2017年07月18日

『絶対に解けない受験世界史2(大学入試問題問題シリーズ2)』が出ます

無事に2冊めが出そうです。担当編集の方による告知記事はこちら。





以下は1巻同様に,本書の紹介をFAQ形式で。

よくわかる! 『絶対に解けない受験世界史2 ―悪問・難問・奇問・出題ミス集』FAQ

Q.目的や内容は前巻と同じなの?
A.全く同じです。大学入試における悪問や超難問,出題ミスを収録・解説した本です。本気で難しくて解けない問題から,日本語の崩壊した問題,単なる誤植,笑える問題,珍しい問題など,多岐にわたって収録しています。
1.入試問題作成の杜撰さを世の中に訴えること
2.出題ミスの事例を集めて,出題者へ提供すること
3.悪問を笑い飛ばして当時の受験生の無念を供養すること
4.世の中の世界史マニアに難問を提供すること
を主な目的としています。以下,1巻と同じQ&Aは省略。


Q.収録範囲は?
A.前著で2014年の早慶上智・国立大を扱いましたから,それ以外の2014年の私大入試。2015・2016年は全大学,2017年の早慶上智・国公立大までです。2017年のその他私大は(2巻が好調に売れれば)3巻に収録します。


Q.今回はどんな問題が収録されてるの?
A.1巻同様に,帯に入れた例題を掲載しますと,以下のような様子です。

・地図をよく見ると,ペロポネソス半島がペロポネソス島になっている(中央大・法学部,2016年)
・セゴビアの水道橋に対する誤答が熊本県の通潤橋(上智大・2/5実施,2015年)
・指定字数が35字の論述問題なのに,指定語句だけで16字ある(慶應義塾大・商学部,2017年)
・カリフォルニア州に本拠地を置いていないIT企業を問う問題(早稲田大・商学部,2017年)
・ググっても11件しか出てこない(2017年5月26日現在)用語を出題(青山学院大・法学部A方式,2014年)
・最古のジーンズのブランドとして「リーバイス」を問う問題(東京外語大,2017年)

その他ですと,以下のような問題が代表例かと思います。

・まさかのセンター試験からの収録(2015年・2016年)
・ソ連よりの思想信条を取らないと明確には解答が出ない問題(明治大・情報コミュニケーション学部,2016年)
・中華人民共和国側の政治的立場を取るかどうかを問われていると見なされかねない問題(青山学院大・国際政治経済学部・法学部,2015年)
・ここまで出てそうで出ていなかった「宇宙大将軍」こと侯景を出題(明治大・法学部,2014年)
・2016年にもなって教科書からは消えている「モンゴル人第一主義」を論述で出題(福井大,2016年)


Q.前著の社会的影響で悪問が減ったってほんと?
A.前著の影響かどうかはわかりませんが,上智大は目に見えてひどい問題が減っていて,早稲田大も前著の時よりはまともな入試問題になっていると思います。前著も持っている人は見比べて,上智大や早稲田大の減少の様子を観察するという楽しみ方もできると思います。

また,その意味では今回の注目ポイントはMARCHだと思っています。特に明治大と青山学院大はむしろひどくなっている印象です。ブログ版で扱っていないからって批判されていないなんて思ったら大間違いだ,と各大学の担当者には言いたい。上記の例にも挙げましたが,特定の思想信条・政治的立場をとらないと解答が出ない問題は最悪だと思いますよ。


Q.対象読者は?
A.前著の時に「まず歴史好き全般」としつつ「教育問題に関心がある人」として,さらに「あえて対象を絞るのなら,研究職・大学教員の方には読んで欲しいかな」と書いたのですが,実のところ読むのはサブカル層だと思ってました。しかし,Twitterや読書メーター等の感想を拾って読んでいくと,意外にもちゃんと研究者・大学教員の方々,またかなりの数の世界史得意な受験生が読んでいたのには驚きました。引き続き,これらの方々にも届くとよいなと思っています。


Q.今回の書き下ろしの割合は?
A.さすがに前回の書き下ろしが3/4は無理がありました。あれを続けるのは労力的に死にますので,割合は下がっています。ですが字数を数えてみると,今回も半分ちょっとくらいは書き下ろし(書籍で初公開)のようです。


Q.またしてもめちゃくちゃ分厚いんだけど……
A.約410ページあります。大人の購読者は厚さを気にしていない様子でしたが,実は受験生の購読者からは「分厚すぎる」という苦情が散見されていて,担当編集の方に「薄くしませんか?」と持ちかけたんですが,いろいろあってこうなりました。(次があれば,薄くなる努力はします……)


Q.間に日本史版とか現代文版とか挟めなかったの?
A.挟みたかったです。このままでは「大学入試問題問題シリーズ」が世界史だけになってしまいます。他教科・他科目の執筆者急募。私は解答解説にジョークを挟まないと自分が耐えられないのでこういうスタイルですが,別にもっと硬質な文章で書きたい人はそれで構わないと思っていますし,逆に私よりもさらにジョークを挟みながら書きたい人はそれで書けばよいと思っています。また,全大学対象は労力的に無理なのであれば,早慶上智に絞った本にしてしまうのもアリだと思います。

なお,一応の類書として以下のような書籍があるのは見つけましたので,参考までに。(リンク先はAmazon)
・現代文:『哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する!』入不二基義著,ちくま新書
・古文:『「無理題」こそ「難題」―大学入試古文問題を検証する』松岡義晃著,東京図書出版会


Q.出版社変わってない?
A.社会評論社からパブリブに変わりました。担当編集の方が独立された関係です。


Q.今回も正誤表を作るの?
A.極力誤植が残っていないことを祈りますが,作ります。この記事に正誤表を作る&重版がかかった際に直す予定ですので,あとでやんわりと教えていただけると幸いです。

<訂正表>
p.69 コラム1 下から2行目,当然ながら「シュリーヴィジャヤ」と三仏斉が逆。
p.134  2016早慶36番 早稲田大 商学部(4つめ) 解説で「ブラウン判決は範囲外」と述べているが,用語集未収録なだけで,新課程の山川教科書本文には記載がある。ただし,解説全体の論旨には影響なし。
p.214 番外編4 「vritu」は「virtu」の誤植(2箇所とも)。
p.256 2015早慶15番 早稲田大 国際教養学部(2つめ) 国連憲章第1章を根拠とした派兵は初回の国連緊急軍のみで,これが制度化された以降のPKOは第6章を理論的根拠としている。実態として第6章と国連軍の規定がある第7章の中間的な活動になっているため,「6章半活動」と呼ばれる。ゆえにp.257の下から4〜7行は解説に誤りがある。


<その他のご指摘>
p.367 2014その他24番 法政大 2/8実施分
解説で「権利の章典は法律ではなく憲法なので,誤答ではないか」と述べているが,「権利の章典も形式上は議会制定法なので,その指摘は無意味ではないかという指摘をいただいた。確かにそう考察することは可能であり,その場合4を誤答とする根拠が「終止符を打った法律は,直接関係しているといえるのかどうか」の1点しかなくなるので,より判断が難しくなる。正答の可能性が高まった。

  

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2017年03月20日

早稲田大17番の再検証

書籍版の改稿のためのメモを兼ねて。思考の垂れ流しなので読みづらかったら申し訳ない。答えが全くわからなかった早稲田大商学部の17番についてである。まず,問題の要件を再確認したい。読者諸氏にとっては申し訳ないことに後出しのようになるが,先の記事よりも少し長めに問題文を引用すると,実は次のようになる。

「前漢の数字(編註:人口約6000万人のこと)は,その最盛期といわれる武帝の時代から約80年後のもので,この数年後に漢は一時中断するが,この時期にあっても帳簿上は十分な数を確保していたことになる。後漢の光武帝時は戸口ともに前漢の約35%程度に落ち込んだが,2世紀に入るとほぼ回復した(編註:人口は約5600万人)。」

そしてこの文章の「2世紀に入るとほぼ回復した」に下線が引いてあって,下線部についての問いとして「その理由として妥当なものはどれか」と聞いているのが問2,すなわちここでいう早稲田大の17番の問題である。整理すると,本問は「後漢の人口が前漢並に回復した理由」として妥当なものを選ばせていることになる。そして選択肢1・2番は論外なので3・4番に絞られるが,3・4番はいずれも決定打になるような情報がどこにもないということで,記事執筆時点では手詰まりであった。


ここで,ブクマにてid:izmiiさんから提示された論文を読んでいたら,ピンポイントな情報が入っていることに気づいた。(本当にありがとうございます!)

・明石茂生「古代帝国における国家と市場の制度的補完性について(2) : 漢帝国」『成城大学・経済研究』第193号(リンク先pdf)

論文の10ページに前漢と後漢の戸数のシェアがあり,人口全体は後漢の方がやや少ないが,ほぼ同じである。ゆえに,ここから発展状況の違いをおおまかに読み取ることができる。そして選択肢の3番・4番はいずれも特定の地域について述べた文であるので,このデータをもって再検証が可能である。

この漢代の行政区分のうち,揚州(おおよそ現在の浙江省・安徽省・江西省・福建省)と荊州(同様に湖北省・湖南省)と益州(同様に重慶市・貴州省・四川省・雲南省)と交州(広東省・広西壮族自治区・ベトナム北部)の4つが長江以南を含んだ長江流域と言える。一方,青州とエン州がほぼ現在の山東省であり,山東地域と言える。それぞれのシェアの動きを見ると,
・長江流域の4州合計:20.6%→43.3%
・山東地域の2州合計:23.7%→15.1%
となり,長江流域は増加しているが,山東地域は減少しているとわかる。よって,「山東地域や長江以南の開発が進展した。」とする選択肢の4番は誤文の可能性が高い。

では消去法により3番が正解と断定してよいかどうかは,実のところ微妙である。黄河の治水工事による流路の固定の恩恵を受けたのは,黄河の中下流域である。当時の黄河中下流域は司隷・冀州・エン州・青州になるが,このうちエン州と青州は上述の通り,人口の減少を確認済みである。そして司隷と冀州は以下の通り,
・司隷:12.4%→6.5%
・冀州:11.3%→9.5%
両州ともに著しく減少していることがわかる。よって,黄河の氾濫減少は人口の回復に寄与しなかったか,寄与したとしても,他の減少理由を押しとどめるような効果にはなりえなかったということがわかる。はっきり言ってしまうと,「黄河の治水工事がどの程度人口の回復に寄与したかは,データ上裏付けが取れない」のである。

してみると,本問は正解がない可能性が浮上してきたと言える。ここに来て出題ミスの可能性が出てきたことを読者諸氏に報告するとともに,興味がある方は私とともにもう少し悩んでみてほしい。  
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2017年03月12日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2017 その2(早大残り・国公立)

その1から。こちらは早大の残りと,国公立。国公立は,解いたものは全て載せているが,実は某所の更新がないことで千葉大の問題が未入手なので,荒れていた場合は書籍版に収録します。

国公立はいつもとは違う顔ぶれになっていて,意外性が高い。

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2017年03月11日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2017 その1(上智大・慶應大・早大途中まで)

はじめに
今年は諸事情あって「そもそもやらない」すら視野に入れていたのだけれど,期待もあることだろうし全くやらないというのもダメだろうと思い直して,縮小版で更新することにした。問題の選定だけは済んでいるので,番号が飛んでいるのはまだ作業が終わってないんだなと察してもらえればと思う。ただ,最初から諦めていたおかげでかえって時間ができて,この2月は何年かぶりにのんびりしていた。Twitter等を見たら普通にゲームしてたのがわかるが,あれはこういう事情で気を抜いていたのが理由だったりする。完全版は2巻に収録する(2017年中に出るのは確定しました)。


・収録の基準と分類
基準は例年とほぼ同じである。

出題ミス:どこをどうあがいても言い訳できない問題。解答不能,もしくは複数正解が認められるもの。
悪問:厳格に言えば出題ミスとみなしうる,国語的にしか解答が出せない問題。
→ 歴史的知識及び一般常識から「明確に」判断を下せず,作題者の心情を読み取らせるものは,世界史の問題ではない上に現代文の試験としても悪問である。
奇問:出題の意図が見えない,ないし意図は見えるが空回りしている問題。主に,歴史的知識及び一般常識から解答が導き出せないもの。
難問:一応歴史の問題ではあるが,受験世界史の範囲を大きく逸脱し,一般の受験生には根拠ある解答がまったく不可能な問題。本記事で言及する「受験世界史の範囲」は,「山川の『用語集』に頻度,任發いいらとりあえず記載があるもの」とした。


総評
まずもって,悪問・奇問が激減したのが2017年最大の特徴と言える。数年前まで上智大と早稲田大は日本語がひどいせいで答えが絞れない問題が頻出していたが,上智大は2・3年前から改善の傾向が見られ,早稲田大は2017年になってごっそりと減った。明らかに上から怒られてこうなったのだと思うし,その一助となっているのならば,この企画をずっとやってきてよかったなと思う。結果的に収録対象になる問題自体が大きく減っている。例年であれば早慶上智で合わせて45〜50問ほど本企画に収録していたところ,2017年は30問しかないので,30〜40%の減少と言える。これが2017年だけの現象なら「世界史受験生には幸運な年だった」と言えるし,継続するなら転機の年だったと言えよう。

一方で,難問の類は相変わらずである。しかも「用語集の片隅に載っているからセーフ」「マイナーな教科書にちらっと書いてあるからセーフ」という巧妙な“かわし方”があからさまに増えていて,こちらとしては収録すべきかどうかの判断に随分と悩まされた。そうしたかわし方は以前から慶應大にはよく見られたが,今年は上智大や早稲田大でも多く見られ,これまた明らかに“学習”している。まあ日本語が崩壊している悪問だとか,同じ難問でもどこの教科書・用語集にも載っていないレベルのものだとかいうよりはマシなのだけれど,最終目標としてあるべき適正な入試問題からは程遠い姿であり,これを改善というのははばかられるところ。

最後に難易度や質以外の点で言えば,ヨーロッパ統合史と冷戦末期の歴史が大流行していて,それぞれ2016年のBrexitとソ連崩壊25周年の影響であろう。時事ネタという意味では,思っていたよりもアメリカ大統領選挙にかかわる出題は多くなかった。まああれは4年に1回あるしな。

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2017年02月13日

日本の戦国時代に関するifいろいろ

・戦国時代の到来を防ぐにはどうすればよかったのか(歴史的速報@2ch)
戦国時代とは何かと言えば,中央の実力と権威が失墜してしまっていて,法令の効力の届く範囲が極めて縮小しており,地方で土地と軍事力を持った中小勢力が自立し,その上相争っている騒乱状態である。

スレ内で指摘されている通り,応仁の乱勃発時点ではすでに戦国時代に入りかかっているので,応仁の乱だけを原因にはできない。室町幕府が崩壊したのは幕府本体の経済基盤が小さすぎ,有力守護大名同士の闘争を制御するだけの実力を欠いたからという点に起因する。つまるところ室町幕府と守護領国制という構造自体に欠陥があった。当時の人々も気づいてはいたし,義満や義教はなんとかしようとしていた。一番可能性があったのはやはり義満の時代で,彼が明徳の乱・応永の乱等の過程で足利氏の直轄する領国や権益を増やせていれば,展開は大きく変わっていたかもしれない。

そうした将軍の努力にifを見出さないなら,守護領国制が成立する前,せめて南北朝時代あたりから歴史をやり直さないとどうしようもない。いやまあ,建武の新政がどうあっても上手くいったとは思えないし,鎌倉幕府倒幕に別のあり方があったとも思えないので,多分南北朝時代でもダメで,鎌倉幕府が永続した可能性(あるいは後述するような足利朝鎌倉幕府が成立した可能性)を探ったほうがまだしも建設的かも。

スレ内で出ているが,建武の新政が成功したとするとそれは朝廷が直属の常備軍を持ち得たということで,すなわち絶対王政の到来である。これは江戸幕府に近い体制が想定されるが,江戸幕府は典型的な社団国家であるが宗教的権威が分離している点で絶対王政とは少し違う。しかし,天皇自身に権力が集中するなら,純然たる絶対王政と言えるだろう。国土の多くが公領あるいは皇室の荘園となり,武家は御家人であるか否かは問われず禁軍に再編成されて幕府は二度と開かれず,あるいは武家と公家の区別が消滅して「廷臣化」するかもしれない。何かの間違いでそうなったらロマンがありすぎる展開だが,中世・近世の日本史は天皇の権威と武家の実力が分離したことで展開したので,この場合の15世紀以降の日本史が全く予想できない。

根本的な話をすると,やはりスレ内でも指摘がある通り,日本の社会経済が平安末の「王朝国家」になった時点で,その帰結としての戦国時代は既定路線であり,どうあっても一度は“ああ”なる,というのは一理ある。鎌倉幕府・室町幕府という重しがなくなって地方勢力同士の騒乱が拡大したのが南北朝時代だったり戦国時代だったりするが,むしろ両幕府が重きをなせた一時期を除けば日本の中世とはすなわち騒乱状態が平常であった,と言った方が適切な見方なのかもしれない。

ひるがえって戦国時代の到来自体は仕方がないとして,足利氏の存続だけ考えた場合,スレ内で出ている「第二鎌倉幕府」案(あるいは“足利朝”鎌倉幕府案)はかなりおもしろいifで,「政治の東国・経済の西国」という切り分け,東国が武力で西国を押さえつけて商工業の発展による利益だけ吸い取る形での武家政権の存続は,存外上手く行きそう。中国だと明朝がこの形に近く,華北が北方民族防衛を理由に華南を押さえつけて経済的に吸い上げ,王朝を維持した。ただこれは明朝の北京が強烈な求心力を持っていて,集権的な中央政府と,地方の有力者である士大夫層に科挙を通じて王朝に奉仕する志向を持たせたことで自立を妨げる構造が完成していたからこそ実現した形ではある。日本の場合はスレ内>>286-288の言う通り,第二鎌倉幕府にそこまでの求心力はないから,どこかのタイミングでの西国の守護大名の離反・自立は避けられそうにないし,西国大名が自立した時に,第二鎌倉幕府が経済的に立ち行くのか。それでも少なくとも史実の室町幕府よりは実態のある期間が長そうな気はする。

最後に,もう戦国時代の到来も室町幕府の崩壊も仕方がないとして,大内氏か細川氏あたりの有力守護大名による乗っ取りという解決があるかどうか。私は戦国時代初期は全く知らないので,ちょっと何も言えないのだけれど,まあなさそうかなと。大内氏や細川氏が,後の織豊政権クラスの実力に成長しえたかどうか(そのifを想像しうるだけのポテンシャルがあったかどうか),にかかっていると思う。  
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2016年04月11日

最近読んだもの・買ったもの(『へうげもの』21巻)

・『へうげもの』21巻。方広寺鐘銘事件の勃発,大坂方の決起,片桐且元と織田信雄の脱出,真田信繁参戦,金森重近の出家(宗和),織部暗殺計画始動,真田丸築城,近衛信尹倒れる,京五山大文字焼き計画,柳生宗矩と織部の一騎打ち,大坂冬の陣開戦,織部狙撃失敗,「犬」文字焼,近衛信尹死去,伊賀焼「破袋」誕生。
→ 列挙してみると,展開がかなりめまぐるしい巻。というよりも,方広寺鐘銘事件から大坂冬の陣中盤までの歴史的展開を一気に消化した上に,創作のエピソードも多く入っている。確かに歴史的な展開だけを追うとこの時期の織部は何もしていない形になるので,主人公の見せ場を作ったということであろう。その中でいくつか取り上げていく。

→ 方広寺鐘銘事件は,清韓に「国家安康」のアドバイスをしたのが織部であったのが何かのフラグかと思われたが,少なくともここでは不発のようだ。むしろ織部が自ら豊徳合体計画を破壊する口実を作っていたという皮肉だったとすると,このまま作中で触れられずに終わるのではないか。
→ 織部暗殺未遂事件は言うまでもなく創作だが,柳生宗矩の容貌が魁偉であり明らかに変人なのは何か理由はあるのだろうか。柳生宗矩というと腹黒で描かれることがあるが(史実の彼は実直だが創作上一つの伝統になっている),本作の柳生宗矩は必ずしも黒くなく(まあ暗殺に失敗すると証人になる配下を容赦なく斬殺しているが),これに乗っかっていない。乗っかっていないだけに容貌だけが突出して不可思議である。

→ 本巻123話で片桐且元に見出された片桐貞昌は,後に茶人として名を上げ,徳川家綱の茶道指南役にまで出世した。茶道石州流の祖とされる。茶道の上では重要とはいえ,細かいネタを拾っている。同123話で金森重近が廃嫡され,出家して宗和を名乗っているが,この経緯は史実通り。
→ 真田丸築城は非常にタイムリーだが,本作の連載スタート(2005年)時点では全く予想できなかったタイミングの一致だろう。大河ドラマの方がこれをどう扱うのかは気になるところ,と言いつつ私大河全く見てないのですが。評判が良いので見とけばよかったとやや後悔している。
→ 左門がダヴィンチ式戦車を作っていた……無論のことながら架空だが,この見取り図はスペイン人宣教師→高山右近→左門という経緯になっており,20巻で渡されていた。本来つながりが全く無いはずの二人を何故会わせたのかと思ったが,確かに徳川方でダヴィンチ式戦車は出せまい。

→ 近衛信尹が「大」の字を書きつけたものを見た金森宗和が「当代一の能筆」と褒め称えているが,実際に近衛信尹は「寛永の三筆」の一人として歴史に名を残している。また,近衛信尹が五山送り火の創始者という説は実在し,それなりに信憑性も高いようだ。これは私自身,連載当時に調べてみるまで全く知らず,驚いた。一つだけ突っ込むと,あれは盂蘭盆会の一環であるので,実施は例年8/16であるから(旧暦の頃は7/16だったそうで),大坂冬の陣の最中ということはありえない。そこだけは完全にフィクションである。また,作中では伝達ミスから「犬」文字焼になってしまったが,これは足利義政説もあって近衛信尹説で固まっていないことを逆に利用したものと思われる。推定にすぎないからこそ,大胆なフィクションを混入させられるのだ。

→ 最後に,伊賀焼の銘「破袋」は実際に2つ実在する。ただし,世の中的に1つしか存在していないと思われているのは仕方がないところで,1つは五島美術館の所蔵品で定期的に表に出てくるが(私も見たことがある),もう1つは個人蔵でほとんど表に出てこない(というか今回初めて知りました)。作中で大野治長に贈られた「いかつい方」が五島美術館にあり,弟の治房に贈られた柔らかい方が個人蔵である。なお,元々は柔らかい方のみが銘「破袋」だったそうだが,いろいろあって混同されて両方とも銘が「破袋」になったそうな。作者の山田芳裕があとがきで「ご興味ある方はお調べくだされ」として自分で述べるのを避けているが,なるほどややこしい。



  
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2016年04月07日

授時暦は“何の影響”を受けて成立したのか?

受験世界史(高校世界史)の闇をほじくるシリーズ。


1.授時暦とは
「授時暦」は元朝で施行された暦で,郭守敬を中心とした科学者グループによって作成された。この授時暦の作成は,二つの理由から世界史上の特筆すべき事象とされる。
・前近代の科学史において,最も精確な太陰太陽暦の一つであること。
・イスラーム世界の天文学の影響を受けており,パックス=モンゴリカ下の東西交流を象徴する成果であること。
特に後者を理由に,高校世界史上でも郭守敬と授時暦は最重要項目となっている。センター試験でも出題されるし(そういえばいつぞやの出題ミスも授時暦絡みであった),各種私大・国公立大の二次試験でも出る。中でも東大は東西交流史を極めて好むため,驚くほど出題率が高い。何と2007・2011・2015年と近い間隔で,しかもそれぞれ論述の重要なファクターとして出題がある。

2.受験世界史参考書の記述の混乱
ところが,これだけ重要な事項であるにもかかわらず,参考書やネット上の文献では,実に多様な表現が見られる。代表例を以下に挙げる。

・イスラーム“天文学”(アラビア“科学”)の影響を受けて,郭守敬は授時暦を作成した。
・イスラーム“暦学”の影響を受けて,郭守敬は授時暦を作成した。
・イスラーム“暦法”の影響を受けて,郭守敬は授時暦を作成した。
・イスラーム“暦”(ヒジュラ暦)の影響を受けて,郭守敬は授時暦を作成した。
・イスラーム暦の中で最も精確とされる“ジャラリー暦”の影響を受けて,郭守敬は授時暦を作成した。

なお,天文学・暦は自明なのでよいとして,暦法・暦学とはなんぞやという方もおられると思う。それぞれ代表例として辞書(コトバンク:デジタル大辞泉)の意味を載せる。
・暦学:天体の運行の観測や暦を作ることに関する学問。
・暦法:こよみに関する学問。また,暦を作る基準。法則。
つまり,暦学は天文学に近い意味合いで,天体運行の観測を含む。その目的が暦の作成に限定されるだけであるから,現代的な意味での天文学の下位概念にあたる(そもそも前近代の東アジアでは暦学と天文が区別されていたが,現在ではどちらも「天文学」である)。一方,暦法は,天文学の成果を受けた後のカレンダーの作り方を指し,とりわけ東洋の暦では二十四節気の振り方や吉兆を占う日食の日付等も含まれる。太陽暦・太陰暦・太陽太陰暦の違いも当然暦法の違いになるし,同じ太陽暦でもユリウス暦とグレゴリウス暦では暦法が違う。旧暦2033年問題なんかは純粋な暦法の問題であろう(それを国立天文台が扱っている辺りは,暦法の研究と天文学の近さを感じさせるものではあるけど)。


これらの表現は正確なのか? 今回はこれを追ってみた……が,結果を言う前に二つ書いておくべきことがある。まず,実はこれまでの「受験世界史(高校世界史)の闇シリーズ」と異なり,教科書の表現は7冊とも一貫している。「イスラーム“天文学”」である。実教出版のみ“暦学”を併記している。つまり,この混乱は非公式的な文献,参考書の類に限定されることは先に述べておきたい。(まあ,この辺で今回の結論が読めた方もいるかと思うが,それで正解である。)

次に,今回の調査に先立って,実際のバリエーションを把握するべく某大手書店の世界史参考書コーナーを片っ端から立ち読みしてきたのだが,未だもって「モンゴル人第一主義」「オゴタイ・ハン国」「ラマ教」と書いている参考書の多さにめまいがした。出版年が古いのなら許されるが,ほとんどは2013年以降の出版であった。山川出版社の名誉のために書いておくと,あそこの参考書はこれらの記述がなく、またイスラーム天文学で統一されていたので,執筆者によらず編集部の校正が入っているのだと思われる。他社は執筆者の原稿ノーチェックなのではないか。他のページに良い記述があるかもしれないから全く価値がないとは言わないけど,モンゴル帝国史・元代について言えばゴミとしか言いようがない。


3.授時暦はイスラーム世界から何を摂取したのか?
これについては,実のところ前回のフランス東インド会社と違って,非常にあっさりと文献が手に入る。科学史上の金字塔であるジョゼフ・ニーダム著『中国の科学と文明』があり(完全な邦訳がある),さらに中国天文学史・暦法研究の大家である藪内清京大名誉教授の諸著作があり,後続の研究もそれなりに盛んである。それらの文献を読むと,これまた今回欲している答えに簡単に当たることができる。

郭守敬が参照したのは,科学的な意味でのイスラーム天文学のみである。それも観測機器の採用のみに絞られる可能性が高い。ジャマール・アッディーンなるペルシア人がイスラーム天文学を中国に持ち込んだのは事実である。しかし,郭守敬がそれをどの程度参照したかは不明であり,導入が確実視されているのは観測機器のみである。また,イスラーム科学を含む古代オリエント・ギリシア由来の天文学は黄道座標系を用いていたが,中国の天文学は伝統的に地球の赤道が基準であった。郭守敬はイスラーム伝来の観測機器を導入した上で,中国式の赤道座標系のものに改良して観測結果を記録し,その記録を基に授時暦を完成させた。赤道基準の方が精確な観測結果になると気づいたからであるとも,単純に中国の伝統に則ったとも言われている。郭守敬を高く評価する向きの研究者は当然前者の説を採っている。

