まったく異なる質問に移させていただきます。今日ドイツでは、ホロコーストに異議を唱える者に対する裁判が行われる時、被告と弁護人は、法に基づいて次のように裁判官に注意されます:「ホロコーストは公知の事実であり、実証されている。それに対して異議を唱える権利も、またそれを行なう際の自分の善意を証明する権利も、ナチスによるユダヤ人大量殺人とガス室が実在したという事実を信じない理由を表明する権利もあなた方にはありません。」
これについて、どのようにお考えですか。

   <公知の事実>という論拠の源泉は、ニュルンベルク裁判の規定、第二十一条にあります。「当法廷では、公知の事実については、証拠を求めることなく、これを法廷に顕著な事実と認める」という条項です。これは、常軌を逸しています。
   いったいこの<公知の事実>とは何を意味するのでしょう。いったい<誰>にとって<公知の事実>なのでしょう。いったいどのような基準によってニュルンベルク裁判は、ある事実は<公知>であり、別の事実は<公知でない>と決めるのでしょうか。
   答えは法廷自身です。
   ニュルンベルク裁判は恣意的に、理由も説明せずに、ある事実が<公知>であると宣言したのです。そして法廷が自分の意見を述べるにあたっては、いかなる証拠も提示する必要はない許可を、自分自身に与えたわけです。
   その上、ニュルンベルク裁判には控訴をする上級の裁判所が存在しませんから、この裁判はまさに司法義務を踏みにじる全権を保有することになったわけです。裁判官達は秘密審議のうちに、誰の意見も求めず、どの<事実>については証明の必要がないか、選り分けたのでした。いかにも傲慢なやり口です。

   私自身、歴史検証のために、フランス、英国、ドイツ、オーストリア、スイス、そして英語圏カナダの司法家と対峙してきました。彼等は皆揃って、小難しい威張りくさった言葉を使いたがりますが、実際には「これはこうと決まっているからこうなのである」「我々がこうと決めたからこうなのである」という、これ以上ないくらい単純で、鈍重な意見を述べているのに過ぎないことに、毎度のことながら可笑しくてしかたありません。

   けれどもニュルンベルクなる奇天烈な裁判の第二十一条には、さらにもっと驚くべき続きがあるのですよ。よく聞いて下さい。彼等は次のように言うのです。「当法廷は、国連加盟国、また戦争犯罪調査委員会が公式に提出する書類・報告書、また国連加盟国内の法廷が既に下した判決を、正統の証拠と見なす。」
   これ以上図々しいことがあるでしょうか。
   国連加盟国とは、つまり被告を敵国と宣言している国々ですよ。要するにこれは「原告側の主張は自動的に正しいのである。従って被告は口を閉じろ」と言っているようなものです。
   ソ連が提出したカチンの森虐殺に関する書類が、即座にニュルンベルク裁判によって正統な証拠であると認められ、カチンの虐殺(ソ連によれば犠牲者1万1千人!)がドイツ軍の犯行であるという判決が下ったことも驚くに値しません。抗弁を試みたドイツ側弁護士シュターマーとラテルンザーは、ソ連内務省と裁判長ローレンスだけでなく、まるで検事であるかのように振舞うソ連の裁判官ニキチェンコによって沈黙を強いられたのです。

しかしフォリソン教授、ドイツ国内でホロコーストが<公知の事実>(offenkundig) であると言われるのは、ドイツの図書館にはこのテーマに関する書籍が溢れかえっているからです。ですから何故<公知の事実>と呼んでいけないということがあるのでしょうか?
   あなたのおっしゃる大量の書籍というものの正体は、たった一つしかない同一の論理を多様なバリエーションで繰り返しているだけのものです。即ちドイツに勝利した国々の論理です。勝者の掟が敗戦国内で適用されている現状を表わしているのに過ぎません。よく調査してみると、この論理が実際にはまったく立証されていないどころか、この論理が間違っていることを示す無数の証拠が存在することがわかります。

   歴史家にとっては<公知である>ということは、論拠にも証拠にもなりません。太陽が地球の周囲を回っていたことは昔は<公知の事実>でした。皇帝ネロがローマに火をつけたことも、魔女が存在することも、かつては<公知の事実>だったのです。1914年には、連合国側にとっては、ドイツの槍騎兵がベルギーの子供達の手首を切り落としていることが、<公知の事実>でした。そしてニュルンベルク裁判の裁判官達は、カチンの森の大虐殺がドイツ軍に犯行であることが<公知の事実>であると決定したのでした。

つまりあなたのご意見では、ラウル・ヒルバーグとその仲間達は、嘘をついているか、あるいは頭が悪いのですね。
   そうとは限りません。彼等が自分達の語っていることを多かれ少なかれ信じている可能性もあるのです。このことを私は、今回の会議で説明しようと試み、私の発表のはじめに<歴史的噓>について話したのです。
   <歴史的噓>は、日常的な噓と異なり、長い歳月をかけて成長していくうちに、いつの間にか歴史上の<一般事実>のようなものになっていくのです。人々は、もともとは噓でしかないこの事実と呼ばれるものを、正直に信じているのです。こうした人々は不正直というよりは、順応主義や怠慢、知的好奇心の欠如から罪を犯しているわけです。このような欠点は、人間というものがそもそも不完全であるために存在するものですね。私達は日々すべての物事をひたすら確かめながら生きるわけにはいきません。それはあまりに骨が折れます。そのために往々にして目を瞑ったまま、これは良い物だ、本物だと世間が保障する製品を、実際にはそれが不純物であっても、がぶがぶ飲み込んで満足しているのです。

