ドイツの幾つかの都市には終戦まで、ユダヤ人専用の病院やホームが存在した。例えばウィーンを例に挙げてみよう。ラウル・ヒルバーグ自身が英語訳を公開したドイツの資料によると、1944年10月17日の時点、つまり終戦の数ヶ月前、ウィーンのユダヤ評議会 (the Counsil of Elders of the Jews in Vienna) はユダヤ人専用の以下の施設を管理していた:ユダヤ人専用の病院、児童ホームと学校、ユダヤ人共同体用の厨房 、入浴施設、高齢者用ホーム 、衣服及び家具倉庫、社会支援事務所、図書館、墓地管理事務所、そして技術事務所と作業場 。これらの施設はウィーン市内の十一箇所に分布していた。

   1944年10月17日、連合国の爆撃によってこのうち子供用の病院が完全に破壊されたが、翌日の夜、即座に新しい臨時病院が、ゲシュタポとゲシュタポのウィーン支部、そしてウィーン市建設課との合意によって開設され、ユダヤ評議会は病院の再建を行なうための費用を、腕の良い建築家にまとめて支払うことができた。
   共同体用の厨房は、ユダヤ人労働者専用のものだったが(1944年内には4万3892食を提供)、1944年11月5日の空襲によって被害を受けた。これも速やかに修復された。

   もう一つ多くを語っている例は、ベルリン市にあったもので、特にイラン通り2番地の”ユダヤ人共同体用病院”(Krankenhaus der Jüdischen Gemeinde)である。これについてはダニエル・B・シルヴァーの 『地獄の避難所』 (Refuge in Hell / How Berlin’s Jewish Hospital Outlasted the Nazis, Boston, Houghton Mifflin, 2003, 352 p) の参照を推奨する。あるいは同著の仏訳でも良い(Refuge en Enfer / Comment l’Hôpital juif de Berlin a survécu au nazisme, Bruxelles, André Versaille éditeur, 2011, 304 p)。著書はユダヤ教徒である。

  「ヒトラーはユダヤ人の絶滅を決定したのに、何故こんなにたくさんのユダヤ人が、戦争の全期間を通して、ワルター・ルスティヒ博士の指導するこの病院でこれほどの手当を受けることができたのか?」。

  この疑問に答えるために、ユダヤ人証人達は躍起となって次のような二つの言い分を思いついた:

「説明は不可能である。」
「これは奇跡だ。」

   さらにこの"奇跡"は二つの大きな要素によって成り立っていたという:

「純粋なる幸運」
「ナチス組織内の官僚同士のいがみ合い」

  (これは本の表紙の四ページ目の紹介文に書いてあるままである)。
  この病院の患者、外科医、医師、看護婦達も含め、ベルリンに住むすべてのユダヤ人達が実際に常に恐れていたことがあるとしたら、それは英米空軍による恐怖の無差別空爆だった…。 (後略)