El diario de Molo 〜molo記〜

寒いですね。

映画「フラッシュバック」の、もっとよくできた感

本日紹介する映画は「フラッシュバック」。(原題: Flashbacks of a Fool)映画223。





先日「博士と彼女のセオリー」の際に、フェリシティ・ジョーンズにからめて言及した映画である。
映画の質そのものには残念ながら不満な点は存在するが、そういうことも含めて感想を書かせていただく。

舞台は不明。おそらく主人公は現在アメリカにいるのではないかと思われる。
主人公のジョー・スコットは、イギリスのど田舎出身の俳優。かつては人気を博したが、しかし現在は仕事量も落ち着いてきてしまい、自堕落な生活を送っている。
そんな折、彼のもとに母親から連絡が入る。曰く、故郷のかつての親友、ブーツが亡くなったとの知らせだった。ジョーはその知らせを聞いて精神的に不安定になり、海に服を着たまま泳ぎに出て、そのまま沖に流されてしまう。そして水面に浮きながら彼にとってブーツとの最後の思い出となる25年前の苦い記憶を呼び起こす。


この映画の不満を言うとしたら、大きく分けて2つ。
まず1つめに、脚本が甘い。ハッキリ言って、若年期の「フラッシュバック」で、最も肝となるのは、ジョーとイヴリンが原因による、ある少女の死である。
しかしながら、そこに至るまでまでのところがダラダラしすぎ。人間関係の説明をするわけでもない。物語を構成する上で、やはり、ジョーとルースがどのように仲良くなり、そしてどのように決別したか、あるいはジョーとブーツの関係がどのようなものだったかを描くという意図があったにせよ、内容はかなり薄い。
まず、若きジョーとイヴリンのセックスの様子をなぜああもあからさまに、そして時間を割いてみせる必要があったのか。だいたい、いつもあんなことになってれば、家族はもっと早く気づくもんだと思う。
また、ブーツとの関係についても、あの回想ではあんまりキャラクターがわからない。せいぜい、ジョーとつるんで、そしてジョーがルースを失望させたことに関して激怒したということくらい。(しかも激怒してるとこルースは見てないし…)よって、あの池での遊ぶシーンに関しては、まるまるムダだということになる。
加えて、家出したはずのジョーはどうやって親に仕送りをすることができたのか、という謎。車寅次郎のようにたまに帰ってくるならまだしも。仮にジョーが俳優として活躍しているのをテレビで見て接触を試みたということにしても、ファンレターに混じって送られてくるメッセージに目を通すことはできたのだろうか。あのだらしない性格なのに?
そして、やはりクライマックス。ジョーが書いたメッセージで泣き崩れるというのは、まあわからんでもない。だって自分が過ちをおかしてなければ、ルースを幸せにすることができたのかもしれないのだから。でも、あんなに泣き崩れるのか?どうにも論理構造がおかしい気がする。それに、ルースの若き日のシーンで、ジョーがルースの家に行くことがあるが、家具はどう見ても豪邸並。そんな人に対してお金の施しをするのはおかしい。それともあのお金は、慰謝料っていう扱いなのか。

2つめに、画質の問題。
回想シーンのために、わざと荒い画面を用いているけれど、現代の場面にいたっても、どうにも漂う安っぽい感じが気に食わなかった。
家の中の様々なインテリアのセンスが悪い。統一性がまるでない。
高級な家に住んでいるアピールをしたがっているが、どうにもそうは見えなかった。
それにカメラワークも雑。登場人物を撮る際に、何かを手前においてぼかしたり、奥のものをぼかしたりして、距離感を出そうとするような工夫が、これまでみてきた映画に比べてあまり多くないように思えた。いわば、一昔前風の映画。

自分の好きな俳優さんを使っているからには、やっぱりよりよいものを作って欲しい、そう切に願う映画でした。


みなさんごきげんよう〜

「インサイド・ヘッド」で人生の意義を考えよう

本日紹介する映画は、インサイド・ヘッド。映画222。
舞台は、ミネソタに暮らす女の子、ライリーの頭の中。
ライリーの考えていることや、やること、感じていることは、ヨロコビ、カナシミ、ビビリ、ムカムカ、イカリという、「司令室」にいる5つの感情によってもたらされていた。そもそもライリーが明るい性格ということもあり、ヨロコビが場を仕切っている。
ライリーはホッケーチームに所属し、たくさんの友達と、楽しく暮らしていた。しかしある日、ライリーの父の仕事の都合でカリフォルニアに引っ越すことになる。頭の中では、ライリーをどうやってカリフォルニアに馴染ませるか、そして楽しませるかという計画が練られていたが、現実は不運なことばかりが続いていく。懸命に盛り上げようとするヨロコビだったが実は気になることがあった。それは、カナシミの存在である。ヨロコビの正反対にあたるカナシミは、なぜか楽しい記憶に触れると悲しい記憶に変えてしまう力があった。ヨロコビはつとめてカナシミをライリーの記憶作りから締め出そうとするが、カナシミの気遣いからトラブルが発生。カナシミはヨロコビと共に司令室からいなくなってしまう。

