2017年12月23日

京阪神旅行記(後編):『有頂天家族2』・『Fate/stay night』聖地巡礼

二日目:狸谷山不動院・京都市街
この日は主に『有頂天家族2』の聖地巡礼に当てた。まず行ったのが狸谷山不動院。矢三郎の祖母が住んでおり,両親が結婚式を挙げた寺院でもある。これが下鴨神社から大きく東に外れた山の中で,Googlemap上で見ると近く見えることから「登れそうだけど,時間ももったいないし,タクシーで行こうぜ」と軽い気持ちでタクシーに乗ったら大正解だった。まだ住宅地が続いている麓から急激に登ること激しく,しかも山道としてつづら折りになっているというわけでもなく,急激な斜面にそれほど曲がらない車道が続いた。Google先生は全てを平面で考えるので上り坂を考慮しない。標高から言えば200mかそこらだし,舗装されていて自動車が通れる道ではあるが,仮に歩いて行くなら登山のような気持ちになるだろう。というよりも,行けるところまで車で行くのが正解としか言いようがない。



そういうわけで到着,車でこれるのはここまで。この入口からは石段が250段続くだけで,そこまで苦労はしない。この寺院の開山は18世紀初頭で,江戸時代のある僧がこの地で修行に励み,不動明王像をここに安置したのが起源であるが,しばらくの間は野ざらし状態であった。そしてお堂を建てる計画が立ったのが1944年,実際に建ったのは戦後直後のことであるから,京都の寺院としては極めて新しい部類に入る。本堂は清水寺や投入堂等と共通する懸造りで,ぱっと見は「保存状態の良い平安時代の作例」に見えるが,どっこい昭和の作例である。20世紀半ばの土木建築技術なら楽勝に作れたのだろうと思われるかもしれないが,よくよく考えてみると大都会京都から近いとはいえ重機の入らない山奥,それも物資不足の戦中から建て始めたのだから,平安時代とそれほど変わらぬ労力がかかったのではないか。たぬきから転じて「他を抜く」ということから勝負の願掛けをする寺院となっており,入り口と本堂の周辺には「1985年」やら「2003年」やらに建てられた特定の球団の「戦勝記念碑」が大量に据えられていた。京都人は大阪人ほど野球を見ていない印象はあるが。



本堂の隣の寺務所では,かなり大きく『有頂天家族2』が取り上げられていた。写真に写っている矢三郎祖母のぬいぐるみで,これ以外に桃仙の大きなポップが立っていた。

なお,本堂の近くに「宮本武蔵が修行した滝」なる史跡があるが,前述のようにここの開山は18世紀初頭であり,加えて修行が(創作が疑われている)吉岡一門との決闘に向けてという伝承であることから,極めて胡散臭い。しかもこの滝,2017年秋の台風で周辺の大木がなぎ倒された影響で碑やお堂が崩れ去っており,おそらく滝自体の形も変わってしまったのだろう,非常に軟弱な滝がちょろちょろと流れているだけであった。極めて残念感しかないスポットである。やはり胡散臭い伝説を商売道具にしてはだめだと思う(右の方を向きながら)。

狸谷山不動院を見た後は一気に坂を下りて大きな通りに出て,再びタクシーを捕まえて南禅寺へ。山門を見上げながら「玉蘭さん将棋打ちましょう」と言うミッションをこなし,ついでに琵琶湖疏水も見た。20年ぶりぐらいに見たけど,南禅寺はよくこれを境内に通すのを許したと思う。今となってはこの疎水もまたノスタルジーを誘うものになってしまい,かえって南禅寺の日本庭園にマッチするようになってしまった。時間の流れは早い。さらにその後は六道珍皇寺へ。井戸を覗き込んで「兄さん会いに来たぞ」と言うミッションをこなす予定であったが,井戸まで近接できない残念仕様であった。道中に同行者が「牛丼を買っていかないと」と言っていたが,買っていかなくてよかった。間違いなく持て余していた。この辺で日が落ちたのでホテルに撤収。日が暮れてから南座を外から眺めた。ちょうど改修中であり,「まあ,天狗に壊されたんでしょうね」と多分ここに聖地巡礼に来たオタクの100人中98人くらいが言ってそうなジョークを言うミッションをこなした。この日は先斗町へ行って料亭で懐石料理を食す。金をかけずに美味いものを探すのは好きなのだが,金をかけて味が保証されているものを食べるのはそれはそれで趣深いのだな,という経験が積めたので,対価を支払っただけの価値はあったように思う。これ1食でガチャ◯回分か……と考えると世の中のことが何もわからなくなる気分になれる。人生は難しい。その後,ホテルに帰って就寝。


三日目:神戸
朝は辻利の直営喫茶店(都路里)へ。一服後は京都から阪急を使って一気に神戸(三宮)へ。少し時間帯が早かったが,さっさとホテルに向かった。何しろ,このホテルが今回の旅の最大の目的地なのだ。





ホテルモントレ神戸は1階のロビー,中庭と地下1階チャペルが『Fate/stay night』の言峰教会のモデルとなっている。中庭が一番わかりやすい。ホテルに入って中庭を見た瞬間の「あ,ここだ」感は非常に強い。“愉悦部部室”も同じく。ここを落ち着いて巡礼できるのは宿泊者の特権であり,まさしく愉悦の気分である。思わずソファーに寝っ転がってギル様と同じポーズをしてしまった。ところで,間違いなく同じ目的であろう宿泊客が全く同じルートでホテル館内をうろつき同じ角度で写真を撮っていたが,この御一行様,男性イケメン1人に女性3人という異色の組み合わせであった。奇しくも士郎くん+各ルートの女性でこの組み合わせになり,『Fate/stay night』の巡礼としてはこれが完璧なのかもしれない。女性陣がチャペルの長椅子に腰をかけながら「ここでガチャ回す?」という会話をしていたのが印象的であった。対抗してその場で侘び石を使ってガチャを引いた頬付は見事に星5のエレシュキガルを引き当てており,「愉悦……」と恍惚の表情であった。聖地で引くとご利益があるのだろうか。

なお,我々が急いでここの聖地巡礼をしたのには理由があり,このホテルモントレ神戸は2017年12月31日をもって改装工事に入り,休館してしまう。“言峰教会”の聖地巡礼ができるのは,年内が最後の機会なのである。みなさんも駆け込みで見に行ってはいかがか。その後は神戸中華街へ。ここで激辛麻婆豆腐を食っていたら,上掲の同行者の「言峰教会にきた」というtweetに対して「どうした、食べていかないのか」ってリプライがとんで来たのが,間違いなくこの旅行のハイライト。まさに今食べてるんだよなぁ……仕込みかというくらいにタイミングが完璧であった。

神戸中華街で腹を満たした後は,生田神社を通って,北野異人街へ。遠坂凛の家は2つの実在の屋敷をモチーフにしており,外観は最も有名な異人館の「風見鶏の館」。内装は「うろこの家」からとられている。そんなわけで風見鶏の館へ。




『Fate/stay night』とは関係なくそもそも超有名な観光地であるが,改めてじっくり眺めてみると確かにどう見ても遠坂邸の赤い屋敷である。なお,中を見学しているとFateの主要キャラを折った折り紙が飾ってあって,これだけ有名な観光地でも聖地になったという自覚はあるのだなとちょっと驚いた。



続いて,うろこの館の内装。こちらも見るとすぐにわかる遠坂凛の私室。ただ,アニメ等での描写に比べると実物は少し狭い。この広さではアーチャーが落下してきた時に,部分損壊ではすまず完全崩壊しそうである。あとはこの近くに,教会へ続く坂道の元になった坂道もあるので,必見。こうして北野を見終わったら,次は一転して海沿いに出て,モノレールに乗って神戸大橋へ。





これまたFateファンなら一発でわかる,新都へつながる橋。『Zero』でアイオニオン・ヘタイロイが展開されたり,『hollow』ではアーチャーの矢が飛んできたりしたあの橋である。ついでに言うと我々が写真を撮っていたのは北公園で,ここはセイバールート(Fateルート)で士郎とセイバーがデートの最後に来た場所であり,ギルガメッシュの襲撃を受けた場所でもある。さて,橋到着時点で17時頃で,ライトアップが18時半頃であったから,1時間半ほど時間を潰す必要に迫られた。いくらなんでも徒歩20分圏内に喫茶店くらいあるだろうと高をくくっていたが,このポートアイランド内はそうした施設が一切ない。結局モノレールの駅の待合室の暖房がよく聞いた部屋で待機することになった。あの辺,喫茶店もコンビニも他の観光名所も含めて本当に何もないので,後続の聖地巡礼者は気をつけよう。しかし,待ったかいはあって,

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見事な夜景の写真。「エクスカリバーが4本生えた」とは同行者の弁である。非常に満足した気分でモノレールに乗って撤収し,ホテルを経由してお夕飯へ。神戸牛を食した。最近「まあこれも言ってしまえばガチャ◯回分に満たないからな」という理屈のせいで,うまい飯のために高額を支払う心理的障壁が下がっている。怖い。その後はすぐにホテルに戻って就寝。


4日目:有馬温泉
起床後,ホテルのバイキングの朝飯を食べて出発。三宮駅からバスに乗って有馬温泉へ。到着したらとりあえず「余裕有馬温泉」をつぶやくミッションをこなす。いや,ここに来たのは『ゆるゆり』の聖地巡礼ではなく,『有頂天家族2』の聖地巡礼である。なにはなくとも金の湯へ。



ご存じの方も多かろうとは思うが,有馬温泉には金の湯と銀の湯がある。金の湯の温泉は薄めれば確かに金色に見えなくもないが,実際に入ってみると見事なまでに真っ赤で,「あ,これ別府でも見たわ」というのが第一印象。別府の場合,入れる温泉の色は割りと普通なので,その意味では有馬温泉の方が稀少である。いろいろと温泉に入ってきたが,これだけ真っ赤なのは初めてだった。その場で買った金の湯タオルも真っ赤に染色されてしまった。浸かり心地は大変良く,なるほど,都からこの距離でこんなに良い温泉があったら,権力者の連中は古代から通いつめますわなぁと体で納得した。そして聖地巡礼の続き。




例のポストと例の喫茶店のシュガーポット。この他の場面も密集していて巡礼しやすかった。一通り有馬温泉を観光したら新神戸に移動して,帰宅。今回もいい旅であった。

  

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2017年12月20日

京阪神旅行記(前編):『響け!ユーフォニアム』聖地巡礼・宇治陵

京阪神に諸々の聖地巡礼の旅に出たので,要点だけまとめて報告。今回は旅行中に撮った写真のほとんどは事前に自分または同行者がTwitterにあげていたので,それを転用する。

初日:宇治(・木幡)
言うまでもなく『響け!ユーフォニアム』の聖地巡礼。というわけで何はなくとも



通称“上手くなりたい橋”。ここから「上手くなりたい」と叫んでから練習すると,楽器やスポーツの上達が早まるという(嘘)。ところでこの時川辺で重機が工事をしていたのだが,何か新しく作るのだろうか。次に向かったのが平等院鳳凰堂。塗り直した後のものを見たかったのもあり,訪ねた。塗り直しにより新品同然になったことについて世論は賛否両論であったが,個人的には賛成で,別に侘びを売りにしている建物ではないのだから,当時のままの方がよいだろう。というよりも,外面だけ塗り直しても中途半端で,どうせなら内側も完全復元して雲中菩薩52体も全部再配置して,藤原頼通が見たままのものを見せてほしいと思う。平等院鳳凰堂から出たら門前の商店街は抹茶一色で,歩いているだけで抹茶の匂いが充満しているのがわかるのだからすごい。抹茶ソフトを食べながら移動して向かった次の目的地は,



橋姫神社。今回の旅行の写真で一番反応が悪かったのがこのtweetなのだが,おそらく東方ファンすら何のことだかわからなかったのだと思う。ググってもらうのも何なので東方ファン以外にもわかるように解説しておくと,ここは『東方地霊殿』の聖地の1つである。『東方地霊殿』の2面ボスの名前を水橋パルスィといい,嫉妬心を操る程度の能力を持った妖怪である。元ネタの宇治の橋姫伝説は,夫の浮気に嫉妬した女が生きながらに鬼と化し,復讐を果たしたというもの。「パルスィ」はパールシー,すなわちペルシア人の意味であるが,これを唐代の中国ではペルシアを「波斯」と書いた。さらにこれを日本語で読めば「はし」となる,つまりダジャレである。水橋パルスィの立ち絵を見ると「緑眼」になっており,彼女のテーマ曲も「緑眼のジェラシー」だが,英語でGreen-eyedは「嫉妬深い」の意味である。出典はシェイクスピアの『オセロ』だそうだ。なお,現地の橋姫神社は宇治の橋姫伝説の知名度から考えれば極めて寂れており,後述するように,それ以外の観光地を見ても,宇治の方々は平等院鳳凰堂と『源氏物語』宇治十帖という二大観光資源が大きすぎて,他の観光名所を持て余している印象を受けた。少なくとも橋姫神社くらいは,橋姫の嫉妬を受けて大変なことにならないうちに整備してあげてほしい。ついでに言うと,橋姫も一応「橋姫ちゃん」というゆるキャラ化・グッズ化されており,この子は赤眼であった。

続いて宇治から北に2駅,木幡に移動。真っ先に行ったのは京アニショップだったが,16時閉店で入れなかった。平日だから仕方がない。これをスルーしてもう3分ほど歩くと,見えてくるのは許波多神社である。藤原基経の墓があると聞いていたし,なにせ木幡駅から歩いて5分,京アニショップから歩いて3分の立地であるから,小さくはあれどそれなりに整った神社なのだろうと思っていったら,ここもこの上なく寂れていた。行った時には地元の小学生がダンスの練習をしており,神社に入ってきた我々は明らかに不審者であった。これはこれで神社のあり方としては正しいとは思うものの。おかげで藤原基経の墓を探すのにも一苦労であった。鳥居をくぐれば全景が見渡せてしまうような規模であるにもかかわらず,5分は探した。というわけで,



これが,かの日本史上初の関白に就任した藤原基経の墓である。橋姫神社以上に,知名度に比して何もない。今から『応天の門』が大ヒットして歴女の皆さんが聖地巡礼してここが整備されるという未来はあるのだろうか……。

さて,あえてここまで説明せずに書いてきたのだが,この極小規模の墳丘,正確には「宇治陵36号」と呼ぶ。そう,36号なのである。実は宇治には「藤原北家一族の墳丘墓が無数にある」ということだけわかっていて,宮内庁により一応番号付けがされて管理されているが,今ひとつどれが誰の墓なのか確定していない墓が多い。あまりにも被葬者が確定できないがために,最も大規模で被葬者も確定している1号が代表とされ,総遥拝所(ここに参拝したら全部回ったことにしてよい)となった。ただし,その1号の被葬者は嬉子や威子等の皇女等であり,摂関を継いだ人物は一人として埋まっていない。つまり,藤原基経は36号と推定がついていてしかも神社の境内で静かに眠れているだけマシ,というよりも大いに恵まれている。

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これがその1号墳。確かにここはそれなりに大きかったが,それでも全く観光地化されておらず,管理所っぽいものもない。それでも他に比べると整っている。



そしてこれらが,どちらかが藤原道長の墓とされている32号・33号墳。こんなにも無常を感じる光景はそうそうない。完全に住宅地に埋もれていた。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだあの藤原道長の墓が,現在こうなっていようとは,日本人の99.9%は思っていまい。今回の旅行で最も感情が揺れ動いたのは間違いなくこの場所で,自分で予期していた以上に,自分の中の無常観に訴えかけてくるものがあった。探すのはかなりの困難を伴うが,皆も探そう32号・33号墳。なお,3枚目の画像は,往時にはこれらの墳墓を管理していた藤原北家の菩提寺,浄妙寺の跡地であったことを示す看板である。浄妙寺跡は現在小学校となっており,この小学校建設の際の発掘調査で実在が確認された。1970年頃のことだそうなので今から40年以上前のことではあるが,それまであの藤原北家の菩提寺の所在地も正確にはわかっていなかったというのも,また無常の極みである。後世の摂関家はどうしていたのかと思い調べてみると,平安末に五摂家に分裂した段階で宇治の墳丘墓は放置されるようになり,浄妙寺も鎌倉時代に衰退して15世紀後半に焼失したとのこと。


初日はこの後,完全に日がとっぷり暮れてしまった後ながら伏見稲荷を訪れ,千本鳥居を四の辻まで登山。夜の伏見稲荷は,夏場は肝試しスポットとして賑わうそうだが,この冬場では閑散としており,これはこれで趣深い。途中,やたらと人間に慣れた野良猫と,空を自由に闊歩するムササビを見かけるという僥倖も得た。さらにその後は大阪に移動し,すっかりミナミの人間になっていた友人と旧交を温めて就寝。翌日,午前中に軽く大阪観光(真田丸と心斎橋・なんば)をした後,午後から京都の洛中に移動して,再びアニメと歴史の聖地巡礼の旅に戻った。(続く)
  
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2017年08月29日

岩手旅行記(後編)

15日:遠野〜焼走り熔岩流〜八幡平
この日も早めに起きて朝食後,早めに出発して遠野へ。遠野行きに関しては同行者二人に「あそこ行って何するの?」と言われていて,私自身「様々(『咲-Saki-』『東方』etc.)な作品の元ネタ巡礼的なチェックポイントやから(震え声)」と返事していたわけだけれども,着いてみるとなかなかコンテンツ力が高かった。まず単なる妖怪押しというよりは「妖怪が出てもおかしくないような昭和前期頃の日本の田舎」押しに切り替えているのが正解。そしてそのイメージの塗り重ねは成功している。たとえば以下のような。




どこを回ったらいいのか今ひとつわかりづらいという欠点も自覚していて,とりあえず遠野ふるさと村(上の画像の民家はここ)か,伝承園に行けば観光スタートの拠点になる仕様。私としては,遠野ふるさと村は他の観光施設からやや遠いので,伝承園スタートを勧めたい。伝承園からは必然,昔は河童が住んでいたというカッパ淵に行くことになるが,その道中が見事な

遠野・ホップ畑


ホップ畑だった。昭和前期頃の日本の田舎雰囲気押しをしていていきなりこれが出てくるのはインパクトがあり,かつ意外にも雰囲気は崩れていない。もちろん地ビールもある。遠野でホップ畑・地ビールなんて東方的にはなんて奇遇な。着いたカッパ淵は見事なまでに何の変哲もないただの沢で(しいて言えば水はかなり綺麗),しかしそこにカッパという文脈ときゅうりを餌にしてカッパ釣りができるというお遊びを加えることでここは強い観光名所に変貌した。

カッパ淵・カッパ釣り


このシュールな光景,バカバカしさが一周まわっておもしろいのである。到着した観光客,特にご家族一行はきゅうりを釣り竿にかけていた。子供たちは決して何も釣れない釣りなのに楽しそうである。なるほど,無から有を生み出す観光の工夫とはこういうことかと変な感心をしてしまった。なお,きゅうり専用釣り竿の貸出は1本200円で,伝承園でカッパ釣り許可証を兼ねて貸し出されている。きっちりと金をとっていて,かつぼったくり料金でもないのもポイント高い。カッパ淵観光で謎の感動を得た3人は伝承園で昼飯を食う。岩手県名物「ひっつみ」はぶっちゃけて言えば「ほうとう」であって,まあどこにでもあるものではあるのだが,美味いことには違いなかった。結果的に,最初は2時間も滞在するかどうかと言っていた遠野観光は4時間以上滞在し,強い満足感を得たのであった。

次に向かったのが岩手山の麓,焼走り熔岩流。ここは岩手山から流れ出た溶岩が冷えて固まった跡地であり,一面黒々とした岩石が転がる荒野が見られる。これがすばらしく壮観で,たとえばこんな感じ。

焼走り熔岩流

焼走り熔岩流2


実はこの日は天気が悪く霧が出ていたのだが,そのおかげで視界が狭まり,かえってより強く一面の荒野を感じることができた。霧に浮かぶ島状の樹木も幻想的で良い。焼走り熔岩流が特殊なのは噴火からすでに約300年が経過しているのにほとんど植生が変化していないという点だ。普通200年もたてば,新たに噴火でもない限りすでに森林に戻っているはずである。しかし,地衣類が繁殖し始めたところで遷移が止まってしまっていて,わずかに島状に点在する孤立した樹木が存在するのみである。これだけ遷移が遅い・止まっている,しかも風雨が強くきっちりと風化するはずの環境であるにもかかわらず遷移が遅いというのは世界的に見ても珍しい地形だそうだ。現地には一般人が通行可能な散策路が用意されていて,歩くと片道1時間ほど。これはお勧め観光スポットである。


この日はここでタイムアップで,ここから八幡平へ。この日の宿は八幡平の山奥,標高1400m地点にある藤七旅館。事前の調査・噂の段階で「温泉はすばらしいがその他は……」「山小屋だと思って泊まった方がいい」ということを聞きつつ,温泉目当てで予約した。またそんなエクストリームな宿を……。なお噂の真相はだいたいあってた。建物全体が大きく歪んでいて明らかに傾斜があるし,普通に歩いているだけで床がデコボコしている。夕飯の味も微妙で,素材は悪くなさそうなのでこれは調理の問題ではないか。一番美味かったのがごまどうふってあたりで察していただきたい。確かにこれは「旅館っぽい飯が出てくるだけ,山小屋よりはいい」と考えた方がいい。立地が立地なので,この辺は不満を言うだけ無駄である。

一方,温泉は良い意味での噂通りで,旅館から露天風呂までのけっこうな距離を,素っ裸のまま・真っ暗闇の中で歩いて移動してから入浴するというワイルドさあふれる温泉であった。温泉の底も一応木の板が敷いてあるが,湯の花と地面の泥が混ざった白い粘土が堆積していてドロっとしていたりする。このワイルドさはこの旅館の売りであり,旅館のアンケートにまで「ワイルドさはいかがでしたか」という項目があって笑ってしまった。旅館から発せられる電灯と申し訳程度の湯船付属の弱い電灯以外に一切の光がないため,晴れていれば満点の星空の下での入浴であったはずだが,残念ながら前述の通り今日は曇りであった。それでも真っ暗闇の中,無駄に高まったハイテンションの状態で入る温泉は非常に楽しかった。


16日:八幡平〜小岩井農場〜帰宅
最終日。この日も早めに起きて,例によって微妙な味の朝食を食べて出発。まずは八幡平を登る。登ると言っても名前の通り頂上付近が平らなことが特徴の山であり,非常にゆるい勾配の登山道を登って,標高約1600mの頂上に到達。展望台からは,確かに頂上付近がほとんど平らになっていて,森林限界も超えていないことから比較的高めの森林がかなり遠方まで続いているのが見えて絶景であった。そしてドローンとかいう大人のおもちゃを持っている我々はここで飛ばして遊んだ。今回も桜島同様,気になって寄ってくる他の観光客が多数であった。まだまだ普及しておらず,そういう存在よなぁ。今回は隙間坊主Pが編集した動画があるので,紹介はそちらで。彼はいつの間にこんな技術を。八幡平の絶景は,ドローンから見るとこう見える。ぽつぽつ見える池は旧噴火口に水が溜まった物とのこと。



最後に小岩井農場へ。昼飯を食べて,産地直送の牛乳を飲んで,今回の旅最後のミッションをこなす。小岩井農場は日本の最初期の畜産技術を培った建造物として,園内建物のいくつかが重要文化財に指定されており,これらを見学することができる。一応現在でも使用している「生きた重要文化財」ということであったが,さすがに施設が古くて不衛生であった。飼っている頭数から言っても,ここの牛はほとんど純粋に観光用であろう。

小岩井農場観光を終えて午後3時頃,そこからは一直線に東京に戻った。途中で渋滞に捕まったことあり苦難の帰り道となったが,なんとか日付が変わる前に帰宅した。概ね上手くいった旅行で思わぬおもしろさも多数あった旅行と言え,満足度は高い。やり残しとしては,まず仙台の青葉城。次に平泉の厳美渓&猊鼻渓。岩手は今回山沿いを攻めたので,浄土ヶ浜をスルーしている。わんこそばも本家の盛岡or花巻で食べる必要があるだろう。まあこの辺は急いでいないので10年後くらいに。

これで経県値は173点となり,残る空白は山形県と青森県だけになった。山形県はひなた荘の残る聖地の銀山温泉があり,青森県は恐山に行きたいので,この2つはなるべく早めに,遅くとも2・3年中には行くと思う。経県値を気にせずに次の旅行先を考えるなら,『ユーフォニアム』の聖地巡礼で宇治か,『有頂天家族』の聖地巡礼と湯治を兼ねて有馬温泉かな。
  
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2017年08月28日

岩手旅行記(前編)

コミケ後に岩手旅行に行ってきたので,その報告を。メンバーはいつもの頬付・隙間坊主。


13日:仙台
コミケ終了後,即座に首都高へ。21時仙台を目標にそこから運転手たちがなるべくがんばっていたけど,残念ながら着いた時点で21時は過ぎていた。一応事前にはてな村的美味しい店探し手段「zaikabou 仙台」で検索する等してリサーチはしていったが,全体的に店は閉まり気味であった。結局「Google mapのレビューはまだ汚染されていない理論」を用いて適当なお店に入ったが,十分に美味かった。牛タンの味噌焼きなるものがあり,「(元)愛知県民相手にいい度胸だな」からの「あ,これ味噌の味が牛タンの食感によくあってめちゃくちゃ美味しい」という即落ち2コマシリーズのようなことをした。コミケの疲れもあり,ホテルに戻って即爆睡。


14日:松島〜平泉〜花巻温泉郷
仙台は「青葉城くらい見ていくか」という案もあったのだが,「どうやら松島は早朝に行かないと死ぬほど混むらしい」という情報をつかんだので,仙台観光は前日夜の牛タンだけで終わりになった。青葉城はまた今度の機会ということで。仙台はどうもめぐり合わせが悪いのか,仕事の出張を含めて3度は行っているのだけれど,一度もきちんと観光していない。ただし,今回の判断は完全に正解で,松島は午前10時を過ぎたあたりから異様な混み方をし始めた。観光名所間の歩道を歩く人が目に見えて急増していたし,仙台から松島に向かう道からして駐車場待ちの渋滞を起こしていて一歩も動かない状態だったのが帰り道に見えた。さすがは日本三景。天橋立はアクセスが悪く,宮島は広いからこういうことにはなっていないのだろうと思う。松島は仙台からすぐそこである上に,湾が狭く名所が密集している。

その松島であるが,良くも悪くも整備された観光名所である。周りやすく施設が充実している分,いたるところで金をとられる印象。行ったところで一番良かったのは,景色ではなく瑞巌寺。庭も建物も所蔵する美術品も見事で,ここはむしろ入館料700円は安いくらいの価値がある。特に本堂は長谷川等伯の高弟,長谷川等胤の筆による障壁画で飾られており,美術史上の一級品ではないにせよ,桃山文化の地方伝播を象徴する遺産としては完璧と評する他ない。庭は震災の被害が抜けきっておらず復旧中で,今年9月に全面公開予定となっていたが,見た感じ間に合いそうにない。というよりも樹齢何百年かの松並木の三分の一が塩害で枯れたため,それらを伐採して若木を植えている状態であるから,完全な復旧は何十年後になるだろう。気の遠くなる話であるが,残っている松並木だけでも十分に見応えがあった。松島は沖合の島々に守られたおかげで立地の割には震災被害が少なかったとのことだが,こうしたところで残っている。松島脱出前にずんだ餅を食し,今旅のミッションをまた一つクリアした。


そこから平泉に移動。わんこそばを食すというミッションをこなす。

平泉わんこそば


しかし,後から知ったのだが,わんこそばは平泉と盛岡・花巻で流派が違う上に,盛岡・花巻が本家らしい。なんだか中途半端にミッションをこなしてしまった感がある。それはそれとするなら,わんこそばは予想していたよりも美味かった。ただ,「美味かったのはわんこそばではなく,その店」説があり,わんこそば自体に味の特徴があるイメージは無い。この辺の真相を解くためにも,やはり盛岡か花巻で再度わんこそばを食す必要があるだろう。

平泉ではそのまま中尊寺と毛越寺を拝観。金色堂を見たのは初めてだったので,さすがに感動した。毛越寺は,後世の枯山水や回遊式庭園ではない,平安末〜鎌倉時代の浄土庭園がよく残っており,かつ曲水の宴の跡も見つかっている貴重な寺院である。当然だが,発掘された曲水の宴跡としては日本で最北端とのこと。

毛越寺・曲水の宴


同行者に曲水の宴とはなんぞやと聞かれたので一通り説明したところ,隙間坊主が「夏草や兵どもが夢の跡」を本歌取りして「平泉 滅びすぎてて 草生える」という見事な現代語訳を詠んでくれた(詩情から言えば「草も生えない」にしたいところだが字余りである)。彼は酒を飲まされずに済むだろう(なお彼は下戸であり実際に一滴も飲めない)。一方で本堂以外の建物はだいたい全部焼け落ちているのだが,これは実は奥州藤原氏が滅んだ時ではなく1573年の戦乱だそうで,なんだかもったいない。なお,ここの宝物館はキャプションがやたらとポエティックで鎌倉幕府を敵視しており,我々は他人事なので静かに大爆笑しながら見ていたのだが,あれ,鎌倉市民の観光客で怒る人が出てきそう。

こうして1日で瑞巌寺・中尊寺・毛越寺と周り,さりげなく『奥の細道』巡礼になっていたのだが,ここで我々は山形県立石寺には行かず,そのまま北上。花巻温泉郷へ行き,やってきました。




『ラブひな』の聖地巡礼地,藤三旅館。同行の頬付に「五体投地あくしろよ」と煽られたが,普通に旅館に迷惑なのでお断りした。藤三旅館側も『ラブひな』を知っていて売りにしているのが少し驚きだが,この旅館はそれ以外にも宮沢賢治ゆかりの旅館でもあり,温泉も後述するようにユニークで,付加価値がすごい。なお,ひなた荘はここ藤三旅館と,山形県銀山温泉の小関館を組み合わせて作られたものなので,聖地巡礼的にはまだ半分といったところ。ただし,小関館はすでに旅館業をやめていて日帰りのみになっているので,「ひなた荘に泊まった」と言えるのはすでに藤三旅館だけである。

さて,藤三旅館の温泉は合計4つあり,その中に露天風呂があるのだが,同行頬付がアブにたかられまくるという珍事が発生した。以後頬付は温泉に入るたびに「ここはアブがいないから良い」というようになってしまったのだが,実際とんでもない量のアブが飛んでいた。夏場の山奥の露天だから温泉側にそれほど否は無いというか,私や隙間坊主はあまりたかられずそれほど不快でもなかったので,頬付くんは多分アブに好かれる異種族間系ラブコメ体質なんだと思う。それ以外の温泉で,藤三旅館の最大の特色となっているのが白猿温泉(こっちは屋内)。これは深さが約1.25mある立って入れる珍しい温泉で,いい経験になった。

お夕飯を食べて就寝。後編に続く。

  
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2017年05月14日

九州縦断旅行記

博多から鹿児島まで,レンタカーで九州を縦断する旅行に出かけたので,印象に残ったもの等を。

初日:東京〜博多〜太宰府〜阿蘇〜別府
自宅を出て地下鉄に乗ると,いきなり北朝鮮がミサイルを射ってメトロが10分ほど止まるという事態に。その後急いで羽田空港に向かうと,手荷物検査場が大混乱であった。自分が手荷物検査を抜けた時点ですでにちょうど出発時間だったのだが,振り返ると後ろにまだ30人以上いるという大惨事。結局出発したのは当初予定時刻の10分過ぎというエクストリーム離陸をかましたが,それでもほぼ定刻に到着したのだからANAさん偉い。