つまり彼等が<善意の人>かもしれないとおっしゃるのですか。

   その質問にお答えするには、人の心や腹の内を読み取る術が使えなければいけませんね。彼等がそれぞれ、どれくらい自分の言っていることを信じているのかは、私の知るところではありません。しかしそれとは別に私が知っていることがあります。世の中には、<敬虔な噓>と呼ばれるもの、つまり<善行>のためにつく噓というものが、頻繁に横行しているのですよ。
   この<善行>は、政治的なものであることもあれば、宗教的なものであることもあります。また特定のグループ、組織、人々の利益のためであることもあります。このような”敬虔な”嘘をつく人は、事細かなディテイルや具体的な数字にたいして気を遣いませんし、人の気に入る証言を平気で行ないさえします。常に正確であり続けなければならないための配慮というのは、大きな重圧です。私はこうした不安による重圧や、人が安心感を求める欲求を信じます。私達の行動のかなりの部分が、こうした重圧や欲求の力に司られているのではないかと思います。
   とはいうものの、<ホロコースト論>を擁護する人々の中には、札付きの嘘つきもいるものです。彼等は歴史検証主義者によって、何千回と現行を抑えられてきました。サイモン・ヴィーゼンタールとエリー・ヴィーゼルは、極めつけの偽証者です。
   それから山師タイプもいます。例えば既にお話したユダヤ系オーストリア・アメリカ人の歴史家ラウル・ヒルバーグ。
   ヒルバーグについてはもう一度詳しくお話する価値があります。
   彼は<絶滅政策神話>を布教する歴史家の<ナンバーワン>です。彼が<ヨーロッパユダヤ人の絶滅政策>と呼ぶものに関する研究は1948年に始り、彼の著書『ヨーロッパユダヤ人の絶滅』The Destruction of the European Jews は、1961年に出版されました。
   この版の177頁で彼は、ユダヤ人を絶滅させよというヒトラーの命令は、二回発せられたと、堂々と断言しているのです。最初の命令は1941年春のもの。内容は、“ソ連国内のユダヤ人をその場で殺しに行け!”と言う命令だったそうです。それから間もなく(詳細な日付けはなく)、二度目の命令が発せられ、”ヨーロッパのユダヤ人を全員、絶滅収容所に送れ”とあったそうです。
   しかしヒルバーグは、ソースも、資料も、二つの命令の原文も、詳細な日付けも挙げていないのです。それにも拘わらず、誰一人それに対して疑問を発することなく、すべての歴史家がこぞって、ラウル・ヒルバーグこそ歴史の第一人者であると見なしたのです。ヒルバーグは本当は、我々に押し付けられている<公式の真実>を擁護する歴史家の<ナンバーワン>だったのです。

ラウル・ヒルバーグがその後態度を変え、1961年の解釈を放棄したことをどのように説明されますか。
   1970年代後半に歴史検証主義者達は大反撃を開始しました。ヒルバーグは明らかにこれにショックを受けたようで、1982年にフランスの『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌で次のように宣言したのです:「ある意味で、フォリソンとその仲間達は、彼等の意に反して、我々の役に立ったと言えます。彼等が呈した疑問のおかげで、歴史家達は、さらに研究を進めることができました。我々がますます情報を収集し、資料を再検証し、起こったことをよりよく理解することができるように、彼等は我々の背を押してくれたのです。」

   この記事が発表された当時、私達はまだ、ヒルバーグが歴史検証主義者達の攻撃に屈し、研究を再開し、ヒトラーの二つの命令なる彼の理論を徹底的に見直すことになったとは、知らずにいました。 

   1983年、ニューヨークでの講演で彼は突然、奇妙極まりない新たな理論を発表しました。本来ならば、歴史学界における彼の名声を永久に失墜させるべきような理論です。
   ヒルバーグの新たな説によれば、ヨーロッパ全土における全ユダヤ民族を絶滅させるというとてつもない計画を実行するためには、ドイツには実は命令も、計画も、予算も一切なかったそうです。ドイツの官僚達は、暗黙の了解と自発的な策略なるものによって、絶滅計画を実行させていったのです。

ラウル・ヒルバーグの言葉を正確に引用しましょう。

« But what began in 1941 was a process of destruction not planned in advance, not organized centrally by any agency. There was no blueprint and there was no budget for destructive measures. [Those measures] were taken step by step, one step at a time. Thus came about not so much a plan being carried out, but an incredible meeting of minds, a consensus-mind reading by a far-flung bureaucracy »

(しかし1941年に始ったのは、事前に計画されたものではない、いかなる中枢機関による組織もない絶滅プロセスだったのである。絶滅措置を指示する青写真も予算も存在しなかった。[措置は]段階的に、一時に一段階ずつ実施されていった。これは計画を実行に移すという形で行なわれたのではなく、大規模なドイツ官僚システム内における官僚同士の心中の合意による信じ難い以心伝心によって行なわれたのである。)


   ヒルバーグが予算のなかったことをわざわざ断っていることに気づかれましたか。これは私自身が彼に持ちかけた議論に対する返答です。私は彼に、とりわけ戦時下においては、何一つ予算なしに実施されることはないと指摘し、ヨーロッパのユダヤ人の大量殺戮キャンペーンと言われるものにはどれほどの大予算があてがわれたのか見せて欲しいとお願いしたのです。
   つまりラウル・ヒルバーグはここで、我々の詰問から逃れるために、度肝を抜く<説明>を試みているのですよ。
   まとめて言えば、ヒルバーグは、この一大犯罪計画なるものが、“聖霊”だか自然現象だかの力を借りて行なわれたのだと主張しているのです。彼自身、無数の官僚の間で「信じ難い」以心伝心が起こったと言っているのですが、「信じ難い」と自分で形容するものを、他人に信じろと強要するとは、なにごとでしょう。しかも信じなければ法的に罰され、投獄されるのですよ。以心伝心とはそもそも超常現象以外のなにものでもありません。そんなものを私達は信じる必要はないはずです。

   トロントで開かれた[エルンスト・ツュンデルに対する]法廷で、ラウル・ヒルバーグが宣誓付きで、彼の<ヨーロッパのユダヤ人絶滅>解釈を説明した後、ツュンデルが毎晩、裁判が終わった後に、私達を招待してくれた会食の場では、冗談が飛び交いました。私自身はこんなことを言いました。「新しい時代の始まりだ。今後は、塩や水を取って欲しい時、言葉を使わなくてもよくなった。皆で<信じ難い以心伝心>と<互いの心中の合意>を実践しようではないか!」
   どこの国の官僚よりも鈍感だと評判のドイツの官僚に使えた術が、私達に使えないわけがありません。

