2010年12月08日

東方イコノグラフィー 〜萌え絵への美術史学的アプローチ〜

東方projectのキャラ数が非常に多いため,それなりにキャラ付けの特徴的な東方キャラであっても,描き手の稚拙さやパーツの除去によっては,本気で読み手が判別できなくなる場合がある。この現象や,この現象により判別不可能になった絵のことを「誰てめ絵」と呼ぶ。

「誰てめ絵」はなぜ忌避されるのか?それは「その絵は東方キャラであることに価値がある」と見なされているからである。そうでなければ,そもそもキャラを判別せずとも良いのだ。単に美少女の絵として評価されればよい。そうではないということはつまり,東方キャラであるということは,強い付加価値を持つ。無論これは東方に限った話ではなく,全ての萌え絵に関して同じことがいえるだろう。一般にオリジナルよりも二次創作絵のほうが評価されやすいのは,それだけ付加価値が強いためである。オリジナル絵そのものだけで評価されるのは,とても困難なことだ。

では,東方キャラであることになぜそれだけの付加価値が存在するのか。それは東方キャラそれぞれが裏に設定や物語を持っているからであり,我々は単純な美少女絵の裏に設定の持つ意味を暗に読み取っているからである。二次創作の美少女は,単なる美少女絵ではない。


ここでヲタきめぇと思ったかどうかは読者諸氏の自由だが,実のところ「誰てめ絵」問題や,その裏にある属性の読み取り・深読みという現象は,東方だけの話ではない。というよりも萌え絵特有の現象ですらなく,「誰てめ絵」は全ての絵画作品共通の現象である。それはそうであろう。キリストの絵は描かれているのがキリストだからこそクリスチャンの心を打つのであり,「実は単なる髭面のおっさんでキリストじゃありません。あなた方の深読みです」などと作者に言われたら随分と興ざめになるだろう。

とりわけ「誰てめ絵」の問題は,西洋絵画の伝統的な絵画,すなわち歴史画において頻発する。聖書の登場人物やそれぞれの聖人伝を題材として描いたものを主として「歴史画」と呼ぶが,聖人伝なんぞは多種多様であり,かつ似たような話も多いので(大体殉教の仕方程度にしか差が無いため),東方キャラの判別よりもよほどの困難が課せられる。

そこで,西洋美術史学は長い歴史の中で,一つのテクニックを生み出した。それがアトリビュート(持物)の整理である。アトリビュートとは,それを持っていれば確実にその人物(キャラクター)であると判断しうる判断材料のことであり,狭義では持ち物のことを指し,広義ではシチュエーションなども含む。また,アトリビュートを用いて登場人物を特定したり,逆に登場人物からシチュエーションを特定したりする学問のことを図像学(イコノグラフィー)という。

たとえば,拙文で申し訳ないが,レオナルド・ダ・ヴィンチの《受胎告知》はこのようにイコノグラフィーできる。仮に貴方がこの絵について全く知らずに初見だったとしても,美術史学辞典が一冊あれば,主題を「受胎告知」と特定するのは簡単である。なぜなら,青い衣から右の女性を聖母マリアと特定するのは典型的なアトリビュートであるし,左にいる人物には翼があるから天使であることは疑い得ない。マリアに出会ったことのある天使はガブリエルに限定されるから左の人物はガブリエルであり,マリアとガブリエルが出会ったシチュエーションは「受胎告知」以外ありえない……と類推可能だからである。これが図像学という学問と,アトリビュートの威力である。(その他のアトリビュートについても詳しく書いておいたので,該当記事を読んで欲しい)


話を戻すが,要するに我々ヲタクは,無意識的に図像学を用いており,アトリビュートを頭にたたきこんでいるのである。あまり指摘されていないことだが,これは非常に高度な作業であり,驚くほどの独自の進化を遂げている。エロゲの一枚絵をぱっと出されて瞬間的に作品が答えられる人や,一枚の同人絵からそれほど有名ではない作家の名前を当てる人なんかは,プロの美術史家顔負けの能力ではないかと思う。

さて,西洋絵画はその堅苦しさから歴史画が次第に嫌われ,「聖母マリアだからこそ美しい」のではなく「一人の女性として見るからこそ美しい」と,付加価値を否定する方向に進んでいった(自然主義や印象派)。一方,我々ヲタクは一向にオリジナルの価値を認める方向には進んでいかない。もっとも私はそれで良いと思っているし,だからこそ我々はヲタクなのだろうとも思っている。共有される原典と,その原典から生み出される付加価値を信じずして何がヲタクか。「誰てめ絵」を自虐的に茶化した同人誌は何冊も読んできたが(東方界隈によらず),決して恥じるものではないのだ。我々はむしろ,霊夢であるかただの巫女かで価値を大きく分ける判断主体であることを,誇るべきなのである。



以下は単なる付録であり主題ではないが,試しに簡潔に東方キャラのアトリビュートを成文化してみた(途中で力尽きたので紅魔郷のみ)。この作業で困難なのはどこまで簡略化しても判別できるかということであり,たとえばそのキャラが東方キャラと明示されているかどうか,という点でも異なる。たとえば,東方キャラということは明示されている状況ならば,黒髪の巫女は霊夢しかいないので,「黒髪」と「巫女」というアトリビュートだけで十分に判別が可能である。しかしこれが東方キャラであるということさえも判明していない状態の場合,「黒髪」の「巫女」というだけでは霊夢という判断は下せない。つまりアトリビュート=手がかりが足りない。

繰り返しになるが同様の現象は西洋美術でも十分に起こる。聖ゲオルギウスと聖エウスタキウスはともに騎士から聖人になった人物であるため,武者姿の聖人というだけではそのどちらか判別できずしばしば問題になる。ゲオルギウスは竜退治で功をなした人物であり,エウスタキウスは猟をしている間にキリストの姿を幻視したというエピソードが印象的な人物であるから,それぞれの痕跡を描かれた様子からなんとか読み取るという地味な作業になる。もしくは先に描いた画家のほうを特定して,「この画家はゲオルギウスをよく描いているがエウスタキウスを描いたことはほとんど無い。よって今回の作品もゲオルギウスのほうだろう」という特定の方法もある。これも同様の手法が東方の「誰てめ絵」でも使えると思うが,これを行うには無数の同人作家の情報が頭に入っていなければいけないわけで,あまり現実的ではない。

よって,以下の一覧は決して完璧ではない。異論は多いだろうが,むしろ各自作っていただければと思う。ちなみに,自分がこんなことせずとも,実はwikipedia,ニコニコ大百科,ピクペディアのそれぞれの項目には各キャラのアトリビュート一覧があったりする。その性質上,ピクペディアが一番詳しい。
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2010年10月18日

ツイッターから村上隆批判関連のpost再掲

旬なうちにセルフでいいからとぅぎゃっとけよ俺,と思った。適当に再編集してるので,まんま再掲というわけではない。


何か勘違いしている人が多いが,これを自らの思索なしに芸術と認めることは寛容の発露ではなく,単なる知的怠惰。やはり,芸術は自己破壊することでしかもはや生き残れないのか。まあ個人的な意見としてはこうした「釣れた」とか「皆さんに考えてもらうこと自体が芸術です(キリッ」とかいう時点で,芸術ってとっくに終焉してるよなぁと。

東浩紀がヲタも現代アートもハイコンテクストな世界であり,片方に無知な状態で村上隆を批判するのはお門違いだというようなことを言っていた。悔しいがこれには賛同したい。現代アートはまさにハイコンテクストな世界だと思うし,批判するならその構造自体を批判する必要がある。その上で,私はまさに「現代芸術そのもの」を批判している。

で,村上本人は「現代芸術の世界において日本は搾取される立場。そこで日本の文化であるオタクを翻訳して輸出し,対抗している」と反論していた。これには「貴方のやっていることは誤訳ですよ」としかいいようがない。東の言葉を借りればまさにオタク側のハイコンテクストを張本人が理解していない。誤訳な上に「どこをどう要約したら元のヲタク文化になるんだよ」ってなもんだから,たたかれている。それを理解しているのかしてないのか。理解していて,かつスルーしているように見えるから,余計にたたかれている。

「翻訳なんだから元とは相違して当然」なんて,欠片しか要素が残ってないものを指して言われても,なんの説得力もない。ここのブコメにある「愛の無い二次創作はたたかれる」はけっこう正解に近いと思った。そりゃ「俺魔理沙」やればたたかれますよね。


村上隆擁護で「もっと現代美術のことを勉強しろ,美術史的にはアレは否定しがたい」という意見を見るが,本気で言っているんだろうか。なんというか,これはそのまま現代アートの閉鎖性にもつながると思う。これには本気であきれた。さらに絶望しそう。

現代アートのハイコンテクスト性というのは結局「いかにして美術史は芸術の終焉に向かったか」と「終焉後も可能な芸術とは何か」という文脈の上に成り立っている。それは勉強すれば誰にでも分かるし,だからこそ自分は「偉大な画家十選」にデュシャンを入れた。

結局終焉後の芸術概念の模索は,「価値の転倒」「新たな視点」等といった美名のもとでバーリトゥードが繰り広げられることになる。だから,現代アートのハイコンテクスト性を学んだところで大概の人は「そりゃもっともらしい説明のつく目新しいものを提示すれば,ひょんなことから評価されることもあるかもね」程度の感想しか出てこないと思う。はっきりと言えば,そこからは感性の問題。その作家と自分の波長や問題意識が共通するかどうか。理屈ではない。だから共通認識の生まれる土壌に至らない。これが現代芸術の閉鎖性であり,芸術の終焉が生んだもの。この辺の詳しい話は昔ブログで書いたので,ここら辺でも読んでほしい。

