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 1945年から1948年にかけてアメリカ軍は、ドイツのライン川河畔、またベルギー、フランスにドイツ人の戦争捕虜を収監する収容所を設けたが、それはまったく生活用の施設のない、鉄条網に囲まれただけの敷地で、アイゼンハワーは故意にスイスやイタリアからの救援物資も阻止した。カナダの歴史家ジェームズ・ベイクによれば約5百万人が収容され、百万人近くが死亡したと推測される。(参照サイト

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以下は、ベイクによる報告を、フィリップ・ゴーチエがその著書『反独主義』の中で紹介したもの。



 ドイツが[第二次]大戦中、戦争捕虜に関してジュネーヴ条約を守ることに細心の注意を払っていたのに対して、西側連合国は(ロシアは論外として)ドイツ人の戦争捕虜をまるで強制収容所捕虜のように扱った。
 この件については、シャルル・フォン・ルッティヒャウによる、アメリカ軍のドイツ人戦争捕虜に対する1945年春の扱いについての証言を、ジェームズ・ベイクが報告したものが興味深い。まるで後のニュルンベルク法廷のアメリカ人裁判官がアウシュヴィッツについて語っているようである。

 「トイレは鉄条網の近くの溝の上に投げ捨てた板だけだった。眠るためには、手で穴を掘り、その奥で身を寄せ合う以外に選択肢はなかった。我々には実際、ほとんど生活空間はなかったのだ。疫病のせいで、人々は地面に直接排便した。間もなく我々の多くは衰弱のあまり、用を足す前にズボンを下ろすことさえできなくなった。衣服のみならず、その上を歩き、座り、そして眠る土も汚物で汚れた。初めは雨水以外、まったく水はなかった。二週間後、水道から水を得ることができるようになった。しかしほとんど誰も水を汲むための容器を持っていなかったため、何時間も、時には一晩行列をした後に、数口飲むことができるだけだった。我々は人々が身を守るために掘った穴とそのせいで柔らかくなった土の山の間を縫って歩かなければならなかった。穴に落ちるのは速かったが、そこから抜け出すのは容易ではなかった。この春、ライン河畔のこの地域では雨が絶えなかった。捕虜期間の半分は雨が降った。また捕虜期間の半分は、食べ物は何もなかった。半分の期間は、小さなKレーション[第二次大戦中にアメリカが開発した戦闘糧食] が与えられたが、包装用紙に印刷された表から、アメリカで製造されている実際の内容量の十分の一でしかないことがわかった。
 最終的には我々はアメリカ軍の通常の配給量の5パーセント程度を与えられるだけだった。私は収容所所長にジュネーヴ条約に反すると苦情を訴えた。「ジュネーヴ条約など忘れろ。お前らには何の権利もないのだ」というのが彼の答えだった。数日後には、到着日には健康体だった人々も死にはじめた。仲間が遺骸を収容所の入り口まで引きずり、トラックのトレーラーに次々投げ捨てるのを見た。そしてそれは運ばれていった。


 周知の通り、1914-18年にも、1939-45年にも、ドイツには、この世で唯一の永遠の<戦争犯罪者>である以外には、いかなる権利も認められなかったのだ。自由の敵には自由を認めるな…。人間でない者には人権は認めるな…。

 バード・クロイツナッハ収容所の病院に移送された十八歳の病気の青年ハインツ・Tは証言する:「アメリカ人は我々に対して本当に卑劣だった。」

 アメリカ軍の収容所には、六歳の子供、妊婦、六十歳を越す老人の姿もあった。
 物理的に破壊されたのみならず、男性の半数は徹底的に辱められ、女性の半分は陵辱されたこの世の地獄を見るドイツにあってしかし、この勇敢な民族、哲学、宗教、音楽に卓越した民族の魂が、ラインベルク収容所に収監されていた伍長がトイレットペーパーに書きつけた覚書に無疵で残されている。それは私達が好むと好まざると感嘆せざるを得ない、永遠のドイツの魂の表明でもある。

 ラインベルク収容所、1945年5月17日

私はふだん、地面に横たわっている。酷暑の日には地面に掘った穴にもぐる。身につけているのは外套と長靴、略帽を耳まで被っている。銀のスプーンとフォークを入れた肩掛け鞄が枕代わりだ。雷雨が来ると穴の壁が崩れて私は土砂に埋もれる。外套と靴下は絞っても絞りきれない。
 夜は気の休まらないまま収容所の敷地内を歩きまわる。月が昇り、近くの森からナイチンゲールの囀りが聞こえてくる。私はゲーテの詩を暗誦し、眠気覚ましに「ニーチェの人生と理論」について一人で議論をする。
 仲間のうちには獄中の身を嘆く者もある。私は彼らに鉄条網に惑わされないように忠告する。鉄条網の彼方にひろがる空に視線を向けるように。
 “胸の想いを目にすることができる者には、想いは自由だ…”とよく歌う。囚人についてのフレーズが特に好きだ。
 夜、歌の好きな仲間達はドイツ民謡を歌う。歌は人と人とをつなぐ。
 毎夜、私達はプロテスタントとカトリックの祈りの言葉を唱える。しかし教条主義的なその偏狭性が私には物足りない。
 “知的労働の技術”というテーマについて瞑想する。学生達に講義をしていると想像する。『知的労働者のアトリエ』というタイトルの小さな本を書くことができるかもしれない。
 家にいる時には参考にできる蔵書があった。収容所では頭の中の考えと記憶だけが頼りだ。しかし本頼りの知識には価値はない。
 新しい計画:自分自身の祈りの言葉を書くこと。私にとって大切に思えることは、他の人にも意味を持つかもしれない。
 この収容所に私が身を置くことになったことを神に感謝する。他のいかなる場所においても、私はこれほどまでに自分自身の考えと向き合い、これほどまで赤裸々な人間の姿を見ることは出来なかっただろう。また勝者がこれほどまでに残虐であり得るとは夢にも思わなかった。


   アメリカ軍によるドイツ人捕虜収容所のあまりの状況には、1945年ドイツに対して寛容とは程遠い態度であるはずだったフランス人さえもが衝撃を受けた。ジェイムズ・ベイクは次のように報告する。

 「ジュリアン大尉は、アメリカからフランスに引き継がれた収容所の敷地内の生きる屍の間を注意深く歩きながら幾度も思った。“まさにこれはブーヘンワルトやダッハウ収容所の写真で見たものと同じ光景だ!” アルジェリア射撃隊第三部隊で、祖国の解放のためにドイツ軍に対して闘った彼は、そのドイツに対してこのような形での報復が行なわれるとは、夢にも思っていなかった。目前の汚らしい地面は “生きる骸骨で埋まり”、捕虜達が断末魔の呻き声をあげていた。別の者は酷暑にもかかわらず、ダンボールの端切れの下に蹲っていた。耐え難い光景だった。骨が透けて見える体に空腹で腹が膨らみ、呆然と虚ろな目をした衰弱しきった女性や老人、子供の姿さえあった。」

   それにも拘わらず、フランス兵、それも酷いことにフランス人将校の中には、無防備なドイツ人捕虜を相手に真のサファリゲームを楽しむものもあった。

 「ある晩、酩酊したフランス軍の将校達が、ジープでアウアーナッハ収容所敷地内に突っ込み、笑い、叫びながら捕虜を機関銃で撃ちまくった。死者47名、負傷者55名という結末だった。」
 (…)

フィリップ・ゴーチエ『反独主義』、1997年、デュアルファ出版、124~127頁

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