この映画の感想を端的に言うならば、素晴らしいの一言。頭の中の感情という主人公により、よくもここまで物語を構成することができたと思う。

この作品、アニメーションでありながら、その製作舞台裏の工夫が結構すごい。様々なものが、実際の脳の器官の形や、脳の仕組みを再現しているというのだから、おどろきである。
さらには、カナシミという存在がなぜ必要なのか、なぜ一度しかない人生で悲しい思いをしなければならないのか、という、そもそも私たちが疑問を持つことがなかった(少なくとも私は、人生楽ありゃ苦もある…そんなもんかな、ぐらいにしか思ってこなかった。)事象に切り込んでいるということからも、作品の意義は大きい。そして、過去の人気ディズニー・ピクサー作品の作風が徐々に変化していったように、この作品のターゲットは子どもではなく、大人、それも子どもがいる大人だと思う。
途中、ヨロコビは自身の身勝手な行動により存在の危機に瀕し、結果として脳のある能力を犠牲にして生き残ることになる。でもそれは、大人は気付けば失われている能力で、あのシーンだけで、子どもから大人になることの一つのドラマがある。あれは大人は涙するポイントだろうが、おそらく子どもが見ても、涙を流すほどではないと判断するだろう。
また、快活なヨロコビに対して、明らかに鈍臭くて、ヨロコビの邪魔ばかりするカナシミのことを視聴者は序盤はイライラしてみることになる。それは、無意識のうちにヨロコビ、つまり楽しいことに主眼をおいて作品を見るようになるからであり、実際そういう脚本になっている。しかし途中、カナシミがある能力を発揮し、ピンチを切り抜けるときがある。この時になって大人は、少しカナシミの意義に思い当たるふしがあることに気づく。もちろん、作中でも後になってカナシミとヨロコビが共存している意味も明かされる。
個人的に最も涙しそうになったポイントはわりと最後、ヨロコビがカナシミに対して、ヨロコビの記憶にカナシミが触れることを許す場面である。あの場面で大人は、人間の感情の中にカナシミが必要な理由を身を以て思い出すことになる。 



みなさんごきげんよう〜 

映画「フォックスキャッチャー」の美しき余韻

今回紹介する映画は、フォックスキャッチャーという映画。映画221。


舞台は1980年代アメリカ。
ロサンゼルスオリンピックのレスリング競技で金メダルを受賞した、マーク・シュルツ。しかし、同じく金メダルを受賞した兄のデイヴ・シュルツとは、世間の反応が明らかに違うことに苛立ちを覚えていた。事実、デイヴはマークのコーチを兼ねていた。
そんなとき、マークはジョン・デュポンという人物から電話が入り、フォックスキャッチャーという場所に招待される。デュポンは、アメリカの巨大財閥の息子だった。フォックスキャッチャーには、デュポンが用意した、整ったレスリング練習場があり、多くの選手たちが練習に励んでいた。デュポンはマークに、共に世界一を目指そうと、マークに破格のオファーを提示し、マークはそれに飛びつく。
レスリングのことを熱心に考えるデュポン。しかしデュポンは、次第に周りが予期しない言動を垣間見せるようになる。

公開される前から話題になっていたこの映画、非常に静かなのに、見ていて心休まるシーンが少ない映画である。常にハラハラドキドキさせられる。その理由は、デュポンの言動にある。映画を見ていると、誰しもが無意識のうちに「このあとはこんなふうになるんじゃないかな?」という予想を立ててみるものである。しかし、このデュポンの言動は首尾一貫せず、突発的に感情が変化するため、こちらの予想が当たりにくい。そしてそれが見る者を不安にさせる。その意味では、普段はコメディ俳優として活躍するスティーブ・カレルの演技は素晴らしいと言える。

内容のことを言いますが、最後にある人物が射殺されてしまう。
なぜ、殺してしまおうという考えに至ったのか。自分よりも優れた存在だと認め、邪魔に思ったからか?この人物さえいなければ、自分の力を示すことができると思ったのか?はたまた、自分の思う通りにならないことが耐えられなかったから?喉から手が出るほど欲しがった人物なのに、なぜ?という疑問は結局今も晴れていない。 だからこそ、なんとなく見終わった今も印象に残っている。


みなさんごきげんよう〜 

映画「セッション」のハンパないアカハラ

本日紹介する映画は「セッション」。原題はWhiplash。このWhiplashとは本編に登場する曲名である。映画220。


舞台はアメリカでトップに君臨するシェイファー音楽院。
主人公はここに通う19歳の少年、ニーマンである。彼はプロのジャズドラマーになるという夢を追い、過去の偉大なジャズドラマーたちに肩を並べるべく、日々練習に励んでいた。
ある日、いつもの練習に励んでいると、スキンヘッドの男が入ってくる。彼はシェイファー音楽院の中で最も力があると崇められる指揮者、テレンス・フレッチャーだった。
ほどなくして、ニーマンはフレッチャーに、彼が運営するスタジオバンドに声をかけられる。学院の中でも最高ランクに位置するバンドに招かれることは非常に名誉なことである。
時を同じくして、彼は映画館で一目惚れしたニコルという女性とも交際を始めるようになる。
まさに破竹の勢いでステップアップするニーマンは、しかし、初日のバンドの練習で、まわりの異様な緊張感を前に、雲行きが怪しくなる。
フレッチャーは最初、ニーマンのことを「かわいいだろ」と言ったり、ニーマンの過去のつらい出来事などに共感し、慰めるようなしぐさを見せていた。
しかし、演奏が始まると、寸分の狂いも許さない完璧主義者と化し、ニーマンのドラムを「テンポがずれている」という理由で平手打ちし、数々の罵声を浴びせる。
ただ打ちのめされるニーマンだったが、フレッチャーを見返してやるという思いを原動力にしてもう練習に励む。持てる時間の全てをドラムの練習につぎ込み、さらには自分が交際を申し込んだはずのニコルにも別れを切り出す。「何様のつもり?」と激しく罵られるも、彼は「ぼくたちのためだ」と言い訳し、結局ドラムに専念する道を選ぶ。
しかし、彼のポジションは依然として主演者の譜めくり担当。めげずに練習に励むニーマンの前に、ある日とある事故がきっかけで主演者に格上げされるチャンスが舞い込む。

おそらく、作品に求められる解釈としては、ネットで多くの意見がある通り、
「徹底的に精密な音楽を追求されて追い詰められた主人公は、しかし最後に音楽を通じて教官と通じ合うことができたということに感動する」
ということなんだろうが、私はどうにもそうは思えなかった。むしろ、これはホラー映画として捉えた方がいいんじゃないかと思う。