いずれにせよ近代天文学は赤道座標系を用いているが,イスラーム以西の天文学が初めてこれを採用したのは郭守敬に遅れること300年後の,ティコ・ブラーエだそうだ。ニーダムはティコ・ブラーエが自主的に赤道基準の重要性に気づいたとは考えづらいとし,授時暦を参照した可能性を指摘しているが,これについては現在でも定説がなく議論が続いている。ニーダムの主張が実証されれば,科学史が大きく書き換わるところだ。また,薮内清氏が「イスラーム天文学の影響は観測機器の改良に限定されるのであるから,これを強調するのは郭守敬の独創性を損ねることになるし,中国天文学の成果を矮小化することになる」と随所で書いていたのは印象的であった。現在の高校世界史の「グローバルヒストリーの申し子」的な存在になっているのを見たら,どういう感想を持つだろうか(氏は2000年に亡くなっている)。これについては私自身も授時暦を便利に使っているところがあるので,若干反省している。

そして,授時暦は“暦法としては”純粋な中国の暦である。そもそも中国王朝の皇帝にとって暦を示すことは「天子」として重要な仕事であった。天の法則を民に与えるのである。もちろん実態としては政府が天体観測をさせる役所を設置し,その観測結果を基に,伝統的な暦法に則って暦を作成させた。モンゴルが出自の元も,フビライが中国統治の正統性を示す上でその必要性を感じたために,暦の作成を郭守敬らに命じている。ここにイスラーム由来の暦法の要素が混じっていたら,目的を損なうことになる。

ついでに言うと,イスラーム暦自体はそれ以前から中国に入ってきているから(唐代の長安や広州にだってムスリムはいた),わざわざ元の時代になってから参照する意味は無い。また,イスラーム暦は完全な太陰暦で一年が354日であり,太陰太陽暦で一年を365.2425日とした授時暦とはそぐわない。この点,ジャラリー暦は授時暦と同様の太陰太陽暦であるし,イスラーム世界で最も精確とされているからいかにも授時暦と関連がありそうであるが,今回の文献調査では郭守敬が目にしたという確証自体が得られなかった。目にしていたら記録に残るだろうし,諸研究者が言及しないはずがないので,おそらく目にしたことがないか,読んでいても授時暦の成立に影響が無かったというのが現在の研究の成果と考えてよいだろう。


4.結論

・イスラーム“天文学”(アラビア“科学”)の影響を受けて:○
→ 最も適切な表現。
・イスラーム“暦学”の影響を受けて:○
→ セーフではあるが,暦法と暦学が混同されている様子の現在の高校世界史においては,使わないほうが紛らわしくなくていいかも。
・イスラーム“暦法”の影響を受けて:×
・イスラーム“暦”(ヒジュラ暦)の影響を受けて:×

→ これらはアウト。
・“ジャラリー暦”の影響を受けて:極めて高い確率で×
→ “暦法”とヒジュラ暦についてはまだ「誤解の産物」という雰囲気があるが,これは出典不明で,受験世界史の参考書以外では一切見ない。これまたどういう経緯でこの説が出てきたのか気になるところ。

ところで,先ほど「教科書の表現は7冊とも一貫してイスラーム“天文学”である。」と書いたが,旧課程の用語集は教科書を同じ表現だったのに対し,2014年からの新課程の用語集は「イスラーム暦法の影響を強く受けた太陰太陽暦」とある。つまり,表現が後退している。これは由々しき問題であると思う。
  
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2016年03月14日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2016 その3(その他)+おまけ「今年の気になった問題集」

その2から。今年のその他はセンター試験と名大だけ。おまけで,解いていて良い意味で気になった問題集をつけた。

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2016年03月13日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2016 その2(早稲田大)

昨日の続きで,今日は早稲田大。明日は国立大とおまけです。

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2016年03月12日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2016 その1(上智大・慶應大)

今年の分もなんとか書き上がったので,お届けする。


・収録の基準と分類
基準は例年とほぼ同じであるが,新課程になったので用語集の収録語・頻度が大きく変わった。その点は変更がある。

出題ミス:どこをどうあがいても言い訳できない問題。解答不能,もしくは複数正解が認められるもの。
悪問:厳格に言えば出題ミスとみなしうる,国語的にしか解答が出せない問題。
→ 歴史的知識及び一般常識から「明確に」判断を下せず,作題者の心情を読み取らせるものは,世界史の問題ではない上に現代文の試験としても悪問である。
奇問:出題の意図が見えない,ないし意図は見えるが空回りしている問題。主に,歴史的知識及び一般常識から解答が導き出せないもの。
難問:一応歴史の問題ではあるが,受験世界史の範囲を大きく逸脱し,一般の受験生には根拠ある解答がまったく不可能な問題。本記事で言及する「受験世界史の範囲」は,「山川の『用語集』に頻度,任發いいらとりあえず記載があるもの」とした。


総評
上智大は,昨年おとなしくなったと評したが,今年についても「さらにおとなしくなった」と評価できる。以前は早慶上智と並べても上智のインパクトがすさまじく,特に日本語の不自由さにかけては圧倒的であったが,ここ2年は確実に改善しており,今年の上智に至ってはもはやGMARCH・関関同立クラスの“悪さ”でしかない。ちなみに同時に難易度も下がっている。難易度の高さと質は必ずしも負の相関関係があるわけではないが,ことマーク式については難易度を上げると悪問が生じやすいという傾向はある。上智大が質を上げるために難易度を下げたのか,難易度を下げた結果として悪問が減ったのかは定かではないが,歓迎できる方向性であるとは言えよう。しかし,2016年は上智大に代わって慶應大がひどかった。昨年から継続して悪化傾向が見られたので,段階的に上智大と中身が入れ替わってるんじゃないかと疑うレベルである。

早慶上智全体を見渡すと,意外にもどの私大もきっちりと新課程対応してきており,「これ旧課程にしか載ってないんですけど」系の難問はほとんど見なかった。むしろ新課程になって新たに収録された細かい用語をバシバシ出題しており,特に二・二八事件とウマイヤ=モスクは“新課程ご祝儀”とでもいわんばかりに散見された。まあどちらも新課程で収録されたのが妥当な重要な歴史用語ではあるが。

ところで,上智大の解答速報から代ゼミが撤退してしまった。これにより大手予備校で上智大を出しているのは東進だけ,中堅予備校を含めても増田塾が増えるだけになってしまった。毎年書いているが,東進は解答に非常にミスが多いため,とてもじゃないが「解答速報」として参照できるレベルではなく(今年も1日程につき2,3問ずつ間違えている),また会員限定である。一方,増田塾は正確だが,解答が出るのが入試日から5日後とすでに「速報」ではない。すでに解答速報は大学入試において一種のインフラと化しており,受験生が確認するのみならず,提携先のマスコミにとっても貴重な情報源であるし(河合塾=日経・駿台=毎日・代ゼミ=読売),各大学は予備校の速報を見て出題ミスを確認している(採点基準の参考にしているという話も聞いたことがある)。経営上の判断ゆえに仕方がないが,上智大へのインフラが細ってしまったのは,やや残念である。


以下,上智大と慶應大。

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2016年01月16日

海外への聖地巡礼は増やしていきたい

なぜラノベ原作ヒロインは3分以内に脱ぐのか(本しゃぶり)
→ これ,法則自体をよく発見したなぁと。この間読んだぶっ飛んだラノベ『ざるそば(かわいい)』 でさえも“油を注がれていて(石鹸を塗られていて)”笑ってしまった。テンプレの魔力である。もっとも,『ざるそば(かわいい)』は石鹸枠のテンプレからは大きく外れているので,石鹸枠でなくとも塗油は起きる,ということかもしれない。
→ 正直に言って石鹸枠は私の趣味ではないので,現象面以外には全く興味がわかないのだけれど,ありそうな今後の展開としては「テンプレを突き詰めた作品が何作か出た後,どこかの転機で飽きられて,テンプレが少しずつずれていく」であるが,今期の『最弱無敗の神装機竜』が純度の高い石鹸らしいので,テンプレの純化が進んでいるのは確かなんだと思う。
ラッキースケベ発生時間ランキング(カトゆー家断絶)
→ カトゆーさんによる関連調査。実にカトゆーさんらしい熱の入った網羅的な調査である。貫禄の『ToLoveる』なのだが,ジャンプアニメとエロゲアニメもラノベに負けじ劣らずがんばっている(何かを)というのがわかる。
→ ところで本記事ははてブが1000usersを超えるなど非常に伸びた記事だが,このブログは他にもおもしろい記事が多いのでいくつか紹介しておきたい。

・ヒストリエからの古典9選(本しゃぶり)
→ 自分も『ヒストリエ』や『アド・アストラ』,『乙女戦争』関係の本読まなあかんなーと思いつつ読めていない。歴史漫画を読んでると,「これってどの程度史実に沿ってる/乖離しているんだ?」というのが気になって,書籍の方に手を出すと,もう読書スピードが落ちることこの上ない。「さすがに知っていることの方が多い」と思って読んでいる『へうげもの』でさえも,創作だと思っていたら史実だったエピソードがいくつかあり。『チェーザレ』に至っては,単行本の巻末に史実を検証する論文がついている状態であるから,最近の歴史漫画はなおのこと罪深い。

・ラブライブ!の洗礼(本しゃぶり)
→ ラブライブとテルマエ・ロマエをまとめて扱って,これどこで落とすんだよと思って読み進めていたらμ's=Museのつながりで落とすとは想定外だったw。こっそり書かれている注釈9のこじつけっぷりもなかなかすごい。

・ヒストリエからトルコへのアナバシス(本しゃぶり)
→ 一番おもしろかった記事ということこれ。ものすごく長い旅行記だが,読む価値がある。私も割りと聖地巡礼ガチ勢であるが(なにせ『ホワルバ2』のためにストラスブールまで行ったのだから),『ヒストリエ』の1話冒頭再現のためにトルコまで行くのにはちょっと勝てない。写真の通り,カルディアなんて今は何もないし。何より,カッパドキアはともかくパフラゴニアまで行ったのがすごい。


・UQ HOLDER! Stage.97 忍がやって来たシーンは「ラブひな」1話のオマージュだ(大炎上)
→ 雑誌で読んでて「ここに来て『ラブひな』回帰か」と驚いた覚えが。ご存じの方はご存じの通り,『ラブひな』自体のテーマの一つに「時の止まった竜宮城と永遠回帰」があって,最終話が「ひなた荘に少女が訪れる」という1話への回帰となっている。一方『U.Q.HOLDER』は「(ある意味)時が止まった不死者たち」の話題であり,その不死者たちの集まる桃源郷たる仙境館に,普通の少女が訪れるというのは,見事なセルフオマージュと言わざるをえない。全く違ったテーマだった両作品が,ここに来て大きく接近したような,それでいて時の止まっているものが「場所」か「人間」かという大きな差異にも踏み込んでいて,印象的な話であった。
→ そういえば,山形県の銀山温泉はまだ行ってないなぁ。というか宮城県以北の東北に足を踏み入れていないので,聖地巡礼を兼ねて一度は行きたい。  
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2015年12月15日

「皇帝教皇主義」という用語について

皇帝教皇主義とは,西欧側から見えたビザンツ帝国の宗教政策(理念)のことである。西欧では皇帝(帝権)と教皇(教権)が並立し,名目上はそれぞれが世俗・教会を統括する分離した存在であると見なされていたが,実際には800年のカール戴冠や962年のオットー戴冠がローマ教皇主導で行われたこと,コンスタンティヌスの寄進状,聖職叙任権闘争の影響などから,教皇の承認がなければ皇帝が成り立たず,教皇が世俗の統治にしばしば介入する構造に移っていく。これに対し,ビザンツ帝国では皇帝がコンスタンティノープル総主教を完全に支配し,世俗・教会の両権において最高権力者であった,というように当時の西欧人からは見えた。その専制性の高さを,半ば侮蔑を込めて「皇帝教皇主義」と呼んだのがこの用語の意味合いである。

さて,近年この用語は批判が多い。理由としては主に以下の3つが挙げられる。
・コンスタンティノープル総主教は「教皇(Papa)」ではないから,内容は捨て置くとしても名称が誤解を生む。
・西欧からの一方的な見方であって,世界史的な見地に立った用語ではない。
・皇帝が教権において,総主教を完全に優越していたわけではないから,概念として不正確であるので,使うべきではない。

最大の論点は3つめであろうから,やや詳細に説明をつける。まず,帝権について。ユスティニアヌス帝の命で編纂された『ローマ法大全』により,皇帝は世俗の統治権について,神にのみ直接責任を持つと規定された。コンスタンティノープル総主教は皇帝戴冠の儀式を行うものの,世俗の統治権には権限がない。あくまで国家儀礼として皇帝に冠を授ける立場であって,任免権は認められていないのである。ローマ教皇のように戴冠式を拒否して皇帝を即位させないというような行動はとれなかった。ただし,幼帝が即位した際に総主教が摂政を務めたり,民衆の生活への影響力を通して反抗するといったことはあったようだ。

このように皇帝は神にのみ責任を負うため,実質的な歯止めが不在の専制を行うことができた。では神から皇帝失格と見なされた場合,それがいかにして現実世界で発現するかという点で,ビザンツ帝国は意外にも儒教に近い考え方をした。すなわち,暗殺・放伐されたら「天命」を失ったと見なすのである。このユーラシアの西側ではいささか奇妙に見える皇帝観が,ビザンツ帝国の内乱癖を生んだ一方で,暗愚な皇帝を排除する実力社会となった。特にマケドニア朝までの皇帝は,キリスト教徒であれば,出身身分や民族を一切問われなかった。臣下・市民たちもあまりにあっさり新皇帝に乗り換えるので,中世の西欧人からは利己主義的・狡猾に映り,ビザンツ帝国のイメージの悪化に一役買ったようだ。ただし,11世紀後半のコムネノス朝以後のビザンツ帝国は身分の固定化が進み,政治も貴族連合体に変化していったため,こうした専制は実態として緩んでいく。

一方,皇帝と教権の関係についてはどうかというと,ギリシア正教会における皇帝の地位はナンバー2であり,総主教に次ぐ地位であった。英国国教会の英国王のような,名目上のナンバー1ですらないのである。そして,皇帝は教会内の人事や教義論争について絶対的な決定権を有していたわけでもない。その辺りはやはりコンスタンティノープル総主教が優越していたようだ。さらに言えば,聖職者としては認められておらず,単独で奉神礼(カトリック用語ではミサに代表される「典礼」)を行うことさえ許されていなかった。よって,少なくとも皇帝が名実ともに教権の首位であったというのは誤りになる。ただし,これを越境しようとした皇帝はいて,その代表例がよりによってレオン3世の聖像禁止令だから(ギリシア正教会内部で教義上の論争があったにもかかわらず政治的見地から介入した事例),高校世界史的には厄介であったりする。その他,自分の都合の良いように総主教を罷免した皇帝は何人かいる。

つまり,帝権と教権は完全に分離しているわけではないが融合しているわけでもなく,皇帝と総主教はどちらかというと皇帝が優越しているものの単純に上というわけでもない,とても複雑な構造,というのがビザンツ帝国における国家と宗教の関係である。山川の『世界史小辞典』には「国家と教会は併存する統一体」と当時は考えられていたから,皇帝教皇主義は誤り,とある。というか,今回いろいろと読んだが,何を読んでも端的に言って「容易に理解できるような単純な構造になっていない」というニュアンスをひしひしと感じる説明になっていて,ビザンツ帝国の政教関係の奥は深い。

さて,このような誤解の生じた要因は,帝権において専制であったこと自体ではないだろうか。神聖ローマ皇帝は,領邦に分裂していく帝国をまともに統治することさえ出来ていなかったのであり,加えて教皇にしばしば口を挟まれた。これに比較して,制度的に専制が確立されており,統治において総主教に口を挟ませなかったビザンツ皇帝は,西欧からの視点であれば,確かに教権さえ支配しているように見えなくもない。また,皇帝が「神の代理人」を名乗っていたことも,ローマ教皇とだぶったのではないか。とはいえ,現代の視点から見れば皇帝教皇主義は確かに概念として不正確であり,使用を避けるべきであろう。

では,これについて現行の世界史教科書はどうなっているかを例によって調査した。以下,全て2015年版。
【皇帝教皇主義】
・山川『詳説世界史B』:用語は無いが,「皇帝は地上におけるキリストの代理人としてギリシア正教を支配」と記述。
・東京書籍『世界史B』:完全に古い学説のまま,「皇帝教皇主義」は太字。
・実教『世界史B』:これに関連する記載が一切無い。
・帝国書院『新詳世界史B』:山川の『詳説』と同じ。用語はないが,本文にて「皇帝は神の代理人としてコンスタンティノープル教会(ギリシア正教会)の総主教を管轄下においた」という記述。
・山川『新世界史』:はしょってはいるが,最も正確な説明。この部分を書いたのは千葉敏之氏か。
・山川『高校世界史B』:同社の『詳説』とほぼ同じ。用語こそないものの,「皇帝は政治と宗教の両面における最高権力者」と記述。
・東京書籍『新選世界史B』:これに関連する記載が一切無い。
なお,山川の用語集上は2013年まで存在,2014年新課程から消滅。つまり,ごく最近まで残っていた。
→ マジャール人のアジア系に比べると,古い学説のまま残っている教科書が多い。特に東京書籍は猛省が必要であり,また,こうした学説の変化に最も敏感である帝国書院が山川と同じ保守的な記述という点も気にかかった。一方,『新世界史』の記述は他と隔絶して優れており,「新」の名に恥じない。

以下は私見であるが,そういう複雑な概念であるなら無理に説明する必要はなく,淡々と用語と説明を削除すればよいと思う。その意味で実教出版の態度が高校教科書的な正解ではないか,と結論づけておく。

ちなみに,ついでに調べてみたところ,論述問題としての出題は2004年の京大で使えるかどうかを最後にほぼ全く使われていないと言ってよく,自分の実感としても2005年頃から私大の入試でも見たことが全くない。特に2009年以降であれば,見つけていたら拙著に収録していたであろうから,ほぼほぼ消滅しかけていると言っていいだろう。意外にも「高校世界史」よりも「受験世界史」で先に消滅したらしい。もっとも,入試問題に出ていないのは根本的にビザンツ帝国史の研究者が少なくて,誰も入試問題を作れないから,という事情かもしれないのが悲しいところではあるが。
  
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2015年12月06日

高校世界史上のフン人やマジャール人の扱いについて

・「ハンガリーHungary」と「フン族」の関係(Togetter)
・謎の用語「アジア系」「アフリカ系」(nix in desertis)

この辺の話。気になったので,フン人・アヴァール人・マジャール人・ブルガール人について,現行の教科書(全7冊)がどう表記しているのか,調べてみた。教科書の年度は全て最新版のB課程。上から5冊がいわゆる“受験用”,下の2冊が非受験用の教科書である(山川の『新世界史』は分類が難しいが)。なお,参考書のうち『用語集』および『詳説世界史研究』も調べたが,全て『詳説世界史B』と全て同じ表記であったので省略する。

【フン人】
特徴:4〜5世紀頃にヨーロッパに襲来。民族(言語)系統についてはよくわかっておらず,トルコ(テュルク)系あるいはモンゴル系とされている。北匈奴が移動したもの説があるが,確定していない。というよりも匈奴自体がトルコ系説とモンゴル系説がある。一時大帝国を建設したが,アッティラ大王が死ぬと瓦解・離散した。残党はゲルマン人やアヴァール人に同化して消滅したと考えられている。上掲のTogetterにある通り,「ハンガリー」の国名や,現在のハンガリーの主要民族であるマジャール人とは一切連続性がない。

こうした経緯から,教科書的な民族系統の表記はどうしても曖昧なものにならざるをえない。結果として,各教科書の表記もこうなる。
・山川『詳説世界史B』:アジア系
・東京書籍『世界史B』:モンゴル系
・実教『世界史B』:アジア系
・帝国書院『新詳世界史B』:アジア系
・山川『新世界史B』:系統の記載無し
・山川『高校世界史B』:アジア系
・東京書籍『新選世界史B』:アジア系
→ 「アジア系」が多数派。東京書籍『世界史B』は「モンゴル系」と断定しているが,大丈夫なのか。なお,山川用語集はアジア系ではなく「モンゴル,トルコ系を起源とする人々」で,詳しいようで不明瞭な記述。


【アヴァール人】
特徴:フン人の後にやってきた集団で,6〜8世紀のパンノニア平原を支配した。これまた突厥に敗れた柔然の西進説があるが,フン人=匈奴説以上に眉唾である。8世紀末にフランク王国のカール大帝に討伐されて衰退し,後からやってきたマジャール人に同化されて消滅した。民族(言語)系統はモンゴル系説が強いが,トルコ系説もある。

・山川『詳説世界史B』:アルタイ語系
・東京書籍『世界史B』:モンゴル系
・実教『世界史B』:モンゴル系
・帝国書院『新詳世界史B』:系統の記載無し
・山川『新世界史B』:系統の記載無し
・山川『高校世界史B』:存在自体が記載無し
・東京書籍『新選世界史B』:存在自体が記載無し
→ 非受験用の2冊は存在自体が記載されていない。受験用のものでも系統までは載せていないものが2冊ある。実際,他の3つに比べると世界史的重要度は低かろう。


【マジャール人】
特徴:現在のハンガリーの主要民族で,9〜10世紀にパンノニアに移動・定住した。フン人・アヴァール人と異なって,ウラル山脈を原住地としており(ヴォルガ川中下流域と推定される),厳密に言って「アジア系」ではないのだが,高校世界史の教育現場ではついつい「アジア系」と言ってしまいがちである。民族(言語)系統はウラル語系(より細かい分類ではフィン・ウゴル語系のウゴル語派)。今回の調査の最大の焦点だが,結果は以下の通り。

・山川『詳説世界史B』:ウラル語系
・東京書籍『世界史B』:非スラヴ系
・実教出版『世界史B』:アジア系
・帝国書院『新詳世界史B』:ウラル系
・山川『新世界史B』:系統の記載無し
・山川『高校世界史B』:アジア系
・東京書籍『新選世界史B』:アジア系

→ 受験に使う物では,実教出版が事実に反したことを書いていることが発覚。ついでに山川『詳説世界史B』は手元に古い教科書もあるのでさかのぼって調べてみたが,意外なことに,山川はかなり古くから「ウラル語系」である。山川『詳説世界史B』はアヴァール人をアルタイ語系としているので,それにあわせてマジャール人はウラル語系としているのかも。一方,受験に使わない2冊はともに「アジア系」。


【ブルガール人】
特徴:現在のブルガリア人の祖先。トルコ系遊牧民で,故地はマジャール人と同じくウラル山麓,ヴォルガ川の中上流域とみられている。つまり,彼らもアジア系ではない。7世紀頃に現在のブルガリアへ移住後,9世紀頃からスラヴ人に同化し,言語もスラヴ系に変わった。

・山川『詳説世界史B』:トルコ系
・東京書籍『世界史B』:非スラヴ系
・実教出版『世界史B』:トルコ系
・帝国書院『新詳世界史B』:トルコ系
・山川『新世界史B』:存在自体が記載無し
・山川『高校世界史B』:アジア系
・東京書籍『新選世界史B』:アジア系

→ 東京書籍はマジャール人とあわせて非スラヴ系としているのがやや特徴的。こちらは,受験用としてアジア系と書いている教科書がなかった。しかし,『新世界史』はブルガール人はおろかブルガリア帝国の記載自体が一切無いのだが,世界史Bの教科書として許されるのだろうか……? 一方,こちらも非受験用の2冊がいずれも「アジア系」。また,現行の山川用語集はトルコ系だが,一つ前の課程(2013年)までの用語集は「アジア系」の表記であった。最近になって直したようである。


【私的な感想】
受験用の教科書は思っていた以上に気をつけてアジア系を排していた,というのが正直な感想である。一方,非受験用の教科書が大雑把にも「アジア系」と記載しており,出版部数も多いことから戦犯はこいつらという疑惑が。

なお,受験に使用しないという点では世界史Aの教科書が気になる人もいようと思うが,世界史Aの教科書はどの教科書にも4民族とも,存在自体の記載ほぼ全く無いので民族系統の調査をする必要がない。というよりも,滅んでしまったフン人やアヴァール人,同化されたブルガール人はよいとしても,マジャール人の存在が記載されていないものを世界史として認めてよいものかどうか。

以上を踏まえて,受験用の教科書に従うならマジャール人とブルガール人をアジア系と呼ぶ根拠がないことから,やはり「受験世界史」の現場では極力アジア系と呼称するべきではない。一方,「高校世界史」は現場が議論する前にまず教科書が訂正されるべきでは,と結論づけておく。
  
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2015年07月11日

モスクワ大公国とロシア帝国をめぐる冒険

ロシア帝国の前身としてモスクワ大公国という国があるが,ではその切り替わりのタイミングはいつか。これが面倒なのは,「モスクワ」から「ロシア」,「大公」から「皇帝」という2つの変化を経ているからである。

実際のところ,一番賢い手段はもう一つ歴史用語を作ってしまって三段階にするというものだ。Wikipediaのロシア・ツァーリ国(Tsardom of Russia)はこれに則っている。ただし,ロシア・ツァーリ国という表記は一般的ではない。山川の各国史など,一般向けのロシア史の概説書では「ロシア国家」ないし単に「ロシア」という表記が最も多いと思われる。いずれにせよ,「帝国」ではないが「ロシア」であるという段階を挟むか,または「ロシア」から「ロシア帝国」への変化(1721年)はさしたる重要な変化ではないとして無視することで,この問題を解決している。

さて,少し気になって調べてみたところ,高校世界史においても,おおよそこの手法がとられているのだが,そこには微細な違いがあってちょっとおもしろかったので簡潔に紹介したい。なお,全て2014年版の世界史Bで,全7冊ある。


A.イヴァン3世の治世で「ロシア」と見なす(1480年)・1721年には言及なし
イヴァン3世の事績により,すでにモスクワからロシアになったとする考え。ポイントとしてはタタールのくびきからの解放(これが1480年),ヨーロッパ=ロシア北東部の統一,ツァーリの称号の使用開始,ロシア正教会の成立(「第三のローマ」理論の確立)。これを取っているのは独創的なことに定評のある山川の『新世界史B』のみで,さすがに独創的過ぎたのではないかと。以下,引用。
・山川出版社『新世界史B』「ロシアでは,モスクワ大公国のイヴァン3世がノヴゴロドなどの東北ロシア諸国を併合し,200年以上に及ぶキプチャク=ハン国の支配からも脱して,ロシア国家の統一を果たした。」(pp.158-159)
「ロシアは15世紀にタタール(モンゴル人)の支配を脱して独立を回復し」(p.234)とあり,以後は特に注記なくロシアの表記。