ちなみに,世界的にもオールドマスターや印象派のほうが評価が高い。というか,印象派は世界を制している。だって圧倒的にわかりやすいもん。これは歴史的にそうで,20世紀の初頭にはすでに「前衛芸術家は胡散臭いもの」という常識が存在した。大衆なんてそんなもんです。要するに,現代芸術に対する視線が冷ややかなのは日本だけの状況でもなければ,現代だけの状況でもない。それこそ,その程度勉強してから発言しろよって話。日本が遅れているとか言ってる奴は腹を切って死んだほうが良い。「偽史でも語れれば良い」って言ってる奴と一緒かそれ以下じゃないか。

ああ,一応言っておきますが,前述のように波長や問題意識があっているならば,村上隆含め,現代芸術を賞賛してもいいんじゃないですか。他人の価値観にまでは侵入しません。僕だって嫌いじゃない現代芸術があると思う。探してないだけで。現代芸術に含めて良いかどうかは別にすればニコライ・レーリッヒなんかは好きですよ。
  
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2010年07月07日

芸術定義議論の歴史的経緯(3)

前回あえて書き落としたことから触れておく。それは18世紀の中葉に起きた出来事である,「美学」という学問の誕生である。してみると,美学とは哲学と美術史の間に立つ学問だと思われるが,その歴史は浅い。哲学は古代ギリシアから存在し,美術史の確立もどう新しく見ても16世紀後半のヴァザーリということになるだろう。もちろん,美学もさかのぼろうと思えばプラトンに到達できなくはないのであるが……

美学という学問の創設者は一般にバウムガルテンというドイツ人とされるが,実はバウムガルテンに美学を作ったという意識はなかった。これには当時の学問分野の分け方に事情がある。すなわち,哲学は人間の理性や悟性を対象として扱うが,「感性」を対象にする学問は当時存在していなかった。そこでバウムガルテンは感性を研究する学問を創始した。そこで美を認識するのは感性であると定義し,バウムガルテンは感性は下位的な認識能力であり,哲学こそが本道とした。つまり,バウムガルテンの時点では「感性学」であった。

これに続いたのがバークとカントだが,この二人に関しては以前崇高概念の説明で語ったことがあるので簡潔に書いておきたい。すなわち,バークは美のみが感性の観念ではなく,崇高という概念を提示した。カントは,美とは感性と構想力(悟性)の双方(=判断力)による認識であるとした上で,感性は劣った認識能力ではなく,悟性と同格であるとした(ただし,理性を最上段におくことが前提)。バウムガルテンの物言いを,きちんと学問の形として筋道をつけたのはやはりカントであろう。ただしそれは自律した美学ではなく,いまだ倫理学によりかかるものであった。その意味で,美学が完全に自律するのはヘーゲルを待たねばならないだろう。以後,本来「感性学」という意味合いだったaestheticは,美という概念について考える「美学」という新たな意味合いに変質していった。

もう一面の重要人物たちがヴィンケルマンとレッシングで,やはり二人ともドイツ人である。彼らが引き起こした大論争こそ,いわゆる「ラオコーン論争」である。ラオコーンの彫像はもとより傑作であり有名であるが,ヘレニズム期の彫刻の中でも最も有名になったのはこの論争のせいだろう。ヴィンケルマンがそれまでの価値観に拠ってラオコーンの均整な美を称揚すると,これにレッシングは「一場面に切り取られた感情・激情」がこの像の表現するものだと反論した。つまり,古代ギリシア・ローマこそが憧憬の先にあり,すなわち人間の理性や思想こそが最上の価値であり,美はその表象であるという価値観にくさびが打たれたのである。これはバウムガルテンとは別方向に,美学の誕生を宣言するものとなり,やはりカントやヘーゲルを経て19世紀の美術史家たちに引き継がれていく。これらの美学の勃興とロマン主義の誕生は,鶏と卵の関係だったと言えるだろう。



美術史の本流に話を戻す。発展史観的に見れば,ロマン主義の立ち位置は非常に中途半端であった,と私は思う。ロマン主義の指す範囲は非常に広く,幅がある。しかし,ロマン主義の美術は,「思想」か「技術」のいずれかにおいて新古典主義を脱しているが,そのもう片方は保守的であるという点で共通している。逸脱しなければ感情を描けなかったからだ。たとえばドラクロワは色で魅せたように技術において逸脱したが,彼は題材については歴史画の範疇であった。それに対しフリードリヒは技術においてはアカデミックであったが,「思想」においては革新的であった(つまり,「技術」の解体と思想の優位という発展史観において,ドラクロワが賞賛されてフリードリヒの芸術が長らく発掘されなかったのは容易に理解されうる)。この点,一歩頭を抜けていたのはターナーではないかと思う。彼の絵画にはすでに,自然主義を飛び越えて印象派が誕生するという予兆があった。

さて,ロココが衰退するとその隙間に入ってきたが自然主義である。自然主義はさらに一歩進めて,背景の風景を線で描かない上に,題材も歴史画からは外れるということころに至った。しかし,それでもまだ人物は線だったし,「見たままに描いている」という点では既存の美術からそれほど離れてはいなかった。加えて言えば,彼らは自分たちの作品の,伝統的ヒエラルキーにおける低さを自覚していたので,反発を受けなかった。自然主義がロマン主義とともに,アカデミーに取り入れられていったのは理解できる。

そうすると,自然主義・ロマン主義が印象主義への橋渡しとなったのは,非常に納得のいくことである。にもかかわらず前者二つは受容され,印象派は激しく反発されたか。印象派の描法は同じ線の否定であっても,筆跡を残さない自然主義とはやはり異なった。モネの絵画が「死体を描いているようだ」と評されたという逸話は有名だが,アカデミーの規範において,まだ人物>自然という観点は生き残っており(その理由については(1)を参照),自然と同じ描法で人物を描けばモノである死体を見なされるのは当然のことであった。要するに,自然主義・ロマン主義が踏み込まなかったアカデミーの規定する芸術の概念に対する一歩を,印象主義は踏みつけた形になる。それは「見たままに描く」から「印象を描く」への転換であり,印象(impression)が表現(expression)にすぐ反転したことは,歴史が雄弁に物語っている。

それでも,決定打はやはりセザンヌまで待たねばなるまい。セザンヌの最大の仕事はポリフォーカスの発明であった。「見たままに描く」が「印象」となり,「描きたいように描く」へとうとう足を踏み入れた瞬間であった。すでに「線」はとうの昔に死んでいたが,ここではさらに線的遠近法=理性=神は二度目の殺害に遭った。奇しくもニーチェが神の死亡を宣言したのとまったく同時期であった。ここにルネサンス的芸術観は完全に打ち崩されたのである。

ただし,これは学者ではなく好事家的な物言いになるのだが(そして私は紛れもなく後者だから許されるだろう),印象派の画家たち自身には,そこまでの意志がなかったように思う。そもそも彼らは「自分が見た印象を描く」ということを標榜していたのであり,「思想」的にはこれほど薄っぺらいものは無かった。もっと言えば,これは自然主義も同様であった。彼らは見目麗しい物を描こうとして,偶然アカデミーから逸脱し,アカデミー側の論理で受容されるか排除されるか決定された。そこに,「反権威」や「意味内容の消滅自体=芸術の純粋化」という“思想”を持たせ,前衛の誕生に一役買ったものが本当に存在しなかったか?それは誘導されず,自然発生的に起きたことなのか?私はノーであると答える。これは美術史学の,ひいては学者や批評家の功罪であるように思う。

なお,この頃になるとイタリアは完全に美術の中心地ではなくなっていた。古代の芸術を規範とする必要がなくなってきた上に,鉄道が普及して「留学」するほどのものでもなくなってきたからだ。同じドイツ人でもフリードリヒは一流の画家であるのにイタリアに行かなかったので相当後ろ指を指されたのに対し,その半世紀後のベックリンはイタリアに赴かずとも変人扱いはされても批判はされなかった。二人のイタリアに対するかかわりは,ドイツ人の持つ芸術に対するイメージの違いをよく示している。イギリスにラファエロ前派が登場したという点も興味深い。イタリア離れがナショナリズムの勃興や鉄道の普及に関連していたことを考えると,美術の歴史も政治史・社会史とは切り離せない。

勝利した「思想」は暴走を始める。20世紀の初頭に,アーツアンドクラフツ運動やバウハウスが起きたのは,まさに歴史画の失墜と表裏一体であった。古典的な「芸術」概念が崩壊すれば,「芸術家」と職人の区別は再びつかなくなるからである。また,モネが晩年,抽象的な表現に向かったのは大変に興味深いことであると,私は思う。始めはよりよく対象を描くために発明された筆触分割は画家の個性を表すものとなり,対象は具象物をとる必要がなくなった。「筆触」こそが重要になったから,対象はうち捨てられた。

私が現代芸術に対して最も反発しているのはこの点である。美術は「何かの表象」であるからこそおもしろいのであり,表象を読み解くにはルールが共有されている必要がある。ルールが無い,基準が無ければ趣味は判断され得ない。とりわけ,古典的ルールから外れ,見目も麗しくなく,さらにデザイン的なセンスの良さを示したものでもなければ,それはもはや画家の個性の表出でしかない。意味内容を持たない「純粋な芸術」などというものは幻であった。もしくは,「純粋な芸術」は各々の心の内にしか存在しない,ということができる。しかし,個性の表出がやったもん勝ちに堕し,どんどん鑑賞者との距離は開いて「前衛」化する。結局,自らの個性を万人に訴えかけるには,具象物に思いを託し,一定のルールに則るしかないのである。古典的ルールに代わる新たなルールが,これまで提示されたか?もしくは,提示されたものは受け入れられて共有されたか?

