だ,という結論に至る。それでも彼はイェルサレム王国の名門イベリン家の新当主である。騎士としてあるべき道を信じながら進んだ先は……というところまで至る,史実に沿った話の誘導が非常に巧みであった。なるほど,これはこういう設定を施したバリアンでなければ,主人公が務まるまい。最初から聖地にいる騎士では,そうした疑問を抱くまい。西欧側のことを知らず,ムスリムとの奇妙な共存が所与のものであるので,比較対象がなく悩む余地がないのである。最初から騎士であっても困る。完全に戦いに来たことになってしまうので,やはり悩む余地がない。急造の騎士としてパレスチナに降り立ったからこそ,バリアンは視聴者に違和感を与えず,思う存分悩むことができた。これは設定の勝利だろう。


バリアンが最後に得た結論についてはネタバレになってしまうので隠しておく。単純に戦争が派手で,物語もおもしろいので歴史とか何も考えずに楽しめてしまうのだが,むしろそういう映画だと思われて敬遠されているなら悲しいことだ。どうせならこの辺の時代背景も含めて楽しめると良いと思う。というか,今amazonやyahoo映画のレビューを読んだら「バリアンの動機付けが駆け足すぎてイミフ」という評をいくつか見たので,やっぱりそれなりの予習が必要かもしれない。

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2013年06月25日

アレクサンドリア(映画)

4世紀末,キリスト教徒が増加するアレクサンドリアで,大図書館(ムセイオン)が破壊され,科学が殺されていく経過を描いた作品……と書くと作品評としてダメだと思う。正確にはこうである。キリスト教徒が増加するアレクサンドリアで,古典古代の宗教が破壊されていく過程を描き,ついでに古代の科学も破壊される作品。これは実は見事で,単純な宗教VS科学にしなかったところは好感が持てる。

これに伴って,本作の悪役は言うまでもなくヴァンダリズムにいそしむキリスト教徒なのだが,一方的な悪役にしないことに注意が払われている。そもそもキリスト教が広まったのは古代ローマ社会の貧困層や奴隷から支持を集めた点であることが冒頭で描写される。しかも,大図書館が破壊される直接の契機となった乱闘は,多神教徒の側からの不意打ちである。多神教徒(裕福な層である)は,自分たちのほうが多数派であると勘違いしていた。だから,マジョリティの暴力で押さえ込めると思い込み,不意打ちという卑怯な行為を仕掛けた。ところが実際に乱闘を始めてみると,街角からキリスト教徒が出るわ出るわであっという間に逆襲されてしまう。そして堅牢な大図書館に閉じこもり,ローマ皇帝の裁定を待つこととなった。ところが,4世紀末ではローマ皇帝(作中ではテオドシウス帝)もすでにキリスト教に帰依しており,有利な裁定が出るはずもなく……と,徹底して多神教徒は「間抜けな金持ち」として描かれている。

ヒュパティア本人はあくまで科学者である。科学者というと近代の響きがするが,当時の自然哲学者の一人であり,自然現象や宇宙の原理を明かすことで神に近づこうとしたのであった。作中では明かされないが,史実の彼女は新プラトン主義の思想家でもあったそうなので,とても納得の行く行動である。彼女も多神教側には属していたが,このような態度であったため,女性であるということもあり戦いには全く加わらなかった。それでも大図書館を拠点に活動していた以上,争いに巻き込まれる。ここに,次第にキリスト教に惹かれていく奴隷,教え子たちとのラブストーリーも絡みつつ,物語は展開する。教え子たちもさまざまなで,結局皆時代の流れでキリスト教徒にはならざるをえないのだが,仮面キリスト教徒もいれば,大司教まで上り詰めた者もいた。その中で物語の鍵を握ったのはやはり奴隷で,奴隷としてそれを否定するキリスト教に惹かれつつも,ヒュパティアに学問の才も認められ,彼女自身にも惹かれていく……複雑な葛藤を抱えた彼の行動が物語を動かしていく。

本作では,科学が未熟な世界における「神の名において」という文句の強力さを,まざまざと見せつけられることになる。彼らが少数派であったうちは「カルトだ」と一笑に付すことができる。しかし,彼らがある程度の勢力になってくると,あらゆることが「神の名のもとに」正当化され,敵対勢力は理不尽な目に遭い,勢力を縮小させていく。内側の統制も同様で,仮面であるのは許されなくなっていく。自分たちが弱いうちは「神のもとの平等」を歌って社会的弱者を集め,数の暴力を「神の名において」で正当化する。本作をキリスト教徒の成り上がり物語としても見ることが可能だろう。


宗教戦争の傍らでは,本来の本筋であるヒュパティアの天文学の研究が進められていく。彼女の業績はほとんど残っていないので推測の域は出ないのだが,彼女が作中で持った疑問,それに対する研究の進め方,行き着いた結論はどれも不自然さがなく,「ありえそうだ」という範囲にとどまっている。公式サイトを見ると,ここは制作上かなりこだわったポイントであるようだが,成功したと言えるだろう。一応,見る前にアリスタルコスからケプラーに至る天文学史を大雑把に知っておいたほうが,ヒュパティアが何をしたかったのかわかりやすいと思う。

原題は『Agora』で,要するに古代ギリシア語の「広場」を指す。確かに本作は多神教徒とキリスト教徒の街の奪い合いであるから,そこに焦点を当てるなら正しい題だろう。また,アゴラを政治的場だと捉えてもしっくり来る。ある古代の一都市だけで起きた現象というわけではなく,こうした悲劇は油断すればいつだって起きるというメッセージから,アレクサンドリアに特定されるタイトルをつけるのは避けたのかもしれない。現在のキリスト教と古代中世のキリスト教は違うとはいえ,キリスト教徒が圧倒的多数派のスペインで制作され,欧州でヒットしたのだからそのメッセージ性は高い。が,私は日本語の題『アレクサンドリア』のほうが好きだ。古代都市アレクサンドリアに憧憬を持ちすぎなだけかもしれないが。

なお,本作が放映されたのは2009年。つまりエジプト革命の3年前である。そこではまたしても宗教が問題になったが,今度はキリスト教徒が圧倒的少数派であった。そう,これだけ横暴をほこったアレクサンドリアのキリスト教徒たちも,映画の時代から約250年後には,あっさりとムスリムに塗り替えられていくのであった。


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2013年06月20日

アンナと王様

ラーマ4世(モンクット王)の治世,彼は王子教育のためイギリス人の家庭教師をつけた。その女性家庭教師アンナと国王の交流を描いた作品。

なのだが,テーマが混在しすぎていて,うまくまとまっていない気がした。West meets East物(異文化衝突・交流物)としては,アンナがすでに慣れているので戸惑いが薄い。これは彼女が本国出身ではなく,インド出身であるためだ。実は,元ネタになったミュージカルでは本国出身で,異文化衝突の面が色濃いそうなのだが(見てないので伝聞),史実では本作のように彼女はインド出身であるため,史実に合わせたのだろう。作中,アンナがタイの風習を批判する場面が何度も出てくるが,それは「前近代的だから」という理由であり,「イギリスと違うから」という理由にはならないようにしていたように思う。しかし,近代化の方向が何か間違っているというべきか,アンナが言うのは「現代的」であるように感じた。アンナにイギリス本国の植民地主義を否定させるのはさすがにおかしかろう。時代考証がどうのというより不自然に感じた。

じゃあタイの近代化がテーマかというとそうでもなく。当たり前の話なのだが,アンナはあくまで王子の家庭教師であって,ラーマ4世の顧問政治家として招かれたわけではない。改革の成果を出すのはラーマ5世ことチュラロンコーンであり,この映画の時点ではまだ即位前の少年である。この映画中にタイはほとんど近代化しない。もっとも,史実ではアンナがラーマ5世に与えた影響はそれほど強くなかったようで,この点は脚色が入っている。それはおいといたとしても,この観点で見ると,本作のアンナはでしゃばりすぎである。ラーマ4世の寛容さに甘えて言いたい放題言っているようにしか見えない。貴女の本分は,確かに究極的な目標を見ると「タイの近代化」ではあるが,目の前の目標は「王子の教育」であって,政治の近代化ではないわけだ。もっとも,アンナがラーマ4世に口を出さなければ交流の機会が減り,王と家庭教師の交流は描けない。

では,国王と家庭教師の交流としてはどうだったかというと,これは中途半端とは逆にやりすぎた感が強い。2/3くらいまで見たところで「あ,これラブストーリーだったんだ」とようやく気がついた。で,驚いた。いやいやいや,ラーマ4世ほだされすぎでしょ。主演のジョディ・フォスターが美人すぎるせいもあって,それに惹かれたようにどうしても見えてしまう。精神的交流を描きたかったのであろうが,であれば無理にラブストーリーにする必要性は無かったのではないか。そのせいで交流が不自然になったように思えた。