B.イヴァン4世の治世で「ロシア」と見なす(1547年)・1721年には言及なし
高校教科書としては最多。1547年は内向きな称号に過ぎなかったツァーリが初めて公的に使用された年で,イヴァン4世はこの年に「全ロシアの君主」としての戴冠式まで行っている。他に全ヨーロッパ=ロシアの統一も,初のシベリア遠征が実施されて植民地帝国ロシアとしての出発点となったのも,イヴァン4世の治世となる。この辺りのもろもろを考えると,やはり1547年が一番しっくり来る。以下,それぞれ教科書から引用。
・山川出版社『高校世界史B』「15世紀になると水陸の交易路をおさえたモスクワ大公国が発展し,大公イヴァン3世のときに東北ロシアを統一,(中略)モスクワはギリシア正教圏の中心の地位を確立し,その孫イヴァン4世によるロシア帝国発展の基礎が作られた。」(p.86)
「ロシアでは,16世紀にイヴァン4世(雷帝)が貴族をおさえて専制政治の基礎をかため」(p.141)
→ 非受験用の教科書2冊のうちの1冊。おおよそイヴァン4世の治世からロシアと定義。
・東京書籍『世界史B』「ヴォルガ川支流の水陸交通の要衝にあって発展したモスクワ大公国が,15世紀後半にイヴァン3世のもとで独立を達成した。(中略)イヴァン4世(雷帝)は農奴制を強化しつつ,諸侯勢力をおさえてツァーリ体制を確立し,ロシア帝国発展の基礎を固めた。」(p.135)
「ロシアでは,16世紀にモスクワ大公国のイヴァン4世(雷帝)が,大貴族をおさえて中央集権化をすすめ,農民の移動を禁じて農奴制を強化した。ギリシア正教会の擁護者となったイヴァン4世は全ロシアの君主として正式にツァーリの称号を用いた。また,彼はヴォルガ川沿いのカザン=ハン国などを征服し,さらにコサックの隊長イェルマークの協力を得てシベリアにも領土を広げた。こうして成立したロシア帝国では(後略)」(pp.245-246)
→ さすがに説明が詳細。しかも,正式にツァーリの称号を用いたこと,それが全ロシアの君主を意味したこと,帝国には植民地帝国という意味合いも含まれること,全てのポイントを押さえている。
山川出版社『詳説世界史B』「15世紀になると商業都市モスクワを中心としたモスクワ大公国が急速に勢力をのばし,大公イヴァン3世のときに東北ロシアを統一,1480年にはようやくモンゴル支配から脱した。彼は諸侯の力をおさえて強大な権力をにぎり,ビザンツ最後の皇帝の姪ソフィアと結婚してローマ帝国の後継者をもって自任し,はじめてツァーリ(皇帝)の称号をもちいた。また彼は農奴を土地にしばりつけて農奴制を強化し,その孫イヴァン4世による中央集権化に道を開いた。」(pp.135-136)
「ロシアでは,16世紀にイヴァン4世(雷帝)が貴族をおさえて専制政治の基礎を固めた。」(p.222)
→ 「ザ・世界史の教科書」は実は断定的な表現を避けている。そこで挿絵の地図を見ると,p.202の1500年頃の地図では「モスクワ大公国」,一方でp.216の16世紀半ばの地図では「ロシア帝国」となっていることから,1547年説をとっていると判断していいだろう。しかし,不親切といえば不親切である。


C.1480年か1547年か判然としない&それ以前の問題・1721年には言及なし
・東京書籍『新選世界史B』「モスクワ大公国はモンゴル勢力と結んで勢力を広げ,15世紀にはロシアをほぼ統一した。15世紀末,イヴァン3世はモンゴルの支配から自立し,滅亡したビザンツ帝国の皇帝のあとつぎを自称し,ツァーリ(皇帝)と名のった。16世紀になると,ロシアは東ヨーロッパの強国に成長した。」(p.86)
→ これは非常に問題のある表記で,まずモスクワ大公国が全ヨーロッパ=ロシアを統一したのはイヴァン4世の治世なので「15世紀」ではないし,モンゴル支配からの自立後なので時系列的にも間違っている。さらに,特に注記なく呼称がモスクワからロシアに変わっており,簡素すぎてかえって読者が混乱するだろう。そもそもイヴァン4世の名前が本文に一切出てこない。おそらくイヴァン4世の治世でモスクワからロシアに変わったと言いたい文章なのだと思うが,明確ではないので判断を保留しておく。なお,『新選世界史B』は非受験組のための教科書であり,確かに細かい説明は不要であろう。しかし,平易な説明と大雑把な説明は別物で,この記述は単なる大雑把では。
・帝国書院『世界史B』「15世紀後半,モスクワ大公イヴァン3世はビザンツ最後の皇帝の姪と結婚し,ビザンツ帝国の後継者として皇帝(ツァーリ)を自称し,1480年にはキプチャク=ハン国の支配から独立した。これ以後,モスクワは「第3のローマ」と称されギリシア正教圏の中心となり,のちのロシア帝国の基礎が築かれた。」(p.107)
「モスクワ大公イヴァン3世が統一に成功したロシアでは,彼の孫イヴァン4世(雷帝)が正式にツァーリを称した。」(p.162)
→ これもわかりづらい。また,イヴァン3世が全ロシアを統一したということになっているという問題点も同様に抱えている。受験用の教科書としてはまずいのでは。なお,手がかりになればと思って参照した帝国書院の資料集(『タペストリー』)では,16世紀後半の地図に「モスクワ大公国」と書いてあった。謎は深まるばかりである。


D.1547年と1721年の両方で区切る
一番厳密なパターン。1547年でモスクワからロシアになるが,これはまだ帝国ではなく,1721年で「ロシア帝国」が成立すると見なす。ここまで6つの教科書では「ロシア」から「ロシア帝国」への変化を記述したものがなかったが,実教出版だけが唯一記載し,厳密に分けていた。
・実教出版『世界史B』「モスクワ公国は,1380年にキプチャク=ハン国を破ったのち,イヴァン3世のときに,ノヴゴロドなどの諸公国を併合してロシアを統一し,モスクワ大公国と称されるにいたった。イヴァン3世はビザンツとのむすびつきを強め,ローマ皇帝の後継者を任じてツァーリ(皇帝,カエサルが語源)の称号を用いた。このことから,モスクワ大公国は古代ローマ・ビザンツにつぐ「第三のローマ」を自任することになった。」(pp.138-139)
「ロシアでは,16世紀からモスクワ大公国のイヴァン4世(雷帝)が君主権の強化につとめ,絶対的な権力を持つ専制君主としてツァーリの称号を正式に用いた。(中略)(編註:北方戦争の)戦勝後,ピョートル1世はロシア帝国の成立を宣言し,バルト海にのぞむ地に建設されたペテルブルクを首都とした。」(pp.210-211)
→ これもイヴァン3世のときに全ロシアを統一したことになっている。また,厳密な話をすると,サンクトペテルブルクへの遷都は北方戦争中の1712年だから,ロシア帝国の成立と並べるのはまずいのでは。


総評としては,やはり1547年をもってモスクワ大公国からロシアに変化した,1721年にピョートル1世がインペラトルを称して帝国の成立を宣言したことは高校世界史では重要視されていない,ということになろうか。確かにそれはピョートル1世の西欧化の総仕上げといえる象徴的な出来事ではあるが,世界史の尺度で見ると相対的な重要性は低かろう。重要な契機は押さえつつ,可能な限り簡略化するという高校世界史としては妥当なところでは。  
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2015年06月09日

歴史コミュニケーション研究会(5/31)報告

歴史コミュニケーション研究会の第21回に,光栄にも招待されて話なんぞをしてきたので,簡潔に。簡潔になってしまうのは,自分が報告してきた内容についてはあまり書く気がなく(本の内容と同じ内容を書いても意味が無い),一方で議論の内容を書こうとしたら議論自体に集中していて手元にあまりメモがなく(間が一週間も空いたのはこれをどう埋めようか考えていたため),そもそもオフレコであまり表に出せる内容ではないものも多いため。以上三点はご了承願いたい。基本的に,配布したレジュメに沿いつつ,それに関連して出た議論などを足していく感じで。



 ゝ掴世料按
・入試問題をその質で分類すると,「良問」「悪問」と,大多数の「良くも悪くもない問題」に大別される。
・明確な「悪問」は定義しやすく,意見も一致しやすい。一例として,拙著による分類(参考)

・一方,「良問」の定義は人によりかなり異なるのではないか? 良問 = 「難問」にならない程度の知識を応用させつつ,歴史的な「思考力」を問うもの,という定義自体は衆目一致しているが,「思考力」の中身がまるで違う。
→ 史料・資料を読解する能力? 
→ 時系列や論理性に沿って知識を整理する能力? 
→ 条件に応じてテーマを論じる能力? 
→ 推論を立てる能力?
まずはこれを整理しないと,議論が成立しないのではないか? これまでの議論は各々が勝手に定義する「良問」がかみ合わないまま,議論が進められてきて,混乱したのでは?
→ これが大問題なのは,現行の学習指導要領には「歴史的思考力」という用語が掲げられており,かつふわっとした感じの意味で使われているから。ここら辺(pdf)から「歴史的思考力」で検索してくれれば世界史Bの部分に行き当たると思うが,引用するに
「世界の歴史の大きな枠組みと流れを,我が国の歴史と関連付けながら理解させ,文化の多様性と現代世界の特質を広い視野から考察させることによって,歴史的思考力を培い,国際社会に主体的に生きる日本人としての自覚と資質を養う。」
解説編(pdf)も一応掲載しておく。
【追記】実はこれに関連して「思考力」が掲げられている「新テスト」の話題も出たのだが,オフレコにしないとまずい話が多すぎたので,泣く泣くカットさせていただく。

・私的な意見として,実は「どの定義」でもあまり問題は無く,その意味で学習指導要領の用法にはあまり異論がない。いきなりひっくり返すようだが,ある程度はバズワードのままでいい。何かしらの「暗記した知識をそのまま使う」以外の要素があれば,それは思考力を要していて,良問であろうと思う。つまり,良問の範囲を可能な限り広く取る立場。その意味で,良問の定義に関する議論はあまり意味が無いと考えている。むしろ,この議論にこだわり,「貴方の考えている歴史的思考力は“本質的”ではない」という否定的な見解による殴り合いが,議論を大きく妨げているのではないか。

・また,マーク式や短答記述式の問題と,論述問題は分けて考える必要がある。実は後者の方が意見が割れやすい。
→ 「マーク式や短答記述式の問題」で,いずれの定義であるにせよ「良問」を作るのはかなり厳しい。特に難易度が高くなると,悪くなりやすい。
= センター試験は良問が多いとされるが,あれには二つの大きな理由がある。
1.「偏差値50の人が,60点になるように」という明確な目標をもって作られている&作成期間が丸一年あるからこその問題。早慶上智受験者層の水準で“ちゃんと選別できる”問題を作るのは,けっこう難しい(単なる難問は作るの簡単)。
2.実際のところのセンター試験は「良くも悪くもない問題」がちゃんと大多数を占めている = ほとんどの私大の入試と比べると相対的には間違いなく良い。ただし,努力があるのも確か。時系列を意識させたり,地図問題や,画像の問題を出したり。その努力の具体例は後述。
→ 私が常々難関私大の入試問題制作者に対して言っている言葉が,「良問を増やせ」ではなく「悪問を減らせ」なのはこういう理由。論述問題を増やせない事情や,マーク式で良問を作る困難さは私もわかっているので,せめて「良くも悪くもない」問題を増やしてほしい。

・論述問題の場合は良問を作りやすく,受験生の差も出やすい。論述問題である時点で,否応なく「条件や時系列に沿って知識を整理する」ことを要求される=思考力を要するから。知ってる知識をそのまま吐き出すのと,まがいなりにも文章を組み立てるのは,使ってる脳みそが違う。これは案外と意識されていないところで,文章に書き慣れている人ほど,このギャップに意識がいかないと思う。私自身,研究会が終わった後,友人と反省会をしていて,ようやく気がついた。しかし,このギャップがあるからこそ,という話。
ここから言えることは2つ。
1.逆説的に,論述問題を解くのは非常に面倒な作業であり,今の受験生は論述問題を避ける傾向がある。論述問題を課すと,如実に受験生がその入試日程を敬遠する。拙著にも書いたが,論述問題が避けられるのは,少ない労力で大量の受験生を捌きたい大学側と受験生の共犯。
→ 半ば余談ですが,論述問題はすでに準絶滅危惧種の段階くらいにはなっているような。特に300字超の論述を課す大学となると本当に絶滅危惧種。……さらに言えば,国公立二次試験の社会科自体がどんどん死滅傾向で……
2.つまり,論述は変にひねらない方が適切な良問になりやすい。しかし,それでは難易度が高くはならないので,旧帝大クラスになると,やはりひねる必要が出てくる。ひねり方によって大学の特色が出る。一橋大や名大はひねり方がおかしいので,悪問になりやすい。高度な段階での高大接続を議論するなら,この「ひねり方」に関する議論は避けて通れない。

・研究会の議論の目的:マーク式・論述式別・難易度別に,私の考える良問や悪問の具体例を提示し,材料とする。現場と大学教員とのギャップを埋めることに貢献したい。ついでに,最難関の論述問題を高校生に教える側がどのように見ているかかも提示することで,高度な段階での高大接続の議論にも寄与したい。


◆.沺璽式:良問・悪問の事例集
1.センター試験2014年 第2問 
問9 下線部Г亡慙△靴董ぜ,稜表に示したa〜dのうち,アメリカ合衆国で女性参政権が認められた時期として正しいものを,下の 銑い里Δ舛ら一つ選べ。

 a 
1917年 アメリカが,第一次世界大戦に参戦した
 b 
1933年 ニューディール政策が始まった
 c 
1948年 国連が,世界人権宣言を採択した
 d 

   a  ◆b   c  ぁd

[コメント]
1920年の出来事だから,bが正解。と普通に解答してもよいのだが,大多数の受験生は年号までしっかりと覚えてはいない。しかし,解答はちゃんと論理的に出せる。多くの先進国は第一次世界大戦の銃後の活躍を契機として女性参政権を達成するので,それさえ知っていればbに絞れる。作題者の立場から言えば,年号を思い出して放り込むのではなく,時系列的なつながりを想起して解答してほしい問題。

無論,それでも上位層は年号をしっかり覚えていて,論理性もくそもなく見た瞬間で解答して次の問題に行く。逆に言って,「こんな常識的な問題に思考力も何もないだろう」と思われるかもしれないが,正答率は約53%(大学入試センター公表の数値)。誤答した人は,ニューディール政策や世界人権宣言に惑わされたと思われ,女性参政権の背景知識の有無で見事に選別できている。良問と言っていいだろう。


2.〜5.悪問の事例集。拙著からの抜粋なのでここでは省略。センター試験の出題ミスにも触れ,「大学入試センターはミスを認めて謝ったが,こういう日本語の危うい入試問題は非常に多い」という話もした。


 論述式:良問・悪問の事例集
1.東大「テーマに沿った歴史の具体像の抽出,構想力」
膨大と言える世界史の全範囲から,細かく指定された条件に沿った事項(具体例)だけを抽出し,問題文で提示されたテーマに沿って再構成させる問題。現場では一例として2011年の第1問「7〜13世紀のイスラーム世界と周辺地域をめぐる文化的諸交流」を取り上げた。ここで解説すると長くなるので省略。どうしても気になる方はこの辺りを見てくれれば概ねわかると思う。一言付け加えるなら,指定語句という大きなヒントがついてるじゃないか,と誘いにのっていくと,半分しか点がない解答が完成するトラップ。指定語句以外の部分をどれだけ想起できるか,その事項が本当に問題文の提示した条件に沿っているかを精査できるか,が鍵。
→ 確実に良問ではあるのだけれども,言うまでもなく難問で,実際に受験生の答案はズタボロ。あくまで開示点数と受験生からの聴取による推定になるが,平均点は4割程度,最高点は7割程度とどの予備校でも推定しているはず。まあ確かに,この問題文で,「スワヒリ語」「クトゥブ=ミナール」『千夜一夜物語』を想起せよって言われてもねぇ,という受験生の怨嗟の声はわからんでもない。
→ これに対しての指摘として,「確かに教科書からはみ出た知識を必要とせず,理論上は高校生でも満点が取れるのかもしれないが,実際には極めて困難。とすると,受験生の側からするとはじめから70点満点な悪問と変わらんく見えるのでは。というものがあり,私的には大変に目から鱗だった。これは長年東大受験生に教えている立場から言って,一理ある。東大さんはもうちょっと難易度下げてくれませんかねぇ……

2.京大「複雑な事象の時系列的・論理的整理」
2013年の第3問を取り上げた。問題が短いのでさくっと引用。
「フランス革命以降,フランスとロシアはしばしば敵対関係におちいったが,第一次世界大戦では両国は連合国の主力として,ドイツを中核とする同盟国と戦うことになる。ウィーン会議から露仏同盟成立に至るまでのフランスとロシアの関係の変遷について,300字以内で説明せよ。」
シンキングタイムは長く取って30分。これが非常に複雑でヤバイというのは,普通に近代ヨーロッパ史を勉強した人なら一読してわかると思う。推察する力も史料読解力も必要なく,東大のような大それたテーマ設定もないが,これも十分な思考力の使わせ方ではなかろうか,と私は思う。変にひねらず,時系列・論理的つながりだけを問うという点では非常に王道的な論述問題。
→ ちなみに,こいつも受験生の手には余るようで,平均点は約4割程度と推察されている。その意味では,東大と同じツッコミを入れることは可能。

3.阪大「適切な資料の提示からの推論」
2015年の文字資料の問題を提示。問題を載せているところにリンクを張ろうと思ったが,簡単にはみつからないので断念。受験生の見知らぬ東南アジアの文字(ラーオ文字とかジャウィ文字と思しきもの)資料を提示して,たとえばジャウィ文字と思しきものには「1300年前後から特に島嶼部で用いられた」などのヒントを付した上で,元となった文字が伝来・普及した背景を説明させる問題。文字自体を全く特定できなくても,アラビア文字っぽい造形とヒント,覚えてきた教科書知識を総合すると「香辛料貿易」「スーフィズム」『クルアーン(コーラン)』というキーワードにたどりつき,解答が組み立てられる。推論が必要なくせに,超越難易度ではない点で,綺麗に練られている。

あと研究会の場では時間不足で取り上げられなかったが,これとはちょっと違った資料を読ませる問題として,東京外大の2014年の問題がある。これも非常に良い問題だと思うので,紹介だけしておく。大学の公式発表の解答例があるのも非常に良心的(掲載期間が約1年なので今は消えている)。


4.「推論はどこまで許されるか」
4−1.一橋大2015  
リンク先で詳細に解説しているのでここでは略。ここで取り上げたいのは,この論述問題に代表されるような,問題文が曖昧な問題批判に対する反論。これが興味深い。ネットでいくつか見たものを総合すると,
「問題条件が曖昧なのは,受験生の側に定義を示させることが目的なのでは。この問題であればEUやASEAN10も含むか否か自体が,受験生に委ねられているのでは。含むか否かさえかっちり決まればそう難問ではない。」
「発想を見ている問題なのだから,正解が一つである必要はない。」
これに対して再反論するなら,以下。
1.であれば「解答の範囲は自らで定義せよ」の一言をつける親切さがあってもよい。ないのは,ただの杜撰。
2.「正解が一つである必要がない」のはその通りで,現に上に挙げた東大2011や外大2014では複数の満点パターンが想定される。しかし,推測させる問題で複数正解が想定されるなら,「採点者の気まぐれ」や「採点者間の意識のズレ」で採点基準がぶれないことが絶対的な前提条件で,大学側が解答例や採点基準を一切示していない現状では認めることが難しい。たとえば,「受験生レベルの推測としては筋が通っているが,専門的な見識からすると絶対にありえない新説」が解答として現れた場合,高得点を与えるのか?

4−2.千葉大2014 
これもリンク先で詳述している通りなので,解説は略。これも,これに対する反論に再反論しておきたい。
「学説としての正解を求めたのではなく,受験生の発想を見る問題だったのではないか。であれば,定説として固まっていないものを出題してもいいのでは。」
1.発想をはかるにも,この問題では材料が足りなさすぎる。これでは「妄想力」を見ている,または小説を書く能力を見ているのと変わりがない。
2.仮に受験生の絶対に知り得ない分野から出題することで発想だけを見る問題を出すとしても,定説自体は固まっているものから出すべき。

この2問に対して,擁護でもないが,研究会で出た意見がこちら。
→ 史学科の生徒だけを拾うという発想で行くなら,『受験生レベルの推測としては筋が通っているが,専門的な見識からすると絶対にありえない新説』に高得点を与えて積極的に拾っていくべき。千葉大の問題は確かに学説に到達できない以上は入試問題として失格だが,方向性としては考えられる。歴史学の営為とはちゃんとした史料に基づいた三題噺の積み重ねであって,三題噺を作る能力だけを入試で見るという考え方も成り立ちうる。詰まるところ『文系全体に課す入試』としては適格でないという話なのでは。」
→ これは一理ある。ただ,その場合でも「自由に立論せよ」だとか「史実への近さを評価しているわけではない」という注意書きが一言問題文にあってもよいと思うが。また,研究会のその場で「それって小論文という科目の範疇であって,世界史ではないのでは」という再々々反論もあった。これもこれでその通り。
→ とはいえ,この提議は非常に示唆的で,この研究会で最も注目すべき意見である。実のところ「推論だけが歴史的思考力」と考えがちな人,そうでなくとも推論型の悪問を擁護しがちな人は,史学科の生徒しか見えていないのではないかと思う。また,それには「史学科的な推理力は,他学部学科に進む人でも持ち合わせているに越したことはないのでは」という意見もまたありうると思われる(個人的には反対だが)。この点は,今後より議論を深めていくべきポイントだろう。ちなみに,あの場では言いそびれたのだが,史学科限定問題を課す大学は存在したはず。多分すぐに調べがつくので,つき次第追記しときます。
【追記】調べた。京都府立大が現役で「史学科限定問題」を出題している。ただし,意外にも推論型ではなく,他の問題よりもちょっと難しい程度の普通の論述問題(たとえば2014年度はペレストロイカとソ連崩壊の経過の説明問題)。
→ また,この話では「問題文中で書くというよりも,アドミッションポリシーの段階で欲しい解答の方向性を明示させてしまうべきでは」という意見もあり,将来的には有効な方策だと思う。その前に,現状アドミッションポリシーはほとんど活用されておらず,おそらくほとんどの受験生が読み流した経験しかないと思うし,また現状そういう機能を持っていない。二重に,アドミッションポリシーとはそういうことを示すものだ,という常識に変えていく必要があろう。実現できれば世界史のみならず,数学や国語でも役立つだろう。

さて,実を言うと研究会に強硬な推論主義者がいて,この話題で激論になるかと思われたのだが,一人もいなかった。結果的にはそうでなくても貴重な意見はもらえたし,研究会が穏健に終わって良かった,と言うべきか。  
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2015年03月15日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2015 その3(国立大)&おまけ

その2から。ラスト。今年はやや短いので,おまけで予備校の解答速報の精度を比較してみた。おまけは書籍版が出ても掲載しない予定です。

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2015年03月13日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2015 その2(慶應大の続き・早稲田大)

その1から。先に言っておくと,今年はどこにも電話をかけていないし,論文の転用も見つからなかった(今のところ)。昨年ができすぎてたんや…… ※ 受験生にとっては良いことです

例年であれば,上智4日程+慶應5日程で,早稲田の9日程と同じくらいの分量か,それでも早稲田の方が多いくらいだった。今年は明らかに前者の方が多い。慶應が暴れてたのと,早稲田のいくつかの学部がおとなしかった影響かな。このまま早稲田が鎮静化するのを祈ります。

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2015年03月12日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2015 その1(上智大・慶應大の途中まで)

・序
昨年には本シリーズが出版されるという驚きの展開を迎えた。改めて読者の皆様にはお礼申し上げたい。今年の分も書き上がったので,お届けする。可能な範囲で今後も継続していく予定であるので,春の風物詩として,興味の続く限りお読みいただけると幸いである。


・収録の基準と分類
基準は昨年と全く同じであるので,リンクを張っておく。


総評
数こそ12番までいったが,例年と比較すると,今年の上智大はおとなしかったと言える。海岸線のない地図だとか,キリスト教系の知識ミスだとかいった上智特有の悪問は姿を消し,日本語が下手くそ系の悪問も少なかった。また,あの出題ミスをかたくなに認めてこなかった上智大が,今年は日本史で出題ミスを認める発表を行った(pdfファイルにつき注意)。驚くべき変革である。拙著の効果であるとはほとんど考えられないものの,上智大の内部で何かが起きているような気はしている。では改善されたかというとそうでもなく,上智大の慶應大学化が見られ,「教科書や用語集のどこかに載ってればいいんでしょ?」という開き直り的な問題が増加した。載っていないよりはマシではあるが,それで後述する新課程が乗り切れるのかは疑問である。

早稲田は例年通りか,それよりはおとなしかった印象。特に教育学部は収録ゼロ。毎年ひどい社学は今年も収録3つながら,収録されなかった問題を見るとかなり解きやすくなっており,全体としては適正化している。良い傾向。一方,例年は早稲田よりおとなしい慶應大が今年は経済学部以外の3つが満遍なくひどかった。経済学部は良問ぞろいで,一人気を吐いていた。

来年度からとうとう社会科も新課程へ移行する。これに伴い各社教科書・山川の用語集も大改訂が行われた。変更点をまとめると以下の2点。
・用語の説明が正確になり,最新の研究成果が大きく採用された。たとえば,ナポレオン3世に関する記述にサン=シモン主義の影響が記載され,評価が大きく向上した。その他にオゴタイ=ハン国の完全消滅,タイ人南下のモンゴル帝国起因説の消滅など。
・特に用語集の場合,収録された用語の数が20%減少した。約7000語から約5600語になった。それも難関私大が好む政治史の細かな用語が大幅にカットされた一方,社会経済史の用語は存置または微増している。これにより,たとえば今年のセンター試験すら新課程基準だと範囲外からの出題がある。(無論,今年度はまだ旧課程なのでそれ自体は全く悪くない。そのくらい用語が減少&重点が変わったということ。)
おそらく,難関私大は浪人生の存在を理由にして新課程の適用を一切無視するか,そもそも新課程への移行自体に(意図的ではなく怠惰により)気づかず,例年通りの出題をする,と予言しておく。後者由来の難問はともかく,前者由来の悪問や出題ミスが頻発しそうな。来年度の私の難問・悪問・出題ミス判定は新課程基準で行う予定である……数が膨大にならなければいいけど。

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2015年01月21日

もし曹操がいなかったら

・もし曹操がいなかったら・・・・・(歴史的速報@2ch)

これはけっこうおもしろいネタ。以下は考察というより雑念と妄想の垂れ流し。

確かに,予測のつきやすい範囲で最大のダメージを被ったのはおそらく漢詩だろう。曹操がおらんということは曹丕もおらず,曹植もおらんということで,古文が大成しない。下手したら韓愈の古文復興運動も遅れ,最終的に宋代の文化自体に影響を与えかねない。スレで指摘されている通り『孫子』も曹操の註がないまま伝わる。あとまあ無論のことながら『三国志演義』がなくなるので,合わせて文化史への影響は多大というレベルですらない。


政治史的にはどうじゃろか。曹操が董卓包囲網あたりで戦死したとして,表題の条件を満たしたとしよう。その後董卓は呂布に殺されて群雄割拠まで同じ。そこで曹操がいないので兗州が空白地帯になるが,中原の南側を統一する有力勢力は現れず,袁紹が献帝を保護して順当に冀州以北を統一。官渡の戦いで大敗することもないので,華北の小勢力を踏みつぶしていくことだろう。が,彼は史実でも202年に病没しており,官渡の大敗の心労を抜きにしても,全土統一まで寿命が持つかどうかは極めて怪しい。むしろ華北統一まで持つかどうかも怪しいが,とりあえずはなんとか205年に華北を統一し,直後に病没したと考える。

