2006年12月13日、イラン・イスラム共和国外務省迎賓館にて

 - フォリソン教授こんにちは。インタビューをお引き受けいただきありがとうございます。
   私にインタビューをしてくださるなんて、お礼を申し上げるのは私の方です。

- 12月11日、12日にテヘランでホロコーストに関する会議が開催されたわけですが、どのようなお考えで参加を決意されたのでしょうか。   

   イランの他に、このテーマの会議に私を招待してくれるような国などないからです。米国ですらこのような国際会議の開催は難しいでしょう。歴史検証主義者は米国に到着しても、即座に本国に送り返されかねません。フランスでこのような会議を開催することなど論外ですし、ヨーロッパで「ホロコースト」に関する会議や公けの討論を許せる国は一国も思い当たりません。貴国ドイツにおいてはあらゆる形における検証の禁止が徹底しています。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドも情け容赦ありません。世界の他の場所はこのテーマに特に関心がないかもしれません。ですからあらゆる人に開かれた「ホロコースト」をテーマにした国際会議の開催をようやくイランが提案したことは、まったく思いがけない好機でした。
   これは歴史検証主義の会議ではありません。タイトル(Review of the Holocaust Global Vision)が示すとおり、「ホロコースト」を部分的ではなくグローバルな視点から見直すことを目的としています。私の生きている間にこのような会議が開催されようとは思ってもいませんでした。  

 - 参加されることによってどのような目標を達成されることをお望みでいらっしゃいますか?    

   西側世界の大手メディアが必死になって私達の目から隠そうとしていることを公けにすることです。こうしたメディアが歴史検証主義者を引き合いに出すのは、私達を中傷し、私達が実際には言ってもいないことを言っているかのように見せるためだけです。
  例えば彼らは、歴史検証主義者とはドイツに強制収容所がなかったと主張している連中だなどと、嬉々として言い張ります。いかにも私達が愚かしい言動をする連中であるかのように主張しているわけですが、残念ながら少なくともフランス人の間では、歴史検証主義者は本当にそういう連中だという愚にもつかない認識が広まってしまっています。つまりフランス人は一般に、歴史検証主義者とは火を見るよりも明らかな事実でさえ否定するような常軌を逸した連中だと信じているのです。そしてそのために、私達を“否定主義者”呼ばわりする蛮行を臆面もなく続けています。
会議後、その目的を達成することができたと感じられますか?

   ある程度は。

   私達のような人間が存在すること、そして私達が異なる意見の人々とも温厚で礼儀正しく交流することができることを、世界は認識してくれました。しかし真の討論を行なうには、時間が足りませんでした。

   それにメディアは、私達の発言内容についてはおろらく何も報道しないだろうことが予想されます。私達の議題や発見について、メディアは沈黙を押し通すでしょう。

   真の討論を行なうには改めて新たな会議が必要です。しかしそれには相手側が逃げ隠れしないことが条件です。

   会議中私は、歴史検証主義に対して敵対心を持っていた教授と、束の間ではありますが、公けの討論を行なえる兆しを体験しました。しかもその討論を通じて教授は、私達に有利な方向に劇的転換したように見受けられたのです。お望みでしたら後ほど詳しくお話しましょう。

 - 是非!
   この会議の開催に及んで世界中で巻き起こった反応は、特筆すべきです。熱烈な抗議運動が起こりました。

   ホワイトハウスの広報官ショーン・マコーマックは早くも12月12日にイラン政府を:

”倒錯したやり方で[ナチスによる]残虐な行為を問い直すことによって、ヘイトの言動に論壇の場を与えようとしている!”

   と告発しました。二番目の公式抗議はブラジル政府から発せられました。続いて英国。国連からはコフィ・アナンが声をあげました。バチカンももちろん黙っていません。

   これらすべての権威機関が、ユダヤ人に対する「ホロコースト」については、まったく議論すべきことはないとしているわけです。

   ”ホロコーストは起こった!”
   