現代において「芸術」とは何かと問われれば,すでに解体された概念であるか,定義不能というほかない。現代芸術家は自らの個性を表出する前に,自らの則りたい芸術概念がなんであるかを先に示さなくてはならなくなったが,その過程をすっ飛ばすか,その概念自体が突拍子もないため,理解がえられない。私がよほどのことがなければ,20世紀以降の画家・作家を評価しないのは,一定のルールなしに評価するなどおこがましい行為でしかないと感じているためである。自然,セザンヌ〜ピカソあたりが限界になる。

「芸術」という概念が解体されているにもかかわらず,芸術と見なしうるかもしれないものが存在し,しかも国家や富豪がパトロネージしているのは,まさに既存の制度から逃れることを皆怖がっているからである。芸術が本当に線的に発展してきたもので,現代がその到達点であるならば,よくわからなくても保護しなければ,「あの国(人)は芸術のわからない野蛮な国(人)だ」ということになってしまう。正直な話をすると,私はここにとやかく言うつもりはないし,完全に無駄な投資だとは思わない。結局それが「芸術」であったかどうかということは後世の人間が規定することであり,選択肢の幅を縮めることはないからである。50年後,私の側が「敗北者」になっているということもありうるだろう。


なお,(3)で書いたようなことはちょうど今月の『芸術新潮』で高橋明也がオルセー美術館の実際の展示にひっかけて語っているので,皆買って読めばいいと思う。俺は超頷きながら読んだ。
  
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2010年07月02日

芸術定義議論の歴史的経緯(2)

前回。ルネサンスからしばらくの間,西欧美術の中心地はイタリアであった。一般的な歴史ではローマ劫掠(1526)でイタリアが経済的に壊滅し,ルネサンスの中心がフランスへ移ったとされる。今そんなバカな,と思った方はおそらく美術通だと思うのだが,その通り美術の場合は状況が少し違った。理由はいくつかある。反宗教改革運動により,イタリアにはいまだ美術作品に需要が大きかったし,教会には資金が集まっていたこと。これはマニエリスムやバロックが伸びていく理由となる。そしてもう一つは,イタリアの風景が美しく,古代ローマの遺跡も豊富であったということ。これらは歴史画を描くための格好の材料であった。こうして,ヨーロッパの画家たちはこぞってイタリアに旅行した。

それは北方ルネサンスの中心地にして油彩画発祥の地,オランダであっても同様であった。近年の研究では,オランダにおいてイタリアに赴く画家は「親イタリア派」と呼ばれ,それなりの規模をほこっていたことが明かされている。最も有名な親イタリア派といえばヤン・ボトではないかと思うのが,それなりに知っている人も多いのではなかろうか。もはや王道は発掘しきった感もある美術史の学者の次の仕事はこういった画家たちを発掘し,正しく位置づけることなのだろう。


マニエリスムの時代には,もう一つ大きな出来事が起きていた。それは芸術家が職人から「芸術家」になったことで,ギルド的な職能制度では対応しづらくなったために私的な学校が作られ,後には自らの宮廷を権威付けたい君主たちによってアカデミーという公的な機関になっていくという現象である。その端緒は一応,私の知っている限りではカラッチ一族ということになっているはずだ。カラッチ一族といえば16世紀初頭から活躍を初め,ルネサンスからバロックに至るまでを駆け抜けた北イタリア(ボローニャ派)を代表する芸術家の名門一族である。最も有名なのは16世紀末のアンニーバレで,まさに彼の頃に原初的なアカデミーは創設されたのであった。カラッチ一族の特徴はバロックでありながら(特にアンニーバレはマニエリスムからバロックに踏み出したカラヴァッジョと並ぶ最初期の人物であった),古典主義を重視しルネサンスを忘れなかった。この点は,後のアカデミー教育に強い影響を及ぼしたということは,後世を知っているものに今更説くまでもあるまい。

(余談だが,アンニーバレの直弟子にグイド・レーニがいると言われると妙に納得するのは私だけではないと思う。ついでに言えば,グイド・レーニといえば本来は敬虔なカトリックで歴史画の大家であるにもかからわず,私には《ベアトリーチェ・チェンチの肖像》のイメージしかない。これは絶対に「美の巨人たち」の陰謀。間違いなく。)


しかし,いかんせん経済力の盛衰や世俗化の流れは食い止められないもので,美術の中心他の西欧諸国に移っていく。それでもイタリアは美術修行の中心としてはかなり長く生きながらえた。なぜなら,美しい風景と多くのキリスト教寺院,そして古代ローマの遺跡という点では他の追随を許さず,自らをルネサンスの後継者たちであると自負する以上,画家としては一度赴かざるを得ない土地になっていたからだ。すなわち,ここでもいまだルネサンスの定めた「芸術」概念の威光は十分に残っていた。

その中で,フランスは絵画芸術の最大の中心地として名を挙げていった。その理由は様々である。フランスはイタリアに地理的に近く,大国で,旧教国であり,当時としてはずば抜けて王権が強く,大航海時代のお陰で海外貿易で潤っており,結果として宮廷が豊かであった。フランスの美術アカデミーは1648年開設だが,それ以前からフォンテーヌブロー派が存在し,宮廷を中心に画壇が築かれる伝統は存在していた。教育機関,イタリア留学,サロンが早々に整備されていた点は特筆に価する。

しかし,フランスのアカデミーにおいて本当に特筆すべきであるのは,イタリアから古典主義を輸入したことだ。それぞれ発現の方向性は異なるとはいえ,スペインもドイツもオランダもバロック一色で染まっていた時代に,ニコラ・プッサン,クロード・ロランを輩出したフランスの独自性には脱帽する。フランスアカデミーが最終的に他を出し抜き,頂点に躍り出たのは古典主義が保存されていたためであるとされる。

で,どうしてここまで長々とアカデミーの歴史を書いたかと言えば,プッサンの名前を出したかったからに他ならない。後世に言うプッサン・ルーベンス論争である。言い換えればこれは「線か色か」という,17世紀後半の画家同士の争いであった。プッサン=古典主義=線であり,線とは均整を意味し,均整とはすなわち人間の理性であった。どういうつながりだってばよ,意味不明だぜという人もおられるかもしれないが,ラテン語で理性を示すratioには「比例,割合」という意味もあるように,古代ギリシア・ローマの伝統では物事を切り分けて推理することが理性の仕事であり,これは絵画におきかえれば確かに線の仕事なのだ。

(またどうでもいい余談を挟むと,この線=理性=キリスト教の神という思想を突き詰めていくと理神論に到達し,さらに発展させるとフリーメイソンの教義になる。フリーメイソンの直訳が「石工」であることや,彼らの掲げるシンボルマークは「コンパスに目」であることに注目したい。一方で社会を取り巻くこの理性狂信はフランス革命という政治的成果も生んだ。革命政府が何を好んだか?新古典主義というのは偶然の一致ではない。)


逆にルーベンス=バロック=色であり,世界の再現・創造が絵画の使命であるのならば,色も線に勝るとも劣らぬ重要な要素であり,場合によっては線を凌駕する機能を持つとしたのがこちらの側であった。またこの対決は,理性を意味する線に対して,色彩は人間の感情を激しく揺さぶる情動を示すとされ,その意味では心身二元論上の哲学代理戦争であった一面もある。さらにこの対決は,この時代には表面化しなかったさらなる要素もはらんでいた。そもそもルネサンスの時点で「思想」と「技術」が,芸術家が芸術家たりうるための条件として設定されたが,問題はこれらがごっちゃになっていたということであった。そして,「思想」と「技術」の分化が始まったのが,プッサン・ルーベンス論争ではないかと私は思うのだ。

プッサン,というよりも古典主義はうまく線を引き,世界を構成する「技術」の優越をうたったが,ルーベンス派は世界の創造という「思想」的要素を重視し,その世界は必ずしも均整のとれた理想的世界である必要は無いという理念を,ルネサンス以後の西欧の美術に初めて打ち出した。つまり,極論して言えば(今私は世界中の美術史家に土下座しながらこの文章を書いているが),以後の美術史はプッサン・ルーベンス論争の延長でしかなく,そしてルーベンスの勝利で締めくくられることになる。


19世紀の初頭には,3つの派閥が形成されていた。ロココ・新古典主義・ロマン主義である。これらはそれぞれ共通する部分もあれば,異なる部分もあった(しばしばロマン主義は新古典主義への反発と言われるが誤解である)。たとえばロココ・新古典は親アカデミーだが,ロマン主義がアカデミーに受け入れられるまでは少し時間がかかった。一方で,新古典主義もロマン主義もロココへの嫌悪感から誕生したという点では共通し,またロココが卑近なものを題材とし,風俗画や肖像画を得意としたのに対し,新古典・ロマンは歴史画を得意とした。何よりもこの2つの流派は,現在の歴史を題材としたという点で共通する。「理性の世紀」18世紀に対する,「歴史の世紀」19世紀の幕開けであった。プッサン・ルーベンス論争はよりラディカルな議論へと発展し,アングル・ドラクロワ論争と呼ばれるようになるのであった。プッサン・ルーベンス論争には明確な決着がつかなかったが,アングル・ドラクロワ論争は最終的にアカデミーがロマン主義を受容したという点で,ドラクロワの勝利であった。


