つづきは新ブログにてお読みください。
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2011/11/17追記:当ブログへのコメントは受付を終了させていただきました。
日籍部落客・中正の亞洲流浪記
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與高雄的「乾將」的回憶(一)
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今年4月に亡くなった「けんちゃん」は、私が出会ったころ、とあるバス会社の高雄站長(ザンチャン=駅長)だった。
まずは彼と知り合う前の、私の台湾生活第一歩から書こう。
2007年12月12日の夜11時過ぎ。台北車站の近くでバスから降ろされた私は、日本人経営の居酒屋がある林森北路をめざして重いトランクを引きずりながら歩いた。商店街の歩道は段差が多く、「転がす」以上に「持ち上げる」労力が必要だった。
私が予約した寮付きの補習班は澎湖(ポンフー)という離島にあり、この時間はもう国内線が飛んでいない。ひとまず深夜営業の居酒屋でビールを飲み、あとは24時間OPENのファストフード店で朝を待つ計画だった。
日本で調べておいた居酒屋の名は「五右衛門」。日本人駐在員向けスナック街のど真ん中にその店はあった。ここで3時まで暇をつぶし、閉店後は近くの「麵太郎」という店へ。こちらの雇われ店長が澎湖出身で、島での再会を約束したが、結局会えずじまいだ。
夜が明けてタクシーで松山機場へ。補習班から指示された通りに国内線のチケットを買う。風にあおられてガタガタ揺れる小さなプロペラ機で、澎湖島の馬公(マーゴン)機場に到着した。
空港で捕まえたタクシーを降りるとき、運転手に「請開發票(チンカイファーピヤオ)」と言ったら手書きの領収書をくれた。NHK『とっさの中国語』のフレーズは台湾で使えることがわかった。
東京・白金の台北駐日経済文化代表処で申請したビザの有効期限は60日。実は私が台湾にいたこの期間中に、現行のノービザ90日OKの制度に切り替わっている。
馬公市の補習班には、ビザが切れる直前までいる予定だった。しかし、同じ寮に住む杉山さんや南さん、彼らを通じて知り合ったBARのオーナーwell(台中人)など、友だちが増えていくにつれ飲み代や写真の現像代がかさんできた。当時私はデジタル一眼レフカメラを持っていて、人の笑顔を撮るのが好きだった。撮った写真はプリントしてモデルに渡す。屋台のおっちゃんにもBARの小姐にも人数分配る。これがバカにならず、ついには学費を圧迫し、授業を6週間で打ち切る決断を下した。
澎湖の冬は、大陸からの季節風がごうごうと吹いてとても寒い。ひどい日はダウンジャケットが強風にはためき前に歩けないほどだ。
テレビのニュースを毎日見ながら、暖かい台湾南部に憧れていた。馬公から高雄にフェリーが出ている。それに乗って台湾本島に行けば、残金が少なくなっても歩いて桃園空港までたどり着けるだろう。帰国のチケットは2ヵ月きっかりのFIXだ。変更すればまたお金がかかる。
2008年1月の終わり。私を乗せた大型客船・台華輪(タイフワルン)は、台湾第二の都市、高雄の港に接岸した。なんだこの生ぬるい暖かさは! 夜遅くに着いた真冬の高雄の気温は20度くらいあったかもしれない。
市内バスでいったん高雄火車站まで行き、安くて、でもそんなに汚くないホテルをしらみつぶしに探す。見つけたのはドブ川沿いの富翔大飯店。シングルルーム380元(当時)だ。屋上には無料の洗濯機もある。補習班の寮が1泊500元だったから、これなら緊急退避した甲斐があるというものだ。