   ツュンデルに対する裁判が進行している最中に印刷中だったラウル・ヒルバーグの著書の改訂版では、さすがに上記のとんでもない表現は使用されていませんでしたが、彼は凝った学術用語を駆使して同じ内容を繰り返していました。「最新の分析によれば、ユダヤ人の絶滅は指令を敢行するという形で行なわれたのではなく、暗黙の了解、精神の協和と共時態の結果として起こったのである。」

フォリソンさん、第二次世界大戦中にドイツ人の責任によって亡くなったユダヤ人の数はどれくらいだとお考えですか。そのうち何人が強制収容所で亡くなったのでしょうか。そして具体的にどの収容所ででしょうか。それはガス室やガス室を搭載したトラックによるものでしょうか。
   ガス室やガス室を搭載したトラックの中で殺されたユダヤ人は、一人もいません。こうした大量破壊兵器は、実在した痕跡が発見されたことは一度もなく、またその技術的機能も誰一人説明できないものです。あちこちの収容所で観光客に見せられるガス室だとされるものは、実際にガス室だったことは有り得ない代物です。このテーマについて私は既に何度も話しているので、ここではこれ以上立ち戻りません。私達の論敵は、未だにガス室の機能を説明する技術的・科学的鑑定を提出することを頑なに拒否し続けています。

   一方、第二次世界大戦中にドイツ人の責任で亡くなったユダヤ人の数は、今のところまだ特定することができません。それは連合国とイスラエルの態度が原因で、これはまさにスキャンダルです。
   膨大な量の古文書が、ドイツのバード・アロルセンの国際捜査局(International Tracing Service, ITS) に保管されているのですが、彼等は頑としてそれを公開しません。時たま、もうすぐ研究者に公開されるという噂が流れ、ユダヤ人やシオニスト団体が公開を要求していると言われるのですが、そんなことを信じてはいけません。

   ただこのテーマには私自身も非常に興味を持ってきたので、次のことは申し上げられます。もしもバード・アロルセンに保管された資料が、すべての研究者に対して何の規制もなく完全公開されたとしたら、<ホロコースト論者>は大打撃を受けること間違いなしです。
   ドイツ第三帝国の行政責任者達が当時、いかに綿密に記録を行なっていたかが明らかになるでしょう。彼等は、各収容所の捕虜の数、そのうちのユダヤ人と非ユダヤ人の数、それぞれの捕虜の到着日、出発日、入院していればその状況、彼等がどんな労働に従事したか、どの収容所からどの収容所に移送されたか、また死亡した場合はその状況について、事細かに記録していました。ですから、それぞれの火葬炉で火葬された遺体の正確な数、また戦争を<生き延びた>ユダヤ人の数、つまり戦後世界中に拡散し、イスラエルの人口の大きな部分を占めることになった<奇蹟の生還者>と言われる何百万人のユダヤ人の数が判明するでしょう。

   バード・アロルセンの古文書に歴史検証主義者達が興味を持ち始めたのは1970年代後半のことなのですが、当時ITS内に存在していた歴史部署は、1978年に突然閉鎖されてしまいました。私は、同部署の再開と、あらゆる研究者にすべてのアーカイブを閲覧する許可を要求してきています。

   しかしあなたの質問は、ドイツ人の責任で亡くなったユダヤ人の数でしたね。今のところ、それは誰にも特定することができません。自然死した人、ドイツ人あるいは連合軍の責任で亡くなった人をまずは区別することから始めなければなりません。

   ところで私が注目するのは、とにかく戦争を生き延びたユダヤ人の数の多さです。その数こそまさに、すべてのユダヤ人を殺戮する政策など存在したはずがなかった手掛かりになるとさえ言えるでしょう。

   2004年4月18日、イスラエルの新聞『ハーレッツ』のレポーター、アミラム・バルカットは、「ホロコースト生存者は誰かを議論するアメリカ法廷」というタイトルの記事を公表しました。その中で彼は、二人のユダヤ人人口統計学者が、2004年の時点で結論したユダヤ人生存者の数を報告しています。一人は68万7千9百人、もう一人は109万2千人としています。二つの結論の差は、後者の専門家が、北アフリカ、シリア、そしてレバノンのユダヤ人人口を加えたことから来ています。これらの国は、ある時期ドイツやイタリア、あるいはヴィシー政権の占領下にありました。
   私は少ない方の数字を使用することにします。68万7千9百人のヨーロッパユダヤ人が、ドイツ軍による占領を生き延び、戦後六十年を経て未だに生きながらえているわけです。このことから、戦争直後のユダヤ人生存者数は、数百万にのぼったであろうことが推測されます(おそらく325万人と考えられます)。
  いったい数百万人もの奇蹟の生還者を生んだ絶滅計画とは、どんな計画なのでしょう。戦争直後、ヨーロッパ人達は、永遠に消滅したと言われていたはずのユダヤ人が方々に溢れ返るのを目にして仰天したものでした。彼等を受け入れる施設はたちまち満杯になりました。特に中央ヨーロッパから汽車で運ばれたり、ホームに保護されたりしたユダヤ人の子供達の写真は、山のように存在します。そして彼等は同時代の非ユダヤ人と、なんら変わらない体格をしていたのですよ。
   フランスに関して言えば、当時およそ35万人いたユダヤ系住民のうち、主に外国から移住してきた7万5千721人のユダヤ人が、強制収容所に送られたことがわかっています。しかしそのうち何人が生き延びたのかは、明らかにされません。生還したのはわずか2500人と時おり言われますが、これは何重ものインチキの結果出された数字で、今ここでその一つ一つのインチキを暴露する時間はありません。私はすでに別の場でそれについては説明したことがあります。
   戦争直後のフランスに住んでいたユダヤ人の数がいかに多く、彼等の共同体が活気に満ちていたかを知るには、パリのImpress社が出版した『ユダイズム年鑑』の閲覧をお奨めします。1952年の年鑑は、パリと世界のユダヤ人社会の状況を415ページにわたって描写しています。これは本当に参考になりますよ。この巻だけでも、電話番号と住所が記載されているユダヤ人団体の数は膨大です。
   その上、後から後から湧いてくる<奇蹟のユダヤ人生還者>達の作品、回想録、証言集の山をご覧ください。次から次へと請求される賠償金の数については言うまでもありません。