(3)へ。
  
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2010年06月26日

芸術定義議論の歴史的経緯(1)

美術・芸術とは一体なんだろうか。ここは私らしく,ガチガチに歴史的な方面から攻めていってみよう。超ざっくり端折って説明するので,部分的に間違っているという指摘はある程度勘弁。


その起源を追うと,古代ギリシアに置く人もいるだろうが,私はあえてルネサンス期に置くことができると言いたい。なぜなら,古代においても確かに「芸術作品」は存在したし,後世から芸術家と判断されるような人物も存在はしていた。芸術論というようなものも,プラトンやアリストテレスあたりから読み取れる。が,それでもやはり,古代ギリシア・ローマにおける芸術と,ルネサンス期以後の芸術では概念的な意味合いが異なると思われる。

そもそも,なぜ芸術という概念が必要なったか。これは実は至極現実的な問題に基づく。つまり,一部の職人の賃上げ交渉に他ならない。中世末のヨーロッパ・キリスト教的世界においては,手作業を行う職業・形而下を扱う職業は卑賤で,思考を伴う職業・形而上を扱う職業のほうが高貴であるとされていた。さらに言えば社会的地位も持てる金銭もまるで異なっていた。よって,ランクアップを狙うのならば,自らの職業が前者ではなく,後者,すなわち思想家と同等のものであると社会に認めてもらうほかない。


キリスト教神学とは後付と屁理屈の学問で,ギリシア哲学を中心に他の学問分野からいいとこどりで進化してきたものであるが,中世末北イタリアで最も熱い話題となっていたのは,トマス・アクィナスのアリストテレス引用と,イスラームの神学者であるイブン・ルシュド(アヴェロエス)のアリストテレス解釈の対決であった。この辺をガチでやると自分もよくわかってない超屁理屈のぶつかりあいになるが,歴史的な経緯だけで言えば,ギリシア語文献を捨て去った西欧世界に,ギリシア語も読めたイブン・ルシュドさんがアリストテレスをアラビア語に翻訳・注釈し,その文献が多国語話者だらけのシチリア島でアラビア語からラテン語に再翻訳され,ようやくラテン語しかできない西欧の神学者にも読めるようになった(いわゆる12世紀ルネサンス)。

しかし,いかんせん二度翻訳を経ている上に当時は写本であったため,トマス・アクィナスの読んだものが原典とはかけ離れていたことは想像にかたくない。それでも,トマス・アクィナスはうまくアリストテレスのエッセンスを用いてキリスト教神学を一度は大成させた。しかし,ビザンツ帝国の衰亡によりギリシア語知識・文献がイタリアに流入すると,ギリシア語の読める西欧人が増えた。そしてアリストテレスの原典及びイブン・ルシュドの正しい注釈が西欧人によって読まれるようになり,改めてイブン・ルシュド派が復権し,大論争を巻き起こした。このとき同時に新プラトン主義・グノーシス思想も同時に流入し,やはり大流行を起こしている。

で,これらの新思想に目をつけたのが知識人層でもあった上位の職人層だった。何故彼らは知識人層に入っていたかというと,中世末では描ける題材も限られ,もっぱらキリスト教ということになる。しかし単に題材を物語的に知っているだけではなく,その物語の持つ聖書上・教訓上の意義まで含めて,知識として持っていなければならなかった。すると聖書を読解する頭脳がなければ作品を描けず,売れっ子の「親方」ほど自然ラテン語が読めなければならなかった。すると,ラテン語が読めるほどの知識人であるのに賃金が安く社会的身分も低い,という不満が彼らの中で高まるのは自然な流れである。そして彼らがいろいろ難解な思想に触れていくうち,理論をこねくりまわせばなんとかならないだろうか,と考えるようになり,また,哲学者・人文主義者の側もこれに応じ,”親交のある発注先”をなんとか救えないだろうかと知恵をめぐらせた。

そしていくつもの屁理屈じみた思想や理論がいくつも積み重なった結果,14〜15世紀頃から次第に形成され,誕生した概念が「芸術」である。西洋で歴史的に「歴史画」が最上位のジャンルとされてきたのはここに起源がある。知識がないと描けないものが最上位に設置されるのは当然のことだ。知識が無くても描けるものは思想家ではない=職人同然の卑賤な技であったからだ。次席に肖像画が置かれたのは,人間そのものが高度な意味内容を持ち,描かれるに値するものとされたからであるが,この人間中心主義自体も中世末に勃興したものであった。

それでも風景画や静物画がまったく評価されなかったわけでもないのは,思想がなくとも高度な技術そのものが賞賛の対象であったためである。いかに高度な内容の作品であっても,それが伝わるよう表象されなければ無意味であったからだ。また,後述するデューラーの自画像のように,ジャンルが異なっても高度な内容を伴う作品も出現するため,必ずしもジャンルで完全に切り捨てるわけにはいかなかったという事情もある。それとは別に,ジャンルヒエラルキーとは関係なく,自己の感性から風景画/静物画が好みだ,と考えるパトロンはいつの時代も必ず存在したのが,これらのジャンルが廃れなかった事情であろう。


一つそうした理論の例を挙げると,私が比較的詳しいところで「神としての芸術家」という思想がある。これはプラトンの『ティマイオス』からデミウルゴスの概念をもらい(より正確には新プラトン主義やグノーシスからの援用であるが),俗物的なデミウルゴスは職人的だと規定し,その上で「迫真的な絵画とは一つの世界の創造である」とすることで,創造主が無から有を生み出したのと同様に,単なる物質的材料から一つの世界を創造する芸術家は神・創造主に比されるべきである,と話を持って行くのがこの理論である。(デミウルゴスと創造主の違いは,自分で新プラトン主義なりグノーシスなりの本を読んで確認してほしい。)

2つほど余談を挟む。まず,この「神としての芸術家」(artist as God)という言葉から,ルネサンス後期に「神のごとき芸術家(Divine painter)」という言葉が生まれ,ペルジーノやミケランジェロに与えられることになる。この二人は,システィーナ礼拝堂の壁画を担当していることで共通している。もう一つ,この理論を踏まえてデューラーの《28歳の自画像》を見ると非常に意義深い。当時ほぼタブーであった正面観での自画像により,自らをキリストになぞられたのは,三位一体を踏まえれば自らを創造主になぞらえる行為にほかならない。ここに示されているのは,ルネサンスの生んだ「芸術」概念の意義の再確認と,自らがドイツにルネサンスを持ち込むのだという彼の気概である。と同時に,当時の知識人はこのような意義を明確に読み取っていたからこそ,この作品はジャンル的ヒエラルキーでは次席の肖像画であるにもかかわらず,当時からすでに例外的に評価の高い作品となりえたのであった。(なお,実際には他にもこの自画像には多数の仕掛けが施されているのだが省きたい。)


現象面での証拠として,中世からルネサンスにかけては,画家や彫刻家に対する給料の支払い方が決定的に違ってくる。すなわち中世では「親方」が画材・顔料の調達から完成・納品まで全てに責任を負い,業務全体の経費をパトロンから受け取り,弟子への給料もそこから支払った。題材もパトロンが指定した。利益は作品の評価ではなく,経費削減から生まれるものであり,彼らは職人である以上に経営者でもあった。それがルネサンス期以降は次第に,材料や納品は状況やパトロンとの話し合いによるようになり,工房の経営という点での労力はかなり少なくなっていった。題材も話し合いで決められるパターンが増え,場合によっては芸術家の側に決定権が与えられた。値段も経費ではなく描かれた内容・技術で評価されるようになった。なぜなら描かれた内容の知識・思想こそが重要であり,それが芸術家が哲学者や思想家と同等の地位を保証される理由でもあった。同様に技術も重視された。世界を正しく再現・創造する能力は神に比されるものとされ,これもまた思想同様に芸術家の上位の社会的地位を規定する要素であった(前述の通り,歴史画以外のジャンルもそれなりに評価された理由でもある)。中世末から急激に逸名の画家が減り,名前が特定可能な芸術家が増えていくのも,社会的地位の上昇を示す大きな証拠である。


ちなみに,似たような現象は東洋でも起きている。時代は五代末〜北宋である。ただし,こちらは「芸術」という抽象概念の誕生を伴ったものではなく,芸術家が思想家と同じ高みに上ったわけでもない。しかし,いっぱしの文人が親しむべき余技として「琴棋書画」が挙げられ,絵画は書と同様の地位を得て,その専門家もやはりそれなりの敬意をもって遇されるようになったのである。画家の名前が史書にはっきりと残るようになり,画論が盛んに論じられるようになったのも,やはり五代末の時期であった。ゆえに,このような現象は西洋限定と扱うべきではなく,人類には比較的普遍的な現象として扱ってもまずくはなかろう。


(2)へ続いた。
  
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2010年06月12日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて付録:参考文献一覧

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2010年06月07日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(5):評価/研究史・周辺の画家