そして博多に現地集合し,レンタカーを借りて出発。博多は見るものがさしてなく早々に脱出。博多は大都市であったが郊外はすぐに「典型的な日本の地方都市」感あふれる風景になり,本当にどこも変わらんなと。少し南下して太宰府天満宮へ。北野にはお参りしたことがあるので,これで2箇所とも制覇である。飛梅を見て参拝し,「来年こそは世界史の悪問が減りますように」とお願いしておいた。名物「梅ヶ枝持ち」を食すも,梅要素のなさに驚く。ただのあんこの入った餅やんけ……飛梅は思っていたよりも小さく,思わず見逃すところであった。飛梅とは別に樹齢1000年を超えるとされるクスノキがあり,こちらの方がご神木っぽいので,行った際はご覧あれ。なでると頭がよくなるという牛の銅像は,太宰府では行列ができていた。同じものが北野天満宮にもあり,あちらはなでている人はいても混雑しているというほどのものでもなかったが,この違いは一体。あと気になった点といえば,場所柄か中国人・韓国人の方が多かった。向こうも受験戦争が激しいからな……そういうわけでいろいろなものが4(5)ヶ国語表記で好感が持てる。たとえば御手水。

太宰府天満宮御手水


時間が無かったので,隣接する九州国立博物館がスルーした。今回はそのまま南下し,一瞬だけ佐賀県に入って鳥栖,福岡県に戻って久留米・八女を通って熊本県に入り,熊本市で東に曲がって阿蘇へ。いきなり団子を食す。芋とあんこのハーモニーがよく,これは美味。東京で売ってたら買おう。阿蘇はミルキーロードをぐるっと回りつつ火口へ接近。阿蘇の風景は非常によく,カルデラ地形ってすばらしいなって。

IMG_5903


道中,持参した『けものフレンズ』1・2巻のBDを車内で流そうとするも,レンタカーがBD未対応で挫折。ジャパリパークで『けものフレンズ』を見るという野望が潰えた瞬間であった。さらに火口では無慈悲な進入禁止。博士の許可が得られなかったのなら仕方がない。しかし,進入禁止期間が長くなっているのか,火口付近の施設はどれも寂れており,ロープウェーはロープ自体がなくなっていたし,売店・レストランは廃墟と化していて「窓割れてね?」状態でお前それ別のアニメやんけ,とは同行者の弁である。火山に頼った観光業,相手が自然なだけにままならず,難しい。

阿蘇を抜けたら大分で,そのまま別府に直行。本当は由布院にも行きたかったがやはり時間不足であった。これ,九博+阿蘇火口+由布院で1泊分の観光時間くらいの価値があったと思われ,1泊足せなかったのが今からでも悔やまれるが,サラリーマン時間とれない。初日は別府で宿泊。夕飯は地獄蒸しと関サバを中心に。別府の湯けむりはすごかった。私も同行者もけっこういろいろと温泉街に行っているが,ここまで街中もくもくしているとなると他に無い。写真を載せたいところだがホテルの位置が割られる危険があるので割愛。


二日目:別府〜霧島
午前中は別府市内観光。地獄巡りに行った。ここから,これから別府観光をする予定がある人のために,重要なことを書く。地獄と称される温泉噴出口は別府市内に多数あるが,そのうち代表的な物8つが主な地獄巡りの名所になっている。そのうち7箇所は別府地獄組合に加盟していて,1箇所ごとに500円,7箇所共通の共通観覧券なら2000円となっているなら,全部見るなら共通券を買ったほうが安い。唯一組合からも共通観覧券からも外れている「山地獄」は1500円かかる。つまり,8箇所全部回るなら合計で3500円かかるということになる。また,8箇所のうち2箇所(「血の池地獄」と「龍巻地獄」)は場所が大きく離れていて,徒歩で行くのはあまりお勧めしない。現地に徒歩で行けるようなことが書いてあるが,騙されてはいけない。

我々は今回2000円払って7箇所は回ったのだが,その感想を言うと,スタンプラリー的に7箇所全てを回っても時間の無駄にはならないが,純観光的に言えば「鬼山」と「かまど」だけ行けば十分である。一般的に別府の地獄巡りで一番有名なのは「血の池」だと思うが,実は血の池っぽい赤い池も,「海」や「白池」っぽい青い池も,「鬼石坊主」っぽい泥の池も,全部「かまど」に同じような池があり,あそこだけ行けば地獄巡りで見たい奇観は大体全部見れる。

かまど地獄


この写真は血の池地獄っぽく見えるが,かまど地獄で撮ったもの。ただし,かまど地獄のものはどれも比較的小さめで,不思議な色に染まった巨大な池がみたいのなら,やはり7箇所全て回るべきだろう。

鬼山地獄


もう一つ挙げた「鬼山」はご覧のように大量のワニを飼育していて,見るべきは温泉噴出口というよりはその熱水を利用したワニ園という状況になっているが,あまりにも大量のワニが壮観なので,あれはあれで見る価値がある。同じような形で「白池」には熱帯魚館があるが,あれなら水族館に行った方が多種多様な熱帯魚を観賞できるレベル。また「白池」には二豊南画堂なるミニ美術館があって,江戸後期の南画のコレクションがあるが,これも大したものではない。しいて3つめを挙げるなら「龍巻」で,これは他の6つと違って池にはなっておらず,間欠泉である。噴出感覚が短い(30分以内)上に一定であるという稀有な特徴を持っているので,「行ったのに見れない」という間欠泉観光特有の欠点がなく,確実に噴出しているところが見られる。ただし,前述したようにこの龍巻と血の池だけやけに場所が離れていて,正直地獄巡りという同一コンテンツで括るのにはかなり無理がある立地であるので,その点注意されたい。

地獄巡りで午前中を全て使ってしまったので,午後は一気に移動。その際に,てっきり宮崎県を縦断して鹿児島に入るものと思っていたが,カーナビが示したルートもグーグルマップが示したルートも熊本に戻って熊本県を縦断せよ,というものであった。調べてみると,たしかに直線距離は宮崎県を縦断したほうが短いのだが,宮崎県は極端に交通の便が悪く,何より高速道路が途中で寸断されている。ゆえに大回り気味になるものの熊本経由でずっと高速に乗っていた方が結果的に早い,ということだった。宮崎県,ただでさえ観光名所があまり無くて今回の旅でも素通り予定だったところ,とうとうほぼ全く通らないことに。他人事ながら,観光で死にたくないなら早めに手を打ったほうが良いと思いますよ,マジで。鵜戸神宮と高千穂峡だけだと,ちょっと弱い。

そういうわけで初日のルートを逆流して熊本市へ,そこから南下し,えびのJCTで一瞬だけ宮崎県に入り,鹿児島県の霧島温泉郷へ。二日目はここで1泊。その際に泊まったのが霧島ホテルなのだが,霧島ホテルの温泉が頭おかしかったので紹介しておく。何よりめちゃくちゃ広い大浴場が特徴で,最大水深が1.4mもあり,温泉プールといった様相。広いだけでなく温泉の種類も多く,塩類・明礬・鉄・硫黄とある。成分量もかなり濃く,湯の花の量もすさまじく,付着しきれずに粉のまま漂っているのはなかなか見られない光景。これでも加水しているそうなので恐ろしい。加水しなかったら別府の地獄状態なのでは。館内にある説明を読むと,ここの温泉は湯量が豊富であったものの,温度が約60度とそれほど高くないので立地のいい場所まで流す間に冷めてしまう&前述の通りとんでもなく濃いのですぐに管が詰まってしまうために,無駄に全部近隣の硫黄谷に流し捨てられている状況であった。そこでこのホテルの創設者が「だったら源泉の真上にホテル建てればいいじゃん」と考え,時は幕末の約150年前に巨額の資金をつぎ込んでこのホテルを創設した,ということが語られている。慧眼と言わざるをえない。温泉は一部を除くと基本的に混浴で,ここが少し難点。混浴自体が悪いわけではないが,19:30〜22:00はほぼ全面的に男性入浴禁止となるので,日帰りの場合は女性が入りづらく,泊まりの場合は絶好の時間帯で男性が入れないという状態になっている。我々は夕飯の時間帯を遅らせてもらって,18時頃から19時まで入ることにした。泊まりの男性客は,どうしても夕飯前か22時以降ということになると思う。お夕飯も美味かったし,混浴と立地以外は何も言うことがない。お勧め。


三日目:霧島〜桜島
三日目の朝は霧島神宮へ。

霧島神宮


何度も補修しているだろうとはいえ,創建300年とは思えない保存状態の社殿が非常に美しく,一見の価値あり。それはそれとすると,観光名所としてはコンテンツが少なすぎた。商売っ気がなさすぎるのも悩みどころで,社殿以外には特に見どころがなく,社殿に関心がない場合は滞在時間10分で終わってしまうだろう。神社はあくまで信仰の場であると考えるのならそれも正しいのだが,特に『咲-Saki-』の聖地巡礼を兼ねて見に来た身としては「九面どこだよ」という話であり,実は祭事に使う日を除くと霧島神宮では見ることができない。売店で九面キーホルダーが売っているのが唯一である。九面は神宮からはそれなりに離れた霧島歴史民俗資料館に展示されているというのを旅から帰ってきてから知った。自分の調べが足りていなかったのも悪いのだが,九面の展示場所くらい案内が欲しい。

さて,霧島神宮が思っていたよりもすぐに終わってしまったので,天の逆鉾を見に,高千穂峰をうかがってみることにした。麓の高千穂ビジターセンターで見ると,標高1574m・目標時間:100分と書いてあったので,「標高差600mほど,往復3時間なら楽勝では」と気軽に登り始めた。実際,3分の1地点までは楽勝そのものであったものの,そこら辺で突如として風景ががらっと変わり,岩がゴツゴツし始め,見上げた風景が

高千穂峰中腹


これで,「あ,これガチ装備がないとマジで滑落するやつだ」と悟って断念した。知っていれば登山靴を持ってきたのだが,当初の予定ではそもそも登る時間があるかどうかもわかっていなかったので,仕方があるまい。どうせ九面も見そびれているし,10年単位で将来になるだろうが,リベンジ対象として残しておこうと思う。結局,同行者で唯一ストックとグローブという完璧な登山装備をなぜか持ってきていた頬付が,一人で登頂。無事,天の逆鉾を写真に収めて帰ってきた。えらい。

高千穂峰頂上:天の逆鉾


のだが,実は宮崎県側からの登山道もあり,こちらは斜面が緩く時間がかかる(往復4時間半)ものの,別に装備がないと死ぬような斜面がないということを,これも帰宅後に調べ直して知った。しかも山頂に刺さっている天の逆鉾は実はレプリカで,本物は江戸時代に噴火の際にぽっきり折れてしまいしかも行方不明であるという。そして全く同じレプリカはビジターセンターにも展示されていたりする。




これ。なんかもう,一周回っておもしろすぎないですかね。本物がないということは,二度と国産みできないんですがそれは。

下山後は再び車に乗って移動し,旅の最終目的地,桜島へ。今回も頬付持参のドローンを飛ばして遊んでいた。現在観光客が入っていい最高地点が標高470m付近で,火口が約1100mなので,高度500mのドローンでは微妙に火口が見られず残念であった。さすがにまだまだドローンは物珍しいようで,飛ばしていると周囲の観光客が興味津々で見に来るのがおもしろい。余談ではあるが,タイムリーにもこんなニュースがあった。この日のホテルは桜島内で,オーシャンビューが非常に綺麗な温泉に入って満足。夕飯の豚も美味しかった。


四日目:桜島〜帰宅
三日目の深夜に桜島が噴火するというミラクル。朝起きてホテルを出発するとレンタカーの走った道は噴煙巻き上がってるし,歩こうとすると一面灰色でジャリジャリ音がするしで,おまけに

桜島


葉っぱにまで灰が積もっているという。さすがは桜島聞いていただけのことはあった。この日は桜島ビジターセンターに行って火山のお勉強をした後,フェリーで鹿児島市内に入り,ちょっとだけ仙巌園を見学して,ほぼ終わり。レンタカーを返した後は鹿児島中央駅から新幹線で帰宅した。一番面白かったのは霧島ホテル,次点が別府の地獄巡り,三番目が高千穂峰(登頂失敗)だろうか。急に計画を立てたので調べが足りなかったところが多く,とりわけ登山装備を持っていかなかったのは悔やまれるところだが,十分に満足はしている。

ちなみに,次の国内旅行の予定であるが,
・あとは北東北に行けば47都道府県踏破が完成するので,東方と『咲-Saki-』の巡礼(遠野)を兼ねた北東北旅行
・ユーフォニアムと真田丸の聖地巡礼を兼ねた京都・大阪旅行
くらいかなぁと。海外は当分考えていないが,行くとするとUSAの東海岸か,ドイツのベルリン近辺かな。  
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2016年12月27日

栃木県旅行記(鬼怒・日光周辺)

うだうだ書かずにいたら一ヶ月経ってしまったが,先月の中旬に二泊三日で栃木県の方に旅行に行ったので,報告を簡潔に。


・龍王峡
ご覧の通り,典型的な美しい峡谷である。龍王峡の場合は火山から噴出した火成岩が水流によって削られてできた峡谷だが,厳密に言うと岩の種類によって岩肌の色や削られ方が異なり,3つのゾーンで少しずつ異なった景観を見せている。おそらくほとんどの人がイメージする龍王峡は最も手前にある「白竜峡」で,いわゆる「主な見どころ」的なスポットも大多数がここにある。

龍王峡3
龍王峡1


名前の通り,そしてご覧の通り,岩肌は真っ白に近く,岩はかなり柔らかいようで水流によってゴリゴリに削られており,奇岩,あるいは「山水画によくあるやつ」と言っていいような形の岩がゴロゴロしていた。岩がもろいせいか亀裂が多数入っていて皴法にしか見えず,松の木も無理やり生えるのに成功しており,これらがまた山水画っぽさを助長している。岩肌の白さと,透明度の高い緑色のコントラストがすばらしく,その意味では水墨画というよりも青緑山水画,端的に言って真っ先に思い出したのは川合玉堂の絵であった。まあ,あれは多摩川上流なのだが。自分の感想はそんな感じだったのだが,同行者が「どう見ても少年漫画で修行する場所」とか言い出し,そう言われるともうそうとしか見えなくなった。あー間違いないわー,ここで飛天御剣流の修行してそうだわー。岩の亀裂も必殺技の修行の跡ですね間違いない。

白竜峡のゾーンを過ぎると次に来るのが「青龍峡」で,看板を超えるとすぐに岩肌の色ががらっと変わるのでおもしろい。そして確かに青い。またこの辺の岩は水に触れた部分は赤茶けていた。明らかに岩の成分ごと違う。

龍王峡2


また,岩が若干硬いのか,こちらは剣撃で割れたような亀裂が岩に入っておらず,切り立った崖になっていることもあって,これはこれで「ザ・渓谷」という様相に。この白竜峡と青龍峡の境目までがスタート地点から大体30分ちょっとで,ここで折り返すとジャスト1時間ほどで帰ってこれるちょうどいいハイキングコースになる。個人的には青龍峡も越えて次の「紫龍峡」まで見てみたかったのだが,諸事情により行程が遅れ気味だったのと,同行者が歩く気なさそうだったので,ここで引き返した。ついでに言うと,狭義の龍王峡はその紫龍峡までになるが,ハイキングコースとしてはまだ先が存在していて,最後まで歩くと片道3時間コースになる。ゴール地点はちょうど川治湯元になるので,温泉もあるし東武鉄道も通っている。がっつりハイキングしたい人はフルで歩いて温泉に入って買えるとちょうど良さそうである……というよりも,思っていたよりも良い場所だったので,ここはそのフルコースで歩くべく,来年の夏か秋の早々にリベンジしたい。


・加仁湯
今回の旅行が栃木県になった決定打。ここは鬼怒川温泉ではなく,奥日光でもなく,奥鬼怒温泉である。ここ以外にも奥鬼怒温泉の宿はいくつかあるが,数は4つと多くない。その中では加仁湯は有名な部類らしく,若干矛盾のある表現になるが「有名な秘湯」である。ということで奥鬼怒温泉まで行ったわけだが,驚くべきことに,途中で公道が無くなる。つまり一般車では途中までしかたどり着けない。もっともこの公道もかなりすごかった。しっかり舗装されていたのでその意味ではまともな道だったが,むしろよくこんなところを舗装したなと思うようなうねりの効いた山道である。で,舗装が途切れたと思ったら「一般車通行禁止」の看板と大きな駐車場が見えてくる。ここで降りろということだ。

そこから先は温泉宿が出しているバスに乗るか,ハイキングで行けということになる。逆に言ってバスが無かったら強制的に歩いて行くしかない。幸いにも17時頃に「これが最後」というバスに滑り込みで乗れたので歩きは避けられた。実のところ距離はそんなになく,楽勝で歩ける距離(加仁湯のHPには1時間半ほどと書いてある)だが,歩くとしたら日中昼間しかダメだろう。日没しかけの17時からここを登山したくない。
1.車道と歩道の区別がない上に狭く,公道ではないので交通量は極めて少ないものの,夜中にすれ違ったらまず避けられない
2.落石がむちゃくちゃ多いらしく,ガードレールが全てひん曲がっていて全く機能していない
3.滑落したら間違いなく死ぬ

加仁湯帰路


画像は帰路に撮ったものだが,ガードレールはマジで大体ずっとこんな感じ。そういう意味ではバスでも割りとスリルがあって楽しかったです(震え声)。バスの運転は安全運転で問題なかったけども,そういう問題じゃない。これは龍王峡をガチハイキングしてバスを逃していたら我々は大変なことになっていたのでは。日本で東京から半日で来れる場所にまだこんな場所があったんやな……という新たな発見であった。一応,加仁湯や八丁の湯で検索してみると,やはり午前中に上って温泉宿で温泉につかり,昼飯を食べて下山というハイキングと温泉を複合した楽しみ方をしている人が多かった。良い休日の過ごし方だと思う。

温泉は濁り湯で,泉質は大変良い。ただし,温泉の温度は一切湯もみせず垂れ流し状態であり,湯船によって全く温度が違うので要注意。いくつかの湯船は明らかに人間の入っていい温度ではなかった。お夕飯は一般的な旅館の夕食という感じで可も不可もない。山奥らしさはイワナに,栃木県らしさはかんぴょうに現れていたかな,というくらい。まあ,ご飯で売っている旅館ではないので。施設は超絶ボロいことを想定していったが,思っていたよりも新しくて快適だった。ネットのレビューを見ると中にはやはり「ひどい」としているものもあり,部屋によるのかもしれない。


・日光湯元〜戦場ヶ原〜中禅寺湖〜華厳の滝〜いろは坂〜日光
二日目はこれらを一気に観光したのだけれど,意外とそんなに見どころがなかった。日光湯元はよく知らなかったのだけれど,ここは完全に「登山の前日にひとっ風呂」というベースである。男体山や白根山に登らないなら用事は無いと思われる。戦場ヶ原は地質学的にはおもしろいらしいのだが,全く知らないで見るとただの湿原であった。雨が降っててとんでもなく寒かったのでさっさと撤退した。中禅寺湖も一応湖畔をドライブして旧イタリア大使館別荘記念館だけ寄った。悪くない建物ではあるが,このくらいの洋館なら日本全国にあると思う。華厳の滝はさすがにすごかったが,最寄りまで行けるエレベーターのお値段が異様に高くて萎えた(乗らなかった)。

そうそう,高いと言えば,日光東照宮も建て替えで資金不足という事情はわかるのだけれど,一般1300円はさすがに高すぎると思う。それも建て替え中で,三猿・眠り猫・陽明門が全部見られなかったのに値下げなく1300円とられたので,正直印象は悪い。あまりに腹が立ったので一銭も賽銭を入れなかった。「これもう真田丸は豊臣方を応援するしかねーわ」とは同行者の弁である。

唯一楽しかったのはいろは坂で,同行者の一人が『イニシャルD』のファンで,前日に皆で該当回を鑑賞していたので,聖地巡礼に否応にもテンションは上がる。特に“仕掛けるのはこの先の”で有名な33コーナー。サントラを聞きながら駆け抜けた(法定速度は守っていました)。実際ここでジャンプはできないよな。でも真似しようとしたバカはやっぱりいたようで,明らかにガードレールにぶつかった跡とかタイヤ痕が。聖地巡礼以外の話もしておくと,秋のいろは坂といえば紅葉と渋滞が名物だが,ピークから時期が1・2週間ほどずれていたせいか,むしろ我々以外の車をあまり見かけなかった。じゃあ完全に散っていたかというと,半分ほどは残っていて,かえってゆったりと楽しめた。意外とピーク明けなら穴場なのかもしれない。

いろは坂


写真は明智平から撮ったもの。こうして見るとやっぱりすごいヘアピンカーブ。

あとは霧降高原に行って,同行者が持ってきたドローンを飛ばして遊んでいた。高原とドローンは相性が良いかも。まず間違いなく飛行禁止区域になっていないので(一応事前に調べましょう),自由に飛ばせるし,ドローンは上空500mくらいまで飛べるので,最大まで飛ばせばかなりいい風景を見ることができる。バッテリーが重く,持って登るのがしんどいのだけが難点。本体は軽いのだが。



雲海が非常に綺麗でした。この動画だと1分過ぎから。


・明治の館
今回最大の掘り出し物。日光市内でお夕飯を探していて発見したのが明治の館。日本コロムビアの前身となった会社を創設し,日本に初めて蓄音機を紹介したアメリカの貿易商F.W.ホーンが建てた建物で,格調高いクラシカルなジョージアン様式。日本の明治・大正時代の洋館というとどうしてもお雇い外国人コンドルの血が入っていることが多いが,全く別の様式であるのでかえって珍しい。コンドルの建築に見慣れた人からすると,全く明治時代の建築物がそのまま残っているとは思えないだろう。さすがにレストランとして再活用する上で多少直したようだが,それを加味しても保存状態は極めて良く,こんなに知名度が低いのは驚きである。もっと建物を宣伝しよう(提案)。

明治の館


歴史好きからすると最大の衝撃だったのは,東京大空襲の後(1945年4月)に外相・重光葵が疎開したのがこの建物で,その約5ヶ月後に,この建物からミズーリ号に向かったということ。普通に史跡なんですが,むしろなんでレストランなんですかね。お料理の方は普通に美味いというくらい。ワインの種類はけっこう豊富。お値段はワインを入れても4・5千円というくらいだが,栃木牛のステーキだけは別格に値段が高いので,注文の際は注意すること。19時30分と閉店が意外と早いのが最大の注意点かも。
  
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2016年02月10日

第四次大洗巡礼記

Q.また行ってきたの?
A.またです。



今回の旅の目的は4つ。
1.劇場版登場キャラや,マイナーなキャラのパネルが増えたので,これを撮影に行く。(アンツィオまでの101体は制覇しているので,ここで未達成になるのは寂しい)
2.既存キャラのパネルも,老朽化が進んだため,新しいものが設置されたとのことを聞いたので,これを確認し,主要なキャラは撮影に行く。
3.一昨年食べて絶品だった,あんこう鍋を再度食べに行く。
(4.初めて大洗に行くという友人二人の案内。)

以下,ミッション別に。写真多め注意。言うまでもなく,劇場版ネタバレ有。

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2015年11月22日

山陰旅行記(後編):出雲大社・美保関・境港・松江市内・玉造温泉

11/8 PM
〔出雲大社〕

特急まつかぜに乗って,鳥取から一路出雲市へ。正直に申告して出雲そばはあまりイメージが無かったのだけれど,試しに食べてみたら非常に美味であった。信州そばと全然違うのね。

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麺の色が濃く,味も濃い。つゆも非常に濃く,小量かけて食べる。麺をつゆにドボンとつけて食べる信州そばとの最大の違いはここだろう。麺がつゆを吸う力が強く,小量しかかけないためにすぐに吸いきってしまい,麺の濃い味につゆの濃い味があわさって,これでもかというほどそばの味を主張してくる。そばの味が好きな人にはたまらない。なお,日本三大そばというと信州そば(戸隠そば)・出雲そば・わんこそばでほぼ異論がないようだ。三大○○としては珍しい。うどんの方は讃岐・稲庭まで確定で三つ目が定まらないらしく,水沢・五島・氷見・きしめんと意見が割れているようだが,全部食べたことがある経験から言うと,味だけで言うなら五島うどんを推薦する。元愛知県民なのできしめんは大好きだが,お前はうどんじゃない。


腹を満たして出雲大社へ。半年前に参拝して最近彼女が出来た友人が「ここはマジで御利益あるって!」としきりに言ってきたが,別に御利益を求めて参拝に来たわけではないんだよなぁ……むしろ東方と『咲-Saki-』の聖地巡礼という不純な目的の方が強いんだよなぁ……

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左(上)が拝殿で右(下)が本殿である。本殿の特徴的な屋根は大社造りと呼ばれ,日本最古の建築様式の一つ。伊勢神宮の神明造り,住吉大社の住吉造りと並び称されるが,共通点として屋根の上に千木(ちぎ)と呼ばれるX字の装飾が載っている。それ以外は比較的単純な造りをしている。

さて,出雲大社は日本最古の神社の一つでもあり,7世紀の創建とされるが,10世紀頃に大造営を行った。その時の記録が正しければ高さ48mの高層建築で,東大寺の46.8mを上回る日本最“高”の建築物であったという。この記録は長らく誇張とされてきたが,15年前の発掘調査によりその最盛期の頃の列柱の跡が見つかり,そこから計測された柱の太さ(約3m)や列柱の間隔からすると,高さ48mもあながち誇張ではないということが判明した。48m説で確定したわけではないが,与太話から真っ当な説に格上げになったということである。00年代前半というと私は中高生であり,すごい勢いで日本史の資料集が書き換わっていったのを覚えている。また,やはり当時の建築技術でこの高さは無理があったらしく,11〜12世紀に幾度となく倒壊しており,13世紀の再建時にあきらめてかなり縮んだらしい。現在の本殿の高さは,最盛期の半分の24mに過ぎない。

その48m説を採用した1/10復元模型や(1/10でも高さ5mなので相当デカい),荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡発掘の青銅器類を大量に展示した博物館が,出雲大社隣接の古代出雲歴史博物館である。古代日本史が好きなら何時間でもつぶせるレベルで展示が充実した博物館だが,もったいないことに今回の旅行ではスケジュールが厳しかったので,2時間ほどで脱出せざるをえなくなった。ハイライトはなんと言っても荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の青銅器群の一斉展示だろう。



この壮観さはなかなか大したもんですよ。出雲の特殊性は大量の銅鐸と銅剣が同時に発見されたことで,通常銅鐸は近畿周辺,銅剣は北九州と四国で発掘されることが多い。その中間地点の出雲で,そのいずれもが大量に発見されたということ,また出雲からは鋳型が発見されていないこともあり,近畿と北九州に交流があったかどうかという点や,荒神谷遺跡も加茂岩倉遺跡も出雲大社から非常に近い距離であるため,日本神話誕生との関係性など,日本古代史研究の材料になっている。


閉館ぎりぎりまで粘って18時過ぎに出雲市を脱出。そこから特急まつかぜの復路に乗って松江まで戻り,そこからバスを乗り継いで美保関へ。

11/8 夜 〜 11/9 AM
[美保関・境港]

泊まった旅館を福間館というのだが,ここがまたすごい。創業300年,泊まった著名人一覧がこれ。

DSC_0190


個人的には徳川家達と井上準之助に感動した。しかし,加藤寛治ってひょっとして美保関事件の時の滞在なのでは……昭和4年だから違うか。逆に言ってよく泊まりに来たな。

さて,部屋は非常にボロかったが,旅館全体の雰囲気はよく,眼下に漁港と美保神社という眺望,夕飯には山のような松葉ガニ,値段も普通くらいで,十分満足である。

起床後,すぐに美保神社へ。ここも大社造である。神楽を見学。美保神社の祭神は事代主神,いわゆるえびす様である。えびす様は音楽を好むということで,美保神社は拝殿が神楽殿を兼ねていて,しかも音響効果を期待して梁が向きだしになっているのが特徴だそうだ。音楽奉納と称したライブも,かなりの頻度で拝殿でやっているらしい。こうして見るとずいぶんとロックな神社である。名物と言われる醤油アイスを食して,バスで境港に移動。醤油アイスは,バニラアイスに醤油かけたらまあこういう味になるよね,という。ここでしかない食べ物と思っていたが,今ググってみたらけっこうメジャーな食べ物だった。なんということだ……

正午頃に境港に到着。境港は極端な水木しげる押しで,至る所に水木しげるの妖怪たちが描かれていた。しかし,逆に言って水木しげる以外の観光資源が無く,寂れ具合がひどかった。水木しげるしかないならないで,もうちょっと何とかならなかったのか,という。特にJRの駅前はひどく,「閑散」以外の言葉が見当たらない。あれでは本番の水木しげるロードに辿り着く前に観光客が帰ってしまうと思う。

境港から米子までは鈍行,米子からは再び特急まつかぜに乗って松江へ。


11/9 PM
[松江市内散策]

松江はさすがに栄えていて,観光施設もサービスも整っていた。松江城周辺散策というと,
「松江城」
「松江歴史館」
「武家屋敷」
「小泉八雲記念館」
「小泉八雲旧居」
の5点セットだが,注意点がある。まず,共通チケットが販売されているが,なぜか松江歴史館を除いた4カ所の共通チケットである。そして「武家屋敷」は「小泉八雲旧居」の方が優れた屋敷であるために見所がなく,「武家屋敷」を回避するなら,残りの4カ所をバラで買った方が共通チケット+歴史館のチケットよりも安い。しかも松江城はさらに他の施設とのセット割引券が売ってたりするので,観光ルートによってはますます共通チケットの意味が無くなる。結論を言えば,共通チケットは買わない方がよい。

この5つ中では「小泉八雲旧居」が本当にすばらしいお屋敷でお勧め。こじんまりとしたお庭を眺めて,しばし小泉八雲に思いをはせたくなる。「小泉八雲記念館」は小泉八雲の足跡がかなり細かく紹介されており,小泉八雲に興味があるなら,という感じ。興味がないなら無理に行く必要はないと思う。私はまあ,その,東方信者・秘封倶楽部一派なので行く義務が。実際,ギリシア人とアイルランド人のハーフがどういう経緯で日本に来て,妖怪伝承にはまりこんだのか,よくわかっておもしろかった。「松江歴史館」は近世史中心の内容。

松江城はつい先日国宝になったばかりであり,お祭り騒ぎであった。戦国時代の出雲の城というとなんと言っても月山富田城であるが,戦国時代が終わると山城は用済となり,1611年に松江城が築城されて,出雲の中心がこちらに移ってきた。そういうわけで松江城は江戸初期の建築であり,一応防衛施設としての機能は完備で建てられたものの,一度も戦乱を経験することなく現在に至った。国宝指定運動が長期的になされていたが,1611年築城を決定づける史料がなく却下されていたところ,3年前に「慶長拾六年」(1611年)を示した祈禱札が松江神社で発見され,見事国宝指定となったそうだ。

その後,東方風神録1面の聖地巡礼(稲田姫)という理由だけで八重垣神社を訪れて参拝。滞在時間20分で松江市街に戻り,再び山陰本線に乗って玉造温泉へ。


11/9 夜 〜 11/10 AM
[玉造温泉]