日本のいたるところで雪が降っている。台北では明け方の気温が1ケタで浮浪者が凍死した。しかし高雄は、昼ともなれば長袖を着ていられないほど暑い。私は暑い地方が大好きだ。帰国日までの2週間を、ずっとここで過ごそうと決めた。
ある日、八德一路の小吃店(シャオツーディエン)の老闆(ラオバン=主人)と仲良くなった。Johnsonと名乗る彼は英語が話せて私とコミュニケーションが取れた。彼のメールアドレスに「624」という数字が入っていたので、これはなんだと尋ねたら「My lucky number」だという。「It's my birthday」と言ったら彼は仰天して、私のメモ帳に「巧合」と書いた。偶然の一致という意味だ。
Johnsonの店はアルコール類を置いていない。そこで私は毎晩彼の店に行くとき、隣のスーパーで台湾啤酒を買って持参した。足りなくなればまた買いに行く。
変な日本人が毎日ビールを買いに来るので、スーパーの老闆、老古(ラオグー)も私の顔を覚えて、日本語が話せる友人の黃さん、愛称「乾奬(けんちゃん)」を私に紹介した。
けんちゃんは某バス会社の高雄站長という要職にありながら、檳榔(ビンラン)を噛み、ニッカウヰスキーが大好きな“のんべえ”オヤジだった。年は65で、もうすぐ定年退職らしい。
彼は戦時中、神奈川県の鎌倉市で生まれた。バス運転手の台湾人の父とバスガイドだった日本人の母のあいだにできた子だ。母親は若くして亡くなったが、いつも「けんちゃん、けんちゃん」と彼を呼び、かわいがっていたという。
私は鎌倉の病院で生まれ、隣の逗子市で育った。けんちゃんはなまりのある日本語で「かまくら、大仏あるやろ」と言った。私は「あるある! でも小さい」と答えた。
けんちゃんの母親と私の母親は、漢字は違うがまったく同じ読み方の名前だった。世の中にはどうしてこんな巧合があるんだ? まるで年の離れた兄弟のごとく、他人と思えなくなった私たちは、それから毎日一緒に酒を飲むようになった。すべてけんちゃんのおごりで。
中華圏の正月である春節(チュンジエ)が迫り、私のホテルの部屋代が900元、あるいは1000元に値上がりするとフロントの小姐から聞かされた。けんちゃんに「ホテルが高くなるから網咖(ワンカー=ネットカフェ)で寝るよ」と言ったら、「うち来ればええやんか」と、息子の馬子(マツ)の部屋に一緒に泊めてくれた。
20代後半の馬子は仕事の休みになると、私をオートバイの後ろに乗せて、あちこち観光に連れて行ってくれた。私が人物写真を撮っていると知るや、「近所のコンビニにかわいいコがいる」と私を引っ張って全家(=ファミリーマート)に行き、そのコの写真を撮らせた。出来上がりに馬子は不満そうだったが、それは勤務中の彼女が照れまくってすぐに逃げたからだ。「実物のほうがかわいいんだからいいだろ」と馬子には言っておいた。
今思えば、まだ中国語の話せない私と日本語も英語もわからない馬子が、どうやって会話していたか不思議でしょうがない。筆談はできた。馬子の書く字はきれいで好きだ。でも会話は…。
2月の半ば。彼らとの別れの日を迎えた。けんちゃんの会社の高速バスのチケットを、彼が株主割引で安く取ってくれた。馬子は全家で買った缶ビールとお守りを私に差し出した。そのお守りは今でも持っている。
日本に帰っても無職だし、毎日ビールばかり飲んで中国語もろくに覚えなかった私だ。次はいつ台湾に、高雄に来られるかわからない。
片側1列の豪華なシートに身を沈め、バスガイドの小姐からミネラルウォーターやお菓子を受け取った私は、効き過ぎる冷房をものともせず、馬子がくれた台湾啤酒500ml缶を一気に飲み干した。
「いつかきっと、必ず、高雄に帰る」
デジカメのモニターに映ったけんちゃんと馬子のやさしい笑顔を見ながら、そう心に決めた。
