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ハ行の作家

もう年はとれない/ダニエル・フリードマン

もう年はとれない (創元推理文庫)
ダニエル・フリードマン
東京創元社
2014-08-21


 バック・シャッツ、元メンフィス署殺人課刑事だが、とっくに引退していてもう87歳だ。
 血液をさらさらにする薬をのんでいるから、昔のように気に入らないやつを殴ったりすれば、自分の指や腕のほうが内出血を起こす。そんな年齢だから、居間でテレビのトーク番組を見ているのが一番楽だし、いまさら禁煙しようなんて考えず、ラッキーストライクに火を付けたときが一日のうちでもっともほっとできる瞬間だ。
 ただ唯一の苦手は老妻ローズの小言で、彼女にだけは頭が上がらない。
 町の病院のICUから電話があり、軍隊時代からの知り合い ジム・ウォレスが自分に会いたがっている、と聞かされても、わざわざ病院へ会いにいく気などなかった。「友人の最期の頼みは聞くものでしょう?」と諭され、「あいつは友人なんかじゃない」と反論しても、ローズには対抗できない。もう60年以上、彼女には弱味をすべて握られているからだ。
 仕方なくジム・ウォレスの枕元に立ったバックだが、ウォレスからはじつに腹立たしいことを告げられた。
 ナチ親衛隊のハインリヒ・ジーグラー、収容所でバック・シャッツをさんざんいたぶってくれた張本人が、1946年、ウォレスが警備していた東西ドイツの検問所にやってきた、という。ウォレスは金塊一つをもらってジーグラーが検問所を通ることを見逃した。彼のジープは、ナチが隠していた金塊の重みで後部が深く沈んでいたという。
 この告白にバックは激高した。「ジーグラーがどれだけ極悪非道な人間か、おまえは知っていたではないか。しかも、おれの背中の傷は奴に付けられた傷だ」と。
 「地獄があるなら、おまえら二人一緒に落ちろ」と言うと、ジムはその答えが気に入らなかったらしく、全身がけいれんし、心電図モニターが鳴り響いた。「心停止!」駆け込んできた医者と看護婦が叫んだ。

 バック・シャッツは年齢をわきまえていたし、いまさら自分にできることはない、と考えていた。
 ジーグラーの行方を追い、金塊を探そうだなんて考えてもいなかった。だがジム・ウォレスの娘エミリー・フィーリーとその夫ノリスや、ジムがあれこれ相談していた教区牧師ローレンス・カインドなどの連中が、あらかじめウォレスから何か聞いていたのか、妙にバックに近づきたがり、あれこれと探りを入れてくる。
 たまたま家に電話してきた大学院生の孫テキーラ(ニックネーム)に「最近はコンピュータで何でもわかるらしいな?」と訊いてみた。
 Google 検索とかいうのがあって、どんなことでも調べるのは簡単だ、というので、久しぶりにメンフィス署を訪ねてみた。
 ジーグラーのことを調べてくれないかと、殺人課の刑事に頼んでみた。ところが、じつはこの刑事は三十年前には仲の悪かった刑事の教え子だった、とわかる。バック・シャッツのことを「過去の遺物だ」とバカにして掛かってくる。
 「年寄りの特権は、嫌いな奴に面と向かってそう言えることだ」というのがバックの信条だ。バックは大喧嘩の末にメンフィス署を追い出されてしまった。
 こうしたバック・シャッツの動きが、周囲からは「彼は何かジム・ウォレスから聞いている」というふうに見られたらしい。
 バックは悔やんだ。
 「迷ったときは何もしないことこそ最高の選択肢だ」といういつもの信条にしたがっていればよかったのに。どうもいろいろと不可解なことばかりだ。自分の運転する自動車が尾行されているような気さえする。
 そういう妄想はアルツハイマー型認知症の症状の一つだ、と医者から聞かされていたが、長年勤め上げてきた刑事の勘なのか、認知症の症状なのか、いまいましいことにバックには区別が付かない。

 ——————————————————————

 さて、この小説、バック・シャッツの一人称で書かれているところがおもしろい。
 寄る年波には勝てない、とは思いつつも、元刑事として実績を上げてきたという誇りやら、家族への愛情やら、最近の社会風潮への批判やら、自分の面倒を見られなくなるほど老いることへの恐れやら、そうしたさまざまな想いが渦巻いて、それでも人生に前向きで、ちょっと皮肉なユーモア混じりの、独特の「爺さん独白文体」なのである。
 ぼくはなによりもこの文章の調子に惹かれた。
 作家のネルソン・デミルの賛辞が寄せられていて「自分が87歳になったときはバック・シャッツのようでありたい」とあるが、それはこの主人公の一人称がじつに上手に描かれているからだと思う。

 バック・シャッツは相談に行った医者からノートを付けるよう勧められる。「思い出そうと努力することが記憶力の低下を遅らせるという有力説がある」と聞いたからだ。
 地の一人称では皮肉混じり、半ば自虐ネタのユーモア混じりで書き綴っているけれど、途中挿入されるノートの断片にはなかなか読ませるものがある。
 このノートの断片については、著者は読者にストーリーの時代背景を理解させるのに使ったりもしているが、87歳のバックが老いへの恐れにどう対処しようとしているかなども、このノートの断面から察せられるように書いている。地の文章が読者を楽しませるエンタテインメントの役割を主として担っている一方で、この小説のもうひとつの主題《老いと死を以下に迎えるか》をも、こうしたテクニックを使いながら、著者はまじめに取り組んでいる。

 弁護士志望の大学院生の孫が登場して、ネット検索を駆使しての調査をやったり、法律論を振り回してチンピラと対応したり、祖父のバックを助けてくれる。こうしたところで新旧世代の違いを際立たせてみたり、なかなか上手な作家だ。

神の起源(上・下)/J・T・ブラナン


 ソフトバンク文庫の上下2巻の文庫本だ。
 帯を転載すると「〈ダン・ブラウン〉×〈Xファイル〉 南極で発見されたのは、超高性能素材を身にまとった4万年前の男の遺体。洪水伝説、アトランティス大陸、ナスカの地上絵……人類史の謎に迫る、超大作スリラー!」という謳い文句で販売している。
 主人公はNASAの科学者イヴリン・エドワーズ、彼女が助けを求める相方が別れた夫マット・アダムズ、アメリカ先住民の血を引く凄腕の男。南極での発見を表沙汰にしたくない謎の組織が、リン(イヴリン)とマットを追いかけ回すアクション仕立てとなっている。

 さて、帯の宣伝コピーだが、本書を買う前にかなり躊躇した。
 上下2冊といってもかなり薄い文庫本で、〈ダン・ブラウン〉×〈Xファイル〉なんていうアクション仕立ての物語が、この程度の分量に収まるはずがないからだ。
 案の定、SFの発想としては「使い古されたよくある話」で、プロット展開は映画的であり小説的ではない。つまり人物の描き方がステレオタイプで深みがなく、描写が薄っぺらなのだ。

 「南極で発見された男の死体は何者なのか?」という興味で引っ張るのは、SF的な発想のおもしろさで読者を釣ろうというわけだが、最初に書いたように、SF好きの読者にとっては「よくある話」であって新味がない。早川書房だったらまず翻訳出版は控えるだろう。
 だから「アクション仕立ての展開で読まそう」ということだと思うが、この分野についても、先人たちがたくさんのおもしろい小説を書いていて、それらは人物の掘り下げもアクションのおもしろさも一流であり、そうした物語を多数出版してきた早川書房だったら、この物語はまず翻訳出版の基準に達しないだろう、と思われる。
 つまりは、中途半端な二要素を組み合わせて、気楽に読める読み物に仕立てたはよいものの、両分野をずっと読んできた読者には、じつにいい加減で薄っぺらな読み物に見えてしまうのだ。