しかしドイツでは、絶えず600万人のユダヤ人犠牲者と繰り返されます。500でも700でもなく、必ず600万人です。
   ドイツのマルティン・ブロースツァートのような順応主義的歴史家でさえ、はるか以前からこの数字が「象徴的な」もの、つまり神話的なものであることを認めています。これはユダヤ象徴学に帰属する数字だと、私は付け足しておきましょう。
   2003年にドン・ヘデスハイマーが出版した『最初のホロコースト』(The First Holocaust) という研究を読んでごらんなださい。著者は裏付けとなる新聞の複写を1900年まで遡って紹介しています。当時ユダヤ系アメリカ人の新聞が「600万のヨーロッパユダヤ人が死んでいく」と言うスローガンを掲載したものです。実際にはさらに古くに遡ると考えられます。本書は1900年、 1919年、 1920年、 1926年、 1938年、 1940年のプレスから同様の例を引用しています。この数字はユダヤ人の間で、ライトモチーフ化していたのです。

   イエルサレム、ヤド・ヴァシェム記念館の専門家たちは、しばらく以前、<ホロコースト>の犠牲となった600万人の名前を列挙する企画を立てました。結局300万人までしかたどりつかなかったようですが、基本的に大部分がソースの確認されない、真偽の検証されていない申請によるものなので、同じ人間が何度も死んだかのように記録されることすら可能です。最高十回も死んだ人間がいるとの話です。このテーマについてはオランダで出版されたDubitandoとう雑誌に掲載された研究の閲覧をお奨めします。

でもドイツ人、またはドイツの同盟国の責任によって亡くなったユダヤ人の数はどれくらいだとあなたはお考えですか。

   その質問に関しても、バード・アロルセンの国際捜査局に赴かれることをお奨めしますが、1978年以降は許可を得た歴史家以外は入室が拒否されるようになりました。

そうかもしれませんが、アウシュヴィッツで亡くなった人の数を是非挙げてください。
   突拍子もない死亡者数の中でも、最も知られているのは400万人ですが、公式と言われた数値にさえ、もっと多いものがありました。それは、ニュルンベルク裁判が採択したものです。そしてその数がアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の石碑に刻まれ、1990年まで保持されました。五年間迷った後、1995年、この数字は突然削除され、150万人に書き換えられました。これは当時のポーランド共和国大統領L・ワレサが選んだ数字でした。しかしその後、アウシュヴィッツ博物館責任者や公式の研究者はさらにこの数字を110万、80万、そして60万ちょっとに減らして行き、2002年にはとうとう51万(フリトヨフ・マイヤー)にまで下がりました。

   私個人は、アウシュヴィッツ強制収容所がドイツの管理下で機能していた1940年5月から1945年1月の期間に、この広大な複合施設に設けられた合計39箇所の収容所で亡くなったユダヤ人及び非ユダヤ人男女の総計は、およそ12万5千人ほどではないかと推測します。ほとんどの死因は、ドイツ人員の間までその猛威をふるった感染症、チフスです。特に収容所の医療班の被害は大きく、ポピエルシュ博士及びシュヴェラ博士の二名の医師がチフスで亡くなっています。
   およそ12万5千人が死亡したのではないかという私の推測は、死亡記録簿とその他幾つかの資料に記録されたデータから出しました。それらによると死亡者の合計は8万10人なのですが、死亡記録簿に何冊か欠けている号のあることがわかっているため、死亡者の全体数はおよそ12万5千人に達するのではないかと思います。一方、ときどき挙げられる7万4千人という数は、報道上の誤りから来ているようです。

アウシュヴィッツの医師の話をされましたが、メンゲレ博士について何かお話していただけることがありますか。
   メンゲレ博士については、私自身、調査を行ないました。ですから、ヨーゼフ・メンゲレという人物が、おそらく彼の同時代人のなかでも最も手酷く中傷された人であることは、まず間違いないと思います。おそらくギュンツブルク市の同時代人が彼のことを<騎士>と呼んでいた通り、名声に値する人だったと考えられます。私は彼の残した(非公開の)草稿を垣間見ることができたのですが、そこに現われるのは、ラテン・ギリシャ文化に精通し、科学に熱中し、あらゆることに好奇心を持った人間像です。彼はごく親しい人達には、ガス室が純粋な空想の産物であることを打ち明けていました。
   イエルサレムで彼に対して<死後裁判劇>が行われ、世界中でTV公開されたとき、彼の<犠牲者>だと自称する人々が登場して、あることないこと最悪のデタラメを彼になすりつけたものでした。この<犠牲者>なる者達によれば、メンゲレ博士は、医務室の壁に人間からえぐり取った目をピンセットで飾ざったり、<実験台>になる人間の目に、瞳の色を黒から青に変える酸を流し込んだりしていたそうですよ。まったく医学上の残虐行為についての作り話くらい、それも白衣の<ドイツ人博士>が主人公の場合ほど、人々の想像力のハメの外し方が留まるところを知らない分野はありません。好き放題、どんな残虐行為でも、素人の視聴者に信じ込ませることができます。

   このテーマに関しては、デーリング事件について二人のイギリス人弁護士が書いた著作を読むことを是非ともお奨めします。(Mavis Hill & L. Norman Williams, Auschwitz in England, a Record of a Libel Action, London, MacGibbon and Kee, 1965 ; 『イギリスのアウシュヴィッツ、デーリング事件』、カルマン・レヴィ社、1971年 / Auschwitz en Angleterre, l’Affaire Dering, Calmann-Lévy, 1971).