とどめに,本作はある意味爆発オチと言っても嘘ではない。アンナが宮廷の陰謀に巻き込まれて最後は王様ともども割とピンチになるのだが,超展開と言うと言い過ぎにせよ突飛な展開をして最後は爆発する。なにそれこわい。あれってミュージカルのほうだとあったんだろうか,もっと言えば原著にあったんだろうか。全然知らないのだけれど,無いんじゃないかさすがに。


というわけで,金はかかってるしキャストも豪華で名演技,素材も良しで,どうしてこうなったのか真剣に悩むべき凡作だと思う。せめてテーマをぶらさず統一させ,あくまでWest meets East物にし,ラブストーリーではない友情にとどめておき,最後は妙な事件を持ってきて爆発させない,で名作になったように思う。ラーマ4世があの扱いでは,タイ国内で放映禁止されているのも納得である。ちなみに,制作時点で拒否されたので,今回使われたのはマレーシアで作ったセットだそうだ。本物と見間違える程度には,セットの再現度が高かったことは一応書いておく。

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2013年06月19日

アマデウス

1984年の映画。主人公はアントニオ・サリエリ,18世紀末から19世紀前半にかけて活躍した音楽家で,タイトルのアマデウスはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを指す。二人の交流が物語の主軸となる。

本作は天才モーツァルト,それには一歩及ばない秀才サリエリ,とその他の凡才の3つの区分がはっきりと示されている。秀才サリエリはモーツァルトにかなわないことに苦悩するが,これは単純に才能が追いつかないから,と見るのは少し違う気がした。結局のところ本作のサリエリがモーツァルトに嫉妬するのは,モーツァルトが「下品で世間知らずでいけ好かない若造」である”にもかかわらず”天才,というところだろう。モーツァルトが謙虚であったなら,このような脚本にはならない。また,史実はどうやらわりとそうだったようで,サリエリとモーツァルトの確執は後世の創作のようである。本作の,ではないのがサリエリの不幸で,モーツァルト暗殺疑惑は終生つきまとったようだ。この映画でサリエリが再評価されているのだから,皮肉なものである。

もう一つモーツァルトに欠点を挙げるとすると,それは相手を理解できるほどの天才ではなかった,という点だ。より完璧な天才なら,相手を見てそれにあった作品を提出できるはずである。そこで,芸術性だけを見てそこだけを追求し,「音が多い」と言われれば皇帝相手でも反論してしまう危うさがモーツァルトにはあった。確かに,モーツァルトやサリエリから見れば不要な音など存在しない状態であったのだろう。しかし芸術性が超越しすぎた結果,秀才のサリエリにしか通じない音楽しか作れなければそれはやはり偏った才能であり,より優れた天才とは言いがたい。その後の『フィガロの結婚』も『ドン・ジョバンニ』も,真価がわかったのはサリエリだけであった。それは本作のモーツァルトにおいては,無論謙虚さを欠いた結果でもあるのだが,同時に才能が欠如していたとも言えるのではないか。本作のモーツァルトは完璧な才能の持ち主ではなかった。


サリエリは確かにモーツァルトの立身出世を妨害した。が,サリエリが妨害しなかったからと言って本作のモーツァルトの人生が大きく変わったかというと,大差は無かったかのようにしか思えない。最終的な死因も,心因的なものを除けばサリエリが手を下したというわけでは全くなかった。だからこそ,サリエリの惨めさは際立つのではないかと思う。彼自身が言うように,サリエリの不幸は何重もの不運が重なって生まれたものだ。まずモーツァルトが音楽の才能以外ではどうしようもない奴だったこと。次にモーツァルトの才能は偏っていたこと。そしてモーツァルトの飛び抜けすぎた才能を理解できたのが,よりによって自分だけだったこと。さらに,モーツァルトを妨害できる立場に自身が立っていたこと。最後に,妨害しても結末にさしたる大差は無かったであろうこと。その全ての要因がモーツァルトには死を与え,サリエリには不幸を与えた。

このどれか一つでも欠けていればサリエリの人生は幾分マシだったに違いない。神にすがり神に音楽を捧げて努力してきた結末がこれでは,神を裏切りたくもなるし,裏切り切ることさえサリエリには許されなかった。サリエリにはレクイレムを共同で完成させるという罰が与えられた。なんとも恐ろしい話である。「アマデウス」とは見事な題だ。Gottliebではないのは,モーツァルトが民族主義者で,ドイツ語オペラにこだわっていただけにこれまた皮肉である。


最後に一点だけ。『魔笛』はモーツァルトがフリーメイソンであったために書かれた作品であり,ストーリーはイニシエーションをなぞったものになっている。また,モーツァルトに作曲を依頼した大衆オペラの座長もフリーメイソンの会員であった。本作ではこれらの描写が全くなく,単純に貧困・栄養失調・疲労困憊のまま『レクイレム』と並行して書かされたため,死因の一因になったという描写があるのみである。話がややこしくなるからカットしたのだと思う(ただでさえ本作は約180分もある)。もっと言うと『魔笛』の上演から『レクイレム』,及び死去まではややタイムラグがあるはずで,それをほぼ同時並行にしたのは本作の歴史改変である。本作はモーツァルトやサリエリの人格に史実改変が入っているので,時系列くらい今更ではあるが,フリーメイソンが関心分野であるので少し気になった。


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2013年06月10日

シュタゲ映画感想/最近買ったもの

・もやしもん12巻。久々に大学の研究室,発酵蔵を中心とした話が続く。こういう話のほうがもやしもんらしくて良いと思う。沢木の能力がちゃんと物語に絡んでいるし。日本酒製造の暗部に切り込んでいるあたりももやしもんらしい。新入生(予定)も登場し,年が明けてようやく時系列も進んできた。次巻はいよいよ2年生かな。そしてやっぱり最後は川浜が持って行って締め。
→ 特装版のおまけは,ここまで出てきた飲食物と,世界の発酵食品のまとめ。こうして見ると最初の方に出てきた食べ物はだいぶ忘れている。チーズとかハムとかもそのうち扱うのかね。


・ガールズ&パンツァー リトルアーミー1・2巻(完結)。なるほどこれは12話の前に読むべき。というかこれ読んでからアニメでのまほの振る舞いを思い返すと,いろいろとしっくり来る。
→ たとえば,トーナメント決めの後の喫茶店で会った時,まほは「まだ戦車道を続けているとは思わなかった」とだけ告げるそっけない態度だったが,確かにあそこはそうとしか振舞えまい。西住流を継ぐ者としてエリカを制止するわけにもいかず,かと言って気にかけている妹の非難に参加するわけにもいかず。プラウダ戦を観戦した時も,大洗を「実力がある」と認めつつ,「西住流の名にかけて,必ず叩き潰します」と言っている。彼女も複雑な立場である。
→ エミは今後の展開で,世界編があれば出てくるのだろう。ひょっとして劇場版はこれか。
→ ところで,本編の方の漫画版も欲しいのだけど,どこに行っても売ってないわamazonは高値ついてるわで入手困難になっている。というかBlu-rayも1・2・3巻あたりは同様の状態で……間違いなく需要があるだろうに,増産しないのか。


・ゆるゆり10巻・10.5巻。これはもう,相変わらずなもりのギャグセンスが光っているとしか。もう10巻なのにちっともだれないのは軽く凄い。多分誰もが書いていると思うが,64話のラストが10巻のハイライト。何あれ卑怯。この後に起こる惨劇をあえて描かなかったのはすばらしい。
→ その他各話。67話もすばらしい。ギャグセンスでは似たような方向の結衣と綾乃を会話させるとこうなる,という。「今のはなかったことに白えび」の結衣がかわいすぎる。ゆるゆりのカップリングの可能性は無限大やでぇ。68話のアイススケートの話は,かっこいいことは大体できてしまう結衣,天才肌なんだけど一夜漬け体質な京子という対比が綺麗で良い。あと\アッカリーン/していたアンケートハガキにも一応つっこんでおく,読めないだろ。
→ 10.5巻のほうは,なぜ11巻にしなかったのかという疑問はある。それぞれの姉妹にスポットライトを当てているから純粋な本編ではない,ということなんだろうが,あまり気にすることでもなかったと思う。こちらも本編通り。こうした漫画はキャラを増やすと話が拡散してとっちらかりがちだが,増えたキャラがなるべくメイン4人と絡むことで話の拡散を避けているのではなかろうか。というよりも,根本的にゆるゆりという作品は京子を主軸に回っているので,最終的には京子との絡みができるように話をつなげていっているのだろう。10.5巻の最終話はこの点がよく現れている。
→ で,来月頭にもいろいろと出て,再来月頭は大室家の1巻が出るらしい。続くのう。


・少し前になるが,シュタゲの劇場版を見に行ったので記録しておく。(ネタバレ注意)
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2013年03月29日

英国王のスピーチ

ジョージ6世というと暗黒王のイメージしかないのは某ゲームのせい,というか大英帝国騒乱記のせいだが,史実のジョージ6世は立派な人物であった。そんな英国王を描いた名作の映画として名高いのが本作である。

