被告弁護側証人とエキスパート

   ラウル・ヒルバーグやクリストファー・ブラウニングの証言が不正確で妄想的であればあるほど、被告側の証人やエキスパートの供述の大部分が、正確で具体的であることが目立った。

   スウェーデン人のディートリーブ・フェルデラーは、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の強制収容所で撮影した写真をおよそ350枚紹介した。
   資料に関して卓越した知識を持つアメリカのマーク・ウェーバーは、ホロコーストと、とりわけ<アインザッツ・グルッペン>の様々な様相に焦点を当てて供述した。
   ドイツのティユダール・ルドルフは、ポーランド領ウッチにあったゲットーについて供述し、また1941年秋に赤十字国際委員会調査団が行なったシレジア及びポーランド総督府内の強制収容所(アウシュヴィッツ、マイダネック等)視察旅行に関する個人的な体験を語った。当時、赤十字代表は旅の終わりに、ポーランド総督ハンス・フランクの協力的姿勢に感謝の意を表したそうだ。
   1944年にアウシュヴィッツ施設内の農業研究所を指揮していたティース・クリストファーセンは、研究所の人員を募集するために度々ビルケナウ収容所を訪れたが、世間で語られるような残虐行為を見たことは一度もなかったと証言した。彼は1973年に早くも十九頁からなる記録を自ら執筆していたが、その内容を一点一点、証人席で披露した [原注7]。
   カナダのマリア・ヴァン=ヘアワーデンは、1942年からビルケナウ収容所に収監されていたが、大量虐殺と呼べるようなものは近場でも遠地でもまったく目にしたことがない、しかし多くの捕虜がチフスが原因で命を落としたと証言した。
   アメリカのブラッドレー・スミスは、「ホロコーストに関する公けの討論のための評議会」なるもののメンバーだが、アメリカ国内での百件近いホロコーストをめぐる討論での経験について供述した。
   オーストリアのエミール・ラシューは、1987年12月以来オーストリア当局を動揺させている名高い『ミュラー・ファイル』について、注釈を行なった。『ミュラー・ファイル』は、1948年10月1日に作成されたものだが、当時すでに連合軍の調査委員会が、ドイツの多くの収容所で<ガスを使った殺人>が行なわれていたとは信じなくなっていたと暴露している(ダッハウ、ラーヴェンスブリュック、シュトルートホフ(ナッツヴァイラー)、シュトゥットフ(ダンツィク)、ザクセンハウゼン、マウトハウゼン(オーストリア)収容所等)。『ミュラー・ファイル』には、ガス殺に関する自白を [ニュルンベルク裁判等で] 行なったドイツ人達が皆拷問を受けており、彼等の告白は偽証であると、明記されている。
    ベルゲン・ベルセン強制収容所の解放に立会ったラッセル・バートン博士は、はじめはその惨状を目にして、これが指令による虐殺によるものだと信じ憤慨したが、間もなく、こうした死骸の山や生ける屍の群れの出た原因が、断末魔にあるドイツで過密化し、疫病が猛威を奮い、連合軍の爆撃のせいで断水し、食糧や医薬品がほとんど底をついた収容所の悲惨な状況にあったことを理解したと証言した。
   ドイツ人のウド・ヴァレンディは、自らの歴史を検証する研究結果を紹介した。
   ミュンヘン在住のユダヤ教徒ユダヤ人 J=G・ブルクは、戦争中に自ら体験したことについて語り、ナチスによるユダヤ人虐殺政策が存在しなかったことを証明した。
   MM・クアン・フーやゲイリー・ボッティングら大学教授は、史実だけでなく見解や解釈の分析方法についての専門的解説を行なった。
   ユルゲン・ノイマンは、自ら行なっているエルンスト・ツュンデルとの共同研究の性質について説明した。
   エルンスト・ニールセンは、ホロコーストについて自由に研究することに対してカナダの大学内で行なわれる妨害についての体験を語った。
   カナダ、カルガリーにある火葬炉の操業責任者であるイヴァン・ラガセは、アウシュヴィッツ収容所の火葬炉に関してラウル・ヒルバーグが挙げる火葬数が、現実的に不可能であることを立証した。

   私自身も、エキスパートの肩書きの下、六日間にわたって供述を行なった。私は特にアメリカに実在するガス室に関する自分自身の調査について詳述した。ツィクロンBとはシアン化水素ガスであり、アメリカの死刑施設の幾つかで死刑囚を処刑するために使われていることに注意を喚起した。つまり1945年、連合軍は、アウシュヴィッツ等、数百万人の捕虜をガス殺するための施設だったといわれるドイツの強制収容所を、アメリカのガス室専門家に調査させるべきだったのである。
   私は既に1977年から次のような考えでいる。ホロコースト伝説のような大規模な歴史上の問題を扱わなければならない時には、まずこの問題の核心がどこにあるのか探し当てるべきである。ホロコースト伝説について言えば、問題の核心はアウシュヴィッツにあり、次いでアウシュヴィッツの問題の核心は、275平方メートルのとある空間に限定することができる。すなわちアウシュヴィッツの火葬炉Ⅰの<ガス室>と呼ばれる65平方メートルの空間と、ビルケナウ収容所の火葬炉Ⅱの<ガス室>と呼ばれる210平方メートルの空間である。第二回トロント裁判が行なわれた1988年、私の考えは変わっていなかった。ホロコースト問題に対する答えは、この275平方メートルの鑑識を実行すれば出る、という考えだ。私は陪審に、アメリカ、バルティモアに実在する死刑用ガス室の写真と、私が発見したアウシュヴィッツの<ガス室>なるものの図面を披露しながら、この施設でガス殺を実行することが物理的、化学的に不可能であることを説明した。