    1959年、レオン・ウリスというユダヤ人が、Exodus というタイトルの本を書き、その中で、自分がアウシュヴィッツの捕虜だった時代、ポーランド人外科医のヴラディスラヴ=アレクサンダー・デーリング(ウリスはDehring と表記している)が、1万7千人の女性に、麻酔なしで外科実験手術を行なったと、平然と書いたのです。いいですか、1万7千人という数字と「実験」という表現をよく覚えておいてください。
   W・デーリングという医師は、戦後イギリスに渡った後、ソマリアで医療に従事し、再びイギリスに戻って、大英帝国勲章オフィサーの称号(O.B.E.)を授与されました。これはフランスのレジョン・ドヌール勲章に匹敵するものです。

   デーリングは、ウリスと彼の出版社を名誉毀損で訴え、1964年4月13日から5月6日にかけてロンドンで裁判が行われました。この裁判の間、特にデーリング医師が勤務していたアウシュヴィッツ第21棟で施行された外科手術に関する記録簿が発見されたおかげで、素晴らしい数の噓が暴かれることになったのです。被告弁護側は、彼等がデーリング医師が手掛けたとする手術の数をどんどん減らしていかざるを得ない羽目に陥りました。「女性達」という記述は「男女」に訂正され、「1万7千人」は、とりあえず「大勢」と言い換えられました。それから「百回と二百回の間」になり、最後には「三人の女性」にまで萎んでしまったように記憶しています。しかもその女性達には名字はなく、名前しか挙げることができなかったのです。そのうえ、手術は麻酔なしで行なわれたのではなく、「脊髄くも膜下麻酔」が適用され、イギリスの高名な麻酔医師が、このタイプの麻酔の選択が正しかったことを、デーリング博士のために証言しました。
   一大センセーションは、デーリング博士が、1943年8月以後の手術記録が、保持者のポーランド人によってでっち上られたものであることを証明してみせたことでした。というのもこの時期からデーリング博士は第21棟にもはやおらず、手術は行なわれなくなっていたからです。
   アウシュヴィッツのドイツ人達の手術記録は綿密で、その一部にはラテン語が用いられ、確か« casus explorativus »という記入がありました。これは「大事を取って」行なわれた手術のことだったのです[訳注:これが実験と曲解された]。
  あと一歩でデーリング博士は裁判に勝利し、いくばくかの賠償金と利子とを得ることができるはずでした。ところが裁判長は、酷い中傷を受けたはずのデーリング博士が、高額の全裁判費用を負担しなければならないこと、そして控訴の権利のないことを、仰々しく告げたのです。その理由は、裁判を通じてデーリングの頭上に<アウシュヴィッツ>と<ガス室>の影がつきまとい、裁判長自身からも何度も喚起され続けたことでした。裁判後、デーリング博士は「私は破産してしまったが、私の名誉は守られた」と語り、その後、間もなく亡くなったと記憶しています。

しかしそれなら、虐殺されなかったユダヤ人はいったいどこに行ったのですか? という質問がされると思うのですが。
  「パレスチナと、その他世界中の五十カ国」というのが、私の答えです。五十の国名リストを挙げてご覧に入れることもできます。今日イスラエルに住む約六百万のユダヤ人の多くが、彼等が<ホロコースト>と呼ぶものの<生還者>、または、生還者の子孫です。ちなみにスティーヴン・スピルバーグが、五万の<証言>を収集する大計画を立て、世界五十カ国に捜査員を派遣しました。この五十カ国が、戦後、ユダヤ人達が散っていった国の数です。

今回の講演者の中には、ドイツ国防軍が東部侵攻を始めた時、多くのユダヤ人が逃亡するか、またはソ連に移送されたと主張した人々がいましたが、どのようにお考えですか。
   その通りです。しかし例えばウズベキスタン(タシケントやサマルカンド市)、タジキスタン、あるいは ビロビジャンのユダヤ自治州に、何人くらいのユダヤ人が移住したのかを特定するのは、今はまだ難しい状況です。

強制収容所の生還者の殆どが、ガス室が存在したことを保証できると主張する事実をどのように説明されますか。
   彼等は耳にした噂話をただ繰り返すだけで、英雄だとか奇蹟の人というステータスを労せずに勝ち取ることができるからです。しかも通常、そうすることには何の危険も伴いません。というのも、詰問され、説明を求められる可能性はほとんどないからです。
   私はある裁判で、過度に興奮したユダヤ人に聴取室の入り口で遮られ、アウシュヴィッツで腕に受けた登録番号の入墨を見せつけられながら、「ガス室が存在しなかったなどと、どうしてほざけるのだ。私がその存在の証人だ」と言われました。私は彼の目を見返して、「それではガス室がどんなもだったか、描写してください」と答えました。彼は落ち着きを失い、「私がガス室を見ていたら、この場に来ることなどできなかったさ!」と答えました。そこで私は、そういうことなら証人を自称するべきではないと、指摘しました。本当はさらに、アウシュヴィッツから生還したすべてのユダヤ人と同じく、今この場に生きて立っている彼こそが、むしろドイツにはユダヤ人を物理的に絶滅させる政策が一度も存在しなかったことの証人になると付け足すこともできましたが、それはしませんでした。

   1985年、エルンスト・ツュンデルに対してトロントで最初に行なわれた裁判の際、<ホロコースト>の証人を自称するユダヤ人の中でも<ナンバー・ワン>の男、ルドルフ・ヴェルバを反対尋問できるという稀な機会に私達が恵まれたことを、思い出していただきたいです。裁判の議事録をご覧になれば、いかにこの傲慢な男が追い詰められ、何よりも正確で詳細であるという評判だった彼のアウシュヴィッツについての本が、<詩法上の破格語法>を用いて書いたものであることをとうとう告白せざるを得なかったかがわかります。彼は、«licentia poetarum»(詩法上の破格語法)と言うラテン語を引っ張り出したのですよ。

<アウシュヴィッツ(またはビルケナウ)のスロープ>と呼ばれている場所で選別されたユダヤ人の運命はどのようなものだったとお考えですか?
   そこでは、片側に男性、もう片側に女性と子供とが分けられました。彼等は整列して、ある者は徒歩で、別の者はトラックで、シャワーを浴び、殺菌を受けるためにサウナ室に向わされました。有名な『アウシュヴィッツ・アルバム』と呼ばれるものに掲載されている写真に、スロープに人々が到着した光景が確認できます。
   これと同じ区域、スロープのすぐ隣りにサッカー場(スポーツ広場)があり、収容所に到着した人々の目にも入ったはずです。その他にバレーボールのコートや、非常に多くの男性用と女性用の病棟がありました。また小庭に挟まれた大きな火葬炉が二基あったのもこの区域で、どこからも目にすることができました。それから廃水処理用の大きな貯水槽、シャワーと殺菌施設、それにどこの収容所や監獄でもそうするように、新参者から到着時に没収する私物を保管するための広い倉庫がありました。