   それでおしまいです。
   
   先ほどお話した公けの討論のはじまりの兆しについて約束どおりお話しましょう。
   私は昨日、シラズ大学の教授で、ワシントン州の大学でも教鞭を取っているイラン人教授と議論を交わしました。ゴーラム・ヴァタンドゥスト氏という方です。教授は自分の発表の中で

   ”「ホロコースト」は「最初から最後まで記録されている(fully documented)」”

と口にすることを憚りませんでした。つまり資料によって完全に確証されているという意味です。
   そこで教授の発言後の質疑応答の場で私は、その資料の一つを見せてくださいとお願いしたのです。特に私は、すべての資料を見せてくれる必要はない、一点だけで良いから見せてほしいということにこだわりました。
   すると教授は、チャーチルが書いた覚書のなかでナチスの残虐行為の数々が告発されていると返答しました。私はチャーチルは一度たりとも「ガス室」について語ったことはないことを指摘しました。またアイゼンハワーにしても、ドゴールにしても、その他の同格の国家指導者についても同様であると。そして私が教授にお願いしているのは、一点で良いから資料の名を紹介してくれることだともう一度確認しました。またウィンストン・チャーチルとは政治家であり、彼は自分の感情について書いただけであることも指摘しました。政治家が持っていた感情は、たとえチャーチルほどの人物のものとは言え、私が調べているテーマではないと。
   すると教授は別の反論を見つけたつもりで私にこう答えました。彼と一緒にアメリカ国立古文書館を訪問すればよい。資料はそこにあると。
   私が求めている資料は一点だけですから、これも返答とは言えません。  
   私は「漁師と大きな魚」の話を思い出しました。信じられないくらいに大きな魚を釣ったと自慢する漁師に「その魚を見せてください」と頼むと、「何、私の言葉が信じられないと言うのか。あなたが私を信じないというのなら、その魚を釣った場所を見せてごらんにいれよう」という答えが返ってくるのです。私は「場所には興味がありません。私が見たいのは魚です」と答えるでしょう。

   「見せてください!」これこそ私が長年口にし続けている質問です。
   「ナチスが所持していたガス室を見せてください。あるいはそれを図に描いて見せてください!」

   そして私はアメリカの国立古書館ならもう知っていると答えました。すでに三箇所に足を運んで問い合わせをしたことも。ワシントンのもの、その近くのスイートランド、そしてカレッジパークの壮麗な建物も訪れています。そのいずれにおいても、私の望みは叶えられませんでした。
   教授はさらに三度ほど反論を試みましたがどれも虚しく、聴衆の一部は彼がまったく返答に窮しきっていることを見て取り、このやり取りは最後は笑いとオーベーションに飲み込まれてしまいました。

   今朝も教授にお目にかかりましたよ。昨日よりもずいぶん謙虚になられたようにお見受けしました。新たに発見した説にたいへん興味を持ったようで、私達は連絡先を交換しましたから、もしかしたら議論は続くかもしれません。
   その他にも私は、会議に参加していた六人のアンチシオニストのラビの一人と、短時間ではありますが、二度プライベートで話す機会をもちました。イギリスの方です。彼は歴史検証研究がもたらした結果にショックを受けるというよりも驚いていたようです。
   またオーストリアの偉大なラビの方とも心のこもった短いやりとりをすることができました。
   聞いたところによると別の参加者で、ロシア科学アカデミー付属世界経済及び国際関係研究所所属ヴィクトール・ナデインライエフスキーという人が「フォリソンは資料を要求しているそうだが、いかなる資料も後世に残さなかった重大な出来事だって今まで起こっている。こうした場合、資料を作成することはできない」と言っているそうです。いかなる資料にも裏づけされていない「重要な出来事」とはいったい何なのか知りたいものです。 

- クメール・ルージュのことを言っていたのだと思います。
   
   そうかもしれません。
   しかしそれならば極めて遺憾に思います。私達が扱っているテーマについては資料や資料と称されるものが山と存在しているからです。

   ここでまず「資料」という用語の意味を確認しておきましょう。

   一般に資料とは書類の形をしていますが、物的な資料というものも存在します。「資料」という言葉は、「教示するもの、何かを教え示すもの」という意味のラテン語の動詞から来ています。机の上のナイフ、椅子、部屋、建物なども資料としての価値を持つことができるのです。
   
   例えば歴史学の創始者であるフュステル・ドゥクランジュのような偉大な精神の持ち主が

   ”資料がなければ歴史も存在し得ない。”