最後に,死後,一時ほぼ完全に忘却されてからどのように復活し,評価されてきたかという歴史と,周辺の画家についてを簡潔に紹介して終わりとする。


評価史について。フリードリヒが発掘されたのは死後60年ほど経過した,20世紀初頭のことである。1906年にベルリンの国立美術館で開催された「ドイツ100年展」がその契機であったとされる。当時ベルリン国立美術館の館長であったフーゴー・フォン・チューディは近代美術の擁護者であり、公的な美術館としては世界で初めてマネの作品を購入し 、同時代のドイツ人画家であるベックリーンやトーマ、クリンガーと交流を持つなど国立美術館の近代化に尽力していた。チューディがどこでどうフリードリヒを発掘したのかは明確ではないが,19世紀末頃から次第に美術雑誌等でフリードリヒの紹介が始まっていたため,経路は複数想定できる。

そしてチューディは,知名度に対して明らかに過大な扱いでフリードリヒを100年展に登場させ、「光と空気の変化の戯れとしての無限の風景の描写が、初めてドイツに出現したのである」と評した。これは明らかにフランス美術との関連性に焦点を当てている 。つまり,フリードリヒのロマン主義を古典主義に対抗するものとして扱い,近代美術の端緒,思想としては象徴主義芸術の,技法としては印象主義の前段階のものとして,積極的な評価を与えた。これらは現代の研究から見て必ずしも間違っていない分析だが,一方でかなり恣意的な評価であるとも言わざるをえない。これには当時,近代芸術において最先端をひた走っていたフランスへの対抗心があったことは言うまでもない。ベルリンをパリと並ぶ前衛芸術の都にしようとしていた,チューディの心情がうかがえる。

しかし1910年代に入るとフリードリヒ作品の愛国主義的な面が強調されるようになっていく。一つはフリードリヒ研究が進みナポレオン戦争に反対した自由主義者であったということが判明したこと。もう一つは戦争の足音が聞こえてきたがゆえに,ドイツ人の民族主義・反仏感情が湧き上がってきていたという時代の変化であろう。実際,1914年には第一次世界大戦が勃発している。チューディの後継者として国立美術館館長となったルードヴィヒ・ユスティが1921年,国立美術館の画集『カスパー・ダーフィト・フリードリヒ』において,「ドイツ的魂のあふれるばかりの内面性」と表現しているのは象徴的な出来事である。以後,後世の研究者が「ナチスの悪用」と表現しているように、第二次世界大戦が終結するまでこのような愛国主義的な解釈が続いていく。ワーグナー同様の被害者であった。いや,フリードリヒには反ユダヤ感情が微塵も無かったであろうことを考えると,ワーグナー以上のとばっちりであった。


しかしナチスによって正常なフリードリヒ研究が捨てられたわけではない。ヘルベルト・フォン・アイネムは1938年に執筆”Caspar David Friedrich”を執筆。これは戦後の1950年に再出版され,記念碑的研究書となった(和訳も存在)。フォン・アイネムは画家の人生や環境、時代背景や技法などから美術作品を分析する立場をとった。一方,カタログレゾネ(全作品集)を作る動きもあり,これはベルシュ=ズーパンにより1974年に完遂される。ベルシュ=ズーパンはフォン・アイネムとは対照的に,徹底して画面に描かれた図像による作品解釈をする立場をとる。すなわち,画家の背景よりも,画面の自然な読解・象徴表現の連結に重きを置いた。レゾネもこのような視点で作られているため,このことを念頭に置いて読まなければベルシュ=ズーパンの恣意的な画面解釈に引きずられることになる。

ただし,戦後になって決してフリードリヒの国際的な知名度が上がっていたわけではない。むしろナチスのせいで不当に低く評価されていたということは指摘されてしかるべきである。たとえば世界的に有名な美術史家の一人ケネス・クラークの大著『風景画論』(1949年)においても、フリードリヒに関する記述は極めて短く、しかもサミュエル・パーマーと比較してより強烈な印象を与える、と評しているのみである。

この状況から変化が見られたのは,レゾネの完成した70年代のことである。まず72年にロンドンのテート・ブリテンで個展が開かれた後、74年にはモスクワ、レニングラード、ハンブルク、ドレスデンで生誕200周年を記念する回顧展があった。日本での78年に国立近代美術館にて展覧会が催された。一応日本においてはそれよりも以前に,東山魁夷がドイツに滞在した際,最も影響を受けた画家の一人として紹介している。現在においてもフリードリヒ研究は、大枠で見ればフォン・アイネムとベルシュ=ズーパンの二大路線に収まっているか,その止揚を目指そうとしている状況にある。すなわち,画家の背景から推定するか,画面の読解を優位に置くか,そしてそれらをいかにすりあわせるか。いずれにせよ,いまだ解釈の定まっていない作品は多く,世界に名だたる巨大な画家としては,まだ開拓の余地がある画家ではあるように思われる。



以下は,フリードリヒ周辺の画家の紹介と,ドイツ・ロマン主義絵画の簡単な流れ。
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2010年06月06日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(4):人生と画業の遍歴・後編

ラムドール論争からの続き。もう一度《テッチェン祭壇画》をよく眺めた上で,ラムドールの主張を吟味してみると,彼は決してヒエラルキーへの抵触のみで批判していたわけではないということがわかる。すなわちラムドールの主張とは,

1,歴史画・宗教画を最上とするジャンル別ヒエラルキーへの抵触
2,美的感動ではなく感情を掻き立てるものであること
3,技法上のアカデミーの規則からの逸脱


の3点である。1についてはすでに説明した通りである。2については,当時のカントの「崇高なるものは自然に限定される」という思想が背景にある(シラーやバークはこれにも反対し絵画にも適用される概念だと主張)。そして問題は3についてである。《テッチェン祭壇画》は強い逆光で描かれている上に、そのせいでキリストが黒く影になってしまっている。また岩山に立体感が欠け、そのせいで岩山は空から浮き出ているように見える。これらは当時のアカデミックな風景画からは完全に逸脱した手法であった。このような発想そのものが過去ロイスダールくらいにしかさかのぼれず,あまりにも斬新であった。

しかし,フリードリヒにはアカデミーの規則も優先すべきものがあった。《テッチェン祭壇画》を解題すれば以下のようなことになる。すなわち,落日は旧約の父なる神であり,山上のキリストが照らす。よって,鑑賞者の視点からはこのキリストが後光に照らされているように見えなければならなかった。十字架の立つところはペトロを意味する岩でなければならず,鑑賞者の視線の動きが落日→十字架→岩山という順番になるには,岩山が目立たぬよう塗りつぶし平面的なものにしてしまう必要があった。総じて,「神が直接支配する時代から、キリストの恩寵の時代へ,そして人間の時代へ」というテーマを貫き通すには,彼にはこの配置以外考えられなかった。


ラムドール論争の1808年頃といえば,ドイツにとってはそんな論争をしている場合ではない状況でもあった。すなわち,イエーナの戦いとベルリン勅令,神聖ローマ帝国解体に,そしてティルジット条約の締結である。前述のように,フリードリヒの汎ゲルマン民族主義は,反理性主義・反フランスと明確に結びついていた。ゆえに,このような政治状況は屈辱的に感じられた。ラムドール論争による精神的疲労と,政治状況への義憤が,フリードリヒを初のスランプに陥らせたのはまったく不思議なことではない。

08〜13年頃のフリードリヒはしばしば気を紛らわせるように旅行に出掛け,今後の作品のためのスケッチを増やしている。1810年,22歳のショーペンハウアーの訪問を受ける。会話の様子は残っていないが,残っていれば両者にとって一級史料であったに違いない。1810年に《海辺の僧侶》《オーク林の中の僧院》をベルリン・アカデミー出品。これらがプロイセン皇太子買い上げとなり,ベルリン・アカデミー客員会員として認められた。いよいよ名実ともに,当時のドイツを代表する画家の仲間入りである。ちなみに,1810年頃の自画像。(やや画像重め注意)晴れてアカデミー会員となったフリードリヒは周囲からイタリア旅行をしきりに勧められたが,とにかく北方志向であった彼はイタリア風景の美しさを認めつつも,決してイタリアに足を踏み入れなかった。彼の人生最南端はおそらくボヘミアということになる。

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2010年06月05日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(3):人生と画業の遍歴・前編

コペンハーゲン・アカデミーを1799年、25歳で卒業したところから再開。ここからフリードリヒは学生ではなく画家に身分を移すことになるが、実際のところコペンハーゲン時代から絵を売って生計を立てていたようだし、明確な区分があるわけではない。便宜的に卒業と言ってみたところで、次の在籍先は結局ドレスデンのアカデミーになるのだから(しかも別に教師として招聘されたわけではない)、身分は不明瞭である。

いずれにせよ、彼はドレスデンに移り住んだ。wikipedia参照の通り、ドイツ中央部に位置し、チェコ(ボヘミア)との国境付近にあたる。ザクセン公国の首都であり、ザクセン公国といえば神聖ローマ帝国内ではオーストリア・プロイセン・バイエルンに次ぐ比較的大規模な公国である。選帝侯でもあり、神聖ローマ帝国建国当初から存在する。歴代当主は伝統的に学芸・文化を奨励し、ルターをかくまっていち早く新教に乗り換えたという歴史もあれば、中国陶磁器にはまりこみ、その復元に情熱を注いだ結果マイセン磁器が誕生したという歴史も持つ(マイセンはドレスデンの隣町でザクセン領)。