 《警告》この先多少SF的発想の部分に踏み込んで論じるので、本書を読むつもりでネタバレを一切嫌う方は、先を読まないでいただきたい。
 
 リドリー・スコットが『エイリアン』の前日譚ともいうべき『プロメテウス』という映画を作ったが、「神とは遠い過去に地球に来ていた宇宙人ではないか」という設定は、SFとしては「よくある話」だ。
 たしかに「何らかの証拠をつかみ得た場合には、なんとしてでもそれを確かめたい」という思いは強いから、『プロメテウス』という映画が成立するのだし、本書の物語も「え? それでどうなるの?」と興味を惹かれる。
 本書の悪役スティーヴン・ジェイコブズらの陰謀は、『神の起源』ともいうべき宇宙人たちと交信が成立したという前提で、彼らをもう一度地球に呼ぼう、というものだ。交信によって彼らの悪意がはっきりわかっているにもかかわらず、人類を裏切って怖ろしい連中を地球に呼び、自分たちの組織だけ甘い汁を吸おう、というのである。
 ところが、「彼らが地球に来たらどうなるか、何が起きるか」という興味で引っ張ってきているのに、本書はいかにも分量が薄い。だから読者としては「これはなんらかの理屈によって神ともいうべき彼らを呼ぶのに失敗するに違いない」と展開があらかじめわかってしまう。
 SFとしては一番おもしろい部分に「逃げ」を打った物語であることが、大して読み進まないうちに察せられてしまうのだ。ここで読者のSF的興味は半減どころか3分の1くらいになってしまうし、「どんな逃げを打つつもりだろうか?」と、推測しつつ先を読んでいくことになる。
 ところで、SFを読もうという読者なら、アインシュタインの理論くらいはある程度理解しているから、ワーム・ホールで空間をねじ曲げて宇宙人たちを呼ぼうとしたところ、空間は時間と同質で「時空間」ともいうべき存在だから、「そこら辺の理屈で逃げを打つのではないか」つまり「何らかの事故で、空間ではなく時間の方がねじ曲がってなんたからかんたら…」という展開かも知れない、と予測していたら、やっぱりそうだった。
 ぼくの正直な感想としては、「ここまで読者に先を読まれる程度の発想」ならぼくから時間と金を奪うな! といいたいところだ。
 アクションの多い冒険小説仕立てとして一流なら許すが、すでに論じたようにその方面の出来は悪い。
 それなら、ダン・ブラウンの小説ように、さまざまな古代遺跡に潜んでいる宇宙人存在の証拠だとか、Xファイル的雑学の陳列とかあって、読者にめまいを起こさせるような仕掛けでもあるかというと、なにしろ分量が薄くて、適当にネットで勉強して寄せ集めただけではないか、という程度だ。
 結論: SFとしても、冒険小説としても、アクション仕立ての小説としても、ダン・ブラウン風小説としても、本書はお薦めできない。

ねじれた文字、ねじれた路/トム・フランクリン

ねじれた文字、ねじれた路 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
ねじれた文字、ねじれた路 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
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 ミシシッピ州の田舎町シャボット、町一番の製材業者ラザフォード家の娘が家を出たまま行方不明になっていた。
 町外れで自動車修理工を営むラリー・オットのところへ、保安官事務所の主任フレンチがやってくる。「仕方ないだろ?」とフレンチはいった。「こういう事件だから、まず最初にあんたの家を捜索するのが手順なんだ」
 ラリーはうなずいた。25年前、ラリーと一緒にドライヴイン・シアターに出かけたシンディ・ウォーカーが帰らずに行方不明になった。死体は出ないし、ラリーは自白しない。人口五百人足らずの町の連中はそれ以来ラリーには近づかない。
 父親カールの自動車工場を継いだラリーだったが、町の住人は修理を依頼には来ないから、たまに町を通りかかる連中が乗った自動車の具合が悪くなって、偶然立ち寄る客を待つしかない。親父から引き継いだ原野を、ラリーは25年間少しずつ製材所に切り売りして生活の糧として生きてきた。
 もともと要領の悪い性格だった。酒を飲んでバカ騒ぎはできない。女の子をくどくことはできない。スポーツは苦手。ホラー小説のファンで、小説を読むのが唯一の楽しみだ。ラリーは白人少年たちの仲間に入って黒人少年たちをバカにすることができない。それどころか、秘密にしているのだが、たった一人の友人は近くに住む黒人の少年だ。ラリーはホラー小説のファンで本を読むのが好き。本の話をしてやると、その黒人少年サイラスはとても喜ぶ。
 だがサイラスはやがて野球が上手くなって、ふとした喧嘩からラリーとも疎遠になった。彼はシカゴへ行ってしまった。いまやラリーに友人は誰もいない。
 25年間、たまに必要最低限の買い物で町へ行くとき、必要最低限の会話をするだけ。「あんたは店に入らないでくれ」というところまであるのだ。
 だから、取り調べであれ何であれ、フレンチがラリーの家へやってくるのは仕方ないと思ったし、取り調べだろうが何だろうが、人と話すことができるなら、ラリーはそれもよい、と思っていたのだ。

 サイラスは町に戻ってきていた。怪我で野球は断念したのだ。いまはフレンチの下で治安官として働いている。朝晩の製材所前の交通整理などでなく、もっと本物の警察官らしい仕事をしたい、とうずうずしていた。そこへラザフォード家の娘の失踪事件だ。ラリー・オットの家を調べに行ったのは主任のフレンチ自身だったが、ラリーを避けていたサイラスはそれでよかった。25年前のつまらないいさかい、ちょっとした事件から、サイラスはラリーを裏切った。その罪悪感に悩まされ、ずっとラリーを避けてきたのだ。

 ラリーとサイラスの少年時代の回想と、現代の事件とが絡み合い、二人の運命は25年前と同様に否応なくまた絡み合うことになる。
 友情の破綻があり、ラリーにとってはつらい25年が過ぎた。サイラスはいつまでもラリーを避けているわけにはいかない。ましてや、話したいことがあるから電話をくれ、とラリーからの留守電をサイラスは聞いている。だが、彼は間に合わなかった。
 ラリーが撃たれて、瀕死の重傷を負って倒れているとの通報があったのだ。

 米国の南部を舞台にした小説には独特の雰囲気がある。厳しい自然、貧困、人種差別、宗教への盲信もしくは迷信の蔓延など、マイナスの面ばかりが上げられるのに、作家たちの眼はそこで過ごした少年時代へ向けられる。たとえばロバート・マキャモンの『少年時代』ほか、名著はいくらでも挙げられる。
 本書の主人公ラリー・オットの少年時代は、他方で米国の理想を実現しようとする夢と、それに合わすことのできない弱い者は切り捨てるのだとばかりの社会的偏見とに板挟みになり、ろくなものではなかった。しかし、沼沢地を這い回り、小動物を狩り、蛇をつかまえて遊んできた少年時代への憧憬がラリー・オットの心の中にある。地元の住民たちかからどんなに無視され、つらい目に遭わされても、ラリーはシャボットの町にしがみついて離れようとはしないのだ。

 友情の破綻と再生の物語。読後感はさわやかだ
 2010年LAタイムズ文学賞受賞ほか、米国と英国で、数多くのミステリ関係の賞の受賞候補作品に挙げられたらしい。

ねじまき少女(上・下)/パオロ・バチガルピ

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF) ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)