というような発言をしたことは、私達にとってはまったく当たり前のことなのですよ。


   私が先ほど例を挙げてお話した二人の参加者は、われわれ歴史検証主義者が調査研究の結果として出した結論に異議を唱えています。私達の主張が調査研究の結果だという点を、私は強く訴えたいのです。

   私達はいつでも真っ先に“否定者”呼ばわりされます。(この négateur という表現はまだしも純粋なフランス語ですが)もっとひどいのは“否定主義者” (négationniste )という呼び方で、これは野蛮の極みです。こうした呼び方によって歴史検証主義者は、あたかも自明の事実を否定している連中であるかのように定義されるわけです。われわれは悪魔に取り憑かれた連中、ゲーテの言葉を借りれば、「すべてを否定する精神」の持ち主というわけです。

   しかし実際には私達は何一つ否定しているわけではありません。ただたんに研究し、調査を行ない、その結果、ある種の主張に対して異議を唱え、私達自身の結論を表明しているのに過ぎません。

   ガリレオだって何も“否定”はしていません。彼は自分の研究の結果として、一般に認められているある事柄が間違っており、別の事柄が正しいと表明しただけです。

 - 御自身の会議での発表内容を要約してご紹介いただけますでしょうか。

   私の発表は『歴史検証主義の勝利』というものでした。
   
   反検証主義達が、時代が進むにつれて私達に対して行わざるを得なくなった譲歩について語りました。同じタイトルのテクストもありますから是非参照してください。そのテクストの中では二十点、歴史検証主義者による勝利の例を紹介しています。1951年から2004年の期間に得ることのできたこうした勝利のなかには実に劇的な様相を持つものもあります。残念ながらこうした事実は、世論にはまったく知られずにいますが…。
   メディアが、私ども歴史検証主義者を完全に無視しているからです。

 - 例を一つご紹介いただけますか

   ジャン=クロード・プレサックの例を挙げましょう。

   プレサックはセルジュ・クラースフェルド夫妻の庇護の下、長年<ナチスのガス室>が実在した証拠を発見したと主張して憚りありませんでした。彼の著書の一つは1993年から1994年にかけて、すべての大手メディアに絶賛されたものです。
   1994年私は彼に反論する小論文を書き、そのせいで法に追求される身となりました。幸い私はプレサック自身を法廷で聴取させるという条件を勝ち取ることができました。
   1995年5 月、場所はパリです。法廷でのプレサックの信憑性の失墜ぶりは実に見ごたえのあるものでした。彼はその後、決してこの一件から立ち直ることはできなかったほどです。
   ヴァレリー・イグネという歴史検証主義に敵意を抱いている歴史家がいます。彼女はその著書『フランスにおける歴史検証主義の歴史』のなかで、プレサックが署名した降伏宣言とも言える文を掲載した点においては賞賛に値するでしょう。
   事実プレサックは最後にはこう認めたのです。

   ”ドイツの強制収容所に関する資料は嘘に満ち満ちており、「腐りきった」ものである…”

と。彼自身の言葉ですよ。さらには次のように付け足しさえしたのです。

   ”生々しすぎる悲劇の周囲に、あまりに「腐りきった」資料が積み挙げられたせいで、いずれは歴史学のゴミ箱に捨て去られることになるだろう…”

と。

- 信じられませんね!プレサックはその後どうなったのですか?
  もちろんユダヤ人の友人達に見捨てられました。彼は2003年に59歳で亡くなり、メディアは完全なる沈黙を押し通しました。

  プレサックは、私が1970年代に投げかけた挑戦に応じることができず、無能をさらけだした大勢のうちの一人です。当時私はナチスのガス室と言われるものの存在は、物理上の基本的問題のために不可能であると証明していました。その後、ロイシュター報告書(Fred Leuchter)やルドルフ報告書(Germar Rudolf)、またその他の数々の科学者達による報告書によって、私の論は確証されました。

 あなたは今回のテヘランでの発表でまずはじめに、ナチスの残虐行為を示したものだと言われる写真に対して警戒することを促されました。どうしてでしょう。
   これらの写真が人心に浸透しきっているからです。