そんなザクセン公国の当主様が、ここ3代ほどはまり込んでいたのが絵画であり、中でも風景画であった。現在でもドレスデン美術館のコレクションと言えばヨーロッパでも一線級のものの一つだが、フリードリヒが訪れた18世紀末の時点でそのかなりの部分は完成されていた。一般的にはラファエロ、ジョルジョーネ、フェルメール、プッサン、デューラー、クラナハが紹介されるようだ。

しかし、やはりフリードリヒ研究という観点からは、ヴェネツィアの景観画(ヴェドゥータ)で有名なベルナルド・ベロットの作品が多数所蔵されていたということに注目せねばなるまい。ドレスデンは自らをヴェネツィアに比し、長い時間をかけて自らの景観に磨きをかけてきた。と同時に、歴代のザクセン公はヴェドゥータに比す都市景観画をドレスデンを舞台に描くよう、画家たちに募集をかけていた。こうして、ドレスデン・アカデミーはパトロンの意向により、自然と風景画王国となっていった。ドレスデン・アカデミーには、ヴェドゥータからその描法だけでなく「現地を美しく描く」という精神を学び取っていた。(なお、より詳しいドレスデン絵画史を知りたければ、アレクサンダー・ティーレ、アードリアン・ツィンク、クリスティアン・クレンゲルあたりを調べるとよいだろう。最も、ドイツ語文献以外は存在しないが。)

このような環境に、フリードリヒが憧れたのは言うまでもあるまい。彼は、滞在許可をザクセン公に申請する手紙の中でこう述べている。「暫くベルリンに滞在し、そこで芸術に勤しんだ後、18年前に選りすぐりの芸術作品の近くで、その美しい自然に囲まれて制作を継続するためにこのドレスデンにやってきました。」すなわち、彼はドレスデン自身の持つ都市景観の美しさと、所蔵する風景画の両方を評価して、ドレスデンを選び取ったのだ。

実のところフリードリヒ自身、自らの真の画風が売れ線ではないことを自覚しており、本格的にロマン主義画家として活動を始める1808年頃までは、ヴェドゥータ的景観画を描いて生計を立てていた。腕の良さは早くから認められており、ドレスデンでは名の知れた人気画家であったという。ヴェドゥータというと、美化はするにしても基本的に都市をそのまま描くものであり、後の人工的な風景画とは相容れない。しかし、生活のためとはいえけっこう長期間ヴェドゥータを描き続けていたことを考えるに、ヴェドゥータに対してはそれほど抵抗感が無かったのかもしれない。

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2010年06月04日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(2):脇道、崇高概念について

予定通り(4)で終わらない目処が立ったので、修正しておく。案の定画業遍歴が長くなったのと、ここでついでに作品紹介をしたほうが簡潔でよいということに気付いたので、構成を以下のように変える。

5部作で、(1)思想形成、(2)崇高議論について、(3)人生と画業の遍歴・前編(4)画業遍歴・後編 (5)評価史と周辺の画家

さて、(2)は先に脇道にそれた、美術史ではない美学的な話を処理しておくことにする。脇道ではあるが、重要な話である。フリードリヒ等という画家にしか焦点の当たっていない話よりも、一般性があって重要な話かもしれない。

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2010年06月03日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(1):思想形成

これについても書いておかなければ、卒業したことにはなるまい。そう思いつつ書こうと思い立ってはや二ヶ月が経過していた。でもやはりやっておこう。

これから書くことは卒業論文で提出したものの前半部分を基調とはしているが、全くの別物である。あくまで彼の紹介という点に重点がおかれている上に、論文ではとても書けないような無根拠な私見も混じっている。執筆の目的は、フリードリヒの紹介半分、フリードリヒで卒論なりレポートなり書こうとする大学生がぐぐってたどり着いたときに参考してもらうのが半分、といったところである。そんなレポート出す先生は極めて限られており、大学名がわかれば特定できるレベルだが、まあ、コピペだけは勘弁して欲しい。私も特定される可能性がある。まあ、大学の先生はけっこう調べてますよ、自分の名前でぐぐったり。

4部作で、(1)思想形成、(2)崇高議論について、(3)人生と画業の遍歴、(4)研究史・作品紹介、となる予定。というわけで、当分美術の話題が続きます。すいません。



(1)については以下で述べているわけだが、非常に長くなったので、先にこれを掲載しておく。フリードリヒ理解の一助となれば幸いである。

まとめという名の箇条書き:フリードリヒの思想形成について

・スウェーデン領ドイツの地方生まれ(=自由主義万歳+北方万歳)

・厳格なルター派の父

・人物画が苦手ということが発覚

・シュライアーマッハーの汎神論

・ロイスダールの風景画

・フランス革命に対するドイツ人の反応(=反理性主義+民族主義)
→ フリードリヒもかぶれる

・イギリス源流の崇高美学?

=汎神論的プロテスタンティズム、宗教画としての人工的な風景画、熱い民族主義


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2008年01月26日

院試反省会場

外れすぎワロタwwwwww


受けてない人は英語・ドイツ語に関しては読んでもわからないと思うのですっ飛ばしてくれ。  続きを読む
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院試当日

五発目。というわけで今までのは大学院の院試の過去問をひたすら解いて(それをブログの記事になるべく近くなるよう調整して投稿して)いたわけだが、今日のは予想問題である。院試中に更新されるよう予約しておくので、どんぴしゃで当たってしまったらぜひ問題の流出でも疑って欲しいところだ。まあ当然どう洗ってもらっても白なのではあるが。しかし、ちょっと考えてみてもらえば出題傾向はわかるので(というか学内院試組では全員予想が一致したくらい)、まあ7割くらいの可能性であたるんじゃないかと。万が一(学外の)敵に塩を送ることがないように、こんな更新時間にしたが。

ちなみに今更遅いながら、ネタ元を晒すと、『西洋美術研究』のテーマがそのまま院試の問題になっていることが非常に多いため、今年もそう来るのではないかと。重ねて読んでくれればわかるが、以下の答案は『西洋美術研究』の秋山先生の項目と、小佐野先生の『知性の眼』の話の内容をそのまま引用したのみである。当日、もし本当にこの問題が出たならば、ほぼこのまま書いてきているはずである。

さて、当たるか外れるか。帰ってきたら更新してみたい。
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2008年01月25日

このネタはおもしろい

四発目。いよいよ前日。さすがに緊張してくる。いい加減美術史以外のことは考えられない。

今日のネタを書くためにぐぐったら出てきたんだが、これうちの学生だろ……去年のレポートのテーマそのままやん。教えてgoo!で聞いちゃダメだろ。ちなみに、「12歳のキリスト」でぐぐるとうちが3つ目くらいに引っかかって吹いた。意味ねぇ。

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2008年01月24日

見た目は派手だが……よくある話か

三発目。そろそろ気づいた人もいるか。一日10時間も勉強してるのはかなり久しぶり。それが一週間持続してるなんて、もう高三以来ですわ。頭がすっかりぱにくっとるな。


以下、本題。

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2008年01月23日

別の話題に引きずられがちだよね

二つ目。


複製(reproduction)とオリジナリティという問題はベンヤミンを出すまでもなく、美術史においては巨大なテーマである。画家は模写により先人たちの偉業を学び、複製品は時として作品の伝播に役立った。アカデミーでは長く石膏模型のデッサンが修行課程の一つであったが(ある意味今でもそうだが)、これも一つの複製に関わる問題であろう。このような修行を否定するところからロマン派や印象派といった画家たちが独創的な作品を作り始めたことも、この制度の逆説的な恩恵であろうし、もちろんアカデミーの正規の卒業生たちが、画家の質の底上げになっていたという正方向での貢献も忘れてはいけない。

自分の専門分野で行けば、カスパー・ダーフィト・フリードリヒはコペンハーゲン・アカデミー時代、17世紀のオランダ風景画、特にロイスダールを研究しているが、彼は必ずしも本物を見ているわけではない。確かにコペンハーゲン・アカデミーにもそのコレクションは所蔵されていたであろうが、その数はいかほどのものであっただろうか。フリードリヒが注目したのは、当時アカデミー一般に流布していたオランダ人による図像の教科書であり、フリードリヒはこれを模写して訓練した様子は彼の残したスケッチブックからも読み取れる。加えて、後に彼が描いた油彩画のモティーフを見ても一致するところは多い。

また、おそらくフリードリヒはオランダ風景画の版画も見てみるだろう。黄金期のオランダはレンブラントのいわゆる100グルテン銅版画を始めとして、油彩画よりも安く絵画を普及させる方法として、版画は一般に流布していた。フェルメールのように寡作で知られ、全く手を付けなかった画家もいるが、多くの画家は版画家も兼ねていたと言ってもよいだろう。特にフリードリヒの場合は、自身が版画家になることはなかったが、素描家・セピア画家としては油彩画よりも先に名を成したため、同じく単色の版画との関係は切っても切り離せないものとも考えられるのではないだろうか。


話を仮に西洋美術に限らないのであれば、模倣と複製に関しては中国絵画でも語るべきところは多い。往々にして真筆は残っておらず、後世の模本がその代役となっていることは多い。中国においてもやはり模倣は修行の一環であったが、中国においては「物そのものの保存」という観点からの複製、という考え方も早々に根付いていた。南北朝時代の謝赫の著した『古画品録』(5世紀末)は中国絵画の規範であり続けた書物だが、そこには既に保存のための模写を奨励すべきことが書かれている。

このような意識は日本にも伝来しており、中国・日本のものを問わず様々な模写が当時の様子を伝えている。特に狩野探幽による探幽縮図はあまりにも有名かもしれない。狩野探幽の整理した狩野派の技法は、数々の模写とともに、日本の画家水準の引き上げに成功したといえるだろう。しかもそこから反発した画家たちは独創的な境地を切り開いていったことは、西洋のアカデミーと全く同じ構図である。

珍しい例では、鳥獣戯画はその成立事情から、成立時点での構成を復元することはほぼ答えの無いジグソーパズルのような状態ではあるが、様々な模本を省みると明らかに足りない部分や、逆に現在では存在している断簡が無い場合などがあり、模本の存在が問題をさらに複雑にしているといえよう。
  
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2008年01月22日

他の芸術分野でもあるんかね?

