「老兵は死なず、消えるのみ」。と言って、休んだふりをしていたが、実は「大聖寺観光案内所」の隣りでオープンしていた「活性化サロン」で、元気に生きていた。余生を気ままに生きる老人のワガママを見逃していただきたい。
▼「加賀・江沼人物講座」第12回の講師は、加賀市の教育委員でもある「篠原隆一」氏。そして、「大聖寺観光案内所の所長でもある。11月19日に行われた講座は、「道官咲子・辻政信」だった。東谷重伝地区の「今立町」出身の辻政信も、終戦直後、ビルマの原野を逃げ延びて、戦後のある日突如して姿を現し、国会議員に当選した。
▼そして、また、消えた。「秀才・策士・神様・英雄・・・」などの称号のなか、謎の人物として、後世に伝えられる郷土の偉人でもある。当方には、そんな才能はないが、隣りの「活性化サロン」のセンター長を指名された立場から、活動の報告を兼ねた発信者としての義務感で、仲間の支援を貰いながら12月6日から発信している。
▼このコーナーを訪ねられた方で、好奇心のある方がいたならば、是非、「若手起業家支援センター」の「活性化サロン・スタッフブログ」をのぞいて頂けたら幸甚です。お知らせが遅れましたが、よろしくお願いいたします。

 11月30日(いい時去れ)。2014年7月16日から、スタートした大聖寺観光案内所のホームページに、併設された「スタッフブログ」の担当を、本日を持って降板します。2016年11月30日までの延べ780日余り。ブログ発信は、557回も続けることができました。長くて短い2年余りだったが、継続することの苦しさも味わい、また、楽しく「健康な老人日記」を書くことができました。この日までの「つぶやき」を、見ていただいた多くの方々や、サポートしてくれた仲間に、心より感謝いたします。

▼2014年6月に、NPO団体の「大聖寺観光案内所」がオープンした。大聖寺駅が通勤・通学専用駅になって久しい。1987年に「JR・加賀温泉駅」に特急が止まるようになってから、気がつけば29年前のことだった。その頃から、大聖寺駅前は寂びれ、構内にあった売店もなくなってしまった。レンタルロッカーも廃止され、観光案内の窓口もなくなった。

▼案内所開設当時は、大聖寺駅を降りた観光客は、「大聖寺」はどこですか。という、遠来客の質問も時々あった。今では、そんな質問で訪れる人はいない。みな、目的地へ、特急を乗り継ぎ大聖寺駅で降りる。「スマホ」からの情報には、観光ボランティアの知識を超える情報量がある。だが、「匠のかくれ里・加賀」の玄関口として、貴重な観光案内所としての存在感は、これから注目されるはずだと期待している。

▼「スタッフブログ」には、「大聖寺雑感」、「吾亦交」雑感、「五徳庵雑感」の3のカテゴリーに分けて発信してきが、まもなく75歳になる老人の、独断専行の「つぶやき」であった。「余生とは、余禄の人生だと」と、著名な放送作家だった「藤本義一」がラジオ番組でつぶやいていた。小生も、身の丈にあった余生を楽しみたいと思う。

▼「老兵は死なず、ただ消えるのみ」。日本の戦後占領期の統治者として、新しい日本をつくった。あの「ダグラス・マッカサー元帥」の言葉だった。「スタッフブログ」を継続する後進の若手メンバーにつなげる時であろう。また、どこかで、「つぶやき爺さん」が元気だと思ってもらうこともあります。ありがとうございました。

 11月20日の北国新聞に、加賀海岸は「文化的価値が高い」という記事が載っていた。文化功労者に選ばれた国際日本文化研究センター(京都市)の小松和彦所長(民俗学)が19日、加賀市の加賀海岸を視察し、江戸時代から人の手で進められてきた砂防植林は、「技術者の苦労が感じられる」という記事の内容だった。

▼そして、22日の加賀ケーブルテレビは、小松先生が米・ジョージア大学のエルジーン・ボックス教授と横浜市立大学院の藤原一繪教授(植物学者)を伴って、加賀海岸を案内する番組だった。加賀海岸の人工的に植樹した防風林が、自然と共存して、現在までその役目を維持しているケースは、世界的にも類を見ないという。賞賛を伝えていた。

小塚秀得こづか-ひでのり 1785ー1859)。江戸時代後期の武士植林家。天明年生まれ。加賀(石川県)大聖寺藩士。藩に植林の重要性を説き,文政(1842)植物方奉行に任命される。領内の日本海海岸に39年間で約35万本の松を植え,防風林をつくった。安政12月死去。75歳。本姓は山本。通称は藤十郎。号は清風。「加賀江沼志稿」抜粋。

▼小生が担当する「大聖寺観光案内所・スタッフブログ」。「老人のつぶやき」は、2014年9月1日にスタートしている。時折、案内所でのことをネタにした失敗談を発信している。2015年10月7日には、「加賀海岸は『白砂青松』に選ばれている」と題していた。