この日はかなり奮発して白石家に宿泊。高いだけあってめちゃくちゃ良い旅館であった。で,日本海側に来たからには



新潟旅行に続き,またのどぐろを食してしまった。本当に美味いよこの魚。さらにこの日の夕飯は島根牛と松茸も出てきた。前日のカニと合わせてもう今年の秋の味覚は完璧に満喫しましたわ。

翌日の午前中に,玉作湯神社に参拝し,『咲-Saki-』(『シノハユ』)の聖地巡礼。いろいろ写真は撮ったけど,先人たちには勝てないので,ここでは特に掲載しない。会社へのお土産を買って帰還。


この4日間は非常に濃密な旅行であったが,まとめて振り返ってみると,ハイライトはやはり投入堂登山であったなと。次点で小泉八雲旧居。都市の印象で言うと,島根県は松江にしろ出雲市にしろ整備されていて活気もあったが,鳥取県は鳥取も米子も境港も寂れていて,同じ山陰でもこんなに違うのかと。鳥取県はもうちょっとがんばろう。ご飯で印象に残ったのは出雲そば。のどぐろと島根牛も美味しかったが,こいつらが美味しいのは当然すぎる話であり,新鮮な美味という点では出雲そばの印象が強い。

山陰は残り,鳥取県の大山と島根県の石見銀山が残っている。大山はどっちでもいいかな。石見銀山はいつか山口県とまとめて行きたい。  
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2015年11月21日

山陰旅行記(前編):鳥取編(投入堂・砂丘)

今月の上旬に山陰地方を旅行してきた。かなり詰め込んで観光したため,報告することが多岐にわたるのだが,目玉は投入堂の参拝である。以下,時系列・観光地別に。


11/7
[投入堂]

正確には三徳山三佛寺投入堂。「(物理的な意味で)日本一参拝の難しい国宝」と言われ,入山時に僧侶から登山靴のチェックがある,雨天・降雪時は入山禁止,15時以降も入山禁止になる等,参拝には厳しい条件がある。最後の条件が遠方からの旅行者には案外と厳しく,後述するように往復に2時間ほどはかかるので,昼前には麓に着いている必要がある。しかも我々の旅程の場合,11/8以降が雨天という天気予報であったため,初日の11/7に登山するしかなく,旅程を組むのにかなり難儀させられた。これから挑まれる方はお気をつけを。

鳥取市から行くなら,山陰本線で倉吉まで35分(特急)だが,特急は本数が少ない。さらに,倉吉からはバスが出ているが,このバスは1時間に1本くらいしかない&不定期なので要注意である。バスで40分ほど乗ると到着する。よって上手く接続すれば1時間強で着くが,特急待ち・バス待ち次第では2時間以上かかる。そこで,資金的に余裕があるなら,三朝温泉への宿泊を勧めたい。三朝温泉から三佛寺山門前まではバスで20分かからない。

さて投入堂登山の実際の難易度は,何とも評価しがたい。
・行程自体は短く,90分で往復できると言われている。実際我々も100分くらいで往復した。紅葉の綺麗なハイシーズンであったので団体客で相当混み合っており,にもかかわらず道が極端に狭いため,待ち合わせで強制的な休憩時間を取らされた。かつ,ゴールの投入堂以外も見どころが多かったので,その意味でも休憩は多かった。にもかかわらず100分であったので,90分という評価は妥当である。空いている時期にハイペースで登山すれば60分くらいで行けてしまうのはないだろうか。
・登山というよりもロッククライミングの感覚で挑んだ方がよい。斜度から言えばかなり厳しい道が続く。写真だとわかりにくいが,こんな感じ。そもそも審査があって登山靴じゃないと登れないわけだが,そうでなくとも登山靴は必須である。

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・「雨天・降雪時の入山禁止」規定は正解。足元の土が滑りやすい。つかみやすいところにある木の枝・根と岩が生命線で,滑りそうになったらつかむようの枝・根・岩は常に目算をつけておこう。
・そういう難易度であるので,やはりリタイアする人はそれなりにいた。一方で,50-60代の参拝者も多く,要するにそれくらいの体力であっても,休憩を多めに取れば普通に登れてしまう程度の難易度とも言える。筋肉を使うのは1時間ほどであり,スタミナよりも瞬発力の問題ではあるので,年齢はあまり関係ないのかもしれない。己の筋力と重々相談してチャレンジするかどうか決めて欲しい。
・行きよりも帰りの方が圧倒的に楽。往路は延々とロッククライミングだが,復路は割りと安定した足場でスタスタ降りるだけであり,それで膝が笑うということもおそらくない。100分の内訳は往路が60分,投入堂付近で10分,復路で30分という感じ。無責任なことは言えないが,往路で体力を使い果たしても割りとなんとかなると思う。

紅葉のハイシーズンに偶然重なった関係で,素晴らしい眺望を見ることが出来た。投入堂本体の写真とともにおすそ分けしよう。なお,一つ目の写真は投入堂ではないお堂(進入可)から撮られたもの。

_DSC8006 _DSC8040


投入堂の創建は平安末と言われる。つまり約900年前だが,伝説上のいわれとしては1300年前に役行者小角が呼び名の通り投げ入れて建てたと言われている。実は長らく創建年代がわかっていなかったのだが,1980年代の補修で得られた古い柱の年代調査から,平安末と確定した。そうした説明が宝物館の方で読めるので,是非こちらも。また,三佛寺の山門にある食堂の山菜定食が絶品だったので,あわせて勧めておく。写真を撮りそびれたので,食べログにリンクしておく。

投入堂の創建が平安末というのは,実のところ文化史上イレギュラーである。浄土教が地方に伝播していく時代であり,浄土教の大寺院が地方でどんどん建てられていた。その代表例が平泉の中尊寺と,いわき市白水の願成寺,大分の富貴寺である。また一方で,武家政権が自らの地元に守護神を祀る神社を建てていた時期でもあり,こちらの代表例は広島の厳島神社,鎌倉の鶴岡八幡宮がある。しかし,投入堂は密教系の天台宗であり(修験道としての祭神は蔵王権現),武家の所縁も無い。つまり,どちらの流れにも属さないのである。また,この時代の三佛寺は僧兵が多く居住し,大山と争っていたという記録は残っているようだが,では僧兵が修験道を極めていたかというと,その関連性も薄い。そのせいで,高校日本史の資料集には必ず載っている寺院の一つである一方で,教えるのが難しい寺院でもある。まだまだ謎の多い寺院なので,誰か研究してください。

なお,純粋な建築史の観点で言えば,特別珍しくもなければ新しくもない。懸造りと呼ばれる様式で,平安の初期からある。懸造りの代表例は京都の清水寺,と言えば大多数の人がピンと来るのではないか。


この日は投入堂に登山してほとんど1日が終わった感じ。鳥取市内のホテルで宿泊。


11/8 AM
[鳥取砂丘]

元々旅程で重視されておらず,行くか行かまいか自体迷っていたが,「鳥取に行って砂丘に行かないというのも」ということから,スタンプラリーの感覚で行った。「見どころがわからないけど,下手したら1時間かからないのでは」という話を同行者としていたのだが,実際の滞在時間はわずか30分であった。感想としては,行くだけ損なので行かなくていい。鳥取県はなんでこれプッシュしてんの? 他の観光資源が皆無ならわかるが,大山もあるし投入堂もあるでしょ? なにせこの砂丘は狭い。長さ16km,幅2kmと説明されているが,幅はともかく長さは完全に詐欺で,森林が貫入していて途切れている。見渡す限り砂しかない情景をそれなりに期待していたが,どうがんばっても視界に海が入ってしまうどころか,視界に森林が入ってしまうのは砂丘として失格だろう。



砂丘に草生えてて草生える。悪意ある角度からの写真と思われるかもしれないが,実際のところ海を映さないような角度で写真を撮るとどうしてもこういうことになる。もう20度くらい右を向くともう海である。逆に海を入れると単なる砂浜にしか見えない(丘にならない)。ちゃんと「砂丘」に見える写真には,写真家の強い努力があるのだなぁというのが,砂丘の最大の成果かもしれない。

なお,鳥取砂丘は“一般人が入れる”日本最大の砂丘であり,真の日本一は青森の猿ヶ森砂丘(面積が鳥取砂丘の3倍)である。こちらは防衛省(防衛装備庁)の弾道試験場になっているので一般人は立ち入ることができない。もっとも,公開されたところでアクセスが悪すぎて鳥取砂丘の優位は揺るがないと思われる。なにせ鳥取砂丘,アクセスは抜群に良い。鳥取市内からバスで20分で,しかもかなりの本数のバスが出ている。天気が良ければ十分自転車圏内だし,最悪タクシーでも行ける。

その鳥取砂丘も近年緑化が進んでおり,平成3年以降は緑化防止対策が取られている。これは単純に観光資源がなくなるからということもあるが,砂漠性ではない雑草が生えてしまうと,砂丘独特の植物が生存競争に負けて絶滅してしまうという事情がある。一方で,そうした砂丘独特の植物を使った砂漠の緑化に関する研究も行われているそうだ。世界の緑化のために鳥取砂丘は犠牲にしたほうがいいんじゃないかな。世界の環境問題のために研究に全面的に活かそうぜ。


というわけで,残念な気分に苛まれつつ,早々に特急まつかぜに乗って出雲市へ。後編に続く。  
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2015年08月17日

新潟・草津旅行記

11〜13日に新潟・草津に旅行したので,記録を残しておく。

11日:東京→新潟
旅行の準備を持ったまま出社して午前中は仕事。午後を有休にして,同行者(頬付隙間坊主)の車に職場近くから拾ってもらう。関越自動車道に乗って一路新潟へ。11日はほぼ移動しただけであった。なお,初日の旅行先が新潟になった理由は「ちょうどいい距離のドライブ先」であり「旧斉藤家別邸が話題になっていたから」の二点しかなく,深い理由はない。

関越自動車道で思ったのは,埼玉県の西半分は本当にど田舎であること。群馬県の山々の風景は意外と富山県や石川県あたりの風景を思い起こさせてやや感動したこと(私の心の原風景)。反面,新潟県は妙高を抜けると早々に360度一面水田になってしまい,これはこれで趣深かったものの若干意外であったこと。関越トンネルは本当に長かったこと,あたりであろうか。

あとは,川越の芋納豆が大変に美味かった(高坂SA)。しかし,甘納豆の時点で納豆とは無関係なところ,材料が豆ですらない芋納豆が納豆を名乗るのは経緯を知らないと意味不明ではという疑問が拭えない。元は「甘納糖」であったが語感の近さと原材料の共通から「甘納豆」になり,原材料が大豆以外の豆(えんどう豆や小豆)が使われるようになったことから「甘納豆」が製法名に転化,その製法を芋に適用されて「芋納豆」になったらしい。ググると川越の老舗には「芋納糖」を名乗る店もあるようだが,字面の問題から言えばそちらのほうが正しい。

長岡JCTで北陸道に変わり,新潟中央ICで降りて,17時頃に新潟市着。この日の観光は無理ということで早々に旅館にチェックインして,夕飯を探しに。事前の調査で古町の辺りに飲み屋が固まっているとわかっていたので,そこら辺に。知らなかったのだが,こういう中核都市で駅前と繁華街が別個に存在しているというのは珍しいと思う。また,歩いてみて思ったのだが,人口が80万人もある都市にしては全体的に平べったく,贅沢な土地の使い方をしている印象を受けた。他のこういう都市はもうちょっと雑然としていると思う。富山や金沢もそうだから,雪のせいというわけでもないだろう。しいて言えば越後平野がかなり広いので,都市機能を密集させる必要がなかったということなのかもしれない。翌日の観光で,そもそも新潟市は他の日本海側の都市と比べて雪が降らず20cmくらいまでしか積もらないと聞き,確かにこれだけ山から離れていればそうもなるだろうと納得した。

結局,とある居酒屋でのどぐろ,のっぺい等を食した。



のどぐろはめちゃくちゃ美味しかった。また日本海側に行った際には必ず食したい。あとわっぱ飯も良かった。日本酒は言うまでもなし。適度に酔って就寝。


12日:新潟→草津
午前中は新潟市内観光。まずは目的の旧斉藤家別邸。ここの建物と日本庭園は本当に良かった。あまり深い動機もなく行ってみたが,ここは行く価値がある庭園だと思う。建物や庭園は解説員の人が常駐していて,かなり丁寧に説明してくれる。その意味で,特に日本庭園に慣れてない人は行く価値が高いと思う。



「庭園と建物の一体化」をテーマにした建築物であり,その一点に創意工夫がふんだんに込められている。建物の側はどの部屋であってもいかに鑑賞者を邪魔しないかに注意が払われ,逆に庭園の側は建物の中から見られることを最優先に構成されていた。たとえばこの写真は入ってすぐの大広間から撮られたものだが,不安になるくらい柱が少ない。典型的な数寄屋造り・書院造りの建物ではあるが,建てられたのはほぼちょうど100年前の1918年であり,直接目に見えないところではかなり近代的な造りになっている。つぶやいた人も書いているが,だからこういう無茶が出来たのだろう。

逆に庭園の側は建物すぐそばの大池を超えるとすぐに丘が迫っており,建物の屋根もあって眼前すべてが樹木で埋まるように設計されている。この丘は築山ではなく新潟砂丘の一部だそうで,かなり驚いた。実際に登ってみると,確かに樹木が生えていないところはあからさまに海岸の砂浜になっていておもしろかった。これは作庭するの苦労しただろうと思われるが,建物内に展示されていたこの地域の歴史を読むと,海岸に向かって急激に盛り上がる砂丘を利用し,松を植えて防砂林にしつつ鑑賞用にもする作庭は江戸時代後期からすでに行われていたそうだ。考えることは昔の人も同じであった。自然風景を見立てるための築山を見立てて自然の砂丘を用いたのだから相当なねじれである。枯山水よりひどい。

なお,旧斉藤家別邸は文字通り斉藤家の所有であり,別荘・来賓用として用いていた。しかし斉藤家は戦後の農地開放と当主の死亡による相続税に耐え切れず売却,加賀田家という建設会社が購入。この加賀田家も維持に苦しんだ末2005年に売却,購入者が取り壊そうとしたところ反対運動が盛り上がり,2009年に市が買い取って補修,2012年に観光名所としてオープンした。つまりオープンしたのはかなり最近である。これについては新潟市の英断に感謝するしかない。上手く宣伝していけば本当に新潟市随一の観光名所にできると思う。

もう一箇所行ったのが,旧斉藤家別邸のお向かいの北方文化博物館新潟分館。建物を建てた人は油田で一発当てた人だそうで,大変に新潟らしい話である。こちらも同じような明治末・大正時代頃の建物だが,一言で言えば「センスの良い田舎のおばあちゃんち」で,昭和の中期まではこういう豪邸が地方のどこでもあったんだろうなと思う。風通しの良い畳敷きの広い部屋から板葺きの縁側に続き,そこから直接庭に出られる。庭で小うるさく鳴くセミを聞きながら,スイカでもかじりたくなる(売ってないのが残念)。たまに野良猫が縁側で寝ているそうだが,それって完璧なのでは(建物の保存上はまずいが)。



受付の方曰く「雰囲気を出すためにわざとというわけではなく,壊れるまで使っているだけ」とのことだが,調度品もいい感じに昭和中期・後期で,この写真にあるような扇風機に,20年は経ってそうな冷蔵庫やコンロとこうした邸宅系観光地としては珍しいほど生活感にあふれた状態であった。あまりにノスタルジーあふれる雰囲気に思ったよりも長居してしまった。

この二つを見て,昼飯。へぎそばを食べたかったが上手く見つからず。これも次に来た時の宿題にとっておこう。そうして新潟を離脱して草津温泉へ。途中志賀高原に立ち寄る。ここのドライブは非常に良かった。

志賀高原

全然知らなかったが,国道最高地点(2172m)だったらしい。白根山を通るルートを予定していたが,警戒レベルの都合上午後17時以降は閉鎖されていて,通りがかったのがちょうど17時5分であったがために通れず,迂回。これはちょっと残念。18時半頃に草津温泉に到着。硫黄の匂いが立ち込めているのを嗅ぐと,温泉地に来た感覚が強くなってよい。標高1200m付近なだけあって,半袖Tシャツだとかなり涼しかった,というか寒かった。そういえば典型的な避暑地に泊まるのは人生で初めてになるような気がするが,避暑地なめてました。ペンションブルーベルというところに泊まったが,経営者のおじさんのジョークがユーモアあっておもしろく,夕飯はおいしかったし,風呂は当然温泉,2匹いる猫はモフり放題で欠点が見当たらない(しいて言うと壁は薄い,隣の部屋のいびきが聞こえた)。ここはお勧め。


13日:草津→東京
午前中は草津観光。湯畑を見学。



湯畑に「草津に歩みし100人」と題して,草津温泉を訪れた有名人100人が挙げられた表札があったのだが,

草津温泉

この絵面はちょっとシュール過ぎるのでは。大和武尊は実在が怪しいし,入りに来たのかも怪しい。その意味でルシウス・モデストゥスがいるのはいい緩衝材なのかもしれない。言うまでもないが,草津温泉は『テルマエ・ロマエ2』の舞台となった。その他の人物は歴代の首相や種田山頭火などの詩人,岡本太郎などの芸術家など。その後は西の河原温泉に入って,温泉まんじゅうを買う。12時頃に離脱し,東京へ。榛名山を通って「榛名さんは本当に大丈夫なんですか?」と言うお約束,イニシャルDの聖地巡礼をこなして(ドリフトはしてません),17時頃に帰宅。翌日からのコミケに備えてのんびり過ごした。
  
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2014年12月03日

ドイツ・フランス・ベルギー旅行記(項目別雑感)

後編から。以下,パリをdisり続ける記事。


○パリメトロについてのアレコレ
パリについての印象を考えた際,悪い部分が凝縮されているのがパリ・メトロだということに気がついた。というわけで,パリ・メトロのダメな点について列挙し,パリへの悪口の代わりとしておく。
・旅行者にはスリと詐欺師が寄ってくる
→ まあ何よりこれ。治安が悪すぎる。結果的に被害は4人全員ゼロだったが,あまりにも怪しく寄ってくる奴の多さに終始警戒心MAXであった。朝方と日中はマシ,というか一般市民も多く利用しているわけで,さすがにそうした視線がある場では犯行も難しいらしい。この辺は大多数の善良なパリ市民の皆様に感謝と言ったところか。一方,夕方と夜は正直駅自体に近寄りたくない。
→ やはり自国のぬるま湯っぷりに浸かっている日本人の被害者は突出して多いらしく,わざわざ日本語でスリ注意のアナウンスがあった。
→ 特に詐欺師は大変に印象的なエピソードがあるので紹介しておく。我々が切符を買おうとしていたところ,突然中東系のカップル二人が近づいてきて「私はボランティアだ。フランス語の読めないお前らに代わって便利な切符を買ってやろう」と英語で言い,自分のクレカで高額な切符を勝手に人数分購入。その上で「これは私がポケットマネーで買ってやったんだ,お前ら買い取れ」と迫ってくる。が,どう考えても怪しい以前に,仮に正当なボランティアだとしても我々の行動範囲から言ってそんなチケット不要で,とどめに彼がクレカをかざした時に券売機がinvalidと表示されたのをメンバーの二人ほどが見逃しておらず,「申し訳ないが,一切信用できない。信用してくれというなら,そこにあるインフォメーションカウンターまで一緒に来てくれないか」と言うと,あっさり全力で逃亡した。そもそもinvalidなクレカなのに発券される券売機自体が完全におかしいわけで,パリ・メトロ自体が詐欺の片棒をかついでいる印象しかない。あ,インフォメーションカウンターの職員はめちゃくちゃ親切だったのが唯一好感を持てたポイントだったが,いや機械の方を直せよ。あれ,買い取って自動改札を通ろうとしたらどうなってたんかな。

・構内が狭くて暗い
→ 治安の悪さに確実に拍車をかけているのがこれ。なんであんなに照明を落としているのか。無駄に地球環境に配慮しているのか,よほど金がないのか。構内でカメラ出すのが怖く,スマホを出すのも必要最小限にしていたため写真がないが,どこの駅もびっくりするほど暗くて狭い。というか,地下鉄の入り口の階段からして暗い。治安以前に単純に怖いですあれ。
→ なお,照明の暗さに関しては地上でも大差なく,夜になるとこれまたびっくりするくらい暗くなる。誰も通ってなかろうと全力で街灯を照らし続ける日本の行政は防犯上間違ってなかったんだなと認識できるので良い経験だった。

・いくつかの大きい駅はダンジョンと化している&アンチバリアフリー
→ 狭くて暗いのに加えて,大きな規模の駅は完全に迷路と化している。新宿駅や渋谷駅のようにいくつかの私鉄が乗り入れているというわけではないので,ああいった複雑さは無い。が,大手町や赤坂見附と比べるなら,明らかにシャトレ駅やモンパルナス駅の方が広くてわかりづらい。特にシャトレ駅は一回壊してく作りなおした方がいいレベルの設計ミス。看板はホームの場所と出口を示す看板だけはそれなりにあるものの,トイレの位置やインフォメーションカウンターの位置は極めてわかりづらく,構内全域の地図はほとんど無い。ホームとホームの間がかなり歩かされ,乗り換えは不便。ちなみに,構内が狭く感じられる原因にもなっていると思うが,壁や天井が舗装されておらず岩がむき出しなのもダンジョン感を増している。なんというか,迷宮だとかダンジョンだとかdisりまくってごめんなさい。東京メトロさん,あんたはマシだった。
→ もうひとつ書いておくべきことととして,徹底したバリアの数々。エレベーターは? 傾斜の緩い坂道は? せめてエスカレーターは? という。全部階段で容赦がない。構内で全く車椅子を見かけなかったが,そりゃそうだよな。車椅子は地下鉄に乗るなと。各種完備な上に,車椅子の人が頼めば職員がやってきて乗車補助を行うメトロさんはやっぱり神なのでは。

値段が高い
→ 運賃はどれだけ長く乗っても1.7ユーロ。150円で計算すると大体250円くらいになる。メトロなら都区内の端から端まで移動できる最高額に相当するが,パリ・メトロはたとえ1駅移動でも1.7ユーロである。しかも,パリ・メトロは駅間距離が非常に短く,ものの1分で次の駅に着く。東京メトロの1駅分がパリ・メトロの2・3駅分に相当する。それを前提にパリ・メトロの路線図を見るとわかるのだが,パリという都市は案外コンパクトで,観光地もモンマルトルの丘を除けば中心部に密集しているので,究極全部歩いてもそんなに時間がかからないと思う。地下よりも地上のほうが確実に安全だし。


○治安
体感上の治安を行った都市の中で並べてみると
良 ストラスブール=ハイデルベルク>ケルン>>フランクフルト>>ブリュッセル>パリ 悪
という感じ。パリはダメですほんと。言うまでもないことかもしれないが,パリやブリュッセルでも朝方・日中は安全。ただし,夕方・夜とのギャップは東京感覚でいるとかなり驚くと思われる。一気に変貌する。街灯は少なく,都心部でもかなり暗い。


○物価
基本的に東京よりも高い。何が東京が世界で一番物価が高いんだか。欧米の調査会社が行っている物価調査は全くあてにならない。さらに言えば,ここ2,3ヶ月の円安は関係ない。なぜなら,脳内で1ユーロを120円くらいで計算してもまだなお高いからである。ただ,値段が高い原因は値段の付け方が超絶アバウトだからではないか,という疑念も。パリのある商店で水を買おうとしたところ,500mlでも750mlでも1Lでも全部「1.6ユーロ」だった。いくらなんでもそれは。あと,田舎ほど安い説があり,ストラスブールの物価はやや安かった。

ああ,そういえばドイツはデポジット税がある。表示価格から0.25ユーロほど上乗せで取られる。


○食事・水
日本人が忘れがちなのが水。かく言う私も着いてから「そういえば水道水飲めないわ」ということに気づいた。で,ペットボトルの水代がけっこうばかにならない金額でかかるので注意しよう。多少荷物になろうとも,安く買えるところがあればどさっと買ってしまった方が良い。どうせ1日500ml〜1Lくらいは消費するわけだから。炭酸が苦手な人はさらに注意を要する。普通に買うと炭酸になるし,炭酸の方が安い。表記をよく見て買おう。ドイツ語なら「ohne Kohlensaure」とか書いてあるのがあるはずで,これなら炭酸抜き(ohneがwithoutということだけ覚えておけば,この買物のみならずいろいろ役に立つはず)。

食事は,ドイツなら量に気をつけるべし。大体日本人換算すると1人前は1.5〜2人前になる。特に,どこに行っても尋常じゃないザワークラウトが出ることだけはドイツで閉口した。よほど大食いに自信がある人がいない限り,ドイツ人のウェイターさんに怪訝な顔をされようとも,人数分注文することはない。「東洋人は胃が小さいだよ。お前らが食い過ぎなんだよ」と堂々としていればよい。味については,通説と異なりドイツ料理は美味しい。決してまずくない。おそらくあの風評は,ひとえに膨大なザワークラウトとソーセージに責められた経験から出てくるものだと思われる。ドイツ人と同じペースでその2つだけ食わせられ続ければ,そりゃ「単調でまずい」という印象にもなろう。

フランスはそれに比べると常識的な量で出てくる。しかし,今度は物価の高さが我々を阻む。パリで安くて美味いものを食べようと思うなら,フランス語がある程度読めるか,きっちり綿密に調べてからいったほうがよい。ここは我々の旅行の誤算で,「パリだしどこでも英語が通じるだろう」「フランス料理の本場だし,どこ入ってもある程度美味いだろう」という感覚で行ったら,全く通用しなかった。結果的にハズレをつかまされたり,パリでイタリアンを食う羽目になったりし,ちょっと調べてから行っても英語メニューがなくて挫折するなど,割と散々であった。そうでなければ中途半端にケチってはダメで,昼飯で20ユーロ,夕飯で35ユーロラインを割ったら割と博打になる,というのを今回の三日間で学んだ。

旅行を通してのうまかったものランキングベスト3。
1位:ケルンのライニッシャーザワーブラーテン
2位:ストラスブールの夕食で出た,鶏肉の白ワイン煮込み
3位:パリ,オルセー美術館で食べた魚介のシチュー
この3つは本気で美味かった。番外編としてはハイデルベルクで食べたカリーヴルストを挙げておく。まあカリーヴルストはドイツのどこでも食べられると思うけど。


○言語
ドイツ・フランス・ベルギーの3つにいる分には英語だけで大して困らない……と言いたいところだが,やっぱりちょっと困る気がする。単語が少し分かるだけでも利便性が大きく違ったのもまた事実だった。空港や駅は英語が併記されているし,レストランでは英語メニューがある店もそれなりにあるものの,やはり原語の方が情報量が圧倒的に多い。大学卒業してからほとんど触れていなかった私の超にわかドイツ語でさえ,フランクフルトやハイデルベルクで電車移動する際に役に立ったのだから,ちゃんと読めれば相当違うと思う。

意外と重要なのが発音で,当たり前だが固有名詞は英語読みすると全く通じない。駅名や施設名ならググるとカタカナで出てくることがあるし,究極グーグル先生に発音していただくという手段も取れなくはないものの,それらは時間が掛かり過ぎるし,解決しないこともある。全く勉強したことのない言語でも,なんとなくの発音だけ頭に入れていくと割とスムーズに旅行できると思う。

総合するに,覚えていくべきは現地の言語の「単語」であって挨拶や定型句等ではないというのが今回の経験である。よくよく考えたらEnglish menu available?やWhere is the Paris'Ost station? レベルの英語なら向こうの一般市民も理解できるわけで,わざわざドイツ語やフランス語で頑張る必要はどこにも無いのである。それよりも,上記で出したようなohne KohlensaureであったりTischであったり,AusgangであったりAbfahrtであったりといった単語の意味とカタカナ発音をしっかり覚えていった方がよほど役に立つ。


○お金
払えるところはクレジットカードで支払うのがおそらく一番賢い。が,私と同じような現金主義という方へ。改めて書くが,空港のレートは良くないというのが一般的な評価だが,実は街中の両替でも全然変わらない。ぶっちゃけて言えば,おそらく成田空港が最も楽かつそれなりのレートで,次点が現地の空港ではないかと思う。パリやフランクフルトレベルの都市なら両替自体はすぐに見つかるが,すぐに見つかるような場所は大体レートが悪い。ぱっと見よく見えてもごそっと手数料で持っていかれる。探せばレートの良い店もあるのかもしれないが,私がパリの街中で見かけた十数軒だと,どこも大して変わらなかった。そして,元々そういう店を知っているなら話は別だが,知らないなり今からググって探すなりというと手間でしかない。どこの誰だよ,両替するなら現地の街中とかいう俗説を広めた奴は。次から私も成田空港で両替してから行きます。あと極力クレカ使います。現金主義はやめよう。


○Wi-Fi
今回4人旅行で2つWi-Fiをレンタルして導入した。かなり役に立ったものの,はっきり言うとあまりつながらない。文字情報はいいが,画像が入った瞬間にダウンロードが止まる。今時文字だけで構成されているページなんてほとんどないので,レンタルWi-Fiだけでなんとかしようというのは,万全にネットをしたいなら難しいかも。おとなしく現地でSIMカードを買いましょう。実際,一人耐えかねてストラスブールのOrange(フランスの最大手携帯電話キャリア)で買ってた。そして彼のスマホで使ったGoogle mapが我々の旅を何度か救うことになったので,ネット環境は重要。

なお,ホテルには今時どこでもフリーのWi-Fiがあって,日本から持っていったレンタルWi-Fiでなくともつなげた。が,通信速度は同じで重い。

  
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2014年12月02日

ドイツ・フランス・ベルギー旅行記(後編:パリ・ブリュッセル・ケルン)

中編から。

パリ(続き)
ルーヴルとオルセー以外に行ったのは,まずサン・シュルピス教会。どこだよそこという方のためにWikipediaにリンクを張ったが,おそらく『ダ・ヴィンチ・コード』の冒頭に出てきた教会と言った方が有名であろう。

パリ5


あの作品では,この子午線の下に隠し通路があって,それを床を叩いて調べていくというシーンがある。ので,それを再現するのが聖地巡礼の醍醐味であろう。私もやってきた。なお,この子午線がロンドン・グリニッジと世界標準を争ったというのは『ダ・ヴィンチ・コード』の創作だそうで。


次に,今回の旅程にパリを入れた大きな要因であるところの『乙女理論とその周辺』の聖地巡礼。これも先駆者の記事を張っておく。大変役に立ちました(よくよく日付を見たら一ヶ月差,しかもこの方も『ごちうさ』目的でストラスブールに行っておられる!)。で,今見て不覚にも校舎を撮り忘れたことに気づいたが,完全にアフターカーニバルなので忘れよう。それ以外は大体撮れたと思う。『WA2』と違ってまんまな光景がなく,合成元探しが割と楽しかった。

パリ6 パリ7 パリ8


朝日が駿河によく会う交差点は,おそらくこの3つくらいの合成。本当はあるべきマンションが一つなくなっている&街路樹も一本なくなっている,その分鋭角だったカーブが鈍角になっていて,歩道が現実よりも広く取られている,という改変がある。

パリ9


ルナ様と再会した公園。作中では明言されていないが,椅子の形といい柵の形といい,ついでに言うと位置も踏まえると,先駆者様の言う通り,まず間違いなくこのリュクサンブール公園だろう。ここも木が何本かなくなっているほか,彫像は別所にあったものを持ってきたのだと思われるが,まんまぴたりの彫像が見当たらず。次に誰か行く人,是非見つけてきてください(他力本願)。惜しむらくは11月なんぞに行ったためにアーモンドの木が咲いてなかった(というかどれがアーモンドなのかすらわからなかった)こと。これは校舎の撮りそこねと合わせてパリ再訪ですかね……いや現実的に言って春先にパリに行くのは今の仕事を辞めないと無理だなぁ。

