第一部
第二部
 
MahmoudRF


   
   さて、フィクションはここまでにして、歴史に戻りましょう。    

   バビ・ヤールの虐殺というテーマについて少し時間を割きたいと思います。        

   このところ、<ガス室神話>のあちこちから水漏れが始っていることに気づいたユダヤ人団体の幾つかは、人々の注意を他に逸らそうと試みています。彼等は私達の目をガス室やガス室を搭載したトラックなるものから、今度は[第二次大戦中ロシアで活動したドイツの]<アインザッツグルッペン>に向けさせようとしているのです。
    
   例えばフランスのユダヤ人ジャック・アタリは、最近こんなことを書きました:  

   ”大戦中に殺されたユダヤ人の大半は、1940年から42年の間、ドイツ警察とドイツ兵の銃によって命を落としたのであって、その後開発された殺人工場で殺されたのではなかった。”    

   この新たな解釈のために、ユダヤ人達は新たな表現を用い始めました:    

   <銃弾によるショア>
というものです[ショア=ホロコースト]。    

   今や<ガス室によるショア>は、この<銃弾によるショア>に取って代わられつつあるのです。
   
   <バビ・ヤールの大虐殺>が我々に紹介されはじめたのもそのせいです。    

   バビ・ヤールとは、キエフ近郊の地名です。ニュルンベルク裁判では、この名が登場することはありませんでした。しかしある書類に、ドイツ軍はキエフ市を攻略した直後、ソ連の内務人民委員部NKVDによるものとされる連続放火が起こったことに対する報復措置として、すべてのユダヤ人を1941年9月29日から30日の間に強制連行し、そのうちの一部をバビ・ヤールで銃殺したと、わずか一文のうちに書かれているのです。    
   ドイツ軍が銃殺したというユダヤ人の数を是非ともよく味わってください:    

   3万3千771人です!    

   なんとも詳細な数字ではないですか!
   この書類には日付けも署名もありません。ロンドンのワルター・ロスチャイルド中尉が選出したある書類群の一部です。この報告内容自体が、非常に現実離れしています。

   実際に起こったことがわかっているカチンの森の大虐殺の犠牲者は、1940年3月から4月にかけての二ヶ月間で約4250人です。これはソ連のNKVDによる犯行でしたが、後にドイツ軍になすりつけられました。バビ・ヤールの虐殺はそれに対してたったの二日間で、カチンの二ヶ月分のおよそ八倍の犠牲者を出したことになります。これほどの規模の虐殺が実際に起こったとしたら、必ず数知れない痕跡を周囲に残したはずです。死体はいったん埋葬された後、再び掘り起こされ野焼きされたというのですから、それだけでも、その地の光景はすっかり変わってしまったはずです。ところが当時の航空写真には、そのような出来事を物語る手掛が何一つ写っていないだけではありません。このとてつもない規模の虐殺が実際に起こったことを証明する物的証拠は、一つとして存在しないのです。

   このところウクライナでは、パトリック・デボワという名のフランス人の神父が大変話題を呼んでいます。ユダヤ人と実に懇意な人物です。

   デボワ神父は、ウクライナ各地を巡り歩いて、<ユダヤ人の集団埋葬地>を探し当てることを得意としています。彼はウクライナの善良な村人達に、近々どこそこの地を訪問することを告げ、ドイツ人が戦争中ウクライナで行なったユダヤ人虐殺に関する証言を収集するつもりであると伝えます。
   <ユダヤ人の集団埋葬地>が存在すれば、そこには記念碑を樹立し、観光客を呼び寄せることができますから、ウクライナの人々はそのような埋葬地があると、率先して自慢します。<証言者>が集まって、物語を準備します。そこにデボワ神父がやって来て、それらしき場所を指差す村人達と記念撮影を行ないます。そうした証言者の写真をみると、びっくりさせられますよ。八十歳は越えていなければならないはずの彼等は、どう見ても遙かに若い顔をしているのですから。
   しかしもっと驚くことがあります。<ユダヤ人集団埋葬地>だといわれる場所は、決して発掘されることはないのです。いかなる物的検証も行われません。ユダヤ教がユダヤ人の死体に触れることを禁じているからだという言い訳です。ところが1978年版のユダイカ百科全書の「検死と解剖」という項目を開けば、この禁忌が決して絶対のものではないことは一目瞭然です。