ジョージ6世は吃音であった。どもるのもそうだが,それ以上にそもそも言葉が出てこないのである。それも多くの人前やラジオの前になると,途端にひどくなる。しかしその症状故に,現代であれば心因性のものと想像がつくが,当時の医療水準にあっては予想がつかないのも仕方のない話であった。数々の言語障害の医者にあたるが,全く成果の出ないジョージ6世とそれを心配する妻であったが,ある日オーストラリア出身,かつあからさまに風体の胡散臭い医者ライオネルに出会う。彼が吃音の原因は心因性であるということを見抜き,治療にあたることになった。この医者が吃音を改善させることになるとは,当時の夫妻には想像つかなかったであろう。そうして吃音は改善されていき,最後の第二次世界大戦を告げるスピーチでは一度もつまらずに終わる,という筋書きである。

治療に並行して,ジョージ6世の即位過程も描かれる。歴史好きの多くは知っていることだが,彼は次男であり,当初は後継者として扱われていなかった。しかし彼の兄エドワード8世は人妻に恋してしまい,当然そのことは国教会の首長でもある英国王として不適格とされてしまう。「王冠を賭けた恋」と言われたこの事件は,結局エドワードの退位で幕を下ろす。結果的にお鉢が回ってきたのがジョージ6世であった。史実でも彼は自分には向かないと言っていたそうだが,この映画でも再三自分が国王の器ではないことを妻に漏らしている。しかし,妻やライオネルに励まされて次第に国王としての自信をつけていく。本作が描いたテーマは,一つが平民(医者)と国王の対等な友情の物語であり,もう一つは国王の器というものであろう。立憲君主制下で,「君臨すれども統治せず」の国王はいかにあるべきか。父王ジョージ5世は「いまや国王は道化だ」とし,国民の機嫌を取り続けなければ生き残れない,とジョージ6世に諭していた。兄のエドワード8世はそんな損な役回りをかなぐりすてて退位した。それでもジョージ6世の示した道は心で国民を導く者としての国王の姿であった。この姿をスピーチの成功と重ね合わせて見せたことで,この映画は成功したと言える。

本作はかなりの部分で史実に沿っているが,Wikipediaにもあるようにいくつかの部分で史実と異なる。映画ではライオネルにかかった期間はかなり短く設定されているが,史実では開戦のスピーチの時点ですでに10年来の付き合いであった。また,本作でのチャーチルはジョージ6世に即位を促しているが,当時の保守党は党全体としてエドワード8世の退位に慎重であり,最終的に決断したボールドウィンも苦渋の選択であったと思われる。ついでに言えばボールドウィンは首相を辞任した際にジョージ6世に「ヒトラーは開戦を望んでいる,戦争は避けられない」と語っているが,実際にはその時点でのイギリスはいまだ宥和政策を継続する意志であり,ボールドウィンの後継ネヴィル=チェンバレンがミュンヘン会談を主導したのは有名な話だ。しかし,本作ではミュンヘン会談の話は一切出てこず,むしろジョージ6世がヒトラーの演説を見て「彼は演説がうまい」とうらやましそうに感想を一言述べているのが,唯一のヒトラーの登場シーンである。しかも即位後もジョージ6世にアドバイスするのは海軍大臣となったチャーチルであって首相ではないので,本作におけるチェンバレンの影は極めて薄い。歴史に疎いものが見たら,相当にイギリス史を誤解しそうではある。

無論のことながらこのシーンには,演説で国民を扇動する,伝統と正統性を欠いた独裁者の姿と,朴訥でも誠実でかつ伝統を背負った英国王という対比の演出である。また,ただでさえ2時間ギリギリに詰め込んだのに,この上ミュンヘン会談だのを入れて戦争への足音が近づいてくるシーンなんて入れたら,映画が2時間半の長さになってしまう等の事情もわかっているので,文句を言っているわけではないことを一応書いておく。

  
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2013年03月28日

黒猫・白猫(映画)

はてな村及びtwitter上の某知り合いに勧められて見た映画。本作は映画の内容よりも,その音楽で有名である。

  

ニコニコ動画にアカウントの無い人はYouTubeでも同様の動画があるので,そちらで視聴できる。まあ本作は退職と何の関係もないので風評被害この上ないのだが,それはそれとしてこの曲を退職のテーマに使った人はセンス良いと思う。この映画自体が常に躁状態でテンション高く,自由極まりない映画だからだ。まさにこれからやめて自由になる人にはうってつけの曲である。ちなみにこの曲,主人公の祖父が退院した時に流れるのが初出で(アレンジ版は先に流れる),退院と言っても全く治ってないのに,肝臓を痛めて入院しているのにもかかわらず,「酒が飲みたいから」の自主的な退院である。退院した祖父はおもいっきり飲みながら,この曲を背景に高らかに「人生はすばらしい!」と叫ぶ。本作の名シーンの一つである。

舞台はブルガリア・セルビア国境付近のドナウ川沿い,登場人物のほとんどはロマである。曲も上記のテーマソング含めロマ音楽になっている(らしい)。ストーリーは,ある密輸商の息子が主人公(ザーレ)。この主人公の親父(マトゥコ)がろくでなしで,祖父は隠居しており裕福な名士である。ろくでなしの親父は「祖父は死んだ」と嘘をつき,祖父の友人であったマフィアのボス(ゴッドファーザー)に金を無心に行く。その大金(香典)を元手に新興マフィアのダダンと列車強盗を起こすが,これが見事に失敗。無一文の借金漬けになったマトゥコはいよいよ困り果て,ダダンの売れ残りの妹と息子の結婚を勝手に約束し,事実上息子を売り払って借金を返済した。こうして無理やり結婚させられる羽目になった主人公であったが,望まれぬ結婚の行く末やいかに……という感じである。

音楽もハイテンションならストーリーもハチャメチャで,やたらめったら登場する動物たちにナンセンスな現象もそれに一役を買っている。タイトルの通り黒猫・白猫のカップルもなかなかやらかしてくれるが,何よりストーリーが進むにつれて腐食した自動車を食い進める豚が,存在の謎にやってることの謎も加わって強烈なインパクトを残していった。だが,それでいて張った伏線はきちんと回収して大団円になる。見て損はない映画。

三世代の物語で,基本的に祖父(主人公の祖父・ゴッドファーザー・ヒロインの祖母)は立派な人物,主人公の世代(主人公ザーレ・ゴッドファーザーの孫・ダダンの妹・ヒロイン)もかっこいい人たちが多いのだが,間に挟まれた親父世代(主人公の父親・ダダン)はろくでなしばかりである。一攫千金狙いで下手な悪巧みとギャンブルにしか目がない親父世代は,最初「愛すべき馬鹿」だったが次第に「許せない小悪党」になっていく。それだけに終盤はなかなかの爽快感がある。祖父世代の友情と,孫世代の前途に,乾杯。
  
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2013年02月24日

映画版『天地明察』

原作の書評はこちらに。さて,その映画版である。褒めるべき部分と批判すべき点がある。

先に褒めるべき点から行こう。言うまでもないが,映像美はすばらしかった。天体を扱うものだけに映像は重要で,特に北極出地のシーンなんかは映像化したかいがあったものであった。文章ではどうしても説明しづらい天体観測の器具や実際の日食の様子などは映像のほうが圧倒的に適している。配役についても申し分ない。メイン二人の岡田准一・宮崎あおいを始めとして,関孝和も徳川光圀も違和感のない配役ばかりであり,誰それの演技がつたなかったというとこもなかった。これは原作のある映画ではなかなか無いことで,大いに称賛されてよい。特にあの渋川春海は演じづらかったであろうが,よく原作の雰囲気が出ていた。後述するように瑕疵の大きい脚本だが,最終的に「原作とは別物」とはギリギリで言いがたく,一方的な批判をしづらいのはこの辺りの美点が大きいためだ。

さて,その脚本というかシナリオ改変の話だが,原作が長すぎたということはわかる。2時間半というやや長めの尺でも厳しかったというのはよくわかるので,いろいろな要素をばっさり省いたこと自体は別に批判する気はないし,うまいこと削ったなと思える部分も多い。たとえば,原作の渋川春海は実際には二度結婚しているわけだが,映画では最初からえんと結ばれている。これはわかりやすさのために仕方のない改変と言えよう。序盤の酒井忠清,後半の徳川綱吉・堀田正俊・山鹿素行あたりをばっさり削り,江戸城中の政治的変化という映画では見せづらい部分もばっさりいっているが,これも英断であった。こんなところを説明していたら3時間でも足りないし,そんな絵にもならないシーンを映すなら北極出地の時間を1分でも増やすべきだろう,というのは納得できる話だ。

じゃあ何がダメだったかというと,いろいろ削ったにもかかわらず,全体としては案の定「ダイジェスト」を超えるものにはなっていない。そもそも原作からして詰め込み過ぎた感はあって,一つ一つのテーマは明確ながら,メインはどれなのかというような状態ではあった。だからこそ,そのアダプテーションはすっきりしたものにするべきであって,必要最低限のイベント以外はカットするという手段をとるべきであった。もちろん,それで不満に思う原作読者も出てくると思うが,無難に終わらせようとした結果としてダイジェストでしかない現状よりはマシだったと思う。特に保科正之まわりは削られすぎて,どうして支援してくれているのか映画だけだと把握できない状態であった。

