宮廷楽人の手記

ミンストレルの語り

嘆かわしや!

日々、生活していて良く見かけるようになった言葉がある。

○○しなくてはならない。
○○するべきだ。

といったものや、これに類する言葉である。この空白には言わば生活におけるテンプレが挿入される。

大学にいかなくてはならない、良いとこに就職しなくてはならない。
順風な人生を送らなければならない、失敗をしてはならない。
結婚しなければならない、子供を作らなければならないなどだ。

何分、インターネットの急速普及によって多くの人が発言者となったためにこのような発言が目立ち始めたというのもあるだろう。

これらの意見は考え方の強制・価値観の強要というのが大多数を占める。
○○しなければならないと考え方を強いてくる者の多くは、ただ自らの考えを押し付けて、その意見を肯定させることで間接的に自分を肯定してもらいたい――という意思が見え隠れする。
これはある種、日本人限定のことかもしれないが、得てして『違うことが許せない』という感情が含まれていると思う。

自分が働いている時に休んでいる人が許せない。
自分が苦労している時に、楽している人が許せない。
他人の幸せが許せない。
他人の優秀さが許せない。
 
私は人にはそれぞれ個というものがあると考える。
人にはそれぞれの心があり、価値観があり、ライフサイクルがあり、人生観があり、生活環境があるのだ。それらがまったくもって同一であることなどあり得はしないだろう。
である以上、個々で価値観や考え方などに何かしらの『違い』があることは当たり前ではないだろうか。
だがそれにも関わらず、なぜかその『違い』とやらを認めようとしない者は多い。
違うことをしているのが許せない。この場合はこうしなくてはならない。こうしない奴は悪だとレッテルをはりつける。

話を少し変えると、最近調べたものがある。
遺伝子異常などにおいて、通常の人とは異なる形をしてしまった者達の生活だ。
これらは大変、興味深い内容だった。
強弱をつけるべきものではないかもしれないが、それでも言うならば障害者の中でも特に重い症例の者達の記録だ。

ある者は双子であったが、下半身が繋がっており、その下半身共有していた。
ある者は頭蓋骨の大部分を脳脊髄液で満たされたており、脳組織が極小化していた。
ある者はバクテリアによって皮膚が侵され、爛れていた。

他にも指の数が違う、足の数が違うなど様々な症例があった。
彼等は言ってしまえば何かと普通とは異なる存在と言えるだろう。
だが彼等は生きている。それでも彼らは生きることが出来ているのだ。

双子の兄弟は下半身が繋がっていても、各々で違う人格を持つ。
好みが違ければ、得意・不得意だって当たり前のように違うのだ。
例え脳組織が極小化していようと、IQ70ほどの知識があり、普通の生活が送れていた。彼は公務員だという。
バクテリアによる侵食は肌を溶かし、骨まで見えていたが手術することで整えられた。

別に私は『障害者よりも健常者は恵まれているのだから頑張らなくてはならない』などと言うつもりはないし、この手の言い回しには正直疑問すら覚える。
各々は違う個体であり、だからこそ悩みも苦労も異なる。悩みや苦労に強弱をつけるわけにもいかないだろう。
むしろ障害者と健常者というたった二つの存在を見比べて、『彼らより頑張らなくてはならない』などと言うのは、返って見識が狭く、表層しか見ていないように思える。
悩みというのは個に備わっているものだ。当然、その悩みの巨大さは個々に依存する。
誰かと誰かの悩みと比較して、自分の悩みはちっぽけだと無理に納得する必要はないと私は思う。


ただ言いたいことがあるとすれば――。
人にはそれぞれの心があり、それぞれの考え方がある。
それぞれの境遇があり、それぞれの応じた価値観があり、それぞれには二つとない人生というのがあるのだ。

皆、違うのだ。皆、心は同一でないし、価値観も同一でもなければ、人生だって異なるのだ。
例え身体の一部を共有していようと、脳組織の一部が共有されていようと、彼等・彼女等は明確に違う存在としてこの世界で生きているのだ。

思想が違う、価値観が違う、評価の仕方が違う、解釈の仕方が違う。

それは果たして問題か?
それは果たして悪なのか?

世界は広い。
いったいこの世界に何人の人間がいるのか。
いったいこの世界にいくつの国があるのか。
いったいこの世界にどれだけの民族がいるのか。

違う存在などそれこそ、人口の数だけ存在するではないか。
それをたかだが極東の極一部のコミュニティの中において、僅かな違いだけで排斥運動を行うのは正直疑問だ。
そしてそれを大人がやっているのだから始末に負えない。
人は悪魔と手を切ったが、自ら悪魔となったように思う。
声高にイジメをなくすといったところで、大人がそれを嬉々として実行しているのだ。子供に伝わるわけはなかろうに。


私がただ一つのことを言う。みんなと違うことをする人を、少し寛容な眼で見て欲しい――。
ただそれだけである。

武器と言葉

武器とは何か――と問われた時、多くの人は人を傷つけるものである――と答えるだろう。
あるいは一部の人は、人を守ることもできる――と答えるだろう。

武器はそのどちらも含むものであり、そのどちらかというわけではいない。
武器に善悪はないと、私は考える。なぜなら彼ら武器というものは、自らの意思を持たず、決して意図して誰かを傷つけることができないからだ。
自らの意思によって攻撃する相手を選べない者に、どうして善悪を問うことができるのか。