一発目。


西洋美術には「パラゴーネ」という言葉がある。これは一般的に美術と言われる三分野、絵画・彫刻・建築のそれぞれが、他分野の二つに比べていかなる点が優れているか比較し、議論することのことを言う。簡単なところでは、絵画ではいかに遠近法を使おうとも彫刻の立体性には原理的に勝てない、だとか、逆に絵画ではその場面の全てを描ききることが出来るが彫刻は一つの物体しか再現できない、だとか、そういう議論のことをパラゴーネと呼んでいる。

この議論が最も盛んであったのはルネサンスの前期である。いかにもそんな感じな時代だと思えるのは、やはりルネサンス前期という美術変革の時代であるからだろうか。その具体的な例示は、いくつもの作品に表れている。その最も典型的な作例を挙げるとすれば、ヴェローナのサン・フェルモ教会にあるブレンゾーニ家墓モニュメントであろう。カーテンの面のフレスコはピサネロが担当した傑作である。カーテンのめくられた部分とキリスト像、棺は木彫であり、墓全体をなすモニュメントとしては建築物として教会壁面を構成している。見事な三分野の一致といえよう。

しかし、さらに顕著なパラゴーネが西洋美術に及ぼした現象として、バロック・ロココ期の天井画全般を挙げることができるだろう。巨大な面を使えるという点や人間が見上げなければ目にすることができないという点を生かした、非常に壮麗な作品が多いが、天井が天井たる所以は四方が壁面に支えられている立体的な構造をしているという点にある。天井画自体の構図や色彩、壁画装飾に工夫を凝らすことで、どこまでが天井でどこからが壁面かの判断を困難にし、天井の無窮性を強調させるのだ。

作例はミケランジェロから近代フランスに至るまで枚挙に暇が無いが、あえて一作挙げるとするならばティエポロの《ヴュルツブルク城玄関大広間天井画》を挙げてみたい。階段の間という条件に、太陽神アポロンをあわせることで、人間が階段を上がるという動作と太陽の昇る様子をかけている。


ところで、通史で西洋美術を勉強すると、中世以前の絵画はあまり重視されず、むしろ建築が多いということに気づく。それが近代になればコルビジェ以外の姿を見ず、彫刻もロダンを除けばマイナーな扱いを受け、多くは絵画が引き受けている。それもそのはずで、西洋の価値観はルネサンス以前では圧倒的に建築の優位であり、次に彫刻、絵画は職人芸でしかなかった。このヒエラルキーは長い時間をかけて、ひっくり返されていくのだが、それはパラゴーネの成果の一つであろう。

なぜ建築が優位とされたかという問題に関しては、中世においてはそもそも「芸術」という観念が乏しく、パラゴーネ自体が存在し得なかったこと。ルネサンス期に関しては理性尊重の思想から(理性は神の恩寵であるという思想)、構成こそが美の規範であると考えられ、建築はそもそも構成がしっかりしていないと成立しない分野であるから、最も優位であると考えられた、という回答ができる。しかし、政治権力の中枢が教会から王宮へと移っていったという事情も看過することはできない。教会は神の家であるから力の入れようも並ではない。王宮ももちろん権力の象徴として造営されるのではあるが、直接王の目に映る内装、すなわち絵画や彫刻が重視されるようになっていくのは自然な流れではないだろうか。

現代におけるパラゴーネといえば、絵画と写真であろう。私の好きな現代美術の数少ない一部分野としてスーパーリアリズムがあるが、あれは写真を元に絵画を描くという逆転の発想である。その技術もさることながら、真なるメッセージはその非絵画性による「再現性」を志向してきた近代以前の美術へのあてつけや皮肉にあるという点では、一般的な現代アート(特にポップアート)と発想を同じくするといえるだろう。抽象表現主義やアクションペインティングも、写真には出来ないことをやっているという意味においては、パラゴーネで議論しうる範囲と言えるかもしれない。いずれにせよ、パラゴーネを調べてみると、けっこうおもしろい。  
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2007年12月14日

それにしても安土城は惜しい

今日も今日とてフリードリヒのカタログレゾネ(総作品目録)を眺めていたわけだが、あまりにも行方不明が多すぎることは前から気になっていた。紹介されている作品数に比べて明らかに挿絵の数が少ない、総作品目録なのに。それでついでにリストを作ってみたら出るわ出るわ。Verschollen(行方不明)にVerbrannt(焼失)、Verbleib unbekannt(所在不明)と見飽きるほどに単語が並ぶ。

最初から無かったんじゃなくて、存在は確認されているけど今はないってのが一番たちが悪い。確認しようが無い癖に、仮に存在したとしたら研究内容が全然変わってくるんだもの。いっそ最初から無かったことにしてくれたほうがありがたいくらいだ。まあ、西洋でこんなことになっている画家は珍しいのではあるが。フリードリヒの場合、ここまでたどってきた歴史が複雑すぎる。

よく日本美術史研究者が「安土城が残っていれば、どれだけ研究が進んだことか……」と嘆いているけど、その気持ちはすごくよくわかる。我々の研究は物がないと何も始まらない。「あれが現存してれば基準作例になりうるのに」「あれが残ってれば作者が同定できるのに、画風が明確になるのに」。そんなんばっかりだ。

もっとも、中国美術が一番たちが悪い。早くから文書で記録を残す文化が根付いていたために、記録上しか存在しない作品が西洋なんかとは比べ物にならないほど無数にある。しかもあそこは「記録上あったけど現存しないんだったら、作ればいいじゃん」という思想を持っているので贋作だらけだ。

人間の行為とはかくも身勝手で罪深く、時間の流れとはかくも残酷である。それでも我々は「眼」と「想像力」でもって立ち向かわなくてはならない。


以下、実際フリードリヒの作品がどれだけ現存しないのか調べてみた結果。  続きを読む
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2007年12月13日

偉大なる画家十選

そういうことやられると,追随したくなっちゃうでしょうが。ぶっちゃけて言えばいつもの「○○選」なんだが,基準が統一ではなくて,視点を変えていろいろ作ってみるからこそおもしろい。

つまりここでいう「偉大」ってのは,美術史への貢献度とか(西洋美術好きからの)人気の高さが重要なのであって,個人の主観を聞いてるわけではないわけだ。つまり,フリードリヒなんぞは私がどれだけ愛していても,端にも棒にも引っかかりはしない。むしろドイツ三人衆(デューラーとクレー)なんぞ誰も入らない。にもかかわらず,ある程度絞ったところだとその貢献度や人気を判断するのはあくまで主観であって,そこに間違いなく私情は入る。これはおもしろい。

今ぱっと候補考えたら20人くらい出てきた。さて,誰削ろうか。美術史というのは「点と点が無限に連なれば,普遍妥当的にそれは線である」という数学上の定義そのままなので,そこから点を抜き出して,「誰の影響が一番強いか」を考えるのは不毛と言えば不毛かもしれない。でも楽しいから,やっちゃうんだよね。しかも十選だから意義がある。二十選ならこんなに悩まない。


1,ジョット
彼を中世からの脱却と言ってしまっていいのかどうかは非常に判断の難しいところだが,むしろゴッホ同様「ジョット伝説」が後世に及ぼした影響としては,間違いなく全画家でも最高に違いない。

2,ファン・エイク
油彩画の始祖。実はジョットとどっちを残そうか,最後まで悩んだ。けど,両方入れざるを得なかったということは,やはりこういう選抜では古い画家のほうが有利なのだろうか。この選抜って,起源論争に近いところはあるからなぁ。

3,ラファエロ
ミケランジェロ,ダヴィンチで悩んだけど,「ラファエロ前派」なんていう派閥を本人のあずかり知らぬところで形成されてしまったのは彼だけ,という点を評価してみたい。ダヴィンチは偉大だが,後世への影響というとティツィアーノにも勝てない気がする。ミケランジェロはマニエリスムの門を開いたとは思うが,それはラファエロも同点かなと。

4,カラヴァッジョ
バロック芸術の始祖として絶対に外せない。ラ・トゥールは知名度が低すぎる。ルーベンスは発展者,ベラスケスは完成者と位置づけるならば,やはり「偉大」と目されるべきはカラヴァッジョではないかと。

5,レンブラント
カラヴァッジョを選出してしまったので,消そうか悩んだけどその北方の画家への影響を考えるにとても削れたもんじゃない。カラヴァッジョ風の表現に北方的な深い精神性を与え独自の道を開いたと思う。画業としては,私的にはフェルメールのほうがレベルが高いと思うが,彼はいかんせん寡作すぎたし,レンブラントの後継者という感じが否めないからここには出せない。