    たった一箇所ブスクという地で、十五箇所の共同墓地が掘り起こされました。しかし埋葬されていた遺骨の鑑定はまったく行なわれないまま、ただちにすべてが再び埋めなおされ、今後いかなる検証も行われることがないよう、墓地は上からコンクリートで塗り固められたのです!ユダヤ法に則って遺骸を敬ってのことだとしたら、なんとも奇妙なやり方ではないですか。

   歴史家は、デボワ神父なる狡猾な人物が、証人から聞いたとする話のみで満足する他ないのです。

   かくして発見されたことも確認されたこともない犠牲者の数が積算されていき、最後にはウクライナには、これだけのユダヤ人集団埋葬地とこれだけの犠牲者数があるのだと、断言されるのです。そしてこの主張は、ローマカトリック教会と<ヤハッド・イン ウヌム>協会、それに“ヘブライ法に則った犠牲者の遺骸の尊重を守る”<ザカ>協会によって守られているのです。いずれアウシュヴィッツと同じように、観光客を呼び寄せるチャンスもあるかもしれません。

- ひとつ質問があります。<銃弾によるショア>と資料のお話をしてくださいましたが、私は確か、ある場所で処刑されたユダヤ人の数を記した棺桶のマークが記載された地図の資料を見たことがあるように記憶します。SS隊か、またはアインザッツグルッペンがロシア前線からベルリン当局に送付した資料だということだったと思います。この資料はアインザッツグルッペンA、B、C、Dが処刑したユダヤ人の数を確かに示しているわけですよね。これは証拠とは言えませんか。あなたのご意見をお聞かせください。

   お話の資料を知っています。特に棺桶と数字を示しているものです。この資料に対して最初にその著書『二十世紀のデマ』(The Hoax of the Twentieth Century)の中で疑問を表明したのは、アメリカのアーサー・R・バッツです。こうした資料は往々にして署名もなく、胡散臭いソ連発のものなのですよ。あなたのおっしゃる地図を載せた資料は、1979年に元CIAのブラジオニとポワリエが公表したアウシュヴィッツ航空写真を彷彿させます。この航空写真にはアウシュヴィッツの火葬場が写っているのですが、その上にバカ正直に<Gas Chamber>と書き添えられていました。あなたがお話の棺桶マークが記された資料にも、誰のものかわからない筆によって同じやり方で数字が書きこまれ、それが処刑されたユダヤ人の数だと主張されているわけです。けれども、その数の総計がどこから来ているのかを確認できるソースはどこにも記載されていないのです。

   ところでロシアで集団埋葬地が発見され、実際にその鑑定が行なわれた場合、必ずそのどれもがスターリンの犠牲者を埋めたものであって、ヒトラーの犠牲者であったためしは一度もないことに気づかれましたか?

   それはともかく、ドイツ軍がベルリン当局に送った推計なるものは、そもそも慎重に扱う必要があるでしょう。

- 戦争で手一杯だったドイツ人は、平和時代と違ってきちんと署名を行なった非の打ち所のない報告を作成してベルリンに送る暇がなかったのだと考えることもできますね
   それはあたな自身の仮定に過ぎません。何故ならこの時代の無数のドイツの書類が、彼等が実に綿密な報告を行なっていたことを示しているのですから。

- 確かに仮定に過ぎないかもしれませんが、もしかしたら存在したことが一度もないのかもしれない完璧な証拠を求めるのは、あまりに過度な要求だとも言えないでしょうか?
   証拠が手に入らないのだとしたら、推測をするに留まるのが常識です。「噂によると~である」とか「おそらく~だったのだろう」と言うことはできますが、それ以上のことを主張する権利はありません。
   
   要するに目下私は、<アインザッツグルッペン>が咎められている非現実的なユダヤ人虐殺について、カチンで実施されたのと同じような刑事捜査の行なわれるのを待っている状態です。そして鑑定の後、「遺骸は霧散してしまったのである」という手の報告がなされないことを祈ります。これだけの犠牲者の遺体を野焼きしたのだとしても、それには想像を絶する量の木材か燃料が必要なはずです。それに少なくとも歯や骨の欠片など、何かしらの痕跡は必ず残るはずです。ロシアでは今日なおナポレオン軍の兵士の遺骨が発見されるのですよ。

- しかしナチスの犯罪を示唆し、断罪を可能にする裁判や手掛かりもあるわけですが、それらはどうなるのですか?
   