そうするとまあ袁家にお家騒動が起こるのは必然で(袁紹が突発的に決断力を持って後継者を確定させていたらそのまま袁家の王朝ができるだけだしね),

1.良くて5年ほどを無為に過ごし,
2.悪いと分裂して群雄割拠に逆戻り,
3.最悪の場合匈奴・鮮卑が侵入して100年早い八王の乱に。

1の場合は,孫家との全面戦争→史実に近い形の赤壁で大敗。ただでさえお家騒動を片付けた直後の袁家であるから,敗戦のショックに耐えられるとは思えず,淝水の戦い直後の華北同様に,群雄割拠再びとなる可能性が高いと思う。結局戦乱が長引きそう。劉備は出奔して史実通り荊州へ行くか,どさくさに紛れて徐州あたりで自立しているか。ただしいずれにせよ諸葛亮に会うタイミングもなく,小規模勢力のまま終わりそう。この場合有利になるのは孫家だ。言うまでもなく当時の呉の泣き所はマンパワーであるが,豫州や兗州あたりを獲得できれば情勢は大きく異なり,統一も見えてくる。華北の情勢によっては,史実より1100年ほど早い江南発の統一政権が誕生するかも。ただ,なんだかんだ言って華北も人材は豊富なので,曹操に代わる何者かが出てくるとまた話が変わってくる。そういう意味では,袁尚あたりが袁家の残党(田豊とか沮授とか)や,曹操がいなくて行きどころが無くなってるブレーン集団(荀とか程┐箸)を使いこなして粘ってくれると楽しい。

しかしまあ,そうして孫権の代なりその息子の代なりで呉が統一を達成したとして,その後は,北方民族との対決が待っていて,それに耐えられるかどうかは別問題。孫権耄碌後の呉を見ていると,結局八王の乱からの永嘉の乱というオチは待っていそう。で,呉は江南に撤退して,呉またはその後継王朝と,鮮卑系王朝で南北朝時代と。史実と全く変わらない。3の場合も同じだろう。東晋の帝室が司馬家ではなく孫家になってるだけのような。……どうあがいても五胡の侵入と南北朝時代の到来は避けられないのでは。やはり,政治史には大した影響が出ないのかもしれない。


してみると,曹操最大の業績は北方・西方の異民族を討伐して弱体化させたことと,黄巾の乱で崩壊した華北の内政再建にあって,結局どちらも魏〜西晋による時間の空費によって無駄になったものと言えるかもしれない。曹丕か曹叡ががんばって三国統一に成功していたら,曹操の業績ももっと歴史的意義の深いものになっていたのだが。そっち方向で考えてみて,魏が簒奪されずに安定した王朝になっていたとしたら,というifもこれはこれでおもしろそう。史実の匈奴や鮮卑も,漢民族側が傭兵として中国に招き入れたから,八王の乱に乗じてあっさり自立出来たわけで,3世紀を通じて強盛だったわけではない。そして乱が起きたからこそ,石勒などが台頭したわけだ。中国王朝と北方民族の関係は,魏が安定していたら大きく異なっていだろうし,ゆえにその後歴史は予測がつかないほど変わってくる。


似たようなifでおもしろそうなものとしては,f前秦の苻堅がとちらずに全土統一を達成していた場合。今度は約200年早い「隋」が誕生する。この場合,当然胡漢融合は早まるし,逆に六朝文化は史実よりも未熟になる。加えて,九品中正による豪族・名士の門閥貴族化が弱まるので,統一前秦は唐のような貴族社会にはなるまい。ここまで来ると,根本的に世界史全体が大きく書き換わる可能性がある。律令制度と蔭位の制というものも制定されない可能性が出てくるので,遣隋使ならぬ「遣秦使」が学んで帰ってくるものも変わり,日本史への影響も多大になる。
  
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2015年01月18日

2015年度センター試験地歴の「やらかし」について

まさかセンター試験で「悪問集」に入れなくてはならないようなミスが出るとは思ってもなかったが,出たものはしょうがない。しかし,マスコミの報道では説明が面倒くさいからかミスの内容が詳しく解説されておらず,各予備校でも所詮100点満点の3点分であるせいか,大きく取り上げられていない。そして受験生の間での噂話では情報が錯綜していて混乱しており,あまり良い状態とは言えない。そこで,本ブログで取り上げて問題点を整理しておく。取り急ぎの超音速で書いているので,この解説自体に誤植があったり,後から追記のあったりするかもしれないが,糾弾目的で書いている記事ではないので,ご容赦いただきたい。なお,直接の出題ミスが出たのは世界史Bのみだが,日本史Bでもやらかしているので,表題は「地歴」としておいた。これについても一応触れる。


1.センター試験世界史B〔本試〕
<種別>出題ミス(複数正解)

<問題>第4問 問8 下線部8(編註:貞享暦)について述べた次の文中の空欄〔 ア 〕と〔 イ 〕に入れる語の組合せとして正しいものを,下の1〜4のうちから一つ選べ。 (問題番号35)

貞享暦は,中国の〔 ア 〕の時代に,〔 イ 〕によって作られた授時暦を改訂して,日本の実情に合うようにしたものである。

1 ア―元  イ―顧炎武
2 ア―元  イ―郭守敬
3 ア―清  イ―顧炎武
4 ア―清  イ―郭守敬


<解答解説>
大学入試センターの公式発表によると,2と4の両方で正解になる。〔 イ 〕の方は,授時暦の制作者が郭守敬であるので問題ない。つまり,〔 ア 〕が問題になる。これは単純な日本語のミスだ。「中国の〔 ア 〕の時代に」がどこに係っているかで文の意味が変わってきてしまう。

・「中国の〔 ア 〕の時代に」が「〔 イ 〕によって作られた」に係ると考えると,〔 ア 〕には授時暦の制作年代が入るので「元」が正しく,問題の正解は2となる。
・「中国の〔 ア 〕の時代に」が「貞享暦は」や「改訂して」に係ると考えた場合,〔 ア 〕には貞享暦の制作年代が入る。これは17世紀後半にあたり,日本で言えば江戸時代だが,中国で言えば「清」の時代になる。この場合,問題の正解は4になる。

どちらも日本語としては十分に通じる。あえて言えば,私は後者の解釈の方が日本語として自然に感じるが,読者諸氏としてはいかがだろうか。ただし後者の解釈では,本来的には日本史用語であるところの貞享暦の制作年代を問う,という良問でならすセンター世界史らしからぬ作問となってしまう。ただし,多くの世界史の教科書にも貞享暦は登場するから,完全な範囲外ではない。よって,貞享暦の制作年代を問うこと自体が即不適切な出題になるというわけではない。

しかし,貞享暦の制作年代が問われたならば答えは「日本の江戸時代」であるべきであって,わざわざ中国の時代区分で解答させる意味はほとんど無い。しかも,実は問題文の下線部8のすぐ前に「江戸時代の日本で,囲碁の家元に生まれた安井算哲(渋川春海)が」と明示してあるので,この状況下で「清」を解答に求める出題をするのは,ますますもって奇妙だ。つまり,後者の解釈で取ろうとすると日本語としては自然でもセンター試験としてはやや不適切ということになってしまう。前者と後者,いずれの解釈でも問題が残るのである。

どうしてこんなことになってしまったかといえば,読点(カンマ)を余分に打ってしまったことが原因である。大学入試センターとしては前者の解釈のつもり,すなわち「元」が正しく正解は2としたかったようだ。であれば文の二つ目の読点,つまり「中国の〔 ア 〕の時代に“,”」のこの読点を削除すれば,前者の解釈でしか取れなくなる。こういう日本語のミスは作題者本人や厳重なクロスチェックでも気づかない時は誰も気づかないもので,事故に近い。特に「授時暦=元の郭守敬が作成」という構図がこびりついている人ほど,この種のミスには気づけないものだ。これを防ぐ手段としては,あえて世界史にあまり習熟していない人を使って事前に解かせるという手段がある(たとえば地理の作題者とか,英語の作題者とか)。本問自体,教育産業からの指摘ではなく受験生からの指摘で発覚したそうだが,納得する話で,意外とそういうもんである。おそらく大学入試センターは世界史のベテラン勢だけでクロスチェックをしたのではなかろうかと思う。割と同情する。


2.センター試験世界史B〔本試〕(2つめ)
<種別>出題ミスにあたるかもしれない
<問題>第2問 問7 下線部7(編註:イラン産生糸やアナトリア産綿花)に関連して,繊維の原料や製品について述べた文として正しいものを,次の1〜4のうちから一つ選べ。 (問題番号16)

1 漢代の江南地方で,綿織物業が発達した。
2 ジョン=ケイが,紡績機の改良を行った。
3 アメリカ合衆国南部では,綿花のプランテーションが発達した。
4 18世紀後半に,ナイロン(合成繊維,石油を原料とした人工繊維)が開発された。

<解答解説>
1は,綿織物業の発展は宋代以降の江南になるので誤文。4はナイロンの発明が20世紀前半になるので誤文。3が正文で,これが大学入試センターの想定した正解。

では,選択肢の2について。ジョン=ケイは織布工程で使われる「飛び杼」の発明者であって,紡績機の発明には携わっていない。よって誤文……というのが受験世界史としては適正な解答解説になる。ところが,ググってみると状況が一変する。なんと,紡績機の改良者にもジョン=ケイがいるので,一転して正文になってしまうのである。日本語版Wikipediaだけではソースとして心許ないわけだが,探せばもうちょっと信用できるソースは出てくる。たとえばこれ(pdf注意)とか,これ(経済学者のジョン=ケイが歴史的ジョン=ケイについて語るエッセイ)とか。要するに,水力紡績機の発明者アークライトの協力者であったようだが,本職の歴史家ですら「飛び杼」のジョン=ケイとしばしば取り違えるようなマイナー人物であるようだ。日本語版Wikipediaに記事があること自体がおかしいというか,無ければ多分誰も気づかずに終わっていただろう。今,さらに信頼のおけるソースとして紙媒体の参考資料がないか探しているところだが,案外と言及しているものがなくてちょっと困っている。場合によってはこの解説を後で書きかえるかも。

さてこういう経緯であるので,本問を大学入試センターが出題ミスと認めていない理由もわかる。「うちは適正に問題を作っているので,範囲外からは決して出題しませんよ」と。だから「紡績機改良者のジョン=ケイが歴史上存在したとしても,範囲外にあたるのだから『受験世界史上は』存在しないものとして扱います」ので出題ミスではない。これが大学入試センターの立場であり,むしろ本問を出題ミスとして認めてしまうと「何のための『受験世界史』という枠組みなのか」というアイデンティティの喪失にかかわることとなってしまう。これを防ぐために,間違いなく問い合わせはあったはずだが,あえて黙殺しているのではなかろうか,というのが私の推測である。

これは,実際に過去ほとんど出題ミスなく,範囲内限定で良問を輩出してきた実績のある大学入試センターだからこそ可能な「逃げ道」である。拙著(狡猾な宣伝)で批判したような,出題ミスや範囲外からの出題を乱発する某大学とか某大学だったら,こうした言い訳は立たなかっただろう。私自身この黙殺は不快ではないし問い合わせもしていないのだが,読者諸氏としてはどうだろうか。ジョン=ケイ(紡績機)を調べつつ,経過を待ちたい。

(追記)
紙媒体を調べてみたら,意外とあっさり見つかった。時計職人でアークライトに技術協力をしたジョン=ケイ(飛び杼とは別人)は実在するようです。


〔番外編〕 センター試験日本史B〔本試〕
<種別>誤植・出題ミスを際どく回避
<問題>第2問 問3 下線部c(編註:古墳時代には列島各地を政治的に統合したヤマト政権が誕生するにいたる)に関して述べた次の文a〜dについて,正しいものの組合せを,下の1〜4のうちから一つ選べ。 (問題番号9)

a ヤマト政権を構成する豪族らは,氏として組織化された。
b ヤマト政権は,列島各地に田荘とよばれる直轄地を設けた。
c 『魏志』倭人伝によれば,倭の五王は中国の北朝に朝貢した。
d 大王や王族に奉仕する部民として,名代・子代が設定された。

1 a・b
2 a・d
3 b・c
4 b・d

<解答解説>
一見してどこが誤植なのかわからなかった人,あなたは正しい。これは世界史での出題ミスと違って,センター日本史の形式に習熟していないと気づかないたぐいの誤植である。

本問のa〜dにある2つの正文の正しい組合せを選択させる問題は,センター日本史では頻出である。ただし,そこにはa・bのどちらかが1つが正文で,c・dのどちらか1つが正文という鉄の掟がある。かつ,1〜4の選択肢は必ず,1が「a・c」,2が「a・d」,3が「b・c」,4が「b・d」であるのも不変である。前述の鉄の掟を鑑みれば,この4つ以外のパターンは存在しえないからだ。

ここまで書けば,なぜ本問は誤植なのかわかるだろう。1が「a・b」になっており,見た瞬間にこれが誤答とばれてしまう。というかそれだけならいいのだが,本問のようなタイプはa〜d4つの正誤が判別できないと解けない仕様になっているはずなのに,本問はこの誤植によりbが誤文とわかればそれだけで2以外に正解がありえないと分かる間抜け仕様になっている。しかも,実際にbが誤文なので正解は2になる(直轄地は「田荘」ではなく「屯倉」)。得した受験生は多かろう。

この問題,aとdが正文で2が正解だったからよかったものの,aとcが正文だった場合,正解の選択肢がなく完全な出題ミスで致命傷になっていた。作題者は紙一重で出題ミスを避けた形である。  
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2014年10月29日

歴史・宗教関連のニュースいろいろ

・セルビア「スマヌ、スマヌ…もう百万遍は謝った。そろそろ許してくれないか?」ヨーロッパの反応(10000km.com)
→ 世界悪者クラブあるあるw
→ 余分なことを言ってブーメランが刺さる展開が多すぎるスレである。いいからイギリスとフランスはだまってろ。
→ うちの国も人ごとじゃないんだよなぁ。途中でイギリス人に「昔やった悪さを無かったことにするという点でイギリスは日本並み つーか日本よりヤバい」とか言われてるし。こんな何気ないスレでこう言われてしまっているという認識は持たなくてはいけない。
→ 日本国民が日本のことで「もう何度も謝った」というのは傲慢になってしまうが,端から見てるとドイツやセルビアはもう許してやれよ感ある。むしろイギリスおめーはダメだ。中東問題は罪深すぎる。
→ 翻訳がおもしろすぎるのだけれど,原文読みに行ったら大体どころでなくあってた。このスレ自体がおもしろすぎる。


・ISIS、カリフ制イスラム国の樹立宣言(朝日新聞)
→ 「袁術による皇帝僭称と同程度の死亡フラグにしか見えない……」とは当時書いたものの,まだ生き残っているという。意外にしぶといというか,泡沫ではなく歴史に名が残ることは確定してしまった。
→ しかし,これでシリア・イラク地域はアサド政権・反政府軍(自由シリア)・ヒズボラ・イスラーム国・クルド人自治政府・イラク政府とカオスにも程がある戦国時代状態である。これで周辺プレイヤーにイスラエル・レバノン・トルコ・湾岸諸国・エジプト・イラン・アメリカがいるんだからもう。


・仏ブルカ禁止法は「信教の自由侵害せず」、欧州人権裁(AFPBB)
→ これはヨーロッパ人権裁判所の判決なので「フランスが」どうこう言うのはタイミングがずれてる気が。
→ 別記事を見るに,フランス政府はオートバイのヘルメットや目出し帽も取り締まってるからって反論してたらしい。ただ法律制定の背景はどう考えてもライシテであって,背景と目的(と運用)がまるで一致していないのが根本的な原因であり,その点原告ムスリム女性の「自身のベール着用は自由意志によるものであり、警備上の理由で必要とされればベールを脱ぐこともいとわないとした上で、公共の場でのベール禁止は尊厳をおとしめるものだと訴えていた」の方が正しい。それでも仏ブルカ禁止法は違憲ではないという判定を欧州人権裁が下したというのは,ムスリムへのゼノフォビアでしかなかろう,というところまで切り分けて,初めてこの一件の問題性があらわになると思う。粗雑な批判は,逆に問題を見えにくくする。要するに,フランスひどいというよりは,ヨーロッパどうなっとるんや,という。
→ ところで,「これはヨーロッパ人権裁判所の判決なので「フランスが」どうこう言うのはタイミングがずれてる気が。」という私のブコメに対して,私が判決を賛同しているように読解して賛同してくれた人がいるっぽいんだけれども,大間違いだからな。さすがにそれは読解力がなさすぎる。


・スイス、新国歌の候補曲募集に215件の応募(AFPBB)
→ 1847-48年に革命騒ぎが起きてるんですがそれは。 >「通常、国歌が代えられるのは革命か社会混乱による場合がほとんどだが、平和で安定したスイスで革命などが起きたことはなない。」
→ もうちょっと具体的に書くと,カトリック圏が分離独立を訴えて国が真っ二つに割れ,カトリック側をオーストリアが支援して(何百年ぶりかの)故地回復を狙ったものの,プロテスタント側にイギリスがついてオーストリアを脅迫,折しもオーストリア国内でも革命騒ぎが起きたため,オーストリアが支援を撤回し,スイスは国家分裂の危機が回避された。スイスはこの反省から連邦制に移行している。
→ AFPともあろうものが,さすがに取材不足というか,おそらく革命騒ぎを黒歴史視するスイス政府の受け売りをそのまま垂れ流してしまったのでは。  
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2014年10月28日

公孫瓚が涙目

・倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(4)三国志誤読箇所(東京下町巡りと中国史・群龍天に在り(FC2版))
→ 「北京あたりで勢力を持った軍閥・曹操」で大爆笑した。元々トンデモな人ではあるけれども,こりゃ三国志欠片も読んだことないわ。
→ 「四大奇書」も常識の範囲内だろう。「三代奇書」なんて間違え方は三国志ファンかどうか以前の問題。「陳寿の賄賂はガセネタ」というのも三国志オタクなら知ってる話で,「孔明は魯粛に会って孫権との同盟の渡りをつけた」というのも読んでれば絶対に知っている話だ。以下,つっこんでいったら切りがないっぽい。
→ 他の記事を見ると,三国志以外の部分でもあまりにもひどいようだ。よくもまあ中国史の,しかも詳しい人が多い三国志でこんなことやろうと思ったなぁ。


・スポーツ権関連の議論が地味にヤバい件(Danas je lep dan.)
→ これは第三帝国的なアレをどうしても連想する。そしてあの集会の人たちがそういう歴史をどの程度認識しているのかも気になるところ。最近こういう妙なところで,歴史教育って大事だなと思わされることがある。と同時に,高校世界史をやった人でも多分これを習った覚えがない人もいるはずで,それもそのはず一応教科書や資料集には載っているんだけど,聞きにくすぎて入試では出ない。受験世界史の欠点だなぁと。
→ 逆に言って,旧スポーツ振興法ってスポーツが強制されることの危険性への配慮があったんだなと今更。偉い。
→ 何度も言っているが,重要なのはやる・やらせることじゃなくて興味関心を育てることだ。最終的にやる人は減っていくが,観戦者は減っていかないわけで。「市民的素養としてのスポーツ」であれば,観戦の仕方を教えることだろう。


・アリウス派はイエス・キリストが神であることを否定してはいなかった(Togetter)
→ お怒りごもっともなんだけど,「こういう間違いの根本が、高校の教科書からきているということに落胆します。教員免許取って何を学んできたんだよ!知識を与える職業人は、少なくとも知識に忠実な番犬であるべきだと、思うのですが」は無理筋な要求。拙著でも書いたが,高校教科書を修正するように運動するのが最も生産的だろう。教員や予備校講師に「個々に判断する能力を持て」というのは,全分野において専門的知識を持てということになり,そもそも世界史という科目設定自体に無理があるという議論に発展しかねない。それでは元も子もないので,どこかで区切らねばならぬ。
→ さて,ここでは三位一体説とアリウス派が「イエスの神性を否定しきったわけではない」というのが論点だが,ネストリウス派も相当にややこしい。キリスト教の神学論争は非常にややこしいのだけれど,変に世界史にかかわってくるので避けられない。そうしたキリスト教知識をどこまで「市民的歴史教養」として求めていいかというと,これは面倒ではあるが,生産的な議論だろうと思う。
→ で,個人的には高校の教員が理解できないようなものは世界史から外せばいいのではないかと。キリスト教が諸教派に分かれていたことや,現在のカトリックや正教会が三位一体説であること,三位一体説が政治的なアレコレもあって正統になったこと等は教えてもよいし,ネストリウス派が最終的に中国にまで伝播したりしたことは教える価値が十分にあると思うが,アリウス派やネストリウス派の内容が現代日本の市民的教養として,どれだけ意義があるだろうか。無い,というのが私の考えである。


・アタナシオス派(Wikipedia)
→ 関連して。アタナシウス派が「世界史」用語であって,歴史家や宗教学者のタームとしては一般的ではないのは知らなかった。一応そこら辺の専門家の書いた文章もかなり多様に読んではいるのだけれど,さっぱり気づかなかったかな。正直に言うと,ニケア派も見たことない気が。本当にねじれているなら,時間をかけてでも直すべきだろう。
  
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2014年07月28日

なぜイスラーム国は預言者ヨナの墓を破壊したか,と聖遺物崇敬の話

・預言者ヨナの墓、ISISが破壊 キリスト教などの聖地(CNN)
武装勢力に破壊されるイラクの文化遺産―預言者ヨナの墓も(ウォール・ストリート・ジャーナル日本版)

イスラーム過激派のISIS(自称「イスラーム国」)は,預言者ヨナの墓廟とされる建物を破壊した。これに対するリアクションで多く見られたものは,「狭量な過激派がまた異教の宗教施設を破壊したか」というものと,ヨナが『クルアーン』にも登場していることを知っている人たちの「イスラーム教での聖人であるはずのヨナの墓をなぜ」というものであった。後者の疑問については,実はかなりいいところを突いている疑問だと思う。ちなみに,2年ほど前にもアルカーイダ系の組織がイスラーム教の聖者の墓廟を破壊している。つまり,これはISIS独自の行動というよりも,過激派にある程度共通する行動といってよい。ここら辺について,ちょっとした解説を試みる。


まず,根本的な話をすると,聖人信仰はキリスト教とイスラーム教に共通した現象である。キリスト教の方が身近であるので,先にこちらから扱っていく。さて,聖人信仰に関して真っ先に抱く違和感は一神教への抵触であろう。これについては初期から問題となっていたが,キリスト教徒はある教義(概念)を生んでこれを解決した。その概念を「崇敬」という。どういうことかというと,信徒は一見すると聖者を拝んでいるように見えるが,これは聖者への信仰を捧げているのではなく,聖者の信仰の篤さを忍び,聖者への敬意を通して神を拝んでいる。つまり「崇拝」(拝んでいる)しているのではなく,「崇敬」(敬っている)という理屈である。

この崇敬の理屈から守護聖人も説明されうる。もちろん神は全知全能なので,多神教のように「○○に特化した神」を乱立させる必要は本来ない。しかし,ありとあらゆる物事を漠然とした唯一の神に祈れと言われてもイメージが難しく,やはり「○○に関連する願いなら××」という分類があったほうが祈りやすかった。そこで,「個々の聖者は,それぞれの分野の願いを神に通しやすくする道である」という理屈が付けられ,願いを叶えるのは神だが,願いを聞いて神に「とりなし」,取り次ぐのは聖者の役割,という分業が成立した。

キリスト教はさらにここから,「聖者の死体や遺品は聖なるオーラを帯びており,これに向かって祈れば聖者に願いが届きやすくなるし,オーラを浴びれば奇跡が起きやすくなる」という理屈を打ち立てた。こうして中世には熱狂的な聖遺物“崇敬”が始まる。このためにわざわざ墓を掘り起こしたり,聖者の死体をバラバラに引き裂いて小分けにして分配したり,いざ掘り出してみたら灰になってたので,灰を袋に詰めて盗掘した等,想像するにグロい所業が繰り返された。もちろん,詐欺も横行した。全世界にある仏舎利を集めたらブッダ何人か分になるというネタが仏教界にはあるが,キリスト教の諸聖人も似たようなものである。この辺の学問的な話は以下の書が大変参考になり,おもしろいので勧めておく。





さて,イスラーム教である。多くの人には意外かもしれないが,理屈はキリスト教とほぼ全く同じである。おそらく,ムハンマドはユダヤ教やキリスト教をかなり研究した上で,アラブ人商人に最も適合する形の教義を整えていったと思われる。ゆえに,「崇敬」の概念も「とりなし」の概念も単純に直輸入したと考えるとしっくり来る。その意味では,後出しでこれらの教義をひっつけたキリスト教よりも,元の教義に近い位置にこれらの概念が存在している。唯一キリスト教と根本的に違う点は,カトリック教会に代表されるような公的で大規模な列聖制度がなく,ただ漠然とした地域ごとの聖者認定があるだけである。

その上で言うと,イスラーム教における聖者は「ワリー」と呼ばれる。そして,ムスリムはワリーを崇拝しているわけではなく,ワリーを通してアッラーとの交流を図っているのだということになっている。ワリーは大きく分けて種類に分類するのが一般的である。このように,イスラーム教における聖人の範囲は広い。キリスト教では(1)はそもそも存在してないし,異教徒は聖人扱いしないので(4)もない。

(1)ムハンマドの血族(これを「サイイド」と呼ぶ)
(2)正統カリフや初期のウラマー,サラディンのようなイスラーム史上の偉人
(3)イスラーム以前の預言者。イーサー(イエス)や今回のヨナはここに入る
(4)異教徒の聖者,ジン(精霊)に取り憑かれた狂人などのうち,崇敬に値する人物。征服王イスカンダル等。ネタ的に言えばアブドゥル・アルハザードもここに入るんだろう,多分。
(5)スーフィー教団の開祖や偉大なスーフィーと目されている人々

そして聖遺物崇敬も存在する。聖遺物にはやはりオーラが漂っており(イスラームでは「バラカ」と呼ぶ。「ムバラク」とは「祝福された」の意),奇跡を呼び起こす力を持つとされた。意外なほどに知られていないが,やっぱり仏舎利やキリスト教の聖遺物のようなことは起きていたようで,なぜだか知らないが「ムハンマドの髪と髭」が最高の聖遺物と考えられており,その激しい取り合いや詐欺は横行したようだ。なんで髪と髭なんだろう……今回調べた限りではわからなかった。そして遺体の眠る聖者の墓所は,ワリーを偲びやすくする場所であるとされ,参詣が奨励された。ただし,メッカへの巡礼「ハッジ」,参詣「ズィヤーラ」と呼んで区別する。


しかし,当然こうした「屁理屈」に反発する人々が出てくる。「『聖書』/『クルアーン』に直接書かれた教義ではない。ゆえにでっちあげの理屈である」と言って,聖像破壊運動や聖人信仰の排斥を行った人々は歴史上存在した。これを原理主義と呼んでよいかは議論のあるところなので,ここでは過激派と呼ぶことにしよう。有名なのは8世紀の一部のギリシア正教徒,16世紀のプロテスタントの過激派,18世紀のワッハーブ派である。

しかし,先程「キリスト教よりも,元の教義に近い位置にこれらの概念が存在している」と書いた。にもかかわらず,ワッハーブ派はなぜ聖人信仰や聖遺物崇敬を排斥しようと試みたのか。

・ワリーが聖者であるかどうかは,『クルアーン』で明言されていない。『クルアーン』ではあくまで「敬虔な(神の)友」という意味でワリーという言葉が用いられている。「とりなし」を認めれば厳格な一神教が崩れるため,ワッハーブ派神学では「とりなし」は『クルアーン』で述べられていないと見なす。
・仮に「崇敬」や「とりなし」は『クルアーン』にある概念としても,「聖遺物崇敬」については完全な後付であり,『クルアーン』に存在していないから,もっての他である。偶像崇拝に完全に抵触する。たとえメディナにあるムハンマドの墓廟であっても,参詣してはいけない。
・上記の分類の(1)〜(3)は聖者として認めるとしても,(4)や(5)は無理筋である。特にワッハーブ派はもともと反スーフィズムを目標として成立した運動であるから,(5)は絶対に認められない。

というのがワッハーブ派の理屈である。なお,より正確に言えば「とりなし」の概念にも複数種類があって難解な神学的議論があるので,厳密な議論を知りたい方は自分で調べてほしい。そして,こうしたワッハーブ派の主張に対しては18世紀以来,スンナ派の正統派のウラマーたちから反論されており,特に聖遺物崇敬については『ハディース』(ムハンマドの言行録)に書いてあるとされている。言うまでもないが現代でも(1)〜(5)まで全てワリーであり(つまりスーフィーも含めて),聖遺物崇敬も正統的なスンナ派神学において概ね認められている。また,非常に意外かもしれないが,シーア派神学でも聖遺物崇敬は認められており,むしろスンナ派以上に参詣を奨励している。なお,これも一応書いておくがイスラーム教では正統と異端の区別がキリスト教のように明確に存在しているわけではないので,注意を要する。

