エルンスト展表紙160 エルンスト展裏表紙160

 エルンストとは学生時代からもう四十数年の付き合いになる。
 ダリやマグリット、デルヴォーなどはよく知っているのに、大御所ともいうべきエルンストについては案外と知らないできた。初めて生のエルンストの絵を見たのは77年の西武美術館のエルンスト展のはずだが、何も憶えていない。当時のデパートの美術展は「展示会」のようなものが多いから、版画だけとか、そんな程度だったのかも知れない。
 強い印象を受けたのは、もう何年前だったか、たしかニューヨーク近代美術館が上野の美術館へ来たときその中に一枚フロッタージュで描かれた森の絵があった。(もしかすると記憶違いかも知れないが…)
 つまりここで言いたいのは、フロッタージュやコラージュ、デカルコマニーなど、シュルレアリスムの技法のデパートのような画家なのに、ダリやマグリット、デルヴォーなどのようには、日本に紹介されてこなかったのだ。

横浜美術館で2012年6月24日まで開催されているマックス・エルンスト展は、かなり気合いの入った本格的なものだ。何しろ横浜美術館はシュルレアリスム絵画に特別室を割り当てて常設展示しているほど、コレクションも多く、シュルレアリスムとなると力を入れるのだ。
 おもしろいのは、今回の展示のコンセプトは横浜美術館によれば、〈シュルレアリスムという枠を一旦外し、エルンストの作品を「フィギュア」と「風景」というモチーフから検証し直すことで、エルンスト独自の関心のありようを探り、現代の日本人にとってエルンストの芸術はいかなる意義をもつのかを明らかにしようとするもの〉だというのである。
 美術館の言葉を借りるなら、〈エルンストの作品には、可愛らしい鳥や天使、あどけない顔の人物からグロテスクな怪物的存在まで、様々なフィギュア(像)が登場する。エルンストはまた、自らの内なる自我を鳥と人の合体した姿で作品中に登場させ、「ロプロプ」と名付けた。その姿は、偶然にみつけた形を元にしているので常に変幻自在であると同時に、下地となる空間表現と強く結びついている。エルンストの空間とフィギュアは形態的にも、また意味内容的にも、密接な関係にある。本展では「フィギュア×スケープ」という概念の下に「フィギュア」と「風景(または空間)」の関係を見極めながらその主題を読み解くことにより、エルンストの関心の独自性に迫る。〉という。
 本展は上の通りの構成で展示が進められている。
 作品数約150、これを見ればエルンストのすべてがわかる、と言いたいところだが、この画家はなかなか「エルンストはこうだ」と合点させてくれない。わかりにくい人なのだ。だからこそおもしろい、とも言えるのだが…。
 
 じつは本展は4月7日のオープニング・セレモニーにまで参加して、主任学芸員の簡単な解説まで聞いている。
 それを6月初旬まで感想を書かずにいたのは、なんとなく書きにくいからだ。
 腹に落ちるというか「これがエルンストだ」とひとくさり講釈を垂れるほどには、ぼくはこの人の作品を租借していない。昨年からマン・レイだとかマルセル・デュシャンだとか、シュルレアリスムに関係したアーティストの展示が次々と行われている。そうした美術展へ出かけていくたびに「マン・レイはこう」「デュシャンはこう」というものが、ぼくの中に以前より堅固にできあがっていく。ところが、エルンストについては、いまひとつ納得できていない。ぼくはエルンストを観るのが好きだし、彼の画業を高く評価しているにもかかわらず、なのである。