1939年1月30日ベルリンのクロール・オペラでアドルフ・ヒトラーが行なった演説をどのように解釈されますか。ヒトラーは文字通り次のように宣言しました:「もしヨーロッパ内外の国際金融界のユダヤ人社会が、ふたたび人々を世界戦争に追い立てることに成功するのであれば、その行き着くところは世界のボルシェヴィズム化とその当然の帰結としてのユダイズムの勝利ではない。ヨーロッパユダヤ民族の消滅である。」
   戦争前に行なわれたこの演説は、ユダヤ民族の物理的絶滅とはまったく関係ありません。ヒトラーは、戦争を焚き付け、何が何でもドイツに対する聖戦を望んでいる勢力に対して、ある種「甘い夢を見ない方がいいぞ。お前達が戦争を起こすことに成功しても、抹殺されるのは我々ではなく、我々の敵である共産主義者とユダヤ民族だ」と応じているようなものです。
   ヴィルヘルム・シュテーグリッヒが『アウシュヴィッツ神話』の中で行なっているこの宣言の分析をご覧になることをお奨めします。シュテーグリッヒは同様に、ハインリッヒ・ヒムラーが1943年、ポーセンで行なった演説も分析しています。ある者はこの演説に「秘密の」といういかがわしい形容詞を付けて呼んでいます。ヒムラーは戦前から戦中、そして戦争の最後の数ヶ月にいたるまで、連合国に、彼等がどうやら素晴らしいと考えているらしいユダヤ民族を引き受けてくれるよう説得を続けていました。

つまり他の歴史家の解釈とは違って、あなたにとってこのヒトラーの演説は、彼がユダヤ民族の絶滅を意図していたという証拠にはならないのですね。
   もちろんなりません。そもそも今ではそんな解釈をする歴史家はもはやいなくなったと思いますよ。

それではアドルフ・ヒトラーの政治的遺書は、どう解釈されますか。例えばこんなことが書いてあります:「この件については私は一抹の疑問の余地を残していない。金と金融世界の国際陰謀家達が、ヨーロッパ民族をただの株式証券の束であるかのように扱うのであれば、この殺戮劇の真の責任者である彼等は、いずれその代価を払うことになるだろう。つまりユダヤ民族のことだ。ヨーロッパ・アーリア民族の子供達を数百万という単位で餓死に追い込み、成人男性数百万の命を奪い、何万もの女子供達を都市の爆撃で焼き殺した責任を負うこの民族を、どのような運命が待ち受けているのか、私は隠したりしない。たとえずっと人間的な手段によるものだとしても、必ずや責任者は、罪滅ぼしをすることになるだろう。」

ここでヒトラーが言う「ずっと人間的な手段」こそが、「ガス室」を意味しているのではないですか。
   それはただの邪推というものです。ヒトラーがこの文に署名をしたのは1945年4月29日、つまり自殺の前日です。(ちなみに“正史”によれば、<ガス室>は1944年11月末以後は使用されていないことになっていることも指摘しておきましょう)。この時ヒトラーが目前にしているのは、壊滅した祖国の惨憺たる光景と、日々計画的に白リン弾で焼き殺される老若男女の姿です。この非人道的な戦争の責任者に対して彼は、その罪を償わねばならない日が来ることを誓ってはいますが、それはいくらなんでも、連合国が使用したような残忍で非人間的な方法にはよらないだろうと断っているのです。

   残虐の極みとは、生きたまま人間を焼き殺すことです。1940年から41年にかけて、今後はドイツ市民を計画的に戦争攻撃の対象とすることに決定し、ドイツの都市を爆撃する目的のための爆撃機の製造を開始したのは、チャーチルを首長とするイギリス指導部です。それまで軍は、軍を相手にしか攻撃を行なっていなかったのですよ。そして市民が巻き添えになって命を落とした場合には、それが軍事行動(例えば戦略的爆撃)に際した二次的被害であると、真偽のほどはわかりませんが、遺憾の意を表明したものでした。
   イギリス“紳士”達は、戦闘法を一新させたわけです。彼等は一方では、市民を計画的に虐殺することで軍を屈服させ、他方ドイツ軍に対しては<卑怯者の戦法>を用いました。つまり非正規軍兵士や<レジスタンス>を煽動し、彼等を支持したのです。
   敵兵を殺すために自爆をするのであれば、勇気もいることでしょう。しかしこっそりと背後で行動しては、そそくさと逃亡する非正規軍兵士には、勇気など必要ありません。しかもその結果として血生臭い報復が、多数の無実な人々に対して行なわれることを承知のうえです。それに続いて、ソ連軍の野蛮とアメリカ軍の乱暴が加わったわけです。
   ヒトラーの目からすれば、ウォール街の資本主義者とモスクワの共産主義者がその本質に反して手を組んだのは、ドイツ国民に対する決然たるホロコーストを行なう目的があったからなのです。相反するこの二つの勢力の契約によって世界中のユダヤ人が連帯しました。彼等はとりわけアングロ・サクソン系の金融界とメディア界、そして国際共産主義世界で、多大な力と影響力を持っていましたからね。
   ヒトラーの「ずっと人間的な手段」という言葉が、ガス室が存在した証拠だという説は、私は以前ドイツの歴史家エルンスト・ノルトからも授かった経験があります。彼等のような歴史家が、他になんら確かな証拠を持っていないことをよく表わしています。