 舞台は近未来のバンコクだ。ていねいな説明がされないまま物語が始まってしまうので、混沌とした社会の前提を察するまで、読者は自ら想像力を発揮しなければならない。
 石油はほとんど枯渇して、石炭も貴重品だ。コンピューターの動力が足踏み式だったりするし、工場の機械の動力が「ねじ巻き」だったりする。きわめて効率のよい最先端の優秀なぜんまいが開発・輸入されていて、象を遺伝子改良した動物を働かせてねじを巻いておけば、工場の機械は長時間稼働するのだ。
 ということは、遺伝子工学の分野は高度に発展しているわけだが、病原菌も次々と変移を繰り返し、バンコクだけでなく世界中で新しい病害と、新しい耐性のある穀物などが開発され、世界の経済は一握りのバイオ企業に支配されている。
 そうしたバイオ企業の支社がバンコクへ進出、金儲けのために政府へ食い込もうとし、そうした中からうまい汁を吸おうとするタイの通産省、一方で食品の輸出入を厳しく監視し、環境を維持省とする環境省、そして、この混沌とした社会へマレーシアなどから入り込んでくる難民層もいて、政治情勢は複雑に入り組んでいる。
 バイオ企業の支社長アンダースンは、タイの市場でとっくに死に絶えていたはずの果実が何の病害もなく販売されている事実に驚愕し、これには誰にも気がついていない秘密があるはずだと気がつく。アンダースンの下で働く事務長格のホク・センはマレーシアから逃げてきた中国系の難民だ。ただただ、いかにして職を守るかに腐心し、いざとなったら逃げす資金も不正会計で貯め込んでいる。エミコは日本企業が遺伝子操作で生み出した万能秘書だったが、バンコク撤退の際に置き去りにされ、場末の売春宿で奉仕させられて生きのびている少女だ。そしてもう一人ジェイディーというタイ環境省白シャツ隊のエースがいる。一切の賄賂が利かないバンコクの虎と恐れられる査察官だ。
 上のような登場人物の視点で描かれるが、上で書いたような社会の仕組みを察して理解するまでが大変だ。もう少し社会背景の説明に気を遣ってもらえれば読者は楽になるが、ていねいにやるには説明的な描写を続けなければならなくなり、現実感が失われる懸念がある。言い換えるなら、細かい部分は読者の想像に委ねてごまかしている、といえなくもない。
 「社会の仕組みの汚さ」にうとい、「生ぬるさに浸った現代日本人」、とくに若い世代にはさぞや読みにくかろうと察する。試みに amazon のレビューなど覗いてみても、やはり不評が多い。
 もっともな感想だとは思いつつも、この近未来像はありそうな話だ、という気もしないではない。タイの政界の複雑な権力闘争や、それを梃子にタイ社会に食い込もうとする外国企業の様子など、いかにもありそうな話だ。

 ほめてよいのやら貶してよいのやらわからないSFだが、この混沌さは嫌いではない。
 しかし、ふと我に返って考えると、民主主義の殻を被った日本の政財界の抗争のほうがよほど混沌としていてやっかいだ。結局、何だかちゃちな近未来像を時間をかけて無理矢理読まされたような、徒労感が募ってきた。

解錠師/スティーヴ・ハミルトン

解錠師〔ハヤカワ・ミステリ1854〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
解錠師〔ハヤカワ・ミステリ1854〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
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 1990年の夏、9歳の少年が事件に巻き込まれたらしい。それも、家族を全員失って叔父に引き取られ育てられるに至る悲惨な事件だったらしい。マスコミが大々的に取り上げて、助かった彼は「奇跡の少年」と呼ばれるようになった。
 一人称で語る彼が経緯をはっきりと書かないから、読者としては情報の穴を「こんなことだったのではないか」と想像で穴埋めしていくしかないのだが、事件のショックで少年は一言も言葉を発しなくなり、精神科医たちの努力にもかかわらず、堅く心を閉ざしてしまったのだ。
 それでも子どもは成長する。なぜなら、語り手の彼は書く。
 「けっして動かないよう考え抜かれた金属の部品の数々。でも、力加減さえ間違わなければ、すべてが正しい位置に並んだ瞬間にドアは開く。そのとき、ついにその錠が開いたとき、どん気分か想像できるかい?」
 頑なに心を閉ざした少年には才能があったのだ。錠を前にすると心が落ち着き、ピンひとつの微妙な感触に集中できて、結局どんな錠だって開くことができるという「解錠師」の才能と、もうひとつ、心を込めた絵を描くことができる、という才能だ。
 このふたつが、少年の成長を助ける一方で、彼の人生を誤った方向へと導いていく。
 語り手の様子では、彼はいまやどうも二十代の後半で、刑務所に服役しているか、服役した経験があるらしい。どういう経緯があったのかはっきりとはわからないが、物語は高校生時代の彼と、フリーの解錠師として活躍するその後の彼とを、往き来しながら進んでいく。
 物語は静かに始まるが、やがて高校生の彼は恋をし、ブロの金庫破りに弟子入りする。現在はフリーの解錠師として活躍する彼に、同時進行する過去の物語が近づいていくにつれて、ストーリー展開の勢いは一気に高まり、どのような結末となるのか、読者は本を閉じることができなくなっていく。

 MWA(米国探偵作家クラブ)エドガー賞最優秀長編賞、CWA賞(英国推理作家協会)スティール・ダガー賞をダブる受賞したそうだ。巧みなストーリー・テリングについては、折り紙付きなのだ。
 一人称で語る少年は、一言もしゃべることができないという障害を持つ。そしてじつに頑固だ。彼を何とかできると思った大人たちや若者たちもこの頑固さに手を焼くが、一方ではなんとかして彼の特殊な才能は利用したいのだ。甘く囁いたり脅したり、そうした誘いに少年は慎重だが、やはり若さが手伝って「やめておけばいいのに…」と思うことに手を出してしまう。
 なぜ彼は一言も話すことができないのか、どうしてこのような性格になったのか、それは最後近くになってからやっと明かされる。

逃亡のガルヴェストン/ニック・ピゾラット

逃亡のガルヴェストン (ハヤカワ・ミステリ)
逃亡のガルヴェストン (ハヤカワ・ミステリ)
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 ロイ・ケネディは、ニューオリンズを拠点とするギャングの一員だ。賭博の金の取り立てなど、強面で荒っぽい仕事を引き受け、ときには人を殺すこともあった。
 87年のある日、彼は診療所で自分の肺のレントゲン写真を見せられた。まるで雪が降っているようだった。肺癌だという。
 ボスのスタンにも、誰にも報告しなかった。
 そもそもロイの女カーメンがスタンに乗り換えたらしく、仲間内には微妙な緊張感があった。
 それでも、スタンに指示されたとおり、彼は取り立ての仕事にいった。「銃を持っていくな」という指示が逆に気になって、万が一の準備は万端整えていた。
 やはりスタンに裏切られた。隙を見て多勢に無勢もなんとか切り抜け、成り行きで娼婦らしい家で娘ロッキーを助け出した。あとは町を出て、ひたすら身を隠せばいい。そのはずだったが、「どうせ自分はもう長くはない」という思いがロイを狂わせた。
 ロッキーは予想も付かない行動の出る勝手気ままな娘だった。
 ロッキーをなんとか立ち直らせたいだなんて、面倒事を自ら背負い込むなんて、以前のロイだったら気にも掛けずに放り出して、さっさと一人で自動車を飛ばしていたはずなのに…。

 行き着く先はガルヴェストン。メキシコ湾に浮かぶリゾートの島だが、金に余裕のないロイたちが入り込むのは、島の中でも底辺の人々が住みつくモーテルだ。

 構成がかなり捻ってある。物語が突然20年後に飛んで、ひとりぼっちりロイの孤独な生活が描かれたりする。それでは彼はまだ死んでいないのか。しかし、足や手や眼も、身体は肺以外もガタガタのようだし、いまだにスタンからの追っ手に怯えて暮らしている。あのあといったい何があったのか…。
 物語は2008年のロイと87年の逃亡劇のあいだを行ったり来たり…。
 風光明媚なガルヴェストンの太陽と、隠れるようにして暮らすロイと、現在のロイのあまりの生活振りに、読者として読むのがつらい。ロイは肉体も精神も擦り切れ果てて、このような人生にあとどれだけ耐えられるのか。
 それでもやめられずに、ぼくはページをめくるのだ。

 こういう物語はけっして好きではない。気分がよくならず、沈み込むからだ。
 本書が読ませるのは、著者ニック・ピゾラット持ち前の、描写力のせいだろう。描かれているのは、いわば、人生に絶望した中年男の足掻きだ。ついずるずると深みにはまり、抜け出せなくなっていく。それも仕方がない、と諦めながら、やはりいざとなれば命は惜しい。この屈折した想い。