<高雄の「けんちゃん」のこと(三)>につづく
罰金を納めて台湾を離れる2日前、10月24日の夕方。高雄の「けんちゃん」の息子で私の好朋友でもある馬子(マツ)に電話をかけた。
「馬子,我問你喔。我想把我跟乾將(けんちゃん)的照片PO我部落格上,因為這次我來台灣的目的是看他,你覺得怎樣,有問題嗎?」
「沒問題啊,沒問題啊。謝謝,謝謝!」
短い会話だったが、私は遺族の同意を得て、けんちゃんと並んで撮った写真をここに公開する。
東京でフリーライターとして雑誌の取材編集、執筆にたずさわっていた私は、インターネット時代の出版不況にあおられて、とある専門誌の休刊を機に収入が不安定な状態となった。
その後、仕事のまったくない時期にmixiのコミュニティを通じてひとりの女性と知り合い、間もなく付き合い始めるが、経済的、精神的な余裕のなさから遠距離の彼女を呼び寄せることができず、お互いの住む土地を一度ずつ行き来しただけで、私がふられる形で短い恋は終わった。
季節は晩秋。深夜に天高くのぼったオリオン座を見上げて、私はこの先どこへ向かうべきかと考えた。
やっぱり南だ。暖かい土地がいい。20代前半にも同じように旅に出て沖縄にたどり着いた。もう日本にはこだわらない。野垂れ死んでもいいから海外に出よう。英語は嫌い。漢字が好き。中華圏だったらどこだ。せっかくなら中国語を習おう。それには住むところも必要だ。
検索した結果、台湾の離島にある日本人経営の補習班が宿舎もあって予算に見合った。台湾はひとつの島だと思っていたので、離島があることさえ知らなかった。
インターネットのせいで次々と雑誌がつぶれ、インターネットのおかげで新天地の情報が得られる。根性なしで肉体労働に不向きな私は、パソコンがなかったら、もう生きていけない気がした。
10年使えるパスポートを取った。ワンルームマンションを退去して荷物を友人に預けた。auの携帯電話を解約した。出発まで日にちがあるから、思いつきで3泊4日で香港に行った。独特の街のにおいに不安が一気に増した。
ホテルのフロントマンとの会話は英語で、飲食店での注文はメニューの指差しだった。しかも「蛋」の文字が卵のことだと知らず、どの料理にも「虫」が入っていて気持ち悪いと思った。
NHK教育テレビの『とっさの中国語』を深夜も早朝の再放送も見て、テキストと2枚組CDを買った。レコードショップのアジアコーナーでジェイ・チョウの新譜が目に留まり、なんとなく買ってみた。♪ブヨマファラ、ブヨマファラ、ブヨマファブヨマファラ、ブヨマファラ~。初めて聴いた華流POPSは呪文みたいだった。
それ以外に中国語や台湾に関する知識がほとんどないまま、2007年12月12日の夜、私は初めて台湾の地に降り立った。
まさか4年後にあんなことになるとは知らず、因縁の桃園空港第2ターミナルから、私は國光バスで台北へと向かった。
(この項、つづく)
http://www.youtube.com/watch?v=TvpPW0FR2gM
蘋果日報
http://tw.nextmedia.com/applenews/article/art_id/33770583/IssueID/20111027
9月7日~10月26日だよ。不是49天,正確是50天49夜吧,對不對!?
2011/11/18追記:わかった。テレビ局が間違えたんじゃなくて、移民署の公式発表が49天だったんだ。罰金を払った書類にそう書いてあった。9/7~10/25の罰金を26日に払った計算なのかな。変なの。49夜=49天だとしたら、ノービザ90天の解釈も変わってくるぞ。とにかく各社の報道が49天なのは彼らのミスじゃない。間違えたのは移民署。それが結論!
