バック・シャッツ、元メンフィス署殺人課刑事だが、とっくに引退していてもう87歳だ。
血液をさらさらにする薬をのんでいるから、昔のように気に入らないやつを殴ったりすれば、自分の指や腕のほうが内出血を起こす。そんな年齢だから、居間でテレビのトーク番組を見ているのが一番楽だし、いまさら禁煙しようなんて考えず、ラッキーストライクに火を付けたときが一日のうちでもっともほっとできる瞬間だ。
ただ唯一の苦手は老妻ローズの小言で、彼女にだけは頭が上がらない。
町の病院のICUから電話があり、軍隊時代からの知り合い ジム・ウォレスが自分に会いたがっている、と聞かされても、わざわざ病院へ会いにいく気などなかった。「友人の最期の頼みは聞くものでしょう?」と諭され、「あいつは友人なんかじゃない」と反論しても、ローズには対抗できない。もう60年以上、彼女には弱味をすべて握られているからだ。
仕方なくジム・ウォレスの枕元に立ったバックだが、ウォレスからはじつに腹立たしいことを告げられた。
ナチ親衛隊のハインリヒ・ジーグラー、収容所でバック・シャッツをさんざんいたぶってくれた張本人が、1946年、ウォレスが警備していた東西ドイツの検問所にやってきた、という。ウォレスは金塊一つをもらってジーグラーが検問所を通ることを見逃した。彼のジープは、ナチが隠していた金塊の重みで後部が深く沈んでいたという。
この告白にバックは激高した。「ジーグラーがどれだけ極悪非道な人間か、おまえは知っていたではないか。しかも、おれの背中の傷は奴に付けられた傷だ」と。
「地獄があるなら、おまえら二人一緒に落ちろ」と言うと、ジムはその答えが気に入らなかったらしく、全身がけいれんし、心電図モニターが鳴り響いた。「心停止!」駆け込んできた医者と看護婦が叫んだ。
バック・シャッツは年齢をわきまえていたし、いまさら自分にできることはない、と考えていた。
ジーグラーの行方を追い、金塊を探そうだなんて考えてもいなかった。だがジム・ウォレスの娘エミリー・フィーリーとその夫ノリスや、ジムがあれこれ相談していた教区牧師ローレンス・カインドなどの連中が、あらかじめウォレスから何か聞いていたのか、妙にバックに近づきたがり、あれこれと探りを入れてくる。
たまたま家に電話してきた大学院生の孫テキーラ(ニックネーム)に「最近はコンピュータで何でもわかるらしいな?」と訊いてみた。
Google 検索とかいうのがあって、どんなことでも調べるのは簡単だ、というので、久しぶりにメンフィス署を訪ねてみた。
ジーグラーのことを調べてくれないかと、殺人課の刑事に頼んでみた。ところが、じつはこの刑事は三十年前には仲の悪かった刑事の教え子だった、とわかる。バック・シャッツのことを「過去の遺物だ」とバカにして掛かってくる。
「年寄りの特権は、嫌いな奴に面と向かってそう言えることだ」というのがバックの信条だ。バックは大喧嘩の末にメンフィス署を追い出されてしまった。
こうしたバック・シャッツの動きが、周囲からは「彼は何かジム・ウォレスから聞いている」というふうに見られたらしい。
バックは悔やんだ。
「迷ったときは何もしないことこそ最高の選択肢だ」といういつもの信条にしたがっていればよかったのに。どうもいろいろと不可解なことばかりだ。自分の運転する自動車が尾行されているような気さえする。
そういう妄想はアルツハイマー型認知症の症状の一つだ、と医者から聞かされていたが、長年勤め上げてきた刑事の勘なのか、認知症の症状なのか、いまいましいことにバックには区別が付かない。
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さて、この小説、バック・シャッツの一人称で書かれているところがおもしろい。
寄る年波には勝てない、とは思いつつも、元刑事として実績を上げてきたという誇りやら、家族への愛情やら、最近の社会風潮への批判やら、自分の面倒を見られなくなるほど老いることへの恐れやら、そうしたさまざまな想いが渦巻いて、それでも人生に前向きで、ちょっと皮肉なユーモア混じりの、独特の「爺さん独白文体」なのである。
ぼくはなによりもこの文章の調子に惹かれた。
作家のネルソン・デミルの賛辞が寄せられていて「自分が87歳になったときはバック・シャッツのようでありたい」とあるが、それはこの主人公の一人称がじつに上手に描かれているからだと思う。
バック・シャッツは相談に行った医者からノートを付けるよう勧められる。「思い出そうと努力することが記憶力の低下を遅らせるという有力説がある」と聞いたからだ。
地の一人称では皮肉混じり、半ば自虐ネタのユーモア混じりで書き綴っているけれど、途中挿入されるノートの断片にはなかなか読ませるものがある。
このノートの断片については、著者は読者にストーリーの時代背景を理解させるのに使ったりもしているが、87歳のバックが老いへの恐れにどう対処しようとしているかなども、このノートの断面から察せられるように書いている。地の文章が読者を楽しませるエンタテインメントの役割を主として担っている一方で、この小説のもうひとつの主題《老いと死を以下に迎えるか》をも、こうしたテクニックを使いながら、著者はまじめに取り組んでいる。
弁護士志望の大学院生の孫が登場して、ネット検索を駆使しての調査をやったり、法律論を振り回してチンピラと対応したり、祖父のバックを助けてくれる。こうしたところで新旧世代の違いを際立たせてみたり、なかなか上手な作家だ。