 本作品は、アメリカ探偵作家クラブ最優秀新人賞の候補に挙がっているそうだ。
 本書はブログ「本だけ読んで暮らせたら」の nanika さんの紹介だった。

子供の眼(上・下) /リチャード・リース・パタースン5

子供の眼〈上〉 (新潮文庫) 子供の眼
子供の眼

 テリーザ・ベラルタ(三十歳の女性弁護士、ヒスパニック)は離婚訴訟中の夫とのあいだに六歳のひとり娘エリナがいる。夫リカード・エイリアスは結婚当初からまじめに働く気がなく、テリーザの収入で遊んで暮らし、エリナの面倒を見ているのはまっぱらリカードのほうだ。
 そんな夫に嫌気がさしたテリーザは、法律事務所の弁護士の上司クリストファ・バジェットに惹かれている。
 そこに、夫リカードがさらに付けいる隙が生まれた。

 リカードは精神病質者だ。明るい性格で人を騙すことを悪いこととは考えていない。長く付き合ってきた妻のテリーザだから、夫はどこかおかしい、と気がつくのだが、ほとんどの人が騙されている。
 精神医学者がテストをすれば見つけ出すことは可能だが、頭がよいので、簡単な心理テストくらいなら、たくさんの本を読んで、どう答えたら問題がないかを勉強してかかってくる。
 こういう男が、妻を陥れ、金ヅルとして使い、子どもの監護権を主張し、妻の不倫を訴えるとしたら、いったい妻はどうすればよい。「妻は家庭を顧みない女だ」と夫から主張されても、テリーザにしてみれば、それは夫が働かないから仕方がなかったのだ。そんな愛想のよい夫の演技に、ほとんどの人が騙されてしまう…。

 このようなタイプの人間がほんとうに実在するのか。
 早川書房の文庫に精神医学を扱った「診断名サイコパス」という本がある。この本を読めばよく理解できる。倫理性のかけらもないのに、明るく正しい男を装うことのできる犯罪者というのは、たしかに存在して、じつはいまも、大勢の人間に社会生活上の迷惑を掛け、損害を与えているのだ。

 リチャード・ノース・パタースンの本書『子供の眼』の上巻では、主人公のテリーザは上司の弁護士クリストファ・バジェットと恋仲になっていく。
 夫リカードは、「それならあいつも巻き込んでやれ」とばかり、バジェット一家までが標的とされる。不倫を言い立てられたばかりか、エリナから「お兄ちゃんと一緒にお風呂に入った」と聞かされれば、それを誇大に膨らませて、クリス・バジェットの息子に性的いたずらをされたと主張する。そんなリカードのやり口に、じわじわと追い詰められていく主人公二人が描かれる。このあたり、読んでいてつらくなるくらいに気分が悪い。
 「ああ、ここまできたら…」と読者にも想像がつく。本書はサスペンス・ミステリであり、誰かが殺されるとしたら、それはリカード・エイリアス以外にはありえない。殺されても当然としか思えない男なのだ。
 しかし、その場合犯人は誰だろう? テリーザか、クリストファ・バジェットか、その息子だってあり得るし、テリーザの母親ということだって考えられる。リカードの底知れぬ悪意に、二家族の全員が巻き込まれて、とてもひどい目に合わされつづけているのだから。そして、本書はサスペンス・ミステリであり、推理小説ではないから、著者がフェアであるとは限らない。何でもあり得るはずである。
 いったいこれから物語はどう発展していくのか。

 とくに基礎知識もなく読み始めたが、リチャード・ノース・パタースンという作家は、本職の弁護士だったのだ。下巻はほとんど「法定物」であり、さすが元本職だ。じつにおもしろい。
 陪審員制度における陪審員の選び方、制度上の問題点など、米国の刑事裁判の様子が克明に描かれ、米国の司法制度というもののあり方がたいへんよく理解できる。そしてなおかつ、おもしろいのだ。
 本書はブログ「ミステリに乾杯! 」のバンコランさんの感想を読んで図書館から借りたが、これは楽しみな作家を見つけた。登場人物が重なる物語がいくつかあるらしい。本書に先立って『罪の段階』という小説があるが、読んでいなくても本書を読むのに差し支えはない。本書に続く『最後の審判』(本書でクリス・バジェットを弁護する気鋭の女性弁護士キャロライン・マスターズが主人公となるそうだ) もすでに新潮文庫から出ているらしい。

凍てついた墓碑銘/ナンシー・ピカード4

凍てついた墓碑銘(ハヤカワ・ミステリ文庫)
凍てついた墓碑銘(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 カンザス州の小さな田舎町、主人公のアビーは医者の娘で明るい性格、ミッチは判事の息子でスポーツマン、きまじめな性格。幼馴染みでいまでは相思相愛ながら、最後の一歩は大切に控えてきた間柄。吹雪の夜、アビーの寝室に忍んできていたミッチと二人、今日こそは、と思っていたら、階下の居間で電話が鳴った。医師への緊急呼び出しだろうか。
 コンドームを捜しに診察室へ下りていたミッチは隅へ隠れて息を潜める。
 そこへ保安官のネイサンが全裸の女性の死体を運び込んでくる。次男のネイサンが雪の中で発見したということらしい。
 診察室に忍んでいたミッチは、そこで信じられない光景を目撃する。保安官のネイサンとアビーの父である医師の二人が、遺体の顔にひどい仕打ちをするのだ。
 翌日、この事件は身元不明の遺体発見として報じられ、遺体は町の墓地へ葬られたが、一部始終を目撃していたミッチは、遺体が誰であるかに気がついていた。
 アビーは2階の寝室でミッチが戻ってくるのを待っていたが、ミッチはあきらめてそのまま帰ってしまったらしい。そして翌日、信じられないニュースがアビーを直撃する。
 ミッチは高校を中退させられ、地方の大学へ進学させるために判事夫婦によって町を出された。二度と戻らない。アビーとも連絡はさせない、というのだ。
 いったいこれはどういうことなのだろう。

 事件が紐解かれるのは、17年後の同じ吹雪の夜、雪の中を彷徨う判事の妻を、アビーが車内から目撃したときからだった。ミッチを忘れられないアビーは、いまだに独身で、町でちょっとした事業を営んでいた。アビーは保安官のレックス(17年前の保安官ネイサンの息子) へ電話して、助けを依頼するのだが…。

 米国の小説には最近よくありがちな、子ども時代に起きた殺人事件の謎が、いままたクローズアップされ、それを解きほぐしていくという物語。ありがちではあるけれど、とてもよく描けている。
 「アガサ賞、マカヴィティ賞最優秀長篇賞受賞作」ということで、再版刊行しているらしく、書店に並んでいるのを衝動買いした。

 ナンシー・ピカードは今回が初めてになる。ミズーリ州生まれ。雑誌記者などを経ての作家デビューということで、1984年以来、いくつかの受賞作があり、実績ある作家らしい。
 正直に言えば、「本格推理寄り」であるならあまり惹かれないので、何も知らないまま、ただそんな気がしているだけでこれまで試してみなかった。

 語りの巧みさでサスペンスを盛り上げていく描き方の作家で、謎解き中心のミステリではない。ぼくにはこういうほうがおもしろい。
 の心理の掘り下げとか、そういう点では、似たように「過去の事件を掘り返していく描き方」のジョン・ハートには遠く及ばないが、全般にこなれていて、読みやすいエンターテインメントになっている。手慣れた職人作家という感じだ。

押しかけ探偵/リース・ボウエン4

押しかけ探偵 (講談社文庫)

 --- 私は探偵、警察には頼らない! 探偵修行のため強引に弟子入りしたばかりの師匠ライリーが殺された。素人同然のモリーの取り柄は勇気と知恵と行動力 ---
 上の帯と『押しかけ探偵』という題名を頭に入れたぼくは、軽いユーモア・ミステリを読むつもりでこの小説を買った。
 まあ、そんな調子で始まるには違いないのだが、どうも勝手が違うのだ。
 