   手掛かりとは、何かが存在した可能性を示唆する表面的な符号に過ぎません。[ユダヤ人名士の]クラースフェルド夫妻の友人だったジャン=クロード・プレサックがアメリカで出版した大著の中で”証拠の兆し”だとか”痕跡”だとか呼んでいるのが、まさにそれです。<四分の一の証拠>と<四分の一の証拠>を足して、さらに<半分の証拠>を付け足せば、完全な証拠の出来上がりだ、と思い込んでいる人には用心をしなければいけません。このやり方は何世紀も昔の魔女裁判で使われていたと言いますが、二十世紀においても<ナチス戦争の悪魔的犯罪者>という現代の魔女達に対する裁判でふたたび復活しているのです。

- 私が言いたいのはそういうことではありません。今日行なわれるある種の裁判では、本物の証拠が提示されなくとも、幾つかの手掛かりがあれば被告を断罪することができるということが言いたいのです。
   
   その通りです。

   例えばフランスの裁判官は、いわゆる<内的確信(または心証)>(intime conviction)なるものを判断基準にすることさえできるのですよ。<内的確信>なるものは裁判官には許されるかもしれませんが、歴史家には許されません。いったいこれまでどれくらいの誤審が明らかにされてきたことでしょう。特にドイツに対して行なわれたあの大裁判においては、私はただの<内的確信>などに依拠しないことを求めます。

   私が求めているのは証拠です。たった一つでいいから、証拠を要求しているのです。

   ポリアコフやヒルバーグやその他大勢の<ドイツ断罪主義>の歴史家達は、証拠が何一つ存在しないことをついに認めざるを得なかったことを、これまで私は確かめてきました。

   ご存知のようにラウル・ヒルバーグは、ユダヤ人を絶滅させよという命令をヒトラーは二度出したと、1961年には堂々と書いていたのですよ。そしてこのヒトラーの絶滅政策は、指令系統の上から下まで綿密に組織されていたとまで付け足しているのです。
   ところが1983年にヒルバーグは歴史検証主義者達の追及を受け、実際のところは絶滅命令も、計画も、そのための予算も存在したことなどなかったことを認めざるを得ない羽目に陥ったのです。1985年トロントで行なわれたエルンスト・ツュンデルに対する裁判の場で、宣誓付きでこのことを認めたのです。
   その後ヒルバーグはこれ以上ないくらい惨憺たる弁明を行なったものでした。彼の思いついた新しい解釈によれば、ユダヤ人絶滅政策は命令も計画もなしに、“ドイツの大規模な官僚網内での信じ難い以心伝心”によって実行されたのだそうです。大三帝国の官僚の話ですよ!私はこれを“(ユダヤ式)霊媒術”と名づけました。

   もう一点、付け加えさせていただいて良いですか?

   - もちろん。

   偽の証拠というものをめぐって私が衝撃を受けたもう一つの出来事がありました。

   それはアメリカの大臣コリン・パウエルが、国連で、イラクが大量破壊兵器を所持していると証明するふりをした厳かな光景です。歴史検証主義者の私は、即座にこれが詐欺であることを見抜きました。火を見るよりも明らかでした。
   今となっては皆あの話をして笑います。けれども、当時国連では誰一人立ち上がって「パウエル氏の演技は我々を馬鹿にしている!私は厳かにそれに対して抗議する!パウエル氏が手にしている容器には、なんの害もない液体しか入っていないだろうことを、我々全員が知っている。氏は映画的効果で我々をごまかそうとしている。また氏がスクリーンに映して見せた大量破壊兵器が隠されているという建物も、まったく何の変哲もない建物に過ぎない。ここに大量破壊兵器が隠されていると主張するなど、まったく馬鹿げている!」と憤慨し、発言しなかったことは、なんと嘆かわしいことでしょうか。
   1979年に元CIAのブルジオーニとポワリエはまったく同じやり口で、ドイツの強制収容所にあるただの火葬場の写真を見せて、そこに大量破壊兵器、即ち<ガス室>が隠されているのだと我々に堂々と主張したのですよ。まったく同じ粗野な噓、まったく同じ主張です。

- 先ほどもお尋ねしたことに戻りますが、国家社会主義政権下のドイツがユダヤ人に対して不公正な政策を行なったとお考えですか?
   