しかも,いろいろ削った割に,無理にエンタメにしようとして原作にはなかったものが追加されているのだから,これを増やすくらいなら削らずに済んだ部分あっただろ,という感想になるのは致し方あるまい。これが良ければ「原作とは違ったけど,削ったかいがあった」で済んだのだが,2つほどどうしようもないのがあるからそうはいかない。以下,ネタバレ。

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2012年10月10日

ホテル・ルワンダ

ようやく見た,という感じがする。本作はルワンダ虐殺における実話をもとにした映画である。アフリカ版「シンドラーのリスト」という説明が一番しっくり来るか。

こう言ってはなんだが,虐殺・ジェノサイド自体は現代史で全く珍しくない現象である,悲しいことに。この映画に対して言えることはいろいろとあるだろう。単純にジェノサイドのひどさだけではない。民族差別の虚しさを挙げてもよい。しかもルワンダの場合,帝国主義の都合がツチ族とフツ族の対立を生んだのだから,その根は元からあったわけではない。その分悲劇性は高かろう。資源のない小国に対する国際社会の無関心もある。とりわけこの点はルワンダ虐殺の特有点であり,事態を決定的に悪化させた原因である。作中でも中盤に強調される。

ここから知ることができること,考えることができることも多かろう。何か行動を開始する人もいるかもしれないし,とりあえず知ることが大事だと言う人もいるだろう。これらを安い一般解だと言うつもりは全くない。しかし,私が本作から感じたのは,絶望的な無力感だった。私が本作で一番うちのめされたシーンは,国連がいよいよルワンダを見捨てて撤退し,外国人居留者だけがとぼとぼとホテルから出ていくシーンである。その際,必死で虐殺発生の事実を報道しようとしていたジャーナリストは,雨の中ホテルマンに傘を差し出されて「(こうやって逃げ帰るのに)傘なんて差さされても恥ずかしいだけだ」と言う。同じグループのジャーナリストは,その前の晩に「この報道がされれば国際支援が届くはず」という主人公に対し,「(先進国の)人々はニュースで見ても「怖いね。」と言うだけで,またディナーに戻ってしまうだろう」と返事をしていた。残念ながらその通りである。

先進国の人間として言い訳しておこう。支援をするのだって安くはないのである。特に軍事介入を伴う場合は,自国民の生命がかかっている。このあたり,PKOという観点では微妙な働きしかできていない我が国の国民としてはやや心苦しい(とはいえ私は自衛隊の戦争参加を支持しているわけではない)。ともあれ,ルワンダ内戦の前年のソマリア内戦で,アメリカは実際に手痛い被害をこうむっている。だからこそルワンダでは及び腰であった。しかし,前世紀から先進国だったお前らにはそういう義務があるだろうと言われれば,まあ否定はできまい。特にルワンダには前述のような,帝国主義の明白な爪痕が存在する。しかし,それで自国民の支持が得られるかというとまた話は別で,政府にも国内の都合があり,さらに言えば金だけで解決する問題と生命がかかる問題では重みも違う。また,変に介入すれば内政干渉を疑われ,戦後処理を間違えれば泥沼化する可能性もある。そうやすやすと道義的責任だけで通る話でもない。ましてや,英仏ベルギー以外の国際社会は無関心にもなるだろう。


結局のところ,私は「歴史とは特殊な事例の積み重ねであって,普遍的教訓で簡単に片付けられるものではない」としてこの悲劇を消費することしかできなかった。完全に無責任な立場から意見を言うことが許されるのならば,このような悲劇を作ったのはやはり国連の身勝手な撤退であった。あそこで何かしらの介入があれば,主人公ポール達はあれほどの苦痛を味わうことはなかっただろう。少なくとも,あのシーンで自らの無力感にうちひしがれないような,枯れた人間ではないし,今後もそうなるつもりはない。  
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2012年10月07日

映画版『天使と悪魔』

原作を読んだので,映画版もと見てみた。原作はおもしろかったが,『ダ・ヴィンチ・コード』の映画版の出来からして不安であり(そういえばこちらはレビューを書き損ねている),しかしあえて事前に評判を聞かずにレンタルして見た。結果としては及第点ギリギリという感じである。正確に言えば,「見せてほしいものはちゃんと映像化してくれた」からとりあえず点はあげられるというのがまず先にあるから及第点なのであって,物語としては改変によりひどく薄っぺらくなっている。破綻していると言われても,強固には反論できまい。

原作の忠実な再現などは最初から望むべくもなく,『ダ・ヴィンチ・コード』よりも長いストーリーを,『ダ・ヴィンチ・コード』でさえ失敗したわずか2時間半で収めようというほうが無理がある。だから改変・省略があるのは仕方がないが,あまりにも多くのエピソードをカットしたため,かなり重要な要素までもが消えてしまい,物語の根幹部分でさえも改変されてしまっている。とりわけ悪役の背景事情をばっさりカットで,本作の大テーマである「宗教と科学の対立と調和」は映画版では無いも同然である。それでも出来が良ければ「別の物語」として評価可能なのだが,中途半端に原作に拠ったがために,単純に破綻しただけになってしまった。こうした改変をするならさらに大鉈を振るっても良かった。たとえば,ヒロイン(ヴィットリア・ヴェトラ)は重要度がかなり下がっており,物語上必要ではなくなっている。

しかし,良かった点もある。「見せてほしいものはちゃんと映像化してくれた」わけで,舞台となったローマの教会・芸術作品の再現度は非常に高く,「観光名所で次々と惨劇が起こる」という本作の映像上の肝に関しては不満なく,文字通り「映像化」してもらえた。加えて言って,最後の最後の(ネタバレ注意)反物質が爆発するシーンを天地創造になぞらえた映像として撮ったのはすばらしい。あのシーンは逆に原作が淡白すぎた。ついでに改変も褒められるところは褒めておこう。4人目の枢機卿が助かって教皇になるという展開は,大選皇枢機卿が教皇になるという展開よりもすっきりしていて良い。また,原作とは時系列が入れ替わっているため,ラングドンがダ・ヴィンチ・コードの事件によりすでに有名人であるということを下敷きにした改変も良かった点として挙げられる。これにより序盤が自然な形で相当カットできている。あわせてCERNを舞台としたシーンを作らなかったのも良いカットだった。これをやっていたら3時間でも尺が足りない。(ネタバレ終わり)


映像がすばらしく,その点では原作読者も楽しめるし,原作のテーマ性を知らないほうが楽しめる気もする。見終わった直後にはtwitterで「見なくていい」とか言ってしまったが,冷静に考えると,意外と他人に勧めやすい映画であるのかな,と思った。


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2010年02月12日

『涼宮ハルヒの消失』

昨日、友人と『涼宮ハルヒの消失』を見にいってきた。実はこの間『なのは』を見に行こうとして全時間帯満席という憂き目に遭い、仕方なく急遽カラオケ大会と飲み会となった。今回はその友人が「今回は予約取った」と連絡をとってきたので、ありがたく乗ることにした。今回も案の定一般席はとっくの昔に埋まっていた。というか、1420で見たんだが、すでにその日一日全部埋まってた。空いた状態で見れるのはまだ大分先のよう。ちなみに、Fateもなのはもまだまだ満席状態が続く。

感想は月並だが、非常に良かった。作画は気合入ってたがいつもの京アニという感じは残している。まあ、ちょっと特殊効果多めだったかなとは思う。ストーリーは原作まんま。あまりにも読んだのが昔すぎていまひとつ覚えてないんだけど、一応細部は変わってはいるらしい。演出的な意味ではバリバリ変わってるが。映像付、声優付だからこそできる感じの実験はたくさん詰め込んである。この辺のチャレンジ精神は失っていない感じ。ちょっとやりすぎて、エンドレスエイトは大変なことになってたけど、そういう意味では映画はさすがに無難な感じではある。声がついたという点では、(ネタバレ)やはりキョンの「ユキ……」が屈指の名台詞。抑揚がこれ以上ないくらいベストで、雪なのか有希なのかぎりぎりわからない。(ネタバレ終わり)

他にもいろいろ言いたいことはあるが、やっぱり長門はかわいかった。消失長門ではなく、長門でなければならない。もちろん消失長門も嫌いじゃないし大好きだ。しかし、動く消失長門を見た今だからこそいえる。宇宙人な彼女のほうが、私にはより魅力的に見える。ハルヒとは対極の万能なる神であり、でもキョンだけは届かない。そんなベタだけど、悲恋だけど、無口にがんばる彼女にやはり惹かれるのです。いいから俺のところに嫁に来い。

とりあえず、見に行く価値は確実にあるということは言っておきたい。で、テレビの三期はやるの?