クライマックス:ロイヒター報告

   私は1977~78年の間、ガス室を所有する六箇所のアメリカの刑務所と連絡を取っていた。その書簡をエルンスト・ツュンデルに譲渡したところ、彼は弁護士バーバラ・クラシュカに、これらの施設の責任者の中に、法廷に出廷し、本物のガス室の機能について説明することを引き受けてくれる人がいるかどうかを調べさせた。ミズーリ州ジェファーソン・シティの刑務所長ビル・アーモントラウトが出廷に同意し、ついでにアメリカで誰よりもガス室の機能に精通しているのは、ボストンのエンジニア、フレッド=A・ロイヒターであると教えてくれた。
   私は1988年2月3日と4日にロイヒターに面会することになった。フレッド・ロイヒター自身は、ドイツの強制収容所の<ガス室>について、一度も疑問を抱いたことはなかった。事実だと信じて疑っていなかったのだ。ところが私が自分の資料を広げ出すと、たちまち彼は、この<ガス殺>が物質的にも化学的にも不可能であることに気付きはじめた。さらなる資料に目を通すために、彼はトロントに来ることを承知してくれた。

   さらにロイヒターは、ツュンデルから旅費を得て、秘書(彼の妻)、図面家、カメラマン、そして通訳を携えてポーランドを訪問した。彼はアスシュヴィッツとビルケナウの火葬炉の<殺人用ガス室>と呼ばれる場所、またビルケナウの<殺菌用ガス室>から32のサンプルを採取して帰国し、付記も含めて192ページからなる報告書を執筆した。彼の結論ははっきりしていた。アウシュヴィッツでも、ビルケナウでも、またマイダネックでも、<人間のガス殺>は一度も行なわれなかった。

   フレッド・ロイヒターは、1988年4月20日と21日、トロント法廷で証言を行なった。自分の調査について報告し、結論を述べた。この二日間で私は、<ガス室神話>の死に際に自ら立ち会った、と言うことができる。1982年のソルボンヌ大学で行なわれた会議(1982年6月29日~7月2日『ナチスドイツとユダヤ民族の絶滅』会議)で、私にとってはすでに断末魔にあったと言える神話が、この二日間で絶命したのである。

   トロント裁判所の法廷内、特にサビーナ・シトロンの取り巻きの間での動揺は並々ならぬものだった。ツュンデルの友人達は別の意味で感極まっていた。壮大な陰謀のヴェールがようやく目前で破られたのだ。私自身は安堵とメランコリーを覚えた。安堵は、長年私の訴えてきた説が、とうとう完璧に立証されたことから来るもの。そしてメランコリーは、この説を提訴した元祖である私が、物理的、科学的、地図学的、そして建築学的分野の理論までをも、文学者の不器用さでもって扱ってきたのに対して、同じ説を、本当の科学者が、驚くべき正確さと専門性でもって繰り返すのを目にしたことによる。この疑問を最初に提起したのが私であったことは、いつの日か忘れ去られるのだろうか。歴史検証主義者達の間でさえ。

   フレッド・ロイヒターの直前には、[ミズーリ州刑務所所長]のビル・アーモントラウトも証人席に立ち、ガスを使った殺人がいかに技術的に困難か、私が陪審に行なった解説をあらゆる点において裏づけしてくれていた(この場合のガス殺人は、ガスを使った自殺やガスによる事故死と混同してはいけない)。
   また航空写真の専門家ケン・ウィルソンは、[戦争中に撮影されたアウシュヴィッツとビルケナウ収容所の航空写真に写っている] 収容所施設には、<殺人用ガス室>に必要不可欠な排ガス用の煙突が欠けていることを指摘した。さらに、セルジュ・クラースフェルド [ユダヤ系フランス人の歴史家、弁護士] とジャン=クロード・プレサック [ホロコーストを擁護する大著の作者] が、著作『アウシュヴィッツ・アルバム』に掲載したビルケナウ収容所地図を改竄しているという私の糾弾が正しいことも証明してくれた [原注8] 。二人は、火葬炉Ⅰ号基とⅢ号基の間で行列をつくるユダヤ人の女性や子供の写真を使用したのだが、あたかも行列の行く先が袋小路になっていて、彼等が火葬炉施設内にある<ガス室>に行き着かざるを得ないような印象を読者に与えるために、その先に写っていた通路をすっかり消去してしまったのだ。実際には彼等は先の通路を通って、火葬炉の向こう側に位置するシャワー室に移動している最中に過ぎなかった。
   続いてマサチューセッツ州の研究所所長ジェームズ・ロートが証人席に立ち、出所を知らされずに検査した32種類のサンプル分析結果について供述した。殺人用と言われる<ガス室>で採取されたあらゆるサンプルには、ほとんど検出不可能な、あるいはごく僅かな量のシアン化物しか含まれなかった。それに対して比較としてビルケナウ収容所の殺菌用ガス室から採取されたサンプルからは、目が眩むほど大量のシアン化物が検出された(前者から検出されたごく微量のシアン化物は、<ガス室>と言われているこの施設が実際には霊安室だったために、ツィクロンBで殺菌されたことがある可能性を示唆している)。