   さきほどは「犯罪」という言葉を使われました。今度は「不公正」ですか。
   ドイツが、あるカテゴリーの人々を国家に敵意を持った潜在的に危険な人々であると見なしたことは決して根拠がなかったことではありませんし、そのためにドイツが取らなければならなかった措置をどのように評価するのが妥当であるのかは、私にはわかりません。
   戦争状態にあるあらゆる国家は、ある種の措置を取らざるを得ない状況に置かれますし、そうした措置は、対象となる家族にとっては残酷であることには違いありません。例えばもしも明日、フランスとイタリアが戦争を始めることになったら、フランス政府は当然、フランスに住んでいるすべてのイタリア人を監視下におき、強制収容所に送ったりするでしょう。またイタリア政府は自国内に住むフランス人に対して同様の措置を取るはずです。

- つまりあなたにとってドイツは、<ユダヤ人>と呼ばれる人々と戦争状態にあったのですね。

   その通りです。ドイツは<ユダヤ人>と戦争をしていましたし、同様に<ユダヤ人>は、ドイツと戦争をしていたのです。

   そして戦略的論法を徹底していたならば、本当はこれらすべての潜在的危険分子を強制収容所か監視された居住施設に送るかすることもできたはずなのです。しかし彼等の数からして、それは実行不可能でした。そこでドイツは別の措置を取り、それは、戦火が深刻化していくにつれて次第に厳しいものになっていきました。

   例えば、ユダヤ人に黄色い星を付けることを義務化させた例について考えてみましょう。この措置はヨーロッパのドイツ占領地域の一部で、ある時代から実施されることになりました(フランス南部ではユダヤ人達は黄色い星を付けずに済みました)。

   この措置によって、ユダヤ人達は監視下にある自由の身となりました。しかしこれが、ユダヤ人家族全員を強制収容所に閉じ込めることよりは、遙かに穏やかな措置であったことを忘れてはいけません。実際にユダヤ人のある者は、ドイツに強制収容所に送られましたし、またアメリカやカナダは、戦時下では一般であるように、彼等の国に住んでいる日本人を強制収容所に収監しただけではありません。日系のアメリカ人やカナダ人にまで、同様の措置を適用したのです。

   ドイツがユダヤ人に黄色い星を付けさせたのには、理由があります。このことによって、特にドイツ兵の安全が保障されたのです。当時多くのユダヤ人が、連合国が<レジスタンス>と呼び、ドイツ人が<テロリスト>と呼んだ行為に参加していたのですよ。ドイツ兵は往来を歩くたびに、いちいち行き交う人を危険人物かどうか識別するわけにはいかなかったことは、おわかりでしょう。黄色い星は、彼等にとって要注意という警告を表わしていたのです。
   パリの地下鉄は当時五両編成でしたが、黄色い星を付けた人間は、五両目に乗車することを義務付けられていました。逆にドイツ兵はこの車両に乗ることを禁じられていました。

- そのようなユダヤ人に対する扱いは公正だったとお考えですか。フランスやドイツに住むユダヤ人はその国に同化しており、パリのユダヤ人とニューヨークのユダヤ人には特別なつながりなどなかったとは考えられないのでしょうか。

   これは道徳上の問題ではなく、軍事的な必要性の問題です。
   道徳的観点から言ったら、ドイツ国内のユダヤ人に対する扱いは、大戦開戦直前の水晶の夜の時期、咎めるべきものだったと言うことができます。たとえドイツ国内でユダヤ人によるドイツ人への挑発が激増し、ユダヤ組織が絶え間なく<新ドイツ>に対する聖戦を呼びかけ、特にユダヤ人グリンスパンによるパリのドイツ大使館顧問フォン・ラート氏の暗殺が起こったことで、ドイツ人の心情が非常に悪化していたことは理解できるとは言え、水晶の夜に発生した被害の賠償として、ゲーリングがユダヤ人に十億マルクの罰金を課したのは非難すべきです。
   
   しかし、「評価する」ことは「比べる」ことでもあります。これまで世界各地で少数派に対して行なわれてきた残虐行為の数々を考えれば、いかなる国家も、別の国家に教訓を垂れる権利など持たないのは明らかです。
   
   常々私が口にしてきているように、あらゆる戦争が屠殺場であり、勝者は腕の良い屠殺者、敗者はそれに劣る屠殺者だったに過ぎません。ですから戦争というテーマについて、勝者は敗者に屠殺技術に関する教訓を垂れることはできるかもしれませんが、権利や正義、さらには美徳の教訓を押しつける権利などないのです。
   ところがニュルンベルク裁判では第二次世界大戦の勝者が、まさにそうしたことを、歴史上稀に見る偽善に満ちた法廷で、敗者に対して行なったのです。