  
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2009年08月11日

マジックアワー

ドジな893の子分が、親分の愛人とできちゃったことが発覚し、太平洋に沈められるすんでのところで、親分が幻の殺し屋デラ富樫を探していることを知り、デラ富樫は自分の知人と嘘をつき、俳優を雇って親分をだまし通そうとするが、ばれないどころか話は思わぬ方向に。

終始笑いが止まらなかった映画。三谷幸喜はそんな馬鹿げた状況あるはずがないというものにリアリティを持たせるのが本当にうまい。『笑いの大学』も『ラヂオの時間』も『有頂天ホテル』も、そうやって生まれてきた。今回は893の親分を俳優の演劇でだまし通すというまたしても馬鹿げた状況だが、やはりそんなバカなというくだらなさと、妙なリアリティの両者がうまくマッチしていた。いつばれるのかばらすのか、視聴者の側がはらはらしっぱなし。

終盤はかなり超展開だが、なんかもうどうでもよくなるほどそこまでの展開が馬鹿馬鹿しいので(良い意味で)、大して気にならない。特に最後の最後は、なんかもう西田敏行さすがだよなぁ、と。それまで893の親分ながらあまり目立った存在でもなく、中途半端すぎるかっこよささえ漂わせていたのに、最後の最後で全部持ってった。

いつものことと言われればそれまでだが、鈴木京香やら天海祐希やら唐沢寿明やら、わざとらしいチョイ役で大物出すぎで気が抜けない。というか、スタッフロールを見て香取慎吾の出演を知ったんだが、さっぱりわからなかった。『有頂天ホテル』の役でカメオ出演とかさりげなさすぎる。しかもストリートミュージシャンとか言われないとわかんないってば。
  
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2009年08月09日

エリン・ブロコビッチ

貧乏職無し離婚歴二回三人の子持ちの女性が、弁護士事務所に事務員として雇われ(実際には押し入ったに近いが)、ある公害問題を解決させ、米国史上最高額の和解金で調停させることに成功した、という話。実在の話を元に制作された。

ジュリア・ロバーツ演じるエリンはともかく破天荒な女性である。ともかく口が悪いし短気。礼儀も何もあったもんじゃないし、反骨精神の塊で、弁護士事務所で働いている癖に反知識人的。アメリカだったからマシだったのかもしれない。日本だったらこのサクセスストーリーはさらに困難なものになっていただろう。

一方で、"三児の母"の色気さえも武器にするしたたかさと、他人のために本気になれる情熱の強さは、確かに彼女の武器であった。本人も言っているように彼女には知識も教養も無いが、頭の回転は間違いなく速い。一度しゃべりだすと止まらないし、的確に相手の弱点を突く非常にいやらしい話し方だ。気になったことを最後まで調べつくす執念もあるし、細かいところに気付く鋭敏さもある。この映画に関してエリン・ブロコビッチ本人は「私はいつもブラのひもを肩から外に出していたようなことはしなかったわよ」とは述べているが、逆に言えば実際にあんな感じだったってことだ。恐ろしい。

こうなると、エリン本人も偉大だがジュリア・ロバーツも称えなければならない。でもまあ、『プリティ・ウーマン』も『ノッティングヒルの恋人』も、ストーリーはともかく(どっちも眠かった)演技は悪くなかったから、やはり彼女は名優なのだろう。『エリン』が最も良い出来だったのは間違いないが。

  
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2009年08月05日

ナイトミュージアム

2記念で半額になっていたので。今回初めてブルーレイで借りたんだが、確かに画質がとんでもなくよかった。でも、別にこの画質は要求しないなぁ。アナログ→地デジがけっこう感動したけど、DVD→BRはそこまででもなかった。

内容は説明するまでもない。「この発想はあった」を忠実に映画化したものだが、けっこう出来はよくおもしろかった。ローマ帝国と西部開拓を二大主人公としていた点にはアメリカ人の自意識を感じたが、これは当然のことだろう。日本人にとっての戦国武将と維新志士みたいなものだ。

野暮なつっこみを入れるなら、オクタヴィアヌスは前線にほとんど出たことがなく、出ても負ける史上最弱の皇帝で、実際の戦闘では部下の優秀な将軍が指揮をとったし、劇中のような果断な性格でもない。身体も弱く、だからこそ摂生したので逆にローマ皇帝の中でも長生きしたと言われている。ちなみに、世界史の教科書で彼が戦勝したという扱いになっているアクティウムの海戦は、彼をローマの初代皇帝に就任させる決定的な出来事となったため有名だが、実際のところオクタヴィアヌスは船酔いで吐いていただけである。指揮はもちろん、彼の片腕アグリッパが取っていた。

それにしてもセオドア=ローズヴェルトはかっこよかった。アメリカの誇るべき指導者のうちの一人である。映画内でも、国父の国父たる立ち回りを披露してくれた。今でも人気の高い大統領の一人だそうだが、だからこそこのような立ち回りを得たか。次回作はリンカーンも出てくるそうだが、彼に与えられた役回りはどんなところか。そういえばコロンブスも出演していたが、彼は知名度とアメリカへの貢献度の割りに活躍しなかったような。扱いが難しかったのかな。逆にアッティラがあれだけ目立ってたのは意外だ。八つ裂きマニアとか、使いやすい人ではある。


これは2もおもしろそうだが、スミソニアンはやばいてw。所蔵品の規模と種類がとんでもない。エノラ=ゲイが出てきたらどうしたものかと思ったが、どうやらそんなことはなかったようだ。まあ危ないところは避けるわなぁ。
  
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2009年06月14日

TAXi4

続き物はつまらなくなる法則を2や3で裏切ってくれた本シリーズも(TAXiは2が最高傑作である)、4ではとうとうだれた。リュック・ベッソンもいよいよネタ切れなのだろう。

ノリはいつも通りのTAXiシリーズで、3からかなり年数が経っているという設定らしく、二人の主人公にそれぞれ男の子が誕生している。その子供二人も巻き込んでのコメディは前作までと何ら変わることはなく、実際前半部分はかなり楽しんで見ることができた。刑事のエミリアンや署長の二人に代表されるマルセイユ警察は相変わらずありえないほど間抜けだし、将軍も今回の犯人グループも奇天烈なキャラのままである。

では何が不満だったのかというと、これまでは事件の解決に強烈なカーアクションが必ず出てきて、1は単純なマルセイユ市内のカーチェイス、2は舞台をパリに移しつつもウイングが出てかっ飛ぶという新機能が入り(ここで爆笑した)、3ではジェットエンジンが搭載されるわキャタピラ装備で雪原でカーチェイスするわで、やりたい放題やっていた感があった。ところが今回は犯人グループが邸宅に立てこもってしまったため、解決方法が銃撃戦になってしまい、そこが全くTAXiらしくない。別に銃撃戦は求めてなかった。ぶっちゃけて言えば、タクシードライバーのダニエルがそう大して活躍していない。これが最大の不満点である。

2や3は死ぬほどおもしろかったんだけどなぁ。残念だ。
  
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2009年01月06日

マルホランド・ドライブ

非常に難解な映画。前半は何がなんだかわからないところだらけだが、145分中最後の20分で大体の伏線は回収されるので、これから見る人は安心してほしい。ただし、監督のデヴィッド・リンチ自身が正解は無いと言っているので、基本的には自由な解釈でいいのだとは思う。

この映画を難解にさせている最大の理由は、非常に展開が早く、そのくせ視点と場面がころころと変わる。しかも、切り替わった先の場面が現実なのかそうでないのかが、最後の最後の伏線が回収されるまで全く判然としない(解説を読むまでわからない場面もあった)。鑑賞者には場面場面を覚えておく記憶力と、判明したところから時系列順に並びなおしていく整理力が強く求められる。ただし、理解さえ追いつけば、その思考パズルが非常におもしろい映画だ。

見終わって、自分なりの解釈がたったなら映画名で検索してみると様々な他人の解釈を読むことができる。優れたレビューは納得させられることしばしであろう。また、デヴィット・リンチ監督から10のヒントが与えられているが、一通り理解し終わってからこのヒントを読むと納得できるものの、見る前にこのヒントを知ってしまうと逆に混乱するのではないかと思う。見る前でも役に立ちそうなのは

・クラブ・シレンシオで、彼女たちが感じたこと、気づいたこと、下した結論は?
・カミーラは才能のみで成功を勝ち取ったのか?