 1900年代初頭のニューヨークが舞台で、現代ではない。故郷アイルランドで食い詰めたモリーはニューヨークへ出てきて、当時警察官にはアイルランド出身者が多かったから、彼女に思いを寄せる同郷の警部ダニエルにアパートを紹介してもらった。
 しかし、すぐにも家賃の支払いに事欠く始末。ダニエルが斡旋してくれた仕事は金持ちの未亡人の話し相手なのだが、上層の社会階級を鼻に掛ける未亡人のことがモリーは気に入らない。こんなばかな仕事が安全でよい、というダニエルまでが気に入らない。
 そんな退屈な日々を送っているうち、ある男を「どうも探偵稼業らしい」と見抜いたモリーは、「私も探偵になりたい」と言い始める。
 こうして冒頭で紹介したような話になっていくのだが、なにしろ1900年代の初めだから、ニューヨークには次々と移民がなだれ込んできていて、あちらこちらに危険がいっぱい! なのだ。
 捜査のつもりでモリーが潜り込んだのがグリニッチ・ヴィレッジで、芸術家を気取り、自由な精神を謳歌する怪しげなディレッタントたちが夜ごと集まっては議論したりして酒を飲み、騒いでいる。その連中にモリーは気に入られてしまい、あれよあれよと話が横へ脱線していく。
 これはユーモア・サスペンスミステリと歴史風俗小説の融合作品だったのだ。歴史風俗描写にはとても力がはいっていて、そのうち読者もミステリだけでなくそっちがおもしろくなってくる。
 へぇ、ニューヨークってこういう街だったんだ、グリニッチ・ヴィレッジって、こんな雰囲気だったのか、と。

 ラストはまあ、ミステリのほうも意外や意外、どんどん大きな話になって、ちょっと唖然とするのだが、それは書くわけにはいかないだろう。
 本作には『口は災い』という題名の前作があり、そちらはアガサ賞最優秀長編賞受賞作品だそうだ。
 歴史物とユーモア・ミステリの双方が好きなぼくにとっては、思いも掛けない拾いものだった。

エニグマ奇襲指令/マイケル・バー=ゾウハー4

エニグマ奇襲指令 (ハヤカワ文庫 NV 234)
エニグマ奇襲指令 (ハヤカワ文庫 NV 234)

 1941年、英国陸軍情報部M16の長官プライアン・ポドリーがダートムアの監獄を訪れ、ある囚人に面会した。囚人は三十代前半の顔立ちの整った男で、かつてベルヴォアール男爵と名乗ってナチの金塊を奪い、イギリスへ密輸した前歴があった。やがて読者にもわかってくるのだが、プロ中のプロの冒険家の大泥棒、アルセーヌ・ルパンのような男なのである。
 ポドリーの依頼は単純で、ドイツ軍が使っているエニグマ暗号機を一台、フランスに潜入して気づかれないように盗んで持ち帰れ、というのである。
 英国空軍と、フランスのレジスタンス組織が支援するが、軍人が敵地に潜入するとはわけが違う。お前にはフランスに親しかった仲間がいるし、フランス語もドイツ語も自由に使える。変装も得意だという利点がある。
 報酬は自由と褒賞金だ。さあ、どうか?
 とにもかくにもベルヴォアールはこの依頼を受け、かくして冒険談の始まりである。

 かくして波乱に富んだ戦争冒険活劇が始まるのだが、どうも雲行きがおかしい。ベルヴォアールの行くところ、なぜかケジュタポが先回りしていたり、なかなかうまくいかない。途中からはもう、ベルヴォアールは英軍の支援を信用していない。そんなベルヴォアールの才覚と機転が、ついにエニグマの奪取に結びつくのだが…。
 
 結末にしっくりこなくて、ぼくはエニグマ暗号機について調べた。
 エニグマの名はいまや結構有名らしく、wikipedia にも詳細に語られている。wikipedia を読んでみれば、この小説の「訳者あとがき」に納得できる。wikipedia に書かれているようなことは、戦後三十数年経ってから公開された。この小説に書かれているようなことは、十分あり得たことなのだった。
 戦争は、まことに、人ひとりの命を将棋の駒のように通う。


 著者マイケル・バー=ゾウハーは、ブルガリア生まれのユダヤ人。イスラエル国防省の報道官を務めたこともある。日本の冒険小説のファンには『パンドラ抹殺文書』の著者として知られている。スパイ小説の大家だ。翻訳小説としては短めの小説だが、先の展開はいったいどうなるのか、と読者を惹き付ける魅力に富んだプロットで読ませる。

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 未読の読者のために肝心のところは書くわけにはいかないのですが、全体の結末を「そんなばかな…」と思われた方かは、是非 wikipedia を読んでみてください。
 情報戦に勝たないと戦争には勝てない、ということが、結果的にたいへんよくわかります。

震えるスパイ/ウイリアム・ボイド5

震えるスパイ (ハヤカワ文庫NV)
震えるスパイ (ハヤカワ文庫NV)

 1976年の夏、ルースは幼い息子ヨッヘンを自動車に乗せて、母のコッテージへ向かっていた。オックスフォードからストラトフォードへ向かう幹線から、何回も枝分かれていく。緑に囲まれた小さな田舎町ミドル・アシュトンの田舎屋に母は住んでいた。海外からの学生に英語を個人教授して生計を立てつつ、幼子を養うルースにとって、母のコテージで過ごす週末はよい息抜きだったのだ。
 しかしその日、母はいつもと様子が違っていた。階段から落ちたと言って車椅子に乗っていたことだけではない。何かが違うのだ。「森の中に誰かいないか」と訪ねたりする。見張られている、何かしら危険があるというような、緊張感を漂わせていた。挙げ句の果てに、母が書いたという手記を渡された。〈エヴァ・デレクトルスカヤの物語〉とある。
 「誰のことなの?」
 「あたし」と母は答えた。

 驚くべき物語を、週末に訪ねるたびに母は小出しにしていった。これは何かの妄想なのだろうか、とルースも最初は思ったのだった。
 エヴァ(母)はロシアからの移民の娘で、弟の死を機会に、英国政府の諜報員ルーカス・ローマーという男にスカウトされた。厳しい訓練にエヴァは耐え、思いのほかこの道に向いているところを見せるようになっていく。母の青春時代は、第二次世界大戦の真っ最中で、英国はドイツとの戦いに疲れ、米国を参戦させようとやっきになっていた。そんな最中の諜報戦を、エヴァは潜り抜けていく。彼女を一人前の諜報員に育てたのはルーカス・ローマーという男。彼がエヴァに教えたただひとつのルールは、 
 「けっして誰一人信用するな」だった。
 妄想にしてはできすぎていた。ルースは父方の親戚はよく知っていたけれど、母の親戚については話だけで、結局き何も知っていないことに気がついた。母が自分に語ったこれまでの過去はすべて、子どもと夫にはそう信じさせようという作り話だったのか。このエヴァ・デレクトルスカヤの物語こそが真実だったのだろうか。
 
 毎週渡される原稿を少しずつ読み進めていくうちに、ルースは心配になってくる。歴史学の学位をとろうという自分の当初の目標は、子育てに追われ、アルバイトの個人教授をしているうちに、どうでもよくなってきていた。そんな退屈な日常に、母の物語の異常さが侵食してくる。
 母はいまも、何かの影に怯えているのだ。
 英国のドイツに対する戦争と、それに諜報員として巻き込まれていく母の物語は、いったいどこへ行き着くのだろうか。

 さて、読者は読み進めるうちに、エヴァ・デレクトルスカヤは諜報員としてとても優秀な遣り手だったということに気がつく仕組みになっている。さらにその上を行くのが上司として登場するルーカス・ローマーという男なのだ。
 英国が米国を参戦させるためにあれこれ策を弄する辺り、なかなかおもしろいのだが、エヴァはその中で命の危険を感じさせる場面に遭遇し、切り抜けていく。
 しかし、彼女はじつの母親で、いまや片田舎で独居するおばあちゃんなのだ。その母親に、いったいいま何が起きようとしているのか。
 この二重構造こそが、この小説の巧みなところだろう。エヴァの過去の物語とルースの現在の生活のフラッシュバックがやがて交差するとでもいうのだろうか。読めない展開に、読者は惹き付けられていく。

 著者のウイリアム・ボイドはガーナ生まれの英国人だそうだ。書店のハヤカワ文庫の棚に分厚い本書が隠れていたのを引っ張り出して、冒頭部分を立ち読みして買った。イングランドの心臓部にある田舎のコテージを訪ねていく描写が魅力的だったからだ。母親の物語がここまでサスペンスに満ちたものだとは、予想はしていなかった。読者を放さない筆力のある作家である。