▼観光案内所の当番役は、加賀海岸が「白砂青松」の日本百選に選ばれていることを知らなかった。「塩屋と片野海岸」へ行きたいが、その場所を示す看板があるところを知りたいと、案内所に来た朝日新聞の記者が、納得する場所を案内できなかった。

▼新聞記者は、取材した記事を2016年1月に特集で掲載するという。地元民も知らない「加賀海岸の記事は、加賀市の宣伝になるよ」。と、言い残して案内所からタクシーに乗り込んだ。「世界遺産」という宝物が、加賀市に!?。

  「きょうは、ありがとうございました。皆さん方は、心から加賀市を愛していることが分かりました」。と、錦城中学の校長は謝辞の言葉を結んだ。会場は、昭和26年に製造された電車の中だった。山中温泉と大聖寺駅を走っていた電車は、現在も大聖寺八間道の「流し舟」乗船場の待合室として、65年経った今も活躍している。

▼「モハ3751」の電車は、定員110人で、窓側に長い座席定員は52人。シートはまだ当時のクッションのままで、吊革も痛んでいない。リタイヤした電車には、「流し舟」に招待された中学生15名が、行儀よくシートに座っていた。

▼乗船する前には、招待した「NPO法人・大聖寺歴町センター」の「若手起業家支援センター・活性化サロン」が準備した、エキシビジョン的な「健康ストレッチ」と「カイロプラクティック」を体験してもらった。そして、定住促進用の、15分間サイレント映画「匠のかくれ里・大聖寺」の鑑賞会もあった。

▼15人の生徒も、引率した先生も、用意した「流し舟」などの体験は、初めてだったろうが、揺れる舟や運動前のストレッチと、肩こり治療法には、素直な感嘆の声が聞こえていた。だが、初めて見る映画写真から、加賀市の素晴らしい山並みや日本海の夕日の景色。見慣れた祭りや町並みの老舗の店に、伝統工芸の歴史。そして、幼きころに体験した保育所での取り組みや元気な老人会の行事を黙って見ていた。

▼11月の初雪が東京に降るという。紅葉に映えた時期も終わった大聖寺川は、いつものようにゆっくりの流れだった。この生徒たちを招待した瀬戸事務長は、開会の言葉として「生まれ育った加賀市には、古代から多くの人々が住んでいた歴史の跡がある。そして、これらの伝統を引き継いだ素晴らしい先人のおかげで、今の私たちがいる。どうぞこの体験を思い出して、勉学に励んでほしい」と、お願いした。解散の折、「舟で食べたケーキはどーやった」と、聞いた。返事は「ありがとう」。

 8月から始めた「ぐるっと廻る・活性化サロン」の歴史探歩は4回目。「山の重伝建」東谷地区大土町の二枚田家が昼食会場だった。以前に、何度か「オエ(民家の上がり口の間)」の囲炉裏端で、昼食を頂いたことがあった。昔からの、地元の食材具を煮込んだ味噌汁と、炭火で焼かれたおにぎりの味が旨かった。

昔から、山奥の農家に宿泊した旅人には、「善意」の食事提供は当たり前だった。今回も、それを期待していたが、用意が出来なくなったという。仕方なく、市中の「ほっかほっか・豪華弁当」を持参して、山奥の古民家で食べることになった。だが、善意の「なめこ汁」がふるまわれた。

今は、過疎地になっているが、この地に生まれ育った二枚田さんは、定年まで市内の住宅地にいたが、住民票と一緒に生まれた家に帰ってきた。そして、過疎地で体験学習をする国内外の学生らが、自炊する宿舎として開放しているこれまで18ヶ国の学生が、山奥の体験生活をしたという。

源平合戦の「篠原の戦」で、平家の残党が逃げた「平家落人の里」の歴史がある。昭和12年に全村が大火で消失したが、その後、炭焼きなどをして近年まで10家族が住んでいた。そして、誰もいなくなった山村集落が、「重要伝統的建造物群保存地区の『加賀東谷』は4つの集落で構成されています。大土はその最奥の集落です」。と、紹介されている。

「温故知新」は、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」と、訓読する。中学生時代に覚えた四字熟語を懐かしく思い出した。800年前に落人が住みついた、大土の暮らしには違和感はない。便利社会に慣れて、ストレスを溜め込み、高齢社会を生きている我が身だが、直ぐにでも溶け込める自然体の生活環境である。

数年来より、独居生活を楽しんでいる。夏は涼しく、冬は寒い風が吹き込む古民家は、我が「五徳庵」と似ている。そして、いつの日か、五徳庵から自然に旅立つことを願っている。何故ならば、「介護施設」からの旅路へは、毎日、強制される辛くて長い時間が続くという。

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