の二つくらいなんじゃないかと。残りは洞察力のある人や何度も見る気の人にはナイスヒントかもしれないが、少なくとも自分は、見終わって他人のレビューを見るまで全く気づかなかった伏線だった。


以下、備忘録として、自分なりの簡単な解釈とメモ。当然、超ネタバレしているので、この作品を見たことがない人は、読んではいけない。まあ自分は一生見ることはないだろうと思うならば、読んでその複雑さを味わってくれてもいい。



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2009年01月04日

映画『300』に見る欧米人の意識

最初に注意書き。

・『300』はテルモピュレーの戦いを描いた映画ではあるが,史実に則ったものではない。私自身,史実との違い自体は全く問題にしていない。
・本作は史劇というよりも,むしろB級に近い金のかかったエンターテイメント作品であり,楽しむべき点は殺陣である。
・私はこの映画の持つ古臭い意識を一般の欧米人はともかく,知識人が持っているとは思いたくない。
・以下,私はこの映画を酷評しているので読みたくない人は回れ右。(いや,そういう人にこそ読んで欲しい気がするが)


しかし,以上を踏まえたとしてもこの映画には,不可解な点が多い。とあるレビューで「で,映画監督はいくらアメリカ政府から金を貰っているのか?原作者は,欧米至上主義者かアジア差別主義者か?」と書いていた人がいたが,全く同意見である。単に血飛沫が飛ぶ戦闘シーンを見せたいなら,必要の無い味付けが大量に添加されていて,日本人(というかアジア人)から見れば不快でしょうがない。こんな不必要な”味付け”によって欧米人が喜んでいるのだとしたら,それこそ軽蔑に値する。以下,問題があると思えた点を列挙。


・ペルシアは「アジア的専制君主制による抑圧された社会」であり,スパルタ(ギリシア)は「自由と議会制の国家」であるという描かれ方。
→ 実際には当時のペルシアは,先にオリエントを征服したアッシリアが抑圧を用いて統治しようとして失敗したのを教訓に,比較的寛容をもって帝国を統治した。
→ 当時からすでに抑圧の対象だったユダヤを解放したのもペルシア王で,これは『旧約聖書』にすら載っていることだが,そこのところはスルーらしい。
→ ついでに言えば,ペルシア帝国は早くからアジア大陸の東西交流に目をつけており,インドから進んだ治水技術を輸入し都市水道を整備した。通称「王の道」と呼ばれる巨大な道路を,帝国を横断するように建設した。この映画の年代より200年後にペルシアを征服したアレクサンドロスでさえ,バグダードの文化レベルに驚嘆したという。そのアレクサンドロスが壮麗なペルシアの首都ペルセポリスを徹底的に破壊した。果たして,野蛮なのはどっちの側でしょうね。
→ 一方,スパルタは市民が全員戦士となり,農業や都市での生産活動は全て奴隷や不完全市民任せという徹底された統制国家だが,この映画には奴隷の姿は全く映らない。その奴隷は戦争の捕虜か,貿易でトラキア(現ブルガリアにあたる地域)か北アフリカ辺りから買ってきた人たちである。奴隷自体は古代なら普遍的な現象なので,それ自体にとやかく言う気はないが,映さないというのは意図的すぎる。


・ペルシアがギリシア征服を目論んだのは,王の征服欲のため。
→ 100%間違いとはいえないが,正解は地中海の西側・ヨーロッパ大陸に商業網を持っていたギリシアの商業網を見据えて。ペルシア帝国はすでに,地中海の南側に巨大な商業網を持つフェニキア人を支配下に入れて保護し,小麦や果実の貿易で莫大な富を築いていた。(当時の北アフリカは世界で最も農業の進んだ地域の一つ)
→ 結局ペルシアはギリシアの直接統治はあきらめるものの,トラキアを征服し,そこを足がかりにギリシアの諸都市にスパイ工作を仕掛けて間接的に関与した。貿易網を広げるという目的はここで達成されたので,征服欲は消滅し,以後西側への大規模な軍事行動はとっていない。ちなみに,ペルシア戦争の約100年後に起きる,アテネVSスパルタの「ペロポネソス戦争」は,まさしくペルシアの懐柔によるもの。しかもこのペロポネソス戦争では,「自由と民主主義」のアテネが統制社会スパルタに敗北する。まあ当時のアテネは衆愚政治に陥っていたのではあるが。


・古代ペルシア帝国の率いた部隊「不死隊」が存在したのは事実だが,この映画では,中国か日本の京劇か歌舞伎に出てくるようなお面と,忍者のごとき黒装束をまとっている,王直属の近衛部隊。
→ 本来「不死隊」とは個人個人が精鋭なのではなく,極めて迅速に前線要員が補充されるシステムのことであり,前線の人数が全く減っていないように見えるさまからこの名前が付けられた。日本語版Wikipediaにさえそこそこ詳細な記述がある。多分,この映画の監督はイラクがどこにあるかも知らないんじゃないかなぁ。アジアの国は全部「アジア」。


・ペルシア王が真っ黒な黒人で,髭が無い。
→ おい待て,イラン人が使えなかったのならせめてアラビア人の役者を起用しろ。あと,古代ペルシアは長く髭を伸ばす文化で,発掘された石碑のレリーフを見れば誰だって気づくだろう。髭を剃るのは古代ローマからの文化で,ギリシア人でさえ伸ばしていた(これは映画の中でもスパルタ役の人たちは伸ばしていた)。要するに,連中からすると非欧米人に区別を付ける必要はないらしい。
→ 一方で,ギリシア人側には金髪碧眼がいた。落ち着け,ラテン系でそれはないだろう。



ここまで何から何まで間違いだと逆に笑える。逆に考証をしっかりやって,その挙句全部反転させたんじゃないかと勘ぐりたくなる。これは国際問題になっただろう,と思って調べてみたら案の定イラン政府は抗議していたらしい。しかし,全く報道されなかった。日本でもけっこう興業的に成功したらしいし,参ったなぁ。

同じ古代を扱った映画でも,『グラディエーター』や『アレクサンダー』はかなりまともだったのに,この映画は。「エンタメだから何でも許される」という盾と,「バカにしても対象が気づいてなければ問題ない」という壁に,完全に助けられている映画。少なくとも,人種を問わずこんなものに喜んでいる人たちに国際政治は語って欲しくないですね。  
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2009年01月03日

ヒトラー最後の12日間

ニコニコのMADで気になったので。タイトルの通り、1945年4月20日から5月1日、大戦末期のベルリンの様子を描いている。視点は比較的複数で、ヒトラーやゲッベルス、ボルマンといったナチス首脳陣、実際にベルリンを防衛していた前線指揮官、逃げ惑う市民たち、何よりもこの映画の原書を書き残した元ヒトラーの秘書、トラウドゥル・ユンゲといった面々が代わる代わる視点となる。この作品は初めてドイツ人がヒトラーを演じたこと、ドイツの会社が制作したこと、ヒトラーを人間的に描いたことで話題となり、賛否両論を巻き起こしたそうだ。何にせよ、ドイツがまた一つ歴史のタブーを打ち破ったのは喜ばしいことだ。

物語は比較的淡々と進んでいく。ヒトラーは最初から錯乱しているし、ヒムラーやゲーリングはもはや裏切る気が見え見えで、陸軍将校は投げやりの姿勢極まりない。まあそこそこ冷静だったのはゲッベルスくらいだが、彼は彼でヒトラーの後追い自殺をすることを既に内心で決めていたための落ち着きであった。特にドラマがあるわけではなく、ベルリン地下壕の人々の心情描写に重きが置かれている。

しかし、シェンク医師を人道的に美化して描いているのはどうなんだろう。おそらく、ユンゲさんの証言のみならず他の史料に基づいても、確かに大戦末期のベルリンでは人徳者として振舞っていたのだろう。しかし、実際にはWikipediaに書かれているようなこともやっていたわけで。その他、美化とまでは言わなくても、不自然なまでにユダヤ人虐殺についてこの映画は触れていない。せいぜいヒトラーが自分のやった偉業を振り返るシーンで、ユダヤ虐殺を挙げている程度だ。好意的に見れば最後の12日間ともなればそんなことを考えている余裕なんてなかっただろう、とか、ユンゲさんはユダヤ虐殺には全くかかわってなかったから知らなかった、等の解釈は可能であるが、やはり私には不自然に思える。そう考えると、「ドイツはユダヤ人大虐殺の歴史を取り繕い美化している」(エルサレムポスト紙)というリアクションはそれほど突飛には聞こえない。

見る前に、一通りナチス首脳部の顔と名前を一致させておかないと、何がなんだかわからないと思われる。ヒトラーを含めて、特にヒムラーやゲーリング辺りは異様なまでに似ている。ゲッベルスもかなり特徴を捉えている。また、エクステンデット・エディションで見ることをお勧めする。スタンダード・エディションはかなりカットされているところが多い。何気ないシーンやグロいシーンがカットされていて、そういうシーンこそ重要なのに、と思う。
  
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2008年08月20日

時をかける少女(細田監督版)

話題になっていたのでようやく見た。むしろ研究室的に見ろと言われた。それもそのはずで、主な舞台は東博こと東京国立博物館であるからだ。


以下、ネタばれ。ストーリーに関しては、素直におもしろかった、とだけ。うだうだ考えずに見る価値のある映画。青春ドラマっていいよね。



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2008年08月15日

バルトの楽園

戦争について具体的にとやかく言う気は無いが、ある種のメッセージを込めてこのレビューを終戦記念日に書いておく。


第一次大戦中のドイツ軍捕虜と、収容先である徳島県鳴門市板東の地元民との交流を描いた作品。てっきり粗雑な扱いを受けるものだと思っていたら所長(演:松平健)が捕虜の扱いに関するハーグ条約をよく理解した人格者で、温かみのある扱いを受けたドイツ捕虜たちは、謝意を示すものとして最後に『第九』を演奏して町を去る。これが日本で最初に演奏された『第九』であった。