まず、フレッチャー教官が、音楽をこよなく愛し、それを徹底的に学生に求めるという姿勢、という前提自体に、問題があると思う。
かなりのネタバレになるものの、最後のライブに向かうにあたって、フレッチャーはニーマンに「勝手を知っている人間の方がいい」という考えを打ち明ける。(実際には打ち明けたのではなく、嵌めるための口実)
もしもフレッチャーが本当に音楽を愛しているのならば、ライブ中に同じバンドの人間を陥れて、他のメンバーに迷惑をかけ、ひいては自分のバンドの音楽自体を崩そうとするような真似はしないはずである。フレッチャーは音楽という世界にとどまらず、音楽以外のことまで引き合いにだして生徒を貶める大変失礼な男であり、良心が破綻している人間であると言える。
一方でニーマンも、自分には才能があるにも拘らず、どうにも兄弟たちにバカにされるという屈辱に耐えかねてドラムを続け、しかしその思いは過剰で、恋人にひどいことを言ってまで別れさせてしかも背水の陣で挑んだライブで大失態を犯すというマヌケっぷりで、こちらもこちらで理性が欠けている。
 勝手な予想だが、きっとこのライブが終わった後、二人の心が通じあったかのようにフレッチャーは見せかけるものの、結局はフレッチャーがニーマンをいびるという構図はずっと変わらないのではないかと思う。そしてニーマンもまた、フレッチャーを尊敬することはないと思う。
しかし一方で、ニーマンがフレッチャーに認められるように必死に努力したという部分に関しては、「究極の師弟関係」という言葉が当てはまるのかもしれない。西洋文化にはない、むしろ日本的な褒める文化を体現しているようで、実はちょっと違う。なぜならば、日本の文化の場合には、どこまでも師匠を崇めるものの、ニーマンは明らかに道半ばな未熟者でありながらフレッチャーを挑発し、フレッチャーの決定に食って掛かり、フレッチャーのステージを奪い取って自分のものにしようとする。
フレッチャーがあの場で指揮を続けたのは、彼自身の名誉のためで、途中でステージを終わらせてしまうことは彼のプライドとして許せなかったからであり、あの場で師弟関係のようなテンポの掛け合いがあったことに関してはテンポラリーなものでしかないと思う。
細かいことだが、題名をセッションとしてしまったから柔らかい解釈が生まれてしまっているように感じるが、そもそも原題のWhiplashはムチのことだから、「教鞭」という方が適切かもしれない。とはいえもはや教えているのか、私刑を果たしているのか、判断がつきかねるが。

映画そのものの質としては、まるで自分も音楽室にいるかのような映像と臨場感で見ることができた。最後のライブのキャラバンの楽曲のシーンはたしかに手に汗握る熱いシーンであった。あの数分間だけでもこの映画を、ツタヤで新作レンタルをして500円近いお金を払ってみる価値はあると思う。 



みなさんごきげんよう〜 

「博士と彼女のセオリー」に見る、不平等な平等

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今回感想を書く映画は「博士と彼女のセオリー」です。

(2014年イギリス;日本公開は2015年)



 おそらくは誰もがテレビやインターネットで見たことはあるだろう。電動車いすに乗り、人工音声を操り会話するスティーブン・ホーキング博士という人物を。この映画はホーキング博士の半生の伝記である。
しかしながら、スキャンダルになったホーキング博士に対する虐待の問題などが描かれていないほか、巷で伝聞されてきたものとは認識が異なることがあるとのことで一部の人間の間ではこの映画の内容に対する不満があったようですが、個人的にはそういった美化された問題があったとしても、この映画の価値そのものにはあまり影響はなく、非常によい出来であると感じた。

 まず映像の質が非常に優れている。近年CGがあふれる中で、この映画ではCGの使用を極力抑え(少なくとも私にはそのように感じられた)、心穏やかな場面では光が多く差し込む部屋の演出を、不安なことがある場面では青みがかった画面を、そしてロマンチックな場面では薄暗い画面とを効果的に用いて、台詞で状況を語るだけでなく、絵で見せるというより映画らしい方法で情報の提示をすることに成功していたと思う。
また控えめな音楽の功績も大きい。主人公たちの心情を表しや落ち着いた、それでいて印象に残る音楽で日常的なことに感謝を忘れない、という主人公たちの姿勢を表現していたように感じられた。 
 また、個人的には、主人公の妻役のフェリシティ・ジョーンズがとてもよい演技をしていたと思う。私はこの女優さんについては、過去に「今日、キミに会えたら」という映画の中で言及しているが、この人のことはこの作品以前から知っていた。このブログで記事にしていないので、後出しじゃんけんと思われても仕方ないが、フェリシティ・ジョーンズは21世紀の大女優になると、私は日本の中で少なくとも4番目に早く予見したと自負している。なぜ4番目なのか、という論理的な根拠はないが、ただなんとなく5番目よりは早いと感じている。この作品での演技を世間に好評されていることを、勝手に誇りに思うとともに、つくづくあの作品を記事にしなかったことを悔やむ。その作品とは、ダニエル・クレイグ主演のフラッシュバックという映画である。


 ジャンルはいわゆるヒューマンドラマ。ただ脚本が甘いのか、不安定な部分を隠すように性描写が無駄に多く、個人的には好きになれず、記事にしなかった。
 正直、主人公の元・恋人を演じるクレア・フォラーニ、この人見たさにこの映画を観たようなものだった。この女優さんには「ジョーブラックによろしく」の時から注目していた。しかし実際には最も収穫があったのは、フォラーニの若年期を演じたフェリシティ・ジョーンズのことで、奇抜な演技があるものの、そのルックスと、ベテランではないけれど、確実に何かが伝わってくる演技にこの人物が将来大物になる予感がした。そしてその予感は、「今日、キミに会えたら」で確信に変わった。
 「博士と彼女のセオリー」でもアカデミー賞にノミネートされたフェリシティ・ジョーンズには、今後も注目したい。