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 ここのところハヤカワ文庫が息を吹き返したかのように、往年の名作を復刊しているようだ。「ディックの本棚」は過去数年日本作家の作品の感想が多かったが、70年代のように海外の名作がまた続々と出てくるのであれば、そちらにシフトして読んでいきたい、と思っている。

大宇宙の少年(スターファイター)/R・A・ハインライン4

スターファイター (創元推理文庫)
スターファイター (創元推理文庫)


 「父さん、月へ行きたいんだけど」とぼくが言ったら、
 「いいとも」と父さんは答えて、本に目をもどした。資金の手当ても含め、行く方法は自分で考えろ、ということらしい。高校の4年の3月の初めのことだった。
 でも、月へ行く商業旅行には莫大な金がかかる。悩んでいるとき、「月世界旅行無料御招待!!」の広告が目に入った。スカイウェイ石鹸の宣伝コピー・コンテストに応募して、採用されれば月へ行ける!
 もう少し続きを書いてしまうと、「ぼく」は一等を逃してしまい、代わりに中古の宇宙服を手に入れるのだ。原題は"Have Space Suit-Will Travel"
 主人公のキップ少年はなかなか優秀なのだ。風変わりな父親も、田舎に隠遁はしているけれど、政府からたびたび復帰の誘いを受けている高名な学者らしい。キップが自分で宇宙服を修理して、実用に供せるだけの準備を整えたある日…。

 この小説を、ぼくは原書で読もうとして挫折したことがある。ユニークな発想のSFで、とんでもない展開の仕方をするから、自分の読み方が正しいのかどうかわからないし、科学専門用語も多いのだ。
 大手石鹸会社の宣伝コピー・コンテストに応募して月へ行こうと、緻密な作戦をめぐらし、大まじめで努力するという冒頭のエピソードからして、「ああ、古き良きアメリカのSFだなあ」と感じさせる。宇宙服にこだわったSFで、ハインラインにしては緻密な科学データにこだわって書かれている。それが途中で一変して、冒険物語に変わっていく。

 巻末の作品リストを点検したら、総作品数33作品、うち27冊をぼくは読んだ。これだけ読んでいればファンだと広言しても叱られはしないだろう。思想的な問題がなきにしもあらずだけれど、伝統的な米国の価値観のよい部分、少年らしい正義感、勇気、思いやり、粘り強い努力は報われるという確信などがしっかりと組み込まれていて、ハインラインの物語は読んでいてわくわくする。ジュヴナイル(児童向け小説)にはとくによい作品が多いのだ。
 (2008年8月の文庫刊行に際して改題されたらしく、以前は『スターファイター』という邦題だったらしい)

天の光はすべて星/フレドリック・ブラウン4

天の光はすべて星 (ハヤカワ文庫 SF フ 1-4) (ハヤカワ文庫 SF フ 1-4)


 事故で片足をなくした宇宙飛行士マックスは、その後の政府の宇宙開発計画が中断の時期に入ったこともあり、弟夫婦の世話になりながら、無為の日々を過ごしていた。
 57歳という年齢を考えると、このままで終わってよいのか、と焦りの気持ちが強くなる。なんとかして、もう一度宇宙開発計画に関わりたい、そして出来ることなら…。

 フレドリック・ブラウンの小説には、一時期はまってたくさん読んだ。下記の題名を読まれて懐かしく思われる方は多いと思う。ぼくは下に上げた本をすべて読んでいる。それだけ好きだったのだ。

 悪徳の街(改題:シカゴ・ブルース)
 三人の小人
 月夜の狼
 死に到る火星人の扉
 消された男
 パパが殺される
 通り魔
 不思議な国の殺人
 霧の壁
 真っ白な嘘
 交換殺人
 モーテルの女
 彼の名は死
 3、1、2とノックせよ
 現金を捜せ
 殺人ブロット悪夢の5日間
 遠い悲鳴
 手斧が首を切りにきた
 やさしい死神
 復讐の女神

 73光年の妖怪
 未来世界から来た男
 SFカーニバル


 『交換殺人』『3、1、2とノックせよ』などには、「うわっ、そんなことを考えるなんて!」と思わずわめきたくなるようなアイデアの閃きがある。奇才と言われたのはそういう理由からだと思う。
 でも、ぼくは必ずしも彼のそういうところを評価していたのではなかった。この著者からはアメリカの匂いがした。それも「よいアメリカ」の匂いだ。それが好きだった。
 困っている人はすすんで助けるという善意、夢を大きくもってその夢の実現に努力する男たち。ジャズの響き、葉巻の香り、そうした豊かな文明生活の匂い。
 だから、アイデアで読ませる小説も楽しんだが、エド・ハンター・シリーズのようなミステリが好きだった。
 本書は「星への想い」にとりつかれた男の物語だが、よきアメリカの匂いがする。

 60年代に人類は月へ行ったが、いくつかの事故があり、さらにロケットを月や諸惑星まで飛ばすことの経済効果が考えられるようになると、人間自身が宇宙船に乗って月や火星へ出ていくという計画そのものが中断してなくなってしまった。そんな環境下で「人類は宇宙へ進出しなければならない」という思いにとらわれた男たちがいる、という設定は、SF好きの読者の心を強く惹き付けるに違いない。
 主人公は、人類は遠い将来「星の世界」へ進出していくのが当然だ、と思っている。その手始めに、まずは木星探査を実現したいという夢を抱いた。政府を動かし、予算をとり付け、自分がその計画に採用されるようにと、活発に動き回るのだ。
 読者は、読み進めるにしたがって主人公と一体になり、なんとかして主人公の思いをかなえさせたいと、肩入れするようになっていく。

君のためなら千回でも/カーレド・ホセイニ5

君のためなら千回でも(上下巻) (ハヤカワepi文庫)


 アフガニスタンの富裕な実業家の息子だったぼくは、1975年の当時12歳だった。
 家にはハザラ人の召使いとその息子ハッサンがいて、母を亡くしたぼくはハッサンと同じ乳母に育てられた。
 何不自由ない生活だったが、ぼくは父の愛情に飢えていた。父は世間からも尊敬を集める立派人物で、男の子らしいスポーツ好きの明朗な性格の息子を望んでいるのに、ぼくの趣味は本を読むことと物語を創ること、そしてぼくは臆病で、何事にも逃げ腰だった。そんなぼくのことを、父は出来の悪さにがっかりしているのが、ぼくにはわかっていた。ぼくは父に、ぼくのことをなんとか見直して欲しかった。
 ハッサンはハジャラ人で、世間の人はハジャラ人を軽蔑し、差別していた。ぼくはハッサンと仲良しだし、ハッサンのことを好きだったが、ハッサンの家は庭の端っこの土の家で、ハッサンは学校に行けないし、ぼくたちと一緒に食事をすることもなかった。ぼくとハッサンが仲良しにしているのは、学校の仲間たちやほかの人たちが見ていないときだけだった。
 ぼくが12歳の年のあの冬の凧合戦の日、ぼくは取り返しの付かない罪を犯した。26年間、ぼくはそれを忘れようとして忘れられずにいた。ぼくのことを好きで、心から尽くしてくれていたハッサンに対して、ぼくはしてはいけないことをやってしまったのだ。

 おおよそ上のような、冒頭の告白文から始まる小説だ。
 いったい主人公は何をしてしまったのだろう、という興味から読み始めるのだが、読者はアフガニスタンの社会の成り立ちに興味を惹かれるだろう。小説の始まったときは王制下にあるが、クーデターが起きて共和制になり、それも後にあのタリバンの攻撃で瓦解する。民族紛争の絶えない社会を舞台に少年期を送る様子は、主人公が多感で臆病な性格であるだけに、彼にとってひときわ息苦しいものだった。
 長い小説で、少年時代を描いた前半、アメリカでの青年期の生活、そして48歳になってからアフガニスタンを再訪する話と、おおまかに三部分に分けられる。しかし、主人公はいつになっても、ずっと、12歳のとき、凧合戦のあったあの冬の日のことを引き摺っているのだ。彼はいつになったら、この苦い思い出を払拭できるのだろうか。
 読み始めたらやめられないし、読み終えてみて、深い印象を残す物語だ。もしかしてこれは著者の体験なのかという印象すら与えるほどリアルなのに、読み終えてみればとてもドラマチックな展開だった。著者が冒頭で告白していることから察せられる程度のことしか、ぼくは書いていない。あとは読んでいただきたい。
 映画になったらしいが、主題は心の底にわだかまる主人公の苦しみであり、これはなかなか映像表現で語れる種類のものではないように思う。
 小説の原題『The Kite Runner』は、小説と映画の邦題よりもこの小説の内容をよく表現していると思う。