6,プッサン
ロランと悩んだけど,風景画のみに特化せず,オールマイティに古典主義を復興させた彼に,この栄誉を与えてみたい。彼の活躍がなければ今の西洋美術の発展はありえなかっただろう。西洋美術は古典とバロックの二項対立で発展してきた,と解釈するのであれば。

7,ターナー
ゴヤと死ぬほど悩んだ。両方出そうかと思ったけど他の時代はもう最低限しか残してなかったから,ロマン主義二人は多すぎるだろうという断腸の思いでゴヤには勘弁していただいた。だってさ,ロマン主義という思想自体が,後世への影響強すぎるし,そもそもロマン主義絵画の始祖って誰よ?(時系列だけを考えれば)実はフリードリヒじゃね?でも奴の後世への影響って絶無じゃね?とか。
そんな中決め手になったのは,ターナーが風景画家であることと,彼が印象派の先取りのような画法も生み出していたこと,それでいて古典主義者たちから反発を大してもたれなかったこと。時代のつなぎ目としても,偉大と称さざるを得ない。ゴヤは,スペイン一国に限れば,次ピカソまで巨匠を生むことができなかったのも失点。

8,モネ
これもマネとどっちにしようか知恵熱が出るくらい悩んだ。《オランピア》と《印象 日の出》の後世への影響を採点しろとか無理すぎる。しいて言えばジャポニズムの摂取とサロンの否定,外光派などの要素はより「後世的」か。あとはもう単純に人気で計ってしまえと考えた結果,モネを残した。

9,セザンヌ
これもピカソと悩んだ。多分多くの読者は「なんでその悩み方?」と思われるかもしれないが,発展史観をとるならば印象派→セザンヌ→マティス→ピカソ→現代芸術って一直線になるから,セザンヌで区切るかピカソで区切るか,という問題になる。確かに一般的な知名度ならピカソの圧勝なんだろうけど,ピカソがいなくても現代芸術は今の形になってたとは想像可能だが,セザンヌがいなくて今こうなったかというと,かなり違ってたと思うんだよね。ピカソが永久に青の時代辺りでくすぶってたかもしれない。
……裏を返せば,サルヴァスタイルの人も書いてた通り,(セザンヌとピカソは)今の現代芸術の迷走を生んだ張本人とも解釈できるわけですが。本人たちのクオリティは高いだけに,複雑だなぁ……

10,デュシャン
現代芸術ってやったもの勝ちであることに早々に気づき,かつそれを自虐的に利用して「やったもの勝ち」の領域に堕すことの無かった奇才。以後の芸術家は,「美術史は第一世界大戦で終了しました」と言って憚らない自分の目から見れば,美術史が第一次世界大戦で終わらないことへの数少ない反証。ちなみに,ポロックと悩んだ。でもポロックのやったことは,要素的な意味でピカソに吸収されうるな,と。そして,前述したようにそれはセザンヌに内包されて,結局セザンヌが始祖なんじゃないかと。ウォーホル?私はポップアートをアートということに疑問を持っているのであしからず。ポロック,ウォーホルへと続く現代芸術評価って,発展史観によって「作られた評価」にしか思えない。



異論,反論は大いに受け付けております。リアクションは遅れるかもしれんけど。
  
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2007年10月13日

絵画という勝負

水面の絵は大きく分ければ、きっちり描いてある(自然主義的な)絵とゆらめきを重視して描いてある(印象主義的な)絵の二通りあると思うが、どっちが好きだろうか。全然違う二つではあるが、私は両方好きだ。しかし、どっちのほうがリアルと感じるか、と言われればかなり難しい。確かに一見、自然主義的な描き方のほうがリアルなのだが、水面らしいと感じるのは印象主義的な描き方だと思う。別に水面に限らず、岩の絵でも木の絵でもそうなのだが。

同じような葛藤を生むのが裸婦の皮膚に関する描き方。これもアカデミックな病的なまでの質感も、(前期)ルノワールのふわふわした質感もどっちも真だと思うし、どっちもある種の偽者くささはぬぐえない。これにも優劣をつけるのは非常に難しい。このまったく正反対の表象に対して、ほとんど同じ尺度で、しかも優劣つけがたい評価が下せてしまうというのは、人間の感性を考える上で単純におもしろいことだと思う。

絵画というのは所詮二次元であって、人間の五感(もしくは六感)のうちで一つの感覚しか選挙することはできない。しかし我々は普段感覚器官をフルに使って生きているのだから、絵画のリアリティには限界がある。しかし、その限界を乗り越えようとするからこそ、表象の方向性も一方向ではなくなったのではないだろうか。我らが秋山氏は「視覚的な意味で現実に似ているということを言いたいなら『迫真的』という言葉を使ってみるべし」とおっしゃっていたが、その含意はなかなかに深い。

それにもう一つ、絵画には二次元の「静止画」であるという欠点もある。こっちの限界を乗り越える方法も画家たちは多様に生み出してきた。我々はしばしば静的な絵画、動的な絵画という評価の下し方をするが、こういった評価の言葉があること自体がすでに、絵画というもののおもしろさを示しているように思う。


こう考えていくと、やっぱリアリティを放棄した時点で絵画は負けだと思うんですよね、といつもの現代芸術批判でお茶を濁して閉めてみる。  
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2007年10月11日

「冬の国」から

卒論の勉強とムンク展の予習を兼ねてノルウェー絵画を調べていたが、実はムンクはC.D.フリードリヒの直系の子孫なんじゃないかという気がしてきた。フリードリヒを含めて多くの画家がロマン主義に分類されてはいるが、19世紀前半の古典主義やバロックとはいえない雑多な画家たちをくくってロマン主義と言っているだけの話であって、ロマン主義は共通性がきわめて薄い。その中でフリードリヒといえば象徴主義の走りであるわけで、ムンクとのつながりを主張してもおかしくはないだろう。

おもしろいのはその経路で、まずフリードリヒの盟友J.C.C.ダールがノルウェー出身であり、画業をなしてからも何度かノルウェーに帰国して現地の風景を描き、現代にいたるまでノルウェーの生んだ巨匠として扱われていることから始まる。ダールはロマン主義の中ではかなり自然主義寄りの画家で、象徴主義的というよりはセンチメンタルな画題が多かった。

その後ダールを経由してフリードリヒ風の象徴的風景画が流行した後、ダール風の自然主義的風景画が主流となる。しかし1890年代、ロマン主義リヴァイヴァルが起こり、これがそのまま象徴主義の隆盛へとつながり、そこへ登場したのがムンク、というわけだ。

一方でドイツ本国では、フリードリヒの死後すぐに彼の絵画は廃れ、やはりセンチメンタルな絵画が流行した後、1875年には(最後の画家ルードヴィヒ・リヒターの死をもって)ロマン主義的風景画は死滅したとされる。確かにベックリンのようなドイツ的象徴主義画家はいるし、彼にフリードリヒの系譜を見るのも大いにありだが、ドイツという地域内で系譜が探せるのはある種当然のところもあるだろう。それよりはやはり、ノルウェーで見つかったことのほうがおもしろい。

フリードリヒは生前、アイスランド渡航を計画したり、スウェーデンを応援している(と解釈されうる)絵画を描くなど、北欧嗜好は強かった。ノルウェーに自らの画業が伝わったとすれば本望じゃなかろうか。まあムンクへの系譜は言い過ぎとしても、かなり明確にフリードリヒを意識されて描かれた絵画は多く、ノルウェー画壇への影響を指摘してみるのもおもしろいかもしれない。  
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2007年09月11日

そのほうが「ロマンチック」じゃないか

窓辺の女今日も今日とて論文を読んでいて、一つ気になる話があった。その論文のテーマになっていた絵がこの《窓辺の女》(C.D.フリードリヒ、ベルリン国立博物館、1822)である。

この絵に関して有名なフリードリヒ研究家は皆、キリスト教的な象徴性や窓の生み出す彼岸的世界への憧憬などを指摘しており、当時この絵に写る後ろ姿の女性に対する恋慕の情を歌った詩人に対し「本質を捉えていない」とケチをつけている。ちなみに、ところが、今日読んだ論文の著者は、もっと別の論拠からこの詩人を擁護している。

意外に思われるかもしれないが、私の意見は後者である。つまり、フリードリヒの真意はこの写っている女性、ぶっちゃけて言えば彼の妻に対する親愛の情を描いたものだと思う。もちろん、キリスト教的な象徴性や彼岸世界への憧憬のような思想を、フリードリヒが込めていないと主張しているわけではない。彼のことだから多義的な解釈が可能なように絵を描いていることだろうし、実際そういう見方もできるのだと思う。

しかしだからといって、そのような小難しい解釈が、よりわかりやすい解釈を退ける理由になってはいけないと思うのだ。”両方の理由”で描いた、というのがより正解に近いところであるように思う。もちろん、論拠無しに主張をしてはいけないのではあるが。

私は浅学だから、この論文以上の明確な論拠を提出することはできない。しかしそれでも(研究者としてはあるまじき主張ながら)、フリードリヒが1818年の結婚以後は若干画風が明るくなったこと、妻を溺愛していたこと、そして何よりもフリードリヒの絵画にしてはありえないほどの温かみがこの絵からは感じられること、これだけでも十分な論拠になりうると、私は思うのだ。

(その論文:木村和実「C・D・フリードリヒ《窓辺の女》」、『河南論集』、1999)


余談。結婚当時、フリードリヒ43歳、妻カロリーネ・ボマー25歳という事実。そりゃ溺愛するのもわかるが…………  
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