 具体的なストーリーについて言及する。そもそもが過去の実際の出来事を題材にしたものなので、「展開が…」といったことについて言及することはナンセンスだと思う。ただ、どうにも気になることが。ネタバレになりますが、なぜ主人公はあの場面・あのシチュエーションで、離婚を切り出すのか。
彼の決断自体は、非常に勇気が必要なことだとは思うが、それだとしても、奥さんを解放するタイミングはあれで本当によかったのか。
このシーンにこそ、これまでのあらゆる行動が帰結する答えがあると思う。どう考えても、二人の状態は不平等であった。しかし、妻が提供することによって平等を保つことができていた。一見すると、天才博士と献身的な妻。でも実際には妻の多大なる努力によって、博士は天才であることができた。
しかしそれによって博士が妻から奪ってしまったものは大きかった。博士の行動は、妻にもらったものを返すことであったのだと思う。最後に時間が巻き戻るというシーンは、博士の理論を形にしたもの。しかし妻には時間を返せない。そんな不平等さみたいなものがあるのだけど、妻のセリフによって、見ている者は救われた気になる。フェリシティは本当によくやった。

一方であの、「行間を読ませる」脚本に関しては、近年稀に見る秀逸さだと思う。あのことばの意味、そして行動の意味を理解できない純粋な少年少女はたくさんいるだろうし、それによって若干の批判は出るのかもしれないが、あれこそが映画の醍醐味であると言えると思う。


みなさんごきげんよう〜 

『キングスマン』における現実の捉え方

前回のM:I/ローグネイションに引き続き、映画の感想を書きます。


(2015年英国)
 
主人公はロンドンに暮らす不良の少年エグジー。
彼の父親はかつて「キングスマン」と呼ばれる秘密組織の候補生であったが、任務の最中に命を落としてしまう。家族たちには父親の逝去は告げられるも具体的な任務や活動の内容については何も知らされず、 ただ一つ、エグジーに「困ったときにはここに刻んである番号に電話しろ」とメダルを渡される。
それから数年後、エグジーの母はやさぐれ、地元の不良集団のボスと同棲するまでに落ちぶれる。
そんな環境の中母はエグジーのことなど全く関与せず、エグジーはどんどん悪くなっていく。ついに彼は警察と揉め事を起こしてしまい逮捕されてしまうが。困った彼はメダルに書いてある番号に電話すると、不思議なことに即刻釈放される。警察署の前には、エグジーの釈放を手助けした人物、ハリーがいた。

M:IにおけるIMF、007におけるMI6と同じくくりにされそうなテーマだが、個人的にはこの映画はいわゆるスパイ映画とは分けて考えるべきであり、強いていうならばダイ・ハードと同じ分類がよいのではないかと思う。
まず、このキングスマンという組織は、秘密のプロ集団でありながら、とにかくミスが多すぎる。それも、ハラハラドキドキさせるための恣意的なミスではなく、リサーチ不足によるものがほとんど。最後の決戦の部分なんか、例のチップを発熱するシステムにハッキングできるんであれば、もっと早くやればよかっただけのこと。また、自分たちのボスも敵の手に落ちていたという設定自体は面白いものの、ボスはその証拠を隠す手段はいくらでもあっただろうに何も手を講じず、さらにそのボスを殺害するシーンも呆気なさすぎる。

いわゆるサクセスストーリー的に主人公はトップへと上り詰めていくが、ライバルはいわゆるインテリであり、ろくな教育も受けていないエグジーが飄々とのぼりつめるのもおかしな話で、さらにスカイダイビングのシーンではエグジーの提案にインテリがいち早く「そうしよう」と名乗りを上げるが、それもなんだかおかしな話で。チームワークを求めるというトレーニングでありながら、そのチームの中から一人ずつ除外していくという意味不明な仕組み。

 また、アクションシーンをスタイリッシュに決めたいという意図もわからなくはないが、だとしてもちょっと人命を軽視しているかのようなやり方で、特にクラシック音楽に合わせたあの演出の面白さがよくわからなかった。

総合的に考えて、私は何の感情移入もできなかったし、道具が出てきて「すげー」と思うような部分も少なかった。エンディングでの主人公以外の、特にミサイル発射という大役を背負った女隊員にも何かほうびをあげてやってもいいんじゃないかと思う。チームワークが本当に大事なら。

 

 みなさんごきげんよう〜

ミッション:インポッシブル/ローグネイションに見る攻撃の正当化

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久々の更新です。

さて、今回も映画の感想を書きます。
今回ご紹介するのは、ミッション:インポッシブル/ローグネイションです。
 (2015年アメリカ)


 

とある組織がテロを企てていることを察知したIMFのイーサン・ハントたちだったが、近年のIMFの派手な立ち回りから、その存在を疑問視する声が上がり、IMFは解体を命じられる。それでも、悪の組織に立ち向かうべく、IMFとハントは独自に秘密裏に動き出す。

今回のm:iの最大の特徴は、過去の作品からの大きな方針転換ということにあるのでしょう。
そもそもはテレビシリーズの続編としてスタートした映画シリーズは第1作目こそテレビシリーズを踏襲し、ジェームズボンドのような秘密道具を自在に操り一人で悪に立ち向かうというものでした。しかし、第2作目で、アクション大好きのジョン・ウー監督がメガホンを取ったことで作風は一気にドンパチアクション映画へと向かいます。そしてその流れは第3作目のJ.J.監督作品、第4作目のバード監督作品でも受け継がれます。
しかし、今回のローグネイションは一味違う、いわば原点回帰とも言える作品です。秘密道具は大幅に復活。アクションを前面に押し出すような演出は減少。現実的に考えられるギリギリ達成できるか危ういラインの隠密タスクを何とかクリアする手に汗握る感じも復活しました。
ただこの映画、近年の007と酷似している場面もちらほら。