ベルリン、ヴァンゼー湖畔会議の議事録は、ユダヤ人絶滅計画が存在したことを証明していませんか。

   全然。
   日付けもなければ、書名もない、押印ひとつないこの書類は、1942年1月20日にベルリンで開催された会議の議事録下書きのように見えます。この中では一度たりとも、ユダヤ人を殺す、あるいは絶滅させることは語られていません。議論されているのは、労働能力のあるユダヤ人を東部に避難させ、そこで就労させること、その一方で、六十五歳以上の老人は、ボヘミアのテレージエンシュタットに移住させるということです。
   この書類の随所に「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題に関する最終解決策」という表現が登場し、時折「ユダヤ人問題の最終解決策」、あるいはただ「最終解決策」と短縮されています。しかし元の完全な文章は「ユダヤ人領土問題に関する最終解決策」(ヨーロッパにおけるユダヤ人問題という了解の下)だったのです。
   マルティン・ルターと言う大三帝国外務省次官補が、この表現を彼の有名な1942年8月21日の覚書の四ページ目で使用しています。「領土上の」という形容詞は、ユダヤ人占有の領土をつくることによって、ユダヤ人問題を解決するべきであることを意味しているのです。その他のあらゆる方法は不適格とされました。
   というのも戦後、もしも例えばヨーロッパのユダヤ人がふたたび解放されることになるのなら、彼等はたちまちその力と影響力を取り戻すでしょうし、歴史が我々にそれが現実であることを教えてくれています。一方で、彼等をどこかヨーロッパ圏外の土地に永久に移住させれば、その試練に生き延びることのできた者達は、やがてユダヤ民族蘇生の芽となるエリート層を構成することができるでしょう。ですからこれを、ユダヤ民族を絶滅させる計画と見なすのは、まったく馬鹿げています。
   イエルサレムのヘブライ大学イエフーダ・バウアー教授でさえが、1992年、とうとう「ヴァンゼー湖畔の馬鹿げた物語」と表現したくらいです。「世の中では未だに何度も何度も、ユダヤ人絶滅計画はヴァンゼー湖畔で決定されたという馬鹿げた話が繰り返されている」と、彼は言い放ったのです。

人によってはユダヤ人が何人ドイツ人に殺されたかは問題ではないと言います。600万だろうが200万だろうが50万だろうが、重大な犯罪には変わりないと。
   その考え方はとても広まっていますね。
   ドイツには一度たりともユダヤ人絶滅政策が存在したことがなかったと説明して差しあげたことで、私はすでにその質問の根本にはお答えしていると思います。

   それはさておき、数には意味がありますし、その意味は、非常に大きいこともあります。
   まず第一に、死ぬことと殺されることとは大違いです。次に、大量の人間を虐殺することは、たった一人の人間を殺すことに比べて遙かに重大です。そして600万人と50万人の差は550万人ですから、この550万人の人間が、死にも殺されもせずにしっかり生き延びているという重要な事実が少なくともあるわけです。
 
  そもそもある少数派の共同体が、計画的に600万人(これはスイスの人口に等しい数ですが)の仲間を始末されたと世の中に信じさせることができれば、50万人が死んだ、または殺されたと言うよりも、遙かに大きな同情を得られることは確実です。600万人の仲間が死んだ、殺されたと言うことによって、この共同体は、ずっと多くの道徳的共感、経済援助、それに様々な影響力や特権を要求し、獲得することができるのです。少数民族にとって、600万回多くの殺人を被ったと主張できるということは、大して苦労もせずに何十億という現金を要求し、受け取ることを可能にするのです。
   600万人の犠牲者を出したホロコーストは、その数に比例して、<ホロコーストビジネス>という金の成る木を保障してくれるのです。私はここで、人々が、金や利権欲しさから嘘をついたり、大袈裟な話をしたと言っているのではありません。人々はまず嘘をつき、続いてその噓から利益を引き出しているのです。

ドイツは、イスラエルとユダヤ人に対して道徳的責任を持ち、それに対して経済的に賠償を行なう義務があるとお考えですか。
   私はむしろ歴史検証主義者の<ナンバー・ワン>であるアメリカのアーサー=ロバート・バッツと意見を共にします。彼はその傑作『二十世紀の大デマ』の最後のページを締めくくるのに、ドイツが支払った<途方もない額>の賠償金についての次のように書いています:

「イスラエルは(結果として)ドイツに多額な借金を負っているわけだ。我々が立証してみせたように、賠償金を受け取る正当な理由などなかったわけだから。」

   注目すべきは、この本の独訳版では、この部分はだいぶ手直しされてしまって、残念ながらこれほど明白な表現はされていないことです。

 第二次世界大戦を生き延びたユダヤ人は、賠償金を受け取る資格があるとお考えですか。
   この残虐の限りを尽くした戦争と、その結果起こった事態の本当に犠牲となったあらゆる人々は、敬意と配慮、そして賠償を受ける資格があります。この犠牲者の中でも私は、とりわけドイツ人、それも指導者ではなくドイツ市民と、すべてのパレスチナ人を挙げたいと思います。

あなたは反ユダヤ主義者、つまりユダヤ人の敵ですか。
   反ユダヤ主義かとおっしゃるのなら、違います。私はユダヤ人に対して何も悪いことは望んでいませんから。反ユダヤ主義であるとは思いません。彼等の泣き言がますます増えるのを聞きたくないという理由からであったとしても、彼等が髪の毛一本でも触られることを、私は望んでいません。

   それとは別に私が望んでいるのは、彼等が、私や他の人々に害を及ぼさないことです。彼等がホロコースティック・プロパガンダのために、耳の痛くなるほどのドンちゃん騒ぎを続けるのをいいかげんに止めて欲しいと、切望しています。そのドンちゃん騒ぎの裏には、あまりに頻繁に、彼等の戦争への鼓舞が隠されているからです。<ホロコースト>の名において、つまりはひときわ低劣な噓の名において検閲と弾劾を要求し、聖戦と進軍を煽るシオニスト及びネオコンのユダヤ人特権階級ほど、うるさく泣き言を言いながら、好戦的な者はありません。

あなたは人種差別主義者ですか。
   いいえ。

<ホロコースト>にどのような将来をお望みですか。
   この言葉が、ユダヤ人の物理的絶滅政策及びナチスのガス室、そして600万の犠牲者と呼ばれるものを指すのならば、一刻も早くこの忌むべき中傷行為が、歴史学の廃棄場に捨て去られることを望みます。

   大学者として私は、ユダヤ人特権階級の要求によって制定された特別法の執行を恐れることなく、第二次世界大戦について書くことができることを望んでいます。ヒトラーが死んで六十年が経つのにも拘わらず、ヒトラーについて書くことは<厳重に禁止>されているのですよ。書くことが許されているのは<ヒトラーに対して>だけです。これは幼稚ですし、幼児化でもあります。ナポレオンやチャーチルやスターリンについて書くことができるのと同じように、ヒトラーについて書く権利が与えられることを望んでいます。