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フォリソン、ロイヒター、ツュンデル


デイヴィッド・アーヴィング

   イギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングは、非常な名声を誇っている。エルンスト・ツュンデルは、彼に証言をしてもらえたらと願っていた。しかしそれには障壁があった。ディヴィッド・アーヴィングは、中途半端な歴史検証主義者でしかなかったのだ。例えば著書『ヒトラーの戦争』Hitler’s War の中では、端的に言うと次のような説を論じていた:ヒトラーは確かにユダヤ民族絶滅命令を下したことはなかったし、少なくとも1943年末頃までは、そのような絶滅政策が行なわれていることを知らされていなかった。ヒムラーと70人程度のグループだけが知っている政策だった。しかし1944年10月、連合軍にいい顔をしたいと考えるようになったヒムラーは、ユダヤ人絶滅政策を停止するよう命令を下した…。

   1983年9月、私はロサンゼルスで開催された歴史評論研究所の年会でディヴィッド・アーヴィングに直接会ったことがある。その時に、彼の説を証明する証拠について幾つかの質問をして、彼を困惑させた経験がある。それから私は『歴史評論誌』上に「ディヴィッド・アーヴィングへの挑戦」と題した文を寄稿し [原注9]、論理的思考を徹底させるのならば、生半可な歴史検証主義的な立場に甘んじ続けることはもはや不可能であることを、この才能ある歴史家に納得させようと試みた。その端緒としてまず、実際には存在したことのないヒムラーの命令書を披露してくれと、私は挑戦した。
   私はその後、様々な方面から、ディヴィッド・アーヴィングが、歴史検証主義者にとって歓迎すべき方向に方向転換しつつあると耳にした。

   1988年、今や決定的な機会さえ到来すれば、このイギリス人歴史家は私達の仲間入りをする一線を越えるであろうとエルンスト・ツュンデルは確信するようになった。
   トロントに到着したアーヴィングは、ロイヒター報告及びツュンデルと仲間達、そして私自身が長年かけて収集したとてつもない量の資料を次々発見することになった。会合の場で、最後の躊躇や思い違いも解消し、アーヴィングは法廷で証言することに同意した。
   1985年と88年両方の裁判を傍聴した者の意見によると、フレッド・ロイヒターの証言を除いて、アーヴィングの供述ほど一大センセーションを巻き起こしたものは他になかったと言う。
   三日以上にわたって、ディヴィッド・アーヴィングは、ある種、公けの場での告白を行なったのである。彼は今まで自分がユダヤ人絶滅政策について語ってきたことを再度想起させた後、微塵の迷いもなく、歴史検証主義者の側に味方したのである。勇気と誠実さでもって、アーヴィングは、いかに一人の歴史家が、それまでの第二次世界大戦史観を根本から正すことができるか、身を持って示したのだった。


エルンスト・ツュンデルの勝利

   エルンスト・ツュンデルは、自分の裁判が「ニュルンベルク裁判の裁判」あるいは「歴史検証主義者のスターリングラード」になることを約束していた。1985年と1988年の二つの裁判の展開は、彼が正しかったことを証明した。たとえ陪審が、ホロコーストが<公知の事実>であり、<いかなる人間もこれに疑問を呈してはならない>と扱うことを裁判官からあらかじめ命じられていたために、彼に有罪判決を下すことになったとしても。
   エルンスト・ツュンデルは、すでに勝利していたのである。後は、この勝利をカナダ中、そして世界中に知らしめるだけである。1988年の裁判に関しては、マスコミは完全なブラックアウトに徹した。ユダヤ人団体の圧力に屈したためである。彼等は「不公正な論評など聞きたくない」と脅したのではない、「論評などまったく聞きたくない」と通知したのだった。
   矛盾しているのは、唯一この裁判について比較的正直な報道を行なったのが、週刊誌『カナディアン・ユダヤ・ニュース』だったことだ。
   エルンスト・ツュンデルとフレッド・ロイヒターは歴史となった。そしてそこから消される日は遠い。

                                      1988年3月31日


[原注7]『クリティック』23号、14~32頁
[原注8] ジャン=クロード・プレサック、『アウシュヴィッツ・アルバム』、42頁
[原注9] 当時『歴史評論誌』の責任者ウィリス・カルトはディヴィッド・アーヴィングに気を遣って、私の同意を求めることなく、この文の一部をカットした。全文は『歴史検証主義テクスト集』(1974~1998)第一巻、455頁に掲載されている。


原文