あとまあ,メゾン・ド・パピヨン(りそなたちの下宿先)と下宿付近の路地は,モンパルナスないしダンフォール・ロシュロー周辺と山を張ってちょっと探してみたけど,普通にわからなかった。作中の情報に反して,モンマルトルの方にあるのかもしれない。ブランケット家別荘(大蔵家三人がしばしば会っていた場所)は,作中の情報を信じるならソルフェリーノ駅からカルチェ・ラタンの一帯のどこかだと思われ,こちらもそれとなく探しながら歩いてみたが,それっぽい風景が多すぎて絞れず。これらは後続に期待ということで。

最後にノートルダム・ド・パリ。ここは約10年前に行った時にルーヴル同様訪れているが,その際に入り口の「各国のwelcome」の日本語が「よこそう」になっていたのが記憶にこびりついており,これが直っているかどうか大変気になっていたのだが

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直した跡が残っているものの,直っていた。さすがにこの10年の間に誰かが指摘したか。

そうしていよいよパリを離れる段になり,パリ北駅に行くと重大事件が待ち構えていた。思わず実況してしまったので,補足しつつ。




実際のところストライキに入るのは11/25からのことで,この日は関係なかったのだが,電光掲示板に「11/25からストライキに入るから,よろしく」とか書いてあるわ,実際に時間になっても出発する気配が無いわで,そりゃもう疑心暗鬼。ところが,万国共通の「keep out」と書かれたビニールの帯が列車に張られた辺りから,雲行きが怪しくなる。








というわけで,不審物発見が真相。ミスターフランシスコ・ロッシを呼び出す駅員の声がどんどん苛立っていくのと,駅員→鉄道警備隊→フランス陸軍(というかNATO軍)→爆弾処理班と警備勢がランクアップしていったのが印象的であった。いや,我々としても気が気でなく,必死に場内アナウンスの英語を拾っていたのだけれど。結局30分遅れ程度で出発できたのだが,下手をするとここで完全に足止めということになり,帰国できなくなっていたところであった。しかし,今考えると30分程度でNATO軍やら爆弾処理班やらが出てくるフランスの国防体制は一体なんなのという話で,それだけ即時展開できるほど常時準備がなされているとすると,フランス物騒すぎる。治安が悪いとかそういうレベルの話ではない。無事……とは言いがたいものの,なんとかThalys(ベルギー国鉄の国際列車)に乗り込んで,一路ブリュッセルへ。あ,Thalysのサービスは最高に良かったことを付記しておこう。……フランシスコ・ロッシ,貴様だけは絶対に許さない。絶対にだ。


ブリュッセル
夜に到着したということもあり,着いた瞬間わかるパリよりはマシ程度の治安情勢にげんなりしつつ,ホテルへ。で,ホテルをよくわからないまま南駅付近に取った結果,これがまたブリュッセルでも随一のガラが悪い地域で,泊まったホテルは明かりを付けた瞬間焦げ臭い匂いがするという極限空間であった。そういうわけで,ブリュッセルの印象もパリに次いで悪い。それでも「治安に怯えてても何もできない。せめてワッフルは食おう」という話になり,グラン・プラスと小便小僧だけ見て,ワッフルを食ってさっさとホテルに帰還した。ワッフルは大変美味かったし,小便小僧は噂に違わぬがっかり具合なので,一見の価値はある。


ケルン
最終日,ブリュッセルからケルンへ。で,降り立った瞬間わかる治安の良さ。なんすかねこの空気の違い。フランクフルトはダメだったし,ラテン系とゲルマン系の違いというわけでもなく。ケルンでの狙いは2つで,1つはもちろん大聖堂。その大聖堂の写真を貼ってもいいのだけれど,あえてこちらを貼っておこう。

ケルン


そもそもケルン大聖堂は東方三博士の遺体を収めるべく作られた聖堂である。その遺体を収めた聖遺物収容器がこれ。隣接博物館に行かないと見れない。こちらの博物館,聖遺物マニア垂涎のコレクションとなっており,そんなの日本に何人いるんだというツッコミはさておき,大変にお勧めである。

ケルンもう一つの目的はライニッシャーザワーブラーテン(Rheinischer Sauerbraten)。ケルン名物で,「牛肉のワインと酢の煮込み」ということしか情報が無いままケルンに到着。インフォメーションセンターにて超拙いドイツ語と日本語訛りな英語を駆使して何とか「その料理ならBrauhaus Fruehが一番有名」という話を聞き出して移動。実は電車の時間が危なく急ぎに急いでいたので料理の写真を撮ってないのだが,このライニッシャーザワーブラーテンはこの旅で一番うまかった。ケルンに行ったら絶対に食べるべき。画像が無いのが悔しいので探してみたら,ミシュランのHPにあるじゃないですか画像。上に乗っかっているりんごがまたよく合うし,よこにある巨大クヌーデルも,煮汁を吸って良い味に。ものの15分ほどで食べたのがもったいなかった。

ケルンからフランクフルト空港へ直行。中央駅より先に空港駅に着く電車があり,これはありがたかった。フランクフルト空港でお土産を買ってしっかりユーロを使い果たしてから,飛行機へ。帰りもやはりインチョン経由で成田へ。

次回,旅行の項目別レポート編に続く。  
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2014年12月01日

ドイツ・フランス・ベルギー旅行記(中編:パリ,オルセー&ルーヴル)

前編より。

パリ
先に書いておくが,今回の旅行におけるパリの印象は最悪に近い。パリに入ってメトロで早々詐欺師と交流するという心あたたまるエピソードがあったのでこれは後述するが,これによって我々の警戒感は否が応にも高められた。圧倒的な落書きの多さに詐欺師,スリらしき人々,難解なパリ・メトロと来て,さらに我々の印象を悪化させたのが物価の高さである。何買おうとしてもフランクフルトやストラスブールよりも高くて閉口した。そうそう,物価以前の問題として,ユーロとの交換レートもひどかった。ほっといても観光客来るからってぼりすぎやろ。

と,街自体の過ごしやすさは最低だが,それを補って余りある魅力があるのもまた確かで。都心部の美しさは絵になりすぎてて,ここは芸術の都なんだよなぁと再確認させられる。

パリ1 パリ3 パリ4


適当にとってこれですよ。ストラスブールは近世あたりで時間が止まった美しさがあったけど,パリの方は現代まで歴史を重ねつつ残ったたくましさみたいなものがあった。3枚目は意外と街に溶け込んでいるソニーさん。本当はホテルの部屋から撮った写真が一番良いのだけれど,バ的に危ない(=特定されそうな)のでやめといた。

パリ2


こっちは,一度は崩落したという愛の南京錠。この橋以外の橋でも,つけられそうなところはびっちり。世界のリア充は全く懲りてない。街の写真はこんなもんにしといて,行った観光地としては極めて一般的なもの。ルーヴルとオルセーはそれぞれ丸一日費やした。

オルセーは最初からその覚悟で朝9時半から入れば,なんとか丸一日で全部鑑賞できる。基本的に18時閉館だが,木曜日だけは21時45分まで空いており,足さえもつなら木曜日に行くとゆったり見ることができる。「月曜休館」というのは意外と忘れがちなので注意しよう。常設展で8.5ユーロ,企画展込みで11ユーロ。オランジュリー美術館とのセットで15ユーロという券も売っているが,一日で見切れるかバカという話で。入場の際にけっこう厳重な手荷物検査がある。また,昨今の鑑賞客のマナーの悪化からオルセーは2011年から写真撮影禁止になっているが,はっきり言って形骸化している。作品ではなく建物を撮る分には職員さんに止められることはないし,実際皆ばしばし撮っていた。ググると禁止直後の11・12年頃に行った人の旅行記を読むとカメラをカバンから取り出しただけでも怒られたそうなので,美術館側の態度が軟化しているのかもしれない。もうちょっと調べてみると,オルセー美術館の職員組合は,美術作品は公共物であるという立場から写真撮影禁止に反対しているそうで,それで堂々とした“見て見ぬふり”状態なのかも。しかも館内全面禁止というわけではなくて,撮っていい場所とダメな場所があるようなのだが,割と境界が曖昧なのも形骸化している原因だろう。

所蔵品はご存じの通り,新古典主義からポスト印象派の絵画・彫刻・調度品でジャンルが固まっており,収蔵されている作品の画家もほぼフランス人。フランスの近代美術が好きならルーヴルより楽しめるかも。適当に挙げると,ミレーの《落穂ひろい》・《晩鐘》,アングルの《泉》,クールベ《画家のアトリエ》,ブーグロー《ヴィーナスの誕生》,マネ《草上の昼食》&《オランピア》&《笛を吹く少年》,カイユボット《床を削る人々》,ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》等。それにしても,見ていくと「これ日本で見た」という作品が多すぎて,企画展という形でいかに大量に持ち込まれているかよくわかる。特に印象派ゾーンはその意味で新鮮味がゼロに近かった。逆に言って,これでもう日本に来るオルセー美術館展は全部無視しても大丈夫かも。順路は自由だが,割と迷宮じみていて,うっかり見逃してしまう展示スペースが非常に多い。しかもそういうところにこっそりブーグローとかシャセリオーとか置いてあるから油断できない。その意味での完全制覇の難易度は意外と高いかも。


一方,ルーヴルはまともに鑑賞しようと思ったら,やっぱり3日はかかる。私は約10年ぶり二度目の来館だったので,前回見たところや興味が薄いところはかなりすっ飛ばし気味に見たのだが,それでも今回も丸一日かかって9割方を「踏破」したに過ぎなかった。入場料は12ユーロで,何日も入り続けるのは金銭的にも重い。9時開館から入ることを勧めたい。手荷物検査はあれでいいのかというくらいにザル。写真撮影は自由。そういうわけで,1,2日でルーヴルを攻略しようという皆さんのために,ルーヴル攻略法を簡潔に書いておく。

ルーヴル1


・あれだけ巨大でも入り口は1箇所のみ。『ダ・ヴィンチ・コード』でもおなじみ,ガラス張り大ピラミッドの真下から入館できる。地下鉄で行くのが一番わかりやすい。なお,ピラミッドの周囲は例によって観光客狙いの怪しい人たちがうろついているので注意。
・基本的な行動として,見渡す限り宝物だらけだが,興味が薄ければさっさと通り過ぎること。未練や執着があると,本当に見たいものが見れなくなる。パックツアーにありがちな「超大作だけ見て,後は素通り」戦略は案外と正しい。
・水・金曜日に行くこと。21時45分まで開いているので,休憩を取りつつ鑑賞できる。それでも全部しっかり見ようなどという大それた計画は立てないこと。

・3階がバロック〜ロマン主義の絵画ゾーン。比較的超有名作が少ない。人もまばら。シャルダン《食前の祈り》,ヴァトー《シテール島への巡礼》,フラゴナール《かんぬき》,プッサン《我アルカディアにもあり》,ジョルジュ・ド・ラトゥール《いかさま師》,ホルバイン《エラスムスの肖像》と,ざっと言われてピンとこない限り,かなりの限りすっ飛ばしてよい。逆に言って今のラインナップにときめくようなら,ここに相当時間を割くのをお勧めする。私自身,ここに最初に行って最大限の時間を費やした。フェルメールの《レースを編む女》とアングルの《トルコ風呂》が数少ない超有名作だが,この2つの位置はけっこう離れている。あとはルーベンスの超大作《マリー・ド・メディシスの生涯》が大部屋1個使って全部展示されているので,これは一見の価値あり。

・2階は3つのゾーンに分かれている。1つは工芸品・調度品ゾーン。歴史順に並んでおり,中世・ルネサンス・バロック・新古典・近代とみられる。新古典と近代については,ほぼ同じものがオルセーで見られるので,そちらで見てしまってすっ飛ばすのをお勧め。ただし,ナポレオン3世の居室だけは行く価値あり。中世・ルネサンス・バロックゾーンはざっと見て「バロック期の技術水準の革新がすごいなぁ」というのだけわかればいいような気がする。
・2階の2つめ,古代エジプト・ギリシアゾーン。これはほぼ同じ展示物が1階にもあるので,そちらで見たほうがよい。というか,ルーヴルは古代エジプトの展示品を2階と1階に分けて置くという謎の配置をしており,大変に巡回しづらい。
・2階の3つめが,いわゆるグランド・ギャラリーゾーンで,ルーヴルのメイン。イタリア・ルネサンスの超大作と,19世紀フランスの超大作がずらっと並んでいる。ルーヴル最大の見どころといえばここ。レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》&《岩窟の聖母》,ヴェロネーゼ《カナの婚礼》,アングル《グランド・オダリスク》,ダヴィド《ナポレオンの戴冠式》&《サビニの女たち》&《レカミエ夫人》,ジェリコー《メデューズ号の筏》,ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》&《キオス島の虐殺》&《サルダナパールの死》と,改めて書き並べるにとんでもないゾーンである。一般的に言えばここが一番時間を取るべき場所。また,絵画メインで見に来たなら,3階から攻めてここが終着点になると,ちょうどよく帰宅できると思う。1階・地下1階にはほとんど絵画がないので。

ルーヴル3


・《モナ・リザ》は名前が《ジョコンダ夫人》にきっちり変わっていた(併記の優先順位がひっくり返っていた)ことを報告しておく。フランチェスコ・ジョコンダの夫人,いわゆるモナ・リザ,ラ・ジョコンダ,という形。人種民族入り乱れて,この前でセルフィーを撮っていた。私もやった。
・そうそう,《サモトラケのニケ》があるのも2階。というか,サモトラケのニケがグランドギャラリーの入り口になっているので,目印にどうぞ。

ルーヴル2


・1階も4つのゾーンに分かれる。1つめが大彫刻ゾーンで,中世から近代までの彫刻がずらっと並んでいる。有名作は少なく,ぱっと見で「すごい(小並感)」となるゾーンではあるので,ぱっと見で立ち去るのがよい。一応,多くの日本人が知っているだろうものとして,カエサルとハンニバルの彫像がある。しかしこの2つの彫像は,ルーヴルのHPの「主要作品」に載っていなかった。ルーヴル的には押しではないのだろうか? 人のまばらさから言って,ほとんどの観光客から存在すら認知されていないような雰囲気であった。もったいない。

ルーヴル4 ルーヴル5


・2つめは古代メソポタミア・イランゾーン。前1〜2千年クラスのレリーフがずらっと並んでいるので見応えがあるものの,これは大英博物館やベルリンのインゼルムゼウムでも見れる代物なので,そっちにも行く予定があるなら,そこまで貴重な感じはしないと言えばしないかも。唯一,ハンムラビ法典の実物は見るべき。

ルーヴル6


・3つめが古代エジプトゾーン。石棺とヒエログリフと死者の書のラッシュは見応えがあるものの,やはり大英博物館やメトロポリタン美術館がある以上,わざわざルーヴルでがんばって見るものかというと疑問が。我々は今回かなりすっ飛ばしたゾーン。
・4つめは古代ギリシア・ローマ彫刻ゾーン。ここも割と「すごい(小並感)」で終わらせても問題ないのであるが,あえて言えば近代彫刻との差異に注目するとおもしろいかも。超有名作としては《ミロのヴィーナス》様がおられる。

ルーヴル7


・この他,実は5つめのゾーンとしてアフリカ・オセアニア・古代アメリカなどの美術というゾーンがあるのだが,入り口からして違うという別館状態で非常に行きづらい。我々も今回は断念した。もったいないのでつなげましょうよ,とはルーヴル美術館に言いたい。

・地下は2つのゾーン。1つは中世の「ルーヴル要塞」だった時代の遺構を復元したもの。もう1つは雑多なジャンルが集まった場所で,主にはイスラーム美術ゾーンである。「聖王ルイの洗礼盤」はイスラーム美術の金属工芸最高傑作なので,是非見て欲しいところ。というか,イスラーム美術に縁遠い日本人だからこそ,これを機会に見ておくのを勧める。古代エジプトやギリシアに比べると,ルーヴルでしか見れない度が高いというのもある。なお,ヨーロッパ人としてもイスラーム美術への関心は薄いらしく,人はまばら。


最後に,ルーヴル事件簿として。私は平たい顔族としてはけっこう濃い部類に入る顔をしておりまして,半ば冗談で「無精髭にしておけば現地民に間違われるのではないかw」と仲間内で話しており,試しに髭を剃らずに数日,ルーヴルではめでたく本当に現地民に間違えられ,迷子になった旅行者らしき人に大変拙いフランス語で話しかけられるという快挙を成し遂げた。ええ,もちろん日本語訛りな英語で「ここは2階だ。そこのエレベーターに乗って地下1階まで行ったら右側に道なりで出口だ。」と返してやりましたとも。エレベーターまで見送ると,なんとも言えない不思議な表情で「サ,サンキュー」と綺麗な発音で言ってくれたアラブ人御一行様が大変印象的でした。


後編に続く。  
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2014年11月29日

ドイツ・フランス・ベルギー旅行記(前編:フランクフルト・ハイデルベルク・ストラスブール)

行ったのはフランクフルト・ハイデルベルク・ストラスブール・パリ・ブリュッセル・ケルン。旅行記を書くにあたって,旅程順に都市ごとに書いていくか,それぞれのトピック(治安・食事など)ごとに書いていくか迷った結果,両方やることにした。まずは旅程順・都市ごとに。今回の旅の主要な目的は,

・ストラスブールにて『ごちうさ(ご注文はうさぎですか?)』『WHITE ALBUM2』の聖地巡礼
・パリにて約10年前に行って制覇できなかったルーヴル・オルセーへのリベンジ

であった。あとは残りの参加メンバーの要望に沿って旅程が組まれた感じ。結果,パリは滞在三日間で,ストラスブールが一日半,残りの都市は半日で一都市という割とハードスケジュールになった。ただ,意外とそれで満喫できたような気も。


出発
11/15早朝,上野から京成電鉄で成田へ。よくよく考えてみると京成の電車も成田空港もそれ自体聖地だったような気がするものの,さすがにありふれすぎてて写真を撮る気にはなれず。今回,出国・入国の際に指紋認証をすると並ばなくて済むようになるというのを知って導入した。確かにこれは便利。一瞬で手続きが終わる。成田からインチョン経由でフランクフルトへ。お値段は往復10万円ちょうどくらい。実はこれより安いやつで,アブダビ経由で往復5万という超格安プランがあったのだが,時間がかかりすぎる上にさすがにちょっと不安になってやめた。機内食はまずまず。辛いもの好きの友人は韓国料理に歓喜していた。機内では映画の『レゴムービー』を見たが,意外とおもしろかった。約12時間ではあるが,映画見て飯食って寝てれば,案外と飽きずに着く。フランクフルト空港にてユーロに換金。別記するが,空港のレートは良くないというのが一般的な評価だが,実は街中の換金所でも全然変わらないというのが今回よくわかったので,ここで使う分だけ一気に替えてしまうか,必要最低限だけ替えてあとはクレジットカードで全部済ます覚悟を決めた方がいいと思う。


フランクフルト
ほとんど往復の空港と初日のホテルのためだけに滞在した感じ。正直経済都市すぎて見るところがあまりなく,レーマーベルクは10年前に行ったしなぁ……と思っていたのだが,そういえばシュテーデル美術館があったなということに到着して街歩きしていたら気づいた。手遅れである。初日の夜は「典型的なドイツ料理を食べたい」というメンバーの希望により,いかにもなドイツの居酒屋を探して歩きまわり,ようやっと見つけて大混雑の店内を案内されて席を確保。いい加減ドイツ語&英語でやっと注文。周囲のメンバーが「ソーセージ4人前(人数分)」と主張する中,前に旅行した経験から「絶対に大変なことになる」と行って2人前にとどめたところ,案の定えげつない量が出てきた。

DSC_0072


写真だとわかりにくいかもしれないが,ソーセージと肉の塊の下にザワークラウトが敷き詰められている。さすがにこのキャベツの山は残す羽目になり,ドイツ料理の洗礼を受ける。店員のおっちゃんに「なんだ東洋人,胃が小せぇな」という目で見られつつお勘定をしたが,いや,お前らが食い過ぎなだけだって。実際,フランスは常識的な量だったし。あと,事前の調べでは「ドイツ国内で最も治安が悪い」とあり,実際フランクフルト中央駅(Hbf)の駅前は非常に雰囲気が悪かった。一方,街中は,体感上の治安ではあるが,そう危険は感じなかった。


ハイデルベルク
城だけ。ハイデルベルク駅からはバスで麓まで行き,そこからケーブルカーという行き方が一般的な模様。バスは値段を忘れたが,市内均一料金で行ける。20分に一本くらいは出てるので,そんなに待たないと思う。ケーブルカーはハイデルベルク城に行くだけなら全く必要ない。山城ではあるものの,実はハイデルベルク城が建っているのは山の中腹で,2,30分登山すれば着く。もちろん,ケーブルカーで行けばものの2分で着くが,登山道の景色も良いので歩いて登るのを勧める。道は単純なので迷うこともないだろう。ただし,ケーブルカーはハイデルベルク城を通りすぎて山頂まで通っており,そこまで歩いて行くのは辛いようだ。山頂まで行きたければケーブルカーに乗ろう。我々は時間的都合もあり,山頂までは行かなかった。

ハイデルベルク城はめちゃくちゃ雰囲気が良かったが,一応は近世の山城・要塞であり,ロマンチック街道的な城やノイシュヴァンシュタイン城的なものを求めていくと,どちらの意味でも裏切られると思う。一方,「山深き場所に建つ,要塞建築の廃墟」として見るとやはり格別の美しさであり,行くべき観光名所である。友人たちがいろいろ写真を撮っていたが,何枚かピックアップして。

ハイデルベルク城1 ハイデルベルク城2 ハイデルベルク城3


一枚目の写真のように堀が枯れており,歩くことができる。なかなかのドラクエ気分が味わえる。二枚目の写真の崩れている塔が最大の見どころであろう。この塔,てっきり激戦だったファルツ継承戦争で壊れたものかと思われたが,実際には火薬の暴発による自滅らしい。真相なんてそんなものである。また,中に入れるスペースは少なく,というより一日に数回の城内ツアーに参加しないとほとんど見れないに近い。弾丸ツアーの我々には入っている余裕が無かったのが残念ではある。城内をしっかり見たければ,ある程度時間的余裕をもって行くのを勧める。一応,付設のレストランと,なぜかあった薬事博物館に入ると,それなりに城内が見られる。三枚目の写真は街の全景。統一感があって美しい。

ハイデルベルク駅での昼飯はカリーヴルスト。ケチャップが混ざっているおかげか,辛いものが苦手な私でも食える程度の辛さでしかなく,大変にうまい。ドイツの産んだ最強のファーストフードでは。そこからDB(ドイツ国鉄)でカールスルーエへ。ほとんど滞在時間なく,SNCF(フランス国鉄)に乗り換えてストラスブールへ。ドイツの田園風景はほとんど畑か牧草地で,たまに鬱蒼とした森が混じる。案外と変化に富んでいておもしろかった。


ストラスブール

ストラスブール1


こんなもん到着した瞬間に滂沱の涙ですよ。聖地巡礼用の写真はおおよそ全部押さえて撮ってきたのだが,全部貼ってるととんでもない重さになるので,先駆者の記事へリンクを張っておく。あと,以下の画像が死ぬほど役に立った。



どこに行っても基本的にまんまの風景がそこにあり,非常に聖地巡礼のしがいがあった。この中でのハイライトと言えばやはりクレベール広場である。クレベールはフランス革命期に活躍した将軍なのだが,エジプト遠征で取り残されてカイロで暗殺されたらしく,やや不運な生涯である。フランス革命期のアルザス地方というとドイツ系であるということで,国民国家建設から疎外されないよう,他の地方よりも革命政府に協力的だった。クレベール将軍もそうした背景から出てきた人物の一人と言えよう。で,ちゃんと『WHITE ALBUM2』同様に夜に行ってばっちり撮影。プレイ済みの方なら納得していただけると思うが,クレベール広場のシーンは『君望』で言う事故のシーンに匹敵するインパクトである。『WA2』未プレイで『君望』プレイ済の方は,あの事故のシーンの聖地に訪れることができたと想像してみてほしい。

ストラスブール2


あまりの感動に打ち震えて身体が勝手に五体投地していた(言い訳)。かずさー! 俺だー! 俺のためにピアノ弾いてくれー! ……あ,私が伏している場所のすぐ右に例の巨大クリスマスツリーがある。そういえばストラスブールがクリスマスツリー発祥の地という説もあるそうだが,その説に則るなら極めて歴史的に意義深いクリスマスツリーなのでは。また,私が拝跪しているこの建物は,厳かそうに見えて実は単なる商業施設であり,よく見るとユニクロの看板がある。ちなみに,少し左にカメラを動かすと,今度はアップルストアの看板が見える。割と興が醒めるので,見ないほうがいいかも。もう一つ,この建物の反対側には,ギャラリー・ラファイエット様がどどんと建っておられ,この建物が実にすばらしかった。

ストラスブール3


フランスと言えば百貨店文化だなぁ。そのギャラリー・ラファイエットに,翌日の昼に入ってみたのだが,

ストラスブール4


なんすかこのブリオン。店内装飾も美しかったのに,これだけすっごい違和感が。これが……フランスの百貨店文化……!!!(多分違う


一方,『ごちうさ』の場合,特定の背景が採用されているというよりも,街全体がストラスブールとコルマールから取られているとのこと。実際,旧市街にそれっぽい建物はいくらでも見つかるので心がぴょんぴょんし放題である。あと,聖地巡礼抜きで大聖堂には行くべき。今回,ノートルダム・ド・パリ,ケルンと3つ見たけど,残り2つに全く遜色ないすごさだった。

体感上の治安は非常に良い。というよりも,今回の旅行で一番治安の良い街だった。物価も安い。行った都市のスーパーマーケットには必ず行くようにしていて,そこで物価を見ているのだが,ストラスブールが一番安かった(そういえばスーパーマーケットでフランス版源氏パイを買ったので某人に今度プレゼントします)。食事についても,何を食ってもうまかったのだが,量が異常で,やっぱりここはまだドイツなんだなぁと妙なところで納得させられた。おう,芋とザワークラウトてんこもりにすんのやめーや。


と,ストラスブールを満喫したところで,お次はパリ。TGVに乗って一気に移動。フランスの田園風景も基本的に畑と牧草地なのだが,森が無いのと起伏がないので,ドイツに比べてまったくおもしろみがなかった。そしてパリに近づき市街地が見えるや否や落書きの嵐で一抹の不安が漂いつつ,パリに到着。(中編に続く
  
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2014年08月19日

第三次大洗巡礼記(&鹿島神宮)

コミケの手前の13日に,鹿島神宮と大洗(三回目)に行ってきた。

鹿島神宮に行ったのは,直刀を見たかったから。剣道・剣術の聖地鹿島が誇る宝剣で,正式名称はまんま「直刀」。古代から伝来する来歴のはっきりとした直刀としては最古の部類に入るものの一つで,かつ保存状態が非常によい。制作された理由も比較的はっきりしている。日本神話において崇神天皇が布都御魂を石上神宮に奉納したことになっているが,人間の時代になってから鹿島神宮が,布都御魂は元は武御雷が神武天皇に与えたものだから武御雷を祭神に祀る鹿島が所有するにふさわしい,と主張するようになった。結局返ってこなかったので,奈良時代に新たな布都御魂が作られて,これが鹿島神宮に寄贈された。『常陸国風土記』にも奈良時代頃に直刀が打たれて寄贈されたということが記録されており,様々な考証とも一致するため,おそらく1200年以上昔の作例になるのは間違いない。

そうした由来から鹿島神宮はこの宝剣を「韴霊剣(フツノミタマ)」の俗称で呼んでいる。要するに,伝奇系創作的な言い方をすれば神剣「布都御魂」に対する宝剣「布都御魂(偽)」なのであるが,元の神剣の格と1200年以上の歴史を鑑みるに十分な霊力を持っていると思われる。そもそも2.5m超の巨大な直刀であるため,多分選ばれた血の持ち主か英雄の類じゃないと持ち運べないと思います。聖杯戦争の媒介に使えば(直接関係ないけど)塚原卜伝あたり召喚できそう(適当)。残念なことに撮影禁止だったので茨城県教育委員会の解説ページにリンクを張っておくが,実物は2.7mあるだけあって巨大でインパクトがあり,1200年以上経過しているとは思えないほど,本当に保存状態が良くて驚いた。とは言ってもさすがに刀身は鈍そうで,むしろ当時の技術力を如実に感じさせた。宝物館にはその他にもいろいろ展示してあったが,直刀以外は他の古くて大きな神社なら持ってそうな物しかなく,目新しさは無かった。

宝物館以外にも一通りの施設は回ったが,要石と御手洗池はおもしろかった。御手洗池の横にある売店の鮎の塩焼きとみたらし団子が美味なので,これから行く人にお勧めしておく。


その後,車で一度大洗を通りすぎて,水戸のクックファンに移動。ガルパンカツを食う。

ガルパンカツ


作中(10話)でも登場し,生徒会チームが食べていたアレである。写真の物は初期型(1580円)で,これとは別にリアル型(3000円),重戦車型(7200円)の三種類ある。リアル型は揚げるのにかなり時間がかかる上に2〜3人分,重戦車型は要予約で4〜5人分となる。ぶっちゃけて言うと初期型でもかなり大きく,1人で食べると相当お腹いっぱいになるので,リアル型・重戦車型に挑むのであれば相当な覚悟が必要であろう。でも次行く機会があるなら,4人で行って重戦車型を注文してみたい気も。味はうまかった。豚肉にこだわっているらしく,とてもやわらかい。店長さんが大洗応援団長なだけはあって,店内はガルパングッズがかなり多かったが,ガルパン関係なく来る客を圧迫してないかはちょっと心配であった。

クックファン


店先はこんな感じ。会長と華さん押しだが,会長は作中でのクックファンの登場が上述の如く生徒会チームがここでカツを食べていたから。華さんは店長が好きだかららしい。

そして大洗に移動。今回の主目的はカルパッチョとペパロニ。「かくれんぼ」という本来の主旨に立ち返って,公式サイト上には「アンチョビの近く」「飲食店」ということ以外に情報がない状態である。ただし,OVA劇場公開のパンフレットにはどちらもはっきり場所が載っているため,持っていれば探しまわる必要はない……というか,ペパロニはともかく,カルパッチョは「アンチョビの近く」「飲食店」以外のヒント無しで辿り着くのは不可能に近いような。アンチョビのパネルからはけっこう遠い,とだけ書いておく。

ペパロニカルパッチョ


完全に新規の「ガルパンキャラの」パネルというとこの2体だけだが,それ以外のパネルが増えていた。どういうことか。答えはこれだ。

肴屋本店


実在の人物のパネルである。この肴屋本店さん以外にもいくつかの店舗で店長さんのパネルがキャラと並んで設置されていた。どこに向かっているんだ大洗。ただ,後から知ったのだが実際にはかなりまじめな企画で,NHKでも取り上げられていた。実際悪くない試みだと思うが,実際キャラパネルと並んでいるのを見るとシュールである。実はこのパネル,どうブログで紹介したものかけっこう悩んでいて,顔を隠せば大丈夫か,とか考えていたのだが,NHKで報道されていてHPに堂々と載ってるなら,私がここで隠したところで今更であった。まあ何か問題が浮上したら消すかトリミングします。