   人心を惑わすプロパガンダの手口として何よりも簡単に効果を発揮するのが、写真です。
   わざわざ手の込んだ合成をつくることもありません。病人や瀕死の人間、死人の写真を見せながら、これは殺された人間ですよ、虐殺された人間なのですよ、と言い添えるだけで充分なのです。
   善人と言われる人々は、やすやすと騙されますよ。彼等は嫌悪感を抱き、義憤に駆られるでしょう。彼らの目には、実際そこに写っているもの(人間の死体)は見えなくなり、彼らの意識に刷り込まれたもの(”殺された”人間の死体)しか見えなくなるからです。
   彼らの理解は混濁し、熟考に時間をかけたりなどしません。

   噓の虐殺話を広めるのに取られるプロセスは常に同じです。

   この点から言えば、「アウシュヴィッツの虐殺話」は、スケールの差こそあれ、歴史上の敗者が散々に押し付けられてきたあらゆる虐殺話と同類です。例えばアンダーソンヴィル(アメリカの南北戦争時に存在したといわれる強制絶滅収容所)、ルーマニアのチミソアラ、あるいはクウェイト・シティなど。

   特に女子供の死体の写真は用を足すのにもってこいです。   
   
   これと同じ手法が1945年、一方ではアメリカ人とイギリス人に、また他方ではソ連人に用いられたのです。ドイツの強制収容所が1945年に解放された時、現場にカメラチームが入りました。彼等は手始めに全てを撮影した後、今度は選別を行ない、何よりも悲惨で怖気を催す写真だけをカメラに収めました。とりわけ病棟やその近辺の光景です。

   文字通り生ける屍の様相を呈するチフス患者や、実際に強制収容所に付きまとうあらゆる恐ろしげな光景の撮影には、とりわけたっぷり時間がかけられました。

   それは実際には、連合国であるソ連の強制収容所が呈する様相に比べればずっとマシだったのですが。

   さらに次の段階で、捕虜達を故意にこのような目に遭わせたのは、あたかもドイツ司令部や守衛が、彼等を物理的に消滅させる政策に従ったためであると言うかのような解説を行なったのです。健康体で解放の喜びに満ちている多数の捕虜の姿を撮影した写真はその際、隠蔽されました。

   その上、ドイツの強制収容所には、例えばアウシュヴィッツもそうですが、捕虜達が使用するための広々とした厨房や多種多様の衛生設備、歯科や外科用の医療施設、パン屋、郵便局、作業場、工芸用又は音楽用施設が敷設されていたことも明かされません。そうした設備が備えられていたというだけで、ドイツ人が捕虜を物理的に抹殺する意図を多少なりとも持っていたという主張が、非現実的に見えてくるからです。

   その一方で扇動者にとっては、メス一本でも、拷問が行なわれていた証拠になりますし、殺菌用のガス室は、虫ではなく人間をガス殺していた証拠に、殺菌や除染に使用されていたツィクロンBの空き缶は、ドイツ人がこのガスを殺人用に使っていた証拠になるのです。
   殺菌や除染を行なっていたことはむしろ、病気や危険な感染症から人命を守ることを目的としていたはずなのに。

   強制収容所の捕虜が体験した本当のおぞましさとは、実際には、一箇所に大勢の人間が詰め込まれ、雑居させられることでした(“人間はりんごのようなものだ。たくさん詰め込むほど腐りやすい”)。あるいはまた刑務所特有の暴力、空腹、過酷な気候、病気、感染症等です。そうしたことについては、検証主義者[またブッヘンワルト元捕虜]のポール・ラシニエが多くを語っています。捕虜達はこうした原因によって、時によっては地獄を体験したのは事実です。
イギリスがベルゲン・ベルセン収容所について行なったプロパガンダについて特に多く語られましたね。
   ええ。  
   ウィンストン・チャーチルの同胞は、ベルゲン・ベルセン収容所でたいへんな手柄を立てたのですよ。   