IMF不要論という考えは、007スカイフォールでのMI6不要論と同じ設定である。時期的なことを考えると、スカイフォールが大ヒットしたので、そのまま応用しちゃえと考えたんじゃないのか?と疑ってしまいたくもなる。他にも、高速でバイクを走らせる行け行けなハントの前に敵が突然現れて、それに動揺したハントがバイクを横転させてしまうというシーンも、最近の007シリーズの1シーンに近い。

ただ、決定的に違うことは、二重スパイという存在・設定があること。国籍がある、ということがこの作品の中ではわりと大きな意味を占めます。
誰が誰の味方なのかわからなくなることによって、様々な人物の裏切りという行為が現実味を帯び、そして結果的に見ているこちらとしては、この先だれかが裏切るんじゃないか、という危機感を感じながらみることができた。

一方で、この映画にはポリティカルな意図も大きく感じられる。
先述したIMF不要論は、おそらくアメリカという国家が長年背負ってきた課題である。第二次世界大戦で勝者となったばかりか、本土にほとんど攻撃を受けていないアメリカは、結果として経済大国として世界を牽引し、それによって様々な点で世界の中で抜きん出た。しかしそれは諸外国に負担を強いることもあった。結果として諸外国との間に軋轢が生じ、軍備も増強せざるを得なくなったが、それは国家経済を圧迫している。長きにわたる不況により生活が苦しいのに、なぜ軍備ばかり金をバンバン使うのか…と主張する国民もの声も上がる中で、この映画では結果的にIMFは得体の知れない組織からの攻撃に備えるために必要である、という結論に至る。それもわりと自然な形で。 

これをナショナリズムだとか、パトリオティズム形成だとかと断じるつもりはないですが、現在の社会情勢からして、この作品をある種のリアリティを持って見る人は必ずいるはずであり、ひいてはこの映画の中でIMFが取るぶっ飛んだ行動も非常事態においては正当化されてしまうのではないかという一抹の不安もおぼえます。
世界情勢は不安定ですが、どうかこの映画の中のようなことが現実に起こらないことを、そして非常事態にあっても冷静に対処することを願います。


みなさんごきげんよう〜 

映画『セレステ∞ジェシー』に見る、恋愛を通じた成長。

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喧嘩するほど仲がいい、という諺がありますが、仲が良いから恋愛に発展するというケースと、仲が良すぎるがゆえに恋愛には発展しないというケースがあると思います。
本日ご紹介します映画、『セレステ∞ジェシー』(原題:Celeste & Jesse Forever)は、そのどちらにも当てはまるケースの映画だと思います。



  

 広告会社を経営する、仕事できる女ムード満々のセレステ(ラシダ・ジョーンズ)と、悠々自適にマイペースな活動を進める画家のジェシー(アンディ・サムバーグ)は、離婚調停中だった。

 二人の出会いは学生時代。仲がよく、若くして結婚したものの、お互いの距離が近すぎたためか、相手のいやなところも必要以上に見えてしまい、離婚するという決断に踏み切った。
 しかし、二人は離婚を決めた後も隣同士に”別居”し、車を共用し、一緒に食事もする。二人の言い分としては、「親友だから、仲良くしている」とのことだが、その姿は彼らの友人から見れば極めて異常であり、「早く吹っ切って、別の道を歩むべきだ」と諭されるものの、当のセレステとジェシーは自分たちの姿を異常とは思っていない。むしろ、お互いの人生の一部分をお互いが占めていて、どこか結婚といった概念を超越した存在であるようにも見える。
 もう、夫婦でない以上、その他の人とデートをしても文句を言わないという取り決めを交わしているものの、両方ともその他の人に惹かれそうな雰囲気ではなかった。
 ある日、セレステとジェシー、そして彼らの親友のベスとタッカーは4人で街の本屋を訪れた。そこで偶然、ジェシーは旧友のヴェロニカ(レベッカ・デイアン)と久々の再会を果たす。その場では、久しぶり、という程度の話しかなかったものの、数日後ジェシーはセレステに、ヴェロニカと結婚する意思を打ち明け、セレステは困惑する。


TSUTAYAのポップには、どの女性も共感できる…といった旨のことが書かれていましたが、残念ながらこの指摘は間違いで、正しくは男女問わずだれでも共感できる、とすべきだと感じました。
長く一緒にいると、やがて一緒にいることが自然になり、良くも悪くも相手を頼るようになります。口では互いに自由を与えていても、実は互いに牽制するような気配がある中で、ジェシーがその均衡を崩す形となり、必然的に観客は女性のセレステに感情移入をして「かわいそう、でも仕方ない」「さて、どうやって乗り越えるか」といったことに対して注目するようになります。でも、実はこれ男性のジェシーの方もかなり悶々としています。相手がショックを受けていることもわかっていることでしょう。しかし、そこで下手に引き下がることはお互いにとってよくないとジェシーは判断しあえて冷たくした結果、映画の前半部分には出てこなかったセレステの独善的な、プライドの高い性格が表面化してきます。おそらくはジェシーがいたためにセレステのこのような性格は出てこなかったのでしょうが、これをきっかけに少しずつセレステも大人になっていきます。まさに、精神的な成長です。必要以上に下ネタを言い合うのも、おそらくは精神的に未熟であることを象徴するための演出でしょう。

そう、この映画は単にタイミングを逃した不幸な女の物語ではなく、恋愛における喪失がきっかけで起きる成長を、醜い部分まで忠実に描いた映画であると言えます。その視点で見てみると、あらゆる言動が子どもっぽいということに気づきます(ディズニーホールの好み、ライリーをこき下ろす姿、偏見を持って接する態度、思ったことをとりあえずやってしまうところなど)。しかし、映画の終盤ではそれらのものは不思議と消えています。

形は違えど、誰もが経験する「成長」。ラブストーリーとしてではなく、ヒューマンドラマとしてお奨めです。


みなさんごきげんよう〜

映画『私が、生きる肌』で感じる狂気

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久々にぶっ飛んだ映画を見ました。
映画というのは、程度の差はあれど普段の私たちが体験することのないものを含んでいて、だからこそ見てみたいという必然性があると言えます。