次に行くのは劇場版公開時かなぁ。可能ならばクックファンのリアル型ガルパンカツを昼食に,あんこう鍋を夕食に。
  
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2014年01月28日

第二次大洗巡礼記 ―進化する聖地―

大洗に再び行ってきたので,報告しておく。今回の目的は

1.前回撮り逃したノンナさんのPOPを撮りに行く
2.新たに増えた戦車POP45体のコンプリート
3.前回行きそびれた大洗まいわい市場&リゾートアウトレット&マリンタワーに行く
4.磯前神社の,絵馬の増え具合確認&巡洋艦那珂忠魂碑参拝
5.あんこう鍋を食す

の5つである。時間不足と気力不足でマリンタワーだけ登ってないが,それ以外は全てコンプリートできた。なお,5番のために泊まりがけである。泊まりの際に,メンバーで行ったインディアン麻雀がとてつもないポテンシャルを秘めたおもしろさだったのだが,これは別記事に回す。今回の旅行にあたっては,大洗ガルパントラベルガイドが大変役に立った。笑ったのは,各POP展示店舗にも一冊ずつ置いてあったことで,主要店舗に至っては非公式同人版まで置いてあった。巡礼者の皆さんも持って行くと効率よく回れると思う。ただ,正直2415円は高いのと,おそらく旅行会社・出版社のプロの手が入っていないため,トラベルガイドとしての作りはちょっと雑。




以下は詳細。画像多数につき注意。
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2013年07月04日

大洗巡礼記

6/22(土)にGIRLS und PANZERの聖地巡礼ということで大洗まで行ってきた。このタイミングになったのは,キャラクターパネル54体の街中かくれんぼがいつまでやっているかわからなかったからなるべく早く行っておきたかった,というのと,新たに戦車パネルが45体追加されて初の週末だったからというのがある。実は6/22が武部沙織誕生日というのは到着してから気がついた。ファン失格この上ない失態だが,奇跡的な幸運をつかんだということにしておきたい。しいて言えば誕生日イベントは午前中から昼頃だったらしく,到着13時半頃だった我々はそれを逃してしまった。

先に大雑把な感想を述べておくと,先行するレポート群にもあるように住民の理解が深く積極的であり,大変居心地がよく感じた。これなら商店街にお金を落としていこうという気にもなるし,うまいことそういうふうに売るものが設置してあると思う。そもそもアニメの企画自体が町興し的に始まったこともあって,既存の大洗の名物を活かしているのも好印象だった。難点を一つだけ言うと,やっぱり遠い。東京からならともかく,他の地方からでは苦しい距離である。今回13時半到着になったのは,相方の頬付君(@hoozuki)の移動距離的にこれが割と限界だったからだ。今回,割りと駆け足でがんばったがそれでも予定していたミッションの半分くらいしかこなせなかったので,次行くなら泊まりを考慮したほうがいいかもしれない(もう一回行くこと自体は確定)。

以下,写真多数につき重め。なお,大洗町の「ガールズ&パンツァー」特設サイトから,街なかかくれんぼの地図をダウンロードして見ながら読むと理解しやすい模様。

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2013年03月01日

タイ紀行(3):観光地(バンコク)・日本文化

5−3.観光地(バンコク)
バンコクは大都市である。自明のことではあったのだが,思っている以上に巨大な都市であり,少し驚いた。中心部は高層ビルが多い。チェンマイから南下してきたときの光景を振り返るに,日本の東京以上に一極集中だなぁと。そういえば,観光地の周囲だけ緑があり,都会の中に観光地が点在している点は東京に近いかもしれないなと思った。ビル群では日本企業の名前もかなり多く見るが,これは言うまでもないだろう。ちょっと驚いたのは伊勢丹と東急があったことだ。台湾同様,セブンイレブンもあった。

観光地として行ったのはごくごく典型的なところである。エメラルド仏のあるワット・プラケオと王宮。ただしエメラルド仏は実際にはヒスイ製であり,かなり遠い距離からしか見ることができない,半ば秘仏状態である。巨大涅槃仏のワット・ポー。ただし,サガットで有名なのはアユタヤにあるワット・ロカヤスタの方(書き忘れていたがここも行っている)。ワット・ポーのものは大きさというより,その全身が金色に輝いているというインパクトが強い。

最後に通称「暁の寺」ことワット・アルン。他の寺院はまっ金金ないし朱塗りな中,ワット・アルンはカラフルな陶器と宝石による装飾で,地が石むき出しか漆喰になっているため大きく趣が異なる。カラフルな装飾を無視して形だけ考えるとアンコール・ワットにも近い。このワット・アルンは階段を登ってかなり高いところまで登らせてくれるのだが,この階段が急勾配で,高所恐怖症とは無縁の自分もさすがにちょっと怖かった。

ワット・アルン


階段の急勾配そのままに見上げて頂上を撮ってみた。今見てもこの角度は恐い。なお写っている後ろ姿は我が家族ではなく日本人ですらなく,現地のタイ人である。彼らでさえもしんどそうであった。

はてさて,チェンマイのところでも書いた通り,黄金の国とはうちのことではなくタイのことではないかと思うほど,いくつかの寺院は豪華絢爛で壮麗な建築物であった。チェンマイでは趣味があわないなと思った私でも,これだけやられれば圧倒される。ただし,バンコクの場合はそもそも時間が経過しておらず,古びていないという事情は大きいかもしれない。なんせバンコク朝建国からまだ250年経っておらず,要するにこれらの寺院のほとんども長くて建立200年程度なのだ。タイという国がもっと長続きして,22世紀の人間が観光に来る頃には趣深さが増しているかもしれない。

そうそう,歴史を感じるという点では王宮に,西洋式との折衷で建てられたチャクリー宮殿があり,これが興味深かった。鹿鳴館や旧岩崎邸のようにバリバリの西洋式というわけではなく,折衷式である。パンフレットにはルネサンス様式と書いてあり確かにその通りだと思うが,広義のコロニアル様式でもあるのかな。シンプルな構成で列柱のバルコニーがあるので。どれが一番気に入った建物かというとこのチャクリー宮殿で,折衷にありがちな違和感が薄く,なかなか見事な調和である。

チャクリー宮殿



ああ,そういえばバンコクで食べたタイスキは半端無くうまかった(ただしスープは無論”白”)。東京にもコカレストランがあるらしいので,今度行ってみたい。


6.日本文化
twitterで次のようなことをつぶやいたところ,多くの人にRTされた。確かに,自分で見てもRTしたくなる情報だと思う。




その後,「機体によっては戸松遥もある」というご指摘をいただいた。これに限らず,バンコクはあっち方面の日本文化が大変栄えていたので,その報告にてタイ旅行記を締めたいと思う。  続きを読む
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2013年02月26日

タイ紀行(2):交通・言語・観光地(チェンマイ・アユタヤ)

(1)から。

3.交通
一般的な交通案内はあまり書く意味がないというか,我々一家も何か書けるほどタイの交通機関に乗っていないのでガイドブック以上のことは全く書けない。その上で。

市内観光でよく言われるトゥクトゥクは三輪オートのタクシーで,日本人としては激しく昭和臭のする乗り物だが,同行旅慣れてる人が「あまりお勧めしない」と言っていた。理由は単純に値段の交渉がめんどくさいからだそうだ。しかもそれほど速いわけではないし,チェンマイならまだしもバンコクは主要観光地にはおおよそ地下鉄が通っているので,それほど利用価値がない。現地の風を浴びたい,値段交渉こそが旅行の醍醐味という方はどうぞ,というところだろう。もっとも,この辺りの事情は普通のタクシーでもあまり変わらないようで,まあ値段交渉はどこでもつきまとうものか。やっぱり公共交通機関がいいよ,うん。通ってない場所には行けなくなってしまうのが難点だけど,チェンマイ・アユタヤ・バンコクに限れば困ることはそれほどないはず。言うまでもないが運転マナーは東南アジアクオリティなので,荒いと言えばいいのか恐いと言えばいいのか。

あと,一番書いておかなければならないのは冷房対策で,何乗っても寒い。タイ人はよくあの外気と車内のギャップに耐えられるなぁと思う。設定気温なんてデジタルなものはなかったのでよくわからないが,常に20度くらいで入ってるんじゃなかろうか。タイ王国観光庁のHPに「(電車の)冷房が効きすぎる場合があるので注意」と書いてあるが,自覚があるならなんとかせえよ,と本気で思う。同行旅慣れてる人いわく「ラオスとベトナムはこんなに寒くなかった」そうなので,タイ特有かもしれぬ。


4.言語・文字
言語は文字からして読めないタイ語・タイ文字が主流だが,観光地に限ればほとんどの場所で英語が併記されているため,さして困らない。チェンマイは英語止まりだったが,アユタヤとバンコクは中国語と日本語が併記されているところが多く,さらに安心だ。しかし日本語が不自然・間違っていることが時々あるのもご愛嬌で,どことは言わないが「この台には乗らないでくだい」という看板には思わず笑ってしまった。がんばれタイ王国観光庁。


5−1.観光地(チェンマイ)
まず,チェンマイという都市はタイ第二の都市で,北部の中心地である。厳密に言えば人口では第三位になるそうだが,なぜ第二かというと,長らくチャオプラヤ川流域のタイ王朝(スコータイ・アユタヤ・バンコク)からは離れた,別の王朝の首都であったからだ。これをラーンナー王国というが,まあ高校世界史で出てこないように小国かつ歴史の表舞台には出てこなかった国である。自立していたのは成立の13世紀末から200年ほどで,残りの20世紀初頭に滅亡するまではタイかビルマのいずれかに服属していた。ビルマがイギリスに滅ぼされていなかったらこの地域は現在ミャンマーだったかもしれない,というのは十分にありえたifである。近代になってバンコク王朝に吸収されたのは明治政府の琉球処分にだぶるし,チェンマイの歴史的立ち位置自体がわりと琉球にだぶる。歴史の流れが彼らの存在を許さなかったのであれば,なんとも悲しい話ではなかろうか。

しかし,このような歴史ゆえにアユタヤ・バンコクとはちょっと違った文化が残っているのがチェンマイである。いくつかの街の中心部の寺院と,ワット・ドイステープに行ったが(ワットはカンボジア語同様「寺院」の意味),旅行当時は最初がチェンマイだったので,どこがバンコクのものと違うのか今ひとつわからないままであった。帰国してから写真で改めて見ると,全体としては似ているのだが意匠の細部がやはり独特で,バンコクからみてもエキゾチックさを感じる。なお,Wikipediaの写真にある通りタイの寺院は割りとどこもまっ金金で,正直に言っていいのなら,侘び寂びが染み付いた日本人的感覚からするとちょっと趣味が悪く感じた。すごく失礼なことを言っているとは思うが,銀閣を見て「ぼろwwwww何これwwwwっw」という外国人に出くわしても日本人が「で,ですよね……」としか返事できなさそうなのと一緒で,許して欲しいところである。フォローするわけではないが,後述するようにバンコクの寺院はその方向性においてすごく,単純に感動した。その意味では,チェンマイは中途半端といえばそうかもしれない。

そういえば,ドイステープの麓でリアル托鉢に出くわした。一般大衆から食料を恵んでもらうあの行為である。その辺りの事情はタイが熱心な上座部仏教国であることやその宗旨を知っている人にはわかっている話だろうから省く。ともあれ,これは一般的な日本人的に興味惹かれる光景なので,一見の価値があると思う。


5−2.アユタヤ
次に行ったのは本当はアユタヤである。一つ前の記事に書いた通り,本来はスコータイにも行きたかったのだが時間がなかった。チェンマイの居心地がよく,長居しすぎたのだ。さて,タイの後の統一王朝になっていくチャオプラヤ川下流域の王朝は,首都の名前をとってスコータイ・アユタヤ・バンコクと変遷する。これは位置的に南下していっているが,そもそもタイ人の出身が雲南地方であり,南下はタイ人の歴史といってもよい。スコータイ朝はおおよそ日本の鎌倉時代に重なる。アユタヤ朝は室町時代から江戸時代の中期まで,バンコク朝は18世紀後半にアユタヤ朝を継ぐ形で成立し,現在まで続いている。

ではスコータイ・アユタヤは日本の鎌倉や京都と重ねることができるのか,というとそうもいかない事情がある。タイの歴史とはビルマとの抗争の歴史であり,しかもおおよそ敗北の歴史に近い。アユタヤ朝の歴史を見ていくとビルマの王朝強すぎ笑えない,ということになりかねないのだが,アユタヤ朝が滅亡するときに,ビルマ人がスコータイ・アユタヤをほぼ破壊し尽くしてしまった。もっとも素材が石材・レンガであるだけに限度があり,アンコール・ワット同様「完璧な廃墟」としては生き残っているものが多い。破壊の凄惨さは,仏像の素材が石材であっただけに痛ましく残ってしまった。アユタヤの遺跡には首の部分だけへし折られた仏像が山のように転がっている,とても無造作に。仏像の中が空洞になっていて中に宝物が入っていることを期待して,一番折りやすいところをやった形であるが,ビルマ人も同じ仏教徒であったはずで,なんともむごい。

しかし,アユタヤの廃墟の見事さには大変魅了された。これは紛れもなく崇高なるものだ。しかもこの巨大な廃墟,どうにも危険そうな場所や神聖な場所以外で立ち入り可能な場所が多く,年甲斐もなく,ちょっと崩れかけたレンガの階段に腰掛けて時を忘れてしまった。廃墟に魅力を感じる人にはたまらない観光地だろう。下の写真程度じゃちっとも伝わらないと思うが,ぐぐるとけっこういい写真が出てくるので,ピンときた人には是非お勧めしたい。(本当はもっといい写真もあるのだけれど,大概自分らか現地民が写っているので……)



アユタヤ:ワット・プラ・マハタート
  
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2013年02月25日

タイ紀行(1):気候・食

行ったのは1月中旬だが,いろいろあってずるずると報告を書くのを引き伸ばしにしていた。主な理由は行き帰りに読んだ『天地明察』の書評が滞っていたことだったりするのだが,ようやく旅行記に取り掛かれることとなった。行った先はチェンマイからスタートして南下,時間の都合でスコータイにはよれず,アユタヤには寄ってバンコクから帰還した。時系列順に書いていってもあまりおもしろくなさそうだったので,分野別に書いていく。


1.気候
タイは言うまでもなく国土全体が熱帯で,ケッペンの区分で言えばほぼ全域がサバナ気候に入る。1月だろうと超熱いだろうということで真夏用の服装を準備していったが,これはアユタヤ以南では大正解であった。というかバンコクの気候はおかしい。気温が40度近いとかいう以前の問題で,日差しが痛いのである。きついのを通り越して”痛い”。時折「日本の夏は気温より湿気のせいで不快指数が高い。熱帯の乾燥してる時期のほうが過ごしやすいくらい」とかいう言葉を聞くが,誰だそんなこと言った奴は。日差しが痛いなんてのは生まれて二十数年,初めての経験であり,あれが一日中,ほぼ一年中続くのであれば,私的にはどう考えても日本の夏のほうがよほど快適である。他人の感覚なんてあてにならないというよりは,経験してみなければわからないもんだなと思った。

一方,チェンマイはイメージしていたタイと全く違い,最初の観光地であっただけにカルチャーショックは大きかった。それだけにアユタヤに着いたときの「これだよ,これ!」感も強かったが。具体的にどうだったかと言えば,チェンマイは涼しかったのである。さすがに日本の冬とは比べ物にならないが,日差しが痛いということもなく,半袖じゃないと過ごせないということもなく,むしろ薄手の長袖は必要なくらいには涼しかった。チェンマイはタイ北部の都市であるが,北だから涼しかったというよりは高地だから涼しかったと言ったほうが正しかろう。一応現地の天気予報を見ると最高気温で25度前後であったが,体感としてはもっと涼しく,この辺がまさに「乾いているから」なのだとすれば前述の言葉もあながち間違っていない。


2.食
辛いイメージがあるが,韓国料理がそうであるように辛くないものだってあるだろう,というノリであまり心配していなかった。これはおおよそ正しく,それほど食には困らなかった。もちろん味付けが独特で,辛くなくても食べづらいというものはいくつか出てきたし,辛いものが多かったことは言うまでもなかろう。その独特の味付けを楽しむのが海外旅行だと思う。

目についた料理をいくつか。チェンマイ名物と言えばカオソイと呼ばれる麺料理だが,一言で言えば「カレーラーメン」である。カレーうどんではなく,麺はほぼ日本のラーメンであった。辛さ控えめで,辛いのが大の苦手な私でも十分完食できた。二回食べて二回ともそうだったし,同時に食べた普通のカレーは普通の辛さだったので,そういう料理なのだと思う。ブログにアップするつもりであったのだが,カオソイの写真を撮り忘れたのが痛い。さてそのカレーであるが,インド風カレーと比べるとココナッツミルクがベースになっているため,まろやかで一口目の感触はそれほど辛いように感じない。が,見事にココナッツミルクのクッションに騙されているだけで,魔法が溶けると反動もあって突然辛さに襲われることになる。やはり,辛いものはどうあっても辛い。

そしてカレーだけ辛いならいいのだが,タイ人は何かにつけて香辛料を入れるらしく,何食べてもスパイシーであった。見た目が赤ければまだわかるのだが,カツで閉じられた肉に香辛料がかかってたり,グリーンカレーのような状態だったりすると見た目辛そうに見えないというトラップがあり,飯は常に戦々恐々としていた。トムヤンクンは無論のことながら辛かったのだが,辛いというよりは酸っぱいという感覚が先行し,普通のカレーに比べれば意外にも飲みやすかった,それでも完食はできなかったが。意外な安牌が米類で,インディカ米ではあるのだがモチ米文化でもあるらしく,毎食モチ米であったのだがこれが抜群にうまい。辛さに耐えられ無くなったらモチ米をほおばる方式で,割りと辛さも楽しめたのかな,とは思う。

と,ここまで店屋で食べたものばかりで書いてきたが,夜市などの屋台の食べ物について。まず言うまでもなく衛生的に相当怪しいので,慎重に食べること。さらに店屋のものは現地民向けの店であっても,多少なりとも味がマイルドになっているが,屋台の物はいろんな意味でド直球であることには留意せねばなるまい。その上で言うならまあ,一回くらい食べても人生経験にはなると思うが正直に言ってお勧めはしない。どこでもいいから店で食べよう。

熱帯共通のこととして,フルーツはおおよそ何を食べてもうまかった。マンゴー・スイカ・パイナップルが3点セットで出てくることが多く,スイカは日本のものと変わらないかやや水っぽい。マンゴーとパイナップルは圧倒的に味が濃かった。さて,タイでフルーツと言えばドリアンかと思うが,ドリアンは二回食べて二回とも味が大きく違ったので種類差か個体差が激しいのではないかと思う。一つは強烈な臭さだったが甘みも豊富で,もう一つはそれほど臭くなくて食べやすかったものの「王様」的な風格に欠ける甘みであった。前者は(食べたことがある人なら同意してくれると思うが)とても完食できるような臭さではない。後者はインパクトこそ欠けたものの,普通に食べられる上においしかった。前者は店屋で出てきたが後者は屋台で買ったので,おそらく臭くて食べられないほうが高かったと思う。画像は屋台で買って,屋台のおばちゃんにカットしてもらったもの。


ドリアン



最後に,お酒。ビールが好きならシンハービールを飲んでおけば良かろうが,ビールが別に好きではない私にとってはこの点なかなかつらい国で,ビール以外は日本で飲めるようなお酒しか見なかった。さっき調べたら一応米焼酎も国産のものがあったようだが,旅行中は見つけられなかった。残念である。


(2)へ。  
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2012年06月29日

2012鎌倉行

先週末に,鎌倉に行ってきた。鎌倉に行くのは4年ぶりで,前回は父親と同行したが,今回は友人のkome(@hoozuki37)が同行者である。この時期をチョイスした理由は言うまでもなく紫陽花で,前回は5月に行って微妙に時期を外してしまったことへのリベンジであったのだが,元神奈川県民のkomeにとっては思い出巡りの旅も兼ねていた。

私は東京駅から,相手は西から鎌倉駅に集合。朝飯を頬張りながらおおまかな旅程を決める。まずは江ノ電に乗って長谷へ。ここから長谷寺・鎌倉大仏は黄金ルートであろう。この時点で江ノ電が非常に混んでおり,ちょっと嫌な予感はしていた。しかし,これだけ年齢層が散っており,老若男女全部いる観光地というのも珍しかろう。ぎゅうぎゅう詰めの江ノ電が,あいも変わらず民家スレスレを通って長谷駅に着いた。ここから長谷寺へは人の流れに乗っていくだけで地図を見ずに着く。

長谷寺は鎌倉の寺にしてはやけに俗っぽく,観光客をさばくのにも手馴れている。まわりが臨済宗ばかりだからって,それでいいのか浄土宗。朝10時そこそこだというのに,境内はともかく展望台は人であふれていた。さらに,紫陽花園には入場規制がかかっており,余裕の45分待ちというのを見て断念した。よくもこんな朝早くから観光客が集まるものだ。あまり人のことは言えないが。境内と展望台だけ見て早々に離脱。展望台からの鎌倉眺望はなかなかのもので,鎌倉が三方山,正面が海という構造の中にいるのがよくわかる眺望である。

次に鎌倉大仏へ行くのもほとんど固定されたコースであろう。説明をよく読むと,しばしば改修を重ねた結果,飛鳥大仏を彷彿とさせるサイボーグ状態となっており,なかでも頸部は強化プラスチックという文を読むにこの鎌倉大仏も苦労してるんだなとしんみりした。さてここからである。本来のルートなら長谷駅に戻り,江ノ電で鎌倉駅か北鎌倉駅に行って,鎌倉五山めぐりでもするのが正規ルートなのであろう。が,言わせてもらうとあの江ノ電の込み方は,都会で慣れていてもちょっと嫌なものであった。というよりも,普段都会で味わっているからこそ,観光地に来てまで味わいたくないものであった。でもって,観光地だからこそちょっと運動する気分であったのも事実である。地図を見ながら,どちらともなく「ここから北鎌倉まで歩いて行けば,そう遠くないんじゃね?」と言い出し,我々は北上を始めた。

察しの良い方は気づいておられると思うが,我々はさきほど長谷寺の展望台で確認した事実をすっかり忘れていたのであった。鎌倉は三方山で囲まれている。そして長谷寺も北鎌倉も,山の端に位置している。これを直線でつないで歩こうとすればどうなるか。そう,皆さんも中学歴史の教科書で見たが記憶にあるはずだ。「切通」を無視して山を縦断すればどうなるか。どう考えてもハイキングコースである。とりあえず地図をはっておくが,ルート上に本当に切り通しがない。なお,これは歩き始めてすぐに知ったことだが,我々が通った道は本当にハイキングコースに指定されていた。ハイキングコースというか,山道と言ったほうが正しいような状況であったが(分かる人に言うと,高尾山の舗装されてない方のコースよりもきつい,ただの山道に近い)。同行komeはしきりに「見覚えがある」と言っていたので,幼少期の彼は両親に連れられ,このあたりを歩いていたのだろう。小学生には相当きつかったと思うのだが。

そういうわけで,神社仏閣観光の予定が一転して楽しいハイキングと化し,銭洗弁天に参拝しつつ,源氏山公園(という名の山)を通過し,約2時間ほどかかって北鎌倉に到着した。そりゃ攻め込めないわ,と妙に納得しつつ,浄智寺へ。ハイキング中は少なかった観光客が浄智寺では復活し,正しく観光地に戻ってきた気分がした。浄智寺は庭園を整備していないものの落ち着いた雰囲気の良い寺であった。周囲の民家も気を使っているらしく,よく見るとどこの民家も巧妙に車を隠してあるという工夫に気づいて少し驚いた。観光地なりの苦労である。浄智寺から円覚寺に行き,そろそろ昼飯を食べようか,14時だしもう空いてきているだろうと飯屋を探し始めたのが甘かった。14時でもどこも満席で1時間以上待たされる状態であり,結局すぐ入れそうな蕎麦屋に行ったのだが,ぼったくり価格で味は普通であった。この日の唯一のミスといえば,この昼ごはんである。

15時過ぎから明月院へ。一番楽しみにしていたのだが,期待通りの庭園であった。見渡す限り紫陽花の絶景で,明月院は本当に良かった。

明月院:紫陽花



まさにこれを見に来たという感じ。本当はもっとわかりやすく写してある写真もあるのだが,観光客の顔がもろに出ているため,こちらを選んだ。

明月院の後は建長寺へ。建長寺では愛知万博の際にパキスタン国から寄贈されたという,釈迦苦行像(の模像)が展示されていた。模像とはいえ,これはすごい。元は3世紀に作られた正真正銘ガンダーラ仏で,めちゃくちゃ有名な仏像である。なぜに建長寺が引き取ったのかも由来がよくわからないが,あれを見に観光客がもっと来ていても良いものだと思うのだが。最後に鶴ヶ岡八幡宮に行き,国宝館は残念ながら時間切れで入れず,鎌倉駅に行って帰った。日帰りにしては一日使い切った大旅行であった。とても楽しかったが,あらかた見てしまったので鎌倉は当分いいかなー。行くとしても,次回は江ノ島とセットにして海沿いを攻めたい。もう山はいい。
  
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2012年01月28日

旧古河庭園(『FORTUNE ARTERIAL』聖地巡礼)

先週,旧古河庭園に行ってきた。先日twitter上で繰り広げられた会話では旧岩崎邸が話題になっていたが,こちらは『うみねこのなく頃に』と『FORTUNE ARTERIAL』として有名ではないかと思う(他の作品はここで調べられる)。しかも,『うみねこ』も『フォアテリ』もびっくりするほどまんまなので,調べやすいと思う。旧岩崎邸も旧前田侯爵邸もそうだが,洋館は丸っとやってしまったほうが使いやすいのだろうか。うみねこはここフォアテリはここなんかがわかりやすい。フォアテリとうみねこは旧岩崎邸でもかぶってるので,もうお前らほんとバトルロワイヤルでもなんでもすればいいと思う。魔女と吸血鬼で。

とりあえずノーパを持っていったわけではないし,スマホは同行kome(@hoozuki37)が持っていたもののあまり活用することもなく,ほとんど確認せずに写真を撮ったため,ばっちりそのままどころか思いっきりずれた写真になってしまっている。ご容赦いただきたい。(クリック後巨大画像注意)


旧古河庭園


これが一番近いかな?


旧古河庭園withえりりん


こっちは瑛里華のねんどろいど付。


ここでどうせだから旧古河庭園の宣伝をしておく。庭自体はそこまで大きくないものの,洋館手前がよく整ったバラ園で奥が日本庭園となっている。和洋折衷というわけではなく,バラ園と日本庭園の間には築地があり,うまいこと景観の遷移に成功している。洋館の中に入るには,庭園への入場料とは別に料金が取られる上に事前に申請が必要だが(窓口はここ),拝観に際しては係員の説明があり,それだけの価値はあると思う。洋館の館内も庭園同様,和室と洋室が混在しているが,うまいこと廊下で区切って折衷にならないよう調和している。ただし,聖地としてはおおよそ洋館の外見が使われているだけのことが多いので,庭だけ見て写真撮って帰るのもありだと思う。

また,洋館は一部を喫茶室としても開放しているので,喫茶室として入るのであれば予約不要で入館料も不要である。一部というがそれでも一階フロアの半分以上は見られるので,雰囲気は十分につかめると思う。喫茶室はなかなかの人気で,バラの季節には満席になることもあるそうだが,1月中旬のような季節の悪い時期に行くと客がおらず,洋館を独占したような気分になりながらおいしい紅茶やケーキを楽しむことができる。実際,我々が行ったときも,かろうじて洋館の説明の際には他にも客がいたものの,喫茶をしていたのは我々だけであった。その場合,洋館のだだっぴろい食堂の特等席に座りながら,一日だけ館の主人か客人になりきって談笑していた。「俺ら今日だけ大正時代の華族」とかなんとか。そういう意味で,あえてオフシーズンに訪れるのもありだと思う。聖地巡礼とするなら,他の観光客の邪魔にもならないし。

また,前出のリストではJR京浜東北線 上中里駅が最寄りとなっているが,実際にはJR駒込駅からも近く,駒込駅を挟んだ反対側にはこれまたすばらしい日本庭園の六義園が広がっている。両方一度に行くのもよいのではないかと思う。


  
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2011年12月27日

台湾紀行:故宮博物院

翠玉白菜というわけで,別記事で分けた故宮博物院である。無論のことながらすごかったし,満足したのだが,その満足の仕方は行く前と大きく異なっていた。私は言うまでもなく陶磁器と書画が大好きで,それを目的に行ったところが大きく,そもそも故宮の比重が大きくなければこの台湾家族旅行自体への参加をどうするかというのを悩んでいたと思う。しかし,ぶっちゃけて言えば陶磁器と書画についてはそこまで感動しなかった。すごかったのは,玉器と珍玩の類である。ああ,中国の真髄は玉石の文化なんだな,というのが今回の端的な感想である。

無論,陶磁器と書画のコレクションは素晴らしいものであった。古代から清代までの陶磁器がずらりと,質量ともに十分に陳列されていて,それはそれで十分に満足したのだが,何かショックを受けるほどのものであったかと言われると,はっきり言ってそうでもなかった。なぜなら,陶磁器については日本で質の高いものを十分に見られてしまうからだ。見慣れているから感動が少ないという至極当然の帰結であった。逆に言えば,普段からいいものを見させてもらっているんだな,と。

書画についてもおおよそ同様なのだが,質の面の話ではなく,歴史的価値の高いものという意味では,書画はまだ感動する所があった。李思訓に始まり巨然,荊浩,范寛,夏珪,元末四大家,董其昌,仇英,文徴明,清初の四王呉┐ずらりと並ばれていては,大口をあんぐりと開けてじっくりと見るしかあるまい。特に五代・北宋の大様式が大好きなので,巨然や荊浩が見られたのは嬉しかった。本当は郭煕の「早春図」が見たかったというのが本音なのだが,あれは展示期間が短くなかなか表にでてこないので,今回見られなかったのは仕方あるまい。書はあまり興味もなかったが,これも一つの機会なので今回はじっくりと見た。顔真卿,趙孟頫,蘇軾らがあった。家族に「これなんて読むん?」と聞かれて「ちょうもうふ」と答えられただけ,美術史を勉強してきたかいがあったのかもしれない。

金属器も書画と同じ評価である。見るだけなら東京でも,東博や根津美術館で見られるので目の保養にはならなかったが,歴史的な遺産が見れたという点では大きな成果であった。毛公鼎が見られたのは良かった。


さて,やはり特筆すべきは玉器,珍玩の類である。玉石と宝石の違いは,一言で言って透明か否かである,と説明していた。しかし,よくよく考えれば一般に宝石と言われるものでも透明度の低いものはあるので(トルコ石など),そう違いにこだわるものではないのだろう。トルコ石のほか,翡翠や瑪瑙も玉石の範疇に入ると思う。中心は翡翠,その中でも軟玉である。その歴史は古く,いわゆる「4千年前」からなのであるから,伝統の本道と言えるだろう。なぜ日本や朝鮮,ベトナムなどの周辺地域には伝播しなかったのかというと,やはり単純に取れなかったからなのだろうなと思う。日本で取れる翡翠は硬玉であり,加工には向かない。その至高の品で,故宮は世界に誇る珍品こそどう見ても白菜にしか見えない玉器「翠玉白菜」である(トップ画像だが一応リンクも貼る)。これを見るのには行列が発生するほどだ。ちなみに,近くのレストランで食事するとこの白菜をかたどったメニューが食べられる。