フィクションを交えつつもほぼ史実に基づいて作られた。「こんな善人ばっかりありえない」と思ったらそれは心が汚れている証拠、らしい。まあ確かに実際にはもっと脱走兵もいただろうし、懲罰を受けたドイツ兵もいたのだろうが、『第九』にまつわるエピソードに関しては脚色が無いだろうことを考えると、やはり善人だらけの奇跡が実在したのではないかと考えるほうが自然である。この奇跡的事実を映画の題材にしただけでもうこの映画は勝ったようなものだ。

意外かもしれないが、私的泣きポイントはドイツ兵の音楽講師が、板東で教えた日本人の生徒たちと別れるときに、日本人たちが『仰げば尊し』を歌ったシーン。ああ、確かにあれは日本人の心を打つ歌だ。全体から見ると非常に地味なシーンながら、ドイツ兵たちによる『第九』演奏の直前であることもあって非常に来るシーンだった。

単純に「音楽が世界共通語」と言うわけでもないし、それをもって反戦を謳う映画でもない。むしろ、日本兵もドイツ兵も国を信じて戦い、亡くなったり捕虜になったりした人たちであるから、彼らの心情は反戦とは正反対のところにいるかもしれない。だが、人と人との信頼が何か貴き物を生むこともある、ということは間違いなく主張している映画であろう。それこそが『第九』の歌詞でもある。

演出的なことを言えば、日本映画の悪習である個々のエピソードを詰めすぎてまとまりがなくなるという現象が起きていたが、逆に良かったかもしれない。最終的に『第九』を演奏するというところに収束していくからか、不思議なまとまりがあった。あと、最後のスタッフロールでカラヤン指揮の『第九』が流れるが、誰もが指摘しているようにあれは必要の無いものだった。ドイツ兵楽団の演奏だけで占めておくべきだった。

なお、この映画の資本が創価学会から出ていることをもって悪となす人々がいるが、何かの本質を見失っているような気がしてならない。そういう方々は韓国製というだけで青磁の良さを理解できない、もしくは日本原産と偽れば賞賛する、ということと同じ思考回路である。これこそ『第九』の歌詞とは相容れないものであるから、そういう人たちにこそ、余計に見て欲しいのだが。
  
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2008年08月14日

『火垂るの墓』の解釈について

『火垂るの墓』に対する最も参考になる米Amazonレビュー
『火垂るの墓』に対する米Amazonレビュー 低評価版
「火垂るの墓」に関する低い評価(米Amazon)
映画『火垂るの墓』で高畑勲監督が伝えたかったこと(アニメージュ1988年5月号から)


私が『火垂るの墓』を見たのはもう随分昔の話で、しかも周囲の泣けるだの反戦映画だのという意見にあまり共感できなかったので、それ以来見ていない。確かにあの二人がかわいそうだとは思うが、共感できなかった理由としては米アマゾンの低評価レビューの方と全く同じで、自業自得にしか見えなかったからだ。追い出されたんじゃなくて、自分たちから出てったんじゃないか、しかもお前仕事してなかったじゃないか、と。戦争中にそれはねえだろと子供心に思ってしまうことばかりやっていたような記憶がある。

ゆえに、三番目のリンク先を読んで、十数年来の疑問が氷解した。野坂昭如の自伝的な小説が原作だという話は知っていたが、なるほど、そういう事情ならば、確かにあの兄妹が自業自得で死ぬのは当然のことだろう。そこに我が身を重ねて自戒とするという見方ならば、感動するのもおかしくはない話だ。四つ目のリンク先を読んでいただければ、高畑勲監督もそういうテーマでこの映画を作ったということが証言されている。しかも高畑監督はさらに、「あの二人は死の淵まで幸せな「家庭」を築いていたんじゃないか」とも言っている。個人的には彼の言っていることは納得できる。別に生き延びることだけが幸せじゃない。もっとも高畑監督は「死によって達成されることは何も無い」とも言っていて、だからこそ『火垂るの墓』のラストはあれだけ悲劇的なものにしたのだろう。

だが、だとしたらもう一つ疑問が浮かび上がってくる。すなわち、『火垂るの墓』を反戦映画として評価したり、あの兄妹を悲劇として哀れむことに、違和感を覚えるべきではないだろうか。清太の身勝手な行動とその結果は現代でも起こりうることであり、むしろ起こりうるからこそ野坂氏は映画のパンフレットにその意を込めたのだろう。ならば、その不幸の原因を戦争に押し付けてしまうのはおかしい。清太の父が海軍士官で、それが清太の自尊心と日本軍の勝利に対する盲信を増大させていた、ということぐらいである。

さらに奇妙な点は、米アマゾン高評価レビューを含めて、高評価を下している人の多くが、以前の自分と同様にこの映画を反戦映画としてしか見ていないということだ。要するに、一部の熱心なジブリファン以外には真の主題は伝わってはいない。その意味でならば、『火垂るの墓』は失敗作だったとさえ言うことができるんじゃないかと、さっき一瞬考えてしまった。加えて、その評価の理由が「感動=悲劇的=原因は戦争=反戦」という極めて短絡的な思考によって、感動と反戦がつなげられているのだとしたら、こんなにくだらないことはない。

まあ高畑監督自身が「『火垂るの墓』は神話なので好きに解釈してください」と言っているわけで、他人の評価にとやかく言う資格は無いのかもしれないけども、もし仮に自分と同じ勘違いをしていて、『火垂るの墓』を単純な反戦映画だと思っているのなら、再考の余地は十分にある。
  
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2007年04月13日

京アニ版Kanon

「この曲は、Kanon。パッヘルベルのKanon。同じ旋律を何度も繰り返しながら、少しずつ豊かに、美しく和音が響きあうようにになっていくんです。」

14話の佐祐理さんのこの言葉が全てを表している気がする、と某アニメ評論サイトで読んだがまったくその通りだと思った。一ついえることは、ゲーム版(及び前回のアニメ版)のKanonにトラウマがある人ほどそれを払拭するためにこの作品を見てほしい、ということだ。ゲーム版はやる気にならないけど古典として触れる必要がある、という割と新しいヲタにもいい機会となるだろう。

以下、原作の超ネタばれ(アニメのネタばれは無し)。


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2007年03月30日

40歳の童貞男(40 year old Virgin)

40歳の童貞男(フィギュアオタク)が、悪友たちによって無理やり改造させられそうになる話。40歳ともなれば日本ならば余裕で魔法が使えるわけだが(※)、幸いこの主人公はそこまで酷い童貞ではないものの、痛くて見てられない一方で他人事じゃないと思いながら見てしまった。

前にta-kiと「なぜモテと非モテの溝はかくも深いのか」という議論した際に、「モテと非モテの溝は互いの労力に関する理解不足によって生じるものである」という結論が出た(そして、だからこそ相互は侮蔑しあってはいけない、とも)。まさにそれを裏付ける映画だったといえよう。

別に主人公は自分が変わりたがっているわけではなくて、別に女性を欲しているわけでもなく、単に世間の常識と「ほんのちょっとの労力で女性が得られるならがんばってみようかな」程度の欲求しかもっていなかった。だからこそ友人たちに「こうしろ」と指示されれば一応はそう行動しようと試みるが、結局は思い切りが足りず完遂できない。そしてそこら辺の心情は、かなり近い立場にいる自分にもよくわかった、というよりはわかりすぎて嫌だった。彼が一々さらす無様な姿と、自分は無縁ではないかもしれないのだ。自分以外のヲタがこの映画を見た感想を知りたいものだが、大概が自分と同じ感想だったのではなかろうか。


最後まで主人公が結婚しなかったら、俺の中で超傑作になっていたのだが、残念ながら結婚してしまった。しかしまあ納得できるエンディングだったのでよしとしよう。ああ、ぜひふぃぎゅ@を見てじっくり歌詞を味わってから、この映画を見て欲しい。痛さが三倍増でいい感じである(体験談)。  続きを読む
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2007年03月27日

秒速5センチメートル

相変わらず、桜の花びらと宇宙(空)が好きな人だなあ、と。物語としては、とても甘酸っぱい気持ちにさせてくれる、まあいつもの新海誠。

新海さんのすごいところは、あまりにも美しすぎる自然背景とそれを活かしきって動き回るカメラワークにあると思う。KEYの作品で言うところの「えいえん」や「幻想世界」にあたるような部分と、「現実」の境目がより曖昧になっていて、それが彼の映画に共有されるテーマ性と非常にマッチしている。やっぱり彼はすごいや。

だから、紙飛行機を飛ばすシーン、お前それ『ef』のムービーと全く同じやんなんて野暮な突っ込みは、けしてしてはいけないのである。天門の音楽も、すばらしいんだけど全部同じに聞こえる、とかね。