その上で見ると,現代のイスラーム過激派であるところのISISがヨナの墓廟を破壊した理由も,ワッハーブ派の神学に則っていることが理解できよう。なにせカリフを自称するような勢力である。実は前述の通りの聖像破壊運動もありアラビア半島では墓廟参詣があまり盛んではなかったが,シリアやエジプトやトルコでは盛んである。シリアやエジプトはもともとキリスト教徒が多く,トルコはスーフィズムが盛んであったこと,オスマン帝国の諸スルタンが聖遺物収拾に熱心であったことが理由として挙げられる。そしてイラクのモスルの場合,WSJの記事中にもあるように「住人のほとんどはスンニ派だが、モスルは宗教の多様性と寛容さを象徴する都市だった。モスルがあるニナワ州は数千年前(原文ママ)からキリスト教ネストリウス派の中心地だ。」だからこそ,ヨナの墓廟も生き残っていたのであろう。

ところが,ISISの立場からすると,「ヨナは聖者であるかもしれないが,聖人信仰や聖遺物崇敬は異端である。墓廟は参詣を誘発するから,存在自体が許されない」となり,墓廟は積極的な破壊の対象となる。これがWSJにある「ISISなどスンニ派の超保守的な組織は、寺院や墓を敬うことは神聖な行為ではないとしている。多くの組織にとっては、ムハマンド以外の預言者を崇めることも非難の対象になる。」の補足説明となるだろう。このような背景において今回の一件はバーミヤンの大仏の破壊とは意味合いが大きく違うということは,覚えておいても損はなかろう。

こちらも参考文献を一冊だけ挙げておく。これが一番わかりやすくておもしろかった。同書には聖遺物崇敬や,聖廟で行われる祝祭(「マウリド」と呼ばれる)についても具体的に言及されている。



  
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2014年07月24日

フェリペ諸王を適当に振り返る

ばたばたとしているうちに時期を逃した上,戴冠式が非常に地味でほとんど日本で報道されなかったように思えることもありすっかり忘れられかかっているが,スペイン王国のフェリペ6世が即位した。そこで,歴代のスペイン国王の「フェリペ」をざっと振り返ってみて,即位の祝賀としたい。Wikipediaへのリンクをそれぞれつけておき,適当に個人的なコメントを。正直2世以外ろくなのがいない。


・フェリペ1世(位1506年)
いきなり「誰だコイツは」感が半端無いが,狂女王フアナの夫であり,皇帝マクシミリアンの息子。こいつがぼんくら&若死にだったせいで,カルロス1世が若くして即位する羽目になった。このカルロス1世が偉大なる人物であったのは,スペインにとってはむしろ幸いであった。

・フェリペ2世(位1556〜98年)
間違いなく全フェリペの中で最も有名なフェリペ。「フィリピン」の語源でもある。カルロス1世は長くヨーロッパを股にかけて活躍したが,「日の没することなき国」を一人で統治することの無理を悟り,引退した際には弟に神聖ローマ皇帝を,息子のフェリペにスペインとその植民地,そして低地地方を継がせてハプスブルク家を分割した。カルロス1世自身はこれらのうち,スペインは母親から,残りは父親から受け継いでいる。ゆえに低地地方はこの段階でオーストリア側からスペイン側へ宗主権が移動した形になる。豊かな低地地方を息子の側に渡したのは,やはり弟より息子の方がかわいかったという説を聞いたことがあるが,どうなのだろう。

カルロス1世が過労を考えて分割したハプスブルク家であるが,フェリペ2世は父親の美徳を受け継ぎ,極めて献身的に働いた。後の失敗しか紹介されない関係で,低能で情けない君主のイメージが強いが,実際には,有能であったかは置いとくとしても情けない君主ではない。ただし,カルロス1世がありとあらゆるところに親征して暴れまわったのに対し,本人はWikipediaにもあるように,マドリードに引きこもっていた。彼の治世は豊かな低地地方と銀で溢れかえる新大陸に支えられていたが,いかんせんカルロス1世が敵を作りすぎ,その収拾に追われてしまったところがある。

新大陸産の銀などの国内の資本は,低地地方の産業に投資された。なぜなら,スペインはカスティーリャ王国時代の内政上の失敗から国内産業(特に農業)が未熟であったからだ。そこで膨大な銀を外国商品の輸入に費やし,その商品(特に低地地方産の毛織物)を新大陸の植民者に転売して利潤を上げようとした。この正統な重商主義はカルロス1世・フェリペ2世の時代にはうまくいっていたが,一方で国内産業の未熟は解消されないまま放置されることとなった。結果的にフェリペ2世の治世では飢饉が頻発したが,これは後の没落の予兆と言える。

その低地地方で新教を弾圧したところが最初のつまづきだったか。オランダ独立戦争にオスマン帝国とのレパントの海戦,フランスのユグノー戦争への介入等々に忙殺され,そのオチがイギリスとのアルマダ海戦というのは少々同情する。一応,実際のところアルマダ海戦一発で極端に劣勢となったわけではなく,フェリペ2世在位頃はまだ戦えていたらしい。こうして膨大な富は,まず投資されたオランダがごっそりと持って行き,残りも戦費で消尽し,フェリペ2世のうちにスペインは破産を繰り返した。こうしてスペインは斜陽の時代に入るのである。


フェリペ3世(位1598〜1621年)
フェリペ2世の息子。なお,5人生まれて唯一生き残った子供である。これは当時の医療技術の問題もあるが,フェリペ2世の妻はオーストリア=ハプスブルク出身であり,夫婦は伯父と姪の関係であったから,すでに近親相姦の欠点が出始めているとも言える。ここからスペイン王家はどんどん短命になっていき,アゴもとがっていく。

フェリペ3世即位時のスペインは領土広大ではあったものの,一方国庫は破産しており,国内産業は荒廃,しかも相変わらず周囲は敵だらけという,直前まで絶頂期だったとは思えない状況であった。そんなこともあってかフェリペ3世は父とはほど遠い怠惰な国王であった。だからこそ1618年にオーストリアが三十年戦争を起こした時には「勘弁してくれ」という心境だったのではないか。同じハプスブルク家であり,対抗宗教改革の旗手であったスペインとしては参戦せざるをえないが,場所はドイツでありスペインの国益から考えると全く益がない戦争であった。フェリペ3世は開戦から3年後に死ぬ。

フェリペ3世の最大の「事績」はモリスコの追放令であろう。スペインは15世紀末にすでにユダヤ人を追放していたが,そこから100年経って今度はモリスコの追放に乗り出した。モリスコとはキリスト教に改宗した元ムスリムとその子孫のことであり,砂糖や米の大農場を経営していた人々が多く,数少ない生き残っていたスペインの国内産業の担い手であった。しかし,改宗してもムスリムはムスリムということなのであろう,その数約30〜50万人という巨大な人口をまとめてモロッコ(一部はフランス・イタリア)に追い出してしまう。結果的に,ルイ14世がユグノーを追放したのと全く同じ現象がスペインを襲い,ただでさえガタガタだった農業にとどめを刺すこととなった。同時期にはキリスト教徒にはユダヤ人やムスリム・モリスコの血が混じっていてはいけないという「血の純潔」がさらに重視されるようになり,排他的な社会が形成されていく。要するにただの民族浄化である。

さらに言えば,フェリペ3世・4世の時代に官僚制が形骸化し,国王お気に入りの寵臣が牛耳るようになっていた。これにあわせて政治が停滞し,次第に地方が中央から自立し,スペインは封建社会に戻っていく。スペイン初代のカトリック両王やカルロス1世が整備した頃にはヨーロッパ有数の中央集権化が進んだ国であったスペインはいまや中世に取り残された側の国にまで立ち後れていた。それはそうであろう,停滞していたのではなく,時代の流れに逆行していたのだから。形態は絶対王政・啓蒙専制・立憲君主制と多岐に渡るにせよ中央集権化が既定路線であった近世欧州において,これだけ「後退」した国は珍しい。というよりもスペインしかあるまい。(ポーランドはこうした直線的な史観で判断できない特例として。)

このフェリペ3世の妻もまたオーストリア=ハプスブルク出身であり,妻のいとこがフェリペ3世の母にあたる。現時点で何を言ってるかわからないが,今後さらにわからなくなっていくのだからハプスブルク家の家系図はむごい。子供は8人授かり,少しは遠い血縁だったせいか夭折は3人とかなり生き残った。このうちの一人がルイ13世のアンヌ・ドートリッシュとなり,ルイ14世を生む。


フェリペ4世(位1621〜65年)
フェリペ3世の息子。フェリペ3世と同様に怠惰な国王であった。この時期のスペインにとっての大きな出来事というと,ポルトガルの離反・独立,三十年戦争の最終的な敗戦,さらにフランスとの国境紛争の敗戦とピレネー条約の締結であろう。負けてばかりである。

さらにこれらの敗戦に関連して,この頃から英仏蘭の「カリブの海賊」が活発化し,最後の頼みの綱であった「旧大陸商品の新大陸への転売」という産業も途切れがちになっていった。おまけに新大陸の銀産自体が減少し,露骨にスペインの収入が細る。またこの頃になるとヨーロッパとラテンアメリカの貿易が,鉱物資源と手工業品の交換から,商品作物と黒人奴隷の交換(いわゆる大西洋三角貿易)に変質した。結果的に西アフリカに全く伝手がないスペインはさらなる不利に追い込まれ,フランスに奴隷供給を一任することになる(いわゆるアシエント)。それでスペイン本国の経済も財政も回るはずがなく,スペインが「斜陽の古豪」から「ただの没落国家」に変わっていくのがこの時期である。一方,同時期のスペインといえばベラスケス,スルバラン,ムリリョがそろったスペイン・バロック美術の黄金期であった。

このフェリペ4世の最初の妻はフランス・ブルボン家出身のイサベルで,7人の子供を得たが5人は夭折した。生き残ったうちの王子は世継ぎとして将来を嘱望されていたが,結局父親よりも先に亡くなる。もう一人の王女はピレネー条約により,半ば人質的にフランスのルイ14世に嫁ぐ(マリー・テレーズ)。この夫婦直系の孫が後のフェリペ5世であり,スペイン継承戦争の引き金となる。

このようにイサベルとの間には跡継ぎが生まれなかったためフェリペ4世は再婚,この再婚相手が例によってオーストリア・ハプスブルク出身であり(マリアナ),またしても伯父と姪の婚姻であった。この婚姻,年の差29,結婚時のマリアナは14歳(ベアードさんこっちです)そもそもマリアナは息子の婚約者だったことなどから当時からスキャンダルであったが,無理に押し切って結婚した。そこから生まれた息子がカルロス2世であるが,さすがに血が濃くなりすぎたのか奇行が目立ち,またアゴは肥大になりすぎてかみ合わせがあわなかった等で有名な悲劇の君主である。当然カルロス2世に世継ぎを残すことはできず,彼が亡くなるとスペイン・ハプスブルク家の直系は断絶。こうしてスペイン継承戦争が勃発する。


フェリペ5世(位1700〜46)
スペイン継承戦争の結果,フランスの要求が通り,ルイ14世の孫が即位した。このスペイン・ブルボン家初代国王がフェリペ5世である。スペイン継承戦争は国王即位が認められる代わりに多大なる犠牲を払った戦争であり,特にフェリペ2世以来のヨーロッパにおける領土(イタリア諸邦・サルデーニャ・南ネーデルラントetc.)は参戦諸国に引き渡された。言うまでもなく,その大半を受け取ったのは王位をあきらめさせられたオーストリアである。

スペインにやってきたフェリペ5世は長く続いたハプスブルク家の怠惰な統治状況に驚愕し,フランス流の中央集権的な政治を植え付けようと試みた。これはある程度成功し,外交でも失われたヨーロッパの領土を取り戻すべくポーランド継承戦争に参戦,イタリア諸邦の大部分を奪還している。影が薄いわブルボン家って時点で暗君か暴君なイメージあるわで,そんなイメージは全くないと思われるが,内政・外交ともに卒なくこなしたそれなりの名君だったと言ってもよかろう。なおその後のスペイン・ブルボン朝の君主たちも優秀な人物が多く,特にカルロス3世は隠れた啓蒙専制君主の一人である。そのままフランス啓蒙専制路線が続けばスペインは「ただの没落国家」から「復活途上の古豪」くらいになれたかもしれないが,それを全てぶち壊しにしたのもまたフランス人であった。ナポレオンが過ぎ去った後の19世紀のブルボン家は「お前実は中身ハプスブルク家だろ」というくらいダメな君主が続き,20世紀に入ってから王政廃止,そしてフランコの台頭へと至る。

  
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2014年04月26日

香辛料から砂糖へ,そして綿布へ

・中世ヨーロッパの香辛料事情〜「とりあえず醤油」は正義
→ 中世ヨーロッパの「香辛料」の話。胡椒などのアジアの物産としての香辛料は,保存料というよりも嗜好品・ステータスシンボル,あとは薬効を期待しての輸入品であった。保存するだけなら塩や酢・ハーブでいいわけで。塩漬けのニシンが北海商業圏の主要な商品だった。「ハーブ類を香辛料に含むかどうかという点では,香辛料の定義的な話でもあるか。あとはまあ,中世ヨーロッパの庶民だと,かなり近世に近づいていても,そんなに肉を食べてなかったという話もある。
→ 自分のtweetをコピペしておくと「香辛料は価格が高いことそれ自体に意味がある,ステータスシンボルだった。だから,オランダが大量輸入に成功すると,一気に価格が暴落して香辛料貿易自体が崩壊した。変わって,金持ちのステータスシンボルになった世界商品こそが,砂糖である。17世紀半ばのことだ。この香辛料貿易の崩壊が,英蘭戦争・オランダ侵略戦争に重なってオランダの覇権失墜が始まった。香辛料から砂糖へ。そして,オランダからイギリスへ。」
→ そんでもって砂糖も自由貿易の進行&甜菜の発見で大量生産されて価格が暴落,産業革命の発生と相まって今度は綿布が世界商品になっていく。以後は多種多様な工業製品が世界史上に流れ込んでいくため,世界商品自体が話題に上がらなくなっていく。「世界商品」の概念は大変おもしろいのでもっと流行してよい。


・井の頭公園の池をかいぼりしたら(1) 自転車が次々と(Togetter)
・井の頭公園の池をかいぼりしたら(2) お魚レスキュー隊(Togetter)
→ 井の頭公園の池の水を抜いて掃除している模様。
→ 自転車が大量に出てきたのには笑った。事故って落ちてしまったのもなくはないんだろうが,盗難自転車の証拠隠滅,壊れて捨てるのがめんどくさかったあたりが理由としては多いんだろうなぁ。それにしても250台とは。1年に10台近いハイペースである。その他スクーター・カセットテープ・ノーパ・携帯電話はまだ理解できるが,ショッピングカートは誰がどうやって捨てたんだ。
→ 正直に申告して,鯉による生態系破壊についてはほとんど無知だった。そりゃ外来魚として駆除せよって意見も出てくるわなぁ。じゃあ完全駆除でいいかというとアメリカザリガニ対策の面で残すべきという話もあるらしく,複雑である。


・不動産のチラシでマンションが光る(デイリーポータルZ)
・高級マンション広告コピー「マンションポエム」を分析する(デイリーポータルZ)
→ デイリーポータルZからマンションネタ二つ。一つ目,確かによく光ってる広告を見るw。まだ建ててないから「これからここにこれくらいのものが建ちますよ」という表示の意味合いが強くて,どうせなら光らせておこうということなんだろう。しかし,挙がっている町屋・大磯のようなパターンまで行くと本来の目的を見失っているような。
→ 二つ目,確かにポエム多いw。よくこれだけ調べて共通点見つけたなぁ。我らが文京区は高台であることを強調したポエムが多かった。まあ高台には違いない。どこに行くにもとりあえず坂を下らされるので辛い。


・西洋絵画にはボールパークが良く馴染む(日刊やきう速報@なんJ)
→ 出来よすぎわろた。カンディンスキーは秀逸。ぱっと見でどこが合成かわからなかった。抽象画のくせに。
→ ユトリロの案の定の相性の良さである。本当にこういう絵がありそうなレベルである。もっとも,ユトリロの時代まで来るとアメリカなら普通にプロ野球があったので,時代考証的にもありうる絵なのだけれど。
  
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2014年04月20日

センター英語の難易度とは

センター試験英語満点扱い TOEIC780点や英検準1級以上で特例 (産経新聞)
→ 記事にはさして興味なかったのだが,はてブの反応を見るに「TOEICの方が簡単派」が多数派のようで驚いた。私見ではセンター(ほぼ)満点よりTOEIC780点の方が難しいと思う。センター英語の難易度は経年で変わらんので,単純に個人差だと思うが,この個人差はどこから来たものか。そしてはてなではマジョリティのように見えるのはなぜか。
→ 満点という言葉が悪いのかも。私が言いたいのはセンターで95%(190点)以上を高い確率で取れる人が,TOEICで760点を安定して取れるかというと疑問,という話。一般的な日本の英語教育を受けて18歳まで育った人なら,センター型の方が得意だと思われる。はてな村でのセンター試験のイメージはどうなっているんだ……センター英語がTOEICより厄介なのは,問題がバラエティに富んでることくらいで。
→ その意味ではTOEICの方が簡単派の人の,東大入試英語の評価は気になる。「語彙が難しくなってる」「マークじゃなくて筆記」という違いはあれど,試している能力の方向性自体はセンター英語と同じなので。
・TOEIC780点や英検準1級以上 センター試験英語満点扱い - 英語学習帖
→ こちらの記事とほぼ同じ感想。「評価しようとしている能力が異なる」としても,やっぱりTOEIC780点の方が,センター(ほぼ)満点より難しいと思う。


・魏の曹家の道教、呉の孫家の仏教(Togetter)
→ 前にちらっと書いたが,三国時代は中国史の巨大な変革期であると,私も思う。
→ 北伝・南伝という区切りはあまり良くなく,中国への布教毛色も大乗だからといって必ずしも北伝というわけではない,というのは近年聞くところで。三国時代だと呉が一番熱心だったというのはその観点から見てもおもしろい話である。
→ 中国の仏教は後漢の前半(1世紀)に初めて伝わったとされているが,伝説混じりでこれは眉唾である。大体,1世紀というとまだナーガールジュナさえ誕生しておらず,大乗の理論が完成していない。そういう意味では3世紀前半の三国時代も,考証としてはギリギリセーフ感あるが。
→ 少なくとも呉が南方交易を重視していたからインドがかかわりがあったのは間違いなく,「大秦国王安敦」の事例もあるように後漢末にはすでにインド人の来航があった。もっとも,東南アジアに本格的にインドの文明が伝播するのは4世紀以降になるので,そのさらに向こうの中国にインド人がどの程度影響力を持ち得たかというとやはり疑問ではある。
→ 道教は民間信仰と神仙思想・占卜が道家の思想と融合して誕生した宗教だが,教団化が始まったのは後漢末の太平道と五斗米道が最初とされる。太平道の根拠地は華北の黄河流域一帯,五斗米道は三国志好きならご存じの通り漢中になるが,いずれも後に曹操が吸収した。後の北魏で道教は初めて国教化する。このときの教団は五斗米道の後継を自任して,五斗米道の別名天師道からとり「新天師道」を名乗った。「魏」という国名は偶然の一致だが(北魏は北方民族の建国),偶然だからこそおもしろいといえるかも。


・【画像】平成も四半世紀経ったということなので平成の出来事の画像貼ってく (ださ速)
→ よくまとまっている。年がばれそうだが,湾岸戦争あたりから記憶にある。
→ 東海村JOC臨海被曝事故「この時にやめておけばよかったんだよマジで」は本当に。原発自体の是非は置いとくとしても,このときの反省がちゃんと活かされていれば現状もちっとマシだったのでは。


・日本史、高校での必修化を検討…中教審諮問へ(読売新聞)
→ で,何を減らすんですか。まさか,何も減らさずに必修化できるなんて考えてないよねぇ。
→ 世界史未履修問題があったように,結局受験で使われない科目は現場ではスルーされるから,意味がないと思う。なんなら,日本史はセンター試験で必修にしますか?それはそれで他の社会科系科目への圧迫になって多様性を失わせ,害悪なような。
→ ブコメを見てもそこら辺を考えている人は多くなく,下村文科相に対する不安だったり,「日本史が履修期間内に終わらない問題」への言及だったり(これはこれで大問題なのだが)で,教育に言及したいなら高校生・受験生への負担も視野に入れてほしいなぁと。
  
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2014年03月12日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2014 その3(国立大)

・はじめに
例年は私大のみ収集しているので,これは特別編である。2014年は国公立大で暴走した大学がいくつか見られた。国公立大は論述問題が多く,学部別に入試を作る必要がなくて前期1回分だけ作ればよいせいか,良問が多いのが通例である。しかし,この場合は別方向に暴走することがたまにある。教員が学生に課す期末試験の感覚で入試問題を作ってしまうという現象である。これはこれで範囲外の知識を要する問題ができあがる。

ただし,あえて言ってしまえば,論述において思考力を課す試験と範囲外の知識がないと解けない試験は紙一重である。なぜなら作った側は「確かに○○という事実を知らないと解けないが,問題文でヒント出してるんだから推測できるだろこれくらい」と思い込んでいるからだ。ゆえにこうした問題は,おそらく作った本人としては意欲作なのである,困ったことに。しかしふたを開けてみれば,推測なんてつくはずもなく,ちゃんとした解答を作れているのは一部の予備校講師と,さらに極一部の(おそらくその大学の受験生の0.1〜1%くらいの)受験生だけなのであった。それで,その教員が「これだから最近の若者は」となるか,ちゃんと反省してくれるかは別問題だが。

とはいえ,論述で強引に超難問を課す大学というと,例年は一橋大のみであった。しかし,この一橋大型の逸脱をやらかした大学が,今年はもう2つある。一橋大含めて紹介しておこう。一応書いておくが,全て前期日程である。


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2014年03月11日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2014 その2(早稲田大)

昨日の続き。番号が8番から始まっているのは,昨日の慶應大からの続きであるため。お気になさらず。本日のハイライトは,悪問としては12番の法学部の問題。笑えるのは13番の文学部,23番の政経学部の問題かなぁ。

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2014年03月10日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2014 その1(上智大・慶應大)

書籍版ができました!この年度も収録しています。


・序
昨年の記事も大変好評をいただき,すっかり人気シリーズになってきた。読者の皆様に感謝申し上げる。基本的な目的意識についてはこれまでのものとなんら変わりない。つまり,悪問や度を超えた奇問・難問に対する糾弾である。なぜならそれらの大半は偶発的な事故や意欲的な作問の結果などではなく,大学という教育研究機関にあるまじき知的怠惰の結果から生まれるものと推測され,それもほとんど釈明しないという傲慢な権威主義が見られるものだからだ。そうした難問や悪問を非難しつつ,笑い飛ばして供養しようと思う。

世界史未受験者やもう忘れてしまった人にも配慮して,基本的に太字だけ追っていけばどこがひどいのかわかるようにしたつもりである。世界史詳しい人にはやや太字がうざったいかもしれないが,ご了承いただきたい。


・収録の基準と分類
基準は昨年と全く同じであるので再掲する。テンプレなので昨年・一昨年から読んでいる方は読み飛ばしてかまわない。

出題ミス:どこをどうあがいても言い訳できない問題。解答不能,もしくは複数回答が認められるもの。
悪問:厳格に言えば出題ミスとみなしうる,国語的にしか解答が出せない問題。
→ 歴史的知識及び一般常識から「明確に」判断を下せず,作題者の心情を読み取らせるものは,世界史の問題ではない上に現代文の試験としても悪問である。
奇問:出題の意図が見えない,ないし意図は見えるが空回りしている問題。主に,歴史的知識及び一般常識から解答が導き出せないもの。
難問:一応歴史の問題ではあるが,受験世界史の範囲を大きく逸脱し,一般の受験生には根拠ある解答がまったく不可能な問題。

難問の分類について注記しておく。大学入試という形式上,どれかしらの高校生向け検定教科書に記載があることが,最低限の基準である。ゆえに本記事で言及する「受験世界史の範囲」は,「山川の『用語集』に頻度,任發いいらとりあえず記載があるもの」とした。おそらく,これが「受験世界史の最広義の定義」であり,ある種の「受験生と大学の暗黙の了解が守られる限界のライン」であろう。

もっとも,現実的に考えると,販路の限られた教科書の全種類に受験生が触れることは実質的に不可能であり,また他科目への圧迫ともなる。ゆえに,多くの教科書に記載がある=少なくとも用語集頻度がぐ幣紂い修靴道垣遏ε貊顱実教のいずれか1冊以上で言及のあるもの,というのが本来の適正な「受験世界史の範囲」であろう(東大や京大はほぼこの基準を守っている)。あわせて,たとえば「 銑いら選ぶ正誤判定で,,寮飢鬚棒賁臈な歴史用語が使用されているが,◆銑い全て(マイナーではあれ)受験世界史範囲内知識であるため,消去法でなんとか,正解とわかるパターン」のようなものは収集対象としていない。


・総評
今年のリストは全部で約35。去年が約40だったので減ったには減ったのだが,これは今年の上智がおとなしかったからという事情がある。また,解説の字数を数えてみると減っていないどころか増えてしまった。結局のところ諸大学には全く反省の色が見られないということだ。また,今年の早稲田大に特に見られた特徴であるが,おそらくよく調べずに専門外から出題したせいで,政治的・人権的に危うい表現が入試問題から見られることがあった。これらについては出題ミスとか悪問とかそういうレベルじゃない。ばからしい話ではあるが,出題ミス以前の問題で,本当の最低限としてそうした出題は避けてほしいところである。

また,今年は国公立大で奇問が相次いだということも特徴的である。ゆえに,普段は(1)で上智大,(2)で早稲田とし,慶應大は(1)と(2)の字数の少ない方に入れるという二部構成であったが,今年は(3)国公立大編を入れて三部構成とした。やや長丁場となるが,付き合えるところまでお付き合いいただければ幸いである。なお,(3)国公立大編が読んでて一番おもしろいかもしれない。あまりにもひどいので。


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2013年12月07日

なぜローマは崩壊したのに中国帝国は存続したか

・なんでローマは崩壊したのに中国帝国は存続した?(歴史的速報@2ch)

そもそもローマ帝国再興は土台無理な話として,むしろ「なぜフランク王国は西ローマ帝国再興にさえたどりつかなかったのか」という話で考えた方が建設的であろう。で,結論としては,フランク王国が北魏になれなかったってことだろう。クローヴィスからシャルルマーニュまで300年,ゲルマン人の大移動開始からなら450年弱,ちょっと時間が開き過ぎた。北魏は道武帝から太武帝までわずかに約50年。八王の乱から数えても,太武帝の統一まで約150年。間に一度苻堅による統一があるから,西欧に比べれば分裂していた期間は短い。八王の乱から隋の統一まででやっと300年だ。だから皇帝の求心力が低下しきらず,統一への求心力が維持された。

もう2つ大きな違いとして。隋は後漢の領域のほぼ全てを覆ったが,鮮卑の旧領であるモンゴル高原は保持できていない。その後,唐が中国王朝としてモンゴル高原を征服する。一方,フランク王国は旧領のドイツ地域の大半は保持したものの,旧西ローマ帝国領は全土回収できなかったどころか,その半分も支配できていない。要するに軸足が北魏よりもまだ「蛮族寄り」にあった。すなわち,シャルルマーニュとは隋の文帝ではなく,まだ北魏の太武帝の段階であったのだ。北魏は太武帝の次代,孝文帝の代で漢化したが,シャルルマーニュの頃には西ローマ帝国の痕跡が消滅していた。同化するべき先自体が無かったからこそ,まずは復活させるところから始める必要があった(カロリング・ルネサンス)。