白菜



珍玩とは読んで字のごとくではあるのだが,材質が象牙や奇岩のものが多いことを考えると,広く「石の加工」こそが中国の伝統と言える。いや,どう見ても豚の角煮しか見えない肉形石のように加工していないものもあり,前出の翠玉白菜にしても人間の手による加工だけでできるものではないということを踏まえるに,広域の支配領域が早くから完成し,地方の珍品が中央に集められて代々伝えられていくシステムが古くから続いてきたからこそ,こうした玉器・珍玩が文化として成立しているのだろうなということを改めて考えさせられた。人間の手になるものなど,その時点で一段落ちるのだ……と言いつつ,象牙の加工品などは透かし彫りの超絶技巧なのだから恐ろしい。画像だとわかりづらいが,この容器は非常に薄い厚みしか持っておらず,透かし彫りから反対側の空間が見えるほどだ。


という感じで故宮の紹介を終えたいのだが,故宮博物院は意外と広くなかった,ということは述べておこうと思う。丸一日使っておいてなんだが,ルーヴルや大英・エルミタージュは一週間必要なのに比べると,丸一日で十分端から端までじっくりと見られてしまったような気がする。たとえば上野だって,東博の常設展だけでもじっくり見れば半日以上はかかるし,西美の常設展も加えれば,質量ともに割りと負けていないのではないか。故宮の場合,所蔵品自体は約70万点と非常に多いのだが,展示スペースがあれだけしかないせいで,なかなか表に出ない所蔵品もあるという。ポテンシャルをつぶしてしまっていて,非常にもったいないことだと思う。何やら今必死に拡張・分散しようとしているようで,2013年に完成予定らしいのだが,ぜひがんばってほしい。

  
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2011年12月26日

台湾紀行

12月中旬,仕事を一週間程休んで家族で台湾へ旅行に行ってきた。短期間である上にツアーであり,自由時間はそれなりにあったものの故宮博物院にほとんどの時間を使ってしまったため,ほとんど台北から動いていない。桃園空港から台北へ直行して,帰る日も台北から桃園空港へ直行したような形である。ゆえに,九份をはじめとしたメジャーな観光地にはあまり行っていない。ゆえに,この紀行文も主に台湾そのものの感触についてと,故宮博物院についてがメインになる。どうまとめたものかと考えていたが,時系列順にまとめるよりも特徴ごとにまとめたほうがよいという結論に至った。故宮については別記事にて。


1.台湾の中の日本

何よりも,恐ろしく日本化している。はっきり言って旅行中に海外を感じたことは少なかった。無論,台北市内中心だし日本人に接する機会が多いであろう場所中心に活動したからというのはあるが,それにしても。観光地では日本語が普通に通じる。無論つたないが,我々の英語と比較するにその差は歴然であり,明らかに観光客向けに勉強している。経済的にも,日本の資本が恐ろしく入り込んでいる。空港の自販機(CocaCola)からして「日本(で)大好評」と題してこれである。

CIMG0505


みずがめ座ってところが大変良く,思わず写真を撮ってしまった。市内では何よりもセブンイレブンが多い。街角ごとにあり,ガイドさんに聞くと「台北市内の土地面積あたりの店舗数は日本全体の平均よりも高い」そうだ。セブンイレブンよりは数が少ないがファミリーマートも進出していた。また,セブンイレブンは日本と名前が変わっていないが,ファミリーマートは「全家」と並記されていた。コンビニ以外では,台湾はバイク社会であるせいかHONDAとYAMAHAの看板はいたるところにある。あれは正確に言えば部品だけ輸入して現地で組み立てているそうで,輸入した部品がYAMAHAの物,という表示らしい。ハンバーガーは(日本資本ではないが)マック,モス,バーガーキングがあった。他もろもろ含めて,街並みを眺めているだけでも楽しいのは旅の楽しみの一つと言える。あ,そういえば本屋で灼眼のシャナ中国語版が普通に売ってたのが一番笑った。なぜそれだけ。それとは別に吉川英治の『三国志』中国語版が売られていたが,一種の逆輸入と言えるのだろうか。


2.気候

言うまでもなく台北は亜熱帯なので冬でも暖かかった……と言いたかったのだが寒かった。台湾のテレビを見ていた限り何やら行ったタイミングからクリスマスにかけて大寒波が来ていたようで,普段は12月でも日中の気温が15度以上はあるのに,その週は9度程度しかなかったという。おかげで日本と同じ格好をしていた。


3.食事

母親の趣味でフカヒレスープやアワビも食べたが,前から知ってたが高いだけで別にさしておいしい食べ物ではない。そもそも中華料理なだけなので,日本でも食べられるとまでは言わないが台湾でなくとも食べられると言えるだろう。小籠包は本当にうまかった。ちゃんと本場の鼎泰豊で食べた。

そんなことより甘味と果物である。台湾でメジャーな甘味として,豆腐(に近いもの)を用いた豆花(トーファー)がある。

豆花


食感は完全に豆腐だし豆花本体に味はほとんどないのだが,スープのほうが甘い。そして豆腐以外にタピオカやピーナッツを煮たものなどが入っている。この店のメニューには白キクラゲ入りも売っていたが,あれはおいしいのだろうか……。ひとまず,ピーナッツとタロイモはかなりメジャーな食べ物として認識されているようだが,食事なのかおやつなのかはあまり区別されていないようだった。朝ごはんにはピーナッツミルクが登場した。あれはあれでうまかったのだが,オレンジジュースや味噌汁から考えると,いずれからもえらい違いである。どうしてこれが定着したのかはやや気になるところだ。

果物も絶品で,どれを食べてもうまい。南国の果物はやはり持ってくる間に鮮度が悪くなるのかなと。やたらといろんなところで食わされるパイナップルとパパイヤとマンゴー。特にパイナップルはいたるところでパイナップルケーキとして売っており,試食を繰り返した挙句,結局職場はじめお土産のほとんどはパイナップルケーキとなった。パパイヤはパパイヤグラタンなる謎の料理を食べたが,「温めた果物はバナナにしろ意外とおいしい」の法則に乗っかりこちらもおいしかった。グァバ,パッションフルーツ,クコの実,蓮の実あたりも割とよく目にしたし,スーパーで売っているものもあった。スーパーのバナナは日本以上に投げ売り状態。


4.台湾の交通

台湾人と話すと「本土の連中の民度」をやたらと貶めす。これは私が話した台湾人が全員独立派だったということも大いにあると思うが,実際台湾人のいろいろなマナーは先進国に近く治安も良く,不快に感じるところはほとんどなかった。唯一の例外が交通で,交通マナーだけは名古屋とか大阪とかそういうレベルではなく中国・東南アジアに近い。ベトナム・タイに旅行したことがある母親が「あれよりはマシだけどあれに近い」と言っていた。バイクが多すぎて四輪車が少ないのが根本的な原因だとは思うが,信号は余裕で無視するわ車線はそもそも見てないわ,どでかいバスが無茶なところで曲がるわとやりたい放題で,よくもまあこれで事故が多発しないもんだと。

ちなみに,四輪車よりもバイクが多い理由についてガイドさんいわく「まだ経済的に完全に先進国なわけではなく,貧富の差も大きいから,中流以下はバイクしか買わない」んだそうで。
  
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2010年10月15日

第二次諏訪旅行記 二日目後半

以下は大したことのない後日談である。

別に東方厨というわけではないA氏と塩尻駅で解散した後,私とkomeは昨年度の旅の宿題をこなしに出かけた。洩矢神社の参拝である。我々は岡谷市で降りた後,重い土産物を抱えながら,地図を片手に一路その地を目指して歩いた。そしてたどり着いた。


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ここが念願のその地である。

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2010年10月14日

第二次諏訪旅行記 二日目前半

9時頃起床。だらだらと準備をし,10時に旅館をチェックアウト。この日は塩尻のワイナリーを訪ねることにしていた。井筒ワインと,林農園(五一ワイン)である。

朝飯を下諏訪で探しつつ下諏訪駅へ向かって歩いていったが,どこも開いていなかった。コンビニはなく,喫茶店はチェーン店がなく,地元の店舗は休日休業。大丈夫なのかこの町。本当に観光地か。そもそもシャッター街にかなり侵食されてるしなぁ。結局,下諏訪では朝飯にありつけなかった。

電車で少し移動して,塩尻へ。塩尻周辺でブランチの食べられそうなお店を探すが,これがまたひどいシャッター街で,何もない。塩尻市は観光地の自覚があるなら整備するべきだろう。蕎麦屋なら最悪でもあるだろうと思っていた我々が甘かった。そして30分ほど放浪した挙句,適当に入ったイタリア料理店が正解だった。千円のバイキング形式だったが,この味でこの値段が維持できるなら東京でも戦えると思う。この店がせめて塩尻駅目の前にあればなぁ……惜しい。

塩尻駅でタクシーを捕まえて,井筒ワインへ。さすがタクシーの運ちゃん,一発でわかった。残念ながらイヅツさんは農園や醸造所の期間外で見学することができなかったが,試飲はさせていただいた。同じ目的の客は多く,ワイナリーの中はなかなかにぎわっていた。ワイナリーの地下の,ワイン貯蔵庫も見学。

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フラッシュ無しだとこんな感じで相当暗い。中には樽がずらり。すでに瓶詰めの状態で保存してあるものも多数あった。以下,それなりに画像が多いので注意。  続きを読む
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2010年10月13日

第二次諏訪旅行記 初日

昨年も参加した諏訪ののみあるきに,今年も参加してきた。昨年はkomeと二人の東方厨二人旅だったため,諏訪大社参拝が主要目的であったが,今年は三人目の参加者(A氏)がおり,彼が別に神社仏閣に興味がなかったため,純然として酒を飲みに行った。ゆえに,全開は午前中に東京を出て正午に上諏訪に集合したが,今回は正午に出て午後2時半に上諏訪集合となった。向こう二人は名古屋在住のため,やはり上諏訪駅の足湯集合であった。そういえば,去年はこの旅行のためにデジカメを買ったなぁ,とか思い出す。

集合して2千円でお猪口を購入,これで飲み放題になった。ところが,今年は大雨が降っていて,傘を差さないことにはちっとも身動きがとれない状況であった。これが非常に環境を劣悪にし,また昨年同様会場の広さの割に人数が多すぎて街道にあふれていたため,お猪口に日本酒を注いでもらったはいいものの飲むスペースがないという厳しい状況に追い込まれた(また,kome曰く「昨年よりも出来が悪かったため楽しめなかった」,加えてA氏は日本酒党ではなくワイン党である)。自分としてはそこまで悪い印象を持たなかったため,一人で楽しんでしまったようなところは少しある。そういえば,7月5日にトラックが突っ込んで酒蔵が崩壊した真澄は,まだやはり仮店舗で運営していた。真澄が一番大きい酒蔵だっただけにこの影響は大きいと思われる。

良かった点といえば,昨年は諏訪湖一周自転車の旅なんてものをしていたせいで,開始しばらく経ってから会場に到着したため,すでに豚汁や茸の味噌汁などの魅了配布がほとんど残っていなかったが,今年はそういった酒以外の食べ物はほぼコンプリートした(鹿肉だけ食べてない,か)。また,山田養蜂場が新規参加していたため,そこで蜂蜜ジュースの試飲をすることができた。あれは甘党の自分でも甘すぎると思う。はちみつレモンのレモン抜いた感じ。そこで,自分用の土産に「りんご蜂蜜」と,珍しいものということで「そば蜂蜜」を購入していった。

結局一通り飲みはしたが,参加2時間ほどで撤収し,早々に旅館に引き上げた。昨年は二人で一升ほど飲んでいたはずだが,今年は三人でようやく一升行くか行かないか程度ではないかと思う。夕飯は下諏訪駅から旅館の間で探したが,正直今ひとつ食べるところがなく,我々をさらに意気消沈させた。まともそうな蕎麦屋があったので「信州に来たし蕎麦食うか」ということで夕飯は急遽ここになった。これが存外においしく,残りの二人にとっては数少ない本日の収穫であった。しかし,上諏訪でのみあるきのあった三連休の初日の夜で,下諏訪の繁華街があれだけの寂れ様というのは,けっこうまずいのではないだろうか。あのイベントは上諏訪にしか金が落ちないのか。(一応,自分たちの泊まった旅館はそれなりに埋まっていたが)

諏訪の温泉はあいかわらず熱うございました。旅館では昨年同様,地元諏訪のケーブルテレビを見て楽しんだ。ローカルニュースの使いまわしっぷりがぱない。週刊ニュースで,しかもきちんと「次回の更新日は10/13」と表示されるという……。特番は地元の子供相撲大会。これが熱い戦いの連続で,なぜか3人そろって観戦し,2時間も視聴してしまった。

なんだかんだ言って酒がそれなりには入っていたので,泥のように就寝。  
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2010年06月12日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて付録:参考文献一覧

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2010年06月07日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(5):評価/研究史・周辺の画家

最後に,死後,一時ほぼ完全に忘却されてからどのように復活し,評価されてきたかという歴史と,周辺の画家についてを簡潔に紹介して終わりとする。


評価史について。フリードリヒが発掘されたのは死後60年ほど経過した,20世紀初頭のことである。1906年にベルリンの国立美術館で開催された「ドイツ100年展」がその契機であったとされる。当時ベルリン国立美術館の館長であったフーゴー・フォン・チューディは近代美術の擁護者であり、公的な美術館としては世界で初めてマネの作品を購入し 、同時代のドイツ人画家であるベックリーンやトーマ、クリンガーと交流を持つなど国立美術館の近代化に尽力していた。チューディがどこでどうフリードリヒを発掘したのかは明確ではないが,19世紀末頃から次第に美術雑誌等でフリードリヒの紹介が始まっていたため,経路は複数想定できる。

そしてチューディは,知名度に対して明らかに過大な扱いでフリードリヒを100年展に登場させ、「光と空気の変化の戯れとしての無限の風景の描写が、初めてドイツに出現したのである」と評した。これは明らかにフランス美術との関連性に焦点を当てている 。つまり,フリードリヒのロマン主義を古典主義に対抗するものとして扱い,近代美術の端緒,思想としては象徴主義芸術の,技法としては印象主義の前段階のものとして,積極的な評価を与えた。これらは現代の研究から見て必ずしも間違っていない分析だが,一方でかなり恣意的な評価であるとも言わざるをえない。これには当時,近代芸術において最先端をひた走っていたフランスへの対抗心があったことは言うまでもない。ベルリンをパリと並ぶ前衛芸術の都にしようとしていた,チューディの心情がうかがえる。

しかし1910年代に入るとフリードリヒ作品の愛国主義的な面が強調されるようになっていく。一つはフリードリヒ研究が進みナポレオン戦争に反対した自由主義者であったということが判明したこと。もう一つは戦争の足音が聞こえてきたがゆえに,ドイツ人の民族主義・反仏感情が湧き上がってきていたという時代の変化であろう。実際,1914年には第一次世界大戦が勃発している。チューディの後継者として国立美術館館長となったルードヴィヒ・ユスティが1921年,国立美術館の画集『カスパー・ダーフィト・フリードリヒ』において,「ドイツ的魂のあふれるばかりの内面性」と表現しているのは象徴的な出来事である。以後,後世の研究者が「ナチスの悪用」と表現しているように、第二次世界大戦が終結するまでこのような愛国主義的な解釈が続いていく。ワーグナー同様の被害者であった。いや,フリードリヒには反ユダヤ感情が微塵も無かったであろうことを考えると,ワーグナー以上のとばっちりであった。


しかしナチスによって正常なフリードリヒ研究が捨てられたわけではない。ヘルベルト・フォン・アイネムは1938年に”Caspar David Friedrich”を刊行。これは戦後の1950年に再出版され,記念碑的研究書となった(和訳も存在)。フォン・アイネムは画家の人生や環境、時代背景や技法などから美術作品を分析する立場をとった。一方,カタログレゾネ(全作品集)を作る動きもあり,これはベルシュ=ズーパンにより1974年に完遂される。ベルシュ=ズーパンはフォン・アイネムとは対照的に,徹底して画面に描かれた図像による作品解釈をする立場をとる。すなわち,画家の背景よりも,画面の自然な読解・象徴表現の連結に重きを置いた。レゾネもこのような視点で作られているため,このことを念頭に置いて読まなければベルシュ=ズーパンの恣意的な画面解釈に引きずられることになる。

ただし,戦後になって決してフリードリヒの国際的な知名度が上がっていたわけではない。むしろナチスのせいで不当に低く評価されていたということは指摘されてしかるべきである。たとえば世界的に有名な美術史家の一人ケネス・クラークの大著『風景画論』(1949年)においても、フリードリヒに関する記述は極めて短く、しかもサミュエル・パーマーと比較してより強烈な印象を与える、と評しているのみである。

この状況から変化が見られたのは,レゾネの完成した70年代のことである。まず72年にロンドンのテート・ブリテンで個展が開かれた後、74年にはモスクワ、レニングラード、ハンブルク、ドレスデンで生誕200周年を記念する回顧展があった。日本での78年に国立近代美術館にて展覧会が催された。一応日本においてはそれよりも以前に,東山魁夷がドイツに滞在した際,最も影響を受けた画家の一人として紹介している。現在においてもフリードリヒ研究は、大枠で見ればフォン・アイネムとベルシュ=ズーパンの二大路線に収まっているか,その止揚を目指そうとしている状況にある。すなわち,画家の背景から推定するか,画面の読解を優位に置くか,そしてそれらをいかにすりあわせるか。いずれにせよ,いまだ解釈の定まっていない作品は多く,世界に名だたる巨大な画家としては,まだ開拓の余地がある画家ではあるように思われる。



以下は,フリードリヒ周辺の画家の紹介と,ドイツ・ロマン主義絵画の簡単な流れ。
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2010年06月06日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(4):人生と画業の遍歴・後編

ラムドール論争からの続き。もう一度《テッチェン祭壇画》をよく眺めた上で,ラムドールの主張を吟味してみると,彼は決してヒエラルキーへの抵触のみで批判していたわけではないということがわかる。すなわちラムドールの主張とは,

1,歴史画・宗教画を最上とするジャンル別ヒエラルキーへの抵触
2,美的感動ではなく感情を掻き立てるものであること
3,技法上のアカデミーの規則からの逸脱


の3点である。1についてはすでに説明した通りである。2については,当時のカントの「崇高なるものは自然に限定される」という思想が背景にある(シラーやバークはこれにも反対し絵画にも適用される概念だと主張)。そして問題は3についてである。《テッチェン祭壇画》は強い逆光で描かれている上に、そのせいでキリストが黒く影になってしまっている。また岩山に立体感が欠け、そのせいで岩山は空から浮き出ているように見える。これらは当時のアカデミックな風景画からは完全に逸脱した手法であった。このような発想そのものが過去ロイスダールくらいにしかさかのぼれず,あまりにも斬新であった。

しかし,フリードリヒにはアカデミーの規則よりも優先すべきものがあった。《テッチェン祭壇画》を解題すれば以下のようなことになる。すなわち,落日は旧約の父なる神であり,山上のキリストを照らす。よって,鑑賞者の視点からはこのキリストが後光に照らされているように見えなければならなかった。十字架の立つところはペトロを意味する岩でなければならず,鑑賞者の視線の動きが落日→十字架→岩山という順番になるには,岩山を目立たぬよう塗りつぶし平面的なものにしてしまう必要があった。総じて,「神が直接支配する時代から、キリストの恩寵の時代へ,そして人間の時代へ」というテーマを貫き通すには,彼にはこの配置以外考えられなかった。


ラムドール論争の1808年頃といえば,ドイツにとってはそんな論争をしている場合ではない状況でもあった。すなわち,イエーナの戦いとベルリン勅令,神聖ローマ帝国解体に,そしてティルジット条約の締結である。前述のように,フリードリヒの汎ゲルマン民族主義は,反理性主義・反フランスと明確に結びついていた。ゆえに,このような政治状況は屈辱的に感じられた。ラムドール論争による精神的疲労と,政治状況への義憤が,フリードリヒを初のスランプに陥らせたのはまったく不思議なことではない。

08〜13年頃のフリードリヒはしばしば気を紛らわせるように旅行に出掛け,今後の作品のためのスケッチを増やしている。1810年,22歳のショーペンハウアーの訪問を受ける。会話の様子は残っていないが,残っていれば両者にとって一級史料であったに違いない。1810年に《海辺の僧侶》《オーク林の中の僧院》をベルリン・アカデミー出品。これらがプロイセン皇太子買い上げとなり,ベルリン・アカデミー客員会員として認められた。いよいよ名実ともに,当時のドイツを代表する画家の仲間入りである。ちなみに,1810年頃の自画像。(やや画像重め注意)晴れてアカデミー会員となったフリードリヒは周囲からイタリア旅行をしきりに勧められたが,とにかく北方志向であった彼はイタリア風景の美しさを認めつつも,決してイタリアに足を踏み入れなかった。彼の人生最南端はおそらくボヘミアということになる。

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2010年06月05日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(3):人生と画業の遍歴・前編

コペンハーゲン・アカデミーを1799年、25歳で卒業したところから再開。ここからフリードリヒは学生ではなく画家に身分を移すことになるが、実際のところコペンハーゲン時代から絵を売って生計を立てていたようだし、明確な区分があるわけではない。便宜的に卒業と言ってみたところで、次の在籍先は結局ドレスデンのアカデミーになるのだから(しかも別に教師として招聘されたわけではない)、身分は不明瞭である。

いずれにせよ、彼はドレスデンに移り住んだ。wikipedia参照の通り、ドイツ中央部に位置し、チェコ(ボヘミア)との国境付近にあたる。ザクセン公国の首都であり、ザクセン公国といえば神聖ローマ帝国内ではオーストリア・プロイセン・バイエルンに次ぐ比較的大規模な公国である。選帝侯でもあり、神聖ローマ帝国建国当初から存在する。歴代当主は伝統的に学芸・文化を奨励し、ルターをかくまっていち早く新教に乗り換えたという歴史もあれば、中国陶磁器にはまりこみ、その復元に情熱を注いだ結果マイセン磁器が誕生したという歴史も持つ。

そんなザクセン公国の当主様が、ここ3代ほどはまり込んでいたのが絵画であり、中でも風景画であった。現在でもドレスデン美術館のコレクションと言えばヨーロッパでも一線級のものの一つだが、フリードリヒが訪れた18世紀末の時点でそのかなりの部分は完成されていた。一般的にはラファエロ、ジョルジョーネ、フェルメール、プッサン、デューラー、クラナハが紹介されるようだ。

しかし、やはりフリードリヒ研究という観点からは、ヴェネツィアの景観画(ヴェドゥータ)で有名なベルナルド・ベロットの作品が多数所蔵されていたということに注目せねばなるまい。ドレスデンは自らをヴェネツィアに比し、長い時間をかけて自らの景観に磨きをかけてきた。と同時に、歴代のザクセン公はヴェドゥータに比す都市景観画をドレスデンを舞台に描くよう、画家たちに募集をかけていた。こうして、ドレスデン・アカデミーはパトロンの意向により、自然と風景画王国となっていった。ドレスデン・アカデミーには、ヴェドゥータからその描法だけでなく「現地を美しく描く」という精神を学び取っていた。(なお、より詳しいドレスデン絵画史を知りたければ、アレクサンダー・ティーレ、アードリアン・ツィンク、クリスティアン・クレンゲルあたりを調べるとよいだろう。最も、ドイツ語文献以外は存在しないが。)

このような環境に、フリードリヒが憧れたのは言うまでもあるまい。彼は、滞在許可をザクセン公に申請する手紙の中でこう述べている。「暫くベルリンに滞在し、そこで芸術に勤しんだ後、18年前に選りすぐりの芸術作品の近くで、その美しい自然に囲まれて制作を継続するためにこのドレスデンにやってきました。」すなわち、彼はドレスデン自身の持つ都市景観の美しさと、所蔵する風景画の両方を評価して、ドレスデンを選び取ったのだ。

実のところフリードリヒ自身、自らの真の画風が売れ線ではないことを自覚しており、本格的にロマン主義画家として活動を始める1808年頃までは、ヴェドゥータ的景観画を描いて生計を立てていた。腕の良さは早くから認められており、ドレスデンでは名の知れた人気画家であったという。ヴェドゥータというと、美化はするにしても基本的に都市をそのまま描くものであり、後の人工的な風景画とは相容れない。しかし、生活のためとはいえけっこう長期間ヴェドゥータを描き続けていたことを考えるに、ヴェドゥータに対してはそれほど抵抗感が無かったのかもしれない。

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2010年06月04日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(2):脇道、崇高概念について

予定通り(4)で終わらない目処が立ったので、修正しておく。案の定画業遍歴が長くなったのと、ここでついでに作品紹介をしたほうが簡潔でよいということに気付いたので、構成を以下のように変える。

5部作で、(1)思想形成、(2)崇高議論について、(3)人生と画業の遍歴・前編(4)画業遍歴・後編 (5)評価史と周辺の画家

さて、(2)は先に脇道にそれた、美術史ではない美学的な話を処理しておくことにする。脇道ではあるが、重要な話である。フリードリヒ等という画家にしか焦点の当たっていない話よりも、一般性があって重要な話かもしれない。

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2010年06月03日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(1):思想形成

これについても書いておかなければ、卒業したことにはなるまい。そう思いつつ書こうと思い立ってはや二ヶ月が経過していた。でもやはりやっておこう。

これから書くことは卒業論文で提出したものの前半部分を基調とはしているが、全くの別物である。あくまで彼の紹介という点に重点がおかれている上に、論文ではとても書けないような無根拠な私見も混じっている。執筆の目的は、フリードリヒの紹介半分、フリードリヒで卒論なりレポートなり書こうとする大学生がぐぐってたどり着いたときに参考してもらうのが半分、といったところである。そんなレポート出す先生は極めて限られており、大学名がわかれば特定できるレベルだが、まあ、コピペだけは勘弁して欲しい。私も特定される可能性がある。まあ、大学の先生はけっこう調べてますよ、自分の名前でぐぐったり。

4部作で、(1)思想形成、(2)崇高議論について、(3)人生と画業の遍歴、(4)研究史・作品紹介、となる予定。というわけで、当分美術の話題が続きます。すいません。



(1)については以下で述べているわけだが、非常に長くなったので、先にこれを掲載しておく。フリードリヒ理解の一助となれば幸いである。

まとめという名の箇条書き:フリードリヒの思想形成について

・スウェーデン領ドイツの地方生まれ(=自由主義万歳+北方万歳)

・厳格なルター派の父

・人物画が苦手ということが発覚

・シュライアーマッハーの汎神論

・ロイスダールの風景画

・フランス革命に対するドイツ人の反応(=反理性主義+民族主義)
→ フリードリヒもかぶれる

・イギリス源流の崇高美学?

=汎神論的プロテスタンティズム、宗教画としての人工的な風景画、熱い民族主義


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2009年11月13日

四国旅行記 三日目 高知〜宇和島〜岡山〜東京

この日も7時頃に起床し、ホテルの朝飯を食べてから高知駅へ。昨晩を思い出して思わず鰹を買いそうになったが、一人暮らしで誰が調理するんだよということで思いとどまった。高知駅から土予線で宇和島へ。ずっと変わり映えのしない風景で、昨晩ホテルが暑すぎてやや寝苦しかったこともあり爆睡。ちなみに、ここの部分だけ鈍行であった。特急が通ってなかったんだから仕方が無い。

11時頃に宇和島着。ここの名物は鯛飯だというのでダッシュで食べに行った。

鯛飯@宇和島










といた卵と醤油に鯛の刺身をぶっこんでよくあわせ、その状態のものを白米にかけて食べる……というのが正式な食べ方だったようだが、あまりにも時間がなかったためご飯と刺身を醤油の中にぶっこんで食べるという暴挙に出てしまった。それでも十分にうまかった。しかし、やはり醤油の味が強くなりすぎてしまった。やはり、正式な食べ方で行くのがベストであろう。

宇和島からは予讃線を通る特急潮風一本で岡山へ。今回とってあった指定席はアンパンマン列車ではなかったものの、一つ前の車両がそうだった。どんだけアンパンマンプッシュだよ四国。三日間だけでかなりの車両数を見た。予讃線はずっと蜜柑畑で最初はおもしろかったものの、こちらも途中からは見慣れた風景に。結論:日本の風景はどこに行っても同じというのは真理。ここまで変わり映えがしないとなるとこの病理は深いな……と思わざるをえない。

17時頃、岡山到着。駅弁の穴子飯を買う。18時やや前の新幹線(またしてもレールスターのコンパートメント)に乗って新大阪へ。行きと同様、新大阪から米原の間だけ在来線を使った。実はこの帰りの新大阪・米原間が、この旅唯一の立ちだったりする。米原で愛知県止まりの連中と別れ、一人再び新幹線へ。あまりの疲労感に「これなら岡山からのぞみで一発で帰ればよかった」とやや後悔しつつ、ひかりに乗ってまたしても爆睡。気付いたら東京であった。最終的に本郷三丁目の我が家に着いたのは23時半頃。参加者の皆様、お疲れ様でした。

来年はどこ行こうねぇ。やっぱり出雲に東方と古代日本史の薀蓄を語りに行く旅か、それとも今まで一度も行ったことがない東北地方に紅葉を求めて足を伸ばすか。ちなみに個人的な話をすると、北海道と沖縄と海外を除いた人生最南端は今回の高知。それ以外は最西端が山口市、最東端&最北端が福島県。このどれかを更新してみてもいい。秋に限定しないなら、大阪の弘川寺は一回行っておかないといけない気がするし、冬の北陸に寒鰤とホタルイカと日本酒と雪だるまの旅にも行きたい。まあ、来年の話は来年にしよう。

  
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2009年11月12日

四国旅行記 二日目 鳴門〜徳島〜高知

二日目、朝7時頃起床。徳島のローカル番組を見ながら身支度をして、7時半からホテルの朝飯を食べ、8時半出発のバスに乗って鳴門大橋へ。8時50分頃鳴門公園着。ここまで来れば鳴門大橋は目の前。(今ぐぐったら正式には大鳴門橋らしい。まあどうでもいいですね。)

この鳴門大橋だが、当初の予定では瀬戸大橋同様、自動車道と電車の両方を通す予定だったのだが、採算の見込みがとれないとしてJRに断られて、挙句明石大橋の側はそもそも電車の通す構造で造らなかった。これは鳴門大橋の建設が1976年に始まって1985年に終了し、明石大橋の建設が1986年に始まって1998年に終了したことから事情を読み取っていただけるかと思う。要するに、バブルの煽りをもろに受け、予算が立たなかったのだ。しかし、せっかく造ってしまった電車用の空間をなんとか利用できないものかと考えた徳島県は、せめて徒歩や軽車両で淡路島まで渡れるように一応の道を通す予定だったようだが、それも結局鳴門から約500mの地点で留まり、淡路島まで届いてはいない。現在はもっぱら観光用に利用されている。500mの地点からは、渦潮が真下に見られるのだ。

そういういきさつで造られたものなので、てっきり入場料は取られないもんだと思っていたら、きっちり500円取られた。こんな観光資源逃すはずもないか。床は部分的に強化ガラスになっており、高所恐怖症の人間には耐え難い光景が広がっているが、確かに景色は、横を見ても真下を見ても、抜群に良かった。

鳴門のプチ渦潮










一応造ってしまった歩道は現在非常用として閉じられているが、淡路島まで通じてはいるらしい。今Wikipediaを見たら、撮ったものと全く同じ写真があった。やはり、ここの写真は撮りたくなるものなのだろう。↓

淡路島へと続く道(予定)