今まで、かなりおかしな映画を見てきたと自負しております。ハンニバル・レクターがかわいく思えるようなものもありました。
今回見た、『私が、生きる肌』という映画は、今までに見たどの映画とも異なるものでした。後味が悪いということもなく、怒りに震えるというものでもない。ただただ、「どうかしている」という感情が渦巻くものでした。


2011年スペイン映画。

 スペイン・トレドに暮らす、世界的権威の整形外科医、ロベル・レガルの自宅には、ベラという若く美しい女性が軟禁されている。ベラは終始、肌と同じ色の全身タイツを着ている。
 ベラは、レガル医師の妻ガルにそっくりだった。しかし、ガルは数年前交通事故で全身にやけどを負い、その容姿にショックを受けて自殺した。
 レガル医師とガルの間には娘、ノルマがいた。ノルマは母ガルの自殺の現場に居合わせ、しばらくは精神的に不安定だったものの、かなり回復してきていた。
 そんなとき、事件が起こる。その事件をきっかけにノルマの心は打ちひしがれ、ロベルを父と認識できないまでに心を閉ざしてしまった。妻だけでなく娘をも奪われたレガルは復讐を企てる。



かなりエグいぶっ飛んだ復讐の内容が明らかになるにつれて、僕の心はレガル医師を否定しつづけ、「え…」と絶望にも似た声を無意識のうちに出していました。
そもそも彼がそうすることが本当に復讐なのかわからず、僕の解釈としては、整形外科医でありながら全身をやけどした妻を救えなかったことに対する、謝罪を込めた行動であると解釈しました。それにしても、容姿を変えたところで精神的な部分は変わらないということに思い至らなかったのでしょうか。天才と狂気は紙一重という言葉を思い出した作品でした。


みなさんごきげんよう〜
 

映画『バートン・フィンク』に見る不明瞭の魅力

「わかりやすく説明します」「簡単な方法をご紹介します」

今に始まったことではないのでしょうが、世間は「確実なもの」「シンプルなもの」というものに、価値を見出す傾向があります。
過去のアリストテレスやプラトン、ニーチェやキールケゴールなどの哲学書を現代語訳にすることを通り越し、現在はそれらを「1日でわかる」「世界一わかりやすい」「漫画」などといった方法で広くその概念を世間に知らせることをよしとししています。

「わかりやすく」「簡単」の反対は、わかりにくいこと、複雑であることですが、それらを下支えするものは「不明瞭さ」です。はっきりとしなくて、その部分は推測で補うしかありません。そして、あえてその「わからない」部分についての言及を避けると、話の構成が不自然になり、わかりやすやシンプルさが損なわれていきます。(あえてわからない部分は、なかったことにするという手法もありますが。)

本来であれば、人はそのような不明瞭さを嫌うはずです。しかし、そこに「これだ」と当てはまる概念がない以上、私たちはその部分の想像をし続ける必要があります。
たとえば、ニュースで殺人事件が報じられたとします。そして、犯人が逮捕されたと報じられて、動機は不明としながらも、容疑者には借金があったと言われたとします。すると私たちは、「お金目的の犯行に違いない」と勝手に想像してしまいます。そのように結論づけることは簡単ですが、しかし、実は動機は別のものかもしれない。恨みの犯行であったり、または事故かもしれない。不明瞭な部分はいくらでも想像をふくらませることができます。
わかりやすくシンプルなものは、たしかに心地いいですが、噛めば噛むほどおいしくなるという感覚はありません。
そんな、見終わったあともずっと、考え続けて気になる映画を紹介します。



1991年 アメリカ映画

時代は太平洋戦争開戦前。ニューヨークで暮らす脚本家のバートン・フィンク(ジョン・タトゥーロ)は、市民の心に寄り添うような演劇の脚本を書く作家として、評価されていた。
そこに、ハリウッドの大手映画スタジオから、映画脚本の依頼が舞い込む。新しい土地であることに加え、今までフィンク自身が映画の脚本を書いたことがなかったものの、実は今まで手がけた演劇の脚本にも満足はしておらず、心機一転ハリウッドへの進出を決意、映画脚本家としての第一歩を踏み出す。
しかし、最初の作品として提示されたのは、彼がまったく手がけたことのない、スポーツのコメディー映画だった。どういう話にしようかまったくまとまらない中、話はまだかと急かす映画会社の人間においつめられ、さらに進まなくなる。そのとき、滞在しているホテルの隣の部屋の男性の笑い声が聞こえてきた。何の気なしに注意をすると、隣の部屋の大柄な男性がフィンクの部屋を訪ねてきた。彼の名はチャーリー・メドウズ(ジョン・グッドマン)。保険の外交員をしている。フィンクの描いてきた市民の典型的な例であるメドウズと意気投合し…しかし執筆はまったく進まない。ついに明日までと提示されたとき、フィンクは誰か脚本家に会うことを提案される。


・・・と、ここまではゆるやかな流れで話は進んでいきますが、このあと話は急展開を見せます。バートン・フィンクは突然殺人事件に巻き込まれます。
 バートン・フィンクが殺してしまったのか、はたまた別の人物による仕業なのか。フィンクは「自分ではない」と主張するも、手がかりは一切なく、それでいてそれを明かそうという努力すらしません。その後も不可解なことばかりが起きながら映画は進行していきます。
最も謎な部分は、フィンクが預かる箱です。その箱を大事に持ち歩くフィンクですが、ついに最後までその中身はおろか、誰のものなのかすらわからないまま映画は終わります。
謎の部分が多いながらも、いや謎が多いからこそ、この映画は魅力に満ちています。結局あれはどうなんだろう…と考えてもうすぐ1週間がたとうとしています。
ぜひ、御覧ください。