そうそう,元スレのレスに「同化力が中国のほうが強かったから」とあったが,これは一理あると思う。ローマは偉大なりしといえども,ゲルマン人を同化しきることはできなかった。この辺はローマの多様性・柔軟性が裏目に出たところではあるかなと。結果として,ローマ法とキリスト教は残ったけど,ローマ的な生活は滅んでしまった。まさにピレンヌ・テーゼ的なお話で,文明圏として分裂すると再統一は難しい。その上で,あえて「地中海世界再統一」の話をすると,ユスティニアヌスがラストチャンスで,イスラーム教徒が出てこようがそうでなかろうが,無理だったのではないかなぁ,という話は前に書いた。→ ピレンヌ・テーゼ考(nix in desertis)

つまり,西ローマ帝国の復活のためには,ヴェルダンだのメルセンだの言って分裂している場合ではない。それどころか,少なくとも700年ほど早いレコンキスタと北アフリカ奪還を果たす必要があり,かつカロリング・ルネサンスが持続する必要もあり,その間,450年振りの西ローマ皇帝の権威を高め続けることも必要であった。つまり,もう何人かシャルルマーニュクラスの英雄が続く奇跡が必要であった。うん,絶対無理。セーブ&ロードが許されているSLGでもきつい。

じゃあなんで西欧はそんな分裂傾向強かったの?ってところでは,やはり政治体制の違いと農業形態の違いだろうなぁと。西欧は封建制に入りかかってたけど,中国は官僚制の整った中央集権制。あと米と小麦の違いに,農業技術の発展具合の違い。生産性が高いほうが統一はしやすいかというと微妙だが,大軍勢を起こせるので政治的な動きは早い。北魏だって一度真っ二つに割れているわけだが,その後さっさと再統一されているわけで。

その他,元スレのレスにいくつか反応をしてみる。「オスマン帝国はいいところまで行った」ようなそうでないような。当時の西欧はすでにかなり強大なので。第一次ウィーン包囲はかなり死者を出して撤退してるし。全盛期のスレイマン大帝でそれだから,モロッコとハンガリーが攻勢限界だったのでは。
→ 「中国は北方民族のおかげで統一された帝国が維持された」のはどうかなー。地理的に考えても,華北統一の理由にはなっても華南関係ないし,歴史的経緯を考えても,これが直接の理由になってることは無いと思う。ただ,ヨーロッパは縦深が深く,ロシア平原からパンノニア平原までで遊牧民の侵入が食い止められているという事情はある。でも,本題に立ち返るなら,そもそもゲルマン人は遊牧民ではない。
→ 「西欧のほうが山がち森林で統一が難しかった」森林の要素は大きかったと思う。遊牧民の機動力が削がれるので。でも,山がちという点で考えると,ロシアからフランス北部は大平原地帯なわけでそうでもないのでは。中国も華北の中原を除けば山がちな部分が多いので,一概には。
  
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2013年09月25日

第226回『チェーザレ・ボルジアを知っていますか?』モーニング編集部,講談社

漫画『チェーザレ』の副読本。内容はルネサンスに至るまでのヨーロッパ史・イタリア史概説,キリスト教カトリック・ローマ教皇庁の簡単な紹介,ルネサンス期のローマ・教皇庁の紹介,ルネサンス期の国々・都市・人名・名家の事典,最後にチェーザレ縁の地の観光案内と,なぜかワイン・関連書籍・ドラマの紹介が入って終わる。内容は,一つ一つ見ていくと薄いところもあるが,多岐にわたっているのは間違いなく,最後の宣伝も含めてがんばって全部網羅しているというところはある。軽くここまでのおさらいをするにはこれで良かろう。

ただし,多くのチェーザレファンが本当に「軽く」を求めていたかは疑問である。もっとがっつり深く掘り下げたものを,どちらかというと期待していた。また今後の展開のネタバレを不自然に避けていることによって一々中途半端に終わっているところも気になった。たとえばジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世に即位することは明記されているのに,ロドリーゴ・ボルジアの項目ではアレクサンデル6世に即位したことが書かれていない。どうもちぐはぐである。史実を追っているのだから,そうむきになってネタバレを回避しなくても良かったのではないか。

そうしたややこしい処理をしつつ,かつ膨大な情報を取り扱ったせいか,初版は多くの誤字・誤謬がある(2版以降があるのかどうかは知らない)。誤解というよりは誤字・誤謬と言ったほうがいいミスばかりだったので,そこは原基晶がちゃんと監修しているのだろう。一読して私の気がついた範囲で一覧に示しておくので(amazonの後段),買われた方は参考にしてほしい。



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2013年09月15日

アメリカ外交史の転換点は?

・「世界の民主主義を守るためにアメリカは立ち上がらないといけない」この傲慢な発想はどこから来たのか? パットン将軍、自腹でシアーズ・カタログから部品を購入(Market Hack)

本当はこういう記事は2,3ヶ月経って忘れた頃にツッコミを入れることにしているのだが,これについてはモヤモヤが晴れないので今のうちに書いておく。この記事,何がまずいかというと史実の指摘が怪しいか,明確に間違っている点がいくつかある。

0.この論って正しいの?
極端な誤りではないが,厳しいと思う。要約すれば「建国以来孤立主義だったが,その風潮にウィルソンがWW1を通して「スーパーヒーロー症候群」を植えつけた。そこで中東情勢にもかかわりを持った。世界恐慌で一時孤立主義に戻ったが,ホロコーストのような人権弾圧を見て,再び”人権”と”民主主義”を掲げる世界の警察を自任するようになった」ということになる。が,1.まず「建国以来孤立主義だった」というまとめは簡潔な表現にしても粗雑。モンロー宣言には言及しなくてよいのか。  2.WW1と世界恐慌は決定的な転換点ではない。 3.アメリカはおそらく戦間期の中東情勢にはかかわりが薄い。 4.ホロコーストは理由の一つに過ぎない。むしろトルーマン・ドクトリンへの言及がないのは本当に意味不明。 そのほかにウィルソンだけを過大評価であり,アメリカの民主主義の特質は他の点にもあるはず,という点は指摘されるべきだが本稿では扱わない。


1.話の始点はそこでいいの?
まずスタートでせっかく独立戦争そのものが孤立外交の起源だという指摘をせっかくしているのに,モンロー宣言に言及がないのは片手落ちである。独立直後から孤立外交に向いたのはジョージ・ワシントンの方針だが,これを明確な形で示したのはモンロー宣言になるし,モンロー宣言がその後120年ほどのアメリカ外交の基本方針となった。

ナポレオン戦争で本国スペインが荒廃したことにより,ラテンアメリカ諸国に独立の機運が巡ってきた。そこでウィーン体制下の反動主義に染まった欧州諸国は独立鎮圧に動くのだが,これに対抗してアメリカの出した宣言が1823年のモンロー宣言だ。トルーマン・ドクトリンにあわせるならモンロー・ドクトリンという表記になるが,モンロー宣言が定訳になっている。モンロー宣言は,実は単純な孤立主義というわけではない。正確な意味は「ヨーロッパ諸国と新大陸諸国の相互不干渉」になる。ベーリング海峡のことを無視して「大西洋間の相互不干渉」と簡潔に言う場合もある。独立した新大陸諸国はヨーロッパとは異なった政治体制を作るので,欧州の古い秩序を持ち込まないでいただきたい,ということだ。ちなみに,モンロー宣言全文はアメリカ大使館のHPで日本語訳で読める。同サイトにはトルーマン・ドクトリンもある。

もちろん,この宣言もアメリカ合衆国に発言力が無ければ効果は薄く,事実当時の合衆国は独立40年程度のいまだひょろっちい国家であった。では意味がなかったかというと,ちゃんと布石はあった。当時のイギリスは外相カニングのもと,「欧州諸国との協調よりも,独立を支援して新国家を経済支配したほうが国益に叶う」と判断し,ウィーン体制からの離脱を図っており,強力な海軍を用いて独立側を支援していた。アメリカが最初はイギリスの威を借りて孤立主義に振れたことは意外な事実かもしれない。ちなみにイギリスはラテンアメリカ独立支援のための共同宣言をアメリカに呼びかけているが,これをつっぱねて単独宣言としたのがモンロー宣言だ。アメリカからしてみればイギリスも「侵略者」には変わらなかったのであるが,にもかかわらずその威だけ借りてしまう辺り,見事なリアリズムであろう。

この点,モンロー宣言に関する誤解がそれなりに広まってる感があるので指摘しておく。モンロー宣言は合衆国自身の独立維持・内政専念が当初の目的であって,最初からラテンアメリカ諸国に対する保護権を主張したものではない。前述の通り,当時のアメリカには単独で対外進出するだけの国力はなく,ヨーロッパの騒乱が新大陸に持ち込まれ,それにアメリカが巻き込まれるのを嫌がっていたからこそ,範囲を自国のみならず新大陸全体に広げたのである。一方,ラテンアメリカ諸国の”飼い主”が切り替わる契機は1889年のパン=アメリカ会議とされており,少なくともその時点までは明確にイギリスである。当初から保護権を訴えたものと解釈すると,この点で矛盾が生じてしまう。ただし,モンロー宣言の中に将来的に読み替えることができるだけの余地があえて作られていたことまでは否定しない(後述)し,当初からラテンアメリカに興味関心があったと言うことはできる。ちなみに日本語版Wikipediaは誤解された解釈をとっている。oh......

無論,これだけのことを書けというのは記事を冗長にしろと言っているようなもので,それは私も勧めないが,それにしてもモンロー宣言の一言も無いのは首を傾げるところだ。「ボストン茶会事件」を出すならよほどこっちだろう。また,アメリカの世界の警察論をちゃんと語るなら,本当はジャクソニアン・デモクラシーや明白な天命論あたりに触れたほうがいいわけだが,話が拡散するのでここではしない。というか別の人がしてくれるはずです(他力本願)。


2.アメリカは世界恐慌を契機に孤立主義へ回帰した?
アメリカはモンロー宣言後,順調に国内開拓を進めていた。その間には南北戦争やフランスのメキシコ出兵があったがここではおいておく(後者はモンロー宣言が実効力を示した初の出来事だ)。そして1890年,「(国内)フロンティアの消滅宣言」を行う。こうしてようやくアメリカの対外進出が始まる。最初の干渉の方向はカリブ海と太平洋・アジアであった。前述のWikipediaでは「ここでモンロー宣言は破棄された」と書いているが,これは完全に意義を取り違えている。「大西洋間の不干渉」なのだから,太平洋・アジア方面はモンロー宣言の適用範囲外だ。ただし,拡大解釈がなされて宣言の目的が読み替えられてはいるのは確かだ。国力増大を背景に,モンロー宣言はアメリカ合衆国によるラテンアメリカ覇権の正当化に読み替えられた。ラテンアメリカ保護者の地位をイギリスから奪ったのである。本当はここでジョン・ヘイの門戸開放宣言にも言及したほうがいいのだが,それこそ冗長になるので避ける。ともかく,アメリカはモンロー主義を維持したまま,ラテンアメリカや太平洋・アジアへの進出(侵略でもいいが)を強めていった。

そこでWW1とウィルソン主義が,モンロー主義の例外を生んだのは確かである。が,ポイントは戦後すぐに孤立主義に戻っていることだ。国際連盟への不参加は,直接的には共和党の反対,つまり国内の政党間の争いが原因だが,その後世界恐慌までアメリカ大統領は共和党から選出され続けることになる。アメリカ世論自体が孤立外交への回帰を希望しており,ウィルソンが例外であった。戦間期のアメリカは徹底したモンロー主義だ。太平洋・アジアに対しては主導的にワシントン会議を開いて利害を調整したが(私はワシントン会議を日本いじめと評価する向きは不当だと思う),ヨーロッパへはWW1で生じた債権の回収に必死であっただけだ。ドーズ案・ヤング案はこの向きで理解されうる。すなわち,アメリカの民間資本をドイツに注入することでドイツ経済を回復させ,賠償金が滞りなく英仏に支払われることで,ようやく英仏から債権を回収できた。

世界恐慌の発生は,このドイツへ投資したアメリカ民間資本の引き上げを意味した。そうして世界恐慌はアメリカからヨーロッパへ,そして世界へ拡散していく。しかし,これはあくまで経済的な話であって,ここを孤立主義外交への転換点としてピックアップする意味はほとんど無いと思う。


3.アメリカがシリアの独立と国境画定にかかわってたって本当?
正確に引用すると「なぜなら第一次大戦の戦後処理の過程で、異教徒同士を無理矢理ひっつけて、シリアという国の線引きをしたことに、アメリカも一枚噛んでいたからです」である。疑問形にしたのは,私自身ここら辺の専門家というわけでは全く無いので,否定しきれないからである。しかし,少なくとも一般的な解釈で言えば疑問符のつくところなのは間違いないと思う。

さて,話をシリアに向ける。問題の根本は中東一体を支配していたオスマン帝国の戦後処理について,イギリスが戦中に,交渉相手別に三枚舌を使った外交をしていた点である。これが大戦末にロシア革命を起こしたソヴィエト政権によって暴露されてしまい,戦争協力の見返りに独立の約束をされていたアラブ人の不満が爆発,イギリスは窮地に陥った。ウィルソンの平和十四箇条の第一条にわざわざ「(帝国主義的な)秘密外交の禁止」とあるのはこれが理由である。一方,元記事が挙げている第十二条は,確かにオスマン帝国支配下の民族独立を挙げてはいるが,その周囲の条項を見ると「バルカン半島問題の解決」や「ポーランドの独立」,「イタリア国境の調整」などが挙げられており,中東のプライオリティが特別に高かったわけではない。さらに言えばこれもソヴィエト政権が先回って「平和に関する布告」を発表して民族自決を訴えているのに対し,植民地に対する共産主義勢力の影響力拡大を防ぐため,資本主義国家の側からもそうした発表を出さざるを得なくなった,という事情がある。英仏では持っている植民地が膨大すぎるため無理であった。一方,大規模な植民地はフィリピンくらいしかないアメリカは言いやすかった。

そして十四箇条通りにアメリカが動いたかというとそうではないのは指摘済だが,一応中東に話を限って具体的に見ておく。結局「アラブ人の独立国家建設」と「ユダヤ人のナショナル・ホーム建設」,「英仏露による中東の分割」という3つの戦後処理方針が衝突した結果,「中東地域は独立の準備が整っていないという名目で国際連盟預りとし,国際連盟が英仏に統治を委任した」という形式での,英仏の勢力圏となった。シリアはフランスの委任統治領となったが,当初は現在よりも北側に膨らんでいた。これはオスマン帝国と連合国の講和条約セーヴル条約によるものであった。しかし後の国父ムスタファ・ケマルがセーヴル条約締結を認めず,失地を大きく回復した上でトルコ共和国を樹立し,改めて講和条約を結び直した。これがローザンヌ条約になる。ローザンヌ条約によりフランスの委任統治領は少し削られ,こうして現在の国境線を画定した。

というわけで見ていくと,そもそもアメリカって国際連盟加盟してないよね,という時点で委任統治領の範囲策定にかかわれるわけがないで終わりと言えば終わりなのだが,ついでに言えば私の確認した範囲ではセーヴル条約・ローザンヌ条約両条約の締結国にアメリカは入っていない(セーヴル条約の条文はこちらローザンヌ条約はこちら)。一応,セーヴル条約ではアルメニアの国境画定にウィルソンからの言及があり,ローザンヌ条約ではアメリカから派遣された代表がトルコ側の擁護に立っていたようだが,シリアはやはり無関係のように見える。本当はアメリカがかかわっていたのなら,詳しい人がそう解説してくるのを待ちたいところだ。ついでにこれもWikisourceだが,平和十四箇条の原文を見ても「Syria」の言葉はない。


4.トルーマン・ドクトリンには言及しなくていいの?
最後にコレ。まさか言及が無いとは思わなかった。「WW2がアメリカが世界に積極的にかかわっていかざるをえなくなった契機になった」というならまだしも,ホロコーストだけを挙げてウィルソン主義が復活したから,というのはあまりも理由が断片的すぎる。記事中にもある通りWW2においてアメリカは当初消極的な態度であったが,真珠湾にヨーロッパ第二戦線形成と,強制的に参加させられていった(少なくとも表面上は)。「民主主義の兵器廠」を名乗ったあたりは確かにウィルソン主義的な考え方も見えるが,あくまで”兵器廠”であって直接参戦を示唆したものではない。ここにおいてもアメリカはいまだ巻き込まれた側には違いないのであって,自分から日本やドイツに宣戦布告したわけではないのだ(少なくとも表面上は,と注記しなくてもいいか)。

一方戦後のアメリカは引き続いて冷戦にもかかわっていくことになるが,こちらで”巻き込まれる”という表現は中立的ではあるまい。よって,ここでトルーマン・ドクトリンは大きな意味を持つ。なぜならあれは「アメリカ合衆国がソ連封じ込め政策を取る上で,”積極的に”トルコとギリシアを防衛する」,すなわち「巻き込まれるくらいなら先んじて西側国家の防衛・拡大をする,それがヨーロッパであっても」という宣言なのだ。トルーマン・ドクトリンはこの点でモンロー宣言の撤回が明確である。その積極性でも,”ヨーロッパ”という点でも。仮にWW2を「アメリカが他の主要国の水準で国際社会にかかわりを持つようになった」契機として強調するにしても,「世界の警察」と化した契機はやはりトルーマン・ドクトリンではないか。ついでに言えばアメリカが積極的な外交姿勢になったのは冷戦が大きな理由であって,人権や民主主義が前面に出てきたというわけでもないと思うのだが,どうだろうか。  
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2013年05月14日

主権国家と国民国家

某所で「国民国家という統治システムはウェストファリア条約のときに原型が整った」という文章を読み,それはどこの別世界だよと思ったのだが,本題でなかったこともあって,自分以外特に誰からもツッコミが入っていなかった。冷静に考えるとえらい錯誤である。「国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のこと」と国民国家を定義しているわりに,「以後400年ほど国際政治の基本単位であった」と書いているから,この方は主権国家と国民国家を取り違えているように見える。それほど長くなく,この記述に関して思うところを書いておく。

言うまでもないが,ウェストファリア条約で成立したのは主権国家体制という国際秩序であり,はじめは西欧だけであったのが,西欧の世界進出とともに20世紀初頭までに全世界に広まっていったものだ。1648年にウェストファリア条約が締結された時点で,西欧に国民国家が存在したかと言われるとほとんどの歴史家は首を傾げるところだろう。当時の西欧国家は絶対王政の政体を取っており,社会体制としては国民国家ではなく社団国家であったからだ(絶対王政・社団国家については手前味噌ながら過去記事を参照のこと)。

ウェストファリア条約によって封建社会的な,国境や権力の所在の曖昧な領域は消滅し,主権を持つものと持たざるものが強制的にすぱっと分けられ,ある領主は一社団に据え置かれた一方で,ある領主は突然国家元首と認定された。そうして超小国から大国までが,権利の上では平等な国際秩序が(少なくとも形式上は)成立したのである。だからこそ「社団国家」の成立と「主権国家(体制)」の成立はほぼ同期するのであり,この観点から言えば王権は政府と同化することで国内唯一の主権となったのだから,”絶対”王政というネーミングは正しい。そして,だからこそウェストファリア条約は”国家なのかそうでない連合体なのか判然としない”ことがアイデンティティとなっていた神聖ローマ帝国にとって,「国家としての死亡証明書」だったのである。これが国民国家では意味がまるで通じない。

ついでに言うと,封建社会から絶対王政(社団国家)への移行・主権国家体制の”完成”がウェストファリア条約であって,移行期自体はもっとその手前である。おおよそ英仏百年戦争(1339〜1453),イタリア戦争(1494〜1559)がそれぞれの端緒であると言ってそれほど異論は出まい。その意味で,冒頭の文は「原型が整った」の部分もおかしく,誤りが二重である。無論,「ウェストファリア条約によって国民国家が完成した」でも十分におかしい。

一方,国民国家は(西欧においては)社団国家の発展形態であるから,当然ウェストファリア条約よりも後代になる。社会形態なんてものは明確に何年からこうだ,と切り替わるものではないから,すぱっと切ることは難しいが,アメリカ独立とフランス革命,産業革命がそろってゆっくりと切り替わっていったとして,これも異論はほとんどあるまい。確認のため定義を書いておくが,社団国家では国家(政府)と国民の間に社団という中間団体が入り込み,国家が国民を把握しきっておらず,そもそも国民の範囲も曖昧であった。これに対し,国民国家は社団を排し,国家が国民を直接把握している状態を指す。逆に言って国民は国家への帰属意識を持っている。

最後に,再度冒頭の元記事の方の定義を検討しておく。「(国民国家というのは)国境線を持ち、」→これは主権国家のこと。「常備軍と官僚群を備え、」→これは中央集権的な国家であれば多くで共通する事象。「言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のこと」→この辺は国民国家の定義と言っていい。要するに最後の部分を言いたかったがためにいろいろ盛ったはいいけれど,最初の「国境線を持ち」の起源から思わずウェストファリア条約のことを挿入してしまったのではなかろうか。あとは国民国家の前提として主権国家の存在があるとして,ウェストファリア条約を国民国家の原型が整った瞬間としたのかもしれない。が,これも絶対王政を無視した言葉の使い方であって,適切ではない。

なお,元記事の本題は「グローバリズムが国民国家を壊す」という話題である。この記事では元記事の本題の話はスルーした。それゆえにリンクも張っていないが,どうしても読みたい方はこの記事の引用部分でぐぐればすぐに出てくるのではないかと思う。
  
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2013年04月25日

人類史において最重要な『5つの出来事』は?

元ネタ。というよりも,歴史トークでよくあるネタの一つだろう。これに対する単純明快な回答は,火の使用・言語の使用・文字の使用・獲得経済から生産経済への移行・宗教の発明,あたりだろう。言語と文字を一括りにするなら,金属器の発見か,貨幣の発明あたりで5つになるかもしれない。要するに古代文明の発明・発見は人類の基盤すぎて異論を出しづらいのである。

しかし,私はこのような回答が本当に問いに答えているのか,少し疑問が残る。特に火の使用と言語の使用は人類の知能進化の過程に深くかかわるので危うい。アウストラロピテクスやラミダス猿人も人類に含むのか?という問題点も出てくるし,だったらそもそも「二足歩行の開始」が最大の発見だろう,とかいう話も出てきてしまう。少なくとも「現生人類の歴史」とするなら,この2つはダメだ。さらに,文字の使用や農業の開始・宗教の発明等は,確かに現代の人類の基盤をなした点で重要ではあるが,これも本当にそうかと考えると疑問の余地がある。なぜなら,これらは世界各地で多発的に発生しており,文字や農業は人類の発展において必然的に生じた事象のように見え,「出来事」性の弱さを感じるからだ。要するにライプニッツとニュートンはほぼ同時期に微積分を発見したし,アインシュタインがおらずとも相対性理論は誰かが発見していたであろう,というあの話の系統に通じると思われる。ゆえに,古代史の諸発見は「人類史を,今ある状況にねじまげた画期的な出来事」だったとは,あまり思えないのだ。

という言い訳を言わずとも,やはり冒頭に掲げた通り,十人中ひねくれ者を除いた九人が同じ回答をする問題提起というのも芸がないと思う。そこで,私自身が答える際には,自分なりに次の条件を課した。注目すべきは問いの「人類史」という点と「出来事」であるという点ということで,

・偶発的な出来事であること:必然的に生じた出来事は,どれだけ現代人類にかかわっていても重要性が低いとみなす。
・人類史を思わぬ方向に変えた出来事であること:神が人類史を10回試行したらその中の数回しか起きそうにない,または起きてもそれぞれの回で起きたタイミングが全然違いそうな出来事が良い。
・地域ごとの特殊性を生じさせたものではなく,人類全体にインパクトを与えた出来事であること:たとえば,秦の始皇帝による中国統一は,その後の中国史を決定的に変えた,かつ偶発性の高い出来事だと思うが,では人類史全体を大きく変えた出来事かというと,中国とその周辺地域に対する影響に限定されるのではないかと思う。これはやりだしたら切りがないと思う。一地域に一つ,そういったものを挙げていったら5つではとてもじゃないが足りない,というのがこれを除外の条件とした理由だ。

こうすると,人によって大きく意見が分かれるようになるのではないかと思う。たとえば,コロンブスの航海は必然であったか否か。キリスト教の誕生は西洋の特殊性を生じさせたのみのものか,それとも人類全体の思想に影響を与えたものと見なすのか。等は確実に人によって意見が分かれるところではないか。


で,選んだのが以下の5つ(7つ?)の出来事である。

1.張騫の西域行(次点:アレクサンドロスの東征) 2.モンゴル帝国の成立(パックス=モンゴリカ) 3.コロンブスの大西洋横断(次点:産業革命) 4.フランス革命orアメリカ独立革命 5.サラエボ事件

テーマとしては「世界の一体化とその後」になる。人類史ならまあ大雑把に区切って,古代・中世までの「諸世界の確立と相互の接近」,中世末から近世の「世界の一体化の進行」,近代の「一体化の完成と西欧覇権」,そして現代史の起点としてのWW1になる。それぞれから1・2つ選んでいったのがこの5つ,と一応考えた。それぞれの理由に軽く触れておく。

1.張騫の西域行:「世界の一体化」の起点は,アメリカ大陸やオセアニアの人類には悪いのだが,なんだかんだ言ってもシルクロードであると思う。これにより旧大陸の大部分は横断的につながる。また,これが”横断的”であったことによってアメリカ大陸の諸文明との大きな違いが生まれた点は『銃・病原菌・鉄』で指摘がされている通りだ。なぜ「オアシスの道」が生じたかを考えたとき,もしくはなぜ紀元前3〜2世紀頃から活発になったかを考えた時,理由は様々にあるが(遊牧民の勃興・前漢やローマの成立等),偶発性が高く,かつ決定的な一打になった現象というとアレクサンドロス大王の東征か,張騫の西域行であったと思う。そこでなぜアレクサンドロスを落としたかというと,残りの4つのうち3つが西洋の出来事でバランスが悪かったというのが本音である。あとは,張騫のほうが時系列的に後なのでより開通させたというインパクトが強いというのと,3つめにコロンブスを挙げているので探検でそろえようかなという気持ちが無かったわけではない。

2.モンゴル帝国の成立(パックス=モンゴリカ):古代・中世を通して成立した諸世界は,相互に経済的・文化的に交流しつつも,独自の世界を保って融合しようとはしなかった。それを打ち崩して「一体化」を始めさせたのはやはりモンゴル人の偉業であろう。あえてチンギスと絞らなかったのは,実際のところ彼の一代ではあまり草原地帯からはみ出しておらず,本格的な農耕地帯への侵攻はオゴタイの代になるからである。とはいえ,オゴタイに絞ると今度はインパクトに欠けるので,大枠で取ってモンゴル帝国の成立で一つの出来事という扱いにしてみた。

3.コロンブスの大西洋横断:要するに大航海時代が世界の一体化が急速に進むことになる決定的な一打であったから,それを象徴する出来事を一つ入れておきたかった。その中で最もインパクトが強く,しかも極めて偶発的な現象であったものといえば,コロンブスになる点は異論があるまい。これはまた西欧中心の国際経済が勃興していく契機でもあり,ひいては産業革命の布石にもなった。ゆえに産業革命を間引いたという事情はある。また,産業革命は「なぜ中国で起きなかったのかは世界史上の謎の一つ」と言われる程度には必然性の高い出来事のように思わえたので,外したという話もある。