渦は干潮もしくは満潮時に最も巨大になり、今の時期だと9時50分頃が干潮なので、その1時間前であるこのタイミングはけっこうベターだったはずにもかかわらず、プチ渦潮しか見られなかった。しかし、それでも十分に見ごたえはあった。少なくとも500円払う価値はあったと言える。渦潮に結局30分近く見とれ、9時半頃鳴門大橋を後にして、大塚国際美術館に向かった。


さて、今回の旅行の最大の目的であった大塚国際美術館であるが、さすがにとんでもなく巨大であった。「オロナミンCとカロリーメイトで建てられた」と考えればその財力も納得が行くような気分がしてくるから不思議だ。展示作品は全て陶板で制作されており、西洋の名画が古典古代から現代に至るまで約1,000点再現されている。チョイスとしては特Aクラスの画家の作品を数十点ずつ並べるというタイプではなく、むしろ「こんなの美術史に詳しい人じゃないと喜ばないだろ」というBクラスレベルの画家までの作品を、一人の画家につき1〜5点ずつ程度並べての1,000点である。ゆえに、知ってる人は知ってて喜ぶけど、とりあえず美術の教科書程度の知識はある、という人が行っても意外と楽しめないかもしれない、とは思った。

たとえば、ルネサンス期ならばジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(《東方三博士礼拝》)、アンブロージョ・ロレンツェッティ(《善政の寓意(シエーナ市庁舎)》)、ジャン・フーケ(《聖母子》)、アルトドルファー、カルロ・クリヴェッリ、ルカ・シニョレッリなど。名前だけでわくわく来るメンバーである。ヨアヒム・パティニールの《カロンのいる風景》を入れてきたあたりはさすがである。古典古代なら青柳正規先生など、そうそうたるメンバーが監修していたのだから、「さすが」というのも失礼な話だけれど、意義を理解して発注を受け入れた大塚美術館の職員に向けられるべき賞賛かもしれない。

他にバロック期ならばサルヴァトール・ローザ、ピーテル・デ・ホーホ、ホッベマ、ヨルダーンス、ヤン・ステーン、ダーフィト・テニールス、ジュリオ・ロマーノなど。ロココでは若作りの天才ヴィジェ・ルブラン、ヴェネツィア景観画で有名なカナレットがいる。ロマン派ではライト・オブ・ダービー、我らがC.D.フリードリヒ、ルンゲ、オーバーベック(ナザレ派)、そしてハドソンリヴァー派までいたのには驚いた。ナザレ派やハドソンリヴァー派など、日本での知名度は皆無に近いのではないかと思う。なんとロシア人画家の作品まで4点存在し、それらはアイヴァソフスキーのロマン主義的風景画、レーピンの《ヴォルガの船曳》、レヴィタンの《静かな修道院》、そしてクラムスコイの《忘れえぬ女》である。

印象派ではジョン・シンガー・サージェントがいたのが興味深い。見当たらなかったが、後からパンフを見る限りベルト・モリゾもいたようだ。メアリー・カサットもいたらしい。これも見過ごしていたがラファエロ前派のアルマ=タデマ、ワッツ、ウォーターハウスもいたようだ。実は旅行の日程の都合上3時間半ほどで見なければならず、印象派に入ったところで3時間を使っていたためかなりすっ飛ばし気味に見ていったためである。これはもう一度行く必要があるだろう。ブーグロー、カバネル、ホドラー、セガンティーニ、マックス・リーバーマン、ルドン、ドニ、エゴン・シーレ、ベックリン、シュトゥックといった面々もいた。

ここで3時間半を使い果たしたためほぼ完全に見られなかった現代画家のゾーンだが、パンフを見るとユトリロ、ルオー、ローランサン、ブラック、クレーなどドイツ表現主義の主だった面々、マレーヴィチ、キリコ、イヴ・クライン、ラウシェンバーグ、マーク・ロスコなどがいたようなので、要するにこちらも充実していたのだろう。あまり興味が無い現代美術ではあるが、こういったコンセプトの美術館で見られないとなるとやはり惜しい。


逆に、いるべき知名度としては誰が省かれたのかを考えてみるとけっこうおもしろい。まず、ルネサンスではピサネロがいなかった気がする。バロックでは、「花のヤン」のほうのヤン・ブリューゲルがいなかった。ロココでは、ティエポロはいたものの彼の本領を発揮できるフレスコ画ではなかったために威力半減である。将来的にはぜひ製造して欲しいところである。フランスの新古典主義からグロ、これは意外な人が省かれている。あと、ブラマンクがいなかった。DiL曰く「ヴラマンクがいなかったのは大きな失点と言いうるかも」。無論、これらの要求というのは過度なものであり、大塚国際美術館が現状でも十分コンセプトにのっとった優れた美術館であるということは言うまでも無いことである。

ここまでずらっと画家の名前を挙げてきたが、やはりこの美術館で最も優れていたのは動かせないフレスコ画や教会の再現である。カンバス画と違い、これらは本来現地に赴かなければ絶対に見られないものの類である。なかでも最大の目玉はやはりシスティーナ礼拝堂であろう。しかし陶板を見ると「やはり将来行かねばなるまい」という気分にさせられるから困る。

システィーナ礼拝堂@大塚国際美術館










他にもこういう再現系としてはジョットのスクロヴェーニ礼拝堂、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが所有していて今はウルビーノのパラッツォ・ドゥカーレにあるストゥディオーロ(書斎)、ゴヤの黒い家、モネの大睡蓮などがある。


せかされるように大塚国際美術館を出て、バスで徳島駅へ。けっこうギリギリな乗り換えの中で買った昼飯は阿波尾鶏の駅弁。これは思ってた以上にうまかった。徳島線に乗ったが、この特急剣山がアンパンマン列車であった。

アンパンマン列車










乗車中はずっとアンパンマンの各種主題歌&キャラソン(?)が流され続けており、懐かしいなとか知らないキャラだとか言う話で盛り上がった。やなせたかしが高知県出身なので大いにフィーチャーしているところへ、他の四国三県も乗っかっている形らしい。それにしてもなぜ徳島線で?とは思うが。徳島線でどんどん山の奥へ向かい、阿波池田からは土讃線の特急南風に乗る。『秘境駅』を買った理由でもある路線だが、確かに超ド田舎で景色がすばらしかった。しかし、例によって車窓からの風景は撮影が難しく(ry。

しかし、かなり高知駅が近くなってきてもまだまだずっと山の中なので、一体どれだけ狭いんだ高知平野、と4人でぼやいていた。結局、特急で高知の二つ前の駅、時間にして15分ほどの土佐山田までずっと山の中であった。なんだかんで18時頃に高知駅に到着すると、まずホテルで荷物を降ろし、再びるるぶを紐解いて高知市内の鰹のうまそうな店を探す。これも高松のうどん同様どこに行っても存在していたわけだが、一応鰹以外も食べたいということで、いろいろ食べられそうな「司」に入った。

ウツボも鯨もクエも食べたが、ウツボはぶっちゃけて言えば鶏肉であったし、クエは意外と普通の白身魚という感じがした。しかし、確かに鯨は意外とうまかったと言わざるをえない。鯨ベーコンのイメージは捨てよう、そうしよう。kome曰く「捕鯨反対とかふざけてんの?これはどんどん捕るべき」と、まるで無関心だった捕鯨問題に言及しだし、店に入る前とは90度ほど意見が変わっていた。鰹は言うまでもなく絶品であった。人生でけっこう鰹は食べてきているが、タタキに限れば人生で一番おいしい鰹を食べたと思う。あとはどろめ(鰹の心臓)やらちちこやら沖ニロギやらちゃんばら貝といった珍品を端から食べていき、最後に焼鯖の姿寿司を食べて終了。日本酒はもちろん司牡丹と酔鯨。値段はえらいことになったが、見なかったことにした。料理のデジカメでの撮影を忘れたのだけが悔やまれる。

ホテルに帰り、この日は大貧民で盛り上がった。同じように日付が変わった頃に就寝。三日目はここから本土に帰るだけの日である。  
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2009年11月11日

四国旅行記 一日目 東京〜岡山〜高松〜鳴門

元々、卒業するまでに大塚国際美術館には行こうと考えており、特にkomeとはそういうような約束がなきにしもあらずな状況だったところ、そういえば今年は身内で行く秋旅行の行き先が決まってないなと思い(一昨年:京都、去年:奈良)、旅行メンバーの一人であるR氏@乗り鉄に連絡をとってみたところ、「じゃあ四国一周しないか?w」という謎の返事が返ってきたので、しばし悩んだが結局乗ることにした。そういえば参加メンバーでR氏だけブログを持っていないため、HNで書けないのをご了承いただきたい。ここにDiLを加えた4人で旅行することになったが、本来都民であったDiLがやんごとなき事情により豊橋市民に戻ってしまったので、自分だけ東京出発である。交通費を考えると頭を抱えざるをえない。(ちなみに、結局電車賃だけで4万3千円かかった。総旅行費は「韓国なら行けたんじゃね」というレベル。)


11月7日、朝5時に起き、始発の丸の内線に乗る。6時少し前に東京駅着、そしてこれまた始発ののぞみに乗る。最初、自由席が1〜3号車のみというのを思い出せず、13号車付近で乗ってしまったため、品川くらいまで車内をうろうろしていた。はた迷惑である。自由席はそれなりに埋まっていたが、なんとか座ることができた。名古屋でこだまに乗り換え。こだまは案の定スカスカでした。始発でもないし。なお、名古屋でようやく連中を抜かした形になる。

米原へ到着。東海道線のホームで連中を待つ。なぜこのようなややこしい動きをしているのかというと、このチケットを使ったため。要約すると、期間は三日間で在来線(特急・指定席含)は米原から西で乗り放題、新幹線(指定席含)は新大阪から西でのみ乗り放題で2万円ちょうど、というチケット。ゆえに、どうしても米原・新大阪間のみ移動が在来線になる。実は+3千円出せばのぞみでそのまま新大阪まで行って、そこで連中と合流するという手段も使えたのだが、まあここはケチっておいた。

何度もの旅行でもはや通りなれた感さえある米原―新大阪間は特に書くことも無し。新大阪からは西日本パスの本領発揮で、ひかりレールスターのコンパートメント席を確保し、40分で岡山へ。岡山ではすでに11時頃ということで駅弁を食うかどうか迷ったものの、どうせなら高松でうどん食べないかという話になりスルー。結果的に帰りは岡山で駅弁を買って食べたので、これで正解だった。特急マリンライナーで瀬戸大橋を越えて高松へ。瀬戸内海の今までとは違う風景にテンションが上がる。海の色が碧で明らかに外洋とは違う。さて、本来ならばここで写真を一枚、と思ったのだが、やはり車窓からうまく写真が撮れなかったのと、よく考えたら二日目の鳴門大橋からの写真とかぶるということに気付いたので、ここでの写真はご勘弁いただきたい。

石油コンビナートも多く、瀬戸内海に来たんだなぁという感覚を一層強めてくれた。高松到着。13時過ぎで全員極限的に空腹状態だったので、真っ先にるるぶ片手にうどん屋探しに。いたるところにあったのだが、一応るるぶ通りに行ったらえらく地元民仕様の店で、非観光客がごった返していた。作法がわからないので必死に周囲の地元民を観察しながら注文。何より驚いたのが蛇口ひねったらだしが出てきたところ。さすがうどんの国。やることが違う。思うに、これは「つけてみそかけてみそ」クラスのカルチャーショックなのではないかと思う。うどんは非常においしかった。コシがありすぎるくらいあって、うどんの癖にすごく腹持ちが良かった。

高松発は17時だからまだ4時間ほど時間があるということで、age信者のR氏の「高松には栗林南という交差点がある」という情報に従い、栗林公園まで行くことにした。実は"りつりん"と読むのは聞かなかったことにした話である。ちなみに、栗林公園は四国で唯一の日本庭園での国指定特別名勝であり、その面積も西日本で最大である。ネタ抜きで高松屈指の観光名所だったりする。

交差点を探すのは後にするとして先に公園を観光することにした。栗林公園の入口で写真も撮ったのだが、全ての写真にkomeが映っていたので掲載することが出来ない。気付かなかった。庭園としてはさすがの出来で、江戸時代以降の大名屋敷付属の回遊式庭園としては、ややだだっ広すぎて単なる公園になりかかっている部分もあるものの、池の周囲に松や奇岩がよく配置されていて見ごたえがあった。周囲にあまり高い建物がなく景観を破壊されきってはいないのも良い。ただし、松以外に裸子植物が大量に植えられていたのは、南国らしくて特徴的だと言えばその通りだが、やや場違いな気もした。個人的には、そのセンスは無い。

栗林公園










多分これが今回のベストショット。池には鯉がやたらめったら大量にいて、鯉の餌(麩)が販売されていることもあり、そのいずれもが観光地名物巨大な鯉となっていた。もちろん僕らも麩を買って、池に投げ込んできた。周囲の家族連れの子供たちの妨害になったことを考えると、やや大人気なかったかとも思わなくも無い。大学(院)生最後のご乱行ということで許して欲しい。

栗林公園の鯉










投げ込まれた巨大な麩に群がる魚群の図。栗林公園で1時間半ほど滞在し、いよいよ栗林南の交差点を探すべくうろうろ歩いてみたが、結局見当たらなかった。R氏によると、昔は「栗林南」というバス停があって、そちらは場所まで完璧にわかっていたのだが、最近になって付近に高松市保健センターが建ち、それに伴ってバス停の名前も「高松市保健センター」になってしまった。悔しかったのでそのバス停の写真を撮ってきた。ただし、今さっき調べたところ、栗林南交差点は我々がうろついていた場所よりもさらにもう少し南になったのではないだろうかという疑惑が浮上している。ひょっとしてすごい見落としをしていたのでは……?

旧栗林南










高松駅に戻り、まだ時間が1時間くらいあるということで、旧高松城である玉藻公園に入ってみたが大して何も無かった。観光地を気取るならもう少し整備すべき。確かに多くの観光客は栗林公園に流れるとはいえ。お土産、というよりも電車の中で食べるものとして「栗林のくり」と「栗の実」を購入。前者に卑猥な空気を感じた人は病院。

意外と長く滞在した高松から、特急うずしおに乗って池谷駅へ。池谷から徳島線で鳴門に到着。鳴門で適当な居酒屋に入って夕飯。意外とちゃんとした郷土料理が食べられてうまかった。現地で知ったことだが、鳴門は鯛と蛸押しのようである。要するに、明石の辺りと同じようなものが特産。あとはまあ金時芋だが、いかに甘党の自分といえども夕飯にそれはない。

鳴門駅前のホテル(一泊4500円)に泊まり、夜は4人でトランプの51で盛り上がり、日付が変わったくらいに就寝。二日目へ続く。

  
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2009年10月21日

諏訪旅行記 二日目

二日目は初日と打って変わって東方厨全開モードで、諏訪大社四社を全て周ってきた。下社は下諏訪の駅から近く、そもそも下諏訪に宿をとっていたこともあって、すんなりと到達した。下社秋宮のお手水が二つあって、なんだこれと思いひしゃくですくってみたら見事に湯気が立っていた。……いや、温泉だとお清めにならないんじゃ(もう片方は普通の冷水でした、念のため)。

言うまでもないことだが、四つの社とも絵馬は汚染されきっており、秋宮の時点で相当ひどかった。たとえばこんなん。

下社秋宮痛絵馬




















んなもん俺だって欲しいわ。秋宮を離れて春宮に向かう途中、そういえば朝飯を食ってないことに気付き、どうするかということで途中林檎が売ってたので、買って丸々かぶりつくことにした。そういえば林檎とか葡萄も産地だよねこの辺。そんなややワイルドな朝飯を食いつつ、春宮到着。こちらは来年の御柱祭に備えて大規模な改修工事中でほとんど見れず、残念な結果に終わった。秋宮も工事中ではあったのだが、まだ見れた。言うまでもないことですが、こちらの絵馬も(ry

上諏訪に戻り、またしても自転車をレンタルし、上社へ。komeが途中で突然「道に迷った」とか言いつつも1時間弱程度で本宮に到着。バスにしておいても良かったのだが、2時間に一本しか存在せず、今日の夕方までに東京の下宿に戻る必要があったため面倒と判断に自転車にしたのだが、アップダウンが激しくけっこう辛かった。よく考えたら、山に登っていくのだから辛くて当然ではある。しかし、せっかくこれだけの観光資源なのだからバスが2時間に一本というのはもったいないと思うのだが……

この日も天気が非常によく、その点では見事なサイクリング日和で、諏訪湖からなんと富士山が見えた。(※ 巨大な画像注意)まあこれが写せただけ、自転車をこいだかいがあった。本宮に到着すると、神前結婚式が行われており、本物の巫女さんだヒャッハーなどという感情は消えうせて普通に新郎新婦の幸せを願ってきた。なお、言うまでも無く絵馬は(ry。そしてこちらにもお手水が二箇所あり、片方は温泉だった。口をゆすいでみたらすごく硫黄の香りが。

そこから自転車でさらに10分ほどこぎ、前宮へ。本宮が結婚式もあってにぎわっていたのに比べ、こちらは閑散としていた。確かに交通手段は乏しいし、正直何も無い場所であった。ただ、四箇所制覇したという達成感だけはあった。どうせなら洩矢神社まで行ければパーフェクトだったんだが、そこまで行くにはレンタサイクルではなくレンタカーが必要だということで、次回以降の反省ということであきらめることにした。ついでに言えば、住吉大社には行ったことがあるが、あとは出雲大社と鹿島神宮に行けば国津神的には制覇かなーとか考えていたりする。

前宮から下山途中、喫茶店があり、休んでもいいかなと思いそちらへ首をかしげたら、看板になにやら不穏な文字を発見したので近寄っていて見ると


ゆっくりしていってね











地元住民自重。あと、当然のようにここにも絵馬があったわけだがさすがに少なく、それを見越してか「こんなところまで東方厨乙」や「四ヶ所制覇!」といったことが書かれたものが多かった。やはりここまで来るような奴は筋金が入っている。ということは、洩矢神社の絵馬はもっと共感あふれるものになっているんだろうな、と思うだけにやはり今回到達できなかったのは残念である。

さらにそこから自転車で少しこいで、神長官史料館&ミシャクジ様を祀った神社に到着した。なお、その隣には存命実在の人物守矢早苗さんのご実家が存在し、神主よいくらなんでも元ネタギリギリすぎるぞと思いつつ参拝した。ちなみに、守矢早苗さんは昭和20年生まれ、2006年末まで東京都江戸川区で教職にあり、校長先生をやっていらっしゃったそうだ。ご実家の写真も撮ってきたのだが、さすがにネット上にさらすのはまずいだろうと思ったら、全然そんなことはないようで、ネット上には早苗さんご本人に許可を得てブログにアップしている人はいっぱいいた。運が良ければ、早苗さんご本人からいろいろ話が聞けるようで。迷惑してなければいいんだけど、とは思っていたけど、向こうからしてみると「最近諏訪神話に興味持つ人が増えたなぁ」くらいの印象なんだろうか。というか、我々も全く人のことが言えないとはいえ、東方厨アクティブすぎるだろ……


そして本宮まで戻ってきて、そこでまた足湯に入り、またしても必死に自転車をこぎ、上諏訪駅まで戻ってきて自転車を返却した。帰りは下りが多かったのと、さすがに道に迷わなかったので、40分くらいで着いた。そこからF91あずさに乗って東京に帰り、東京で友達をもう一人呼んで三人で飲み、解散。komeは私の下宿に泊まり、翌日東博の「皇室の名宝」展を見て帰っていった。
  
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2009年10月20日

諏訪旅行記 一日目

ある日突然komeの人に「こんなイベントがあるので、諏訪で日本酒 飲 ま な い か 」とか言われたので、ホイホイついていってしまった。おまけにデジカメ@28kまで新規購入してしまうほどの浮かれっぷりで、結局そのテンションの高さのまま二日間通したのだからどうしようもない。


10月10日、午前10時頃のJPYあずさに乗って新宿から上諏訪へ。名古屋から乗ってきたkomeと上諏訪駅のホームで合流。特に待ち合わせ場所は決めてなかったが、上諏訪駅のホームにある足湯(なんと、ホーム内に足湯があるのだ!)の前で、そういえばkomeが前に諏訪に行ったときにあるとか言ってたなーと突っ立っていたら、komeがいた。お互いの行動が筒抜けすぎてちょっと怖い。

 足湯






こんな感じ。これは良いサービス。とりあえずお互い特急お疲れ様ということで、10分ほど足湯につかりながらここ最近の近況なんぞを語り合い、すっかり足が軽くなったところで改札を出て、昼飯を食う。信州蕎麦と味噌天丼のセット。知らなかったんだが、小海老の載った味噌天丼も諏訪名物だったらしい。この先いたるところで見かけることになった。昼飯を食べながら、今日はどうするかを話し合う。一応、例のイベントは13時から19時までぶっ続けでやってるのでもう始まっていたが、昼間っから酒飲んでもねぇ……ということで、諏訪子……もとい諏訪湖観光をすることにした。

駅前の貸し自転車を3時間で借り、出発。台風18号の直後だったこともあり綺麗な快晴で、風もよく吹き、適度な気温で非常に良いサイクリング日和だった。おおよそ16kmあるとされる諏訪湖を一周するとちょうどいいくらいの時間になりそうだ、ということで、湖畔沿いの道をぐるっと一周、途中変なオブジェや綺麗な風景を見つけるたびに立ち止まって写真を撮りつつ、のんびりと自転車をこいできた。注目すべきところと言えば、諏訪湖の周囲にも足湯は存在し、一周する間にもう2回足湯に入るという温泉好きっぷりを発揮してきた。なお、諏訪における温泉は水道水よりも安いらしく、いたるところで源泉が垂れ流されていた。僕らが泊まった宿も4k弱の超安宿だが、それでも源泉56度垂れ流しだった。むしろ熱くて入れない。

諏訪湖と言えば天竜川の水源で、これも写真に収めてきたのだが……汚い。水は綺麗に使いましょう。あと気になったところと言えば、諏訪湖は諏訪市、下諏訪町、岡谷市という三つの行政区分に囲まれているのだが、それぞれの境がくっきりしているのがおもしろい。特に、岡谷市は見事になんもない。同じ田舎でも諏訪市や下諏訪町は看板が綺麗だったり、過疎ながら人は住んでそうな町だったが、諏訪湖沿岸部の岡谷市は本当に荒地が多く、看板もあからさまに放置して十数年、行政がんばれよ行政と言いたくなるような状況だった。にもかかわらず、謎のオブジェが多かったのも岡谷市で、どうも税金の使い方を間違えてるような。


午後4時半頃、そろそろ良いだろうということで、やや時間が余ってたけども自転車を返却し、酒蔵ゾーンへ。2千円払ってお猪口を購入。このお猪口が参加者の証となる。しかし、2千円は安い。酒蔵5つではそれぞれで純米大吟醸がタダで振舞われていた他、豚汁やきのこが大量に入った味噌汁、漬物等までも振舞われており、酒のみならず腹までいっぱいになった。さすがに鹿肉の串焼きは有料だったが。聞けば、去年までは千五百円で、さらにそれ以前は千円だったらしい。そりゃ値上げすべきだよ。これからも口コミで評判は広まるだろうし。我々がミスったのは、もっと早い時間に行けばさらにいろいろ無料で配られていたらしいというのを後から知ったこと。自転車で諏訪湖周ってる場合じゃなかった。

個人的に、というよりもkomeと二人で最大のヒット作だったのは、酒蔵「横笛」の梅酒っぽい何か。通常梅酒というものは焼酎に梅と砂糖をつけて作るものだが、さすがは日本酒の酒蔵、そこを焼酎ではなく日本酒で作ってしまったのが、この横笛の梅酒らしい。味はどうかというと、確かに梅酒なのだが、本物の梅酒よりもべたつきが少なく非常にキレがあり、とんでもなく飲みやすく、それでいて確かに日本酒、米の風味がする。

結局二人あわせて1升近く飲んだと思われ、さすがに足もふらふらになり、komeにいたっては女性(26歳)に声をかけるという珍事件まで起こし(何年齢聞きだしてんのお前w)、そろそろ帰るかということで、下諏訪にとった宿に向かい、心臓麻痺の恐怖と戦いながら温泉(56度)につかる。寝ながらぼやーっと見ていた諏訪市のケーブルテレビが「諏訪市の医療費が……」とすごく真っ当にジャーナリズムしていてびびった。某ティーズも負けてられないぞ、とかぼやきながら就寝。
  
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2009年09月26日

俺の嫁を表にしてみた。

桃月Pがやっていて、おもしろそうだったので。私もよくわかりやすいと何かといわれることが多いので。

実際のところ、桃月Pのを見てもわかるとおり、好みの軸なんて人間複数にあるもので、二次元嫁なのにとても二次元じゃ表現しきれないというパラドックスを含むのではあるが、そこを無理やり二次元で表現するから、ブログのネタになるのではないだろうか、と思い至った次第。それでも縦軸、横軸はそれなりに基準を決めて配置したつもりなので、法則性を読んでみよう。似たような趣味の人ならぴんと来るかも。


俺の嫁表





















左列
・綺堂さくら 『とらいあんぐるハート1』画像はDVDのおまけより。
・リースリット・ノエル 『夜明け前より瑠璃色な』
・ルゥリィ 『さくらシュトラッセ』
・西園美魚 『リトルバスターズ』

・社霞 『マブラヴ(オルタネイティヴ)』
・水守御波 『そして明日の世界より―』
・パチュリー・ノーレッジ『東方project』
・楓ゆづき 『はるのあしおと』

中央列
・鷹月殿子 『遥かに仰ぎ、麗しの』
・ネリネ 『SHUFFLE!』
・如月千早 『アイドルマスター』
・里村茜 『ONE』

・牧野那波 『水月』
・浦島可奈子 『ラブひな』
・月村忍 『とらいあんぐるハート3』
・夏海里伽子 『パルフェ』

右列
・川澄舞 『Kanon』
・四条貴音 『アイドルマスター』画像はアイマス架空戦記ロダの歪氏より。
・深咲涼 『さかあがりハリケーン』
・八意永琳 『東方project』


以下、解説と言い訳。
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2008年01月11日

エロゲ舞台探訪調査(2)

前回の続き。葉から。


・雫=福岡?
・痕=石川県七尾市
・ToHeart=神戸?
・天使のいない12月=八王子?
・ルーツ=和歌山?

葉のゲームは場所の特定が非常に難しい。というよりも厳密には決めてないっぽい。はっきりしているのは痕のみ。東鳩は雰囲気だけなら東京っぽいんだけど、ロケ地は大阪と神戸なんだとか。うたわれは……一応長野になるのか?


・二重影=淡路島?

国産みのエピソード的に考えて。形になった島では最初に誕生したのが淡路島だし、淡炎島という漢字から見てもモティーフはここだろう。いや、やはり正解はベルギー(ry


・H2O=渋谷(第二章)

第一章の舞台はどこかわからん、というよりも特定するのはまずい気がする。第二章は確実に渋谷。これはゲーム内で明言される。でも、駒場にあんな教室は無いはず。本郷ならそれっぽいのあるけど。


・水月=九州?

マヨイガということで岩手説が一応推されてはいるが、話が渡来人なので九州説を推したい。WW2の被害が激しかったっぽいことや、開発の波が今頃来てるっぽいところなんかも九州らしい気がするんだけどどうだろう。まあ想像の域は出ない。


・顔のない月シリーズ=信州

同じくマヨイガ系のゲームだがこちらは信州。明言されている。そういえば、桃月を買ったものの未プレイで、パソコン買い換えたから事実上インストールさえしてないということに今気づいた。だんだんやる気が失せてきたんだが……


・神樹の館=四国

どっかで明言されてたはず。でも四国である必要性は全く感じない。ストーリーの本筋だけ読めば、九州のほうがいい気がする。


・はるのあしおと=長野

確かに長野っぽい。だがロケ地はけっこう点在してて、長野には全く限らないんだとか。ロケ地探訪の方々、お疲れ様です。


舞台が海外のゲームだと

・Quartett!=ドイツ(オーストリア?)
・鬼哭街=上海
・BSF=フィレンツェ
・月光のカルネヴァーレ=ヴェネツィア
・セイレムの魔女たち=アメリカ(セイラーム)
・カタハネ=西欧
・Phantom=アメリカ西海岸(日本編は不明)
・きると=東南アジアの諸島
・朱=中央アジア

あたりはすぐにわかる。カルテットは最初ドイツとは思えなかったが、検証してみれば間違いなくドイツ語圏だわ。BSFと鬼哭街、月光は明言されている。セイレムはまんま。カタハネは西欧全域。地名でなんとなく分けている。白の国はスイス、ドイツだろう。ジルベルクとかもろにドイツ語。紅の国はイタリアかスペインっぽいし、青の国はフランスか。Phantomときるとはなんとなくわかる感じ。

朱は10世紀頃の黒海沿岸とにらんでいる。ラッテの出身地や地名の感じがいかにもスラヴ。大河はドニエプル川と考えれば、その東側が完走したステップ地帯であり、そこで文化圏が大きく異なっていることなどの説明がつく。科学技術の発展具合や、道路網などを考えても、やはり10世紀くらいではないかと、とかマジメに考察した奴は俺だけだろうか、だろうな。人気ないし。好きなんだけどなぁ。


あと、自分がやってないゲームで有名なのはWind=広島県尾道だとか(尾道もなぜか多い)、Canvas2は京都だとか、Loversは長崎だとか、最終試験くじらが山口県だとか。意外と地方にばらけてておもしろい。丸戸ゲーの場所が(Rippleが宮崎ってことくらいしか)さっぱりわからないのが意外といえば。南栄生島は種子島なのか。ブリックモールは武蔵野な気がする。はぴねすの舞台探訪を誰もやってないのも不思議かもしれない。

当たり前の話だが、けっこう現実の場所を設定してないゲームが多い。ロケ地としては固めているゲームはけっこうあって、事実上ここ、というのはできるのだが、そのロケ地も点在してるともう完全に架空の場所、としか。たとえばオーガストのゲームはその典型で、はにはには南関東に点在してるし、明け瑠璃に至っては西日本全域に点在している。確かに両作品とも、雰囲気はそんな感じの地域ではあるのだが。ちなみに、FORTUNE ARTERIALも現時点でバラバラなことが判明している。

特定する側のファン心理としては、固めてくれたほうがいろいろおもしろくていいのだが、そう都合よく素材が集まるわけでもないか。とらハの海鳴市まで作ってくれれば、それはそれでおもしろいと思う。


あれ……俺愛知が舞台のエロゲプレイしてなくね?ままらぶでもやるか……

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2008年01月10日

エロゲ舞台探訪調査(1)

去年の年末企画で考えつつ、結局実現しなかったのがアニメの舞台地名マップに対抗して、自分のやったエロゲの舞台地名マップでも作ろうかという企画。Wikipediaに頼れば何とかなるだろうと思ってたけど、これは思った以上に骨が折れる。卒論の合間なんぞにやっとれるか、と投げた。新年明けてしまって卒論も出せたので、縮小版でも書こうかなと思った次第。基本的にここからスタートすれば、舞台探訪は追える。もちろんネタばれしまくりなので注意。まずは鍵ゲーから。


・Kanon=北海道
・AIR=和歌山
・CLANNAD=東京(筑駒)
・リトバス=春日部

ここら辺はというのは有名な部類。AIRのせいだったり熊野古道がCLANNADを宣伝に使ってたりして、KEY山地とか言われてますね。かく言う僕らも高校の頃そんなこと言ってましたが。ONEは横浜の山下公園が背景に使われているので、一応ここが舞台と言ってもいいかと。まあそれを言い出すと、Kanonの商店街は元町商店街だからKanonだって横浜じゃないか、と言う話も出てきちゃうんだが。MOON.は……特定不可能。リトバスは春日部の、らきすたではない某高校らしい。


・君望、スクイズ他ちよれん作品=神奈川県沿岸部

というのも割と有名な部類か。今まではぼかしてたのに、マブラヴでとうとう横浜基地って実名出しちゃっていいのか、と。しかもちよれん作品がアニメ化されだしたせいで、アニメファンにまで「神奈川県は危険な場所」とかいわれるようになってしまった。合掌。


・月姫=東京都二十三区、山手側
・Fate=神戸近辺

この辺も知ってる人は知っている感じ。昔目黒に行ったとき「月姫の舞台っぽいな」と思ったことはあったがまさか本当にそうだったとは。Fateは検証サイト無数。これも確かにそんな雰囲気の場所だった。


・つよきす=横須賀

これはゲーム中にほぼ明言されていると言ってもいいかもしれない。海軍カレー。しかし神奈川もほんと多いな。使いやすいんだろうね。なお、姉しよ1&2も神奈川だそうで。


・かにしの=伊豆?(旧岩崎邸)

鳳華女学院のモデル自体は旧岩崎邸庭園という建物で、実は東大本郷キャンパスから上野方向に歩いて3分のところにある建物。明治時代の洋館建築で大変すばらしい建物なので、行った事の無い東大生は卒業までに一度は行くべき。ではあの半島の舞台は?というと、極めて特定が難しいものの、気候や都心から遠くも無く近くも無くという立地を考えると房総半島の先っちょか伊豆半島の先っちょなんじゃないかと推定。まあでも舞台探訪するなら岩崎邸へどうぞ。


・ゆのはな=秋田(を通っていくところ)

情報源がWikipediaなので不安だが、奥州藤原氏が話に出てくることを考えても秋田か岩手のどっちかなのは確か。


・みずいろ=所沢
・ラムネ=和歌山(白浜)
・サナララ=東京都心部
・スカーレット=田園調布

ねこねこソフトの旧所在地そのまま。明言されたことは無いが、検証サイトはいっぱいある。銀色もここなのかなあ。ラムネに関してはまた和歌山かよw、と言われてしまいそうだがそうなのです。さすがはエロゲの聖地和歌山。これも検証サイト無数。おまいら、ねこねこソフト好きだなぁ。サナララ、スカーレットはさすがに少なかったけど、まあ見るからに都心だよね。


・ナツメグ=御徒町

二十三区の下町側だろうなとは思ってたけど、こんなに近所だったとはびっくりだ。でも、雰囲気がよく出てると思う。


・SNOW=京都?