すでに私はこの時間、機上の人となっているでしょう。いろいろなことがあり過ぎて、うまく整理し切れていない当ブログも、「非法居留」の罰金を移民署に納めた時点で完結です。
実に“五十天”にも渡った不法滞在期間中に、多くの方にお世話になりました。毎日が感謝の連続。その気持ちは絶対に忘れません。
愛すべき台湾への恩返しと、私のことを心配してくれる朋友たちへの連絡手段として、これから別のブログを立ち上げて、台湾の情報や私の近況を綴っていきます。準備に少し時間がかかりますが、アカウントだけは取得済み。livedoorブログの編集機能は本当に使いやすいです。
いくつか宿題を残しています。
「メモ」で終わっている10/15、16、25の日記の清書。Meerさんへのレス。最近のコメントへのレス。
私が4年続けて春節(チュンジエ)を一緒に過ごした、高雄のけんちゃんとの出会いも書かなければ。
それらの記事は当ブログに順次追加して、新ブログに「更新しました」と告知します。関係機関や個人に遠慮して書けなかったネタはいっぱいあり、これもいずれはオープンにしたいです。
新しいブログのURLは以下の通り。まだ何も書いていません。
日籍部落客・中正の亞洲(アジア)流浪記
http://blog.livedoor.jp/die_doors/
大阪に降りて、ネットにアクセスできたらここにコメントを入れます。これからも私ことZhongZhengのブログとよろしくお付き合いください。上の画像は桃園空港に住んでいたころ撮った第2ターミナル。下の画像はカミナガさんの車の助手席から撮った、同じく第2ターミナルの夜景です。
さよなら中正國際機場、さよなら台湾、さよなら在台湾的朋友們。
また会う日まで。再見。
亮さんと同じホテル、きのうの日記をアップ、電脳街へ、公休、
台北車站、炭火焼肉、生ビール、遠赤外線で紫の炎に写る?
亮さんiPhone 4S買う、台湾不法ブログ、我知道、
ホテルに戻ってビール、再び台北車站へ、區間車、中壢、
カミナガさん、GIORDANO、紅色、すそ直し2分、
カミナガさんの車でJackの家へ、健康、妹妹、シャワー、
いざ桃園! ケータイ忘れる、ファミマでJackを待つ、
カミナガさんの車で桃園機場へ、帰ってきたぞ第2ターミナル、
2階、ソファ、連れション、1階ソファでカミナガさん5元ゲット、
1元、10元、合計16元、美食廣場、セブンイレブン、
關東煮一律10元、統一優勝セール? つゆはたっぷりと、
Free WiFiのロゴシール、高鐵の制服、ミニスカ。
この不法滞在ブログを映像化したいというプロデューサーの“亮さん”が、西門町のショップで私にプレゼントを買ってくれた。五月天のボーカル、阿信のオリジナルブランド「STAYREAL」のTシャツ黒とグレー。めちゃくちゃうれしい。
夜は海鮮料理に舌鼓を打ちつつ(もちろん亮さんの払いで)、彼の構想を聞き、私のささやかな夢を語った。
共通の知人がいることもわかり、亮さんとは会って25分で意気投合。彼の仕事を手伝う簡先生も交えて浴びるほどビールを飲み続けた。映像化かぁ……嘘みたいな話だ。你是騙人嗎!? 哈哈,開玩笑的啦~。もちろん今はまだプランニングの段階で、実現するかしないかはわからない。
添えられた塩の上にめらめらと炎が揺れる焼きはまぐりを、亮さんは「江ノ島の味」と表現した。なつかしい地名! 神奈川県逗子市に生まれてサザンオールスターズ大好きの私には、それすなわち故郷の味に近い。
阿信が私を「櫻花男(インフアナン)」------櫻花は桜、桜は台湾人にとって日本の象徴------と呼んでくれたが、日本にしかないシンボルはやはり富士山だと思う。少年時代、逗子海岸から江ノ島越しに眺める富士山が大好きだった。
ふるさとニッポンは、私の心にあたたかい火を灯(とも)してくれるだろうか。いや、灯してもらうんじゃないな。私が自分で火種を起こさなければ。結果的にこのブログがそうなったように。
こんなちっぽけな私の命の火種に、多くの人が新鮮な空気を吹き込んでくれた。帰国便ジェットスターの着陸地である大阪でも、「不自由な日本人」さんはじめブログ読者の方々と会う予定。
「やっぱ関わり合いたくないかなあ~」なんて言ってる人も、気が向いたら、ぜひ。
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