4.フランス革命orアメリカ独立:この2つは正直に言えばどちらでもよかったし,異論も出ない出来事だと思う。まとめて大西洋革命としても良かったが,名誉革命まで含むのはなんとなく違う気がした。西欧が決定的に世界の覇権を握る地域になっていったのは,産業革命及び,自由主義とナショナリズムの発明であろう。産業革命については前述の通り。しいて言えば,フランス革命も必然的な出来事だったのではないかという話は若干なりあるが,革命が失敗した世界線やルイ16世が財政改革に成功した世界線も全くないでは無さそうに思えたので,私は条件を満たしているものと考えた。この辺りも,人によって大きく判断が異なるところになるのではないか。

そして「長い19世紀」の残りの事象は,おおよそレールの上を走っていたように見える。いつ破裂するかわからない風船が膨らみ続けていたようなもので,膨らむ事自体は産業革命とフランス革命が起きた時点で必然だったのではないか。

5.サラエボ事件:で,その風船が破裂したタイミングがこれだろう,と。偶発性の高さは他の4つに引けをとらない。あの銃声が無ければ風船が破裂したタイミングも場所も,全く異なっていた可能性は高いし,そうするとWW1の過程や結果も大きく異なっていただろう。ロシア革命が生じなかったりすると,もう現代史は現実のものと全く異なる展開となる。冷戦まで含めれば直近100年が変わってしまった事件として外すことができない。


これはいろんな人の意見を聞いてみたいところで。私の条件に乗っかって回答してくれてもおもしろいし,「自分は問いの別の読解をしたので,違う条件を設定した」というのでも,その回答を見てみたい。乗ってくれる方がおられれば是非に。
  
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2013年03月15日

ローマ教皇に引っ掛けて

普通に更新しようかと思ったけど時流に乗って,いろいろ久々の記録となった昨今のローマ教皇の話題に乗っかって歴史ネタでも書いておこうと思う。


まず,ベネディクト16世の生前退位。当時話題になったがこれは約600年ぶりのことで,前回の退位は1417年のグレゴリウス12世である。これについてはKousyouさんが詳細にまとめているので,そちらを紹介しておきたい。要するに,当時の教皇庁は弱り目に祟り目であった。腐敗が進んでいたのは自業自得ではあるが,フィリップ4世によるフランスの動きは想定外ではあったのだろう。こうした出来事から教皇の権威が失墜していったものの,東方貿易の好況などからイタリア半島の好景気に乗り,むしろ経済的には富裕になっていく。そうして教皇庁がパトロンとして推進し,開花させたのがイタリア=ルネサンスであった。結果的に綱紀粛正は放置されて悪化し,100年後の宗教改革へと続くのは記事中にある通り。

その上でいくつか付け加えることがあるとすると,大シスマを解決したコンスタンツ公会議はもう一つ重要なことを決定している。ヤン・フスの処刑である。14世紀後半から教皇庁の腐敗に対し,聖職者からも批判が表立って出るようになっていた。その端緒になったのがイギリスのウィクリフとこれに共鳴したボヘミアのフスである。彼らの主張は教会のヒエラルキーの改革と腐敗の一掃,そして聖書中心主義であった。これを異端と断じた教皇・皇帝はフスを捕えて火あぶりにし,すでに亡くなっていたウィクリフは死体を掘り起こされてまで焼かれることとなった。これに対しフス派はプラハの市庁舎を襲撃し,市長を窓から放り投げてしまった。世に名高きプラハの伝統,第一次窓外放擲事件である。この事件が端緒となってフス派と皇帝は戦争になる。これが約20年にわたって続いたフス戦争であるが,歴史上初めて銃火器が効果的に使用された戦争としても名高い。同じく銃火器が騎馬隊を打ち破ったチャルディラーンの戦い(1514年)の約100年前,長篠の合戦からは約150年前のことだ。

結局フス派の反乱はよくある仲間割れ,穏健派と過激派の抗争で自壊したが,ボヘミアは以後も聖書中心主義の遺風が残った。そしてコンスタンツ公会議から約百年後の1517年からルターの宗教改革が始まったのは前述の通りであるが,そこで掲げたのはやはり聖書中心主義であった。そしてさらに約百年後の1618年,第二次プラハ窓外放擲事件により,ヨーロッパ最大の宗教戦争「三十年戦争」が勃発する。しかし,この三十年戦争でボヘミアの新教徒は一掃され,カトリック圏に回帰していく。現在のチェコもやはりカトリックが多い。一方,この三十年戦争の戦場となったドイツは壊滅的な被害を受け人口の1/3が失われた。このドイツを出身にローマ教皇に上り詰めたのがラッツィンガー枢機卿,すなわちベネディクト16世である。

また,コンスタンツ公会議を開催した主催者は当時の神聖ローマ皇帝ジギスムントであった。彼は元々ハンガリー王である。ジギスムントは当時勢力伸長していたオスマン帝国に対して十字軍を起こし,決戦を挑んだが大敗,むしろバルカン半島の南半はオスマン帝国の支配下に帰すことになる。これをニコポリスの戦い(1396年)という。このときオスマン帝国を率いたバヤジット1世はこの6年後,イランから侵攻してきたティムールとアンカラで戦って大敗している。トルコのイランからの騎馬隊に対するリベンジは前述の通り,100年後のチャルディラーンで果たされることになった。その後ジギスムントは神聖ローマ皇帝に,またボヘミア王に即位し中欧の覇者となるが,その統治はフス戦争をはじめとした混乱に見まわれ,決して順調とは行かなかった。彼の死後ルクセンブルク家は途絶え,替わってハプスブルク家が皇帝を世襲していく。

なお,オスマン帝国は1922年に滅亡したが,その最後の王家の人物が亡くなったのはわずか4年前(2009年)のこと。また,ハプスブルク家も1918年にオーストリア帝国が滅亡した。その最後の皇太子オットーも,2011年にとうとう亡くなった。なんとも気の長い話であるが,むしろ両家の先祖が600年前の出来事にかかわっていることを辿れること自体に歴史的なロマンがある。


さて一方,今回即位したのはフランシスコ1世である。ラテン語でフランキスクス(Franciscus)になるのでこれにあわせればこの読みになるが,イタリア語読みならフランチェスコになるし,また「2世がいないのに1世がつくのはおかしい」ということで単純に”フランシスコ”と読む向きもあるようだ。しかしイタリア語読みとするとベネディクトも”ベネデット”としなければならないはずで辻褄が取れないし,未来に2世が出てきたときに混乱するから,今から1世をつけておけばよい話で,個人的には「フランシスコ1世」が良いように思う。サンフランシスコやフランシスコ・ザビエルのお陰で日本人的には馴染みがあるし。まああと一週間ほどで呼び方は定まるだろう。

フランシスコの名前はフランチェスコ修道会を開いたアッシジの聖フランチェスコから来ている。そういえばベネディクト16世も同じように修道会を開いた聖ベネディクトゥスから名前をとっているので,これにならったのかもしれない。もっとも両修道会の性質は大きく異なる。ベネディクト修道会は6世紀に成立したカトリック最後の修道会で,掲げられた理念が「祈り,かつ働け」であるように農業を生活の基盤とした。一方,フランチェスコ修道会は13世紀初頭,もうイタリアが東方貿易で経済的に豊かになりつつあった時期に成立したため,都市を中心に活動し,托鉢によって生活の糧を得ている。この違いは中世ヨーロッパ史の両端を見ている気がする。

南米出身は初だが,非欧州ということならさかのぼれる。フランシスコ1世の前の非欧州教皇は1300年前のグレゴリウス3世で,シリアの出身であったとされる。無論ドマイナーな教皇だが,彼の在位中にはどでかい出来事が起きている。トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)である。実はベネディクト16世もかなり久々のドイツ人教皇であった。彼の前のドイツ人教皇は950年前に在位したウィクトル2世であるが,やはりドマイナーな人物で,在位もわずか2年ほどであるためほとんど書くことがない。しいて言えば,彼の縁戚にカノッサの屈辱で有名なハインリヒ4世がいる。こんなところでもフランシスコ1世はベネディクト16世に張り合っているのであった。


次の教皇はドミニコ1世にしよう(提案)
  
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2013年03月10日

−絶対王政と革命−(2013一橋大世界史第2問)

2013年一橋大世界史第2問

さて,一橋大である。ひどく長い問題文だが,要するに,1787年の名士会による三部会開催要求が,革命にあたるか反乱にあたるか考察し,ディベート風に両論並立で答えなさいという要求だ。副題兼ヒントとして,絶対王政の成立による国王と貴族の変化,及びフランス革命のスローガンを参考にしろという留意事項がついている。

この問題の最大の特異点は「考察しなさい」の一言である。「論じなさい」はありうるが,「考察しなさい」はちょっと見たことがなかった。たとえば今年の東大も語尾が「論じなさい」だが,必要な歴史用語の名前とその説明を組み合わせれば,”立論”できてしまうように作問されている。ただし,その組み合わせるべき情報の取捨選択力と,文章構成力は極めて高度な部類のものが求められている。普段の一橋の問題も,方向性は違うが必要な能力は似たようなものだ。

が,この一橋の問題はすごい。これが「絶対王政の性質について説明しなさい」なら,合格するような受験生は解答できたはずだ。「フランス革命の歴史的意義について論じなさい」だったとしても,巨大すぎるテーマだが,筆が止まるということは無かったであろう。が,「なんでも”説明”してやる/論じてやる」という心構えのほとんどの受験生は,この問題を見てさぞかし困惑したに違いない。一見すると,立論の道具がほとんどないからだ。

知識だけで考えれば受験世界史範囲内でなんとか解答可能であるあたり,巧妙な問題でもある。副題兼ヒントも,武士の情けか,とても良いところに提供されている。そして,受験生の困惑を横に置いておけば,非常におもしろい問題である。歴史理解とは用語や年号の丸暗記ではなく,事象に対する理解力でもなく,時代ごとの特徴を説明できる能力だとする理想主義には賛同したい。が,それが大学入試で問えるかどうかは別問題であって,ひとまず現下の受験生には無茶ぶりではなかったかという懸念はぬぐえない。

というわけでこの問題,絶対王政とフランス革命に対する理解さえあれば,受験生的な知識がなくても解ける。そういう意味では,受験生的な解答作成マインドがないほうがとっかかりやすいかもしれない。以下に私なりの解答解説を掲載しておくので,腕に自信のある方は挑戦してみて欲しい。なお,私の解答が正しいとは限らない。


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2013年03月09日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2013 その2(慶應大・早稲田大)

昨日の続き。今年のワースト賞は早稲田の政経学部に進呈。

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2013年03月08日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2013 その1(上智大)

書籍版ができました!この年度も収録しています。


・序
昨年の記事は大変好評をいただき,このブログでも一,二を争う長期ヒット作となった。読者の皆様に感謝申し上げる。基本的な目的意識については昨年のものとなんら変わりない。つまり,悪問や度を超えた奇問・難問に対する糾弾である。なぜならそれらの大半は偶発的な事故や意欲的な作問の結果などではなく,大学という教育研究機関にあるまじき知的怠惰の結果から生まれるものであり,それもほとんどの場合一切釈明しないという傲慢な権威主義が見られるものだからだ。本記事は単なる悪問の収集を行うだけでなく,どうしてそのようなことが言えるのか,解説を加えていくものである。ただし,収集の目的が主であるから,きちんと釈明された問題や単純な出題ミスについても収録している。ミスのない人間などおらず,謝罪・訂正のあったものについては全く批判する気はない。この点ご了承いただきたい。


・収録の基準と分類
基準は昨年と全く同じであるので再掲する。

出題ミス:どこをどうあがいても言い訳できない問題。解答不能,もしくは複数回答が認められるもの。
悪問:厳格に言えば出題ミスとみなしうる,国語的にしか解答が出せない問題。
→ 歴史的知識及び一般常識から「明確に」判断を下せず,作題者の心情を読み取らせるものは,世界史の問題ではない上に現代文の試験としても悪問である。
奇問:出題の意図が見えない,ないし意図は見えるが空回りしている問題。主に,歴史的知識及び一般常識から解答が導き出せないもの。
難問:一応歴史の問題ではあるが,受験世界史の範囲を大きく逸脱し,一般の受験生には根拠ある解答がまったく不可能な問題。

難問の分類について注記しておく。大学入試という形式上,どれかしらの高校生向け検定教科書に記載があることが,最低限の基準である。ゆえに本記事で言及する「受験世界史の範囲」は,「山川の『用語集』に頻度,任發いいらとりあえず記載があるもの」とした。おそらく,これが「受験世界史の最広義の定義」であり,ある種の「受験生と大学の暗黙の了解が守られる限界のライン」であろう。特に慶應大学の作題者は『用語集』の頻度 Ν△鯀世辰討ている節があり,信義をギリギリで守っているがゆえに早稲田や上智に比べると収録数が少ない。逆に言えば,少し基準を緩めただけで大量に引っかかるということなのだけれど。

もっとも,現実的に考えると,販路の限られた教科書の全種類に受験生が触れることは実質的に不可能であり,また他科目への圧迫ともなる。ゆえに,多くの教科書に記載がある=少なくとも用語集頻度がぐ幣紂い修靴道垣遏ε貊顱実教のいずれか1冊以上で言及のあるもの,というのが本来の適正な「受験世界史の範囲」であろう(東大や京大はほぼこの基準を守っている)。あわせて,たとえば「 銑いら選ぶ正誤判定で,,寮飢鬚棒賁臈な歴史用語が使用されているが,◆銑い全て(マイナーではあれ)受験世界史範囲内知識であるため,なんとか,正解とわかるパターン」のようなものは収集対象としていない。

・総評
今回のリストも総数で約40,昨年とほぼ同じ数が積み上がったものの,比較的小粒である。昨年に比べると悪問は量的に変わらないながら,質的にはおとなしくなったといえるだろう。喜ばしいことである。一方で「日本語がひどいせいで悪問」というものは昨年と変わらず目立ち,これを作ったのが日本の学術をリードしている方々だと考えると暗澹たる気分になる。また,今年の本当のラスボスは早大ではなく一橋であった,ということは付記しておく(まあ一橋大のアレは一応受験世界史範囲内で解答可能だけれども)。

以下,具体的なリストに入る。本日は上智大のみで,慶應大・早稲田大については明日出落ち感が半端ないのでご注意。

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2013年01月20日

第零(−1)次世界大戦的な

・【1688】第二次英仏百年戦争【1815】(歴史的大敗)
→ 財政軍事国家という言葉の定着度。高校世界史でも見るようになってきたし,遠くない未来に完全に定着するかもしれない。とはいえ,その根本的な理由が英蘭同君連合と議会政治のおかげ,なのは間違い無いだろう。名誉革命は本当に歴史の転換点だと思う。あそこでオランダがフランスに取り込まれていたら,どうなっていたか。
→ この辺の外交は本当におもしろい。主要諸国の立ち回り。ファルツ継承戦争と対オスマン帝国戦争,スペイン継承戦争と大北方戦争の同時進行のカオス具合とか。
→ 七年戦争でオーストリア勝利のifは考えたことなかったけどおもしろそうではある。概ね>>15に同意なのだけど,あえて言えばフランス革命は不可避だったと思うので,「誰がナポレオンを止めるか」というところで,プロイセンが不在なので結局ロシアとイギリスなのかな,と。ナポレオン戦争の過程で第二次英仏百年戦争がイギリスの勝利で帰結して,そこでドイツ情勢以外は史実に合流するような気がする。ドイツは分裂したまま20世紀を迎えるか,大ドイツが結実するか。
→ 大ドイツは露仏が露骨に妨害するだろうが,仮に実現するとしたらロシアへの防壁としてのイギリスの支援ありきだろう。特にフランスが親英路線だったナポレオン3世期であればなんとかなるかもしれない。もっとも,成立した大ドイツが帝国主義に路線変更すればイギリスとも衝突するわけで,イギリスにとっては長期スパンで裏目に出る政策のような気がする。そこまで見通してイギリスが支援せず,大ドイツが成立しないパターンのほうが可能性的に高そうだ。
→ 問題はさらにその先で,ドイツ帝国(大小問わず)もアメリカ合衆国も,存在しないか成立が遅れるとすると,パックス=ブリタニカも延長するわけで。そうすると,極端な話WW1が起きないかも。起きたとしてもグレートゲームの延長線上に起きるわけで,時期も対立の構図も全く異なるだろうなぁ。英墺VS仏露とか胸熱。
→ 僕の妄想はこの辺りが限界なので,誰か続きを考えてくだしゃあ。


・絶対零度の逆、温度の上限とは?(動画)(ギズモード・ジャパン)
→ これは全然考えたことなく,ほぼ無限なんだろうと漠然と思っていた。事実上の上限もあるのね。
→ いわく「現行理論では何が起こるかわからない」「ブラックホールができてしまう」


・「中二病」概念の変遷史(Togetter)
→ いいまとめ。なんだかんだで,私の観測範囲では「中二」と「厨二」で使い分けている人が多い印象。
→ 邪気眼と影羅が歴史を変えたかなー。なんだかんだで邪気眼は偉大。


・ク イ ズ ! ど ち ら が 高 い 絵 で し ょ 〜 か ! !(ゴールデンタイムズ)
→ 全問当たったけどピカソは正直ちょっと悩んだ。オチを見て笑ったがな。
→ なお,知ってただけでセンスで当てたわけではない。こんなもんセンスで当てたなら相当シックスセンス的なものが働いていると思う。
→ 美術作品の価値は歴史性や文脈に支えられたものであって,その点は見目麗しいオールドマスターも奇抜な現代芸術も差はない。それを無視して現代芸術だけを貶めるのには加担したくないかな。
→ その意味では,歴史性や文脈の価値なので「ブランド性」というのもまた間違いだと思う。無論のことながら,これをセンス判別試験にするのはもっとひどい行為なのだが,このうp主はわかっててやっている気がする。誤答のチョイスがうまいので。技術的にはうまい,いかにも迷いそうなものを選んできている。
  
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2012年11月03日

絶対王政について

絶対王政はルイ14世があまりにも有名であるため,またその名前のイメージから,専制君主との区別がついていない人が多い。実際には,絶対王政と専制君主は根本的に異なる。

絶対王政は,中央集権化・近代化の過程で西欧に出現した特殊な政体である。中央集権的な国家体制とは何かといえば,少なくとも前近代においては国家に直属する官僚制と常備軍にほかならない。言うまでもなく常備軍こそが国内外で国家の権力を裏付ける軍事力であり,これを維持するための徴税機構として整備された官僚制が必要であった。しかし,これだけならば近世アジアに出現した専制君主国家でも共通する要素であり,絶対王政に特有のものではない。

西欧で出現した絶対王政は,まず極端な封建制社会から脱して,長い時間をかけて中央集権化していったこと。そして,大航海時代以降急速に力をつけた市民層が,既存の権力層とは別に社会の主役として登場してきたこと。この2点が他地域の専制君主と,絶対王政の決定的な差異を生むことになる。

絶対王政の特徴は,具体的に2つ挙げられる。1つは,封建制でもなく,国民国家でもなく,社団国家の体裁をとっていること。もう1つは,政府(国王)が貴族と市民のバランスの上で成立していること

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2012年09月13日

三英傑以外での天下統一?

・3傑以外で天下を取れた可能性が高い武将は?(哲学ニュースnwk)

ifの条件や「天下」の定義がもうちょっと明確でないとなんとも。下で出てるように,三好長慶はある意味天下とってたわけで。織田信長とそれ以外の大名の大きな違いは”天下布武”の在不在で,究極的な話,織豊政権が無かった場合日本は再統一されないまま近代を迎えていた可能性すらある。その場合は植民地コース一直線だろう。

ifとして「織田家は桶狭間の戦いを起こせず今川義元により滅亡」,かつ「惣無事令の実行=天下統一という定義」で考えてみよう。私的には,毛利が近かったかなと思う。京に近く,内紛も少なく,領土も大きい。織田がいたから播磨で止まったが,信長がいなければ1570年代末までに畿内進出は容易だろう。毛利も元就の時点では中国地方に地方政権を築くのが目標であったが,ここまで来れば彼らが天下統一の野心を抱くかもしれない。問題はその先で,伊勢・越前以東に進出できるかは別問題である。1600年までの天下統一は難しそうだ。

当の今川家は上洛後のビジョンが無いし,そもそも織田家滅亡後すぐに上京したかも不明である。一時期の頼朝同様尾張まで行けてもそこで止まりそうで,美濃・伊勢・伊賀を抜いても,そこで毛利と衝突する。義元が生きている間はいいが,死ねば史実同様に瓦解するのではないか。彼が戦死なので,寿命がどの程度であったかでまた変わってくると思う。

武田は仮に織田家がおらずとも東海道に下ってからの上京となり,以下今川と同じ。信玄死後の展開は義元死後の今川家よりはマシであろうが,マシというレベルではあると思う。上杉も同様の問題を抱えており,拡大しきる前に謙信が死んで史実通りの展開になる気がする。この辺は全部家督争いか,後継者を支える体制の問題を共通して抱えている。

後北条氏も,そもそも史実であまり織田家とかかわりがないので展開はほぼ変わるまい。ただし,1580年代後半になっても東進してくる大勢力がなさそうではあるし,体制もしっかりしているのでそうそう倒れまい。関東一円支配を達成し,そのまま毛利幕政まで生き残り,徳川家康のようなポジションを確立しそうである。毛利幕政が崩壊すれば,超長期的にはあるいは。

天下統一が史実よりも遅いとなると若干有利なのは伊達政宗だが,後北条氏が倒せそうにないので,結局南東北統一で止まり詰んでる。上杉が弱ってれば越後進出の芽もないわけではないが,その場合最上義光とどう決着をつけるかという問題が。史実よりはやや広い領土で終わるのではないか。長宗我部も間に合わないだろうし,島津もいいとこ九州統一だろうなぁ。どっちも毛利が壁になって本州に上陸できない。中部に武田か今川の大勢力ができて,かつ島津に遠距離外交をするだけの外交力があれば挟み撃ちもできるが,とてつもなく非現実的であろう。

  
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2012年06月14日

世界史用語の変化

10年以上前に高校世界史の勉強していた人向け。用語の表記変化一つとってみても,実はこれだけ変わっている。内容が変化したものも一部収録した。

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2012年04月26日

チェーザレ9巻 伏線書き出し

『チェーザレ 破壊の創造者』9巻。今回の巻はイタリア戦争を主とする,今後の歴史へのフラグ立てだらけであった。先の歴史がわかってるとニヤニヤすると同時に暗澹たる気分にさせられるシーンが多く,この辺の作劇において,本作は本当にうまい。以下,一応解題的に(ネタバレ注意)。
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2012年03月08日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2012 その2(早稲田大)

昨日の続き。本日は早稲田大。昨年度は日程的にも悪問的にも社会科学部がラスボスであったが,今年の社学は随分と丸くなり,とてもつまらない受験生にとっては良かったのではないかと思う。今年のワーストは商学部であった。

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2012年03月07日

受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2012 その1(上智大・慶應大)

書籍版ができました!この年度も収録しています。


・序
1990年代の大学入試が加熱していた頃より,難関私大の社会科(地歴公民)は悪問が多いと言われていた。そして一時期には大手予備校が中心となって非難したこともあったが,近年ではあまり騒がれなくなった。では,悪問が減ったのか?というと全くそうではなく,単純に世間が興味を失っただけではないかと思う。私は,非難の再燃まで狙っているわけではないにせよ,いまだもって悪問が跳梁跋扈しているという現状については誰かしらが記録に書き留めておくべきではないか。しかし,検索してみたところ意外にもそういったサイトが簡単には見つからなかっため,私がここにまとめてみようと思う。

なぜ出題ミスや悪問が許されないかと言えば,端的に言って公正さを欠くからである。より具体的に言えば受験生の努力を無に帰す行為である。また,これが私が最も腹を立てている原因なのであるが,多くの悪問は知的怠惰と傲慢さから生じているものであり避けがたい人為的ミスではない。ここは非常に重要なところで,前者と後者には天と地ほど開きがある。作題者も人間であるから,どれだけ注意をしていてもミスを起こすことはある。そのためにクロスチェックをするであろうが,複数の人間が見落とすことも稀にある。そういった場合には謙虚に謝罪し,その問題については受験者全員正解という措置をとれば,ある程度責任は軽くなる話なのである。少なくとも私はなんら糾弾しないし,私自身しばしば誤字脱字を起こすのでむしろ同情したくなる。

ところが,多くの場合はそうではない。明らかに課すべき出題範囲を把握しておらず,クロスチェックも通さず独りよがりに問題を組み,しかもミスを出したところで「グレーゾーンだから」として謝らない。はっきりと言ってしまえば教育研究機関としてあるまじき態度であり,知的怠惰と傲慢と言われても仕方がない。しかし,その実態は案外と知られていないのではないか。センセーショナルに一部のド級の悪問だけが騒がれ,それ以外は無視されているのではないか。

……という仰々しいのが大体の建て前で,本音が単なる収集癖である。


・収録の基準と分類
悪問というものを考えるとき,反対に言って良問・標準的な問題とは何だろうか。私は以下のように定義する。そしてここから外れたものを悪問として扱う。

・世界史という科目の都合上,歴史的な事象ないしそれに関連する地名を問うもの。
・大学入試という形式上,最低限どれかしらの高校生向け検定教科書に記載がある内容を範囲とするもの。これを逸脱するものは完全なルール違反である。
・また,現実的に考えて受験生が販路の限られた教科書の全種類に触れることは不可能であり他科目への圧迫となるため,可能な限り半分以上の教科書に記載がある内容を範囲とするもの。
・歴史的知識及び一般常識から,「明確に」判断を下せるもの。作題者の心情を読み取るものは世界史の問題ではなく,現代文の試験としても悪問である。

以上の条件から外れたものを,全て悪問として集計すると,早慶上智に限ったとしても,まだなお数が多すぎて私がパンクしてしまう。また,記事として煩雑になりかねない。よって,まず対象を特にひどい上智大・早稲田大・慶應大に限定し,さらにここからさらに厳しい条件を課しつつ以下のように分類してリストアップすることとした。

出題ミス:どこをどうあがいても言い訳できない問題。解答不能,もしくは複数回答が認められるもの。
悪問:厳格に言えば出題ミスとみなしうる,国語的にしか解答が出せない問題。
奇問:出題の意図が見えない,ないし意図は見えるが空回りしている問題。主に,歴史的知識及び一般常識から解答が導き出せないもの。
難問:一応歴史の問題ではあるが,受験世界史の範囲を大きく逸脱し,一般の受験生には根拠ある解答がまったく不可能な問題。

端的に言えば,「正答そのものが明白な難問(受験世界史範囲外)にあたるが,他の選択肢が受験世界史範囲内であるために一般の受験生が解答可能」というものは,ここではリストアップしないものとした。そうして厳選して残ったのが約40問になる。今回は上智大・慶應大について掲載する(早稲田大はこちら)。

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2011年08月06日

南北アメリカの歴史的相違点

・何でブラジルは豊富な資源や広大な農地があるのにアメリカみたいになれなかったんだ(歴史的大敗)

少なくとも民族性や気候のせいにするのはちょっと。まあそういうものも必ずしも無きにあらずという気もしつつ,と思ったので取り上げる。マジレスすると南米が経済発展しなかったのは長く続いた地主制(カウディーリョ)のせい,というところでおおよそまとめられると思う。独立はしたけれど,政治的独立は必ずしも経済的独立とは言えない,という話。また,ブラジルがBRICsにカウントされているように今後のことはわからないので,「今南米に『アメリカ合衆国』が存在しない理由」に絞って話をする。


植民地は「一次産品,農産物を本国に送り,かつ本国の工業製品を買わせる」という意味合いが強いので,普通本国のほうで縛って商工業は発展させない。よって,自然と地主が現地民をこきつかって農産物を量産する,プランテーション経営が成立しやすくなる。無論,時代や地域によって細かな形態の違いは無数にある。蘭領東インドの強制栽培制度のように,国家が租税という形で商品作物を強制栽培させるパターンもあれば,英領インドのように,白人が直接地主として赴くというよりも現地の元領主を地主として仲立ちさせるパターン。さらに,日本統治下の朝鮮半島やアルゼンチンのように,生産させられるのが商品作物ではなくて食料品(米,食肉)という場合もあった。