善悪は全て、担い手たる人の手に委ねられる。
武器はその担い手の意思を代行するだけであり、そこに責任能力を問える間隙などありはしない。

武器は振るうためにあるだろう。誰かを傷つけることもできれば、誰かを守るために運用することもできる。
振るう者には必ず責任が問われる。だからこそ、迂闊に振りまわしてはならないだろう。

武器は人を恐怖させるものだ。自分の命が取られやしないかと、相手の心に疑いを生むことがある。
確かに武器を手にしている間は、持ち主は安心するだろう。だが対峙する相手は、安心などできはしない。
故に――武器は見せびらかしてはならない。そのために多くの武器は収納することができる。

剣には鞘がある。鋭利な刃を見せびらかしていれば、相対した多くの人は不安を感じる。
だから秘匿せねばならない。持ち主は剣を振るうべき状況を見極め、的確に解き放つ能力が必要になる。
全ての状況で剣を振るう者は、暴漢か狂人のどちらかだろう。

ありとあらゆる『力』という存在は、性質そのものは同様であり、人の感じ方もまた本質は同じだ。
やたらに知識を自慢されては、他者は辟易するのも同様だ。
多弁な口も、度が過ぎれば煩わしさを感じるものだ。

もしあなたが何かしらの武器を持つというのなら、それを振るうべき状況を見極める必要があるだろう。

それは言葉であっても同じこと。
Et arma et verba vulnerant(言葉も武器も、人を傷つける)
人を傷つける武器を振るうのに責任が必要ならば、人を傷つける言葉にもまた責任が必要だ。

こうしてSNSが発展し、多くの人間が言葉を発信するようになってかなりの年月がたった。
誰もが言葉を振るうことができ、誰もがその演説の聴衆となった。
しかし、そこに責任能力が伴っているか?と問われれば否だろう。
行動に責任が持てるものがいても、発言に責任を持てるものはそう多くはない。
日夜、多くの大人達が炎上している。

武器を振るうのに覚悟と責任が必要ならば
言葉を振るうのにもまた、覚悟と責任が必要だと私は思う

ゲルマン族的美学

著者不明の叙事詩『ニーベルングの歌』
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ作の戯曲『ファウスト』

この二作はドイツ的精神を如実に表しているとされ、彼等の精神を表す二大巨頭であると語られる。
多くの学者がそう語るも、個人的に一つ思うことがあった。

この二作にはドイツ的精神は元より、ゲルマン民族的精神が根付いている――というのは間違いない。
とは言え、この二作はまったく別の作品だ。登場人物やモチーフ、ましてや時代も作者もその背景さえ違う。
この二作を基本的には一緒くたに評価することはできない。だがこの二作には紛れもなく、ゲルマン的精神という共通項が見いだせるのだ。

その共通項とは個人的に、『運命に対する抵抗』だと思うのだ。

ⅰ.ニーベルングの歌
ニーベルングの歌とは英雄ジークフリートの登場、栄誉、そして死から始まる復讐とその成就を描いた英雄叙事詩である。
作中の前半部分ではジークフリートの死が、後半ではハーゲン等を含めたブルゴントの騎士達の死が予言されている。

ハーゲンは口封じのために、ジークフリートを暗殺する。
夫を殺されたクリームヒルトは、フン族の王『エッツェル』と再婚。彼女は復讐の機会に備えた。
彼女は然るべき時に、ハーゲン達をエッツェルの宮廷に呼び寄せるのだ。そして彼女は復讐を果たそうと試みる。

注目すべきはハーゲンが道中にて、ラインの乙女(妖精)から予言を受けていることだ。
その内容は『エッツェルの宮廷にいってしまったら、司祭以外皆死んでしまいます』というものであった。
無論、フン族の王『エッツェル』はブルゴント王国に敵対しているわけではなく、むしろ彼は友好を結びたいと思っている人物だ。
敵意を抱いているのはクリームヒルトだけであり、それはハーゲン達も重々承知していた。
だがここで突如、妖精から予言を受ける。古来より北欧において、妖精の予言は絶対的なものであり、その予言が覆ることはないと言われていた。

ハーゲンはこの場では強気で妖精たちを批判したが、彼の心中が穏やかでないのはその後の行動にある。
ハーゲンは仲間として連れていた『司祭』を川に突き落とすのだ。司祭はハーゲンの突然の仕打ちに驚いた。回りも同じく驚いた。
周りの騎士達もハーゲンの行動に疑問をもった。だがハーゲンには一つの狙いがあったのだ。

妖精の予言は『司祭以外生き残れない』というものだ。もしここでハーゲンが司祭を殺すことができたのなら、予言は覆る可能性を持つのである。
だが――皮肉にも司祭は生き残った。それは同時に、妖精の予言が絶対に覆らないことを意味していた。
ハーゲンはその光景を前に『二度と国に帰ることはないだろう』という覚悟を口にしている。