あと、わかる人にだけ書くとすごく『はるのあしおと』をしてる作品だった。


以下、ネタばれ。
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2007年03月25日

フライトプラン

久しぶりにハリウッドっぽいのを見たいなと思い、割と評判がいいので借りてきた。出来は期待通り。飛行機の中で突然失踪した娘を探して母親が四苦八苦する物語だが、見ていて「娘どこよ!?」と母親と一緒にけっこうはらはらした。オチもきちんとハッピーエンドで安心して見れた。

娘が失踪した理由に関しては順当に予想がついたものだったが、以前に『ビューティフルマインド』を見ていた関係でひょっとしてこの母親が統合失調症だったなんてオチだけは勘弁してくれよ、と途中で思ってしまった。まあそんなはずは無いのだが。


以下、ややネタばれ。  続きを読む
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2007年03月24日

有頂天ホテル

三谷幸喜補完計画。とある高級ホテルの大晦日カウントダウンパーティーのどたばたを描いたコメディー。いつもの三谷幸喜作品と違うところは、主役がたくさんいて場面がころころと変わること、そのため同じ時間帯を別視点で行ったり来たりするということだ。三谷幸喜自身「全員主役」と言っていた。

『有頂天ホテル』もおもしろかったのだが、このポリフォーカスな試みが完全に成功していたかと言われると、私的には疑問を呈せざるを得ない。私的には『12人の優しい日本人』や『笑いの大学』に比べて、視点切り替えが三谷幸喜の売りであるテンポを殺してしまっている。登場人物が非常に多いので、ともかくころころ主役が切り替わる。

最後はどう収拾着けるのか期待してみていたが、意外とあっさり終わってしまった。もっと酷いどんでん返しが来るかと思っていた、たとえば『12人の優しい日本人』の、とある登場人物の正体の種明かしのようなオチが無い。というよりも意外と主役たちの横のつながりが薄かったような気がする。

後は『みんなのいえ』と『ラヂオの時間』でひとまずの補完は完了する。この二つは来週かな。

  
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2007年03月04日

マリー・アントワネット

映画の「マリーアントワネット」を見た。ぶっちゃけてヴェルサイユが懐かしかったからだ。映画自体の出来はなんともいえないというか、個人的な趣味から言えば酷かった。

まず、BGMがありえない。なんで背景がヴェルサイユなのにBGMはロックなんだ。しかもパンク。シャウトせんでよろしい。まったくのミスマッチ。これが前衛的な手法というか、今のハリウッドの流行なのだとしたら、俺はもうハリウッドについていけない。

ストーリーはマリーアントワネットの人生を切り貼りしたような。いきなり場面がすっ飛ぶのでわかりにくいことこの上ない。何よりも、フランス革命勃発→ヴェルサイユからパリへ移住のシーンで映画が終わるのがありえない。マリーアントワネットの人生のハイライトはそこからではないのか。単にヴェルサイユを撮影したかっただけの映画なんだろうか。それにしては、セットで再現してあってどう見ても本場じゃないシーンが多々あった気もする。

唯一ほめられる点はキャスティングか。マリーアントワネット役の女優は美人でイメージ通り。何より、ルイ16世役の俳優がはまりすぎていた。見事なまでに情けないダメ夫を演じきっている。

まあ、いかに音楽と映像がマッチしてないかということに興味がわかないなら、映画館に見に行くどころかツタヤで借りる価値も無い映画だと思う。ヴェルサイユが見たいなら他の映画もある気がする。  
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2006年12月06日

Ecole (Innocence)

エコールという映画を見に行ってきた。まあレビューは自分が書くよりもここの人のものを読んだほうが参考になるだろう(12/2の日記)。というか、自分がこれを読んで見に行った。噂に違わぬ映画だった。

なので、ここではちょっと違うことでも語ってみる。それはロリコンに対する日本と欧米の考え方の違いをこの映画で如実に感じたからだ。根本的に違う。まず、日本人が少女というと割と肉感のある、丸みを帯びたものだが、向こうではやせ体型が少女となる。エコールの少女たちも皆ガリガリである。あ、一部違ったけれども。あれは見なかったことにする。どう見ても悪役だし。

それに日本の少女というと無垢さだけにスポットが当てられ、天真爛漫に描かれがちだが、欧米の少女とはまんま原作「ロリータ」であって、つまり小悪魔である。無垢だからこそ恐ろしく、躊躇が無いのだ。エコールでも、少女のダークな面がおおっぴらに描かれている。

そんなわけで、これなんてエロゲ?を期待していくとまったく違うものが待っている。いや、そうでなくても普通に興味深い映画であって、むしろそういう目で見てはいけない映画だと思う。上述のレビューにもそう書いてあって、非常に同感であった。

ところでこの映画、実は非常に難解なんじゃないかと思う。非常に示唆的で、例えば冒頭、水流が映され水中からカメラが浮き上がるシーンであるが、これはフロイト的に考えなくとも女性(子宮)の象徴だろうし、新たに入学する少女が棺おけから運ばれてくるのも、第二次性徴が「(女性にとって)第二の生である」(byボーヴォワール)の象徴だろう。覚えてないだけで、終始示唆的なものが目に入っていて、頭を悩ませながら見ていた。

物語も見終わった今非常に謎だらけで、結局卒業した少女がどこに運ばれていったのかもわからないし、入学する少女はどんな事情であそこに運ばれてくるのかも明らかになっていない。まあなんとなく想像はつくのだが……もし想像通りならば、本当にダークな映画である。  
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2006年11月21日

Alexander

アレクサンダー大王をホモとして描いて、ギリシア政府の不評を買った作品。実際あの時代だとホモは普通なので、むしろギリシア政府の底が知れる話である。もっとも、そういった前提知識のある人が視聴者にどの程度いるのかということや、現代的なホモへの視線を考えるにギリシア政府の心配はわからなくてもないが。

そのほかの点でも、まとまりが無いだとかテーマ性が薄いだとか、なんか散々な評価を受けているこの作品ではあるが、自分は基本的に好きである。まとまりが無いのは3時間でアレクサンダーの人生を全部詰め込んだこと自体に無理があるのであって、それでも主要な登場人物のギリシア語のあの長ったらしい名前を覚える前に終わってしまったのだから、あれ以上簡潔にしろというのは無理がある。

それにテーマ性が薄いということはそれだけ歴史的には忠実ということであって、テーマ的な伝えたいものはなくとも迫真性やアレクサンダーの軍事的才能のすごさは十分伝わってきたのでいいのではないかと。つまり、アメリカンな見方をしてはダメということ。むしろアレクサンダーを狂人として描いたことのほうが、個人的には賞賛すべきことだと思うのだが。  
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2006年11月18日

Invisible

とある科学研究所で透明人間になる研究をしていて、とうとうそれを発明する。しかし主人公のマッドサイエンティストはそれを悪用するようになってしまい、以下略。よくある禁断の科学ネタだ。

ごく普通の映画ながら、一箇所だけ見所がある。それは主人公が同僚の女性研究員をレイプするシーン。まず、動機が嫉妬という時点でこいつダメすぎる。そして透明人間がレイプするということは男のほうの姿は見えないわけで、女が一人であえいでいるようにしかみえない。ここがこの作品最大の傑作だと思う。いろんな意味で。無論、俺は笑い転げた。

爆発オチはあるし、人は脈絡無く死ぬし、テーマは何を伝えたかったのかさっぱりわからない。レビューの文章のも、そりゃしかたがないってもの。

正しいB級映画の姿がここにある。

  
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2006年11月14日

笑の大学

開始と同時に竹久夢二の絵が飾ってある壁が映される、その後10分間延々とまともなセリフが無いまま物語が進行するなど、のっけからこの作品はただものじゃないと思わされた。説明が不要なほど有名な、三谷幸喜脚本の映画である。借りてから気づいたが、舞台が浅草六区なので、自分がこれを借りたツタヤ浅草店はまさにその場所、ということになる。ちょっと驚きだ。

ストーリーはちょっとでも話すと笑い所のネタばれになるので伏せるが、爆笑はした。構成そのものは単純な、いかにも三谷幸喜な作りで、最後の最後だけ意外な事実でシリアスになり、全部は明らかにせずちょっと余韻を残す。名作『王様のレストラン』が、「それはまた、別のお話」で閉めたように。

音楽がいい味を出している。けして表に出てこないが、トランペット調のいかにも戦前な、「モダン」な雰囲気をかもし出す。実際矛盾した時代ではないか、鬼畜米英なんて言ってたのに、文化は半分洋風から抜けて出せず、そのままになっているなんて。

あと、どうでもいいことにつっこむと、さすが戦前だと思ったのは劇場の建物の内装。すごい狭い通路にすごい狭い客席。現代だったら、確実に消防法に引っかかって営業停止だ。きっとこういうところにも再現に凝ってるんだろうな、とも思ったが、ひょっとしたら場末の劇場なんて今でもこんなもんかもしれない。この映画自体のテーマが「大衆芸術とは何か」をひどく「小」上段に振りかぶって考えてるものだから、このどうでもいいつっこみそのものが、この映画を見た感想としては正しいものなのかもしれない。  
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