みなさんごきげんよう〜

入院生活で感じたこと。

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実は今朝まで入院していました。

最初はただの風邪だと診断されて、僕自身も「いつもみたいに暖かくして寝て、水分よく摂っておけば、よくなるだろう」とぐらいに構えていたのですが、いくら寝ても、疲れはたまっていくばかり。水分をとっても熱は下がらないし、飲んでいるものがそのまま出ていってしまうような汗をかいて、全く経験をしたことのない状況に、僕はすっかりパニックになっていました。
「ここ最近働き過ぎたかな…?」「寒い日に薄着で寝たかなぁ…?」しかし、何よりも医者が言う「風邪」というものがいまいち腑に落ちない。
ついにはレントゲンに白い影が映り込む状況になり、医者は総合病院への紹介状を書いてくれました。そこでくだされた診断は「マイコプラズマ肺炎」。尿検査の数値や、症状がどうやらマッチするとのこと。しかも、今まで処方されていた風邪の薬ではまるで効果がないとのこと。「もっと早くこうしていれば…」と思っても、それはもう過ぎたことで。
結局入院をして、早期に回復させることにしました。結果的に入院生活は5泊6日という期間で済みました。

実は僕、これが初めての入院。入院なんて、滅多にするもんでもないし、僕の中の認識としても入院というのは結構重い状態だと考えていました。ただ、興味はありました。どんな感じなんだろ?と。

結果として、入院というのは限定的な自由を手にした感じですよね。治療をする時間以外は、何をしてもいい。テレビを見たって、本を読んだっていい。パジャマのまま着替えなくても誰も何も文句を言わない。食事だって黙っていても出てくる。でも、部屋を隔てるものはカーテン1枚。他の患者へのお見舞い客がそばを通るだけで、自分の空間はいとも簡単に脅かされる。
入院をしていると、なんだか時間の流れがゆっくり流れているように感じるけれど、実際は世間の皆様は普段通りの生活をしていて、僕だけがそれに取り残されている。
結局は社会人になるっていうのは、自分の自治権を得るのと引き換えに、膨大な責任を背負って生きていくということなのである。今さらながら、社会人の厳しさを思い知った。

入院中、よく夢を見た。
僕が入院中、チャットモンチーの音楽をよく聞いていたからかもしれないけれど、僕の夢の行き先の多くは徳島県の美浜町だった。大学を卒業してから大学院に入るまでの間、数回旅をしたけれど、その中でも特に印象に残っている、四国・広島一人旅。車で四国に行って、基本的に無計画でいろんなところをたった一人で見て回った。観光地に行ったところで、むなしくなるだけ。ガイドブックは地図しか参考にしないで、食事から行く場所から、出会った人の意見を聞いて決めた。何のために僕はここにいるんだろうか…?と旅の途中で自問することもあったけれど、あの一人旅特有のもの寂しさが、心に焼き付いている。
旅で感じた物理的な孤独は、入院生活でも一緒だったのだと思う。
多くの方から励ましの言葉や「学校のことは心配しなくていいから」という優しい言葉をいただく度に、とてもあたたかい気持ちになったけれど、やっぱりふと思えば孤独だった。そして僕が今までその人のためにどれだけ役に立てているのか、とにかく不安になった。そのときできることは、ただひたすらに教科書を読むことだった。せめて復帰後は、誰にも迷惑をかけないようにしよう、と。


もしかしたら、ここでこうやって書き連ねる言葉は甘ったれ小僧の言い訳かもしれないけれど、入院生活の中で、人に迷惑をかけずに生きていくことの難しさを思い知った。というか、実はどんなに気をつけていても、迷惑はかけてしまうものなのかもしれない。ならば、日頃から人に迷惑をかけつつ、人の役に立てる人間でありたいと思いました。

もうすぐ復帰します。少々お待ち下さい。
まったくまとまりのない、内容のない文章ですみませんね。病み上がりなもので。



みなさんごきげんよう〜

映画『Like Crazy』に見る遠距離恋愛の捉え方の違い

ずっと会いたかった人に会えた―そんな気持ちで観た映画でした。

本日ご紹介する映画は、おそらく誰も聞いたことのない映画ではないかと思います。
それもそのはず、日本では劇場未公開。日本ではDVDの発売すらされていません。





そんな映画を知ったのは、今からおよそ1年前。広島にいた頃です。
ネットサーフィンに勤しんでいたところ、偶然この映画の予告編に出会いました。





 この予告編だけを見て、惹かれるものがあってずっと情報を待っていましたが結局日本では公開しないことがわかりました。しかもDVDもないし。海外からDVD取り寄せても観られないとやだなぁ…と思っていた時、文明社会の光が差しました。今はネットで映画を見られるのです。
アメリカのiTunesストアにアクセスし、映画を購入し、ついに映画を観ることに成功しました!1年間想い続けた人にやっと出会えた気分です。

 2011年アメリカ映画。2011年度サンダンス映画祭審査員大賞受賞作品。

 作家志望の女子学生アンナ(フェリシティ・ジョーンズ)はロサンゼルスに留学に来ていた。その時、同じ学校の家具職人を目指す男子学生ジェイコブ(アントン・イェルチン)を好きになり、ラブレターを書く。それがきっかけで2人は交際を始める。やがて2人は卒業を迎え、アンナの学生ビザが失効する日がやってきた。アンナは故郷であるロンドンに戻る気もあったが、ジェイコブと一緒にいたいという気持ちが勝り、ついにビザ失効後もアメリカでの滞在を続けてしまう。
 その後、家族と会うためにロンドンに一度戻り、再びロサンゼルスを訪ねたアンナだったが、不法滞在の前科のため、イングランドに強制送還されてしまい、結果として、アンナとジェイコブは遠距離恋愛を強いられてしまう。