知られている通り、ニーベルングの歌は英雄達が皆死んでしまうことで幕を閉じる。
だが作中において、その運命はあらかじめ予言されていた。絶対に覆ることがない未来というのが、登場人物たちの前に提示されているのだ。
しかし――彼等は決められた未来に対し、それを受け入れるようなことはしなかった。
彼等は死に物狂いで戦い続け、生を掴むために抗うのだ。
戦いは熾烈を極め、時には死体から流れる血で喉の渇きを癒さなければならないほど、彼等は追い詰められていた。

そしてハーゲンもまた、最後の最後でその身を拘束されることとなる。
武器もなく、身動きもとれず、彼はクリームヒルトの白刃と脅しの前に何もすることはできない。
だが彼は抵抗するのだ。『ニーベルングの財宝のありかを言いなさい』というクリームヒルトの言葉に、彼は断固として抵抗する。
武器もなく、身動きすら取れない彼が取れる唯一の抵抗は――視線による不屈の訴えだけだ。
そうして彼は、その物語の清算するかのよう首を落とされることになるのである。


ⅱ.ファウスト
ファウストもまた、決められた運命、抗えない未来に対して抵抗する人間の一人であった。

ファウストは周りから賢者・あるいは先生と称えられるほど慕われ、その英知が認められた人物であった。
だがファウストは英知を求めるあまり、自分が結局は全てを知ることができないことを理解する。
彼は絶望した。そして自殺を企てるが、そんな彼の下に現れたのは悪魔――メフィストフェレスであった。

メフィストフェレスは『貴方が生きている間は、私は貴方に仕えます。ですが貴方の死後、貴方の魂は私が好き勝手に使わせていただきますがね』と語る。
つまり、生前においてはメフィストがファウストに仕える。死後はその関係が逆転するという契約である。
物語は進み、最終的に――ファウストはメフィストとの契約の終わりを示す『時よ留まれ』という言葉を口にし、その身を横たえることとなる。。

ファウストにおいても、冒頭にて『主(神)』がファウストの未来が予言している。
『人間は時に間違いを犯し、無為を欲したがるものだ。だが心の正しきものは、必ずや正しき道に戻る』
というようなことを口にしているのだ。

ファウストが人間ある以上、死という未来が覆ることはない。
作中でも語られるとおり、『過ぎ去ったもの』『初めからなかったもの』はどちらも同じなのだ。
メフィストは語る。死んでしまえば、そいつの人生は消えてなくなる。そいつが作ったものも全てなくなってしまう、と。

ファウストがどれだけ素晴らしいことを成し遂げようと、ファウストはいずれ死ぬのである。
ファウストがどれだけ偉大な創造を成し遂げようと、作ったものはいずれ滅びるのだ。

それはつまり、後世から見れば『初めからなかったもの』に分類されてしまう。
だが――ファウストは諦めなかった。死ぬその寸前まで、彼は創造的行動をやめることはなく、彼は前向きに死を迎えたのである。


ⅲ.見いだせる共通項

第一に――あらかじめ未来は決められており、それは悲劇的結末であるということ。
第二に――その未来は絶対に覆らないということ。
そして第三に――未来・運命に対して、断固とした抵抗を試みる――というものではないだろうか。

フリードリヒ・ニーチェの考えである『永遠回帰』もまた、あらかじめ決められた運命に対して肯定、あるいは挑戦するかのような姿勢にこそ超人の道しるべがあると説いている。

そしてふと、ここで一つ思い出していただきたい伝説がある。北欧神話だ。
北欧神話と他の神話の差異を見出そうとした時、やはりそこには最終戦争ラグナロクの存在があると思われる。
神々の未来は破滅であり、その結末が覆ることは絶対ないというものだ。
だが神々の長たるオーディンを筆頭に、ラグナロクまでの過程において諦めの意思を持った神はいない。
誰ひとりとて、強大な運命の流れに抗おうとし、断固とした姿勢で戦いを挑むのだ。

過酷な大地に生きていたゲルマン民族にとって、未来は希望にあふれたものではなく、破滅を彷彿とさせるものだったのかもしれない。
だがそれでも立ち向かう。決して弱さを見せず、最後の最後まで足掻きぬく。
例え破滅という未来が待ちかまえていようとも、決して弱気な態度を見せない――それが彼等ゲルマン民族の美学なのだろう。

ゲルマン民族は時に野蛮ともされ、品に欠けると言われることもある。
だがそれは彼等が過酷な環境下における生活を強いられていたからではないだろうか。
彼等が人一倍勇猛さにこだわるのも、彼等が人一倍仲間意識にこだわるのも、全ては北方の地にて生き残るために必要なものだったのだろう。

故にどこか退廃的で、どこか虚無的で、だからこそ力強い北欧の物語。
一切合財がフィンヴルヴェドの冬に浚われ、ラグナロクにて燃え尽きるという信仰の下で培われた強さの美学。

機会があれば是非、読んでいただきたい。
形あるものが消えてしまう彼等の生き様は、形のない歌や物語にこそ残されているが故に。

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