下に掲載する二つのグラフは、ドイツ・ダッハウ強制収容所における死亡率を表わしている。原物は一方はフランス、もう一方はアメリカのものである。

一つ目のグラフ(資料1)がどのように発見されたのか、その状況について明かす義務は、我々にはない。恐らくフランス国内での公式訴訟手続きを用意するためのものであることが推測される(例えば二箇所目のタイトル欄が空白であることに注目してほしい。ここに何かしらの記述、例えば数値のソースなどを書き込む予定であることが伺われる)。この訴訟は我々の知っているものであり、本誌にこのグラフが掲載された後、公けとなるかもしれない。

二つ目のグラフ(資料2)は、本文末尾の書誌に挙げたアメリカの資料をもとに、我々の要望に応じて作成されたものである。

 二つのグラフが全体としてよく一致していることが見て取れるだろう。

一つ目のグラフは1941年5月11日から1945年8月末のデータを扱っている。原物は二色刷りで、この収容所(及び付属収容所)で亡くなったフランス人の数が赤色で記されていた。ダッハウ収容所は1945年4月29日に解放されたため、五月、六月、七月、そして八月の数値は、アメリカ軍管理下での死亡者数を表わしている。

二つ目のグラフは1940年2月18日から1945年4月末までのデータを扱っている。 ダッハウ収容所本棟が築かれた1933年3月から1945年4月末までの間、本棟と付属収容所には20万2千206人の捕虜が入所した。

この十二年の間におよそ3万2千人の捕虜が亡くなった。すなわち生存率はおよそ85%、死亡率はおよそ15%である。この数値は今日、バード・アロルセン(西ドイツ)に置かれた国際調査サービス局(赤十字国際委員会)と、ダッハウ博物館権威の双方からほぼ認められているようである。しかし推定犠牲者数が戦争末期には時によっておよそ23万8千人とまで評価されていたことをここで指摘しておきたい。『ユダイカ百科全書』(1971年)に記載された「ダッハウ」の項目にいたっては、未だに40万人が“殺害”され、そのうちの80から90%がユダヤ人だったと主張しているのだ!

これら二つのグラフを見ると、ダッハウ収容所の状況が、その他すべての収容所のものと同様、戦争末期の数ヶ月間に劇的に悪化したことが一目瞭然だ。ドイツ軍、ドイツ市民、囚人や捕虜も含めたドイツ全土が当時、末期的状態にあった。爆撃による交通網の麻痺で、食料も医薬品も窮乏していた。

 アメリカのGIが1945年4月29日にこの収容所を発見したとき、彼らははじめは驚愕し、そして憤慨した。火葬炉の置かれた区域には死骸が山積みとなっていた。連合軍による爆撃の雨の下、捕虜を乗せてドイツ中をさまよった汽車の車両は、最後には死体しか乗せていなかった。それは凄まじい死臭だった。アメリカ兵は、古参の捕虜達の手を借りて、銃、機関銃、シャベル、つるはしを用い、その場にいた520名のドイツ兵を皆殺しにした。このドイツ兵らは数日前にダッハウの守衛と入れ替わるために到着したばかりだった。犬達も喉を掻き切られた。[原注1]

1945年4月29日の惨状を目にしたアメリカ人らはおそらく、ダッハウ強制収容所が創設以来、同様な状態にあり、ドイツの強制収容所とは、間違いなく絶滅計画のために設けられた場であると思い込んだことがうかがわれる。

私達が以下の二つのグラフを公表するのは、まず第一にこの印象を払拭させるためである。今日我々は、1942年夏に起こった突然の死亡率増加の原因が発疹チフスであったことを知っているし、ハインリッヒ・ヒムラーとオスワルド・ポールの指令の下に、強制収容所衛生局が取った厳重な対処措置のおかげで、一端上昇したこの死亡率は、<テロ行為>、あるいは別名<レジスタンス行為>の罪で収容される捕虜の数が増加し続けたのにもかかわらず、1943年にははっきりと低下した。しかし1944年から45年にかけての冬、状況は大惨劇に転じたのだった。

我々がこの二つのグラフを公表するのには、もう一つの理由がある。見ての通り、我々は1941年6月と1944年11月の部分を矢印でマークした。伝説によれば、ヒトラーは1941年6月にユダヤ人の絶滅を命じ、1944年11月にハインリッヒ・ヒムラーはこの絶滅令の停止を命じたと言うからだ[原注2]。グラフを一目見ただけで、データがこの伝説を否定していることがわかる。もちろん、ダッハウ強制収容所の責任者達がまずはアドルフ・ヒトラーの命令に、続いてハインリッヒ・ヒムラーの命令に背き、反対のことをしようとしたからだと我々に信じさせようとするのなら話は別だが。ちなみにこれらの命令が実在した痕跡は、未だに微塵も発見されていないことを、ここでもう一度確認しておこう。

アメリカの古文書館に、我々がここで使用した資料とともに保管されている添付資料があるのだが、それを見ると、アメリカ軍がダッハウ収容所の司令を受け継いだ1945年5月の最初の17日間で1588人の捕虜が死亡したことが証明されている。これは、収容所がドイツ軍管理下にあった1943年一年間を通じて死亡した数(365日間で1100人)を上回る。この事実一つだけを取っても、強制収容所で起こった大惨事の原因は、戦争に加担した両陣営のいずれかになすりつけられるものではなく、むしろとりわけ戦争というものに付き物の災害、つまり疫病や飢餓等であることがわかる。

アメリカ軍はダッハウで、健康な捕虜も発見したのだ。しかし国際プレスは、普通そうした捕虜の写真を見せることを控えている[写真3,4,5,]。

ユダヤ系ハンガリー人の母親とその乳飲み子達の写真(写真3)は、我々の知る限り、一度も公開されたことはない。この写真を見ると、当時のプロパガンダの主張とは裏腹に、ユダヤ人、とりわけ女子供の絶滅計画が存在していたことなど非常に疑わしくなる。

 アメリカの国立古文書(記録グループ二三八、Ⅶ US Army, Signal Corps)は、この写真に次のようなコメントを添えている:

「写真No 205488:ドイツ軍はハンガリーからの退却を始めた時、多くの人々をドイツの工場の労働力として連れ帰った。強制労働部門には多くのユダヤ人女性がおり、中には妊婦も含まれた。妊婦達は当初、堕胎を強要されたが、戦争末期の数ヶ月間は子供を生むことを許されるようになった。この写真に写されているのは、ユダヤ系ハンガリー女性の母子グループである。ダッハウ、1945年6月13日。」

写真4と5は、1945年4月13日ダッハウ強制収容所に進軍する解放者、アメリカ軍第Ⅶ隊を歓迎する捕虜達を写している。写真4は既に公開されたことがある。写真5は初公開。


1990年8月1日 
(1990年、『RHR誌』、二号、八-十月号、一四七-一五〇頁に掲載)



原注1:Howard A. Buechner, Dachau. The Hour of the Avenger... ; Jessie Aitkenによる書評、『ダッハウ、報復者の時間』、歴史検証家の歴史年鑑二号、一九八七夏、二七-二九頁

原注2:実際にはこの命令は実在したことが一度もないため、絶滅主義の歴史家達は、その他の日付けも数多く提供している。それらの日付けは… 二年間もの期間にわたる異なるものだ!1941年夏、または1941年6月のものがもっとも普及している。




資料1:
graph 1-2




















資料2:
graph 2-2




















写真3:
foto1













写真4:
dachau liberation1









写真5:
dachau liberation2













原文