   私が<ブルドーザーのトリック>と呼ぶものです。1945年4月、人口密度が過剰だったベルゲン・ベルセン強制収容所では東部からもたらされた感染症が猛威をふるい、収容所内はまさに病巣と化していました。原因は、英米軍による度重なる空襲のために食料が底をつき、水道が断たれてしまったことでした。  
   そのためドイツ当局は、強制収容所に近づきつつあった英国のモンゴメリー隊に使節団を送り、収容所が置かれた衛生状況(また、無検査で捕虜を一挙に解放した場合にドイツ国民を含めたあらゆる人々を襲いかねない危険)について知らせました。   
   英軍はSSと協力することは拒否しましたが、ドイツ国防軍なら状況改善のために手を貸すことを受け入れました。
   到着したイギリス人達は、墓を掘り起こして死体を数え、それが終わると再び大きな深い穴にそれらを埋め直すことにしたのです。死体を穴に収めるために彼等はブルドーザーを用いました。ブルドーザーが操業している様子は現場でフィルムに収録され、映像の幾つかは後世にまで伝わることになります。何よりもドキュメンタリー映画(あるいは“デマメンタリー”と言うべきでしょうか?)『夜と霧』(1955年)のおかげです。   
   何百万という視聴者が、この映像こそが、ドイツ人が来る日も来る日も産業的規模で捕虜を殺していた証拠であると信じたのです。ブルドーザーを運転しているのがドイツ人ではなくイギリス人だと見抜くことができた視聴者は稀でしょう。歴史検証主義に一挙に反論するために1978年、南アフリカで出版された書物に掲載された写真では、ブルドーザーと死体は見られますが、運転手の頭部はカットされていました。運転手がドイツ人だと読者に思わせようとする意図が明白です。

   それだけではありません。時間が経つにつれて、たとえばアカデミー・フランセーズのモーリス・ドリュオンのような人間の意識のうちでは、「一台のブルドーザー」が「何台ものブルドーザー」に増長していったのです。   

   ドイツ人の残虐さを物語ることを目的にしたこの手の粗悪極まりないプロパガンダの手法を挙げたらキリがありません。山積みされた靴や眼鏡、髪の毛などが、あたかも皆ガス室で死んだ人の遺物であるかのように満足げに展示されているのも同じやり口です。   
   経済制裁のために窮乏のどん底にあった当時のヨーロッパでは、捨てられるものは何一つなく、髪の毛も含め、あらゆる物が取り置かれ、再使用されていたという事実については、もちろん一言も言及されません。髪の毛は何よりも繊維産業で重宝されていましたし、皮やガラス、金属、木材をリサイクルするための作業場は、市町村内だけではなく収容所にも数々敷設されていました。

   <トランクのトリック>についてもお話する価値があるでしょう。   
   アウシュヴィッツには、丁寧に積み重ねられたトランクの山を写した有名な写真があります。哀れな持ち主は、ガス室に送られる前、一人一人トランクに自分の名前と住所を書きつけたのだと説明されます。   
   ところがよく見ると名前と住所はすべて同じ人間の手によって同じ白い字で書かれていることがわかります。これは本当は、どこの収容所でも捕虜が到着した時に取られる手続きに過ぎないのです。捕虜達の持ち物は、収容所到着時、職員によって記録所に登録されました。
   マルセル・ブロッシュ=ダソーという人は、ブッヘンヴァルト収容所に到着した時に没収された財布を、戦後何年もたってからドイツから受け取りました。この手続きのおかげです。彼はフランスのテレビ番組である晩この財布を紹介し、当時財布に挟んでおいた四葉のクローバーをそのまま取り出して見せたのですよ。   
   とは言うものの、ドイツ当局がこうした膨大な没収品に手を付け、度重なる空襲のために極貧状態に置かれていた国民に配給していたことはまず疑いありません。

 - ベルゲン・ベルセンはアンネ・フランクと姉のマルゴーが亡くなった収容所でしたね?   

   そうです。1945年2月末か3月始めのことでした。姉妹の死因はチフスです。戦後長い間、公的立場は二人がアウシュヴィッツのガス室で殺されたと主張していました。姉妹は確かにアウシュヴィッツに立ち寄っていますが、そこからベルゲン・ベルセンに移されました。本当に哀れな運命です。   
   しかし英米軍の爆撃隊によって生きながら焼き殺されたドイツ国民の運命はもっと酷いものです。戦後、あるドイツ人が1945年3月24日一晩のヴュルツブルグ市空襲による犠牲者の一覧表を掲載した書物を調べました。5千名を越す名前のうち「アンネ」という名、またはそれに近い名を持つ女性は確か128人いたそうです。ドイツ人だからという理由だけで自動的に殺されたこの女性達について語られることはその後いっさいありません。違いますか? (第二部に続く