クラッシュ/J・G・バラード3

クラッシュ (創元SF文庫 ハ 2-11)


 ----六月の夕暮れ、バラードは雨上がりの道で車をスリップさせ、正面衝突を起こした結果、事故の相手を死に至らしめた。その事故の直後から、謎の男ヴォーンが彼の周囲に出没する。ヴォーンはエリザベス・テイラーとエクスタシーの中で衝突死するという異様な妄想に執着していた----
 扉の紹介文を半ば引用しながら物語の冒頭を紹介すれば、以上の通りだ。
 このあと、ヴォーンはバラードや彼の妻、事故の被害者の妻、スタントマンなど、多数の関係者を自動車事故の危険と性の快楽を結びつけた異常な世界へ巻き込んでいく。

 スピード、危険と隣り合わせの緊迫感、自動車そのものの機能美、事故にあった肉体、そうしたものがセックスの快楽と結びつくというのは、イメージはわかるのだが、ぼくにとっては感覚的にはすなおに結びつかない。セックスの陶酔感どころか、嫌悪感を感じてしまうところもあった。96年にクローネンバーグによって映画化されたそうだが、小説を読む限り、映画もあまり見たくはない。

 J・G・バラードというと、『時間都市』『沈んだ世界』『結晶世界』などのSFを思い出す。なにかと異常な世界を創り出してきた作家だ。本書はSFというよりは狂気を描いたとしか思えないが、「人間が探求しなければならないのは、外宇宙ではなく内宇宙(インナー・スペース)だ」というのが彼の主張だから、いかにもこ人らしい作品と言えるかも知れない。73年の作品だそうだが、ぼくは新作だと勘違いして読み始め、まった違和感なかった。感覚的にはきわめて現代的な小説だと言えるだろう。
 なぜいまこの時期に突然文庫として刊行されたのだろう。ぼくは最近SF界にうとく、よくわからない。読みにくい本だし、軽い読み物が流行るこの時代に、思い切り逆行したような小説なのに。

無頼の掟/ジェイムズ・カルロス・ブレイク4

無頼の掟


 「ソニー、おまえは頭がいい。このまま勉強を続ければ、合法的にいくらでも金を盗むことができるじゃないか」
 バックとラッセル、二人の叔父は「おれ」ソニーにいうのだが、おれは高校を出て叔父たちの仕事を手伝うことにした。つまりプロの強盗を稼業とすることに決めたのだ。
 なぜかって? 金は仕事をして稼ぐより、奪い取ったほうが気持ちがいいからだ。

 という若者ソニーが、銀行強盗で捕まる場面から物語は始まる。
 前半、沼地の刑務所から脱走するあたりの物語はとてもおもしろい。舞台は米国南部、主としてニューオリンズ付近だが、後半では砂漠の油井のある地域へと移っていく。
 こんなに次々と強盗を続けて、いい加減にしておけばいいのに、と思うくらいバック、ラッセル、ソニーの三人は強盗稼業を続ける。それが事細かに書いてある。スリル満点だが当然飽きがくる。飽きがくる頃にはまた、次の意外な展開が待っている。
 エンタテインメントとしては、とてもよく練られた、本物のプロ作家の作品だ。

 ぼくはこの作品の直前に奥田英朗さんの『サウスバウンド』という作品を読んでいた。『サウスバウンド』の主人公の父親は元過激派で、その後徹底したアナーキストに転向した。 国家の存在を認めない。自分を縛る者を認めない。従うルールは自分で決めたルールだけ。本書『無頼の掟』の主人公たちと考え方はよく似ている。
 ぼく自身は身体もさほど丈夫ではないし、こんなやつらに出くわせば迷惑この上ない。むしろ警察力の庇護を求めるタイプだから、本書の主人公たちの暴走には、なんとまあまったく忌まわしい連中だ、と思う。
 確かにそう思うのだが、一方で、社会の中ではどちらかというといつも少数派の変わり者だから、社会の常識に合わせるには苦労してきた。おれのことは放っておいてくれ、と言いたいことが多かった。おれを締め付けるな、おれの自由にさせろ、という叫びには同調せざるを得ないのだ。

 『サウスバウンド』も本書『無頼の掟』も、よくできたエンタテインメントということは別にして、なにやら気分を落ち着かなくさせる小説だ。

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 本書は「min-min の読書メモ」の min-min さん、「本だけ読んで暮らせたら」の nanika さんお二人の紹介で読みました。

五輪の薔薇/チャールズ・パリサー5

五輪の薔薇〈1〉


 主人公の少年の一人称の語りで物語は始まる。
 19世紀、産業革命のさなかのイングランド。少年は母と二人暮らし。家政婦や料理女中を雇っているらしいから、そこそこ裕福な家庭らしい。
 しかし、農村では農地の囲い込みが始まっており、村の農民たちの暮らしは悪化する一方だった。
 少年は父を知らない。複雑な事情があるらしく、母と少年は隠れ住むようにして暮らしている。「もっと大人になったらね」と何も教えてくれようとしない母。
 やがて、母子は彼らを捜している「敵」に発見され、追われるようにして村を出ていく。困窮生活の始まりである。

 誘拐され、閉じこめられ、いじめられ、脱出すれば貧窮に苦しみ、どん底の生活を余儀なくされ、騙され、裏切られ……。
 これでもかこれでもかと襲いかかる不運。暴力や裏切りの恐怖にさらされ、死の危険と隣り合わせに生きる。
 リアリティ溢れる描写に圧倒されて、文庫本なら5、6冊分はあろうかという長い物語を、私は憑かれたように読み耽ってしまった。

 どこかで読んだ雰囲気だといえば、これは紛れもない『オリバー・ツイスト』の世界なのだ。しかし、描写の迫力は、私の記憶しているディケンズをはるかに凌いでいる。
 少年たちを閉じこめて死に追いやる偽学校。正常な人間を狂人に仕立て上げる精神病院。広大なロンドンの下水構に生きるショア・ハンターの世界。死体盗人業者同士の抗争。独自の階級意識が支配する大邸宅の使用人の世界。舞台は次々と目先を変えていくが、どの舞台もまた、すさまじいまでのリアリティに溢れている。
 数世代にわたるある一族の家系の、遺産争いの物語なのだが、何度も前をめくらねばならないほど複雑でややこしい。謎が謎を呼び、冒険が冒険へと連なり、裏切りが裏切りを呼び寄せるというパターンでページをめくらせる。

 この体験が、知らず知らずのうちに少年を成長させる。
 運命に翻弄されるのではなく、運命を自ら切り開くようにするのだ、という少年の想いは、力強い。

 しかし、ここにひとり、少年に想いを寄せる少女が登場する。
 「あなたは何か間違っている。あなたのやろうとしていることは、自分も欲望にかられているのか、さもなくばただの復讐心に駆られているだけだわ」
 主人公は深刻に悩むのだが……

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 本書は現在ではハヤカワ文庫で全5巻を入手できるが、ぼくが読んだ99年7月当時は分厚いハードカバー上下巻計4千円だった。ぼくはむさぼるように読んだ。大波乱の冒険物語だが、ラストを嫌う方がいらっしゃるかも知れない。

容疑者たちの事情/ジェイニー・ボライソー3

容疑者たちの事情


 ローズは四年前に約二十年を連れ添ってきた夫を病気で亡くし、ここコーンウォールの田舎町ニューリンで、写真家兼画家として生計を立てている。
 そのニューリンの町へロンドンから金持ちの夫人が引っ越してきて住み着いた。
 ローズはこの夫人からクリスマス・カード用の写真撮影を依頼されるが、それを機会に殺人事件に巻き込まれる。

 原題は「Snapped In Cornwall」
 コーンウォールと聞いただけで、いろいろなイメージが湧き上がる。高い崖、洞窟、海の男たち、ケルト文化。クロッテッド・クリーム。シーフード。
 明らかにコーンウォールを舞台にしたことが売りの小説で、主人公が写真家だからこういう題名になっている。
 それにひきかえ「容疑者たちの事情」とはまた、なんと芸のない邦題だろうか!