一応舞台背景自体は京都らしい。シナリオ的にも間違ってはないが、いかに北部とは言ってもあんなに雪が降らないのでどうしたもんやら。SNOWについては厳密にどこかを当てはめるのは無理そう。


・もしらば=鎌倉〜大磯

検証サイト少なし。でもあまりに酷似してるので間違いなさそう。自分はプレイしてないけどDMFもこの辺らしい。神奈川危険説にまた一つ証拠が追加されたか。


・月陽炎=北海道

設定資料集より。札幌から二時間ほど離れたところにある神社、らしい。


・それ散る=府中
・SHUFFLE!=札幌

らしい。検証サイトはそれなりにあった。それ散るの修学旅行も札幌なわけだが、ネーブルスタッフは何か思い入れでもあるのだろうか。なお、シャッフルに関してはロケ地として吉祥寺、さいたま市が多く使われているらしい。雰囲気はやっぱり武蔵野だと思う。なんで札幌にしたんだろ?



意外と長くなったので、次回に続く。

  
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2006年12月29日

2006年年末企画 ドイツ語の美しさは世界一ィィィ(3)

2、魔法少女リリカルなのはA’s
作中登場するベルカ語は、どう見てもドイツ語である。デバイスの声をドイツ語に堪能な人がやっているだけあって、相当に正確。ただ、和訳が作中出てこないので、今日はそこを中心にやってみたい。ウムラウト多用しているので文字化けしてたらすいません。


シグナム(Signam?)
デバイス:レヴァンテイン(Laevatein)「炎の剣」

これはゲルマン神話から。向こうのは「レーファテイン」。綴りは同じ。三つの形態に関してはSchwertが剣、Schlangeが蛇、Bogenが弓。以下、技名。

シュテルングヴィンデ(Schtellung Winde):「陣風」。作中では単なる衝撃波だった。
シュランゲバイセン(Schlange Beissen):「蛇の噛み付き」。Schlange Formの通常攻撃を指す。
シュランゲバイセン・アングリフ(Angriff):Angriffは「攻撃」。さらに魔力を付加させた状態、らしい。
シュトゥルムファルケン(Sturm Falken):Bogen Formの攻撃。「疾風の隼」。シグナムの掛け声「翔けよ、隼!」をそのまま使ってもいいかもしれない。
パンツァーガイスト(Panzer Geist):「魂の鎧」。Panzerは戦車の意味もある。Geistは魂、もしくは精神。


ヴィータ(Wita?):多分VではなくてW。

Grafが伯爵、Eisenが鉄。非常にドイツ語らしい、かっこいい名前である。三つの形態はHammerがまんまでRaketenがロケット、Gigantは巨大な。ロリっ子に赤のゴスパンと鉄槌ってものすごくセンスがいいと思うのが私だけだろうか。個人的には昨年度キャラ造詣大賞である。

テートリヒシュラーク(Tötlich Schlag):「致命的な一撃」。
シュヴァルベフリーゲン(Schwalbe Fliegen):「飛燕」。おそらく日本語のほうを先に思いついて訳したんだろう。DVDの特典では「シュワルベフリーゲン」となっているが、作中はシュヴァルベフリーゲンと発音しており、DVDのほうはドイツ語を知らない人が書いたものだと思われる。なのは唯一のドイツ語ミスである。
フランメシュラーク(Flamme Schlag):「炎攻撃」。むしろ「ファイア」くらいのノリかもしれない。作中では9話でヴィータがなのはを不意打ちしたときの技(「この悪魔め……」「悪魔でもいいよ」のシーン。なのはには全く効いていない、さすが悪魔。)
パンツァーヒンダニス(Panzer Hindernis):「障壁」。Hindernisは障害物、妨害の意味。
フェアーテ(Pferde):「馬」。加速魔法。
パンツァーシルト(Panzer Shield):これはそのまま「盾」。
アイゼンゲホイル(Eisen Geheul):「鉄の絶叫」。Geheulは「妨害音」の意味。ヴィータのイメージとは違う多芸っぷりを象徴している。


シャマル(Schamal?)
デバイス:クラールヴィント(Klar Wind)「清らかな風」。

Clear Wind。こんな名前でも実は作中一番凶悪なデバイス。Ringeはそのままリング、Pendelはペンデュラムのことだと思われる。
実はシャマルはドイツ語で呪文詠唱していないので、技紹介は無し。ザフィーラ(Saffira?)も同様。


闇の書(Buch der Dunkel)と闇の書の意志(Luft des Buch der Dunkel)
ちなみに夜天の魔道書は「Buch der Nachthimmel」。蒼天の書はBuch der blaue himmelになると思う。

ゲフェングニス・デア・マギー(Gefängnis der Magie):「魔法開始」。結界を作るときの魔法。
シュバルツェヴィルクング(Schwarze Wirkung):「黒い効果」。英語ならBlack Effect。もう少しかっこいい和訳を考えたいところ。とは言ってもこの技、ただのパンチなんだが。
ブルーティガードルヒ(Blutiger Dolch):「血のナイフ」。作中では英語名「Bloody Dagger」とも発音していた。
スレイプニール(Sleipnir):言うまでもなく北欧神話の主神、オーディンの持つ馬の名前。ヴィータのフェアーテに合わせたか。


八神はやて
デバイス:リインフォース(Reinforce)「祝福の風」。もちろん英語で直訳は「強化」。

ミストルティン(Mistilteinn):北欧神話の剣の名前で、その意味ではレヴァンテインと同類。詠唱にある「やどりぎの枝」もこの由来で、石化の効果は本来無い。綴りがドイツ語的にもおかしいのは古語なため。古語では「やどりぎ」の一般名詞らしい。
ラグナロク(Ragnarök):北欧神話の最終場面(実は正確には違うのだが)、「神々の黄昏」。詠唱の「響け、終焉の笛」とはもちろんこのことである。ちなみに笛の名前はギャランホルン。にしてもこの魔法、威力が反則。  続きを読む
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2006年12月28日

2006年年末企画 ドイツ語の美しさは世界一ィィィ(2)

そして二期のTräument。結局何が夢なのかは、わからなかったのだが……

1、「薔薇水晶 Rozenkristall」(ローツェンクリシュタル, RozenCrystal)(Rozenは人形師の名前であり、ドイツ語の薔薇の綴りはRoseである)
Wikipediaの注釈通り。でも、だったら薔薇とは訳してはいけないような……

2、「槐 Enju」(エンジュ, Enju)
3、「金糸雀 Kanarienvogel」(カナーリエンフォーゲル, Canary)
der Vogelが鳥。しかし、カナリアそのままとは……

4、「契約 Vereinbarung」(フェアアインバールンク, Agreement)
契約という言葉はいくつかあるが、そこでVereinbarungを選んだのはなぜだろう。Vereinbarenというとどちらかというと「約束」とか「取り決め」という意味が強くて、ローゼンメイデン的な契約ではないような気がする。個人的にはVertragを勧めたい。

5、「手紙 Der Brief」(デア プリーフ, The Letter)
これはWikipediaのミスで、読みは「ブリーフ」でいい。プになるのは前の文字の発音がつまるときだけ。

6、「天使 Engel」(エンゲル, Angel)
7、「茶会 Teegesellschaft」(テーゲゼルシャフト, Tea Party)
8、「人形師 Puppenmacher」(プッペンマハー, Doll Maker)
9、「戒 Der Tadel」(デア ターデル, The Rebuke)
戒めという言葉も単語がたくさんあるので、あえてTadelを選んだ理由がわかりたいものだが原作のアニメがぐだぐだすぎてわからない。どうしたものやら。しかしおそらくこの場合は「罰」と言い換えられるような戒めなのだろう。ならばTadelであっている。

10、「巴 Tomoe」(トモエ, Tomoe)
11、「薔薇園 Rosengarten」(ローゼンガルテン, Rose Garden)
12、「少女 Alice」(アリーセ, Alice)


二期はさすがにネタが尽きたのか、ちょっと無理なタイトルが多い。槐とか巴とか。もっともアニメ自体がさらにぐだぐだだったが。

ちなみにOuvertuereは序曲という意味で綴り自体はあっている。1話が「Ewigkeit(悠久)」、2話が「Eitelkeit(虚飾」」。相変わらずローゼンメイデンのアニメ、タイトルのつけ方にセンスがある。  
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2006年年末企画 ドイツ語の美しさは世界一ィィィ(1)

というわけで今年も某祭典期間中のブログをごまかすべく、立ち上がったこの企画。ドイツ語は響きがいい。かっこいいガ行が多いし、ドイツという文化自身がミリタリーや医学、そしてゴシックなど多様なイメージをもち、非常にサブカルとの相性がいいのだ。しかし、ドイツ語は同時にマイナーであり、言語的にも難しい。そこでちょっと検証してみようと思う。代表的なところでローゼンメイデンとリリカルなのは。

1、ローゼンメイデン(RozenMaiden)
まずは大人気のこの作品から。実は作品のタイトルから怪しいのだが、RozenMaidenの、まずドイツ語で薔薇はRoseであってzではなくsである。そもそもzはドイツ語でタ行なのでこの綴りでは「ローツェンメイデン」になってしまう。Maidenはあってるんだが……(die Maidの複数形だろう)好意的に解釈するなら、「人形師ローゼンの娘たち」という意味に取れるが、それでも発音上の問題は解決せず。実は英語であるという説をとるにしても、その場合は語尾のenが余分で、結局解決しない。


ただ、タイトル以外ではあっている場所が多くて好感は持てる。そしてドイツ語が使われている場所、各話のタイトル(キャラ名)を見てみると、こっちはさすがにあっているものが多い。以下、Wikipediaからの転載。カッコ内は日本語読みと英訳。


1、「薔薇乙女 Fräulein Rose」(フロイライン ローゼ, Miss Rose)
こっちのRoseはあってる。アニメスタッフが直したのだろう。

2、「雛苺 Kleine Beere」(クライネ ベーレ, Little Berry)
直訳としては正しい。ただ風流ではない。まず雛がkleinなのかという問題。雛苺の雛が何なのかという根本的な問題に触れてしまうことになりかねない。雛を「小さい」という意味でとるならkleinだし、「若い」という意味でとるならJung(young)、「小さな人形」という意味でとるならPuppeになる。Beereのほうはどっちか言うとBerry全般という意味でどっちか言うと葡萄がメインらしいので、苺と限定するならErdbeereにすべきだろう。ただそうすると長すぎるか。字面が仰々しいと雛苺っぽくない。

3、「水銀燈 Mercury Lampe」(メルクリー ランペ, Mercury Lamp)
これは英語と変わらず。Lampの最後にeがついてるのがいかにもドイツ語という感じ。

4、「翠星石 Jade Stern」(ヤーデ シュテルン, Jade Star)
Jadeは翡翠という意味なので、これでいいと思う。というか、Jadeは二格になってもsがつかないということにむしろ自分が驚いた。

5、「階段 Die Treppe」(ディー トレッペ, Stairs)
6、「涙 Tränen」(トレーネン, Tears)
7、「夢 Träume」(トロイメ, Dreams)
これが二期の副題になるとは。

8、「蒼星石 Lapislazuri Stern」(ラピスラーツリ シュテルン, Lapis Lazuli Star)
「註:ラピスラズリの綴りは基本的にドイツ語でも「Lapislazuli」である。誤植か意図的であるかの真偽は不明。 」とWikipediaにも。単に誤植ではないかと思う。lとrは間違えちゃダメだろう。

9、「檻 Die Gefängnis」(ディー ゲフェングニス, The Prison)
10、「別離 Abschied」(アプシート, Parting)
11、「運命 Schicksal」(シクザール, Fate)
12、「真紅 Reiner Rubin」(ライナー ルビーン, Pure Ruby)

一期は以上。一般名詞と人形名を交えて入れてくるが、どれもかっこいい。
  
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2006年03月24日

名古屋の山登山日誌

21〜22日、友人数人で名古屋に行ってきた。主な目的は霊峰「喫茶マウンテン」登山だ。とりあえず、前哨戦としてポーションに挑むことになった。ところが、ただポーションを飲むだけでは、芸が無い。というよりも、それでは今までの「食歴」から言ってたいしたことが無いからだ。そこで


ポーション













ポーションと緑茶の葉を

前哨戦












フルーチェに入れてみた。


気になる味は………意外と普通。ただ、やはり緑茶の葉は余分だった。苦味が増したのはよかったが、食感がひどい。いや、粉だと思って入れたら葉だったのが原因なんだが。全員完食したが、使用した紙コップ(それでまた入れ物が紙コップだったあたりが理科の実験チックでいい)にフルーチェがこびりついていたので、お茶で洗って飲んだ。これが超マズイ。いろいろゲテモノを食べてきた自分だが、ここまで破壊力のある飲み物はなかなかに久しぶり。考えてみると、牛乳とお茶の相性が最悪なのは当然、そもそも緑茶の葉が入っているのにさらにお茶を混ぜるというのは、既知外じみているかもしれない。


翌日、いよいよ登頂。前回はバナナスパを食ったので、今回はキウィスパに行ってみた。これが案外と余裕で、というかうまい。他の地方出身ならいざ知らず、愛知県民ならこれくらい苦も無く食べて欲しいレベルだ。そのほかに食べたのが味噌煮込みスパだが、どう見ても鍋焼きうどんです、本当にありがとうございました。

そして、隣の友人がマウンテン名物にして、最強の異名をほしいままにする存在……


抹茶スパ












抹茶スパに突撃をかけていた。果敢にも単独登頂を試みたが、撃沈。それでもすでに他のパスタを一人で完食した上で、さらに単独で5合目まで登ったのは大したものだ。さすがは現役山岳部。いや、絶対関係ないけど。なお、彼は合宿の帰りで、本当に登山用の装備をしてマウンテンに乗り込んだことを付記しておく。

その後、すでにマウンテン慣れしている我々二人で救助。8合目ほどまで手伝ったのちは再び単独で登頂に成功した。お疲れ様。


都民も一度、チャレンジしてはいかが?  
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2006年03月12日

チャレンジ・ザ・東大入試(3)

二日目の午後、英語。初日の楽勝気分を吹き飛ばす社会に、追い討ちをかけるかのようにさらに難化した。終了直後の受験生の心情を慮るに涙が出てきそうだ。

大問1A:要約。民主主義は全員参加すべきだが、能力によりどうしても格差が生じる、といった内容が書けてれば点が来るはず。非常に楽勝。これに関しては易化している。

大問1B:パラ整除。これは普通くらいか。

大問2:英作文。今年難易度が上がったと言われる理由がよくわかった。まず一つ目、課題英作文。こっちはまだいい。二人の議論の要旨をまとめろというものだから、なんとかなると思うがそれでも難しい。やばいのは二つ目の自由英作文。英作文なんてものは縛りが多いほうが書きやすいわけで。これだけ自由度が高く、かつ多くの内容を盛り込まなくてはならないとなると、相当の英語力と思考力がいる。「大問1〜3は稼ぎどころ」というのが必勝テクだったが、そうでもなくなってしまった。

大問3:リスニング。どこにも音声が落ちてなかったので聞いてないが、スクリプトと問題見る限り大したことはなさそう。ここで稼がないとどうする、という感じだったのでは。

大問4A:文法。そもそもここは受験生だったときから無理だったが、今解いても難しい。これは難化というよりそもそも難しい。(1)は楽勝。(2)は無理、goes way backなんて熟語、俺は知らない。(3)はOnlyの倒置に気づければできる。(4)は謎。GivenがIfの代わりというのは理解できたのだが。(5)もてんぱってると気づかないと思う。

大問4B:和訳。ここも常に難しい。んで、今年も和訳しづらい。いいとこに下線引くよなあ……

大問5:長文。いつもは物語文なのに、今回は普通の評論だった。つまらない。センターと違って、心温まらない物語だから期待しているのに。分量は減ったけど、語彙がちょっと難しい。


総評:合格最低点がどこにも出てきて無いのでなんともいえないけど、総合的に見れば例年通り、文三なら330〜340程度に収まるんじゃないだろうか。というかこれで最低点が下がったなら、今年の受験生はよほど数学ができないと見える。それにしても昔とったなんとやら、でセンターよりもよほど現役時に比べて力が落ちていない気がした。だが、これも来年はもうやらない。  
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2006年03月11日

チャレンジ・ザ・東大入試(2)

二日目の午前、社会。

日本史
大問1:古代、奈良時代。東大の大好きな律令制度から。日本の律令制は氏姓制度との混ざり物だったことから、藤原氏的なもの=律令制度、大伴氏的なもの=氏姓制度くらいかけておけば、6割くらいの点数は来るんじゃなかろうか。もっとも奈良時代の藤原氏が律令官人として、能力の高さから出世したとはとても思えないし、あの史料から読みとれるとはまったく思えないのだが、自分だけか?

大問2:中世、平安末期。ごく普通。これは受験生なら解いておけ。

大問3:近世、琉球。すごく珍しい、超良問。なんだよ、こういう問題作れるんじゃん。冊封体制と列強の重圧にさいなまれる、19世紀中国周辺の衛星国特有の悩みを理解できるかどうか。日本は東アジアで唯一冊封体制の外側にいた国なので、日本という枠組で問題を考えても答えは出てこない。15〜19世紀の300年に、世界はどう動いたのか。事実上、世界史履修済みであることが条件の問題、社会が二科目受験の東大だからこそ出題できる問題だ。難易度は非常に高いが、これが解けてこそ地歴のエキスパートだと思う。

大問4:近代、鉄道。Aはマニアックな問題、1906年鉄道国有化を知ってないとどうしようもない。Bも同様。松方(デフレ)財政という言葉が出てくるかどうか。Cも非常に難しい。大戦景気にはすぐ気づくだろうが、原内閣のやったことなんてもう覚えてない。四大綱領を書けた受験生が何人いたか、興味深い。

今年はちょっと改心したのか、それとも日本史学の底点が西洋史に近年勝ったことない状態を改善したいのか、大問2と3は良問だった。つまらない。良問にはなったけれど、相変わらず世界史、地理に比べると解く気力をなくす難易度。それでもいい方向に向かってるんじゃないか。


地理:相変わらずあんまり難しくないが、難化したことは確か。特に大問3の日本の産業構造はけっこう解きづらかったのではないだろうか。


世界史
大問1:大論述。大雑把に言って,主権国家体制と勢力均衡から集団安全保障体制へ。毎度言っているが、相変わらず答えの要約が問題文に載っている。あれを膨らませれば、それが答えになる。今回は時代さえも特定されているので尚更。
大問2:小論述、インド洋貿易について。こういった問題はばらばらに考えるのではなく、連問として考えるのが鉄則。この場合は三問とも国際関係に重点を置いている。(1)の政治的側面とは、言うまでも無くガズナ朝とゴール朝。文化的側面はスーフィズムだ。スーフィズムのようにわかりやすいものが、異文化には受けるのである。(2)は英仏百年戦争について。基本的には事実の列挙でいい。ベンガルが争いの中心だったことを留意。(3)は4行でまとめるのがやや難。書ける内容が多すぎて、取捨選択に困ることだろう。イギリスを軸にするとまとめやすいと思う。具体的には、英仏の対立から英露の対立へ。3Bと3C政策の対立を経てWW1後エジプト独立。そしてナセルのスエズ運河国有化宣言からとうとうイギリスは影響力を失う。

大問3:単語。アッシリアの首都ニネヴェとその位置をいきなり聞くとは、受験生をびびらせようとする魂胆が見え見えだ。でもちょっとマニアックすぎないか?あとは大したものは無いと思う。管理人は全問わかった。


まだ世界史は二次も満点を狙えそうだ。良問がそろっていい感じ。やたらと国際関係にこだわった設問が多かった気はする。
  
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2006年03月10日

チャレンジ・ザ・東大入試(1)

センターをやったときに、東大二次もやると書いた。書いたからにはやらねばなるまい。ただ、こっちは採点は自己採点になるのでしっかりとした点数が出ないうえ、果てしなく時間がかかるので批評にとどめた。さて、大学三年にもなろうとしている、元受験生が、どこまで食らいついていけるだろうか。


初日午前:数学
大問1、図形。がりがり削っていくしかない計算問題が大問1に来ることが多いという法則がどんぴしゃである。で、これが激しく面倒。やり方は複数思いつくくらい単純だし、現役当時の自分なら20分くらいで完答できたんだろうが、今の計算能力では、途中で挫折。受験生なら完答は必須だろう。

大問2、数列。新課程らしく、コンピュータチック。もはや確率のやり方すら忘れかかっていた自分にはかなり苦戦したが、受験生ならば(1)、(2)は楽勝もいいところだろう。ポイントは、○が出る確率がpなのではなく、前と同じ記号が出る確率がpであるという点だろう。ここがやや思考を複雑にしている。(3)は相変わらずインスピレーションがひらめくかどうか。おそらく現役の時の自分でもこれはあきらめただろう。

大問3、整数問題。これもインスピレーションの問題といってしまえるところが大きい。なお、管理人は見た瞬間あきらめた。現役のときなら、(1)くらいは思いついたかもしれない。

大問4、三角関数兼微分。東大の微積は楽勝である。というよりもこれは単なる計算問題すぎる。絶対値記号がついていてやや難しい気はするが、多くの人にとって大問2や3よりはマシだと思う。

全体的に、単なる計算問題化が進んでいて非常につまらない。絶対「国立市の大学のほうが難しい」とカシンの化身が言っていたが、その通りだと思う。というわけで、平均的に数学できる人ならば3完も夢じゃなかったのでは?


初日午後:国語
大問1:現代文、宗教社会学について。人間が来世を思うのは、過去が存在しているから、ということ。個人的にはよく知っている内容だったのですんなり読めたが、普通でもそんなに難しいことは言ってないように思う。特筆すべきは漢字。毎年中学生レベルの漢字しか出題されなかったのに、今年はやや難しく「厳然」やら「従容」やらが出た。点数にしてみれば1〜2点だが、漢字が完答できたかどうかは、精神的に大きい。案外と勝負の分かれ目だったのではないだろうか。

大問2:古文、堤中納言物語。タイトル見た瞬間に頻出だなと思った。そういう意味では勉強量が問われたのではないか。模試かなんかで一度解いていて、物語を知っていればかなり有利だったと思う。簡単に言ってしまえばへたれ男の優柔不断物語なんだが。設問もオーソドックス。これは解いてほしい。

大問3:漢文、笑い話。東大の漢文はそもそもそんなに難しくない。ただ、出典がひどくマイナーなだけだ。しかも今回にいたっては笑い話だし。「謝」を感謝ではなく、断りの言葉と読み取れるかどうかが唯一のポイントだろう。

大問4:現代文、教育学について。論旨はアリエスの『子供の誕生』からルーマンへといったところか。子供は不透明なものであるという意見をつかめるかどうかが鍵だ。もろ教育学概論でやったところである。ひょっとして作ったのは奴か。そんなことは知らない受験生にとってはかなり読みづらかったかもしれない。まあそもそも大問4の現代文なんて後期の小論文の前哨戦のようなもので、普通は読めないから気にしなくていい。

こちらも全体的に難易度が下がった。数学と違って、相変わらず良問ではあるので、そういう意味では危惧していないが。そういう事情から文系は古文・漢文は満点勝負、大問1もほぼそんな感じで、本来ならあまり焦点にならない大問4が意外と勝負を分けたのかもしれない。  
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2006年01月23日

東大生は馬鹿になったか(二日目)

さて、とうとう二日目も解き終わったので結果を公表していきたい。二日目は理系科目ばかりで戦々恐々である。


生物 73点
予想通りの点数。遺伝で稼げた分他で落とした。遺伝は楽だ。

数学IA  89点
相変わらずIAは簡単。計算が楽すぎる。ただし、ありとあらゆる分野において公式が抜けていて戸惑った。もちろん確率は全部数えた。間違えたのは全部三角関数の図形。計算ミスではなく、公式忘れというのが時間の流れを感じさせる。加法定理を覚えていただけよしとしたい。

数学B 81点
ありえないくらい良い。だって管理人はここ一年間全く数学を勉強していないのに、この点数である。60点くらいだと思っていた。別に自慢でもなんでもなくて、単に問題が恐ろしく簡単になっていただけである。微積、対数関数は満点。三角関数は計算ミスで5失点。ここまで40分しかかからなかったのと、選択問題全部解ける可能性があったので選択の余地が大きかったのが大きい。その後コンピュータを解こうとして大問5をやるが、これが意外と難しくて2分で予定変更。それでも統計を大学の授業でやっている人にとっては逆に2分で終わるんじゃないか?大問6のコンピュータは簡単だった。やり方思い出しながら10分で終わる。15/20。複素数にとりかかるもやり方を完全に忘却。3分で挫折。確率分布は見た瞬間に計算のめんどさに負けてパス。この時点で残り10分だったので結局ベクトルに。5分くらいで行き詰まり、5分余ってたけど終了。いい加減に解いた割には11点もとれていた。前半に配点が偏りすぎだと思う。ベクトルはこれでは難しい問題解いた人が報われない。


リスニング 50/50
これは受験生をなめてる。まあ初年度ということでわざと簡単にしたんだろうけど。東大生or東大受験生なら45点は必須。というか、40点取れなかったら足切りで良いと思う。まあ東大は今年に限り、リスニングの点数を使用しないらしいけど、それも当然かな。差が付かない。

ついでにドイツ語 161点
やたらと発音の配点が高くて(27点)びびる。英語でいう大問3の難易度が高かったけど、長文は割と簡単。Prismenのほうが難しいくらい。ぐっさんあたりなら満点取れるんじゃないかと思う。


最終結果
525/600(東大後期型)
688/800
768/900

まだ東大に出願しても怒られなさそうな点数でほっとした。全体的に8割超えることが目標だったが、良い意味での誤算はやはり数学か。とれすぎた。考えてみると我々が東大のセンターが800点満点だった最後の世代なわけで、800点表示も段々廃れていくのかなと思うと少し寂しい。

いろいろ話題になった今年のセンターだが、話題になるだけのことはあったと思う。異常に簡単なリスニングとか数学とか。理科も1Bなくなったしね。現社には電車男出るし。小説は何かおかしいし。時流に乗ったのかな、と思う。解いてて楽しかった。

とりあえず某T花先生には「まだバカにはなっていない」という結論を提示しておきたい。なお調子に乗って二次試験もやるつもりではあるが、二次はセンターに比べて採点基準が明確ではないのであまり期待しないでほしい。最後に。来年は絶対やらない。  
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2006年01月22日

東大生はバカになったか(一日目)

センター試験なんて、もう忘却の彼方という人も多いだろう。すっかり雪が風物詩になってしまったこの試験ではあるが、思えば降り始めたのは我らの年からである。さてタイトルから想像できる通り、初日の試験を大体解いてみた。といってもそんなに気合が入っているものでもなく、こたつに入ってみかん食べながら、パソでメッセしながらである。やる気が微塵も感じられない。「そんなことしてる暇があったらレポートやれよ」という某人のツッコミが聞こえてきそうだが、せっかく解いたので結果を公表しようと思う。

公民 80点
例年なら現社を解くのだが、今年は某人が受験で倫理を使うのであわせて倫理を解いた。やたら難しいなと思ったら、なにやら公民自体が難化したらしい。これが新課程ってやつか。ロールズやらセンやらの思想なんて知らん。むしろ誰?どうでもいいが、現社に「電車男」が出現した。世も末だ。

世界史 97点
20分で終わった。選択肢以外の文章をほとんど読んでいない。楽勝モードだったが、マヤ文明についての設問でひっかかった。もうそんな知識忘れたよ。

英語 187点
文法で3ミス(×2点)、グラフで1ミス(7点)。グラフでミスるとかありえない。会話は相変わらずファンキーだった。「僕の車は白くてタイヤ4つなのさ!」いや、タイヤ4つなのは当たり前だろ。最後の物語はいつもどおり感動風なのだが、展開がぶっちゃけありえない。もっと自然な話にはできんものか。

国語 161点
今年から1・2と1の区別が廃止。それに伴って易化が予測されたが、案の定簡単になった。にもかかわらずこの点数なのは、古文のせいだ。まあ現役のときと、あんま変わらんけどね。評論は満点。楽勝。演劇論だった。去年の国語1・2が映画論で1が絵画論、一昨年の国語1・2が音楽論だったことを考えるに、製作者は間違いなく美学の先生だろう。少なくともここ3年間は。

楽しかったのは小説。34点しか取れなかったが、むしろ問題なのは中身だろう。主人公が女子高生で僕っ子。愛読書がキルケゴールや谷川俊太郎で、自虐的な性格。展開は百合チック。これなんてエロゲ?と、本気で思った。不覚にもちょっと萌えた。古文は35点だが、間違えたのは全部文法と単語。現役のときなら全部答えられたはずだ。漢文は42点。ケアレスミス。


とまあこんな感じ。疲れたのでリスニングは明日に回そうと思う。できれば、ドイツ語も解きたいかな。どうせ明日は理系科目で、ほとんど解けないと思うから。  
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