- とは言え、戦争犯罪や、今日の言葉で言えば<人道に対する犯罪>が、国際法の原則に従って裁かれるべきであることには、少なくとも同意されますよね。

   原則的には同意しても良いでしょう。
   けれども、実地においては、国際裁判なるものによって断罪されるのは、ご覧のとおり、結局ほとんどのところ、敗者なのです。敗戦に打ちひしがれた兵士が、黒い法衣をまとった検事や裁判官にまるで獲物のように取り囲まれ、勝者が法廷内を凱旋するのを眺めさせられる光景ほど、憤りを催させるものはありません。血生臭いことにおいては世界中の軍の中で飛び抜けているアメリカ軍は、決して国際裁判所に裁かれることはないのですよ。

   第二次世界大戦の話に戻れば、いったいどうしてスターリンと組んだ者が、別の者がヒトラーと組んだからと言って、非難することができるのでしょう。
   
   ここで一般に流布している比較を採用して、スターリンはペスト、ヒトラーはコレラであったと仮定してみましょう。いったい何故ペストを選んだ者が、別の者がコレラを選んだことを非難できるのか、私には理解できません。

   1945年5月8日、フランスのルクレール将軍は、自らが多少なりともアメリカの軍服を身に付けていたのにもかかわらず、病院から解放された十二、三名のフランス兵捕虜が、多少なりともドイツの軍服を着ていたという理由で、彼等を銃殺させたのは、いったいどんな権利があってのことでしょう。
   多くのフランス人の若者は当時、ソ連共産主義に対する恐怖と不安から、フランス民兵団やドイツ軍に参加したのだったということを、よく理解する必要があります。

- 占領下のフランスでドイツ軍が行なった報復行為を正当化されますか。
   
   その質問にお答えするためにはまず、占領下のフランスでは、ドイツ占領軍やドイツに協力するフランス人(コラボラション)に対して、繰り返しテロ行為が行なわれたことについてお話しましょう。こうしたテロ行為によって膨大な数のドイツ人が死傷しただけではなく、交通や交信機関(電話線)、兵舎、兵器や収穫倉庫を狙った破壊活動も頻発しました。武器の密輸もありましたし、連合国のための諜報活動、脱走の擁護、逃走網の組織、テロを続行させるための共産主義によるプロパガンダも盛んでした。
   このような状況下に置かれたドイツの指導部はどうすれば良いのでしょう。
   当初、ドイツ軍は反抗者や人質を銃殺しました。しかし、フランス国民がドイツ兵の殺害を非難しながらも、占領軍による報復行為には憤慨していることを見て取ったドイツ当局は、フランス国民の支持を失うことを恐れ、ある時から、ほとんどのケースにおいて、犯人を銃殺する代わりに、強制収容所に送ることを選んだのです。しかし戦争末期、連合軍のノルマンディー上陸が成功したことで、ドイツ軍に対するテロ行為が激増すると、再び銃殺措置を選ぶようになりました。

   ドイツ占領下のフランス国内で、軍事裁判や軍法会議によって決定された銃殺刑の数は、ニュルンベルク裁判で主張された2万9千660件とは程遠く、実際には、大戦の全期間を通じて4520から4540件の間だったようです。それに対して共産主義者達は、遙かに大きな数を長い間主張してきて、共産党とは「7万5千人が銃殺された党である」と、のたまってきました。モーリス・トーレスに至っては1947年11月18日、スターリンに「大戦中[フランスでは]35万人の共産主義者がドイツ兵に銃殺された」(『共産主義』誌、一九九六年夏号、四十七頁)などとほざいています。実際にフランスで銃殺された共産主義者の数は数百名に過ぎません。

   1945年、今度はフランス軍がドイツを占領した時には、フランス兵を殺害するための組織された武力抵抗運動は、ドイツ側では起こりませんでした。さもなければ、フランス軍は[第一次大戦後にフランス軍がドイツの]ルール地方を占領した時と同じように、また[フランスの旧植民地である]マダガスカルやインドシナ、アルジェリアで<反逆者>に対して行なったのと同じように、情け容赦ない行動に出ていたでしょう。
   今、私の頭に思い浮かぶのは、フランス占領下にあったドイツのある街に張り出されたポスターです。ポスターには強制収容所で撮影された死体の写真が印刷され、“このポスターを剝がす者は死刑に処す”と警告されていました。
   他国の地域を占領する者は、占領された側が反逆し、特に武器に訴え始めた場合、ある種の恐怖政治に頼らざるを得ないものなのです。(最終部に続く)