 パーティ会場で起きた事件だが、ロンドンから招かれた数人を除けば、あとは使用人も客も、みなニューリンの町の人たちばかり。さあ、犯人は誰だろう。
 主人公のローズがとても魅力的に描かれていて、本書はそれで小説として成り立っている。亡くなった夫のことはそろそろ忘れて、新しい人生へ踏み出さなければ…、と友だちからもあおられていたところへ起きた事件。
 担当のジャック・ピアース警部がちょっと気になるし、被害者の夫が気の毒だし、彼女はついついいろいろと、首を突っ込み詮索し、そして…。

 風光明媚な土地柄もあるし、自立して生活する主人公が好ましい。読んでいて気持ちのよいミステリだ。

火星のプリンセス/エドガー・R・バロウズ5

火星のプリンセス―合本版・火星シリーズ〈第1集〉


 いつもなら火曜日はこのブログの休日なのですが、今晩は特別に記事を書くことにしました。
 なぜなら、東の空かなり高い位置に、赤っぽくて強い光を放つ火星があるからです。南軍の騎兵隊大尉ジョン・カーターがアリゾナの山中で見上げていたのは、まさにこのような火星に違いないと思いました。

 異常に明るく赤い星を見上げていたジョン・カーターは、後に言われるテレポーテーションのようにして、突然火星に転移するのです。火星では、美しい赤色人やどう猛な緑色人が独特の文化を築き上げ、互いに争っていました。
 重力の弱い火星で、地球人ジョン・カーターの大冒険が始まるわけですが、エドガー・ライス・バロウズは細かいところまで丁寧に火星人の文化を考えてあって、読者としては彼の創造した独特な世界に浸れるのが魅力です。

 ターザンの作者として知られるバロウズの想像力はすばらしいと思いますし、火星シリーズや地底世界ペルシダー・シリーズのファンも大勢いるはずなのですが、程度の低い作品との思い込みで、読まずにバカにされている方も多いのではないでしょうか。それはあまりにももったいないというもの!
 こんなふうに火星が異様な光を放っている夜こそは、バロウズの魅力を紹介するのがファンではないか、と読みふけっていた昔を思い出し、記事にしました。

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 読者のみなさん、ぼくにとってはブログも大切ですが、今晩は是非一度、東の空を見上げてください。火星が地球に接近しているのです。
 恒星ですと赤い色の星は温度が低くて暗いのがふつうですが、惑星は例外です。
 横浜のような夜の明るい都会で、赤っぽく色づいた星がこれほどまで明るく輝いて見えることはめったにありません。横浜でこれだけ明るく見えるのだから、みなさんがどこへお住まいでもご覧になれるはずです。表で空を見上げていただければすぐにわかります。

少年騎士アーサーの冒険(1)予言の石/クロスリー・ホランド


少年騎士アーサーの冒険〈1〉予言の石

 舞台は1199年のイングランド。ウェールズとの国境を守る領主サー・ジョンの荘園だ。主人公は領主の次男で13歳の少年アーサー。
 サー・ジョンの領地はイングランドが戦争でウェールズに勝ち、ウェールズから奪い取ったものだ。
 しかし、アーサーの母と祖母、つまりサー・ジョンの妻と義母はウェールズ出身だ。そこがおもしろい。アーサーは祖母からさまざまなケルトの物語を聞くのを楽しみにしている。
 アーサーの望みはできるだけはやく騎士見習いとなり、ゆくゆくは父のような騎士になること。剣や槍や弓の稽古に励んでいるが、腕力の強い兄サールには負けてばかりいる。
 父は兄サールの将来を考えてはいても、アーサーのことは「まだ子どもだ」という態度。アーサーは読み書きが得意で、父もそれを認めているが、彼は父に「聖職者になれ」と言われることを恐れている。

 アーサーを見守り、何かと助言してくれる男が一人いる。マーリンという名で、なぜか父から荘園での気ままな生活を許されている謎の男だ。
 ある日アーサーはマーリンからお守りとして大きな黒曜石をもらうが、その鏡のような表面を見つめていると、ときどきケルトの王、アーサー王の少年時代の物語が見えてくる。
 12世紀末の荘園に生活する少年アーサーの物語と、ケルトのアーサー王誕生の物語が、なぜか重なり、同調するかのように進む。

 この小説の特徴は、中世の荘園の暮らしがたいへん丁寧に描かれていることだ。領民たちの生活は貧しく苦しい。
 少年アーサーは心優しく、そんな領民たちの生活にしっかりと目を注いでいる。誰かが困っていれば助けないではいられない。兄サールはそれをいちいち父に告げ口し、父は「人にはそれぞれ役割があるのだ」と、領主の息子らしくふるまうことをアーサーに望む。

 物語の中では、十字軍へ参加するよう呼びかける教皇からの使者がやってきたり、リチャード獅子心王が亡くなって即位した新王ジョンの使者が、厳しい新税制を告げにきたりする。
 よい時代が過ぎ去り、悪政がはびこりそうないやな雰囲気だ。

 アーサーは利発で、やさしい心の持ち主だ。読者は自然に感情移入して、彼の幸せを願うようになる。
 それにしても謎の男マーリンは何者なのか? アーサー王物語に登場する魔法使いマーリンとなにか関係があるのだろうか? 
 黒曜石の表面に映るアーサー王物語の展開が、あたかも現実世界の少年アーサーの行く末を暗示するようになっているのはなぜなのか?

 文庫の第二巻『運命の十字』がすでに出ている。このシリーズは描き方が大変ていねいで好感を持てる。今後が楽しみだ。

ひみつの花園/バーネット

94d0c310.jpg 児童向けのものをポプラ社文庫で読んだ。
 バーネットの『小公子』『小公女』は何回も読んだが、『ひみつの花園』はこれが初めてだ。

 主人公のメリーは小公子のセドリックのように「いい子」ではなくて、甘やかされて育った上に両親が亡くなり、すっかり拗ねてしまった女の子。
 イギリスの田舎、荒れ野の中のお屋敷に住んでいる叔父にひきとられる。
 この屋敷の主人(叔父)は愛妻を亡くし、妻が大切にしていた花園を閉じて、その鍵を隠してしまい、屋敷にはほとんど戻ってこない生活を送っている。
 メリーはこの屋敷にひきとられたものの、叔父は姪に無関心でメリーを家政婦任せにしている。
 メリーの世話をしてくれるマーサという若いお手伝いさんのおかげでメリーは少しずつ心を開いていく。
 やがて、叔父には病気がちで部屋に閉じこもってばかりいる息子がいることが判明し、この少年が登場して、物語はさらにおもしろくなっていく。

 筋書きはとくにどうということはない。自然に恵まれた環境での生活が子どもの身体や心を癒し、心身の健康を取り戻していくというものだ。著者のストーリー・テリングの巧みさによって、すがすがしい感動を呼ぶ物語に仕上がっている。

 書かれてから百数十年、それでも読み継がれる力を持っているのはなぜだろう。
 テーマが『小公子』などよりもっと普遍的で、現代人に訴えてくるからかも知れない。
 この時代の上流階級の人たちのように、わたしたちは自分で土いじりをするということをなかなかやらなくなってしまった。この小説では、上流階級の子どもたちが土地っ子の導きで土に触る。自分で土地を耕し、種を蒔き、育てて、花を咲かせることにより、自然から何かの力をもらう。その力が彼らを癒し、生き生きとさせていく。
 お屋敷の奥深く、入ってはいけない禁断の『ひみつの花園』を介在させるプロットで、自然の持つ神秘的な力を表現した。

 ガーデニング好きの人たちが本書を知っているのかどうかわからないが、ガーデニングがなぜ楽しいか、それを小説にしたような物語である。

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