何かまとめの言葉がおありでしょうか。
   私のまとめの言葉は次のようなものです。
   
   私達は今、12月11、12日に<ホロコースト>をテーマに開催された会議の翌日、テヘランにいます。これは本当の意味での国際的な会議でした。会議には特に歴史検証主義者が集まりましたが、反検証主義者も何人か参加しました。あらゆる人に門戸が開かれていました。
   ラウル・ヒルバーグとノーマン・フィンケルステインが参加し、発言をしなかったのが私たちには残念に思われます。フィンケルステインは、歴史検証主義者のことを<気違い>(crackpots) だと言っています。もしフィンケルスティンが参加していたなら、何故私個人がそのような形容詞を付される目に遭わなければならないのか、そして彼はいったいどの著作を読んだ結果、著者に対してそのような判断を下すことになったのか、たいへん丁寧に問い正したかったです。

   この会議が閉会するにあたって、<ホロコースト>に関する研究及び考察グループが結成されました。グループのリーダーは、イラン人ラミン博士で、メンバーは今のところ五人です。オーストラリア人一人、イギリス人女性一人、デンマーク人一人、フランス人一人、それにスイス人一人です。

   2006年という年は、イラン史だけでなく、世界の歴史に残るでしょう。この年、イランという驚くべき国は、アメリカの帝国主義のみならず、<ホロコースト十字軍>をも拒否する英断を下したのです。これほどの英雄的行為に私は不安を覚ざるを得ないことを正直に申し上げましょう。アハマディネジャード大統領はこの勇断に対して、高い代価を支払わねばならないことになるかもしれません。

大統領と話されましたか。
   ええ、大勢の他の参加者のいる中、一対一で数分の間、話すことができました。私は大統領の勇気に対する感嘆の念と、検証主義者にも非検証主義者にも開かれたこの驚くべき会議を開催してくれたことに対する我々の感謝の意を伝えました。
   西側メディアがまるで危険な狂信者であるかのように描くアハマディネジャード大統領ですが、閉会の挨拶においても、また直接の対話においても、優れた精神の持ち主、そして真摯な、節度ある物腰の人物に見えました。
   そもそも大統領は、イスラエルが地理的に「地図上から消される」べきだとは一度も発言したことのないことは、ご存知でしょう。実際には故ホメイニ師の「イスラエルはいつの日か、時代、あるいは歴史の地図から消えるだろう」という言葉を引用しただけです。ロシアから共産主義が消えたように、シオニズムもいつかは中東から消える運命にあるという見解を、そのように表現したのです。

   大統領の願いは、パレスチナの地において、ユダヤのものも含めたあらゆる共同体が、再びそれぞれの居場所を見出すことです。
   だからこそ今回の会議には、ユダヤ人であるがシオニストではないことを示すバッジを付けた六人のラビによる代表団が参加したのです。すでにお話したように、私はそのうち二人のラビと個人的に親しくなりました。そのうちの一人が第三者の聞いている場で、次のように私に言いました。「“彼等”があなたに対して行なったことをどうぞお赦しください。それが赦すことのできるものであるならば、ですが…」それに対して私は、「お互いに団結を続けていきましょう」と答えました。つまり私達は、全権を手にし、それを濫用している者に対して共同戦線を張らなければいけないという意味です。

あなたは、1974年以来続けている歴史検証の闘いのために、大変な代価を払われてきましたね。
   ええ、高い代価ではありますが、それでも他の歴史検証主義者に比べればマシです。私の言っているのは、身体的に受けてきた攻撃や入院のことだけではありません。雪崩のような裁判の数々、そしてスキャンダルとしか言いようのないその信じ難い結末という辛酸を舐めてきました。歴史検証主義者を相手にした行政司法官は、ごく僅かな例外を除いては、かつての魔法使いや魔女裁判となんら変わりなく、信念も、法も、権利もすっかり捨て去ることを、身を持って体験してきました。
   またメディアは、私の名を、気の遠くなる量の罵詈雑言、誹謗中傷で塗り固めてきました。三十年以上にわたって彼等は、一度たりとも私に弁護の機会を自発的に提供してくれたことはありません。たった一度の例外は、1980年に放映されたラジオ番組で、私は自分の研究を説明するためになんとか60語、口にする時間を得ました。その結果私は告訴され、この60語のせいで有罪判決を受ける目に遭ったのです。
   1974年から今日にいたるまで、ジャーナリスト達は何千回と私の名を挙げ、<歴史改竄者>と罵ってきましたが、一人たりとも、少なくとも私の言い分を数分間聞くだけのためでも対談を申し込んで来た者はいません。なんという有様でしょう。また研究の自由を擁護する立場にあるはずの同業者達、フランスの大学者や知識人の沈黙ぶりも、それに劣らず惨憺たるものです。アメリカのノアム・チョムスキーがたった一度、私の言論の自由を擁護しましたが、その後は、歴史検証主義者のことを<気違い>(nuts) 呼ばわりするようになりました。

   フランスで私を擁護してくれた数少ない人々は、私の弁護士(と彼の友人達)の他には、ピエール・ギヨーム、セルジュ・チオン、それにジャン=ガブリエル・コーン=ベンディット(と彼の友人達、とりわけ勇気に満ちたジャコブ・アス)だけです。

   しかし他の歴史検証主義者の運命に比べたら、私は不平を言うことなどできません。誰よりもまず英雄エルンスト・ツュンデルと、その他数多くのドイツ人やオーストリア人達。彼等は何年も服役を強要され、今なお服役を続けている者もいまし、今後もその目に遭うことになるでしょう。スウェーデンでは、不屈のアーメッド・ラミが、同様に“臭い飯”を食わされました。

  私達はインターネットの登場によって救われました。私はもしかしたら幸運の星の下に生まれたのかもしれません。ただし私の妻子については、そんなことはとてもではありませんが言うことはできませんが。

このインタビューを公開してもよろしいでしょうか。
   はい。ただし原稿を事前に送ってください。場合によっては私自身の考えから、またはあなたの要求に応じて、訂正を施したり、必要な加筆を行なうかもしれません。

承知しました。お礼を申し上げます。
   ダンケ・ゼアー!(ありがとうございます)。あなたの住所を書く時、国名の部分に“Armes Deutschland ! ”(哀れなドイツ!)と付け足しますね。

Leider(残念ながら).

    Leider(残念ながら).


テヘラン、2006年12月13日