その後すぐに二人はそれぞれの地で就職をする。ジェイコブは家具職人として着実に成功を収め、アンナは出版社で腕を磨いていった。それでも、「会えない」というフラストレーションが二人の愛情をより深めていき、ある日ジェイコブは思い立って仕事を休んでアンナに会いに行く。
その後ロサンゼルスに戻ったジェイコブだったが、しばらく経つとジェイコブは他の女性と付き合いだしていた。そんなことは知らず、寂しい思いをするアンナはジェイコブに電話をかけ、突如ジェイコブとの結婚を切り出す。

二人の未来はどうなるのだろうか。





 全体的な印象としては、本当に熱心に映画を作った、という感じ。ハリウッド映画特有の壮大な雰囲気はほとんどない。また、低予算ながらも、色彩やデザインは綿密に計算されていて、臨場感があり、まるでその場に自分がいるかのような錯覚さえおぼえる、まさに映画職人の作った映画、という感じです。(Miss You) Like Crazy(さみしくて耐えられない)というタイトルの息遣いすら聞こえてきそうです。さらに、映画の台本はなく、全て即興の演技だというからまた驚きです。(Wikipedia情報)

 タイトルの国際的な差異、というのは遠距離恋愛の捉え方に違いがあるという点です。
日本では一般的に遠距離恋愛で強調されるのは、一途な恋という部分です。ハナミズキという映画の序盤部分もそうでした。
ただ、海外の遠距離恋愛は、あんまりそういう例は観たことがありませんが、浮気という部分が注目されています。ある種、浮気も仕方ないというような、人間の本能を肯定するような感覚です。

 ハナミズキでも違う相手と付き合う部分がありますが、それは別れてからの話です。海外のは付き合っていてもそういうのあるし、しかも夜の営みの形跡というオマケ付きです。

 どちらの捉え方がいい、というようなものでもないとは思います。いずれにせよ、どの文化でも嫌われる浮気の要素はあるので、要はどこに光を当てるかという違いだけです。そこに浮気を赦す、という部分があるのが、もしかしたらキリスト教の要素があるのかもしれません。または、人間そういうもんだからという、自然主義的な考え方があるのかもしれません。



 それにしてもこの映画、終わり方が非常に切ない。賛否両論ある終わり方だとは思いますが、いずれにせよとても上手ですね。その後の関係をいいように解釈できる。こういう終わり方する映画はね、もう一度見返したら冒頭で泣いちゃう映画ですね。「ゆれる」みたいに。


 ところで、今日アマゾンを見たら、なんと邦題がついて11/9に発売されるようです。




 ただ、正直言って「今日、キミに会えたら」なんていう生易しいタイトルではこの映画を見る覚悟は決められません。Like Crazyって、「狂おしいほどに」って意味ですからね。
 青春をもう一度見返すつもりで、そしてその時感じた胸が締め付けられる思いを再び感じる覚悟で見て欲しいです。

 もちろん、僕の中では今年観た映画の中ではナンバー1の映画です。




みなさんごきげんよう〜

映画『インセプション』の面白さ

一言で言って、インセプションは面白い映画でした。


 夢の中に入ってアイデアを盗み出す、というフロイトの夢分析のような、ある種哲学的な内容を想起させますが、実際のところはアクション映画です。しかし、ただ単にドンパチやるわけではなく、知的な判断を必要とします。夢の中の夢、という深層心理に近づくという設定あたりが、物事の本質を探ろうとする行為と似ているため、必然的に険しい道になります。そういうのもしっかり表現していました。

 独自の世界観があるにも関わらず、すんなりとついていける内容で、まるで自分が人の頭の中に実際にいるかのような気持ちにさせてくれました。そしてどうやって撮影したのかわからないところも数箇所あります。
 しかも、主人公の私情が絡んでいるというあたりも、一曲あって面白い。ちりばめられた伏線の回収を見事にやってのけたばかりか、最後の意味深な終わり方は、強烈に印象に残るものでした。

この監督は、最新バットマン三部作の監督と同じ、クリストファー・ノーランです。また、ベイン役の俳優(トム・ハーディ)も出演しています。



みなさんごきげんよう〜

バットマン3部作がついに終わりました。

あんまりアメコミに詳しくもない僕ですが、バットマンだけは、ジャック・ニコルソンがジョーカーを演じた作品からはほぼ全て見ています。

世間でも話題になっておりますが、バットマンはクリストファー・ノーラン監督によって新しく生まれ変わりました。

最初がこれ。渡辺謙が出演したことでも話題になりました。


この映画により、なぜ実業家の子ウェインがバットマンになろうと思ったのかが明らかになります。また、ゴッサム・シティの破壊の布石ともなります。



バットマンシリーズの敵として有名なジョーカーを演じたのは、ヒース・レジャーでした。彼の演技は好評を博しますが、間もなく亡くなってしまったことで話題になりました。
この作品では、バットマンのかっこ良さはもちろん、彼の苦悩など、多くの心理描写でヒーローとして存在することの難しさを表現しました。



そして現在劇場公開中の第3作、ダークナイト・ライジング。
綿密な心理描写は今作でも健在。悪を滅ぼすために生まれたバットマンは、ジョーカー以降悪がなくなったゴッサム・シティでは必要とされなくなっていました。さらに、デント市長に危害を加えた存在として、市民から拒まれていた。
そんなときに、密かにゴッサム・シティの破滅を企むベイン(トム・ハーディー)の存在を知り、立ち向かうが…


今までバットマンは戦っていましたが、それは自身の道具を駆使して、いわば頭脳的に戦えばよかったのですが、今回はそれに加えて肉体的に戦うことが求められます。しかも、孤立無援の状態で。
以前にも違う監督のバットマンでベインは登場していますが、今回は主役ということもあり、またジョーカーの後ということもあり、強さも迫力も桁が違います。
圧倒的な支配を前に、バットマンはゴッサム・シティを救うことができるのでしょうか。
個人的には、想像していたエンディングとは少し違いました。
面白かったです。


みなさんごきげんよう〜



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