ラテンアメリカの場合,ヨーロッパ人が初めて植民地化した土地で勝手がよくわかってなかったということが悲劇的だったと言えるかもしれない。国王の許可を得た征服者(コンキスタドール)たちが,キリスト教布教を条件に原住民を労働力として活用する権利を得て,実質的な自立を図っていった。さらに,疫病や酷使によってインディオの数が大きく減ってしまったため,黒人奴隷が輸入されるようになった。さらにそれらが混血したため,地主である本国出身者(ペニンスラール),中間層の現地生まれ白人(クリオーリョ=クレオール),下層としてインディオや黒人,白人と黒人の混血(メスティソ)などの階層が生まれていった。そして独立運動を起こしたのがクリオーリョの層であり,結果的に彼らはペニンスラールを追い出して自らが地主に成り代わった。こうして,独立後も人種による階層が,地主制のまま固定されてしまった(もちろん,インディオ出身のメキシコ大統領フアレスのような例外も存在する)。

プランテーション的地主制の良くないところは,国内の貧富の差が非常に拡大すること。地主だけが一方的に富み,先進国並の生活を営む。が,この地主層は工業化に対して消極的だし,大衆を単純労働力としか考えてないので,あまり教育制度も普及しなければ社会福祉も充実しない。おまけに,プランテーションは儲かる商品作物しか生産しないので,大概モノカルチャー経済的になる。南米だとサトウキビ,コーヒー,タバコ,綿花が有名。ところがこういうものは世界中どこでも生産しており,流行もあるので,非常に価格変動に弱い。そうすると,国際市場で特産品の人気が高いときは良いが,不調になると取り返しのつかないことになる。教育も福祉も充実していないところに激しい景気の波がくれば,当然社会や政治が不安定になる。20世紀中頃にはそれを逆手にとって,理想主義的政策(ポピュリズム)を掲げて大統領に当選したアルゼンチンのペロンやブラジルのヴァルガスのような独裁者も誕生したが,アジアの開発独裁のようにはいかなかった。今のベネズエラのチャベスがこれに近い。(ついでにわかる人に言えば,『ブラックラグーン』のロベルタの主人ガルシア・ラブレスは,設定上ベネズエラを牛耳る地主層「南米十三家族」の一つであるラブレス家の次期当主であり,その父親ディエゴ・ラブレスはチャベスを応援する第五共和国運動に参加したことを理由に,1997年にアメリカの特殊部隊に爆殺された。これに対する復讐劇が,単行本6巻後半〜9巻の内容である。7巻冒頭でベニーが事情を説明しているので,持ってる人は。)


さらに言えば,ラテンアメリカの場合,独立運動の際イギリスの外交的支援を受け,そのままイギリスの工業製品の市場となってしまったため,工業化が抑圧されたという経緯もある。もっとも,実際には独立以前から,宗主国スペイン・ポルトガルを通じてイギリスの工業製品は流入していた。イギリス経済の衰退後は,そのままアメリカがその地位にスライドした。20世紀の100年間を通じてアメリカがラテンアメリカの政治にやたらと介入したのは,キューバ危機のような安全保障上の理由だけではないのだ。この点もラテンアメリカに限った話ではなく,その他の多くの元植民地も,独立後も旧宗主国の工業製品の市場と化し,結果的に工業化が抑圧されている。

たとえばアルゼンチンは,食肉のモノカルチャー経済化により,イギリス・アメリカを市場に19世紀後半から戦間期にかけては世界有数の経済大国であった。しかし,世界恐慌による需要の減少,冷凍技術の進歩による産地の多様化,さらに食肉産業は二次大戦後アメリカとオーストラリアが本腰を入れ始めたため,経済が傾いた。慌てて始めた工業化も失敗し,しかしペロンによる福祉国家化だけは成功したため一層財政が破綻して,政変も相次いでフォークランド紛争もあり,とうとう21世紀初頭にデフォルトに至った。一方,完全にアメリカ経済に従属することで金融業に専心したパナマや,うまいことバナナ・コーヒーモノカルチャーから脱却して社会的安定を得たコスタリカのような例外もなくはない。元スレに挙げられたブラジルも,BRICsと呼ばれるところまでは工業化が進んだ。今後の南米から先進国が誕生することもあるかもしれないが,現状を生んだ歴史的経緯としてはこのようなところであろう。


アメリカ(合衆国)の北部は植民地時代から商工業が発展していた。これは合衆国が例外的なもので,アメリカ北部は国家政策での植民ではなく,イギリス国内に政治的・宗教的事情でいられなくなった人が自主的に行き着く先という意味合いが強かったため,本国の統制も少なかった。さらに,原住民のインディアンがそもそもあまり多くなかったし,追い出しながら開拓したため,白人人口が多く,農業も家族経営的な小規模なものからスタートしたため,現地民を利用した地主制が広まりづらかった。19世紀になるとカナダや,流刑植民地からのオーストラリアやニュージーランドのような後追い事例も出てくるが,少なくとも17〜18世紀の植民地としては13植民地が異例といえる。仏領北アメリカ(ルイジアナ)も,フランス人は毛皮取引を目的として移住しニューオリンズのような都市部に定住したため,インディアンと衝突しなかったし地主制も広がらなかった。ルイジアナの大部分の本格的開拓は,アメリカがフランスから購入してからだ。

そのままだと本国の工業製品が売れないということで必死に抑圧しようとしたのが,印紙法やらタウンゼンド諸法やらの重商主義政策であるが,これがそのまま独立戦争の引き金を引いた。それでも独立直後にはイギリスも努力してアメリカを経済的従属におこうとしたが,ナポレオン戦争を契機に再度戦争となり(米英戦争,第二次独立戦争とも言われる),とうとうアメリカに完全に自立されてしまった。ゆえに,アメリカは割と早期に産業革命がスタートし,イギリスの工業製品流入が進まなかった。西部は「早い者勝ちで開拓した奴が所有者」だった関係で自営農民が多かった。南部はラテンアメリカ並の地主制だったが,南北戦争に負けて(少なくとも表面上は)解体。大規模農業という形態は変わらなくても小作人制か資本主義的経営に変わっていった。多分,南北戦争が無かったか,南部が勝利してたら,アメリカ連合国も発展途上国の仲間入りしてただろう。
  
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2011年08月04日

豊臣秀吉関連で2件

・前々記事は正直予想の3〜5倍くらい伸びて,むしろ微妙に気分が重いわけですが平常営業していきたい。なお,まだクドわふもEU3HttTも『狼と香辛料』も書いてなければさらにブックレビューが1冊積んだ始末。実はさらにこのブクマの消化も滞っているという。まあ,表に出せるものからがんばって出していきます。


・『へうげもの』13巻。いよいよ関ヶ原。
→ ついでに語るか。『へうげもの』のすごいところは,信長・秀吉・家康の美意識の差を,政治意識の差と連動させて表現したところ。信長は侘び寂びには理解を示さなかったが,南蛮趣味を肯定し,圧倒的に開明的だった。秀吉は最初は侘び寂び趣味であったが,天下統一が近づくにつれ,信長の趣味に理解を示すようになった。また,古田織部の「へうげ」理解第一人者でもある。秀吉の場合,利休の権勢が強くなりすぎて,自分の趣味をねじまげざるをえなかったところもある。本作中盤の主人公の一人は間違いなく秀吉だが,彼は数寄と政治を両立させていたからこその天下人の器であった。彼は中途半端ではなく,極めてバランスのとれた人間であった。
→ そこへ行くと,今対立している家康と三成もタイプが全く異なる。二人とも数寄をほとんど解さない点では共通で,実は正義と信念の人である点も共通している。しかし,家康はそこを踏ん張って理解を示している振りをする,そして利害をちらつかせて人を動かす,見事な狸親父となっている。一方,三成は根が真面目なのでそうした行動は出来ず,ただし単なる堅物の悪役ではなく,周囲の人間の言うことを聞いて,苦渋の思いをしながら数寄に理解を示そうとし,それで味方も多少なりとも出来た。秀吉が信長の影を追い,三成は秀吉の影を追った。しかし,三成は秀吉になることができないまま,それだけの余裕も無いまま,関ヶ原は開戦する。一方,家康は全くの別路線を突き進んでいた。


・豊臣政権を存続させるには秀吉はどうすればよかったか(歴史的大敗)
→ 豊臣家の生き残りをかけて。
・秀頼生まれる
・秀次を関白にする
・徳川家が健在

この3つが成立すると詰む 」というのは大体間違ってないだろう。(秀次がいようがいまいが秀頼が生まれたところで詰んでるような気もするが)
→ 常識的に考えれば秀頼を生ませず,秀次関白政権を安定させるのがifとして最も合理性が高い。徳川家の弱体化という点では小牧長久手までさかのぼる必要があるが,あれは長期戦にしびれを切らした秀吉が織田信勝をそそのかして無理矢理講和したもので,戦争としては家康は不利ではなかったから,実力での逆転はifとして困難である。
→ 実は,さらに元のこもないことを言えば,豊臣政権は地盤が弱かったため,どうがんばっても存続が困難だったという見方もできよう。超速度で天下統一したため有力な外様大名が多く,成り上がりものゆえに譜代大名が少なく,弱い。コメント欄にあるが,三成を立てたがゆえに武断派が切れて大名同士で争ってしまったのが関ヶ原の遠因であるので,ifを考えるならば少なくともこれは絶対に近い条件だが,案外と難しい。
→ 自らの財政基盤も脆弱である。少なくとも直轄領(蔵入地)が約220万石(うち関西は65万石で後は飛び地)に対し,関東転封後の徳川家康は250万石であっちはさらに開墾の見込み有り,というのはやはりまずい。残りの財政基盤は金銀鉱山と重要都市の直轄権,貨幣鋳造権,南蛮貿易の独占権など。有力ではあるが,この時代の商工業関係はまだまだ不安定。
→ 各幕府の財政基盤については室町幕府を中心にまとめたことがあるが,こうして見ると直轄地(御料所)が少なく,(外様という概念は存在しないものの)有力な守護大名が多くそのつぶし合いで東奔西走してしまった室町幕府は,豊臣政権が置かれた状況に近い。仮に存続した豊臣政権が室町幕府の状態になっていたとすると,ガチで神聖ローマ帝国のことを笑えないまま黒船来航を迎えた可能性もあり,非常に恐ろしい事態である。


  
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2011年06月04日

封建制度とは何か

人類が文明を築くとそこから数千年経って,複数の民族・地域を従える巨大な帝国がいくつか誕生した。しかし,ほとんどの帝国はその後崩壊し,いくつかの小国が乱立するようになっていく。この帝国が崩壊し小国乱立に向かうタイミングが,古代と中世の境目とされることが多い。

なぜ古代の帝国は崩壊する定めにあったのか?端的に言えば,維持コストの問題である。帝国が成立すると喜ぶのは広域に活躍する商工業者で,なぜならこれらは治安の維持を前提として発展するからだ。無論,国家としても商工業の発展は徴税の増収,支配者層の生活の質的向上など,メリットは大きい。しかし,いかんせん科学技術が未発達で,行政組織も洗練されているわけではない古代なので,治安の維持にかかるコストを考えると,商工業の発展は必ずしもコストパフォーマンスが高くない。よって,何かしらの事情で国家財政が揺らぐと,帝国は立ち直ることが困難となりあっけなく崩壊する。

そもそも「商工業」といえども扱う物産は農産物がほとんどであり,自然災害には極めて弱い社会構造であった。古代中国で「天命に見放された王朝は自然災害が多発する」とされるのは,この観点で考えればあながち間違ってはいない。後漢王朝なぞ,記録を信じるならあれだけ地震に見舞われれば,仮に中央政府が健在であっても崩壊して当然である。また,後漢やローマ帝国を含む古代の帝国が一斉に崩壊した3〜4世紀は,ユーラシア大陸の気候が全体的に寒冷化し,農業生産力が落ち込んだ時期でもある。これが反転して暖かくなるのが,隋唐やフランク王国の拡大期にあたる6〜7世紀というのも,この話題に説得力を与える。

それに比べると,農業を基盤とする半自給自足的な小領主の乱立する社会というのは,実は安定しやすい。軍隊の規模こそ小さくなるが,それゆえに少数精鋭で即応の軍隊を編成することが可能になり,山賊や異民族の侵入程度であれば対処することができた。この点,逆に古代の大規模な軍隊は,遠く離れた首都にいる専制君主の命令でなければ動けないため,即応には向かない。古代の軍隊がしばしば数十万という規模になるのに対し,中世では数百や数千,場合によっては数十という数の軍隊でも歴史上登場するのは,こういった事情がある。また,少数精鋭である必要から,中世の軍隊の主役はどうしても騎兵,それも重装騎兵になりやすい。その代わり国境線がぐちゃぐちゃになるし,境界近くの治安は放棄されるので,インフラの整備は滞り商工業は停滞する。

しかし,中世が「帝国以前の古代」の小国家群と大きく異なった点として,小領主の持つ正統性の問題がある。小領主は大軍を所持できず,崩壊したとはいえ既存の帝国という枠組みが存在し,そこに正統性が集中している以上,どうしてもそこに依拠しなければ周辺の小領主に自らを攻撃する口実を与えてしまう。したがって,「権力は失ったが,権威だけは古代帝国のそれを引き継いでいるもの」と接触し,正統性を確保する必要があった。結果的に権威と権力が分離し,非常に緩い結びつきを持った社会制度が誕生する。こうしたものを一般に「封建制」と呼ぶ。まとめると,中世の封建制とは以下のような特徴を持つ。

・小規模な領主が乱立し,各領内においては領主の持つ軍事力によって治安は維持されていた。
・小領主たちは古代の帝国に起源を持つ権威に依拠し,支配の正統性を得ていた。
・ただし,封土間の空白における治安は放棄され,インフラの寸断された。
・結果として,多くの場合で商工業は衰退,ないし停滞した。
・封建制において軍隊は少数精鋭であることが要請されたため,戦争では騎兵が主役となった。

しかし,一口に封建制といえどもその実態は地域差があって多様であり,必ずしもこれらの特徴を全て持っているわけではない。そこで,以下の封建制度やそれに準ずる制度を比較し,それぞれがその後の歴史に与えた影響を考察してみようと思う。

・日本の鎌倉幕府の封建制
・中国の節度使・藩鎮・佃戸制
・イスラーム世界のイクター制(ティマール制),マンサブダール制
・ビザンツ帝国のテマ制・プロノイア制
・西欧の封建制
  
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2011年06月03日

首都で見る中国史

中国史ほど首都が変わりまくる歴史も珍しい。しかし,それぞれの首都選択には一応の合理的な理由があり,またその国家の性格をよく示していると思う。そこで,つらつらとその変遷をまとめてみた。本論に対し「見るに耐えないほど雑」という批判が入ったが,そう言われてしまうと「雑です」としか言いようがないのは確かなので(批判内容は大いに的を射ている),懺悔の意味も込めて冒頭に提示しておきたい(トラックバックからでも飛べるのだけど)。[中国史]「首都で見る中国史」を批判する(枕流亭ブログ)


西周・秦・前漢:長安(鎬京・咸陽)
西周は殷を滅ぼして中原に覇を唱えたが,中原が古代中国の中心地だったのは言うまでもない。中原とは黄河の中流域を指すが,下流域は氾濫・洪水が激しく古代の治水技術では管理が難しく,長江流域は文明こそあったのものの,黄河流域に比べると発展途上であった。ただし,長安は中原の最西端にあたり,その原因は西周も秦も元々は西方系の異民族であったと考えられていることをふまえるに,より故地に近いところを首都としたのであろう。「中国王朝の半分(以上)は,実は異民族の皇統」という伝統はすでに始まっていたと言える。前漢の場合も,劉邦の根拠地が蜀にあり,蜀から中原に出たら最初の大都市は長安,というのに過ぎない。これが三国志のフラグと考えると,中国史は出来すぎである。


(東周・)後漢・魏・西晋・北魏:洛陽(洛邑)
後漢が洛陽を選択した理由は,いろいろあって長安が荒廃したからに過ぎないと思われる。後漢は前漢に比べると弱体なので,西方系異民族を警戒したという意味合いもあるだろう。また,洛陽のほうが長安よりも中国の中心に近く,この辺の王朝の内向き具合を示していなくもない。北魏は隋の前身になった北方異民族系(鮮卑)の王朝。元々はより北方に首都があったが,洛陽に遷都したことで一気に漢民族への同化が進んだ。この北魏が洛陽近郊に大規模な石窟寺院を造営したことが有名(龍門石窟)。


東晋以降南朝:南京(建康)
華北を取られたので南下。華北は以後,北方民族の侵入と戦乱が続いたため,漢民族の南下が激化。それまで黄河文明と長江文明では大きく違っていたのに,漢民族の大量流入でこれらがうまく合体。また,長江流域の農業開発が進み,江南(長江下流域)がいつの間にか華北をこえる経済中心地になっていった。


隋唐:長安
洛陽から遷都……と書いたら「大嘘」と言われてしまったので,細かな経緯を書いておくと,北魏が東西に分裂し,それぞれが東魏・西魏と呼ばれた。このうち西魏の都が長安である。東魏は北斉,西魏は北周にそれぞれ簒奪され,さらに北周が隋となった。この説明がめんどくさく,論の筋に関係なかったのですっ飛ばした。(実はこれ以外にも五代十国の諸王朝やそれぞれの王朝の副都,細かな遷都や遷都計画については全部無視している。たとえば後漢末の首都は許昌であることは三国志ファンなら周知であるが,もちろんここではスルーした。ご了承いただきたい。)

長安になった理由は明確で,シルクロードの経済的比重が高まったから。北方民族との戦闘も安全保障というより,シルクロード交易路の支配権争いの意味合いが強くなり,より西域に近い長安からの出兵のほうが便利である。ただし,一方で北朝内部の混乱ですっかり荒れ果てた華北に対し,華南(というか江南)が圧倒的な農業生産力を蓄えてしまったため,以後華北経済は華南に依存する傾向が強まる。しかし,華北から華南に売る物が今ひとつ無いため,徴税という形で中原に物資を運ばせた。隋の煬帝ががんばって大運河を掘ったのは,華南の経済と華北の政治を結び付けるためとしばしば説明されるが,この説明は要するにそういうことである。ある種の政府による経済統制と言える。

実は隋や唐の前期まではなんとかなっていたが,安史の乱以降になると,華北に節度使が乱立したため,江南を失うと長安(というか中原)は完全に食糧を自給できなくなるところまで,依存が進んでいた。また,安史の乱以後の唐はどう見ても死に体なのにそこから150年も持ってしまった理由として,中原と江南だけは節度使の設置を防いで長安政府の統治下に置いていたため,とされる。が,黄巣の乱と,朱全忠が開封を押さえてしまったことで,完全に詰んだ。


北宋:開封
黄河と淮河を結ぶ運河と,黄河の結節点にあった都市。このように,政治的意味合いがほとんど無いのに経済的意味合いだけで首都が選ばれたのは,開封が初であり,ひょっとしたら唯一である。江南経済が伸長し続けていたため,シルクロードの終点である長安と,江南の両者の中間地点にあたる開封が大繁栄を遂げていた。しかし以後,シルクロードは徐々に衰退していき,逆に海路を用いた交易が発展していくため,中国王朝の首都はさらに海沿いへ引きずられていく。また,北宋は軍事的に弱体で,長安に都を置こうものなら思いっきり劫掠されていた可能がある。事実,唐の長安は安史の乱に乗じてウイグルやら吐蕃(チベット系)やらが占領していたし。もっとも,開封に置こうが結局,女真族に劫掠されるわけであるが。そういえば,日中戦争中の疎開を除けば,内陸に首都が置かれた最後でもある。


南宋:臨安(杭州)
都というよりもまんま港。江南の中心都市の一つだが,わざわざ南京を外した理由はよくわからない。「臨安」という名前は一応「臨時の都」という意味だが,その後の南宋の歴史を見るに華北へ帰る気はほとんどなさげであった。というか,金ならまだしもモンゴル人に対して奪還運動とか無理な話である。南宋は華北を支配する女真族の金に対し,屈辱的な講和をむすび,貢納までしていたが,一方で華北の人間を食わせる必要がなくなったため,負担としてはさして変わらなかったようである。事実,南宋は北宋時代と変わらず,江南の高度経済成長期であった。

金:北京(燕京)
戦国時代の燕の首都であったため,燕京と呼ばれていた。このように北京は突発的に出てきた都市ではなく,その歴史は古い。中国歴代の首都で最も歴史的に新しいのは,実は開封ではなかろうか。金が北京に首都を置いたのは,女真族の故地に近かったからであろう。しかし「農耕地帯だから現住地よりも豊かだろ」と思って攻め行ったら,さして豊かでもなかったという。おまけに食わせるために南宋から食糧を輸入せねばならず,その規模が南宋に課した貢納の額を超えており,完全に入超であった。そんなわけで紙幣を濫発したら当然インフレが起こり,華北の社会・経済が混乱したところに現れたのが,チンギス・ハーン。悲惨である。


元:北京(大都)
モンゴル語ではカンバリク。これも故地に近いところを選んだ結果ではあるだろうが,フビライが大運河を再整備し,特に北京へも黄河をさかのぼって海路から来れるようにした点を考えると,北京に首都を設置したというのは非常に意義深い。大運河の再整備は唐以降の王朝のメンテナンス不備で土砂が溜まっていたからだが,政治的中心地=人口密集地が長安からさらに遠方の北京に伸びたのだから,そりゃ切実な問題だよなぁと思うわけである。

明:南京(金陵)→北京
明は唯一華南から立って中華を統一した王朝。これだけ華北との経済格差ができていたのになかなか江南の王朝が勝てなかった原因は,やはり北方民族に揉まれている華北の軍事的優位が覆らなかったからであろう。ところがその明も,まさに北方民族が原因で北京に遷都することになった。第3代皇帝の永楽帝は,第2代の建文帝を殺して即位したが,元々は燕王に封ぜられ,北方警備に当たっていた人物である。そしてこの永楽帝は北方民族対策を重視し,親征を繰り返していたため,であれば首都が南京よりも北京のほうが有利であった。結局漠北遠征はほとんど永楽帝一代の事業であり,あとは逆に北方民族から攻められる一方で,たまに親征したら皇帝が捕虜になるわ,挙句の果てに北京包囲される羽目になるわで,散々である。無理せず南京に戻ったほうが良かったんじゃないかと思うのだが。

清:北京
女真族の王朝なので,これも故地に近い北京に置くのは当然である。また,清朝は漢民族の懐柔にこだわり,特に儒教を重視したため,明朝の正式な後継者であることを表明するために,明の都から遷都するのは考えられなかったというのもあるだろう。新大陸産の救荒作物,特にサツマイモとジャガイモの流入と,農業技術や治水技術の著しい進歩から黄河流域の開発が可能になり,華北の開墾が明の後期から進んでいた。一方江南はさらに商工業が発展し,商品作物の栽培と高度な手工業が盛んになった。これにより,中国は「地大物博」となり,海外との貿易がほとんど必要なくなっていき,18世紀中頃以降,鎖国へと向かっていき,ついには対外貿易が広州一港限定となる。広州は華南の最南端であり,それまでの海外貿易の中心地だった江南(杭州や南京)を外し,わざわざ広州にしたところにも,清朝の意図を感じる(広州商人と江南商人の対立も大きな要因として存在した)。

事実,アヘン戦争勃発時に広州が攻撃されても北京政府は対岸の火事という感覚で,南京まで攻め上られてあわてて講和に向かった。結ばれた条約も「南京条約」であり,開港地も広州のほかはほぼ江南に限られている(福州・廈門・寧波・上海)。上海の発展はこれを契機とし,南京・杭州・厦門・寧波に続く大都市となっていった。第二次アヘン戦争=アロー戦争では,とうとう北京が占領され,結ばれた条約も「北京条約」になる。このときも開港地に天津を含むものの,残りの9つのうち4つが江南であり,うち1つは南京である。


中華民国:南京→北京→南京
孫文が辛亥革命で定めた首都は南京。これは江南がやはり先んじて資本主義化が進んでいたためである。此の後育ってくる浙江財閥も有名。しかし,孫文から実権を奪った袁世凱は,元々清朝の軍人であり,北京周辺の直隷に割拠した北洋軍閥の出身であるため,勝手に北京に遷都してしまった。その袁世凱死後も北洋軍閥の仲間割れが続いたため首都は北京のままだったが,だからこそ蒋介石率いる国民党が付け入る隙が大きかった。北伐そのものは広州から始まったが,蒋介石による中華民国の首都は再び南京である。一応北伐は北京征服まで続けられたものの,遷都と言えるような権力の移動は無かった。

そして中華人民共和国:北京
南京を選ばなかった理由は,大きく3つ挙げられるように思う。一つは,南京が首都であった期間は,明朝以後の近い方から600年であわせて数十年しかなく,北京に比べると歴史的正統性が低い。もう一つは,資本主義勢力が根付き,旧中華民国の首都であった南京は,共産党勢力にとって都合が悪い。そして最後に,建国当初はソ連と蜜月関係であったため,近い位置のほうが有利であった。まあその後なんやかんやで社会主義市場経済を掲げてみたり,ソ連とは険悪になってみたりソ連は解体されてしまったりしたので,結局現在となっては,北京を首都にしている積極的な理由は「歴史」以外に求められなくなっている。かと言って今更上海や南京にするメリットも薄いし,もうずっとこのまま行くのではないかと思う(中国解体でもしない限り)。


以下は追記。
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Posted by dg_law at 00:54Comments(1)TrackBack(1)

2011年03月22日

ピレンヌ・テーゼ考(5) まとめ

(4)から。

12.フランク王国の発展
ゲルマン民族大移動の後に誕生したゲルマン諸王国の中で,フランク王国が最も拡大・繁栄した理由は,まず移動距離が短く移動によるダメージが小さかったこと。そして481年に族長クローヴィスが異端からカトリックに改宗したこと。これによりフランク王国はローマ系住民の協力を得て,蛮族から脱した。ただし後者についてはイベリア半島に割拠した西ゴート王国でも起きた出来事で,ローマ化という点ではこちらのほうが進んでいた。にもかかわらず西ゴートが覇権を握れなかったのは,イスラーム勢力の侵略を真正面に受けて滅亡したからである。その意味でフランク王国は地勢も良かった。東側に目を向けても,ビザンツ帝国との間にはスラヴ人がいた。

西ゴートを滅ぼしたイスラーム勢力はフランク王国にも侵攻したが,あまりにも長くなった遠征路,ピレネー山脈越えによる疲労もあり,トゥール・ポワティエ間の戦いで大敗し,ピレネー以北には二度と侵略できなかった。このトゥール・ポワティエの勝利を目にしたローマ教会がフランク王国の実力を買い,「教会の守護者」として認め両者の接近・協力がさらに進んだ。その先にいたのがシャルルマーニュであった,とされる。

実はここがピレンヌ・テーゼ最大の疑問点になるのだが,フランク王国はトゥール・ポワティエ間の戦いがなければ,本当にローマ教会と結びつかなかったかということである。基本に立ち返ると,シャルルマーニュによる西欧文明成立とはゲルマン文化,ローマ文化,カトリック文化の三本柱を基盤とする文明と通常説明される。このうち,ゲルマン文化は当然持っているとして,ローマ文化とカトリック文化は,クローヴィスの改宗以来少しずつフランク王国に根づいてきたものであり,トゥール・ポワティエ以後急速に進んだわけではない。しいて言えばシャルルマーニュ自身が古典古代文化を好んだためにその復興を推進したということは挙げられるが,この功績は無論シャルルマーニュ個人に帰せられ,イスラームの侵攻が与えた影響とは言えない。


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